「返したら、連絡するよ」
久遠は、そう言った。
「うん。気をつけてね」
なのはは、そう答えた。
細かな雪の中を歩いていく背中へ、手を振った。
久遠も一度だけ振り返り、手を振り返した。
なのはは、その姿が見えなくなるまで見送った。
それから携帯電話を取り出した。
まだ、連絡が来ているはずはない。
分かっているのに、画面を確かめた。
◇
図書館までは、それほど遠くない。
休館中だから、中へ入る必要もない。
外の返却箱へ、はやてから預かった本を入れるだけだ。
久遠の足なら、もう着いていてもおかしくない頃だった。
なのはは帰り道で、もう一度携帯電話を見た。
新しい連絡はない。
「まだかな」
呟いてから、自分で笑う。
別れてから、まだ十分ほどしか経っていない。
雪で歩きにくいのかもしれない。
返却箱がいっぱいになっているのかもしれない。
久遠のことだから、途中で困っている人を見つけて、また余計なことをしている可能性もある。
いくらでも理由は考えられた。
なのはは携帯電話を鞄へ戻した。
少し歩いて、また取り出した。
画面は変わっていなかった。
「久遠君、遅いの」
急かすような連絡はしたくなかった。
自分から電話をかけたら、また子供扱いしていると言われるかもしれない。
――なのははボクを何歳だと思ってるの。
――同い年なの。
先ほどのやり取りを思い出す。
「同い年だから、心配するんだけどな」
誰にも聞こえない声で答えた。
久遠は、心配されることを嫌がる。
正確には、自分のために誰かが行動を変えることを嫌がる。
怪我をしても平気だと言う。
疲れていても大丈夫だと言う。
自分より先に、なのはやはやてたちのことを考える。
だから、本を返したら連絡してほしかった。
無事に帰ったと分かれば、それでよかった。
携帯電話が震えた。
「久遠君?」
なのはは慌てて画面を見る。
表示されていたのは、フェイトの名前だった。
胸の中に生まれた期待が、行き場を失った。
そんな自分を叱りながら、通話へ出る。
「もしもし、フェイトちゃん?」
『なのは。今、病院からの帰り?』
「うん。もうすぐ家に着くところなの」
『雪が降っているから、気をつけて』
「フェイトちゃんまで、久遠君と同じこと言ってる」
『久遠?』
「さっきまで病院にいたんだよ。はやてちゃんに頼まれて、図書館へ本を返しに行ったの」
『一人で?』
「わたしも一緒に行こうかって言ったんだけど、返却箱に入れるだけだから平気だって」
話しながら、なのははもう一度時刻を確認した。
別れてから、三十分が過ぎている。
『もう帰ったのかな』
「返したら連絡してくれるって。今、それを待ってるところ」
『そうなんだ』
「連絡が来たら、フェイトちゃんにも教えるね」
『うん』
通話を終える。
なのはは立ち止まり、来た道を振り返った。
白い雪が、歩道を少しずつ覆い始めている。
図書館へ向かうなら、反対方向だ。
今から追いかけても、もう久遠は本を返し終えているだろう。
きっと帰り道で、携帯電話を出せずにいるだけだ。
家に着いたら、連絡が来る。
なのはは、そう思った。
◇
一時間が過ぎた。
連絡は来なかった。
なのはは自分の部屋で、携帯電話を両手に持っていた。
一度だけ、短い文章を送った。
『本、返せた?』
返事はない。
電話をかける。
呼び出し音へ切り替わらない。
『電波の届かない場所にいるか、電源が入っていないため――』
機械の声を、最後まで聞けなかった。
通話を切る。
「図書館の近くだからかな」
建物の中ならともかく、返却箱は外にある。
久遠は、もう家へ帰っているはずだ。
それでも、携帯電話の電池が切れただけかもしれない。
雪で転んで、鞄の中へ手を入れられないのかもしれない。
誰かと話しているのかもしれない。
考えるたび、新しい理由が浮かんだ。
どれも、なのはを安心させてはくれなかった。
もう一度かける。
同じ声が流れる。
もう一度。
やはり、同じだった。
なのはは病院へ電話をかけた。
『なのはちゃん?』
はやての明るい声が聞こえた。
「はやてちゃん。久遠君から、何か連絡あった?」
