カルヴィナが十歳になった。
公爵家に引き取られてから、六年。
屋敷の者たちは、もはや彼女をただの妾腹の娘として見ることができなくなっていた。
朝は教養の授業。
昼は魔法。
午後は剣術。
その合間にも礼儀作法や歴史、政治についての勉強が入る。
与えられた課題を終わらせれば、それで終わりではない。
カルヴィナは必ず、自分から次の課題を探した。
「もう十分ではありませんか?」
ある日、魔法教師がそう言った。
長時間の訓練を終えたカルヴィナは、額の汗を拭いながら首を横に振った。
「まだです」
「しかし、今日の課題はすべて終わっています」
「できるようになっただけです」
「それでは十分でしょう」
「……できるようになったことと、強くなったことは同じではありません」
教師は黙った。
カルヴィナは黒魔法を見つめる。
黒い魔力が、指先で小さく揺らめいている。
破壊と侵食。
扱いを間違えれば、簡単に人を傷つける力。
だからこそ、もっと正確に。
もっと速く。
もっと強く。
扱えるようになりたかった。
「もう一度お願いします」
「……分かりました」
教師が頷く。
カルヴィナは再び魔力を練り始めた。
その姿を、少し離れた場所からノエルが見ていた。
彼もまた、以前とは変わっていた。
カルヴィナに何度負けても、剣術の稽古をやめなかった。
土属性の魔法も毎日練習している。
以前のような、ただの負けず嫌いではない。
負けた原因を考え、どうすれば追いつけるのかを考えるようになっていた。
「カルヴィナ」
「はい?」
「今日は僕と剣術の稽古をしてくれ」
「分かりました」
二人は稽古場へ向かった。
木剣を構える。
「始め!」
踏み込んだのはノエルだった。
以前よりも鋭い。
カルヴィナは受け止める。
一度。
二度。
三度。
木剣が何度もぶつかる。
ノエルは必死だった。
力任せではなく、カルヴィナの動きを見ながら攻めている。
だが――。
「そこです」
カルヴィナの一撃が、ノエルの肩を捉えた。
「……っ」
ノエルが後ろへ下がる。
「参った」
悔しそうに木剣を下ろした。
カルヴィナも構えを解く。
「強くなりましたね」
「……まだ勝てないけどな」
「はい」
「そこは否定してくれよ」
「事実ですから」
「相変わらずだな……」
ノエルは苦笑した。
だが、その顔に以前ほどの苛立ちはない。
「でも、いつか勝つ」
「楽しみにしています」
カルヴィナは本心からそう言った。
ノエルが努力していることを知っているからだ。
負けても諦めない。
できなければ、できるまで続ける。
そんな姿勢を、カルヴィナは好ましく思っていた。
その日の夕方。
屋敷の廊下を歩いていると、騒ぎが聞こえてきた。
「申し訳ありません……!」
使用人の若い男が、何度も頭を下げている。
その前には、割れた花瓶が落ちていた。
「これがいくらするものか分かっているのですか?」
年配の使用人が厳しい声を浴びせている。
「はい……本当に申し訳ありません」
「あなたは先日も皿を割ったでしょう!」
「……はい」
「何度失敗すれば気が済むのです!」
カルヴィナは足を止めた。
「何があったのですか?」
周囲の使用人が慌てて頭を下げる。
「カルヴィナお嬢様。こちらの者が花瓶を落としてしまいまして……」
若い使用人は顔を伏せている。
カルヴィナは割れた花瓶を見た。
「故意ではないのですね?」
「はい……」
「なら、直せばいいのではありませんか?」
「ですが……」
「同じことを繰り返さないようにすればいいでしょう」
若い使用人が顔を上げた。
「……はい」
「次はどうすれば失敗しないのか、考えましたか?」
「それは……まだ」
「なら、考えてください」
カルヴィナはそれだけ言って、その場を離れた。
しかし、その数日後。
カルヴィナは再びその使用人を見かけた。
以前よりも慎重に仕事をしている。
物を運ぶときには必ず両手で持ち、足元を確認している。
