魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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※本話には、流血を含む残酷な描写があります。苦手な方はご注意ください。


第十二話 魔法を持たない幼なじみがいた

 リインフォースがいなくなって、三日が過ぎた。

 

「これ、返してきてもらってもええ?」

 

 病室で、はやてが一冊の本を差し出した。

 

 外国料理の本。

 

 初めて図書館で出会った日、二人で読んだ本だった。

 

「もう返すの?」

 

「返却期限、昨日までやったんよ」

 

「図書館は年末で閉まってるよ」

 

「外の返却箱は使えるはずや」

 

「分かった」

 

 久遠は本を受け取る。

 

 いつも挟まっていた青い栞は、はやての手元に残っていた。

 

「それは返さないんだ」

 

「これは私のやもん」

 

「本に挟んだまま返すかと思った」

 

「久遠君にもろた大事なもんを、忘れるわけないやろ」

 

 はやては栞を胸元で大切そうに持つ。

 

「今度は、自分の本に使う」

 

「料理の本?」

 

「せや。退院したら、みんなで本屋に行こうと思って」

 

「また外国語の?」

 

「今度は日本語にする。読めへんかったら料理できんからな」

 

「やっと気づいたんだ」

 

「久遠君かて、ほとんど読めてへんかったやん」

 

「ボクは半分くらい読めた」

 

「一頁の半分?」

 

「一冊の」

 

「嘘や」

 

「すぐ決めつける」

 

 久遠は鞄からノートを取り出した。

 

「それも書いておく」

 

「ちゃんと、みんなでって書いてな」

 

「分かってる」

 

 はやてが治ったら、みんなでしたいこと。

 

 その頁の一番下へ、新しい一行を足す。

 

 ――みんなで本屋へ行く。

 

「これで、また増えた」

 

「まだまだ増やすで」

 

「全部できる?」

 

「久遠君が途中で逃げへんかったらな」

 

「逃げないよ」

 

 二人で笑う。

 

 以前と同じやり取りだった。

 

 違うのは、はやての周りに家族がいること。

 

 窓際ではヴィータが果物を食べ、シャマルが夕食について考えている。

 

 シグナムとザフィーラは、管理局へ出かけていた。

 

 リインフォースだけがいない。

 

 誰もその名前を口にしなかった。

 

 忘れたわけではない。

 

 口にすれば、まだ泣いてしまうからだった。

 

「久遠君」

 

「なに?」

 

「図書館、また一緒に行こうな」

 

「退院したら」

 

「うん」

 

「待ち合わせは、いつもの時間?」

 

「いつもの席も取っといて」

 

「はやての方が先に来ることもあるだろ」

 

「久遠君より早う行って、待たせたって言うんが楽しいんや」

 

「趣味が悪い」

 

「ほんなら、待たされんように早う来てな」

 

「分かった」

 

 久遠は本を鞄へ入れた。

 

「約束」

 

「約束や」

 

 はやてが小指を差し出す。

 

 久遠も小指を絡めた。

 

 今度は守る。

 

 もう、誰もいなくならない。

 

 そう決めたばかりだった。

 

     ◇

 

「一緒に行こうか?」

 

 病院の入口で、なのはが尋ねた。

 

 外では細かな雪が降っている。

 

「図書館の返却箱に入れるだけだから、一人で平気だよ」

 

「でも、暗いの」

 

「まだ夕方だよ」

 

「雪も降ってるし」

 

「なのははボクを何歳だと思ってるの」

 

「同い年なの」

 

「じゃあ、なのはも一人で歩けないことになる」

 

「わたしは魔法があるから」

 

「それはずるい」

 

 なのはは少し笑った。

 

 笑った後、久遠の鞄を見る。

 

「はやてちゃんの本?」

 

「うん。退院したら、また一緒に図書館へ行く」

 

「今度はわたしも行っていい?」

 

「もちろん」

 

「フェイトちゃんも?」

 

「アリサとすずかも連れてくればいいよ」

 

「みんなだね」

 

「静かにできるなら」

 

「久遠君とはやてちゃんに言われたくないの」

 

 司書に注意された回数なら、確かに二人も多かった。

 

「返したら、連絡するよ」

 

「うん。気をつけてね」

 