『久遠君から? いや、何も来てへんけど』
「まだ、本を返したって連絡がないの」
『図書館へ行って、そのまま家に帰ったんやろ?』
「そうだと思うんだけど、電話もつながらなくて」
受話口の向こうで、僅かな沈黙が生まれた。
はやての声から、先ほどまでの明るさが消える。
『別れてから、どれくらいや?』
「一時間くらい」
『図書館までは、そんなにかからへん』
「うん」
『久遠君の家には?』
「まだ聞いてないの」
『なら、先に確認しよ。もしかしたら、携帯の電池が切れただけかもしれへんから』
「うん。そうだよね」
なのはは頷いた。
はやてには見えないのに、何度も。
『きっと大丈夫や』
「うん」
『久遠君、約束したもん』
「……うん」
退院したら、また一緒に図書館へ行く。
いつもの席で待ち合わせる。
なのはとフェイトと、アリサとすずかも連れていく。
みんなで本屋へ行く。
久遠は、逃げないと言った。
だから、きっと大丈夫だ。
そう信じたかった。
◇
久遠が家へ戻っていないと分かったのは、それから間もなくだった。
家族から警察へ、行方不明の連絡が入った。
九歳の子供が、雪の降る夕方に帰ってこない。
警察は、病院から自宅までの道を中心に捜索を始めた。
最後に立ち寄ると言っていた図書館の周辺も、確認することになった。
けれど、休館中の図書館は暗く閉ざされている。
今のところ、久遠が事件に巻き込まれたと示すものはない。
警察が扱っているのは、一人の子供の行方不明だった。
病室では、管理局から戻ったばかりのシグナムが、はやてから事情を聞いていた。
「図書館へ、本を返しに行ったのが最後ですか」
「うん。外の返却箱へ入れるだけやった」
はやては青い栞を握っていた。
外国料理の本へ、いつも挟んでいたもの。
久遠からもらった大切な栞だけは、本を渡す前に抜いていた。
「シグナム」
「はい」
「図書館、見に行ってくれへんかな」
「私が参ります」
「あたしも行く」
窓際にいたヴィータが即座に言った。
「返却箱を見て、近くを一周するだけだろ。あいつがどっかで雪に埋まってたら、引っ張り出してくる」
「ヴィータちゃん、久遠君を雪だるまみたいに言わんといて」
はやては笑おうとした。
声だけが、少し震えていた。
「見つけたら、ちゃんと連絡するように言うたって」
「それだけでいいのかよ」
「帰ってきてから、私も怒る」
「分かった。二人分、逃げねえように捕まえとく」
ヴィータが赤い上着を掴む。
シグナムも立ち上がった。
「すぐに戻ります」
「うん」
その言葉を、はやては信じた。
シグナムとヴィータが久遠を連れて戻ってくる。
久遠は少し困った顔で、心配させてごめんと謝る。
そのあと、なのはとはやてに怒られる。
きっと、そうなる。
そうなるはずだった。
◇
図書館は、雪の中に沈んでいた。
正面玄関の照明は消え、ガラス扉の向こうには暗闇だけが広がっている。
ヴィータは真っ先に建物の横へ回った。
返却箱を開く。
「本は入ってねえ」
「こちらだ」
シグナムは職員用の扉の前に立っていた。
閉じてはいるが、鍵はかかっていない。
その隙間から、目には見えない何かが漏れ出していた。
冷たい魔力。
古い血のように淀み、触れたものへ絡みつく気配。
ヴィータの表情が変わった。
「これ……」
「ああ」
二人が忘れられるはずのない魔力だった。
祝福の風となったリインフォースのものではない。
その奥に巣くっていた、壊れた闇の書の呪い。
「なんで、ここに残ってんだよ」
「分からん」
「闇の書は、消えたはずだろ」
「だからこそ、確認する」
シグナムがレヴァンティンへ手をかける。
「ヴィータ。私から離れるな」
「誰に言ってんだ」
二人は扉を開けた。
鉄に似た臭いが流れ出した。
ヴィータの足が止まる。
「……なんだよ、これ」
返事をせず、シグナムが館内へ踏み込む。
床へ残る魔力の残滓を追う。
黒い染みのような反応は廊下を這い、閲覧室へ続いていた。
「久遠!」
ヴィータが叫ぶ。
「いるんだろ! 返事しろ!」
声は暗い館内へ吸い込まれた。
返事はない。
閲覧室へ入る。
無数の本が床へ散らばっていた。
