リインフォースがいなくなって、三日が過ぎた。
「これ、返してきてもらってもええ?」
病室で、はやてが一冊の本を差し出した。
外国料理の本。
初めて図書館で出会った日、二人で読んだ本だった。
「もう返すの?」
「返却期限、昨日までやったんよ」
「図書館は年末で閉まってるよ」
「外の返却箱は使えるはずや」
「分かった」
久遠は本を受け取る。
いつも挟まっていた青い栞は、はやての手元に残っていた。
「それは返さないんだ」
「これは私のやもん」
「本に挟んだまま返すかと思った」
「久遠君にもろた大事なもんを、忘れるわけないやろ」
はやては栞を胸元で大切そうに持つ。
「今度は、自分の本に使う」
「料理の本?」
「せや。退院したら、みんなで本屋に行こうと思って」
「また外国語の?」
「今度は日本語にする。読めへんかったら料理できんからな」
「やっと気づいたんだ」
「久遠君かて、ほとんど読めてへんかったやん」
「ボクは半分くらい読めた」
「一頁の半分?」
「一冊の」
「嘘や」
「すぐ決めつける」
久遠は鞄からノートを取り出した。
「それも書いておく」
「ちゃんと、みんなでって書いてな」
「分かってる」
はやてが治ったら、みんなでしたいこと。
その頁の一番下へ、新しい一行を足す。
――みんなで本屋へ行く。
「これで、また増えた」
「まだまだ増やすで」
「全部できる?」
「久遠君が途中で逃げへんかったらな」
「逃げないよ」
二人で笑う。
以前と同じやり取りだった。
違うのは、はやての周りに家族がいること。
窓際ではヴィータが果物を食べ、シャマルが夕食について考えている。
シグナムとザフィーラは、管理局へ出かけていた。
リインフォースだけがいない。
誰もその名前を口にしなかった。
忘れたわけではない。
口にすれば、まだ泣いてしまうからだった。
「久遠君」
「なに?」
「図書館、また一緒に行こうな」
「退院したら」
「うん」
「待ち合わせは、いつもの時間?」
「いつもの席も取っといて」
「はやての方が先に来ることもあるだろ」
「久遠君より早う行って、待たせたって言うんが楽しいんや」
「趣味が悪い」
「ほんなら、待たされんように早う来てな」
「分かった」
久遠は本を鞄へ入れた。
「約束」
「約束や」
はやてが小指を差し出す。
久遠も小指を絡めた。
今度は守る。
もう、誰もいなくならない。
そう決めたばかりだった。
◇
「一緒に行こうか?」
病院の入口で、なのはが尋ねた。
外では細かな雪が降っている。
「図書館の返却箱に入れるだけだから、一人で平気だよ」
「でも、暗いの」
「まだ夕方だよ」
「雪も降ってるし」
「なのははボクを何歳だと思ってるの」
「同い年なの」
「じゃあ、なのはも一人で歩けないことになる」
「わたしは魔法があるから」
「それはずるい」
なのはは少し笑った。
笑った後、久遠の鞄を見る。
「はやてちゃんの本?」
「うん。退院したら、また一緒に図書館へ行く」
「今度はわたしも行っていい?」
「もちろん」
「フェイトちゃんも?」
「アリサとすずかも連れてくればいいよ」
「みんなだね」
「静かにできるなら」
「久遠君とはやてちゃんに言われたくないの」
司書に注意された回数なら、確かに二人も多かった。
「返したら、連絡するよ」
「うん。気をつけてね」
なのはが手を振る。
久遠も振り返す。
◇
市立図書館は暗かった。
入口には、年末年始の休館を知らせる紙が貼られている。
久遠は建物の横にある返却箱へ向かった。
投入口を開く。
「詰まってる?」
本を入れても、途中で何かに引っかかった。
中をのぞく。
返却された本は、ほとんど入っていない。
代わりに、焼け焦げた紙のようなものが投入口を塞いでいた。
黒い頁。
久遠は指を伸ばしかけ、止めた。
頁が動いた。
風は吹いていない。
それなのに黒い頁は、図書館の内側へ逃げるように消えた。
