溱《みなと》 久遠《くおん》には、魔法がない。
空を飛ぶこともできない。
傷を一瞬で治すこともできない。
遠くにいる誰かの声を、聞くこともできない。
だから久遠にできるのは、目の前で泣いている子に気づくことくらいだった。
「お兄ちゃんが、降りられないの」
学校からの帰り道。
公園の大きな木の下で、小さな女の子が泣いていた。
久遠となのはが見上げると、枝の上に男の子がいる。
年は五つか六つくらい。幹にしがみついたまま、動けなくなっていた。
その少し先には、黄色い帽子が引っかかっている。
「帽子を取ろうとしたの?」
なのはが尋ねると、女の子は涙を拭きながら頷いた。
「風で飛んでいって、お兄ちゃんが取ってくれるって……」
「分かった。待ってて」
なのはがランドセルを下ろす。
「なのは」
「わたしが登るの」
「見れば分かる。待って」
久遠は木を見上げた。
男の子がいる枝は太い。けれど、そこへ向かう途中には、
子供の腕ほどしかない細い枝もあった。
「先に大人を呼ぶ」
「でも、あの子、泣いてるよ」
「だからだよ」
久遠は女の子の前にしゃがんだ。
「公園の入口に、管理人さんがいる。呼んできてくれる?」
「ひとりで?」
「走ればすぐだよ。僕たちはここにいるから」
女の子は兄と久遠を見比べ、やがて大きく頷いた。
「転ばないでね」
「うん!」
女の子が駆け出す。
その間に、なのははもう木へ手をかけていた。
「結局、登るんだ」
「管理人さんが来るまで、あの子を安心させるだけなの」
「下で待つって選択肢は?」
「久遠君が待ってて」
「そう言うと思った」
なのはの赤いリボンが、枝の間で揺れる。
木登りが得意というほどではない。それでも、手と足を一つずつ確かめながら、
ゆっくり男の子へ近づいていく。
「大丈夫だよ。もう少しだけ待っててね」
「動かないように言って」
「そのまま動かないでね」
「帽子も取ろうとしないで」
「帽子は後でいいからね」
「あと、なのはもそれ以上――」
みしり、と音がした。
久遠の背中が冷たくなる。
「なのは、止まって!」
なのはが動きを止める。
けれど、男の子は声に驚いて振り返った。
細い枝へ片足を置く。
乾いた音がした。
「あっ」
枝が折れた。
なのはが手を伸ばす。
届かない。
男の子の身体が宙へ投げ出された。
考えるより先に、久遠はその下へ走っていた。
「久遠君!」
両腕を伸ばす。
男の子の身体が胸へ落ちてくる。
重い。
息が潰れた。
支えきれず、久遠は後ろの植え込みへ倒れ込んだ。
枝が腕を掻く。
背中を地面へ打ちつける。
痛みより先に、腕の中を確かめた。
「大丈夫?」
男の子は目を見開いていた。
しばらくして、声を上げて泣き始める。
泣けるなら、たぶん大丈夫だ。
「久遠君!」
なのはが木から降りてくる。
急いだせいで膝を幹に擦り、白い靴下の少し上へ赤い血が滲んでいた。
「なのは、膝」
「わたしより久遠君なの!」
「僕より、この子」
「その子は泣いてるから大丈夫! たぶん!」
「その判断はどうなの」
言い返せたことで、ようやく息が戻ってくる。
男の子は無事だった。
なのはも、自分の足で立っている。
それを確かめた途端、遅れてやってきた怖さに指先が震えた。
久遠は気づかれないよう、そっと手を握る。
やがて、女の子に呼ばれた管理人が駆けつけてきた。
少し遅れて、男の子たちの母親もやってくる。
何度も頭を下げられ、兄妹が母親と帰ろうとしたときだった。
男の子が久遠を振り返った。
「お姉ちゃん、ありがとう」
「お兄ちゃん」
「え?」
「僕は、お兄ちゃん」
男の子が久遠の顔を見る。
肩に届きかけた黒い髪と、年齢より幼く見える顔をじっと見比べる。
「でも、お姉ちゃんみたい」
「僕は男だよ」
久遠がむっとすると、隣でなのはが吹き出した。
「なのは、笑わないで」
「ご、ごめん。でも久遠君、かわいいから」
「それは謝ってない」
「お姉ちゃん、かわいい」
「君も乗らないで」
なのはが声を上げて笑う。
つられて、男の子も、泣いていた妹も笑った。
