転送の光が消える。
久遠は病院の正面玄関前に立っていた。
同じ場所のはずなのに、先ほどまでとは空気が違う。
車道には車が止まり、歩道には雪が積もっている。
遠くから救急車の音も聞こえた。
現実の街へ戻されたのだ。
けれど病院だけが、黒い膜の向こうへ沈んでいた。
目の前にあるのに、もう入口へ近づけない。
「ここで待っててくれ」
隣に立つアルフが言った。
いつもの犬の姿ではない。
赤い髪の女性の姿で、焦ったように空を見上げている。
「フェイトたちのところへ戻るの?」
「ああ」
「行って」
久遠は答えた。
「僕は大丈夫だから」
アルフが視線を下げる。
久遠の左肩。
屋上の扉へ何度もぶつけ、柵にも打ちつけた場所だった。
上着の下で熱を持ち、腕を動かすだけで痛む。
「その格好で大丈夫って言われてもな」
「骨は折れてないと思う」
「医者でもないのに分かるのかい」
「折れたことがないから、分からない」
「それは分かるって言わないんだよ」
アルフは困った顔をした。
それでも、空から響いた爆発音に耳を動かす。
ここに残りたいわけではない。
フェイトのところへ行きたい。
「本当に平気」
久遠は右手を開いた。
青い栞がある。
「はやてが帰ってきたら、渡さないといけないから」
「……分かった」
アルフの足元に橙色の光が広がる。
「絶対に、結界へ近づくんじゃないよ」
「うん」
「約束できるかい」
「今はできる」
「今は、って付ける必要ある?」
「状況が変わるかもしれない」
「なのはの幼なじみだけあるね」
アルフは小さく笑った。
その姿が光に溶ける。
久遠は一人になった。
黒い膜の向こうで、また光が弾けた。
白。
金。
赤や紫は、もう見えない。
「待ってるから」
誰に届くはずもない言葉を口にする。
「みんなで帰ってきて」
◇
はやてが目を覚ますと、朝だった。
カーテンの隙間から、柔らかな日差しが入っている。
見慣れた天井。
見慣れた自分の部屋。
「夢……?」
身体を起こす。
胸は痛くない。
息も苦しくない。
布団から足を出し、床へ下ろす。
力を入れる。
はやては、自分の足で立ち上がった。
「立てる……」
一歩。
もう一歩。
何かに掴まらなくても歩ける。
膝は震えない。
足の裏で、床の冷たさまで感じられる。
ずっと望んでいたはずのことだった。
それなのに、嬉しいという気持ちが少し遅れてやってきた。
「はやてー! 朝飯できたぞ!」
階下からヴィータの声がする。
はやては部屋を飛び出した。
階段を、自分の足で駆け下りる。
台所には家族がいた。
シャマルが朝食を並べ。
シグナムが湯気の立つ茶を淹れ。
ザフィーラが窓際で新聞を読んでいる。
ヴィータはつまみ食いをして、シャマルに手を叩かれていた。
「みんな……」
「どうした、はやて」
ヴィータが振り向く。
「何で泣いてんだ?」
はやてはヴィータへ駆け寄った。
小さな身体を抱きしめる。
「うわっ、急になんだよ」
「おる……」
「いるに決まってんだろ」
「みんな、おるんやね」
「当たり前だ」
シグナムが微笑む。
「我らは主はやての守護騎士。どこへも参りません」
「そうですよ」
シャマルがはやての頭を撫でる。
「もう病気も治ったんです。これからは、ずっと一緒です」
ずっと一緒。
もう誰もいなくならない。
望んでいた言葉だった。
「そうやね」
はやては涙を拭った。
「ずっと、一緒や」
◇
黒い雲の中で、なのははレイジングハートを構えた。
銀色の髪を持つ女性は、もうはやての呼びかけに応えない。
虚ろな瞳で夜空を見つめ、機械のように魔法を放ち続けている。
『主の保護を継続』
冷たい声が響く。
『外敵の排除を実行』
「わたしたちは、はやてちゃんの敵じゃない!」
なのはの声に反応はない。
黒い魔力弾が、数え切れないほど現れる。
『Divine Buster.』
桜色の砲撃が夜を切り裂いた。
魔力弾を飲み込み、そのまま銀髪の女性へ届く。
だが、幾重もの障壁に阻まれた。
「硬い……!」
『なのは!』
クロノの声が通信へ入る。
『それは闇の書の管制人格だ。だが、既に防御プログラムの侵食を受けている』
「はやてちゃんは?」
『内部に取り込まれている。おそらく、精神ごと』
「呼べば聞こえる?」
『保証はできない』
「聞こえなくても呼ぶよ」
なのははレイジングハートを握り直した。
「約束したから」
久遠と。
必ず、はやてを連れて帰ると。
「はやてちゃん!」
なのはの声が、黒い雲へ吸い込まれる。
「聞こえてるなら返事をして!」
返ってきたのは、さらに大きな砲撃だった。
◇
朝食の後、はやては居間で料理の本を開いていた。
病院で久遠にもらった外国料理の本。
文字は相変わらず読めない。
けれど写真を見るだけなら楽しかった。
