少女が、倒れた。
血に濡れた銀色の髪が地面に広がる。
その身体を抱き起こしたのは、一人の少女だった。
「カルヴィナ様……!」
涙を流すアリエス。
その後ろには、かつてカルヴィナの婚約者だった皇太子レオニードと、彼女を止めるために集まった者たちが立っている。
カルヴィナはゆっくりと目を開けた。
「……アリエス」
「はい……」
「泣かないで」
「無理です……!」
アリエスの声が震える。
「私は……カルヴィナ様を殺したくなんて……!」
カルヴィナは、ほんの少しだけ笑った。
「そう」
そして、かすかに手を伸ばす。
「……強くなったわね」
「え……?」
「初めて会った頃とは、大違いよ」
カルヴィナの手が、力なく落ちる。
「カルヴィナ様……?」
返事はなかった。
カルヴィナ・ブランシュ。
公爵令嬢にして、希少な黒魔法の使い手。
彼女は十五歳という若さで、その生涯を終えた。
何故、彼女は殺されたのか。
何故、彼女を慕っていた少女が、その手で彼女の命を奪うことになったのか。
その始まりは――十一年前。
カルヴィナが、まだ四歳だった頃まで遡る。
これは、一人の令嬢が破滅するまでの物語。
* * *
小さな村だった。
王都から遠く離れた、名前すら知られていない田舎の村。
畑と森に囲まれたその場所で、一人の少女が走っていた。
「お母さん!」
「こら、カルヴィナ。走ったら転ぶわよ」
振り返った女性が笑う。
カルヴィナの母、リゼット。
かつて公爵家で働いていた元使用人だった。
公爵家を離れた後、この村へ移り住み、カルヴィナを一人で育てていた。
裕福な暮らしではなかった。
家は小さく、食事も決して贅沢ではない。
服だって何度も繕って使っていた。
それでも。
二人は幸せだった。
「今日はね、村のおばさんからパンをもらったのよ」
「ほんと!?」
「ええ。でも夕食まで我慢よ」
「……半分だけ!」
「駄目です」
「じゃあ、三分の一!」
「カルヴィナ」
「……はい」
しょんぼりする娘を見て、リゼットは笑った。
「夕食になったら、一緒に食べましょう」
「うん!」
カルヴィナも笑う。
母親の手を握る。
その手は、少し荒れていた。
けれどカルヴィナにとっては、何より温かい手だった。
夜。
二人で小さな食卓を囲む。
パンを二人で分け、薄いスープを飲む。
「お母さん」
「なあに?」
「大きくなったら、私がお母さんを楽にしてあげるね」
「まあ」
「いっぱいお金を稼いで、大きなお家を買って」
「そんなこと考えていたの?」
「うん!」
カルヴィナは胸を張る。
「私、強くなるから!」
リゼットは少しだけ驚いた顔をした。
「強く?」
「うん!」
カルヴィナは拳を握る。
「強くなったら、何でもできるんでしょう?」
「……そうね」
「だったら私が強くなって、お母さんを守る!」
リゼットは黙って娘を抱きしめた。
「……ありがとう」
その夜。
カルヴィナは母親の腕の中で眠った。
これがずっと続くと思っていた。
明日も母と一緒に朝を迎え。
一緒に食事をして。
一緒に笑う。
そんな毎日が、ずっと続くのだと思っていた。
――四歳のカルヴィナは、まだ何も知らなかった。
強い者が、弱い者の全てを奪えることも。
力の前では、正しさなど簡単に踏みにじられることも。
そして。
自分がその現実を、身をもって知ることになることも。
* * *
数日後。
「……黒魔法?」
村を訪れた魔法使いの男が、驚愕した顔でカルヴィナを見つめていた。
「間違いありません。お嬢さんには、黒魔法の適性があります」
リゼットの顔から血の気が引いた。
「……そうですか」
「これほどの適性は非常に珍しい。王都へ報告すれば――」
「必要ありません」
リゼットが即座に遮った。
「この子は、ここで暮らします」
「ですが、黒魔法ですよ?」