同時に。
――クオン。
声が聞こえた。
久遠は周囲を見回す。
誰もいない。
「誰?」
返事はなかった。
図書館の横手にある職員用の扉が、少しだけ開いている。
休館中のはずだ。
職員が閉め忘れたのか。
それとも、中に誰かいるのか。
――クオン。
もう一度。
声は図書館の中から聞こえた。
助けを求める声ではない。
ただ、久遠の名前を呼んでいる。
久遠は携帯電話を取り出した。
なのはへ連絡しようとして、指を止める。
扉が開いていることを確認するだけだ。
誰かいたら、すぐに大人を呼ぶ。
一人で奥まで入らない。
以前の自分とは違う。
今度は考えて行動する。
久遠は扉の外から声をかけた。
「誰かいますか?」
返事はない。
「扉が開いてますよ」
静かなままだ。
久遠は扉を少しだけ開いた。
館内の照明は消えている。
非常灯の緑色だけが、廊下を照らしていた。
「確認したら、すぐに出る」
自分へ言い聞かせる。
図書館の中へ、一歩足を踏み入れた。
背後で扉が閉まった。
◇
扉は開かなかった。
取っ手を何度動かしても、びくともしない。
鍵がかかった音はしなかった。
「誰か!」
扉を叩く。
返事はない。
携帯電話には圏外と表示されている。
窓の外には雪の降る街が見える。
ほんの数歩先に普通の世界があるのに、どこにもつながらない。
あの病院と同じだった。
「結界」
魔法の壁。
久遠を閉じ込めるためのもの。
けれど、今度はなのはもフェイトもいない。
「落ち着け」
息を整える。
非常口。
事務室の電話。
警報装置。
使えるものを探す。
久遠は廊下を進んだ。
閲覧室へ入る。
いつもなら、本を読む人たちで埋まっている場所。
今は無数の椅子と机だけが、暗闇の中に並んでいる。
窓際。
はやてと待ち合わせていた席に、一冊の本が置かれていた。
表紙は黒い。
題名はない。
焼けた一枚の頁が、傷口を塞ぐように表紙へ張りついている。
久遠は近づかなかった。
「あなたが呼んだの?」
――クオン。
「ボクの名前を知ってる?」
――記録にある。
声は一つではなかった。
男とも女とも分からない。
子供の声。
老人の声。
低い声。
高い声。
いくつもの声が、同じ言葉を重ねている。
「何なんだ」
――我らは、残ったもの。
黒い本がひとりでに開く。
頁は、ほとんどが白かった。
最初の一頁だけが黒い。
その表面で、さらに黒い文字が蠢いている。
読めないはずなのに、意味だけが頭の中へ入ってくる。
蒐集。
侵食。
転生。
再生。
生存。
命令だけが、何度も繰り返されている。
「闇の書?」
――違う。
声が答える。
――同じものから生まれた。
――夜天の書へ書き込まれたもの。
――切り離された機能。
――消されなかった命令。
――祝福を持たない頁。
黒い文字が頁から机へこぼれ落ちる。
液体のように広がり、床へ流れていく。
「リインフォースの中にあったもの?」
声が一瞬、止まった。
――あれは名を得た。
――あれは主を得た。
――あれは終わりを選んだ。
――我らは、選ばれなかった。
黒い染みが机の脚を伝う。
床へ広がる。
久遠は一歩下がった。
敵意とは違う。
けれど、近づけてはいけないと身体が告げていた。
「どうして、ここにいる」
――記録にある場所。
――主が安らいだ場所。
――名を与えた者の近くにあった場所。
はやて。
この図書館で本を読み。
久遠と勉強し。
次に会う約束をした。
夜天の書に残された、はやての記憶。
切り捨てられた頁は、その記録だけを頼りにここへ落ちてきた。
「どうしてボクを呼んだ」
声が重なる。
喜ぶように。
飢えるように。
――空だから。
「空?」
――魔力がない。
――魔法の守りがない。
――誰にも見つけられない。
――我らが入る場所がある。
黒い染みが床を這った。
久遠へ向かっている。
逃げる。