「これ、今度作ってみよか」
「また読めねえ本かよ」
隣からヴィータが覗き込む。
「写真があるから何とかなる」
「前も聞いたぞ、それ」
「ほんなら、久遠君に読んでもらおう」
「誰だ、それ」
頁をめくろうとした指が止まる。
「誰って……久遠君や」
「だから、誰だよ」
ヴィータは本当に知らない顔をしていた。
「図書館で会うとった友達。病院にも何度も来てくれたやろ」
「そんな奴いたか?」
「ヴィータが最初に会うたとき、女の子と間違えた子や」
「あたしが間違えるわけねえだろ」
笑いながら答える。
冗談を言っている様子ではない。
「この本かて、久遠君にもろたんやで」
「それ、はやてが自分で買った本じゃねえの?」
はやては表紙を見る。
いつ、どこで受け取ったのか。
記憶は確かにある。
病室へ久遠とすずかが来た。
写真を見た。
退院したら一緒に料理を作ろうと話した。
青い栞を挟んだ。
はやては頁の間を探した。
どこにもない。
「栞は?」
「栞?」
「青い栞。久遠君がくれた、大事なもんや」
「そんなもん、最初からなかったぞ」
ヴィータが言う。
その瞬間。
窓の外の日差しが揺れた。
明るい朝が、黒い水面のように歪む。
「違う」
はやては立ち上がった。
「何がだ?」
「ヴィータは、あの栞をなくさんように本へ挟んでくれた」
「知らねえよ」
「知っとる」
はやてはヴィータを見る。
大好きな家族と同じ顔。
同じ声。
同じ赤い髪。
それでも違う。
「ヴィータは、私の大事なもんを雑に扱ったりせえへん」
「はやて?」
「それに、久遠君のことを忘れたりもせえへん」
ヴィータの笑顔が止まる。
「ここは、どこなん」
答えはない。
居間の壁が黒く染まっていく。
朝食の皿も。
窓も。
家族の姿も。
一つずつ、黒い頁へ変わる。
『ここは、あなたの望んだ世界』
別の声がした。
はやて自身によく似た声だった。
『病はない』
『失った者もいない』
『あなたは歩ける』
『誰も、あなたを置いていかない』
「せやな」
はやては、自分の足を見る。
まっすぐ立っている。
痛みもない。
「私が欲しかったもん、全部ある」
『ならば、眠りなさい』
『ここで永遠に幸福であればいい』
「嫌や」
はやては答えた。
迷わなかった。
「私が欲しかったんは、言うことを何でも聞いてくれる家族やない」
目の前に、ヴィータたちの姿がもう一度現れる。
全員が笑っている。
「失敗して、喧嘩して、隠し事までして」
はやては少しだけ笑った。
「それでも帰ってきてくれる、あの子らや」
『彼らは消えた』
「まだ消えとらん」
『その根拠はない』
「ある」
はやては胸へ手を当てる。
「私は、あの子らの主や」
魔法のことなど知らなかった。
主として何ができるのかも分からない。
それでも、家族が本当に消えたのなら。
胸の中が、こんなに温かいはずはないと思った。
「それにな」
久遠の声を思い出す。
壊れた扉の向こうから、何度も名前を呼んでいた。
一人で決めるな。
一人で諦めるな。
僕たちに話して。
「外で待っとる友達がおる」
『外へ戻れば、痛みがある』
「知っとる」
『足は動かない』
「それでもええ」
『家族が犯した罪を知ることになる』
「一緒に背負う」
『あなたは、また失う』
はやては息を吸った。
怖くないわけではなかった。
この世界に残れば、誰も失わない。
痛みもない。
けれど、ここにいる家族は、はやてが望んだ言葉しか話さない。
それは一緒にいることではない。
ただ、一人で見ている夢だった。
「届かんときは、助けてもろたらええ」
図書館で、久遠に言った言葉。
今度は自分へ言い聞かせる。
「一人で無理なら、みんなに助けてもらう」
『誰に』
「決まっとる」
はやては、一人ずつ名前を呼んだ。
「ヴィータ」
赤い光が灯る。
「シグナム」
紫の光が続く。
「シャマル」
緑の光。
「ザフィーラ」
青い光。
四つの光が、はやての周囲へ集まった。
『守護騎士システムを再認識』
声が揺らぐ。
『復元は推奨されない』
「命令や」
はやては初めて、主として告げた。
「みんな、私のところへ帰ってきて」
四つの光が人の形を作る。
ヴィータが。
シグナムが。
シャマルが。
ザフィーラが。
はやての前で膝をつく。
「主、はやて」
シグナムが顔を上げる。
「ご命令を」
「まず、全員帰ったら説教や」
「はやて……」
ヴィータの目に涙が浮かぶ。
「勝手に私のために消えようとした罰や。誰一人、逃がさへんからな」
「……うん」
「返事は、はい」
「はい……!」
ヴィータが泣きながら笑った。
◇
病院前で、久遠は空を見上げ続けていた。
何が起きているのか分からない。
通信機もない。
携帯電話は圏外のまま。
見えるのは、黒い膜と、その向こうで瞬く光だけ。
