夜空を覆う黒い塊へ、いくつもの光が突き進んでいった。
久遠は地上から見上げていた。
最初に届いたのは音だった。
空気を震わせる轟音。
遅れて、白い光が夜を塗りつぶす。
病院の窓が細かく鳴った。
久遠は反射的に入口を振り返る。
待合室には、結界が解けたことで戻ってきた患者や職員がいる。
何が起きているのか分からず、立ち尽くす人。
泣いている子供。
停電した照明を確かめる看護師。
空を見ているだけではいけない。
「窓から離れてください!」
久遠は声を上げた。
「何か飛んでくるかもしれません。廊下の内側へ!」
魔法のことは説明できない。
説明している時間もない。
久遠は泣いている子供の手を取り、窓のない場所まで連れていく。
転んだ老人へ椅子を運ぶ。
散らばった荷物を通路の端へ寄せる。
看護師が避難を呼びかけ始めた。
久遠はその指示に従いながら、何度も外を見る。
赤い光が黒い触手を打ち砕く。
紫の刃が闇を切り裂く。
金色の光が、その亀裂を駆け抜ける。
白い砲撃が巨大な影を押し返した。
誰の光なのか、久遠には分かった。
「なのは」
白。
「フェイト」
金。
「ヴィータ。シグナム。シャマル。ザフィーラ」
赤、紫、緑、青。
そして、そのすべてを包む夜天の白。
「はやて」
名前を呼ぶ。
返事は聞こえない。
それでも、誰がまだ戦っているのか分かる。
光が消えていないから。
久遠は胸元を押さえた。
青い栞は、上着の内ポケットに入れてある。
折れていない。
なくしていない。
はやてへ返すものが、ここにある。
「みんな、帰ってくる」
自分へ言い聞かせる。
信じることは、何もしないことではない。
帰ってきた人を迎えられるように、今いる場所を守る。
怪我をしていたら手当てする。
助けが必要なら大人を呼ぶ。
魔法がなくても、できることはある。
そう教えてくれた人たちが、空で戦っている。
◇
防御プログラムは、攻撃されるたびに形を変えた。
砕かれた場所から、別の腕が生える。
切り離された黒い肉が、獣のような形となって襲いかかる。
倒しても。
凍らせても。
焼き払っても。
取り込んだ力を使い、何度でも再生する。
「ほんま、しつこいなあ」
はやては杖を構えたまま、息を吐いた。
隣に立つリインフォースが、静かに答える。
「壊れた命令が、自らを守れと繰り返しています。止まる理由を持たないのです」
「ほんなら、うちらで止める」
「はい」
「これ以上、誰も傷つけさせへん」
なのはとフェイトが左右へ分かれる。
守護騎士たちが四方から黒い塊を押さえ込む。
クロノから通信が入った。
ここで完全に消し去るには、街から引き離さなければならない。
逃げ場のない場所へ転送し、凍結させ、一撃で破壊する。
失敗すれば、また再生する。
「一度きりやな」
「怖い?」
フェイトが尋ねる。
「怖いよ」
はやては笑った。
「せやけど、一人やないから」
なのはも笑い返す。
「うん」
黒い腕が伸びる。
ヴィータの鉄槌が正面から受け止めた。
「主はやて! あたしたちが道を開ける!」
「頼んだで!」
鉄槌が振り抜かれる。
シグナムの炎が走る。
ザフィーラの鎖が巨体を縛り、シャマルの風が黒い霧を吹き払う。
開いた中心へ、なのはとフェイトの光が突き刺さった。
白と金の奔流が、防御プログラムを空高く押し上げていく。
はやてが杖を掲げた。
足元に巨大な魔法陣が広がる。
夜天の光が集まり、凍りついた空気さえ震わせた。
「これで、終わりや!」
光が放たれる。
黒い巨体が、転送の光へ呑み込まれた。
遠く離れた海上。
待ち構えていた氷結の魔法が、その動きを一瞬だけ止める。
その一瞬へ、巡航艦の主砲が撃ち込まれた。
音のない閃光が、水平線の向こうで膨れ上がる。
黒い影が崩れる。
塊がほどける。
蒐集された魔力が光の粒となり、夜へ散っていく。
「反応、消失」
クロノの声が届いた。
「防御プログラムの消滅を確認した」
誰も、すぐには声を上げなかった。
本当に終わったのかを確かめるように、静かになった空を見つめる。
やがて、ヴィータが大きく息を吐いた。
「終わった……」
はやては頷く。
「うん。終わったんや」
その隣で、リインフォースだけが海上へ目を向けていた。
消えたのは、暴走した防御プログラム。
切り離された機能。
壊れた器。
けれど、長い年月の中で書き込まれた命令のすべてが、今の一撃に含まれていたのか。
彼女にも、それを確かめる術はなかった。
閃光の端で。
一片の黒い頁が、光に焼かれながら裂けた。
魔力反応さえ持たないほど小さな欠片。
誰の目にも留まらず。
それは夜の風へ紛れ、街の方角へ落ちていった。
◇
病院前の空へ、最初に降りてきたのはなのはだった。
騎士甲冑は傷つき、頬には煤がついている。
それでも、自分の足で立っている。
「久遠君」
「おかえり、なのは」
久遠は約束どおりに言った。
