カルヴィナが公爵家へ連れてこられてから、四年が過ぎた。
八歳になったカルヴィナは、もはや屋敷の中で「使用人の娘」と陰で呼ばれることも少なくなっていた。
その理由は単純だった。
誰もが、彼女の才能を認めざるを得なくなったからだ。
読み書き、歴史、算術。
貴族として必要な教養を身につける速度は、同年代の子供とは比べものにならなかった。
剣を握れば、年上の子供を相手にしても引けを取らない。
そして何より――。
「では、始めましょうか」
魔法の教師が、少し離れた場所に立つ。
カルヴィナは小さく頷いた。
「はい」
右手を前へ伸ばす。
空気がわずかに震えた。
黒い魔力が、彼女の手のひらに集まっていく。
黒魔法。
破壊と侵食を司る、極めて珍しい属性。
一般的な魔法使いならば、その扱いには細心の注意を払わなければならない。
だが――。
「……《侵食》」
黒い光が地面へ触れた。
石の表面が音もなく崩れ、少しずつ形を失っていく。
カルヴィナは魔力の流れを慎重に調整する。
広げすぎない。
深くしすぎない。
必要な範囲だけを壊す。
「止めてください」
「はい」
カルヴィナが魔力を収める。
黒い光が消えていった。
教師はしばらく黙っていた。
「……見事です」
「ありがとうございます」
「黒魔法をここまで正確に制御できるとは。八歳とは思えませんね」
「まだ足りません」
カルヴィナは即座に答えた。
「もっと強くならなければいけませんから」
教師はわずかに眉を動かした。
「……なぜ、そこまで強さを求めるのです?」
「……」
カルヴィナは答えなかった。
答えたくないわけではない。
言葉にするのが、怖かった。
脳裏に浮かぶのは、四年前の光景。
自分の前に立っていた母。
震えながら、それでも自分を守ろうとしていた背中。
そして――。
その母を斬った騎士。
その騎士に命じた男。
父。
公爵。
自分をこの屋敷へ連れてきた人。
母を殺した人。
カルヴィナは、父の前では決してその感情を見せなかった。
呼ばれればすぐに返事をする。
礼儀を求められれば、完璧にこなす。
命じられたことには逆らわない。
「はい、お父様」
そう言うたびに、胸の奥が冷たくなる。
――憎い。
あの人が憎い。
母を殺したことが。
母から自分を奪ったことが。
何事もなかったように、この屋敷で生きていることが。
全部、憎かった。
けれど。
今の自分には何もできない。
八歳の子供に、公爵である父へ逆らう力などない。
だからカルヴィナは、従順な娘であり続けた。
感情を隠し、命令に従い、与えられた教育をすべて受け入れる。
そして、その裏で――。
ひたすら強くなろうとしていた。
「……守りたいものがあるからです」
カルヴィナはようやく答えた。
教師はそれ以上聞かなかった。
「そうですか。では、今日はここまでにしましょう」
「ありがとうございました」
カルヴィナは頭を下げた。
その日の午後。
剣術の稽古場では、ノエルと向かい合っていた。
「今日は僕が勝つからな」
ノエルは木剣を構えている。
カルヴィナより一歳年上。
土属性の魔法にも恵まれ、公爵家の嫡男として幼い頃から厳しい教育を受けてきた。
以前とは違う。
ノエルも努力するようになっていた。
「……はい」
カルヴィナも木剣を構える。
「始め!」
踏み込む。
木剣がぶつかる。
ノエルは以前より速くなっていた。
力もついている。
剣筋にも迷いが少なくなっていた。
それでも――。
「そこです!」
カルヴィナが一歩踏み込み、ノエルの木剣を弾く。
ノエルの手から木剣が落ちた。
「……また負けた」
悔しそうに呟く。
カルヴィナは木剣を下ろした。
「前より強くなっています」
「慰めるなよ」
「慰めていません」
「じゃあ、なんで勝てないんだよ」
「……私のほうが、もっと練習したからだと思います」
ノエルは黙った。
そして、落ちた木剣を拾う。
「もう一回」
「はい」
その姿を見て、カルヴィナは少しだけ目を細めた。
ノエルは変わった。
以前のように、自分が公爵家の嫡男だから勝てると思っているわけではない。
負ければ悔しがり、また立ち上がる。
そんなノエルを、カルヴィナは嫌いではなかった。
むしろ――。
努力することのできる人間として、少しずつ認め始めていた。
夕方。
カルヴィナは屋敷の庭を歩いていた。
そのときだった。
「助けて!」
遠くから悲鳴が聞こえた。
カルヴィナはすぐに走り出した。
庭の外れ。
木々の間から、小さな男の子が転がり出てくる。
その後ろには、魔物がいた。
「危ない!」
カルヴィナは立ち止まり、右手を伸ばした。
黒い魔力が集まる。
「《侵食》!」
黒い光が魔物の脚を包み込んだ。
魔物が苦しそうに身をよじる。
カルヴィナは魔力をさらに集中させる。
しかし、破壊しすぎない。
必要なところだけを削る。
やがて魔物は力を失い、その場へ倒れた。
カルヴィナはすぐに少年へ駆け寄った。
「怪我は?」
「……だ、大丈夫」
「本当に?」
少年は頷いた。
その服装から、屋敷で働く使用人の家族だと分かった。
「ありがとう……ございます」
「気にしなくていいです」
カルヴィナは立ち上がる。
「危ないと思ったから助けただけです」
少年は少し驚いたような顔をした。
「でも……僕、使用人の息子なのに」
「だから何ですか?」
カルヴィナは不思議そうに首を傾げた。
「危ないなら、助けるでしょう」
それがカルヴィナにとっては当たり前だった。
強い者は、弱い者を守る。
自分が強くなれば、大切な人を守れる。
母を守れなかった自分だからこそ――。
今度は誰も失いたくなかった。
その日の夜。
カルヴィナは自分の部屋で、一人窓の外を見ていた。
月が出ている。
静かな夜だった。
昼間の出来事を思い返す。
魔法。
剣。
勉強。
礼儀作法。
どれも少しずつ上達している。
けれど。
まだ足りない。
カルヴィナは胸元を握った。
「……もっと強くならないと」
そして、父の顔を思い出す。
胸の奥に、冷たい感情が生まれる。
――お父様。
――私は、あなたを許さない。
母を殺したことを。
母を奪ったことを。
絶対に忘れない。
けれど、今は何もできない。
だから――。
カルヴィナは目を閉じた。
「……強くなる」
いつか。
誰にも奪われない力を手に入れる。
誰かの命令に従うしかない自分ではなくなる。
誰かに守ってもらわなければならない自分でもなくなる。
自分の大切なものを、自分の力で守れる人間になる。
そして――。
母を奪った父を前にしても、決して怯えないほどに。
「私、強くなってるよ……お母さん」
窓から差し込む月明かりが、幼い少女の横顔を照らしていた。
その瞳には、まだ復讐を誓う炎はない。
ただ、二度と大切なものを失いたくないという願いがあった。
そして、その願いの奥底には。
父への憎しみが、静かに沈んでいた。
カルヴィナはまだ知らない。
自分が求め続ける「強さ」が、いつの日か彼女自身の心を変えていくことを。
守るために求めた力が。
やがて、人を選別するための物差しになっていくことを。