王都へ戻る前に、カルヴィナはもう一度、北東部の村を訪れていた。
先日まで魔物の被害に怯えていた村は、少しずつではあるが変わり始めていた。
村の周囲には新しい柵が設けられ、魔物が侵入した場合に知らせるための鐘も取り付けられている。
避難経路を確認するための訓練も、毎日のように行われていた。
「前より、ずいぶん整いましたね」
カルヴィナが村長に声をかけると、村長は嬉しそうに頷いた。
「はい。騎士団の方々が色々と教えてくださったおかげです」
「村の方々も協力しているのでしょう?」
「もちろんです」
村長は村の中を見渡した。
「最初は嫌がる者も多かったのですが……少しずつ参加する者が増えてきました」
「そうですか」
カルヴィナも村を見渡す。
すると、以前出会った少年の姿が目に入った。
木の棒を手にして、騎士から教わった動きを繰り返している。
ぎこちない。
足の運びも、腕の動かし方も、まだまだだった。
それでも、何度失敗してもやめようとはしない。
「……あの少年は」
「以前、殿下とカルヴィナ様がお声をかけられた子です」
「そうですか」
カルヴィナは少年のところへ歩いていった。
「こんにちは」
「……あっ!」
少年は慌てて姿勢を正した。
「カルヴィナ様!」
「そのままで構いません」
「は、はい!」
「練習しているのですね」
「はい!」
少年は少し照れくさそうに笑った。
「まだ全然うまくできないですけど……」
「そうでしょうね」
「えっ」
少年が固まる。
カルヴィナは木の棒を見た。
「足が少し遅れています。右手を振るときに体が開きすぎています」
「……」
「それから、同じ動きをするときも毎回少しずつ姿勢が違います」
「そ、そうなんですか?」
「はい」
少年は落ち込んだように肩を落とした。
「やっぱり俺には無理なのかな……」
カルヴィナはその言葉を聞いて、少年を見る。
少し前なら、その言葉にすぐ疑問を抱いていただろう。
しかし今は違った。
「どうしてそう思うのですか?」
「だって、全然できないから……」
「なら、できるようになるまで練習すればいいでしょう?」
「……!」
少年が顔を上げた。
カルヴィナは当たり前のことを言うように続ける。
「最初からできる必要はありません」
「でも……」
「昨日より一つでもできるようになったのなら、それは前進です」
少年は自分の手を見る。
「昨日より……」
「はい」
「昨日は十回やっても一回もできなかった動きが、今日は二回できました」
「なら、強くなっています」
少年の目が大きく開いた。
「俺が……?」
「ええ」
カルヴィナは頷いた。
「昨日のあなたより、今日のあなたのほうが強い」
少年はしばらく黙っていた。
そして――。
「……もう一回、やってみます」
「そうしてください」
少年は木の棒を握り直した。
一度。
二度。
三度。
何度も失敗する。
転びそうになる。
動きが崩れる。
それでも、少年は立ち上がった。
「もう一回!」
カルヴィナは黙ってその姿を見ていた。
――強さ。
それは、魔法の威力だけではない。
剣の技術だけでもない。
昨日できなかったことを、今日できるようにする。
できなければ、方法を変える。
失敗したら、もう一度やる。
その積み重ねもまた、強さなのだ。
「カルヴィナ」
後ろから声がした。
振り返ると、レオニードが立っていた。
「見ていらしたのですか?」
「うん」
レオニードは少年を見て微笑む。
「頑張っているね」
「はい」
カルヴィナも頷いた。
「彼は強くなっています」
「そうだね」
「まだ、魔物と戦えるほどではありません」
「うん」
「剣も使えません。魔法も使えません」
「そうだね」
それでも、とカルヴィナは続けた。
「彼は強くなろうとしています」
レオニードは少しだけ目を細めた。
「カルヴィナは、本当に努力する人が好きなんだね」
「……嫌いではありません」
「それならよかった」
レオニードは穏やかに笑った。
「でも、全員が彼のようになれるとは限らないよ」
「……はい」
カルヴィナは素直に答えた。
村を歩いていると、先日訓練に参加していなかった男たちが目に入った。
彼らは今日も訓練には参加していない。
「騎士団がいるんだから、そんなに必死になる必要はないだろ」
「魔物が来たら逃げればいい」
「いざとなれば騎士様が何とかしてくれるさ」
カルヴィナは足を止めた。
その言葉を聞いても、何も言わなかった。
ただ、少年のほうを見る。
少年はまだ練習を続けていた。
何度も失敗している。
それでも、諦めてはいない。
「……同じ村に住んでいても、違うのですね」
カルヴィナが呟いた。
「何が?」
レオニードが尋ねる。
「自分にできることを探す人と、誰かに任せる人です」
カルヴィナは少年を見る。
「私は、あの子を弱いとは思いません」
「うん」
「今の力だけを見れば、弱いのかもしれません」
少年には魔法の才能がない。
剣の技術も、まだ未熟だ。
けれど――。
「それでも、強くなろうとしています」
カルヴィナの声には、確かな尊敬があった。
「だから私は、あの人を弱い人だとは思いません」
レオニードは何も言わず、カルヴィナの横顔を見ていた。
やがて、穏やかに口を開く。
「カルヴィナは、強い人になりたいんだね」
「はい」
「それは、昔から?」
カルヴィナは少しだけ考えた。
「……昔からです」
「どうして?」
カルヴィナは答えなかった。
胸の奥にあるものを、言葉にすることはできなかった。
ただ、強くならなければならない。
そう思っていた。
「守りたいものがあるからです」
それだけを答える。
レオニードは、それ以上尋ねなかった。
「なら、これからも頑張らないとね」
「はい」
カルヴィナは村を振り返った。
小さな村。
大きな力を持つ者は、ほとんどいない。
魔法を使えない者もいる。
剣を持てない者もいる。
それでも、それぞれにできることがある。
カルヴィナは、少しだけそのことを理解し始めていた。
強さとは、誰かより優れていることだけではない。
昨日の自分より、今日の自分が前に進むこと。
できないことから逃げずに、できることを増やしていくこと。
それもまた、強さなのだ。
けれど――。
その一方で、カルヴィナの心には、まだ別の疑問が残っていた。
努力しているのに、強くなれない者はどうなのだろう。
何度やっても、できるようにならない者は。
どれだけ努力しても、誰かに追いつけない者は。
その問いに、今のカルヴィナは答えを持っていなかった。
だからこそ、考え続ける。
強さとは何なのか。
努力とは何なのか。
人は、どこまで強くなるべきなのか。
その答えを探すように、カルヴィナは王都へ戻る馬車に乗り込んだ。
窓の外で、少年がこちらに向かって手を振っている。
カルヴィナも、小さく手を振り返した。
「……頑張ってください」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
その言葉は、少年へ向けたものだった。
そして――いつかの自分自身へ向けた言葉でもあった。