なのはの顔が、泣きそうに歪む。
「……ただいま」
続いて、金色の光が降りる。
「おかえり、フェイト」
「ただいま、久遠」
ヴィータが着地する。
久遠は名前を呼ぶ。
「おかえり、ヴィータ」
「おう」
「ただいま、は?」
「うるせえな。……ただいま」
シグナム。
シャマル。
ザフィーラ。
一人ずつ降りるたびに、久遠は同じ言葉を伝えた。
誰も欠けていない。
最後に、白い翼がゆっくりと降りてくる。
リインフォースに支えられたはやてが、久遠の前へ着地した。
「久遠君」
「おかえり、はやて」
「……ただいま」
はやてが両腕を伸ばす。
久遠は一瞬迷ってから、その身体を抱きしめた。
軽かった。
けれど、温かい。
ちゃんと、生きて帰ってきた。
「待っててくれたんやな」
「約束したから」
「怖くなかった?」
「怖かったよ」
「そっか」
「でも、待てた」
久遠は上着の内側から青い栞を取り出した。
端が少しだけ曲がっている。
けれど、破れてはいない。
「これも、おかえり」
はやては栞を両手で受け取った。
「ただいま」
今度は、栞へ答える。
「ちゃんと持っててくれたんやね」
「なくしたら、はやてに怒られるから」
「当たり前や。大事なもんなんやから」
「知ってる」
はやては栞を胸元へ寄せた。
その後ろに、銀髪の女性が立っている。
久遠は彼女を見る。
初めて会うはずなのに、初めてではない気がした。
あの闇の中から、はやてを連れ戻した人。
「あなたが、リインフォース?」
「はい」
女性は静かに頷いた。
「我が主より賜った名です」
久遠は少し考えた。
「おかえり、リインフォース」
リインフォースが目を見開く。
「私にも、ですか」
「一緒に行っただろ」
「ですが、私は今夜生まれたばかりです」
「じゃあ、初めましても言う」
久遠は手を差し出した。
「おかえり。初めまして、リインフォース」
銀髪の女性は、その手を見つめた。
やがて、おそるおそる握り返す。
「……ただいま。初めまして、久遠」
その手は冷たかった。
はやてと帰ってきたのに。
久遠は、その冷たさを覚えていた。
◇
夜が明ける頃。
はやては検査のため、病室で眠っていた。
守護騎士たちは、そのそばを離れない。
なのはとフェイトも椅子に座ったまま眠っている。
久遠は眠れず、廊下の窓から白み始めた空を見ていた。
「休まないのですか」
背後から声をかけられる。
リインフォースだった。
「あなたこそ」
「私は、眠りを必要としません」
「便利だね」
「以前は、そうでした」
その答えが気になり、久遠は振り返る。
リインフォースの姿は、夜空で見たときより薄く見えた。
朝の光が透けているようだった。
「消えるの?」
久遠は尋ねた。
リインフォースは否定しなかった。
「主との分離には成功しました。ですが、私の根幹には、破損した部分が多く残っています」
「直せないの」
「今の技術では、完全には」
「完全じゃなくてもいい」
「私が存在し続ければ、いずれ再び主の命を蝕む可能性があります」
久遠は唇を噛んだ。
「可能性なんだろ」
「はい」
「だったら、すぐに決めなくても」
「久遠」
穏やかな声だった。
それが、余計に腹立たしかった。
「また一人で決めるの」
「いいえ」
リインフォースは病室の扉を見る。
「はやては、知っています」
「知ってる?」
「私から、すべてを話しました。残る危険も。消えるという選択も」
「はやては何て」
「泣きました。怒りました。何度も別の道を探しました」
閉じた扉の向こうから、眠る人たちの気配がする。
「それでも最後は、私の選択を一緒に背負うと言ってくれました」
一人で決めない。
一人で諦めない。
けれど、話したからといって、必ず助かるわけではない。
みんなで考えても、救えないことはある。
久遠は、その事実を認めたくなかった。
「名前をもらったのに」
「はい」
「家族になったばかりなのに」
「はい」
「それなのに、いなくなるの」
「名前は、永遠を約束するものではありません」
リインフォースは窓の外へ目を向けた。
暗かった空に、朝の色が広がっていく。
「名前は始まりになります」
彼女は、自分の名を確かめるように胸へ手を当てた。
「過去を縛る鎖にも」
一度、言葉を切る。
「未来へ進む道標にもなる」
「未来がない人にも?」
「未来の長さを決めるのは、時間だけではありません」
リインフォースは微笑んだ。
「私はこの名を得たことで、壊れた魔導書として終わるのではなく、はやての家族として別れを選べます」
「そんなの」
久遠は拳を握る。
「言い方を変えただけだ」
「そうかもしれません」
リインフォースは怒らなかった。
「ですが、言葉は人が選んだ意味を残します」
「残ったら、何になるの」
「いつか、誰かの選ぶ道になります」
久遠には分からなかった。
いなくなった後に意味が残っても。