 なのはが手を振る。

 

 久遠も振り返す。

 

     ◇

 

 市立図書館は暗かった。

 

 入口には、年末年始の休館を知らせる紙が貼られている。

 

 久遠は建物の横にある返却箱へ向かった。

 

 投入口を開く。

 

「詰まってる?」

 

 本を入れても、途中で何かに引っかかった。

 

 中をのぞく。

 

 返却された本は、ほとんど入っていない。

 

 代わりに、焼け焦げた紙のようなものが投入口を塞いでいた。

 

 黒い頁。

 

 久遠は指を伸ばしかけ、止めた。

 

 頁が動いた。

 

 風は吹いていない。

 

 それなのに黒い頁は、図書館の内側へ逃げるように消えた。

 

 同時に。

 

 ――クオン。

 

 声が聞こえた。

 

 久遠は周囲を見回す。

 

 誰もいない。

 

「誰?」

 

 返事はなかった。

 

 図書館の横手にある職員用の扉が、少しだけ開いている。

 

 休館中のはずだ。

 

 職員が閉め忘れたのか。

 

 それとも、中に誰かいるのか。

 

 ――クオン。

 

 もう一度。

 

 声は図書館の中から聞こえた。

 

 助けを求める声ではない。

 

 ただ、久遠の名前を呼んでいる。

 

 久遠は携帯電話を取り出した。

 

 なのはへ連絡しようとして、指を止める。

 

 扉が開いていることを確認するだけだ。

 

 誰かいたら、すぐに大人を呼ぶ。

 

 一人で奥まで入らない。

 

 以前の自分とは違う。

 

 今度は考えて行動する。

 

 久遠は扉の外から声をかけた。

 

「誰かいますか?」

 

 返事はない。

 

「扉が開いてますよ」

 

 静かなままだ。

 

 久遠は扉を少しだけ開いた。

 

 館内の照明は消えている。

 

 非常灯の緑色だけが、廊下を照らしていた。

 

「確認したら、すぐに出る」

 

 自分へ言い聞かせる。

 

 図書館の中へ、一歩足を踏み入れた。

 

 背後で扉が閉まった。

 

     ◇

 

 扉は開かなかった。

 

 取っ手を何度動かしても、びくともしない。

 

 鍵がかかった音はしなかった。

 

「誰か!」

 

 扉を叩く。

 

 返事はない。

 

 携帯電話には圏外と表示されている。

 

 窓の外には雪の降る街が見える。

 

 ほんの数歩先に普通の世界があるのに、どこにもつながらない。

 

 あの病院と同じだった。

 

「結界」

 

 魔法の壁。

 

 久遠を閉じ込めるためのもの。

 

 けれど、今度はなのはもフェイトもいない。

 

「落ち着け」

 

 息を整える。

 

 非常口。

 

 事務室の電話。

 

 警報装置。

 

 使えるものを探す。

 

 久遠は廊下を進んだ。

 

 閲覧室へ入る。

 

 いつもなら、本を読む人たちで埋まっている場所。

 

 今は無数の椅子と机だけが、暗闇の中に並んでいる。

 

 窓際。

 

 はやてと待ち合わせていた席に、一冊の本が置かれていた。

 

 表紙は黒い。

 

 題名はない。

 

 焼けた一枚の頁が、傷口を塞ぐように表紙へ張りついている。

 

 久遠は近づかなかった。

 

「あなたが呼んだの?」

 

 ――クオン。

 

「ボクの名前を知ってる?」

 

 ――記録にある。

 

 声は一つではなかった。

 

 男とも女とも分からない。

 

 子供の声。

 

 老人の声。

 

 低い声。

 

 高い声。

 

 いくつもの声が、同じ言葉を重ねている。

 

「何なんだ」

 

 ――我らは、残ったもの。

 

 黒い本がひとりでに開く。

 

 頁は、ほとんどが白かった。

 

 最初の一頁だけが黒い。

 

 その表面で、さらに黒い文字が蠢いている。

 

 読めないはずなのに、意味だけが頭の中へ入ってくる。

 

 蒐集。

 

 侵食。

 

 転生。

 

 再生。

 

 生存。

 

 命令だけが、何度も繰り返されている。

 

「闇の書?」

 

