皇太子との婚約が決まってから、しばらく経った。
カルヴィナの生活は、それまでと大きく変わってはいなかった。
朝になれば学問を学び、魔法を鍛える。
剣を握り、礼儀作法を身につける。
それに加えて、最近では王家に関する教育も始まっていた。
王国の歴史。
各地の産業。
貴族同士の関係。
税や領地の管理。
公爵令嬢として知っておくべきことに加え、将来、王妃となる可能性がある者として学ばなければならないことは多かった。
「これで最後ですね」
教師から渡された書類を、カルヴィナは静かに読み進めていく。
「北東部の村々についての報告です」
「魔物の被害……ですか?」
「はい。ここ数か月、同じ地域で何度か魔物が確認されています」
カルヴィナは報告書へ目を落とした。
村の名前。
被害の規模。
負傷者の数。
農地への被害。
そして、派遣された騎士団によって魔物が討伐されたという記録。
そこまで読んで、カルヴィナの指が止まった。
「……この村」
「何か気になることが?」
「同じ村が、二度被害を受けています」
「ええ」
教師が頷く。
「最初の被害の後、騎士団が魔物を討伐しています。その後、一度は落ち着いたのですが……数週間後に再び被害が出ています」
カルヴィナは書類を読み返した。
「では、今回も騎士団を派遣するのでしょうか?」
「その予定です」
「……それだけですか?」
教師がカルヴィナを見る。
「と、申しますと?」
「魔物を倒すことは必要です」
カルヴィナは報告書を机に置いた。
「ですが、それだけでは同じことが繰り返されるのではありませんか?」
教師は答えなかった。
カルヴィナは窓の外を見る。
自分には魔法がある。
剣もある。
知識もある。
そして今は、皇太子の婚約者という立場まで与えられた。
ならば、それらを何のために使うのか。
「一度守っただけで終わらせるのではなく、その村が次に襲われたとき、自分たちでも被害を減らせるようにするべきだと思います」
その意見は、後日、王宮で開かれた会議の場にも持ち込まれた。
カルヴィナはレオニードの隣に座っていた。
目の前には、国の重臣や騎士団の関係者が並んでいる。
「北東部の村々に対する支援について、報告いたします」
騎士団の責任者が説明を始める。
「今回の被害を受け、騎士団から部隊を派遣します。魔物を討伐し、安全が確認されるまで村に駐留させる予定です」
「それでいいと思います」
レオニードが答えた。
「被害に遭った人たちへの補償も必要だね」
「すでに準備を進めています」
「うん。できるだけ早く対応しよう」
レオニードは迷いなく答えていた。
カルヴィナはその横顔を見る。
彼は本気で村人たちのことを心配している。
権力者として当然の務めだから、というだけではない。
傷ついた人を助けたい。
困っている人を守りたい。
そういう気持ちが、言葉の端々から伝わってくる。
その姿を見て、カルヴィナも口を開いた。
「一つ、よろしいでしょうか?」
会議室の視線が集まる。
「どうぞ」
「騎士団の派遣には賛成です」
カルヴィナは落ち着いた声で言った。
「ですが、騎士団だけに頼るのは問題があると思います」
何人かの貴族が顔を見合わせる。
「村人に戦えと?」
誰かが尋ねた。
「いいえ」
カルヴィナは首を横に振った。
「戦う必要はありません」
「では、何を?」
「逃げる方法を知っておくことです」
カルヴィナは机の上の地図を指差した。
「魔物が現れたとき、どこへ逃げればいいのか。誰が危険を知らせるのか。子供や老人を誰が誘導するのか。怪我人が出た場合、どうやって安全な場所へ運ぶのか」
一つずつ挙げていく。
「それだけでも、被害は変わるはずです」
「しかし、村人たちにそこまで求める必要があるのでしょうか?」
「必要だと思います」
カルヴィナは即答した。
「騎士団が守ることと、自分たちで身を守ることは両立できます」
その言葉に、レオニードが頷いた。
「僕もそう思う」
カルヴィナがレオニードを見る。
「騎士団は村を守る。でも、村の人たちにも自分たちや家族を守る方法を知っていてもらう」
レオニードは微笑んだ。
「そのほうが、きっと多くの人を守れる」
「はい」
カルヴィナも頷いた。
会議では、騎士団の派遣に加えて村の防衛設備の確認、避難経路の整備、簡単な避難訓練を行うことが決まった。
数日後。
カルヴィナとレオニードは、実際にその地域を訪れていた。
馬車から降りると、村人たちが二人を迎える。
「殿下……! ありがとうございます!」
「どうか皆さん、顔を上げてください」
レオニードが優しく声をかける。
村人たちの表情には、不安が残っていた。