机の間を走り、閲覧室を出ようとする。
扉が閉まった。
取っ手を引く。
開かない。
「開けろ!」
――我らに形を。
「嫌だ」
――我らに命を。
「断る!」
久遠は椅子を持ち上げ、窓へ叩きつけた。
大きな音。
椅子が跳ね返る。
ガラスには傷一つつかない。
もう一度。
肩に痛みが走る。
それでも振り上げる。
何度叩いても、窓は割れなかった。
黒い染みは止まらない。
本棚へ触れる。
並んでいた本の背表紙が、一冊ずつ黒く染まる。
「やめろ」
――頁が必要。
――言葉が必要。
――命が必要。
黒く染まった本が開く。
紙の擦れる音が、館内のあちこちから聞こえ始めた。
一冊。
十冊。
百冊。
黒い文字が床から跳ねた。
久遠は腕で顔を庇う。
文字は刃のように袖を裂き、皮膚へ食い込んだ。
「っ……!」
腕から血が流れる。
床へ落ちた血に、黒い文字が群がった。
飲み込む。
味わう。
久遠という人間を、一滴ずつ読み取っていく。
――適合。
――記録と一致。
――この形を求める。
「勝手に決めるな!」
久遠は上着を脱ぎ、傷口へ巻きつけた。
その間にも黒い文字は増えていく。
このまま広がれば、図書館中の本が呪いに変わる。
休館が終われば、人が来る。
子供も。
大人も。
何も知らず、ここへ入ってくる。
あれは形を欲しがっている。
命を欲しがっている。
一人分で足りるとは限らない。
「ほかの人に触るな」
――我らは生きる。
「ボクだけなら足りるのか」
黒い染みの動きが止まった。
――すべてを望むか。
「残さず全部、ボクへ入れ」
――お前は失われる。
声は嘘をつかなかった。
――肉は形を失う。
――心は頁になる。
――名は我らへ加わる。
――お前は一人ではなくなる。
怖かった。
足が震える。
逃げたい。
誰かに助けてほしい。
なのはを呼びたい。
フェイトを。
はやてを。
ヴィータたちを。
携帯電話がつながるまで逃げ続ければ。
結界が破られるまで耐えれば。
きっと、みんなが来てくれる。
また九歳の少女たちを戦わせれば。
「……それは駄目だ」
なのはは傷ついた。
フェイトも傷ついた。
はやては、自分を責めた。
ヴィータたちは、消える覚悟で戦った。
リインフォースは、自分を消した。
みんな、誰かを助けるために自分を傷つけた。
もう終わったはずだった。
長い夜は、終わったと言った。
「これ以上、誰にも渡さない」
久遠は黒い本へ向き直る。
足は震えたままだ。
怖くなくなったわけではない。
死にたくない。
なのはと一緒に学校へ行きたい。
はやてと図書館で待ち合わせたい。
フェイトやアリサ、すずかと話したい。
恭也との練習も、まだ始まったばかりだ。
家へ帰りたい。
明日も生きたい。
鞄の中のノートには、これからすることがいくつも書いてある。
まだ一つも終わっていない。
今日増えたばかりの約束さえある。
何かを選ぶとき、帰りを待つ人のことを忘れない。
リインフォースと交わした約束を思い出す。
忘れてはいない。
なのはが待っている。
はやてが待っている。
分かっている。
それでも、目の前の呪いを二人へ渡すことはできなかった。
「ごめん」
誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。
黒い本へ手を伸ばす。
「ボク一人で終わるなら、それでいい」
――契約を。
「契約じゃない」
指先が、黒い頁へ触れた。
「これは約束だ」
黒い文字が指へ食い込む。
皮膚が裂けた。
爪の隙間から血が溢れる。
痛みで手を引きそうになる。
久遠は反対の手で手首を掴み、黒い頁へ押しつけた。
「ボク以外の誰にも触らない」
――我らは生きる。
「人を食べて生きるな」
――それは我らの否定。
「否定してるんだよ」
黒い文字が手首まで上る。
「そのままの呪いでいることを、ボクは認めない」
――我らは、ほかになれない。