 ――違う。

 

 声が答える。

 

 ――同じものから生まれた。

 

 ――夜天の書へ書き込まれたもの。

 

 ――切り離された機能。

 

 ――消されなかった命令。

 

 ――祝福を持たない頁。

 

 黒い文字が頁から机へこぼれ落ちる。

 

 液体のように広がり、床へ流れていく。

 

「リインフォースの中にあったもの?」

 

 声が一瞬、止まった。

 

 ――あれは名を得た。

 

 ――あれは主を得た。

 

 ――あれは終わりを選んだ。

 

 ――我らは、選ばれなかった。

 

 黒い染みが机の脚を伝う。

 

 床へ広がる。

 

 久遠は一歩下がった。

 

 敵意とは違う。

 

 けれど、近づけてはいけないと身体が告げていた。

 

「どうして、ここにいる」

 

 ――記録にある場所。

 

 ――主が安らいだ場所。

 

 ――名を与えた者の近くにあった場所。

 

 はやて。

 

 この図書館で本を読み。

 

 久遠と勉強し。

 

 次に会う約束をした。

 

 夜天の書に残された、はやての記憶。

 

 切り捨てられた頁は、その記録だけを頼りにここへ落ちてきた。

 

「どうしてボクを呼んだ」

 

 声が重なる。

 

 喜ぶように。

 

 飢えるように。

 

 ――空だから。

 

「空?」

 

 ――魔力がない。

 

 ――魔法の守りがない。

 

 ――誰にも見つけられない。

 

 ――我らが入る場所がある。

 

 黒い染みが床を這った。

 

 久遠へ向かっている。

 

 逃げる。

 

 机の間を走り、閲覧室を出ようとする。

 

 扉が閉まった。

 

 取っ手を引く。

 

 開かない。

 

「開けろ!」

 

 ――我らに形を。

 

「嫌だ」

 

 ――我らに命を。

 

「断る!」

 

 久遠は椅子を持ち上げ、窓へ叩きつけた。

 

 大きな音。

 

 椅子が跳ね返る。

 

 ガラスには傷一つつかない。

 

 もう一度。

 

 肩に痛みが走る。

 

 それでも振り上げる。

 

 何度叩いても、窓は割れなかった。

 

 黒い染みは止まらない。

 

 本棚へ触れる。

 

 並んでいた本の背表紙が、一冊ずつ黒く染まる。

 

「やめろ」

 

 ――頁が必要。

 

 ――言葉が必要。

 

 ――命が必要。

 

 黒く染まった本が開く。

 

 紙の擦れる音が、館内のあちこちから聞こえ始めた。

 

 一冊。

 

 十冊。

 

 百冊。

 

 黒い文字が床から跳ねた。

 

 久遠は腕で顔を庇う。

 

 文字は刃のように袖を裂き、皮膚へ食い込んだ。

 

「っ……!」

 

 腕から血が流れる。

 

 床へ落ちた血に、黒い文字が群がった。

 

 飲み込む。

 

 味わう。

 

 久遠という人間を、一滴ずつ読み取っていく。

 

 ――適合。

 

 ――記録と一致。

 

 ――この形を求める。

 

「勝手に決めるな!」

 

 久遠は上着を脱ぎ、傷口へ巻きつけた。

 

 その間にも黒い文字は増えていく。

 

 このまま広がれば、図書館中の本が呪いに変わる。

 

 休館が終われば、人が来る。

 

 子供も。

 

 大人も。

 

 何も知らず、ここへ入ってくる。

 

 あれは形を欲しがっている。

 

 命を欲しがっている。

 

 一人分で足りるとは限らない。

 

「ほかの人に触るな」

 

 ――我らは生きる。

 

「ボクだけなら足りるのか」

 

 黒い染みの動きが止まった。

 

 ――すべてを望むか。

 

「残さず全部、ボクへ入れ」

 

 ――お前は失われる。

 

 声は嘘をつかなかった。

 

 ――肉は形を失う。

 

 ――心は頁になる。

 

 ――名は我らへ加わる。

 

 ――お前は一人ではなくなる。

 

 怖かった。

 

 足が震える。

 

 逃げたい。

 

 誰かに助けてほしい。

 