何度も魔物に襲われたのだ。
当然だった。
村の周囲には簡素な柵が設置され、騎士たちも巡回している。
その光景を見ながら、カルヴィナは村長に尋ねた。
「避難訓練は行いましたか?」
「はい。昨日から始めています」
「参加者は?」
「村の若い者を中心に、半分ほどです」
「半分……」
カルヴィナは村を見渡した。
若者たちの中には、騎士から教えを受けながら真剣に話を聞いている者もいる。
木製の盾を持って、避難の際の動きを確認している。
その中に、一人の少年がいた。
農作業用の服を着ている。
年齢は十三歳ほどだろう。
騎士の説明を真剣な表情で聞いていた。
「あなた」
カルヴィナが声をかけると、少年は驚いて振り返った。
「は、はい!」
「何をしているのですか?」
「避難の練習です」
「どうして参加したのですか?」
少年は少し考えてから答えた。
「……家族を守りたいからです」
「家族を?」
「はい」
少年は拳を握った。
「俺は魔法も使えません。剣だってまともに扱えません」
「そうですか」
「だから、魔物と戦うなんてできないです」
少年は苦笑した。
「でも、逃げることならできます。母さんや妹を連れて逃げることも、できるようになりたい」
カルヴィナは少年を見つめた。
「……そう」
「何か、おかしいですか?」
「いいえ」
カルヴィナは小さく首を横に振った。
「あなたは、強くなろうとしているのですね」
「……俺が?」
「はい」
少年は目を丸くした。
「剣が使えることだけが、強さではありません」
カルヴィナは静かに言った。
「自分にできることを探して、それを身につけようとすることも強さです」
少年の表情が変わった。
「……ありがとうございます」
「これからも続けてください」
「はい!」
少年が力強く返事をした。
その様子を、少し離れたところからレオニードが見ていた。
「カルヴィナ」
「何でしょう?」
「嬉しそうだね」
「……そう見えますか?」
「うん」
カルヴィナは少年の方を見る。
「努力している人を見るのは、嫌いではありません」
「そうだと思った」
レオニードは笑った。
しかし。
村の別の場所では、訓練に参加していない者たちもいた。
「俺たちまで練習する必要なんてないだろ」
「騎士団がいるんだ」
「そうそう。何かあれば騎士様が倒してくれる」
カルヴィナの耳に、その会話が入った。
足が止まる。
振り返る。
数人の村人が、訓練を遠巻きに見ていた。
「……」
カルヴィナは何も言わなかった。
その場を離れようとする。
しかし、胸の中に引っかかるものが残った。
騎士団がいる。
だから自分は何もしなくていい。
その考えが、どうしても理解できなかった。
夜。
村に用意された宿で、カルヴィナとレオニードは窓辺に立っていた。
「今日のことを考えているの?」
「はい」
カルヴィナは答えた。
「訓練に参加していた少年がいました」
「うん」
「彼は自分にできることを探していました」
「そうだね」
「でも、何もしようとしない人もいました」
レオニードは黙ってカルヴィナを見る。
「騎士団が守ってくれるから、自分たちは何もしなくていいと」
「……そう言っていたね」
「どうしてなのでしょう」
カルヴィナは窓の外を見る。
「自分や家族を守るために、できることを覚えようとは思わないのでしょうか」
レオニードは少し考えた。
「誰もが、カルヴィナと同じように考えられるわけじゃないからね」
「……そうかもしれません」
「怖いのかもしれない。何かを始めることが」
カルヴィナは黙った。
「それに、誰かに守ってもらえるなら、そのほうが安心できる人もいる」
「……」
「強くなることだけが正しいとは限らないよ」
カルヴィナはレオニードを見る。
反論しようとして――やめた。
今の自分には、彼の言葉を否定するだけの答えがなかった。
「……分かりました」
そう答えながらも、胸の中には小さな疑問が残っていた。
――それでも。
自分にできることがあるのなら。
少しでも自分を守る力を持つことは、大切なのではないか。
カルヴィナは、昼間の少年を思い出す。
魔法も使えない。
剣も扱えない。
それでも家族を守るために、自分にできることを探していた。
それは、確かに一つの強さだった。
カルヴィナはまだ知らない。
今日抱いた小さな疑問が、やがて彼女の中で大きく育っていくことを。
強い者が弱い者を守る。
それは正しい。
けれど――。
守られる側は、いつまでも守られるだけでいいのだろうか。
その問いが、カルヴィナの心の奥に残った。
まだ答えは出ていない。
ただ彼女は、これまでより少しだけ「強さ」というものを広く考え始めていた。