本棚の一部は黒く焦げたように変色している。
窓際の椅子が一脚、床へ倒れていた。
窓ガラスには何度も何かを打ちつけた跡がある。
それでも、ガラスは割れていなかった。
そして。
いつもの席の前で、シグナムが立ち止まった。
「ヴィータ」
低い声だった。
「来るな」
「何が――」
ヴィータはシグナムの横から、その先を見た。
言葉を失った。
床に、久遠の鞄が落ちていた。
少し離れた場所に、携帯電話。
机の上には、はやてから預かった外国料理の本。
見間違えるはずがなかった。
その周囲を、夥しい量の血が覆っていた。
床に。
机の脚に。
本棚に。
窓ガラスに。
人間一人が無事でいられる量ではなかった。
それなのに、久遠の身体だけがない。
「……おい」
ヴィータの口から、掠れた声が漏れた。
「久遠」
机の下を覗く。
本棚の陰へ回る。
「いるんだろ」
返事がないと分かっているのに、何度も名前を呼ぶ。
「隠れてねえで出てこいよ」
血の跡は、その場所で途切れていた。
どこかへ歩いた痕跡も。
引きずられた痕跡も。
転移魔法が使われた痕跡もない。
ただ、そこから一人の人間だけが消えていた。
シグナムは携帯端末を取り出した。
「クロノ執務官」
『シグナム?』
「緊急事態です」
声が震えないよう、奥歯を噛み締める。
「第97管理外世界の市立図書館にて、闇の書と同系統の魔力反応を確認しました」
『闇の書と?』
「民間人一名が行方不明。現場には、大量の血痕と所持品が残されています」
一瞬の沈黙。
『民間人の名前は』
シグナムは床の鞄を見た。
「溱久遠です」
通信の向こうで、クロノが息を呑んだ。
だが、すぐに執務官の声へ戻る。
『現場を封鎖。何も動かさないでくれ。闇の書関連物なら、管理外世界への干渉条件を満たす。こちらから調査班を送る』
「承知しました」
『はやてたちは?』
「病院です」
『絶対に現場へ入れないでくれ』
シグナムは目の前の光景を見た。
「もとより、そのつもりです」
通信を切る。
ヴィータは、まだ久遠を呼び続けていた。
「ヴィータ」
「この血が全部あいつのだって、決まったわけじゃねえ」
「ああ」
「身体がねえなら、生きてる」
「ああ」
「だったら、捜せば見つかる」
シグナムは頷いた。
それ以外の答えを、口にすることはできなかった。
◇
病室では、はやてがシグナムからの連絡を待っていた。
携帯電話が鳴る。
「シグナム?」
『はい』
「久遠君、おった?」
すぐには答えが返らなかった。
『図書館では、まだ本人を発見できておりません』
「まだ?」
『周辺まで範囲を広げ、捜索を続けます』
「私も行く」
『なりません』
「でも」
『主はやては、そこにいてください』
強い声だった。
『久遠から連絡が入る可能性もあります。捜索の連絡を受ける者も必要です』
はやては病室の扉を見た。
今にも久遠が入ってくるような気がした。
雪で濡れた髪を拭きながら、遅くなってごめんと謝る。
なのはへの連絡を忘れたと言って、また怒られる。
「……分かった」
『はい』
「シグナム」
『何でしょう』
「絶対、連れて帰ってきて」
シグナムは、目の前に広がる血を見つめていた。
『約束します』
通話を終える。
また一つ、守れるか分からない約束が増えた。
◇
警察は久遠を捜していた。
家族と連絡を取り、友人へ話を聞き、病院から自宅までの道を何度も確認した。
雪の積もった公園。
通学路。
駅。
商店街。
川沿いの道。
一人で立ち寄りそうな場所を、一つずつ回っていく。
なのはとフェイトも、警察とは別に空から捜していた。
レイジングハートとバルディッシュの探査光が、夜の海鳴市へ広がる。
『No magical response.』
「もう一度お願い、レイジングハート」
『Search range is already at maximum.』
「それでも、もう一度」
『……All right, my master.』
白い光が広がる。
何度繰り返しても、結果は変わらなかった。
「久遠は、魔法を持ってないの」
なのはが言った。
「魔力反応だけじゃ、見つからないよ」
