暗い板張りの部屋で俺は一心に奥の暗闇を見つめていた。
見えないがそこには恐ろしいモノが居る。
「おあがりよ」
その声と同時に天井から籠が降ってきた。
それを見た途端腰が抜けてしまい、這いずる様にしてソレから少しでも離れようとした。
「おあがりよ」
頭の中に直接響くその声に怖気を覚えながら気が遠くなっていく……
「アイツは山ん中の動物を狩り尽くしちまう程凶暴な奴だって話だぜ
でもまさか熊の土饅頭まで作っちまうとはなぁ……
この前畑やら牛舎やら荒らされたの覚えてるだろ?
危ないからお前さっさと狩ってきてくれよ」
扉が無惨にも荒らされた社殿を片付けながら永田が呟いた。
「この前外国で大蛇狩ってんだから大して変わらんだろ」
「食うために狩るんだ、熊は飽きた」
無惨に破壊された扉や、元々腐っていたのかそこの抜けた床板、暫く快晴だったのにカビ臭い壁など不気味な雰囲気を漂わせている。
「熊が入ったらしいが、元々荒廃してたんじゃないか?
獣だってこんな餌のなさそうな所に態々近づかないだろう」
二人でぼやきながら無事な床を掃いたり、壁に板を付けて雨風避けを付けていく。
入り口は光が入って明るいが、社の奥は暗く足元がづらい。
木片やガラス片らしき物が散乱していて時々踏んでしまい痛い思いをした。
「はあ、獣害に便乗して掃除させたかっただけだろ……
これだけ壊されてりゃ業者入れなきゃどうしようもないだろうに……おい、もう帰ろうぜ」
外で壁穴を板で塞ぎ、作業が終わったので中にいる永田に声をかけた。
はいよー、という声と共に出てきた奴の手には小箱が抱えられている。
ほれっ、と言われて投げ渡され反射的に受け取ってしまった。
「荒れてる所に置いとくのもなんだろ、役所にでも届けておいてくれ」
「勝手に持ってく方がまずいだろ、ていうか触っていい物なのか?
なんか不気味だし……」
「盗まれたり無くしたりするよりは良い」
面倒だが一理ある、だが気軽に触っていいものだろうか。
前に来た時はこんなに不安な気持ちにはならなかったのだが、少しは信心という奴があったのだろう。
嫌な予感を感じながら社を後にした。
その日はとてつもない冷や汗で目を覚ました。
籠の中にはでっぷり太った蛙が沢山入っていて気味が悪かった。
まだ日が登る前の薄暗い中、田舎らしい稲が風で戦ぐ音と蛙の鳴き声が響いている。
その音と合唱するように腹の虫も鳴いた。
寝ぼけ眼で起き上がって縁側から庭に降りて履き物をひっかける。
小さな池の周りまで歩くと蛙が一斉に飛び跳ねて飛び込んでいく。
俺は水辺の石をひっくり返し、隠れたつもりになっている牛蛙を一匹捕まえて口に運び……
それを放り投げて尻餅をついた。
「俺は、一体何しようとした?」
幾ら寝ぼけててもこんな事はあり得ない。
悪夢が続いているような気持ちになりながら、直ぐに家に帰り鳴る腹を無視して布団を被って二度寝をした。
見えない程高い天井から籠が降り、中から遠吠えが響いている
「おい、大丈夫か? 目の下凄いことになってるぞ」
用水路で泥浚いしていると、永田が犬の散歩をしながら声を掛けてきた。
「いや、最近夢見が悪くてな
お前は……快眠できてそうだな……」
「いやいや、歳を取ると寝るのも技能なんだなこれが
って誰が年寄りだ、同い年だろ」
至って普段通りな永田を見て溜め息を吐いた。
あの悪夢を見てから下手物にまで食欲が湧いて仕方がない、悪食が悪化している。
「コロも元気そうだな、良い子だ」
顔に鼻を近づけてフンフン匂いを嗅いでくる子犬の頭を撫でた。
「食べちゃいたい位可愛いだろ!