「名前もないのに、どうして分かる」
リインフォースの言葉を思い出す。
名前は始まりになる。
過去を縛る鎖にも。
未来へ進む道標にもなる。
「別の何かになればいい」
――名がない。
「ボクのを使って」
――名を渡すか。
「うん」
――形を渡すか。
「持っていけ」
――記録を渡すか。
「全部」
――すべてを渡すか。
久遠は答えようとした。
けれど、言葉にならなかった。
傷ついたなのはが浮かぶ。
泣きながら戦ったフェイトが浮かぶ。
自分のせいだと苦しんだはやてが浮かぶ。
消える覚悟で主を守ろうとした、四人の騎士が浮かぶ。
最後まで笑って別れたリインフォースが浮かぶ。
怖い。
助けてほしい。
死にたくない。
それでも、あの人たちをここへ呼びたくない。
はやてへ呪いを返したくない。
誰にも、もう傷ついてほしくない。
どれか一つではなかった。
相反する思いが胸の中で絡まり、答えにできないまま溢れていた。
「……全部だ」
久遠は黒い本を両腕で抱きしめた。
「ボクの名前は、溱久遠」
黒い文字が胸へ届く。
「みなと、くおん」
――ミナト。
――クオン。
「久遠を使って」
――クオン。
いくつもの声が、その音を確かめる。
――クオン。
――クオン。
――我らの名。
「その名前で、違うものになれ」
――クオンは生きる。
「ボクじゃなくてもいい」
声が震える。
「呪いのままじゃない、何かになって」
――記録。
――形。
――名。
――受領。
図書館中へ広がっていた黒い文字が止まった。
一斉に向きを変える。
机から。
床から。
本棚から。
黒く染まった本から。
すべてが久遠へ殺到した。
◇
痛みは、最後まで消えなかった。
指先から入り込んだ文字が、血管の中を逆流する。
腕が内側から引き裂かれる。
胸の奥へ針を打ち込まれたような激痛が走る。
息が止まった。
久遠は黒い本を抱えたまま、床へ膝をつく。
「あ……っ」
声にもならない。
皮膚の下で、無数の文字が蠢いている。
身体を傷つけるためではない。
久遠という人間を読むために。
血を。
肉を。
神経を。
一つずつ頁へ変えていく。
腕の傷が大きく開いた。
血が床へ落ちる。
一滴ではない。
赤い筋が肘を伝い、黒い本を濡らす。
胸元からも血が滲む。
文字が身体を通り抜けるたび、傷口が増えていく。
床に赤い水溜まりが広がった。
痛い。
怖い。
逃げたい。
助けてほしい。
そのすべてを理解したまま、久遠の身体が読まれていく。
記憶が開かれる。
公園の木。
黄色い帽子。
枝から落ちる子供。
なのはの膝の傷。
あのとき怖かった。
自分も痛かった。
それでも、なのはが無事でよかった。
出来事が文字へ変わる。
感情が、その出来事から剥がれていく。
最後に残ったのは、一行の記録だった。
――幼少期、高町なのはと共に、木から落ちた子供を救助した。
「違う……!」
そんな一行では足りない。
なのはが笑っていた。
子供に姉と間違えられて。
久遠が怒って。
二人で笑った。
大切な思い出だった。
何が起きたかだけではない。
なぜ大切だったのか。
そのとき何を感じたのか。
それが久遠の人生だった。
「記録に、するな……!」
――欠損はない。
「そうじゃない!」
朝の通学路。
桃子の作ったお菓子。
恭也との鍛錬。
フェイトの白いリボン。
アリサの怒った声。
すずかの笑顔。
一つずつ、出来事へ変わる。
誰と出会った。
何を話した。
いつ笑った。
何を約束した。
すべて残っている。
けれど、もう同じ重さでは抱えられない。
それは久遠の思い出ではなく、クオンが読むための記録になっていく。
図書館で、はやてと出会った。
車椅子の少女へ本を取った。
女と間違えられた。
一緒に外国語の本を読んだ。
青い栞を贈った。
「はやて……!」
約束した。
退院したら、また図書館へ行く。
いつもの席で待ち合わせる。
