十四歳の春。
カルヴィナ・ブランシュは、王都にある王立学園へ入学することになった。
王立学園。
そこは、王国中から優秀な貴族の子供たちが集まり、二年間をかけて学問や魔法、剣術、政治、礼儀作法などを学ぶ場所である。
入学できるのは十四歳から。
卒業する頃には十六歳となり、それぞれが家を継いだり、騎士や魔術師、文官として国に仕えたりする。
そしてカルヴィナにとっては、もう一つ特別な意味を持つ場所でもあった。
皇太子レオニードも、この学園に入学する。
さらに――。
「カルヴィナ様、お時間でございます」
「分かりました」
侍女に声をかけられ、カルヴィナは立ち上がった。
鏡の前に映る自分を見る。
黒を基調とした制服。
胸元にはブランシュ公爵家の紋章が刻まれている。
公爵家。
王族を除けば、王国で最も高い位を持つ家柄。
そしてカルヴィナ自身は、その公爵令嬢であるだけではない。
皇太子レオニードの婚約者。
そのため、学園内でもカルヴィナに対して無礼な態度を取る者はほとんどいない。
王族であるレオニードなど一部の者を除けば、教師も生徒も基本的には敬語で接することになる。
カルヴィナはそれを特別なことだとは思っていなかった。
身分は力の一つ。
そう考えているだけだった。
「では、行きましょう」
「はい、カルヴィナ様」
馬車に乗り込み、学園へ向かう。
窓の外を眺めながら、カルヴィナは静かに考えていた。
――学園。
これまで受けてきた教育とは違う。
同じ年頃の人間たちが集まり、それぞれの力を競い合う場所。
どのような人間がいるのだろう。
どのような考え方を持つ者がいるのだろう。
少しだけ興味があった。
やがて馬車が学園の正門へ到着する。
大きな門。
広い敷地。
立派な校舎。
そして、その周囲にはすでに多くの新入生が集まっていた。
カルヴィナが馬車から降りる。
その瞬間。
周囲の空気がわずかに変わった。
「……あれがブランシュ公爵令嬢ですか」
「はい。皇太子殿下の婚約者でいらっしゃる方です」
「黒魔法を使われるという噂の……」
「入学試験でも、かなりの成績だったそうですよ」
小さな声があちこちから聞こえてくる。
カルヴィナは気にせず歩いた。
すると、前方から見慣れた顔が近づいてきた。
「カルヴィナ」
「レオニード殿下」
皇太子レオニード。
今日から彼も、この学園の生徒となる。
「久しぶりだね」
「そうですね」
「緊張してる?」
「いいえ」
カルヴィナは即答した。
「特にありません」
「カルヴィナらしいね」
レオニードが笑う。
すると周囲の生徒たちが一斉に頭を下げた。
「皇太子殿下」
「ご入学、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
レオニードは柔らかく応じる。
その横で、カルヴィナも軽く周囲を見る。
誰もが緊張している。
当然だ。
ここには王族がいる。
そして公爵令嬢であり、その婚約者である自分もいる。
けれど――。
学園に入れば、誰もが生徒だ。
家柄だけで授業の内容が簡単になるわけではない。
魔法の威力が増すわけでもない。
剣の腕が上がるわけでもない。
カルヴィナは、むしろそこに興味を持っていた。
入学式が終わり、数日後。
入学試験の最終結果が発表された。
掲示板の前には、多くの生徒が集まっている。
「……見つけました」
「誰が一位だったんだ?」
「ブランシュ公爵令嬢だ」
ざわめきが広がる。
一位。
カルヴィナ・ブランシュ。
二位。
レオニード・アルヴェール。
三位。
アリエス。
「アリエス?」
聞き慣れない名前だった。
カルヴィナは三位の名前を見る。
家名がない。
珍しい。
王立学園は基本的に貴族や王族が多く通う場所だ。
平民が入学すること自体、決して多くはない。
「三位が平民……?」
「本当ですか?」
