カルヴィナが十一歳になった。
公爵家に引き取られてから、七年。
彼女の生活は、以前にも増して忙しくなっていた。
朝は歴史や政治について学び、昼には魔法の訓練を行う。
午後は剣術。
夕食の後には、その日の勉強の復習。
与えられた課題を終えたからといって、カルヴィナはそこで満足することはなかった。
できなかったことがあれば、原因を考える。
分からないことがあれば、教師に尋ねる。
失敗したなら、もう一度試す。
それを繰り返してきた。
「カルヴィナ!」
稽古場にノエルの声が響いた。
木剣を構えたノエルが、勢いよく踏み込んでくる。
カルヴィナはその一撃を受け止めた。
――重い。
以前よりも明らかに力がついている。
ノエルも、この七年間で大きく成長していた。
土属性の魔法も、剣術も、毎日欠かさず鍛えている。
「……っ!」
ノエルがさらに攻撃を仕掛ける。
カルヴィナは一歩下がり、木剣を受け流す。
そして、一瞬の隙を突いて踏み込んだ。
カンッ!
木剣がノエルの手元を弾いた。
「しまっ……!」
木剣が地面へ落ちる。
「そこまで!」
教師の声が響いた。
ノエルは肩で息をしながら、落ちた木剣を拾った。
「……また負けた」
「以前より、ずっと強くなっています」
「でも、まだ勝てない」
「はい」
「そこは否定してくれよ」
ノエルが苦笑する。
カルヴィナも小さく笑った。
「ですが、本当に強くなりました」
「……本当か?」
「はい」
それはお世辞ではなかった。
カルヴィナは、ノエルの努力をきちんと見ていた。
以前のノエルなら、一度負ければ不機嫌になっていた。
けれど今は違う。
負けた理由を考え、また稽古をする。
「次は勝つからな」
「楽しみにしています」
「絶対だからな」
「はい」
ノエルが木剣を握り直す。
その姿を見て、カルヴィナは思った。
――努力する人は、嫌いではない。
強いか弱いかは関係ない。
昨日より今日。
今日より明日。
少しでも前へ進もうとすること。
それを、カルヴィナは大切なことだと思っていた。
その日の午後。
廊下を歩いていると、何やら騒がしい声が聞こえてきた。
「申し訳ありません……!」
若い使用人が、何度も頭を下げている。
足元には、割れた食器がいくつか転がっていた。
「これで何度目ですか!」
「……申し訳ありません」
「気をつけると言ったでしょう!」
カルヴィナは足を止めた。
「何があったのですか?」
使用人たちが振り返る。
「カルヴィナお嬢様。こちらの者が食器を落としてしまいまして……」
カルヴィナは床を見る。
「怪我は?」
「ありません」
「そうですか」
それなら大きな問題ではない。
「では、片付けてください」
「はい」
若い使用人が急いで破片を拾い始める。
カルヴィナはその場を離れようとした。
そのときだった。
「……もう、駄目なのかもしれません」
小さな声が聞こえた。
カルヴィナが振り返る。
「何がですか?」
「何度やっても失敗してしまいます。自分には向いていないのだと思います」
「向いていない?」
「はい……」
「では、どうすれば失敗しないか考えましたか?」
「……分かりません」
「なら、誰かに聞けばいいでしょう」
「でも……」
「練習すればいいでしょう」
使用人は困ったように黙り込んだ。
カルヴィナには、その反応が理解できなかった。
「失敗したなら、次は失敗しないようにすればいいのではありませんか?」
「……それでも、できなかったら?」
「できるまでやればいいでしょう」
迷いのない答えだった。
使用人は何も言えなかった。
カルヴィナも、それ以上は何も言わずにその場を離れた。
だが、廊下を歩きながら、先ほどの会話を思い返していた。
――できない。
――向いていない。
――だから諦める。
どうしてだろう。
カルヴィナには、それが分からなかった。
自分にできないことがあったら、できるようになるまで努力する。
それが当たり前だった。
そうしなければならないと思っていた。
翌日。
カルヴィナは父の執務室へ呼ばれていた。
「失礼いたします、お父様」
「入れ」
カルヴィナは静かに入室する。
「座りなさい」
「はい」
父から、最近の成績についていくつか質問を受ける。
カルヴィナは一つずつ、落ち着いて答えていった。
「魔法の訓練はどうだ?」
「順調です」
「剣術は?」
「まだ改善できるところがあります」
「学問については?」
「もっと勉強する必要があります」
父が僅かに頷く。
「その調子で励みなさい」
「はい。ありがとうございます」
それ以上の会話はなかった。
カルヴィナは一礼して部屋を出る。
屋敷の中で父に呼ばれれば、カルヴィナはいつもこうして素直に従った。
余計なことは言わない。
求められたことにはきちんと答える。
そして、自分に必要なものを手に入れるため、与えられた環境を最大限に利用する。
カルヴィナにとって、それもまた強くなるための一つの方法だった。
数日後。
魔法の訓練場で、一人の少年が火属性の魔法を練習していた。
「もう一度……!」
少年が両手を前に出す。
小さな炎が生まれる。
しかし、すぐに消えた。
「……っ」
少年は悔しそうに顔をしかめた。
それでも、もう一度魔力を集める。
「もう一度……!」
また炎が生まれる。
今度は、ほんの少しだけ長く燃えた。
すぐに消えてしまったが、少年は嬉しそうに笑った。
「昨日より長くできた……!」
カルヴィナはその様子を静かに見ていた。
小さな進歩だった。
けれど、確かな進歩でもある。
――こういうことなのだ。
カルヴィナは思った。
努力するというのは、必ずしも一気に強くなることではない。
昨日より少しだけできるようになる。
その積み重ねが、いつか大きな力になる。
ノエルもそうだった。
最初は自分に手も足も出なかった。
今でもまだ勝てていない。
それでも、以前とは比べものにならないほど強くなっている。
だからカルヴィナは、努力する者を認めることができた。
――では。
努力しても、どうしても強くなれない者は?
ふと、そんな疑問が浮かんだ。
才能がない。
身体が弱い。
何度努力しても、他人より遅い。
それでも努力を続ける人間なら、カルヴィナはきっと認めるだろう。
だが――。
最初から諦める人間は?
「……」
カルヴィナは答えを出せなかった。
まだ、分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
自分は諦めない。
できないことがあっても。
苦しいことがあっても。
いつか強くなるために、努力し続ける。
それだけは決して変わらなかった。
夜。
カルヴィナは窓辺に立っていた。
月を眺めながら、自分の手を見つめる。
「……もっと強くならないと」
それは、もう口癖のようになっていた。
母を守れなかったあの日から、ずっと。
力があれば。
強ければ。
あの日とは違う結果になっていたかもしれない。
だから強くなる。
誰にも守られるだけの存在にはならない。
自分の大切なものを、自分の力で守れる人間になる。
そして、そのためには努力するしかない。
カルヴィナは静かに目を閉じた。
まだ彼女は知らなかった。
「努力する者を認める」という考えが、やがて「努力しない者への嫌悪」へと変わっていくことを。
そしてさらにその先で――。
「弱い者」そのものに対する考え方まで、少しずつ変わっていくことを。
今はまだ。
カルヴィナにとって、強さとは誰かを守るためのものだった。