魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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第十話 名前を呼ぶ声

 転送の光が消える。

 

 久遠は病院の正面玄関前に立っていた。

 

 同じ場所のはずなのに、先ほどまでとは空気が違う。

 

 車道には車が止まり、歩道には雪が積もっている。

 

 遠くから救急車の音も聞こえた。

 

 現実の街へ戻されたのだ。

 

 けれど病院だけが、黒い膜の向こうへ沈んでいた。

 

 目の前にあるのに、もう入口へ近づけない。

 

「ここで待っててくれ」

 

 隣に立つアルフが言った。

 

 いつもの犬の姿ではない。

 

 赤い髪の女性の姿で、焦ったように空を見上げている。

 

「フェイトたちのところへ戻るの?」

 

「ああ」

 

「行って」

 

 久遠は答えた。

 

「僕は大丈夫だから」

 

 アルフが視線を下げる。

 

 久遠の左肩。

 

 屋上の扉へ何度もぶつけ、柵にも打ちつけた場所だった。

 

 上着の下で熱を持ち、腕を動かすだけで痛む。

 

「その格好で大丈夫って言われてもな」

 

「骨は折れてないと思う」

 

「医者でもないのに分かるのかい」

 

「折れたことがないから、分からない」

 

「それは分かるって言わないんだよ」

 

 アルフは困った顔をした。

 

 それでも、空から響いた爆発音に耳を動かす。

 

 ここに残りたいわけではない。

 

 フェイトのところへ行きたい。

 

「本当に平気」

 

 久遠は右手を開いた。

 

 青い栞がある。

 

「はやてが帰ってきたら、渡さないといけないから」

 

「……分かった」

 

 アルフの足元に橙色の光が広がる。

 

「絶対に、結界へ近づくんじゃないよ」

 

「うん」

 

「約束できるかい」

 

「今はできる」

 

「今は、って付ける必要ある?」

 

「状況が変わるかもしれない」

 

「なのはの幼なじみだけあるね」

 

 アルフは小さく笑った。

 

 その姿が光に溶ける。

 

 久遠は一人になった。

 

 黒い膜の向こうで、また光が弾けた。

 

 白。

 

 金。

 

 赤や紫は、もう見えない。

 

「待ってるから」

 

 誰に届くはずもない言葉を口にする。

 

「みんなで帰ってきて」

 

     ◇

 

 はやてが目を覚ますと、朝だった。

 

 カーテンの隙間から、柔らかな日差しが入っている。

 

 見慣れた天井。

 

 見慣れた自分の部屋。

 

「夢……?」

 

 身体を起こす。

 

 胸は痛くない。

 

 息も苦しくない。

 

 布団から足を出し、床へ下ろす。

 

 力を入れる。

 

 はやては、自分の足で立ち上がった。

 

「立てる……」

 

 一歩。

 

 もう一歩。

 

 何かに掴まらなくても歩ける。

 

 膝は震えない。

 

 足の裏で、床の冷たさまで感じられる。

 

 ずっと望んでいたはずのことだった。

 

 それなのに、嬉しいという気持ちが少し遅れてやってきた。

 

「はやてー! 朝飯できたぞ!」

 

 階下からヴィータの声がする。

 

 はやては部屋を飛び出した。

 

 階段を、自分の足で駆け下りる。

 

 台所には家族がいた。

 

 シャマルが朝食を並べ。

 

 シグナムが湯気の立つ茶を淹れ。

 

 ザフィーラが窓際で新聞を読んでいる。

 

 ヴィータはつまみ食いをして、シャマルに手を叩かれていた。

 

「みんな……」

 

「どうした、はやて」

 

 ヴィータが振り向く。

 

「何で泣いてんだ?」

 

 はやてはヴィータへ駆け寄った。

 

 小さな身体を抱きしめる。

 

「うわっ、急になんだよ」

 

「おる……」

 

「いるに決まってんだろ」

 

「みんな、おるんやね」

 

「当たり前だ」

 

 シグナムが微笑む。

 

「我らは主はやての守護騎士。どこへも参りません」

 

「そうですよ」

 

 シャマルがはやての頭を撫でる。

 

「もう病気も治ったんです。これからは、ずっと一緒です」

 

 ずっと一緒。

 

 もう誰もいなくならない。

 

 望んでいた言葉だった。

 

「そうやね」

 

 はやては涙を拭った。

 

「ずっと、一緒や」

 

     ◇

 

 黒い雲の中で、なのははレイジングハートを構えた。

 

 銀色の髪を持つ女性は、もうはやての呼びかけに応えない。

 