久遠はしばらくむっとしていたけれど、最後には、やっぱり一緒に笑った。
◇
「二人とも、助けようとしたことは立派だよ」
その日の夕方。
久遠となのはは、高町家の居間で並んで座らされていた。
目の前には救急箱。
なのはの膝には大きな絆創膏が貼られ、
久遠は腕の擦り傷を桃子に消毒してもらっている。
「管理人さんを呼んだのも正解。でもね」
桃子は薬を含ませた綿を、久遠の傷へそっと当てた。
「痛っ」
思わず声が出る。
「久遠君、さっき平気だって言ってなかった?」
「今のは、急だったから」
「急じゃなかったら痛くないの?」
「……少しは痛いです」
「痛いなら、痛いって言っていいんだよ」
桃子の声は、叱るというより確かめるように優しかった。
「助けた子が無事でも、久遠君の痛みがなくなるわけじゃないでしょう?」
「そうなの。久遠君、自分は平気ってすぐ言うの」
「なのはも、膝から血が出てるのに笑ってただろ」
「いまは久遠君の話なの」
「二人の話だよ」
桃子に言われ、二人とも黙った。
桃子は久遠の腕へ絆創膏を貼る。
「二人が間違っていたとは言わないよ。あのままなら、
あの子はもっと大きな怪我をしていたかもしれないもの」
なのはが顔を上げる。
「じゃあ、助けてよかったの?」
「助けられたことは、よかった」
桃子はそこで言葉を区切った。
「だけど、助けた人までいなくなったら、助けられた人が悲しむんだよ」
久遠は、泣いていた男の子を思い出した。
「助けるなら、自分もちゃんと帰ってくること。二人だけで無理なら、
大人を呼ぶこと。一人で全部決めないこと」
「……はい」
「分かったの」
「本当に?」
「本当なの」
「久遠君は?」
「分かりました」
桃子は二人の顔を交互に見てから、ようやく笑った。
「じゃあ、反省会はおしまい」
卓上へ、小さな焼き菓子の載った皿が置かれる。
「怒られた後なのに、お菓子を食べていいの?」
「ちゃんと反省した子にはね」
「桃子さんのそういうところ、好きです」
「久遠君、調子がいいの」
「なのはも、もう手を伸ばしてるだろ」
同時に焼き菓子を取ろうとした指がぶつかる。
桃子はそんな二人を見て、困ったように笑っていた。
◇
久遠が帰るころには、空が茜色に染まっていた。
高町家の門の前まで、なのはが見送りについてくる。
「久遠君」
「なに?」
「今度は、一人で決めないようにしよう」
「先に木へ登ったのは、なのはだけど」
「久遠君だって、一人で受け止めようとしたの」
「あのときは、ほかに――」
言いかけて、やめた。
言い訳を始めれば、きっとなのはも同じだけ言い返す。
「じゃあ、二人とも」
「うん。誰かを助けるときは、一人で勝手に決めない」
「助けを呼べるなら、ちゃんと呼ぶ」
「それから」
なのはが小指を差し出した。
「二人とも、ちゃんと帰ってくる」
「それは当たり前だろ」
「当たり前だから、約束するの」
真っ直ぐに見つめられ、久遠も小指を差し出した。
二人の指が絡む。
「約束なの」
「約束」
「二人なら、きっと大丈夫なの」
「たぶん」
「どうして、たぶんなの?」
「今日、二人とも怪我したから」
「次はしないの」
「じゃあ、たぶん大丈夫」
「久遠君!」
なのはが頬を膨らませる。
その顔がおかしくて、久遠は笑った。
すぐになのはも笑い出す。
傷は痛んだ。
それでも、二人とも家へ帰れた。
だからその日は、それでよかった。
◇
その夜。
なのはは、夢の中で声を聞いた。
暗い森。
傷ついた、小さな白い影。
赤い光。
そして、遠い場所から何度も届く声。
――助けて。
なのはは、その声へ手を伸ばした。
◇
同じころ、久遠も一度だけ目を覚ました。
寝返りを打った拍子に、背中の傷が痛んだからだった。
「……痛い」
教わったばかりのことを、誰もいない部屋で試してみる。
口にしても、痛みは消えなかった。
けれど、隠さなくてもいいのだと思うと、少しだけ楽になった。
久遠はもう一度、目を閉じる。
なのはへ届いた声を、久遠は聞かなかった。
それは久遠には聞こえない、最初の「助けて」だった。