肩の痛みが強くなっている。
雪が髪と上着へ積もっていた。
それでも、病院から離れなかった。
「高町なのは」
名前を呼ぶ。
なのはが、そこにいることを忘れないために。
「フェイト・テスタロッサ」
金色の光は、しばらく見えていない。
それでも、帰ってくると信じるために。
「八神はやて」
黒い膜の中心にいる友達。
「ヴィータ」
「シグナム」
「シャマル」
「ザフィーラ」
名前を知っている。
だから、全員を待てる。
一人でも欠ければ分かる。
帰ってこなければ、何度でも捜せる。
名前は、そこにいたことを残すためのものだった。
「全員、帰ってこい」
黒い膜が大きく脈打った。
次の瞬間。
夜空に白い光が生まれた。
なのはの桜色とは違う。
雪よりも白く。
夜明けのように静かな光。
◇
四人の守護騎士が戻っても、声の主は消えなかった。
はやての前に、銀色の髪を持つ女性が立っている。
屋上で見た姿と同じ。
けれど、今は瞳にはやてを映していた。
『主よ』
女性が静かに告げる。
『防御プログラムの侵食は、既に分離不能な段階にあります』
「あんたも、闇の書なん?」
『私は、闇の書の管制人格』
『主を守り、頁を管理し、蒐集した力を行使するもの』
「名前は?」
『名称は、闇の書』
「それは本の名前やろ」
『私と書は、同一です』
「でも、あんたは今、私と話しとる」
女性は答えなかった。
「痛いん?」
『理解できません』
「苦しいん?」
『理解できません』
「消えたい?」
『私は、主を守ります』
どの問いにも、自分のことを答えない。
主を守る。
その命令だけで存在している。
それが、はやてには悲しかった。
「あんたも一緒に帰ろう」
『不可能です』
「まだ決めつけたらあかん」
『私は壊れています』
「壊れとっても、話はできる」
『いずれ、主を侵食します』
「ほんなら、悪いところだけ切り離す方法を探す」
『存在しません』
「今は、やろ」
はやては手を差し出した。
「あんたが何者か、これから決めたらええ」
銀髪の女性が、その手を見る。
『私には、名がありません』
「せやったら、私がつける」
はやては考えた。
過去を縛るためではない。
これから一緒に歩くための名前。
「リインフォース」
その音を口にする。
「あんたは、リインフォースや」
『リインフォース』
女性が初めて、命令ではない言葉を繰り返した。
「うん。私らを支えてくれる、新しい家族の名前や」
『家族』
「一緒に帰ろう」
リインフォースは、はやての手を取った。
その指先は冷たかった。
けれど、確かに握り返した。
『承知しました。我が主』
「はやてでええよ」
『……はい。はやて』
世界に亀裂が走る。
黒い頁で作られた偽りの朝が砕けていく。
その向こうに、本当の夜が見えた。
傷ついたなのは。
闇へ囚われたフェイト。
外で待つ久遠。
まだ誰も帰れていない。
「行こか、リインフォース」
『はい』
「みんなで、うちへ帰るんや」
◇
黒い膜が内側から破裂した。
白い光の柱が、雲を貫く。
その中心から、小さな少女が現れる。
白い騎士甲冑。
背中に広がる六枚の翼。
手には十字の杖。
その周囲を、四つの光が守っている。
「はやて……」
病院前で、久遠が名前を呼ぶ。
声が届く距離ではない。
それでも、白い光の中の少女が一瞬だけ地上を見た。
目が合った気がした。
はやての唇が動く。
――待ってて。
そう言ったように見えた。
久遠は青い栞を握りしめる。
「うん」
今度は追いかけなかった。
ここに残る。
帰る場所を守る。
それが今、久遠にできることだった。
空では、はやての隣に銀髪の女性が立っている。
もう闇の書ではない。
名を与えられた、一人の家族。
リインフォース。
けれど、長い夜はまだ終わっていなかった。
白い光から切り離された黒い塊が、街の上空で膨れ上がっていく。
主の命令さえ聞かない、壊れた防御プログラム。
巨大な影が、無数の触手を夜空へ伸ばす。
はやてが杖を構えた。
なのはが隣へ並ぶ。
闇の中から金色の光が戻り、フェイトも姿を現す。
守護騎士たちが、それぞれの武器を手に取る。
誰一人、欠けていない。
久遠には、戦う力がない。
それでも今度は、置いていかれたとは思わなかった。
待つと決めたのは、自分だった。
戻ってくると信じることも、自分で選んだ。
「行ってらっしゃい」
久遠は、闇へ向かうみんなの背中へ告げた。
「帰ってきたら、おかえりって言うから」
白、金、赤、紫、緑、青。
そして夜天を照らす、もう一つの白。
幾つもの光が、巨大な闇へ向かって飛んでいった。
名前を呼べば、返事をしてくれる人がいる。
帰る場所で、待っている人がいる。
そのことを知った夜。
闇の書という名は終わり。
リインフォースという、新しい名前が始まった。