「うん。だから、体温や人の動いた痕跡も探してる」
フェイトはバルディッシュから届く情報を見つめる。
「まだ近くにいるなら、きっと見つけられる」
「近くに、いなかったら?」
フェイトは答えられなかった。
なのははレイジングハートを握る。
病院の入口で、自分が言った言葉を思い出す。
――わたしは魔法があるから。
久遠は、それをずるいと言って笑った。
なのはには魔法がある。
空を飛べる。
遠くまで声を届けられる。
強固な結界さえ破壊できる。
それなのに。
魔法を持たない一人の少年がどこにいるのか、知ることさえできなかった。
「久遠君!」
雪の降る街へ向かって叫ぶ。
「いたら返事して!」
風の音しか戻ってこない。
「怒ってないから!」
何に対して怒っていないのか、自分でも分からなかった。
黙っていなくなったことか。
約束の連絡をくれないことか。
一人で行くと言ったことか。
「もう怒らないから……返事してよ……!」
声が震えた。
フェイトが隣へ並ぶ。
「なのは。次へ行こう」
「うん」
「まだ、捜していない場所がある」
それが本当かどうかは、もう分からなかった。
それでも二人は、次の場所へ向かった。
◇
はやては眠ろうとしなかった。
物音がするたび、病室の扉を見る。
廊下を誰かが歩くたび、久遠ではないかと顔を上げる。
「主はやて。少しお休みください」
シャマルが声をかける。
「久遠君が帰ってくるかもしれへん」
「そのときは、私が必ず起こします」
「でも」
「三日前から、ほとんど眠っていないでしょう」
リインフォースを失ってから、はやては何度も夜中に目を覚ましていた。
眠れば、最後の別れを夢に見る。
起きれば、もう彼女がいないことを思い出す。
ようやく少し眠れるようになった夜に、今度は久遠が帰ってこなくなった。
「もう誰もいなくならへんって、決めたばっかりやのに」
「はい」
「久遠君も、逃げへんって言うた」
「はい」
「せやから、待ってなあかん」
はやては青い栞を握ったまま、扉を見ていた。
やがて、疲労に耐えきれなくなった瞼が閉じていく。
眠ったあとも、栞を離さなかった。
シャマルは掛け布団を整える。
病室の外には看護師がいる。
久遠が戻れば、すぐに連絡が届くよう頼んだ。
それから、シグナムへ通信をつなぐ。
「主はやては眠りました」
『来てくれ、シャマル』
それだけで、何かが起きたと分かった。
「分かりました。ザフィーラと向かいます」
◇
深夜の図書館は、管理局の結界に包まれていた。
外から見れば、ただの休館中の建物にしか見えない。
内部では、調査員たちが魔力痕跡と現場状況を記録していた。
クロノが入口で四人を待っていた。
「現時刻をもって、この場所を闇の書関連事件の調査区域に指定した」
表情は執務官のものだった。
だが、声には隠しきれない硬さがある。
「現地警察は、久遠の行方不明者捜索を続けている。この図書館の状況は知らせない」
「よろしいのですか」
シグナムが尋ねる。
「危険な魔導書と魔力汚染を、管理外世界の捜査機関に扱わせることはできない。こちらで記録と証拠をすべて回収したあと、建物を復旧する」
クロノは四人を見渡した。
「君たちは、この事件の正式な捜査担当ではない。だが、闇の書の術式を最もよく知っているのも君たちだ。僕の監督下で、調査と捜索への協力を頼みたい」
「無論です」
シグナムが答える。
「久遠を見つけるためなら、何でもする」
ヴィータが続いた。
シャマルとザフィーラも頷く。
四人は閲覧室へ入った。
シャマルが息を呑む。
ザフィーラの足が止まる。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
「久遠の匂いを追えるか」
シグナムが尋ねる。
ザフィーラは床へ膝をついた。
鞄。
携帯電話。
倒れた椅子。
血痕の周囲。
一つずつ確かめる。
やがて、静かに首を横へ振った。
「久遠の匂いは、ここで途切れている」
「外へ続いてねえのか」
「ない」
「そんなわけあるか!」
ヴィータが叫ぶ。
「身体がねえんだぞ! なら、どっかへ出ていったはずだろ!」
