王立学園に入学してから、数週間が過ぎた。
カルヴィナは、すっかり学園での生活にも慣れていた。
朝から授業を受け、昼には図書室で必要な資料を探し、放課後には魔法や剣術の訓練をする。
その生活は、幼い頃から続けてきたものと大きく変わらなかった。
ただ、一つだけ違うことがある。
学園には、自分と同じように努力している者が数多くいた。
「カルヴィナ様、おはようございます」
「おはようございます」
廊下を歩けば、すれ違う生徒たちが頭を下げる。
「カルヴィナ様、本日の課題について少しお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「構いません」
「ありがとうございます」
カルヴィナは丁寧に答える。
公爵令嬢。
そして皇太子の婚約者。
王族を除けば、彼女に対してこれほど近い距離で話せる者は多くない。
それでもカルヴィナ自身は、身分を理由に他人を遠ざけようとは思っていなかった。
――努力している者なら。
身分が高いか低いかなど、彼女にとって大きな問題ではない。
その日の昼休み。
カルヴィナは図書室へ向かっていた。
すると、廊下の先から何人かの生徒の声が聞こえてきた。
「だから、あなたには無理でしょう?」
「……でも」
「白魔法を使えるからって、何でもできるわけじゃないでしょう」
「私は……もっと練習すれば」
「練習?」
笑い声が聞こえた。
カルヴィナは足を止めた。
聞き覚えのある声だった。
「……アリエスさん?」
廊下の角を曲がる。
そこには、アリエスと三人ほどの女子生徒がいた。
「白魔法なんて珍しいから、少し期待していたのだけれど」
「平民が王立学園に入るだけでも大変だったでしょう?」
「無理をしなくてもいいのではなくて?」
アリエスは俯いていた。
「……私は、まだ勉強が足りないだけです」
「そうやって努力すれば何とかなると思っているところが、平民らしいわね」
その言葉に、アリエスの肩が小さく震えた。
カルヴィナは黙ってその場を見ていた。
――平民だから。
その言葉だけで、アリエスを評価している。
カルヴィナには、それが理解できなかった。
「失礼ですが」
静かな声が廊下に響いた。
女子生徒たちが振り返る。
「……カルヴィナ様」
三人の顔から笑みが消えた。
「何をしているのですか?」
「い、いえ……その……」
「アリエスさんと話をしていただけです」
「そうですか」
カルヴィナはアリエスを見る。
「アリエスさん。あなたは何か失敗したのですか?」
「え?」
「先ほど、無理だと言われていましたから」
「あ……」
アリエスは少し迷ってから答えた。
「白魔法の実習で、治癒の魔法を三回続けて失敗してしまって……」
「それだけですか?」
「はい……」
カルヴィナは女子生徒たちを見る。
「それなら、なぜ笑うのですか?」
「……」
「失敗したのなら、原因を探して練習すればいいでしょう」
「ですが、カルヴィナ様。白魔法は特殊な魔法ですし――」
「だから何です?」
カルヴィナの声は冷静だった。
「特殊なら、できるまで練習してはいけないのですか?」
「そういう意味では……」
「では、問題ありませんね」
女子生徒たちは何も言えなくなった。
カルヴィナはアリエスへ向き直る。
「アリエスさん」
「はい」
「あなたは、治癒魔法を使えるようになりたいのですか?」
「はい」
「なぜです?」
「……人を助けたいからです」
以前と同じ答えだった。
カルヴィナは頷く。
「なら、練習してください」
「……はい」
「三回失敗した程度で、できないと決める必要はありません」
「はい!」
アリエスの顔が少しだけ明るくなる。
カルヴィナはその様子を見てから、女子生徒たちに視線を戻した。
「それから」
「は、はい」
「彼女が平民であることと、魔法が上達するかどうかに何の関係があるのですか?」
三人は答えられなかった。
「……ありません」
一人が小さく答える。
「そうでしょう」
カルヴィナはそれだけ言うと、その場を離れようとした。
「あの……カルヴィナ様」
アリエスが呼び止める。
「何でしょう?」
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことではありません」
「でも……」
「私は、あなたが努力しているから話をしただけです」
カルヴィナはそう言った。
「身分は関係ありません」
アリエスは目を丸くした。