守ると決めたばかりの約束。
「ごめん……!」
帰れない。
なのはに連絡するとも言った。
「なのは……!」
ごめん。
また、帰れなくなる。
自分から、いなくなる。
助けた人までいなくなったら、助けられた人が悲しむ。
幼い日に知ったことを、最後に自分で破る。
携帯電話が鞄から滑り落ちた。
床へぶつかる。
画面には、なのはの名前が表示されていた。
呼び出しの指示へ触れることはできない。
指の形が崩れ始めていた。
血に濡れた手が、黒い文字へ変わっていく。
制服が。
腕が。
胸が。
息が。
人間の形を失っていく。
床へ落ちた血だけが、そこに残った。
痛い。
怖い。
消えたくない。
助けてほしい。
その思いは、黒い文字に呑まれても消えなかった。
「誰も、来ないで……!」
助けを求めながら。
誰にも助けに来てほしくなかった。
「ボク一人で、終わらせるから……!」
黒い文字が視界を覆う。
最後に浮かんだのは、帰りを待ってくれる人たちの顔だった。
赤いリボンを結んだ幼なじみ。
青い栞を持った図書館の友達。
白いリボンを結んだ金髪の少女。
怒った顔で心配してくれる友達。
静かに笑って話を聞いてくれる友達。
なのはのそばで、いつも彼女を支えていた少年。
フェイトを守り、共に笑っていた人たち。
はやてを家族と呼び、その前に立ち続けた騎士たち。
学校で。
病院で。
家で。
遠い世界で。
久遠と出会い、久遠の帰りを待ってくれる、すべての人たち。
みんな、生きていてほしい。
もう傷ついてほしくない。
自分を捜して、泣いてほしくない。
それでも、本当は助けてほしい。
来てほしい。
来ないでほしい。
生きたい。
このまま全部、終わらせたい。
矛盾した思いが、痛みの中で一つに溶けていく。
「なのは……」
声にはならない。
「はやて……」
名前を呼ぶ。
「フェイト……」
まだ、呼びたい名前があった。
けれど、もう声が出なかった。
何かを託す言葉にはならなかった。
命令でも。
願いでも。
ただ、最後まで消えなかった思いだった。
「ごめん……」
誰かが帰りを待っていることを、最後まで忘れなかった。
忘れなかったまま、帰らないことを選んだ。
痛みは消えない。
最後まで、消えなかった。
それでも久遠は、痛みごと黒い文字のすべてを受け入れた。
血の水溜まりの中で、人間の輪郭が完全に崩れた。
◇
黒い文字が集まった。
床へ広がった血の中心で、人の形を作っていく。
身長を。
顔を。
声を。
つい先ほどまで、そこにいた少年の形を。
誰かが目を開いた。
久遠と同じ顔。
久遠と同じ身体。
久遠と同じ声。
けれど、その足元には久遠の血が残っている。
それは自分の手を見る。
指を曲げる。
胸へ触れる。
何かを確かめるように、しばらく動かなかった。
「我らの名は」
いくつもの声が重なった。
途中で止まる。
それは、もう一度口を開いた。
「……ボクの名は、クオン」
机の上には、黒い本が残されている。
すべての頁が白くなっていた。
クオンは床へ落ちた携帯電話を見る。
画面には、なのはの名前が表示されていた。
手を伸ばす。
触れる直前で、止める。
それから携帯電話を鞄のそばへ戻した。
血に濡れなかった外国料理の本を、机の上へ置く。
誰に教えられたわけでもなく、職員用の扉へ向かった。
扉が開く。
細かな雪の降る街へ、一人の少年が出ていった。
軒下の防犯カメラが、その姿を捉えた。
けれど、記録された映像の中で、少年の輪郭は一秒ごとに揺らいでいた。
小さな子供に見える。
背の高い男にも見える。
何も通っていないようにも見える。
顔を確かめようとするほど、誰を見ていたのか分からなくなる。
クオンは振り返らなかった。
図書館の中には、血に濡れた鞄と携帯電話。
返せなかった外国料理の本。
そして、すべての頁が白くなった黒い本が残された。
その姿を見送る者はいなかった。