「人間としての久遠の匂いは、ここから先にない」
ザフィーラの低い声にも、僅かな震えがあった。
シャマルは黒い本の前へ立つ。
直接触れず、周囲へ幾重もの解析陣を展開した。
緑色の光が、白い頁を照らす。
「基礎構造は、夜天の書と同じです」
「やはり、闇の書の残滓か」
「はい。でも、防御プログラムそのものではありません。切り離されていた機能と命令が、独立した写本を作ったように見えます」
「何をしたか分かるか?」
クロノが尋ねる。
「蒐集、侵食、再生……いくつもの術式が重なっています。けれど、発動結果がありません」
「結果がない?」
「すべての魔力流が、この写本へ戻っています。転移先も、術式の出力先も残っていません」
シャマルは解析陣を切り替える。
反応は変わらない。
「この本が、すべてを抱え込んだように見えます」
白い頁へ呼びかける。
「聞こえますか」
返事はない。
「久遠君を、どこへやったのですか」
文字は浮かばない。
それでもシャマルは、もう一度名前を呼んだ。
「久遠君」
白い頁は、何も答えなかった。
図書館全体には、闇の書の魔力が残っている。
本棚へ。
机へ。
床へ。
窓へ。
一度は館内全域へ広がった残滓が、最後には血痕の中心と黒い写本へ収束していた。
そこから外へ続く魔力の道はない。
次元転移の座標もない。
生命反応もない。
管理局の探査は、何度試しても同じ答えを返した。
闇の書由来の反応は、この写本にある。
溱久遠の魔力反応は、存在しない。
当然だった。
人間だった久遠は、初めから魔法を持っていなかった。
「映像記録は?」
シグナムが尋ねる。
クロノが携帯端末へ映像を表示する。
久遠が職員用の扉から入る姿は、はっきりと残っている。
その後、長い時間、誰も映らない。
やがて扉が開く。
何かが外へ出ていく。
子供に見えた。
大人にも見えた。
人影ではなく、映像の乱れにしか見えない瞬間もある。
再生する者によって、輪郭も背丈も違って見えた。
「認識阻害か」
「その可能性はある。だが、これを人間一名の退館記録として確定することはできない」
「久遠かもしれねえだろ」
ヴィータが映像へ顔を近づける。
「だったら、こいつを追えばいい!」
「すでに周辺の映像と魔力記録を確認させている」
「見つかったのか」
クロノは首を横へ振った。
「図書館を出た直後に反応が途切れている。残された魔力は館内のものと同質で、個体として分離できない」
クオンの魔力的な核は、図書館に残された写本だった。
外へ出ていった身体は、そこから作られた一つの端末にすぎない。
管理局が魔力を追えば、すべての反応は黒い本へ戻る。
久遠を捜せば、魔力を持たないため反応しない。
図書館を出た何かを捜せば、認識阻害によって姿も記録も定まらない。
調査は正しく行われていた。
正しく行われたまま、答えにだけ届かなかった。
「この写本は、私が封印します」
シャマルが言った。
複数の封印術式を重ねる。
黒い本を白い布で包み、その上から管理局の保管箱へ収めた。
「必ず解析する」
クロノが告げる。
「写本の内部も、映像の人影も、考えられる限りの可能性を調べる。久遠が次元転移へ巻き込まれた可能性も含めて、捜索範囲を広げる」
「お願いします」
シグナムが頭を下げた。
四人も、図書館を出たあと久遠の捜索へ加わることになった。
シャマルの腕には、封印箱が抱えられていた。
その中にある黒い写本には、久遠の名前があった。
姿があった。
記憶があった。
図書館で最後に抱いた痛みも、恐怖も、帰りたいという願いも、すべて記録されていた。
けれど、白い頁は何も語らない。
誰も、そのことを知らなかった。
久遠を捜しにいく守護騎士たちは、その夜すでに、久遠が残したすべてを抱えていた。
◇
朝になっても、久遠は見つからなかった。
なのはとフェイトは、病院へ来ていた。
二人とも、ほとんど眠っていない。
はやても、物音で目を覚ましてから、ずっと病室の扉を見つめていた。
扉が開く。
シグナムとヴィータが入ってくる。
その後ろに久遠の姿はなかった。
「久遠君は?」
はやてが尋ねた。