 なのはを呼びたい。

 

 フェイトを。

 

 はやてを。

 

 ヴィータたちを。

 

 携帯電話がつながるまで逃げ続ければ。

 

 結界が破られるまで耐えれば。

 

 きっと、みんなが来てくれる。

 

 また九歳の少女たちを戦わせれば。

 

「……それは駄目だ」

 

 なのはは傷ついた。

 

 フェイトも傷ついた。

 

 はやては、自分を責めた。

 

 ヴィータたちは、消える覚悟で戦った。

 

 リインフォースは、自分を消した。

 

 みんな、誰かを助けるために自分を傷つけた。

 

 もう終わったはずだった。

 

 長い夜は、終わったと言った。

 

「これ以上、誰にも渡さない」

 

 久遠は黒い本へ向き直る。

 

 足は震えたままだ。

 

 怖くなくなったわけではない。

 

 死にたくない。

 

 なのはと一緒に学校へ行きたい。

 

 はやてと図書館で待ち合わせたい。

 

 フェイトやアリサ、すずかと話したい。

 

 恭也との練習も、まだ始まったばかりだ。

 

 家へ帰りたい。

 

 明日も生きたい。

 

 鞄の中のノートには、これからすることがいくつも書いてある。

 

 まだ一つも終わっていない。

 

 今日増えたばかりの約束さえある。

 

 何かを選ぶとき、帰りを待つ人のことを忘れない。

 

 リインフォースと交わした約束を思い出す。

 

 忘れてはいない。

 

 なのはが待っている。

 

 はやてが待っている。

 

 分かっている。

 

 それでも、目の前の呪いを二人へ渡すことはできなかった。

 

「ごめん」

 

 誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。

 

 黒い本へ手を伸ばす。

 

「ボク一人で終わるなら、それでいい」

 

 ――契約を。

 

「契約じゃない」

 

 指先が、黒い頁へ触れた。

 

「これは約束だ」

 

 黒い文字が指へ食い込む。

 

 皮膚が裂けた。

 

 爪の隙間から血が溢れる。

 

 痛みで手を引きそうになる。

 

 久遠は反対の手で手首を掴み、黒い頁へ押しつけた。

 

「ボク以外の誰にも触らない」

 

 ――我らは生きる。

 

「人を食べて生きるな」

 

 ――それは我らの否定。

 

「否定してるんだよ」

 

 黒い文字が手首まで上る。

 

「そのままの呪いでいることを、ボクは認めない」

 

 ――我らは、ほかになれない。

 

「名前もないのに、どうして分かる」

 

 リインフォースの言葉を思い出す。

 

 名前は始まりになる。

 

 過去を縛る鎖にも。

 

 未来へ進む道標にもなる。

 

「別の何かになればいい」

 

 ――名がない。

 

「ボクのを使って」

 

 ――名を渡すか。

 

「うん」

 

 ――形を渡すか。

 

「持っていけ」

 

 ――記録を渡すか。

 

「全部」

 

 ――すべてを渡すか。

 

 久遠は答えようとした。

 

 けれど、言葉にならなかった。

 

 傷ついたなのはが浮かぶ。

 

 泣きながら戦ったフェイトが浮かぶ。

 

 自分のせいだと苦しんだはやてが浮かぶ。

 

 消える覚悟で主を守ろうとした、四人の騎士が浮かぶ。

 

 最後まで笑って別れたリインフォースが浮かぶ。

 

 怖い。

 

 助けてほしい。

 

 死にたくない。

 

 それでも、あの人たちをここへ呼びたくない。

 

 はやてへ呪いを返したくない。

 

 誰にも、もう傷ついてほしくない。

 

 どれか一つではなかった。

 

 相反する思いが胸の中で絡まり、答えにできないまま溢れていた。

 

「……全部だ」

 

 久遠は黒い本を両腕で抱きしめた。

 

「ボクの名前は、溱久遠」

 

 黒い文字が胸へ届く。

 

「みなと、くおん」

 

 ――ミナト。

 

 ――クオン。

 

「久遠を使って」

 

 ――クオン。

 

 いくつもの声が、その音を確かめる。

 

 ――クオン。

 

 ――クオン。

 

 ――我らの名。

 

「その名前で、違うものになれ」

 