最近は芸もよく覚えてて賢いんだ」
「ああ、本当だな……」
口の奥から溢れて来る涎を必死に飲み下しながら、普段通りを装う。
一体俺はどうしてしまったのだろうか。
「お前本当に大丈夫か?」
余程顔色が悪く見えたのか真面目な顔で聞かれて我に帰った。
そして隣から声が聞こえた。
「おあがりよ」
思わず叫んで犬を突き飛ばして尻餅を着いた。
派手に水飛沫をあげて転び、その声に驚いて永田も身を強張らせた。
「疲れてんのに肉体労働何かするからそんな事になるんだ
一回病院行った方が良いぞ」
今の声聞こえなかったか、とは問え無かった。
どう考えても幻聴だったし、気が狂ったと思われたくなかった。
起き上がるのに手を貸した永田は絶対病院行けよ、と家に送る道すがら繰り返し繰り返し子供に言い聞かせるように言うので少し嫌になってしまった。
天井から降りてきた籠の中から声が聞こえる。
必死に耳を塞ぎ、目を強く瞑って、歯を食いしばって恐怖に耐える。
耳を塞ぎたくなる様な見知った叫び声が響き、フーっと深呼吸する様な浅い息が聞こえた。
やがてその声も小さくなり、まるで宙に投げ出された様な心細さを感じるほど静かになる。
「おあがりよ」
急な空腹を覚えて籠の方を見ると、中から毛むくじゃらの野太い腕が手招きしている……
目を覚ました時、昨日の怠さが嘘の様に頭が冴えているのを感じた。
顔を洗い、シャツを替えて歯を磨いた。
虫の知らせという奴だろうか、何か起きると分かった。
蔵の鍵を開けて銃を取り肩に掛ける。
使わない時でもいつも整備はしていた。
それでも出る時、注油と銃身の清掃だけはやらなければならない。
やがて玄関を乱暴に叩く音が聞こえた。
「大変だ! 永田の家に熊が入ったらしい!」
話を聞くと熊は派手に窓をぶち破った後、何かを引き摺って行ったらしい。
こんな山奥には警察は直ぐに来れない。
急いで家に行き痕跡を辿りたい。
他に人がいても足手纏いになるだけなので、警察がきたら事情を説明する様に言って家に残ってもらう。
足跡を追っていく時にあったのは友人への心配より、奇妙な高揚感だった。
何となく何処に向かっているか確信があった。
それは社を背に道の真ん中で堂々としていて、俺をみるなりニンマリと笑った様に見えた。
まるでついて来いと言わんばかりに社に入っていく。
「おあがりよ」
荒れていた筈の社は新築のように新しい。
入っていくと奥に鏡があり、そこから声がしている。
熊は徐ろに鏡の前で咥えていた獲物を床に置いた。
鏡から声がする。
声を聞いた瞬間身体から力が抜け、頽れた。
怖ろしいのに途轍もなく興奮していて腰が砕けて立っていられない。
唾液が顎を滴って地面に落ち、息が荒くなって舌舐めずりが止まらない。
みっともなく膝を突くが、視線は供物から離れない。
力は入らないのに、欲が満たされる事を期待して下半身が熱くなる。
倫理に背く行為が、背徳感を増して背筋を伝う。
まるで赤子の様に四つん這いで、地面を這う様にソレに近づいていく。
腹から滴る血を少しだけ舐めてみる。
甘い。
色々な動物を食ったが人間がこんなに美味いとは…
夢見心地でふと横を見た時、光の無くなった永田と目が合い、急に心の臓から怒りが湧き上がった。
「あ」
生存本能が働いたのか咄嗟に地面を蹴り、自分の想定より遥かに長い距離を飛んだ。
壁に叩きつけられるが片手で銃を抱くように転がって受け身を取り、素早く膝立ちになり構える。
熊は仁王立ちで威嚇しているが、今は普通の獣に見える。
「鉛玉で良ければ食わせてやる」
発射された弾丸は奴の目玉から頭まで粉砕しながら突き進む。
熊は永田に折り重なるようにして斃れた。
安心して息を吐くが、また空腹が戻ってくる。
共食いの獣は生かしておけない。
もう一発だけ必要な弾を込め直す。
「クソ喰らえ!」
俺は鏡を背に銃を咥えて、躊躇わず引き金を引いた。