シグナムはベッドの前へ進み、膝をつく。
「まだ、発見できておりません」
「まだってことは、何か見つかったんやね」
シグナムは答えなかった。
「シグナム」
「図書館の中で、久遠の所持品を発見しました」
なのはの指が、携帯電話を握りしめる。
「所持品って?」
「鞄と携帯電話です」
「本人は?」
「いませんでした」
「なら、近くにいるかもしれないの」
なのはが立ち上がる。
「図書館へ行けば、何か分かるかもしれない」
「現場へ入ることは許可できない」
「どうして?」
「管理局の調査区域となっています」
「わたしも管理局に協力してる。レイジングハートだって――」
「それでも駄目だ」
ヴィータが遮った。
「お前は、あそこへ来るな」
「でも!」
「頼むから、来ないでくれ」
怒鳴るのではなく、懇願するような声だった。
なのはは言葉を失った。
ヴィータが、そんな声を出す理由を考えてしまった。
「本は?」
はやてが尋ねた。
「私が頼んだ本は、どうなったん?」
「図書館の中にありました」
「返せたんやね」
「返却箱には入っていませんでした。ですが、本に損傷はありません」
「そっか」
はやては青い栞を見る。
「久遠君、ちゃんと持っていってくれたんや」
声が震えた。
「本なんか、どうでもよかったのに」
「主はやて」
「返却期限なんか、何日過ぎてもよかった。弁償したってよかった。退院してから、一緒に返しに行けばよかった」
青い栞へ、涙が落ちる。
「私が、返してきてなんて言わんかったら……」
「はやてちゃんのせいじゃない」
なのはが言った。
だが、その声にも力はなかった。
「わたしが一緒に行っていればよかった」
「なのはちゃん?」
「一緒に行こうかって聞いたの。久遠君は一人で平気だって言ったけど、わたしがついていけばよかった」
「それなら、なのはちゃんまで――」
はやては最後まで言えなかった。
何が起きたのか分からない。
それでも、久遠と一緒にいたなのはが無事だったとは限らない。
「久遠は、なのはへ連絡しようとしていた」
シグナムが静かに告げた。
なのはが顔を上げる。
「え?」
「携帯電話に、お前への発信記録が残されていた。だが、通話は接続されていない」
「連絡しようとしたの?」
「ああ」
「約束を、覚えてたの?」
「ああ」
なのはは自分の携帯電話を見る。
昨夜、何度も確かめた画面。
久遠からの着信は、一度も表示されなかった。
「わたし、待ってたの」
誰に言うでもなく呟く。
「ずっと、連絡を待ってたの」
久遠は、忘れていたのではない。
約束を破ったのでもない。
なのはが画面を見ていたとき。
遅いと笑っていたとき。
不安になって、何度も電話をかけていたとき。
久遠も、なのはへ電話をかけようとしていた。
けれど、その声は届かなかった。
「もしかしたら、助けを呼ぼうとしたのかもしれない」
なのはの声が震える。
「わたしに、来てほしかったのかもしれない」
「なのは」
フェイトが肩を抱く。
「どうして、わたしは気づけなかったの……?」
「久遠は、連絡しなかったんじゃない」
フェイトがゆっくりと言う。
「きっと、できなかったんだよ」
「だったら、余計に――」
「うん」
否定する言葉はなかった。
誰のせいでもないと簡単に言えば、久遠が一人で遭ったものまで軽くなる気がした。
フェイトはなのはの肩を抱いたまま、続けた。
「だから、今度は私たちが久遠を見つけよう」
「……うん」
「見つけて、何があったのか本人に聞こう」
「うん」
「帰ってきたら、みんなで怒ろう」
はやてが涙を拭う。
「約束、いくつも破っとるもん」
「ああ」
ヴィータが頷いた。
「帰ってきたら、あたしが逃げねえように捕まえる」
「殴ったらあかんよ」
「分かってる」
「絶対やで」
「分かってるって」
いつもなら笑えるやり取りだった。
誰も笑えなかった。
◇
警察は、一人の行方不明者として久遠を捜した。
図書館で何が起きたのかは知らない。
写真を配り。
目撃者を探し。
駅や道路の記録を調べた。
雪の中を歩いた可能性を考え、川や用水路まで捜索した。
それでも、久遠は見つからなかった。
