カルヴィナが十二歳になった。
公爵家の娘として過ごすようになってから、八年。
魔法も、剣術も、学問も。
カルヴィナは着実に力を身につけていた。
その日も、朝からいつも通りの授業を終え、午後の魔法訓練を終えた頃だった。
「カルヴィナ様」
侍女が部屋を訪ねてきた。
「旦那様がお呼びです」
「分かりました」
カルヴィナは本を閉じた。
父から呼び出されることは、珍しいことではない。
カルヴィナは身だしなみを整えると、父の執務室へ向かった。
「失礼いたします、お父様」
「入れ」
扉を開ける。
父はいつものように机の前に座っていた。
「座りなさい」
「はい」
カルヴィナが向かいの椅子に腰掛ける。
父は一枚の書類を机の上へ置いた。
「お前に話しておくことがある」
「何でしょうか?」
「皇太子殿下との婚約が決まった」
「……」
カルヴィナの目が僅かに見開かれた。
「……皇太子殿下と、ですか?」
「ああ」
予想していなかった話だった。
カルヴィナはしばらく黙って考える。
皇太子。
将来、この国を治める人間。
その婚約者になれば、当然、自分の立場も大きく変わる。
「……私が、皇太子殿下の婚約者になれば」
「何だ?」
「今よりも、発言できることが増えるのでしょうか?」
父は少し意外そうな顔をした。
「当然だ。将来の王妃となる立場なのだからな」
「……そうですか」
カルヴィナは考える。
魔法。
剣。
知識。
公爵家の身分。
これまで自分が積み上げてきた力。
そこへ、皇太子の婚約者という立場が加わる。
それは単なる肩書きではない。
人を動かすことのできる力だ。
「ならば……」
カルヴィナは顔を上げた。
「お受けします」
「異論はないのだな?」
「はい」
「理由を聞いても?」
カルヴィナは少しだけ考えた。
「力が増えるからです」
父が黙る。
「……力?」
「はい」
カルヴィナは続けた。
「強さには、いろいろな形があると思います」
「ほう」
「魔法の力も、剣の力も、知識も」
そして――。
「人を動かす立場も」
父はしばらくカルヴィナを見つめていた。
「随分と現実的だな」
「必要なことだと思っています」
「何のために?」
カルヴィナは迷わず答えた。
「守るためです」
父の眉が僅かに動く。
「自分自身を守るためでもあります。そして……私の大切な人たちを」
カルヴィナの脳裏に、一人の女性の姿が浮かんだ。
もう二度と会うことのできない母。
カルヴィナはその記憶を胸の奥へしまい込む。
「力があれば、できることが増えます」
「……そうか」
父は書類へ目を落とした。
「では、準備を進めよう」
「はい、お父様」
カルヴィナは立ち上がり、一礼した。
「失礼いたします」
部屋を出る。
廊下を歩きながら、カルヴィナは静かに考えていた。
皇太子の婚約者。
これまでとは比べものにならないほど、大きな力を得ることになる。
ならば。
その力も、自分のものにすればいい。
そう思った。
それからしばらくして。
王宮で、カルヴィナと皇太子レオニードの顔合わせが行われた。
「初めまして、カルヴィナ嬢」
穏やかな声だった。
カルヴィナが顔を上げる。
目の前にいる少年が、皇太子レオニード。
自分と同じ十二歳。
けれど、その表情にはどこか落ち着いた雰囲気があった。
「初めまして、殿下」
カルヴィナは丁寧に頭を下げる。
「カルヴィナと申します。これからよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしく」
レオニードは微笑んだ。
「黒魔法を使うと聞いているよ」
「はい」
「珍しい力だね」
「恐ろしくはないのですか?」
カルヴィナが尋ねる。
「どうして?」
「黒魔法は破壊と侵食の力です」
「でも、君が使う力だろう?」
「……はい」
「なら、力そのものより、どう使うかのほうが大切なんじゃないかな」
カルヴィナは少し驚いた。
黒魔法を恐れる人は多い。
特に貴族の中には、黒魔法を忌まわしいものとして見る者もいる。
けれどレオニードは違った。
「それに」
レオニードが続ける。
「君はかなり努力しているそうだね」
「……ご存じなのですか?」
「父上から聞いたよ。勉強も魔法も剣も、毎日欠かさず続けているって」
「……そうですか」
「すごいと思う」
素直な言葉だった。
カルヴィナは少しだけ戸惑う。
「ありがとうございます」
「でも、無理はしないでね」
「……無理?」
「頑張ることは大切だけど、一人ですべてを背負わなくてもいいと思う」
カルヴィナは黙った。
「誰かに頼ることも、弱いことではないよ」
「……」
その考えは、カルヴィナにはあまり馴染みがなかった。
頼る。
誰かに守ってもらう。
それよりも、自分自身が強くなればいい。
そう思っていた。
「私は……自分で強くなりたいです」
「うん」
レオニードは否定しなかった。
「それも君の考えなんだね」
「はい」
「なら、僕は応援するよ」
カルヴィナはレオニードを見る。
不思議な人だった。
自分の考えを否定しない。
けれど、自分とは少し違う。
そんな印象を受けた。
王宮からの帰り道。
カルヴィナは馬車の中で、今日のことを考えていた。
皇太子との婚約。
それは、自分にとって大きな意味を持つ。
魔法の力。
剣の力。
知識。
そして、公爵令嬢としての立場。
そこへ皇太子の婚約者という立場が加わった。
これまでよりも、できることが増える。
守れるものも増える。
「……強くならなければ」
カルヴィナは呟いた。
十二歳の少女が見つめる窓の外には、王都の街並みが広がっている。
その先には、まだ見たことのない世界がある。
カルヴィナは知らなかった。
この婚約が、ただ彼女に新しい力を与えるだけではないことを。
やがてレオニードという存在が、彼女の「強さ」という考え方そのものに、大きな影響を与えることを。
そして今はまだ。
二人の間にあるのは恋ではなかった。
ただ、それぞれが異なる形で「強さ」を信じる者同士として。
二人の人生が、静かに重なり始めていた。