「関係ありません」
リゼットはカルヴィナを抱き寄せた。
「この子は私の娘です」
男は困ったような顔をした。
「しかし……この才能を持つ者を、この村で一生過ごさせるのは――」
「この子は幸せです」
「……」
「それで十分です」
リゼットはカルヴィナの頭を撫でた。
「そうよね、カルヴィナ?」
「うん!」
カルヴィナは笑った。
「お母さんと一緒なら、どこでもいい!」
その言葉を聞いた瞬間。
リゼットは、娘を強く抱きしめた。
だが。
数日後。
家の扉を叩く音がした。
リゼットの顔が強張った。
「……誰?」
返事を待たず、扉が開かれる。
そこに立っていたのは、数人の騎士と一人の男だった。
豪奢な服。
冷たい目。
その男を見た瞬間、リゼットはカルヴィナを抱き寄せた。
「……旦那様」
ブランシュ公爵。
カルヴィナの父親だった。
「久しいな、リゼット」
「なぜ……ここに」
「黒魔法の適性が確認されたと聞いた」
公爵はカルヴィナを見る。
「その子を渡せ」
「お断りします」
リゼットは即答した。
「この子は私が育てます」
「公爵家の血を引く子供だ。相応しい教育を受けさせる」
「必要ありません」
「黒魔法は極めて希少だ。このまま田舎で埋もれさせるつもりか?」
「この子が幸せなら、それでいいんです」
公爵の眉が僅かに動く。
「……お前は昔から変わらんな」
「何とでも仰ってください」
リゼットはカルヴィナを背中に隠した。
「この子だけは渡しません」
カルヴィナは母親の服を握った。
「お母さん……?」
「大丈夫よ」
リゼットは振り返り、笑った。
「お母さんがいるから」
その笑顔が。
カルヴィナが母から受け取った、最後の笑顔になった。
「……そうか」
公爵が目を伏せる。
「ならば、仕方がない」
「え?」
次の瞬間。
騎士の一人が剣を抜いた。
「お母さん!」
カルヴィナが叫ぶ。
リゼットは娘を庇うように両手を広げた。
「やめて!」
刃が閃く。
リゼットの身体が、ゆっくりと崩れた。
「……お母さん?」
カルヴィナは呆然と立ち尽くした。
目の前で。
母親が倒れている。
床に広がる赤い色。
いつも握ってくれた手が、もう動かない。
「お母さん……?」
返事はない。
「起きてよ……」
カルヴィナは母親の身体に縋りつく。
「ねえ……」
それでも。
返事はなかった。
「お母さん……!」
初めて味わう喪失だった。
何故、母が殺されたのか。
何故、自分が連れて行かれるのか。
四歳のカルヴィナには分からない。
ただ一つだけ。
幼い彼女にも分かったことがある。
母を守ろうとしていた自分には、何もできなかった。
どれだけ泣いても。
どれだけ叫んでも。
相手の方が強ければ。
何もできない。
「……私が」
カルヴィナは震える手を握りしめた。
「私が、もっと強かったら……」
母は死ななかった。
そう思った。
公爵家へ向かう馬車の中。
カルヴィナは一言も喋らなかった。
ただ、膝の上で小さな拳を握りしめている。
涙はもう出なかった。
代わりに。
胸の奥に、ひどく冷たいものが生まれていた。
「……強くなる」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「私が……強くなる」
もう二度と。
大切な人を奪われないために。
もう二度と。
自分の無力さを味わわないために。
そして――
弱い者が強い者に踏みにじられることを、決して許さないために。
四歳の少女は、そう誓った。
それが正しいのか。
間違っているのか。
そのときのカルヴィナには、まだ分からなかった。
ただ。
この日から彼女は、強さを求め続けることになる。
いつしかその強さへの執着は、彼女自身を縛る鎖へと変わっていく。
けれど。
それを知るのは、まだずっと先の話だった。