 虚ろな瞳で夜空を見つめ、機械のように魔法を放ち続けている。

 

『主の保護を継続』

 

 冷たい声が響く。

 

『外敵の排除を実行』

 

「わたしたちは、はやてちゃんの敵じゃない!」

 

 なのはの声に反応はない。

 

 黒い魔力弾が、数え切れないほど現れる。

 

『Divine Buster.』

 

 桜色の砲撃が夜を切り裂いた。

 

 魔力弾を飲み込み、そのまま銀髪の女性へ届く。

 

 だが、幾重もの障壁に阻まれた。

 

「硬い……!」

 

『なのは!』

 

 クロノの声が通信へ入る。

 

『それは闇の書の管制人格だ。だが、既に防御プログラムの侵食を受けている』

 

「はやてちゃんは?」

 

『内部に取り込まれている。おそらく、精神ごと』

 

「呼べば聞こえる?」

 

『保証はできない』

 

「聞こえなくても呼ぶよ」

 

 なのははレイジングハートを握り直した。

 

「約束したから」

 

 久遠と。

 

 必ず、はやてを連れて帰ると。

 

「はやてちゃん!」

 

 なのはの声が、黒い雲へ吸い込まれる。

 

「聞こえてるなら返事をして!」

 

 返ってきたのは、さらに大きな砲撃だった。

 

     ◇

 

 朝食の後、はやては居間で料理の本を開いていた。

 

 病院で久遠にもらった外国料理の本。

 

 文字は相変わらず読めない。

 

 けれど写真を見るだけなら楽しかった。

 

「これ、今度作ってみよか」

 

「また読めねえ本かよ」

 

 隣からヴィータが覗き込む。

 

「写真があるから何とかなる」

 

「前も聞いたぞ、それ」

 

「ほんなら、久遠君に読んでもらおう」

 

「誰だ、それ」

 

 頁をめくろうとした指が止まる。

 

「誰って……久遠君や」

 

「だから、誰だよ」

 

 ヴィータは本当に知らない顔をしていた。

 

「図書館で会うとった友達。病院にも何度も来てくれたやろ」

 

「そんな奴いたか?」

 

「ヴィータが最初に会うたとき、女の子と間違えた子や」

 

「あたしが間違えるわけねえだろ」

 

 笑いながら答える。

 

 冗談を言っている様子ではない。

 

「この本かて、久遠君にもろたんやで」

 

「それ、はやてが自分で買った本じゃねえの?」

 

 はやては表紙を見る。

 

 いつ、どこで受け取ったのか。

 

 記憶は確かにある。

 

 病室へ久遠とすずかが来た。

 

 写真を見た。

 

 退院したら一緒に料理を作ろうと話した。

 

 青い栞を挟んだ。

 

 はやては頁の間を探した。

 

 どこにもない。

 

「栞は?」

 

「栞?」

 

「青い栞。久遠君がくれた、大事なもんや」

 

「そんなもん、最初からなかったぞ」

 

 ヴィータが言う。

 

 その瞬間。

 

 窓の外の日差しが揺れた。

 

 明るい朝が、黒い水面のように歪む。

 

「違う」

 

 はやては立ち上がった。

 

「何がだ?」

 

「ヴィータは、あの栞をなくさんように本へ挟んでくれた」

 

「知らねえよ」

 

「知っとる」

 

 はやてはヴィータを見る。

 

 大好きな家族と同じ顔。

 

 同じ声。

 

 同じ赤い髪。

 

 それでも違う。

 

「ヴィータは、私の大事なもんを雑に扱ったりせえへん」

 

「はやて?」

 

「それに、久遠君のことを忘れたりもせえへん」

 

 ヴィータの笑顔が止まる。

 

「ここは、どこなん」

 

 答えはない。

 

 居間の壁が黒く染まっていく。

 

 朝食の皿も。

 

 窓も。

 

 家族の姿も。

 

 一つずつ、黒い頁へ変わる。

 

『ここは、あなたの望んだ世界』

 

 別の声がした。

 

 はやて自身によく似た声だった。

 

『病はない』

 

『失った者もいない』

 

『あなたは歩ける』

 

『誰も、あなたを置いていかない』

 

「せやな」

 

 はやては、自分の足を見る。

 

 まっすぐ立っている。

 

 痛みもない。

 

「私が欲しかったもん、全部ある」

 

『ならば、眠りなさい』

 

『ここで永遠に幸福であればいい』

 

「嫌や」

 

 はやては答えた。

 

 迷わなかった。

 

「私が欲しかったんは、言うことを何でも聞いてくれる家族やない」

 