時空管理局も、闇の書関連事件の被害者として久遠を捜した。
図書館の血液は、久遠のものと一致した。
九歳の子供が失えば、命に関わる量だった。
けれど、身体はない。
次元転移の記録もない。
周辺世界の入国記録。
救難信号。
医療施設へ運び込まれた身元不明者。
可能性があるものを、一つずつ調べた。
何も見つからなかった。
久遠自身には、追跡できる魔力がない。
闇の書の反応を探査すれば、管理局に保管された写本を示す。
映像に残った人影を追えば、見る者によって姿が変わり、街の中で途切れる。
正しい場所を探しているはずなのに、すべての手掛かりが別の答えを返した。
一日が過ぎた。
一週間が過ぎた。
一か月が過ぎた。
捜索を知らせる紙は、雨と風で少しずつ色褪せていった。
なのはは、携帯電話の音量を下げなくなった。
授業中も。
訓練中も。
眠るときも。
久遠から連絡が来たとき、今度こそ気づけるように。
電話が鳴るたび、画面へ手を伸ばした。
表示されているのは、いつも別の名前だった。
はやては退院すると、図書館へ行った。
復旧された館内には、あの夜の痕跡は何も残っていない。
窓際のいつもの席へ座り、久遠を待った。
待ち合わせの時間を過ぎても。
閉館を知らせる声が流れても。
扉から久遠が入ってくることはなかった。
管理局で保管された黒い写本は、長い調査を受けた。
頁はすべて白い。
内部へ呼びかけても、返事はない。
危険な活動も確認されなかった。
やがて、夜天の書と最も深いつながりを持つ者として、はやてが管理を任されることになった。
はやては空白の頁を何度もめくった。
「久遠君」
名前を呼んだ。
「そこにおるん?」
耳を澄ませた。
それでも、新しい文字が浮かぶことはなかった。
返事もなかった。
久遠の鞄とノートは、管理局の調査が一段落したあと、家族へ返された。
家族の許しを得て、そのノートははやてが預かることになった。
ノートの途中に、題名のついた頁があった。
――はやてが治ったら、みんなでしたいこと。
図書館のいつもの席へ戻る。
読みかけの本の続きを読む。
外国料理を一緒に作る。
なのはとフェイトとアリサとすずか、それからはやて。
次はボクも入って、全員で写真を撮る。
みんなで出かける。
行き先は、あとで決める
みんなで本屋へ行く。
どの項目にも、終わった印はついていなかった。
はやては青い栞を、その頁へ挟んだ。
久遠が帰ってきたら、続きを一緒に決めるために。
なのはとはやては、久遠が帰る場所を空け続けた。
フェイトも。
アリサも。
すずかも。
八神家の家族も。
いつか帰ってくると信じた。
帰ってきたら、まず怒る。
それから、ただいまを言わせる。
そう決めていた。
けれど、久遠が帰ってくることはなかった。
定められた年月が過ぎた。
警察の記録では、最後まで行方不明だった。
やがて、失踪した少年は死亡したものとして扱われた。
葬儀が行われた。
遺体のない墓が作られた。
溱久遠という人間が確かに生きていたことだけが、残された人々の中へ刻まれた。
その頃から、ときどき奇妙な噂が流れるようになった。
夜道で、久遠に似た少年を見た。
声をかけようとしたときには、もう姿がなかった。
子供だったと言う者もいた。
大人だったと言う者もいた。
男だったか女だったかさえ、証言は一致しない。
見間違いだと言う者もいた。
久遠が生きている証拠だと信じる者もいた。
なのはたちは、その噂を一つ残らず確かめた。
どの噂にも、確かな記録は残っていなかった。
年月が流れても、なのはの連絡先から久遠の名前が消されることはなかった。
もう、その番号へ電話をかけてもつながらない。
それでも、消すことだけはできなかった。
久遠は約束を忘れていなかった。
なのはへ連絡しようとしていた。
なのはも約束を忘れず、連絡を待っていた。
二人とも、相手を思っていた。
ただ。
二人をつなぐはずだった声だけが、最後まで届かなかった。
高町なのはには。
魔法を持たない幼なじみがいた。
八神はやてには。
図書館で待ち合わせる友達がいた。
私たちには、魔法を持たない大切な人がいた。