公爵家の屋敷は、カルヴィナが暮らしていた村の家とは何もかもが違っていた。
広すぎる廊下。
高い天井。
磨き上げられた床。
壁には見たこともないほど豪華な絵画が飾られ、廊下を歩く使用人たちは、誰一人として無駄な言葉を口にしない。
四歳のカルヴィナは、その中央を一人で歩いていた。
隣に母はいない。
手を握ってくれる人もいない。
ただ前を歩く使用人の背中を、黙って追いかけていた。
「こちらが、お嬢様のお部屋になります」
扉が開かれる。
広い部屋だった。
大きなベッド。
立派な机。
柔らかな絨毯。
村の小さな家よりも、ずっと豪華な部屋。
けれど。
カルヴィナには、何も嬉しくなかった。
「……お母さんは?」
小さな声で尋ねる。
使用人は答えなかった。
少しの沈黙の後、視線を逸らす。
「……お母様は、もういらっしゃいません」
「……」
分かっている。
分かっているはずなのに。
胸が痛かった。
カルヴィナは窓の外を見る。
ここからでは、あの村は見えない。
母の姿も。
小さな家も。
畑も。
何も。
「……強くなる」
カルヴィナは小さく呟いた。
あの日、馬車の中で誓った言葉。
「私が……強くなる」
その言葉だけを胸に、カルヴィナは公爵家での生活を始めた。
* * *
翌日から、教育が始まった。
公爵家の令嬢として必要な勉強。
文字の読み書き。
歴史。
数学。
魔法理論。
礼儀作法。
そして剣術。
カルヴィナには、覚えることが山ほどあった。
「ここは、こういう意味です」
「はい」
「では、もう一度」
「はい」
何度間違えても。
何度失敗しても。
カルヴィナは机から離れなかった。
夜になっても本を開いていた。
「今日はもう休みなさい」
教師がそう言っても。
「まだできます」
「ですが……」
「まだ、強くなっていませんから」
幼い少女は答えた。
教師は何も言えなかった。
* * *
公爵家には、ノエルというカルヴィナより1歳年上の少年がいた。
公爵と本妻の間に生まれた嫡男。
カルヴィナの異母兄だった。
「お前が、カルヴィナか」
「……はい」
初めて会った兄は、カルヴィナをじっと見つめた。
そして。
「ふうん」
興味がなさそうに呟く。
「母親が使用人だったって聞いたぞ」
「……」
「僕と同じ公爵家の子供だと思われたら困るな」
その言葉に、カルヴィナは黙っていた。
そこへノエルの母である公爵夫人が現れた。
「その子に構う必要はありませんよ」
「母上」
「血が繋がっているとはいえ、あの子は本妻の子ではありません」
公爵夫人は冷たい目でカルヴィナを見る。
「身の程をわきまえてもらえば、それで十分です」
カルヴィナは俯いた。
悔しかった。
けれど。
言い返さなかった。
代わりに。
小さな拳を握った。
――強くなればいい。
そう思った。
強くなれば。
誰にも見下されない。
誰にも奪われない。
母を守れなかった自分とは違う自分になれる。
だから。
カルヴィナは努力した。
* * *
この世界には、六つの魔法属性が存在する。
火。
水。
風。
土。
白。
黒。
火、水、風、土は、自然を操る四つの基本属性。
そして――
白と黒は、それらとは性質が大きく異なる。
白魔法。
創造と再生の力。
傷を癒やし、失われたものを生み出し、命を支える力。
聖なる力とも呼ばれ、極めて希少な属性だった。
そして。
黒魔法。
破壊と侵食の力。
物質を壊し、魔力を蝕み、対象そのものを侵食する。
扱う者が少ないだけではない。
その力を恐れる者も多かった。
カルヴィナは、その黒魔法の適性を持っていた。
「……黒魔法を使うのか」
ノエルが訓練場からカルヴィナを眺めていた。
教師がカルヴィナに杖を持たせる。
「魔力を集中させてください」
「はい」
カルヴィナは目を閉じる。
体の奥にある何かを探す。
胸の奥。
腹の奥。
自分でも分からない場所から、力が湧き上がってくる。
「……っ」
黒い魔力が、少女の手のひらに集まった。
ゆっくりと渦を巻き。
やがて、小さな黒い球体となる。
「見事です」
教師が驚いた。
「四歳とは思えません」
「……これが、黒魔法」
カルヴィナは手のひらを見る。
恐ろしくはなかった。
むしろ。
この力があれば。
強くなれる。
そう思った。
* * *
それからの日々は、努力の連続だった。
朝は早く起きる。
勉強をする。
魔法を学ぶ。
剣を振る。
礼儀作法を繰り返す。
疲れても続ける。
失敗しても、もう一度やる。
「もう一度お願いします」
「今日はここまでにしましょう」
「まだできます」
「手が震えていますよ」
「それでも、やります」
カルヴィナは剣を握った。
何度も振った。
一回。
十回。
百回。
腕が痛くなる。
手に豆ができる。
それでも。
「……もう一回」
剣を振る。
魔法も同じだった。
最初は制御できず、黒い魔力を暴発させることもあった。
失敗すれば、原因を考える。
教師に質問する。
本を読む。
そしてまた試す。
礼儀作法も。
何度も指摘された。
姿勢。
歩き方。
お辞儀。
食事の作法。
言葉遣い。
何度も繰り返して、身体に覚え込ませていった。
カルヴィナは、天才だった。
だが。
それ以上に。
努力を惜しまない少女だった。
* * *
数年が過ぎた。
カルヴィナは七歳になっていた。
その頃には、屋敷の者たちも気づき始めていた。
「カルヴィナ様の成績が、また一番です」
「……兄君を抜いたのか?」
「はい」
勉強だけではない。
魔法の成績も。
剣術の成績も。
礼儀作法も。
全て。
カルヴィナはノエルを上回っていた。
ノエルは悔しそうにカルヴィナを見る。
「……どうしてだ」
「え?」
「どうして、お前なんかが……!」
カルヴィナは答えなかった。
ノエルは公爵家の嫡男。
幼い頃から何不自由なく育てられてきた。
それなのに。
自分より身分の低い母を持つ妹に、何もかも負けている。
「僕の方が、公爵家の跡継ぎなんだぞ!」
「……はい」
「なのに、どうして!」
カルヴィナは少し考えた。
「……努力したから、だと思います」
「!」
「私も、最初からできたわけではありません」
カルヴィナは静かに言った。
「できないことがあったら、できるまで練習しました」
ノエルは唇を噛んだ。
カルヴィナはそんなノエルを見ながら、ふと思った。
――強い者が勝つ。
それは、あの日から変わらない。
でも。
強さは、生まれつき決まっているものではない。
努力すれば強くなれる。
弱いままなら、強くなればいい。
そう思っていた。
この頃のカルヴィナは、まだ知らなかった。
その考えが、やがて別の意味を持つようになることを。
努力しても強くなれない者がいることを。
強くなることを諦める者がいることを。
そして。
いつの日か自分が――
「弱い」というだけで、人を切り捨てるようになってしまうことを。
* * *
夜。
カルヴィナは一人で机に向かっていた。
本を閉じる。
そして窓の外を見る。
夜空に浮かぶ月。
村にいた頃、母と一緒に見た月と同じだった。
「……お母さん」
小さく呟く。
返事はない。
それでも。
「私、強くなってるよ」
カルヴィナは微笑んだ。
「もっと強くなるから」
あの日の約束を胸に。
少女は再び、本を開いた。
母を守れなかった少女は。
強さだけを信じる少女へと、少しずつ変わり始めていた。