 目の前に、ヴィータたちの姿がもう一度現れる。

 

 全員が笑っている。

 

「失敗して、喧嘩して、隠し事までして」

 

 はやては少しだけ笑った。

 

「それでも帰ってきてくれる、あの子らや」

 

『彼らは消えた』

 

「まだ消えとらん」

 

『その根拠はない』

 

「ある」

 

 はやては胸へ手を当てる。

 

「私は、あの子らの主や」

 

 魔法のことなど知らなかった。

 

 主として何ができるのかも分からない。

 

 それでも、家族が本当に消えたのなら。

 

 胸の中が、こんなに温かいはずはないと思った。

 

「それにな」

 

 久遠の声を思い出す。

 

 壊れた扉の向こうから、何度も名前を呼んでいた。

 

 一人で決めるな。

 

 一人で諦めるな。

 

 僕たちに話して。

 

「外で待っとる友達がおる」

 

『外へ戻れば、痛みがある』

 

「知っとる」

 

『足は動かない』

 

「それでもええ」

 

『家族が犯した罪を知ることになる』

 

「一緒に背負う」

 

『あなたは、また失う』

 

 はやては息を吸った。

 

 怖くないわけではなかった。

 

 この世界に残れば、誰も失わない。

 

 痛みもない。

 

 けれど、ここにいる家族は、はやてが望んだ言葉しか話さない。

 

 それは一緒にいることではない。

 

 ただ、一人で見ている夢だった。

 

「届かんときは、助けてもろたらええ」

 

 図書館で、久遠に言った言葉。

 

 今度は自分へ言い聞かせる。

 

「一人で無理なら、みんなに助けてもらう」

 

『誰に』

 

「決まっとる」

 

 はやては、一人ずつ名前を呼んだ。

 

「ヴィータ」

 

 赤い光が灯る。

 

「シグナム」

 

 紫の光が続く。

 

「シャマル」

 

 緑の光。

 

「ザフィーラ」

 

 青い光。

 

 四つの光が、はやての周囲へ集まった。

 

『守護騎士システムを再認識』

 

 声が揺らぐ。

 

『復元は推奨されない』

 

「命令や」

 

 はやては初めて、主として告げた。

 

「みんな、私のところへ帰ってきて」

 

 四つの光が人の形を作る。

 

 ヴィータが。

 

 シグナムが。

 

 シャマルが。

 

 ザフィーラが。

 

 はやての前で膝をつく。

 

「主、はやて」

 

 シグナムが顔を上げる。

 

「ご命令を」

 

「まず、全員帰ったら説教や」

 

「はやて……」

 

 ヴィータの目に涙が浮かぶ。

 

「勝手に私のために消えようとした罰や。誰一人、逃がさへんからな」

 

「……うん」

 

「返事は、はい」

 

「はい……!」

 

 ヴィータが泣きながら笑った。

 

     ◇

 

 病院前で、久遠は空を見上げ続けていた。

 

 何が起きているのか分からない。

 

 通信機もない。

 

 携帯電話は圏外のまま。

 

 見えるのは、黒い膜と、その向こうで瞬く光だけ。

 

 肩の痛みが強くなっている。

 

 雪が髪と上着へ積もっていた。

 

 それでも、病院から離れなかった。

 

「高町なのは」

 

 名前を呼ぶ。

 

 なのはが、そこにいることを忘れないために。

 

「フェイト・テスタロッサ」

 

 金色の光は、しばらく見えていない。

 

 それでも、帰ってくると信じるために。

 

「八神はやて」

 

 黒い膜の中心にいる友達。

 

「ヴィータ」

 

「シグナム」

 

「シャマル」

 

「ザフィーラ」

 

 名前を知っている。

 

 だから、全員を待てる。

 

 一人でも欠ければ分かる。

 

 帰ってこなければ、何度でも捜せる。

 

 名前は、そこにいたことを残すためのものだった。

 

「全員、帰ってこい」

 

 黒い膜が大きく脈打った。

 

 次の瞬間。

 

 夜空に白い光が生まれた。

 

 なのはの桜色とは違う。

 

 雪よりも白く。

 

 夜明けのように静かな光。

 

     ◇

 

 四人の守護騎士が戻っても、声の主は消えなかった。

 

 はやての前に、銀色の髪を持つ女性が立っている。

 

 屋上で見た姿と同じ。

 

 けれど、今は瞳にはやてを映していた。

 

『主よ』

 

 女性が静かに告げる。

 

『防御プログラムの侵食は、既に分離不能な段階にあります』

 