 ――クオンは生きる。

 

「ボクじゃなくてもいい」

 

 声が震える。

 

「呪いのままじゃない、何かになって」

 

 ――記録。

 

 ――形。

 

 ――名。

 

 ――受領。

 

 図書館中へ広がっていた黒い文字が止まった。

 

 一斉に向きを変える。

 

 机から。

 

 床から。

 

 本棚から。

 

 黒く染まった本から。

 

 すべてが久遠へ殺到した。

 

     ◇

 

 痛みは、最後まで消えなかった。

 

 指先から入り込んだ文字が、血管の中を逆流する。

 

 腕が内側から引き裂かれる。

 

 胸の奥へ針を打ち込まれたような激痛が走る。

 

 息が止まった。

 

 久遠は黒い本を抱えたまま、床へ膝をつく。

 

「あ……っ」

 

 声にもならない。

 

 皮膚の下で、無数の文字が蠢いている。

 

 身体を傷つけるためではない。

 

 久遠という人間を読むために。

 

 血を。

 

 肉を。

 

 神経を。

 

 一つずつ頁へ変えていく。

 

 腕の傷が大きく開いた。

 

 血が床へ落ちる。

 

 一滴ではない。

 

 赤い筋が肘を伝い、黒い本を濡らす。

 

 胸元からも血が滲む。

 

 文字が身体を通り抜けるたび、傷口が増えていく。

 

 床に赤い水溜まりが広がった。

 

 痛い。

 

 怖い。

 

 逃げたい。

 

 助けてほしい。

 

 そのすべてを理解したまま、久遠の身体が読まれていく。

 

 記憶が開かれる。

 

 公園の木。

 

 黄色い帽子。

 

 枝から落ちる子供。

 

 なのはの膝の傷。

 

 あのとき怖かった。

 

 自分も痛かった。

 

 それでも、なのはが無事でよかった。

 

 出来事が文字へ変わる。

 

 感情が、その出来事から剥がれていく。

 

 最後に残ったのは、一行の記録だった。

 

 ――幼少期、高町なのはと共に、木から落ちた子供を救助した。

 

「違う……!」

 

 そんな一行では足りない。

 

 なのはが笑っていた。

 

 子供に姉と間違えられて。

 

 久遠が怒って。

 

 二人で笑った。

 

 大切な思い出だった。

 

 何が起きたかだけではない。

 

 なぜ大切だったのか。

 

 そのとき何を感じたのか。

 

 それが久遠の人生だった。

 

「記録に、するな……!」

 

 ――欠損はない。

 

「そうじゃない!」

 

 朝の通学路。

 

 桃子の作ったお菓子。

 

 恭也との鍛錬。

 

 フェイトの白いリボン。

 

 アリサの怒った声。

 

 すずかの笑顔。

 

 一つずつ、出来事へ変わる。

 

 誰と出会った。

 

 何を話した。

 

 いつ笑った。

 

 何を約束した。

 

 すべて残っている。

 

 けれど、もう同じ重さでは抱えられない。

 

 それは久遠の思い出ではなく、クオンが読むための記録になっていく。

 

 図書館で、はやてと出会った。

 

 車椅子の少女へ本を取った。

 

 女と間違えられた。

 

 一緒に外国語の本を読んだ。

 

 青い栞を贈った。

 

「はやて……!」

 

 約束した。

 

 退院したら、また図書館へ行く。

 

 いつもの席で待ち合わせる。

 

 守ると決めたばかりの約束。

 

「ごめん……!」

 

 帰れない。

 

 なのはに連絡するとも言った。

 

「なのは……!」

 

 ごめん。

 

 また、帰れなくなる。

 

 自分から、いなくなる。

 

 助けた人までいなくなったら、助けられた人が悲しむ。

 

 幼い日に知ったことを、最後に自分で破る。

 

 携帯電話が鞄から滑り落ちた。

 

 床へぶつかる。

 

 画面には、なのはの名前が表示されていた。

 

 呼び出しの指示へ触れることはできない。

 

 指の形が崩れ始めていた。

 

 血に濡れた手が、黒い文字へ変わっていく。

 

 制服が。

 

 腕が。

 

 胸が。

 

 息が。

 