「筆記だけじゃない。実技も含めて三位らしいぞ」
周囲から驚きの声が上がる。
カルヴィナも少しだけ興味を持った。
自分が一位だったことよりも、三位に入った少女のほうが気になった。
そのとき。
「カルヴィナ」
後ろから声をかけられた。
振り返る。
「ノエル兄様」
そこにいたのは、兄のノエルだった。
カルヴィナより一つ年上。
すでに一年前から学園へ通っている上級生だ。
土属性の魔法を得意とする彼は、以前に比べて随分と成長していた。
「入学おめでとう」
「ありがとうございます」
ノエルは掲示板を見る。
「やっぱり一位だったか」
「兄様は?」
「僕は去年より少し上がったよ」
そう言って笑う。
以前なら、カルヴィナとの実力差を気にしていたかもしれない。
けれど今のノエルには、昔ほどの苛立ちはなかった。
努力しても、すぐに追いつけるわけではない。
それでも、自分なりに前へ進む。
カルヴィナは、そんな兄の姿を認めていた。
「兄様も、頑張っているのですね」
「……そう言われると、なんだか複雑だな」
ノエルが苦笑する。
「でも、ありがとう」
そのやり取りを見ていたレオニードが笑う。
「ノエルも元気そうだね」
「殿下も、ご入学おめでとうございます」
「ありがとう」
ノエルが頭を下げる。
カルヴィナは二人を見ながら、少しだけ微笑んだ。
それから数週間。
授業が本格的に始まった。
魔法学。
歴史学。
政治学。
剣術。
礼儀作法。
どの授業でも、カルヴィナは手を抜かなかった。
教師が問題を出せば考える。
分からなければ質問する。
間違えれば原因を探す。
そして、できるようになるまで繰り返す。
それは、学園へ来る前と何も変わらなかった。
「カルヴィナ様」
授業が終わった後、教師の一人が声をかけてきた。
「本日の課題ですが、大変素晴らしい出来でした」
「ありがとうございます」
「特に魔力制御に関する考察は、十四歳とは思えないほどです」
「まだ足りない部分があります」
「……これで、ですか?」
教師が苦笑する。
「はい」
カルヴィナは真剣だった。
「もっと正確にできると思います」
教師は少し驚いた顔をした。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
カルヴィナは昔からそうだった。
できたことよりも、できなかったことを見る。
だから、立ち止まることがない。
そんなある日の魔法実技。
「今日は各自、自分の属性魔法を一定時間維持してください」
生徒たちが一斉に魔法を使い始める。
炎。
水。
風。
土。
それぞれの魔法が訓練場を彩る。
カルヴィナも黒い魔力を手のひらへ集める。
黒い光が静かに揺らめいた。
魔力を乱さない。
形を崩さない。
力を必要以上に込めない。
慎重に制御する。
「……素晴らしいですね、カルヴィナ様」
教師が感心した声を漏らした。
「ありがとうございます」
カルヴィナが魔法を消す。
すると、少し離れた場所から声がした。
「もういいや」
一人の男子生徒が魔法を消していた。
「まだ時間がありますよ」
教師が注意する。
「分かっています」
「では、もう一度」
「面倒なので、いいです」
教師が眉をひそめる。
「君はまだ魔力の制御が安定していません」
「別に、魔術師になるわけではありませんから」
「貴族として、魔法の訓練は必要です」
「でも、僕には家があります」
男子生徒は笑った。
「僕が何か失敗しても、父上が何とかしてくださいますよ」
その言葉を聞いたカルヴィナの視線が、彼へ向いた。
――家があるから。
それだけで、努力しなくてもいい。
カルヴィナには、その考え方が理解できなかった。
彼には才能がないわけではない。
魔力も十分にある。
教師も教えてくれている。
練習する時間もある。
それなのに――。
どうして?