「あんたも、闇の書なん?」

 

『私は、闇の書の管制人格』

 

『主を守り、頁を管理し、蒐集した力を行使するもの』

 

「名前は?」

 

『名称は、闇の書』

 

「それは本の名前やろ」

 

『私と書は、同一です』

 

「でも、あんたは今、私と話しとる」

 

 女性は答えなかった。

 

「痛いん?」

 

『理解できません』

 

「苦しいん?」

 

『理解できません』

 

「消えたい?」

 

『私は、主を守ります』

 

 どの問いにも、自分のことを答えない。

 

 主を守る。

 

 その命令だけで存在している。

 

 それが、はやてには悲しかった。

 

「あんたも一緒に帰ろう」

 

『不可能です』

 

「まだ決めつけたらあかん」

 

『私は壊れています』

 

「壊れとっても、話はできる」

 

『いずれ、主を侵食します』

 

「ほんなら、悪いところだけ切り離す方法を探す」

 

『存在しません』

 

「今は、やろ」

 

 はやては手を差し出した。

 

「あんたが何者か、これから決めたらええ」

 

 銀髪の女性が、その手を見る。

 

『私には、名がありません』

 

「せやったら、私がつける」

 

 はやては考えた。

 

 過去を縛るためではない。

 

 これから一緒に歩くための名前。

 

「リインフォース」

 

 その音を口にする。

 

「あんたは、リインフォースや」

 

『リインフォース』

 

 女性が初めて、命令ではない言葉を繰り返した。

 

「うん。私らを支えてくれる、新しい家族の名前や」

 

『家族』

 

「一緒に帰ろう」

 

 リインフォースは、はやての手を取った。

 

 その指先は冷たかった。

 

 けれど、確かに握り返した。

 

『承知しました。我が主』

 

「はやてでええよ」

 

『……はい。はやて』

 

 世界に亀裂が走る。

 

 黒い頁で作られた偽りの朝が砕けていく。

 

 その向こうに、本当の夜が見えた。

 

 傷ついたなのは。

 

 闇へ囚われたフェイト。

 

 外で待つ久遠。

 

 まだ誰も帰れていない。

 

「行こか、リインフォース」

 

『はい』

 

「みんなで、うちへ帰るんや」

 

     ◇

 

 黒い膜が内側から破裂した。

 

 白い光の柱が、雲を貫く。

 

 その中心から、小さな少女が現れる。

 

 白い騎士甲冑。

 

 背中に広がる六枚の翼。

 

 手には十字の杖。

 

 その周囲を、四つの光が守っている。

 

「はやて……」

 

 病院前で、久遠が名前を呼ぶ。

 

 声が届く距離ではない。

 

 それでも、白い光の中の少女が一瞬だけ地上を見た。

 

 目が合った気がした。

 

 はやての唇が動く。

 

 ――待ってて。

 

 そう言ったように見えた。

 

 久遠は青い栞を握りしめる。

 

「うん」

 

 今度は追いかけなかった。

 

 ここに残る。

 

 帰る場所を守る。

 

 それが今、久遠にできることだった。

 

 空では、はやての隣に銀髪の女性が立っている。

 

 もう闇の書ではない。

 

 名を与えられた、一人の家族。

 

 リインフォース。

 

 けれど、長い夜はまだ終わっていなかった。

 

 白い光から切り離された黒い塊が、街の上空で膨れ上がっていく。

 

 主の命令さえ聞かない、壊れた防御プログラム。

 

 巨大な影が、無数の触手を夜空へ伸ばす。

 

 はやてが杖を構えた。

 

 なのはが隣へ並ぶ。

 

 闇の中から金色の光が戻り、フェイトも姿を現す。

 

 守護騎士たちが、それぞれの武器を手に取る。

 

 誰一人、欠けていない。

 

 久遠には、戦う力がない。

 

 それでも今度は、置いていかれたとは思わなかった。

 

 待つと決めたのは、自分だった。

 

 戻ってくると信じることも、自分で選んだ。

 

「行ってらっしゃい」

 

 久遠は、闇へ向かうみんなの背中へ告げた。

 

「帰ってきたら、おかえりって言うから」

 

 白、金、赤、紫、緑、青。

 

 そして夜天を照らす、もう一つの白。

 

 幾つもの光が、巨大な闇へ向かって飛んでいった。

 

 名前を呼べば、返事をしてくれる人がいる。

 

 帰る場所で、待っている人がいる。

 

 そのことを知った夜。

 

 闇の書という名は終わり。

 

 リインフォースという、新しい名前が始まった。

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