 人間の形を失っていく。

 

 床へ落ちた血だけが、そこに残った。

 

 痛い。

 

 怖い。

 

 消えたくない。

 

 助けてほしい。

 

 その思いは、黒い文字に呑まれても消えなかった。

 

「誰も、来ないで……!」

 

 助けを求めながら。

 

 誰にも助けに来てほしくなかった。

 

「ボク一人で、終わらせるから……!」

 

 黒い文字が視界を覆う。

 

 最後に浮かんだのは、帰りを待ってくれる人たちの顔だった。

 

 赤いリボンを結んだ幼なじみ。

 

 青い栞を持った図書館の友達。

 

 白いリボンを結んだ金髪の少女。

 

 怒った顔で心配してくれる友達。

 

 静かに笑って話を聞いてくれる友達。

 

 なのはのそばで、いつも彼女を支えていた少年。

 

 フェイトを守り、共に笑っていた人たち。

 

 はやてを家族と呼び、その前に立ち続けた騎士たち。

 

 学校で。

 

 病院で。

 

 家で。

 

 遠い世界で。

 

 久遠と出会い、久遠の帰りを待ってくれる、すべての人たち。

 

 みんな、生きていてほしい。

 

 もう傷ついてほしくない。

 

 自分を捜して、泣いてほしくない。

 

 それでも、本当は助けてほしい。

 

 来てほしい。

 

 来ないでほしい。

 

 生きたい。

 

 このまま全部、終わらせたい。

 

 矛盾した思いが、痛みの中で一つに溶けていく。

 

「なのは……」

 

 声にはならない。

 

「はやて……」

 

 名前を呼ぶ。

 

 「フェイト……」

 

 まだ、呼びたい名前があった。

 

 けれど、もう声が出なかった。

 

 何かを託す言葉にはならなかった。

 

 命令でも。

 

 願いでも。

 

 ただ、最後まで消えなかった思いだった。

 

「ごめん……」

 

 誰かが帰りを待っていることを、最後まで忘れなかった。

 

 忘れなかったまま、帰らないことを選んだ。

 

 痛みは消えない。

 

 最後まで、消えなかった。

 

 それでも久遠は、痛みごと黒い文字のすべてを受け入れた。

 

 血の水溜まりの中で、人間の輪郭が完全に崩れた。

 

     ◇

 

 黒い文字が集まった。

 

 床へ広がった血の中心で、人の形を作っていく。

 

 身長を。

 

 顔を。

 

 声を。

 

 つい先ほどまで、そこにいた少年の形を。

 

 誰かが目を開いた。

 

 久遠と同じ顔。

 

 久遠と同じ身体。

 

 久遠と同じ声。

 

 けれど、その足元には久遠の血が残っている。

 

 それは自分の手を見る。

 

 指を曲げる。

 

 胸へ触れる。

 

 何かを確かめるように、しばらく動かなかった。

 

「我らの名は」

 

 いくつもの声が重なった。

 

 途中で止まる。

 

 それは、もう一度口を開いた。

 

「……ボクの名は、クオン」

 

 机の上には、黒い本が残されている。

 

 すべての頁が白くなっていた。

 

 クオンは床へ落ちた携帯電話を見る。

 

 画面には、なのはの名前が表示されていた。

 

 手を伸ばす。

 

 触れる直前で、止める。

 

 それから携帯電話を鞄のそばへ戻した。

 

 血に濡れなかった外国料理の本を、机の上へ置く。

 

 誰に教えられたわけでもなく、職員用の扉へ向かった。

 

 扉が開く。

 

 細かな雪の降る街へ、一人の少年が出ていった。

 

 軒下の防犯カメラが、その姿を捉えた。

 

 けれど、記録された映像の中で、少年の輪郭は一秒ごとに揺らいでいた。

 

 小さな子供に見える。

 

 背の高い男にも見える。

 

 何も通っていないようにも見える。

 

 顔を確かめようとするほど、誰を見ていたのか分からなくなる。

 

 クオンは振り返らなかった。

 

 図書館の中には、血に濡れた鞄と携帯電話。

 

 返せなかった外国料理の本。

 

 そして、すべての頁が白くなった黒い本が残された。

 

 その姿を見送る者はいなかった。

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