授業が終わった後。
カルヴィナはその男子生徒へ声をかけた。
「少しよろしいでしょうか?」
「はい?」
「先ほどの魔法ですが」
「僕のですか?」
「はい」
カルヴィナは率直に言った。
「もう少し練習すれば、かなり安定すると思います」
「そうでしょうか?」
「ええ」
「でも、別に必要ないと思います」
「なぜですか?」
「僕には家がありますから」
また同じ答えだった。
「僕が困ったら、父上が助けてくださいます」
「……」
「だから、そこまで頑張る必要はないでしょう?」
カルヴィナは黙って彼を見つめた。
怒っているわけではない。
ただ、本当に分からなかった。
「あなたは、強くなりたいとは思わないのですか?」
「強く?」
「はい」
「別に」
男子生徒はあっさり答えた。
「僕より強い人なんて、いくらでもいますから」
「……そうですか」
「それに、僕には僕の家があります。わざわざ苦労する必要なんてないですよ」
カルヴィナは、それ以上何も言わなかった。
「失礼します」
その場を離れる。
廊下を歩きながら、あの言葉を思い返していた。
――苦労する必要なんてない。
以前、村で出会った少年は違った。
魔法が使えなくても。
剣が使えなくても。
自分にできることを探していた。
何度失敗しても、もう一度立ち上がった。
昨日より今日。
今日より明日。
少しずつでも強くなろうとしていた。
それなのに。
あの少年は、力を持っている。
学ぶ環境もある。
助けてくれる教師もいる。
それでも、自分から努力することを拒んでいる。
カルヴィナの胸に、以前よりはっきりとした苛立ちが生まれた。
――なぜ?
その日の放課後。
カルヴィナが校舎を出ると、校庭の隅で一人の少女が魔法の練習をしていた。
白い光。
小さな光が、少女の手のひらから生まれている。
しかし、すぐに消えてしまった。
「……もう一度」
少女が呟く。
再び魔力を集める。
今度は少し長く続いた。
けれど、また消える。
「……もう一度」
その少女の姿を、カルヴィナは足を止めて見ていた。
白魔法。
極めて珍しい属性。
しかも、あの魔力。
――入学試験三位。
掲示板に書かれていた名前が頭に浮かぶ。
「……アリエス」
少女が振り返った。
「えっ……?」
目が合う。
「カルヴィナ……様?」
少女は慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありません!」
「何がですか?」
「いえ……その……」
「練習していたのでしょう?」
「はい……」
アリエスは少しだけ俯いた。
「白魔法を、もっと上手に使えるようになりたくて……」
「どうしてですか?」
「人を助けられる魔法だからです」
その答えを聞いて、カルヴィナは少し目を見開いた。
「人を?」
「はい」
アリエスは自分の手を見る。
「私には、剣も使えませんし、強い魔法も使えません」
それでも、と彼女は続けた。
「この魔法なら、誰かを助けられるかもしれないから」
カルヴィナは、黙ってアリエスを見つめた。
その言葉に、どこか聞き覚えがあった。
――守りたいものがあるから。
自分も、そうだった。
「……それなら」
カルヴィナは静かに言った。
「練習を続けてください」
「はい!」
アリエスは嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます、カルヴィナ様!」
カルヴィナはその場を離れる。
歩きながら、ふと振り返った。
アリエスはまだ練習を続けていた。
一度失敗する。
それでも、また挑戦する。
カルヴィナは、その姿をしばらく見つめていた。
学園には、様々な人間がいる。
自分より強い者。
弱い者。
才能に恵まれた者。
恵まれていない者。
そして――。
与えられたものに満足して努力しない者。
何も持たなくても、自分にできることを探す者。
カルヴィナは、少しずつ理解し始めていた。
人の価値は、身分だけでは決まらない。
どれだけ強い力を持っているかだけでもない。
その人間が、何をしようとしているのか。
どこへ進もうとしているのか。
それが大切なのだ。
少なくとも、今のカルヴィナはそう考えていた。
けれど――。
同時に、別の感情も生まれ始めていた。
努力できる環境にいながら、努力しようとしない者。
自分を変えることを諦める者。
そんな人間を見ると、胸の奥に苛立ちを覚える。
まだ、それを嫌悪と呼ぶほどではない。
ただ、理解できない。
なぜ、強くなれる可能性を自ら捨てるのか。
なぜ、できることがあるのに、何もしないのか。
その疑問は、少しずつカルヴィナの心に根を張っていった。
そして彼女は、まだ知らない。
この学園で出会う多くの人間との関わりが、自分の「強さ」という考え方を、少しずつ変えていくことを。
努力する者への尊敬。
努力しない者への苛立ち。
その二つの感情は、やがてカルヴィナの中で大きな意味を持つようになる。
けれど今はまだ――。
彼女にとって、強さとは。
自分自身を高め、守りたいものを守るための力だった。