そして、ゆっくりと笑った。
「……はい」
その日の放課後。
訓練場の片隅で、アリエスは一人で白魔法の練習をしていた。
手のひらに白い光を集める。
光が揺れる。
消える。
「……もう一回」
再び魔力を集める。
今度は少しだけ長く続いた。
「……!」
アリエスは嬉しそうに手を見る。
「できた……」
「よかったですね」
「えっ?」
振り返ると、カルヴィナが立っていた。
「カルヴィナ様!」
「先ほどより安定しています」
「はい!」
アリエスは嬉しそうに頷く。
「教えていただいた通り、魔力を少しずつ調整してみました」
「それなら、あなた自身の力です」
「でも、カルヴィナ様が教えてくださったから……」
「教えたことを実際にやったのは、あなたでしょう」
「……はい」
アリエスは嬉しそうに笑った。
カルヴィナは、その笑顔を見ながら思う。
この少女は、まだ弱い。
魔法の扱いも未熟だ。
けれど――。
できないからといって、諦めてはいない。
失敗しても、もう一度立ち上がる。
それなら、カルヴィナが認める理由としては十分だった。
「カルヴィナ」
その時、後ろから声がした。
レオニードだった。
「レオニード殿下」
「二人で練習していたんだね」
「はい」
アリエスが慌てて頭を下げる。
「殿下、失礼いたします」
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
レオニードは穏やかに笑った。
「白魔法、少し上達したみたいだね」
「はい!」
「よかったね」
「ありがとうございます」
アリエスは嬉しそうに答える。
その様子を見ながら、レオニードはカルヴィナに尋ねた。
「さっき、何かあった?」
「少しだけ」
「何が?」
「アリエスさんが、平民だからという理由で馬鹿にされていました」
レオニードの表情が曇った。
「……そうか」
「私は、それが理解できません」
「うん」
「彼女は努力しています」
「そうだね」
「なら、平民であることを理由に見下す必要などないでしょう」
カルヴィナは淡々と言った。
レオニードは微笑む。
「カルヴィナは、本当に努力している人をよく見ているね」
「そうでしょうか」
「うん」
カルヴィナはアリエスを見る。
アリエスは再び白魔法の練習を始めていた。
何度も失敗しながら。
それでも、諦めずに。
「……私は」
カルヴィナは小さく呟いた。
「強くなろうとしている人を、嫌いにはなれません」
「うん」
「それが平民でも、貴族でも」
「そうだね」
「逆に――」
カルヴィナは言葉を止めた。
その先にある言葉を、自分でも少し考えた。
「……何でも誰かに任せて、自分では何もしようとしない人を見ると、少し苛立ちます」
レオニードはすぐには答えなかった。
「カルヴィナ」
「はい」
「その気持ちは、悪いものだとは思わないよ」
「……」
「努力することは素晴らしいことだからね」
カルヴィナは頷く。
しかし、レオニードは続けた。
「ただ、それを他の人にも同じように求めるなら、少し難しいかもしれない」
「……なぜですか?」
「人には、それぞれできることが違うからだよ」
「ですが」
カルヴィナは言う。
「できないなら、できるようになるまで努力すればいいのでは?」
レオニードは困ったように笑った。
「カルヴィナらしいね」
その言葉に、カルヴィナは少しだけ眉を寄せた。
納得したわけではない。
けれど、レオニードが自分を否定しているわけでもないことは分かっていた。
「……考えておきます」
「うん」
二人の少し離れたところで、アリエスがまた魔法を失敗した。
「あっ……」
白い光が消える。
アリエスは悔しそうに手を握った。
しかし――。
「もう一度」
すぐに顔を上げた。
カルヴィナは、その姿を見つめる。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「……そうです」
その声は、アリエスには届かなかった。
「もう一度です」
カルヴィナ自身もまた、何度でもそうしてきた。
失敗しても。
届かなくても。
昨日より強くなるために。
だからこそ、努力する者を認めることは、カルヴィナにとって自然なことだった。
けれど同時に――。
努力しない者への苛立ちは、少しずつ強くなっていた。
まだ、それはただの苛立ちだった。
まだ、誰かを見下すほどではない。
けれど、その小さな感情は、確かにカルヴィナの中に積み重なっていた。