カルヴィナはその姿を見て、少しだけ嬉しくなった。
――変わろうとしている。
それならいい。
失敗しても。
今は弱くても。
努力するのなら、変わることができる。
そう思っていた。
だが、その考えを揺らす出来事があった。
数日後。
カルヴィナは父に呼ばれ、執務室へ向かった。
「失礼いたします、お父様」
扉を開ける。
父は机の前に座っていた。
「入れ」
「はい」
カルヴィナは静かに入室する。
その瞬間、胸の奥が冷たくなる。
――この人が。
母を殺した。
目の前にいるだけで、あの日の光景が蘇る。
母の声。
騎士の剣。
血。
そして、何の感情も見せずに自分を連れていかせた父。
それでもカルヴィナは、表情を変えない。
「何かございましたか?」
「お前の成績についてだ」
「はい」
「魔法、剣術、学問。どれも申し分ない」
「ありがとうございます」
「このまま励め」
「はい、お父様」
従順な娘。
それが今のカルヴィナだった。
父の言葉には逆らわない。
求められたことは完璧にこなす。
何一つ不満を見せない。
けれど――。
心の中では、決して父を許していなかった。
父が自分を褒めるたびに、カルヴィナは思う。
――どうして?
――どうして、お母さんを殺した人が。
――何事もなかったように、私に笑いかけられるの?
「カルヴィナ?」
「……はい」
「どうした?」
「いえ。何でもありません」
カルヴィナは微笑んだ。
「これからも、努力いたします」
「ああ。それでいい」
父との会話は、それだけだった。
部屋を出る。
扉が閉まる。
カルヴィナは廊下を歩きながら、拳を握った。
――いつか。
いつか、私はもっと強くなる。
父に逆らえるほど。
誰にも命令されないほど。
母を奪われたあの日の自分とは、比べものにならないほど。
そのためなら、何だってする。
勉強も。
魔法も。
剣も。
すべて身につける。
その日の帰り。
カルヴィナは馬車の窓から外を眺めていた。
街道の脇に、小さな少年が座っている。
年齢はカルヴィナより少し下だろう。
服は汚れている。
手には何も持っていない。
働いている様子もない。
カルヴィナは窓を少し開けた。
「あなた」
少年が顔を上げる。
「……はい?」
「どうして、何もしないのですか?」
「何をすればいいのか、分からないから……」
「なら、探せばいいでしょう」
「……無理だよ」
その言葉に、カルヴィナは黙った。
「無理」と言う。
まだ何もしていないのに。
最初から諦めている。
「働けばいいのに」
「仕事なんて、僕にはできないよ」
「できないなら、できるようにすればいいでしょう?」
「……そんな簡単じゃない」
少年は俯いた。
カルヴィナはそれ以上言えなかった。
馬車が動き出す。
少年の姿が遠ざかっていく。
――どうして。
カルヴィナは窓の外を見つめた。
できないなら、練習すればいい。
知らないなら、学べばいい。
失敗したなら、次は失敗しないようにすればいい。
それが自分にとっては当たり前だった。
母を失ったあの日から。
自分が弱かったから、母を守れなかった。
だから強くなる。
強くなるために努力する。
それ以外に、何があるというのか。
「……努力すれば、強くなれる」
小さく呟く。
けれど、少年の「無理」という言葉が頭から離れなかった。
「……なら」
カルヴィナは窓を閉めた。
「努力しない人は……どうなるの?」
その問いに、まだ答えはなかった。
ただ一つ。
カルヴィナの中で、少しずつ価値観が形を変え始めていた。
強い者。
努力して強くなろうとする者。
そして――。
強くなろうとしない者。
これまでは、強くなることは「誰かを守るため」のものだった。
けれど、いつしかカルヴィナは考えるようになる。
――努力しない人まで、強い人が守り続けなければならないのだろうか。
その疑問は、まだ小さなものだった。
そしてカルヴィナ自身も、その問いがいつか自分の人生を大きく変えることを知らなかった。