残された人は悲しむ。
はやては、また家族を失う。
「僕は、あなたにも帰ってきてほしかった」
「帰りました」
リインフォースは答える。
「あなたが、私にもおかえりと言ってくれました」
「一度だけじゃ足りない」
「欲張りですね」
「悪い?」
「いいえ」
少しだけ、楽しそうに笑う。
「その願いを、どうか大切にしてください」
リインフォースは久遠の前へ膝をついた。
視線の高さを合わせる。
「あなたは、力がないことを恐れている」
「……うん」
「だから、いつか力を得たときが心配です」
「どうして」
「届かなかった痛みを知る人ほど、届く力のすべてを差し出してしまうからです」
久遠は答えられなかった。
「一人で背負わないでください」
「あなたに言われたくない」
「そのとおりですね」
リインフォースは困ったように笑った。
「では、私との約束にしましょう」
「約束?」
「何かを選ぶとき、帰りを待つ人のことを忘れない」
久遠は病室を見る。
なのは。
はやて。
フェイト。
みんながいる。
「分かった」
嘘ではなかった。
このときは、本当に守るつもりだった。
◇
別れは、その日の夕方に訪れた。
病院の屋上。
空から、細かな雪が降り始めていた。
はやては車椅子に座り、リインフォースの手を握っている。
その後ろに、シグナムたちが並ぶ。
ヴィータは泣いていた。
泣いていないふりをすることも、もうできなかった。
なのはとフェイトもいる。
久遠は少し離れた場所に立っていた。
何か言えば、止めてしまいそうだった。
止める方法もないのに。
「ほんまに、行くんやね」
「はい」
「嫌やって言うたら?」
リインフォースは、すぐには答えなかった。
「困ります」
「命令やったら?」
「従いたいと思います」
「思うだけ?」
「私はもう、命令だけで動く書ではありませんから」
はやては泣きながら笑った。
「ずるいなあ」
「はやてに教わりました」
握った手が、光へ変わり始める。
銀色の粒が、雪と一緒に空へ昇っていく。
「シグナム。ヴィータ。シャマル。ザフィーラ」
「はっ」
四人が同時に応える。
「はやてを、お願いします」
「我らのすべてに代えても」
シグナムの声は震えていた。
「なのは。フェイト」
「うん」
「はい」
「どうか、よい友でいてください」
「もちろんだよ」
「約束します」
リインフォースは久遠を見る。
「久遠」
「なに」
「帰ってくる者を、迎えてください」
「あなたは?」
分かっているのに、尋ねる。
「私は、もう迎えてもらいました」
「それで足りるの」
「はい」
迷いのない答えだった。
「私の名を、覚えていてくれますか」
「忘れない」
「ありがとう」
身体の半分以上が光になる。
はやては、消えかけた手を両手で包んだ。
「リインフォース」
名前を呼ぶ。
「はい。はやて」
「うちの家族になってくれて、ありがとう」
「私を家族にしてくれて、ありがとう」
「大好きや」
「私もです」
最後に、リインフォースは笑った。
闇の書の意思としてではなく。
夜天の書の管制人格としてでもなく。
はやての家族として。
「さようなら。私の愛しい主」
光がほどけた。
はやての両手が空になる。
銀色の粒は雪の中へ混じり、見えなくなった。
誰も声を出せなかった。
やがて、はやての肩が震える。
ヴィータがその身体へ抱きついた。
シグナムが二人を包む。
シャマルも。
ザフィーラも。
家族が、空いた場所を囲む。
けれど、その場所は埋まらなかった。
埋めてはいけないのだと、久遠は思った。
そこには確かに、リインフォースという人がいた。
短い時間でも。
帰ってきて。
名前を呼ばれ。
家族になった人がいた。
◇
病室へ戻った後も、はやては青い栞を握っていた。
泣き疲れて眠っても、手放さなかった。
なのはとフェイトは、その両側で眠っている。
守護騎士たちは、静かに家族を見守っていた。
久遠は病室の外に立つ。
扉は開いている。
結界もない。
数歩進めば、はやてへ手が届く。
それなのに。
リインフォースには、もう二度と届かない。
名前は始まりになる。
過去を縛る鎖にも。
未来へ進む道標にもなる。
久遠は、その言葉を胸の中で繰り返した。
まだ意味は分からない。
分かりたくもなかった。
名前が残るより、本人に残ってほしかった。
どれだけ意味があっても。
どれだけ大切な選択でも。
誰かが消えることで終わる夜を、正しいとは思えなかった。
「もう、誰もいなくならない」
小さく口にする。
約束する相手は眠っている。
だから、それは久遠が自分へ課した約束になった。
何かを選ぶとき、帰りを待つ人のことを忘れない。
リインフォースと交わした言葉も、忘れない。
次に誰かへ手を伸ばすときは。
今度こそ、一人も失わない。
そう決めた。
夜は明けた。
長い夜は、終わった。
久遠は、そう信じていた。