魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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おまけ1 何も起きなかった日

 フェイトが遠い場所へ行ってから、いくつ目かの日曜日だった。

 

 朝の八時十三分。

 

 久遠の携帯電話が鳴った。

 

「もしもし」

 

『久遠君、起きてた?』

 

「起こしてから聞くことじゃないよね」

 

『ご、ごめんなさいなの』

 

「起きてたけど」

 

『もう。じゃあ、そう言ってよ』

 

 電話の向こうで、なのはが頬を膨らませた気配がした。

 

 久遠は机の上へ置いていた鉛筆を転がす。

 

 目の前には、朝食より先に開いた算数の問題集。

 

 昨夜、あと二問だけと言って眠り、結局そのままにした頁だった。

 

「それで、何かあった?」

 

『何かないと電話しちゃ駄目?』

 

「八時十三分に?」

 

『久遠君は起きてたんでしょう?』

 

「結果だけ見ればね」

 

『だったらいいの』

 

「よくはないと思う」

 

 けれど、声はいつもと変わらない。

 

 怪我をしたわけでも、泣いているわけでもない。

 

 そのことを確かめて、久遠は椅子へ座り直した。

 

『今日、翠屋に来られる?』

 

「午前中なら。二時に図書館で待ち合わせがあるから」

 

『はやてちゃん?』

 

「うん」

 

『また、あの読めない料理の本を読むの?』

 

「今日は辞書を三冊持っていく」

 

『増やせば読めるものなのかな』

 

「昨日までは一冊で駄目だったから」

 

『二冊で試してからでもよかったんじゃない?』

 

「時間を無駄にしたくない」

 

『その本、一か月くらい読んでるよね』

 

「五週間」

 

『もう十分、時間をかけてると思うの』

 

 否定できなかった。

 

     ◇

 

 翠屋へ着くと、窓際の席に三人がいた。

 

 なのはと、アリサと、すずか。

 

 テーブルの上には色紙、色鉛筆、包装用のリボン。それから、桃子が置いていった焼き菓子の皿がある。

 

「遅いわよ」

 

 アリサが言った。

 

「九時に来てって言われて、いま八時五十八分だけど」

 

「私たちは四十分からいたの」

 

「それは早く来たって言うんだよ」

 

「久遠君、おはよう」

 

 すずかが笑う。

 

「おはよう。何を作ってるの?」

 

「フェイトちゃんへ送るカードなの」

 

 なのはが、まだ何も書かれていない色紙を持ち上げた。

 

「この前、手紙を送ったばかりじゃなかった?」

 

「あれは手紙。これは、帰ってきたときに渡すおかえりカードよ」

 

 アリサが当然のように答える。

 

「まだ帰ってくる日は決まってないよ」

 

「だから先に作っておくの」

 

「帰ってくる日に間に合わなかったら困るもんね」

 

 すずかも頷いた。

 

 久遠は空いている椅子へ座る。

 

 色紙の中央には、なのはが下書きした大きな文字があった。

 

 ――おかえり、フェイトちゃん。

 

 その周りへ、四人で一言ずつ書くらしい。

 

「久遠君は、ここね」

 

 なのはが右下を指差した。

 

「狭くない?」

 

「久遠君の字、小さいから大丈夫なの」

 

「そういう問題?」

 

「嫌なら、もっと大きく書けばいいじゃない」

 

 アリサから黒いペンを渡される。

 

 久遠は色紙を見つめた。

 

「何て書けばいいの」

 

「自分で考えなさいよ」

 

「アリサは?」

 

「見ないで!」

 

 手で隠された。

 

「すずかは?」

 

「私は、またみんなで遊ぼうね、にしたよ」

 

「すずか!」

 

「聞かれたから」

 

「なのはは?」

 

「わたしも内緒なの」

 

 三人の視線が、久遠へ集まる。

 

 書くまで逃がしてくれそうになかった。

 

 久遠はペン先を色紙へつけた。

 

 少し考えて、一行だけ書く。

 

 ――帰ってきたら、おかえりを言うよ。

 

「それだけ?」

 

 アリサが言った。

 

「約束したから」

 

「もう少しないの? 会えるのが楽しみとか、寂しいとか」

 

「カードは帰ってきてから渡すんだろ。なら、もう会えてるよ」

 

「そういう理屈の話じゃないのよ」

 

「久遠君らしくて、いいと思うな」

 

 すずかはそう言ってくれた。

 

 なのはは、久遠の一行をしばらく見つめていた。

 

「わたしも、別の言葉にしようかな」

 

「どうして?」

 

「おかえりが二つになっちゃうから」

 

「何回言ってもいいだろ」

 

 久遠が答える。

 

「帰ってきた人には、帰ってきた人数だけ言っていいと思う」

 

 なのはが目を丸くした。

 

 アリサも、すずかも、少しだけ黙る。

 

「なに?」

 

「久遠君が、たまにすごくいいことを言うから」

 

「たまに、は余計だよ」

 

 なのはが笑った。

 

「じゃあ、わたしもおかえりって書くの」

 

「私も書くわ」

 

「私も」

 

「全員同じになったね」

 

「いいのよ。帰ってきた人数だけじゃなくて、待ってた人数だけあっても」

 

 アリサが言う。

 

 結局、色紙には四つのおかえりが並んだ。

 

 文字の大きさも、色も、形も違う。

 

 けれど、どれも同じ一人へ向けられていた。

 

     ◇

 

「久遠君、口の横」

 

 カードを作り終え、焼き菓子を食べていたときだった。

 

 なのはが自分の頬を指差す。

 

「何?」

 

「クリームがついてるの」

 

 久遠が手で拭こうとすると、なのはが紙ナプキンを持って身を乗り出した。

 

「動かないで」

 

「自分で取れるよ」

 

「もう取れたの」

 

「なら先に言って」

 

「言ったら逃げるでしょう?」

 

「逃げないよ」

 

「この前、桃子さんに髪を結ばれそうになったときは逃げたよね」

 

「あれは危険だったから」

 

「何が危険なのよ」

 

 アリサが呆れた声を出す。

 

「久遠、髪が伸びすぎなのよ。顔にかかってるじゃない」

 

「切るよ」

 

「いつ?」

 

「そのうち」

 

「そう言う人は切らないの」

 

 なのはに言われた。

 

「なのははボクの保護者なの?」

 

「幼なじみなの」

 

「答えになってない」

 

「幼なじみって、そういうものなんじゃない?」

 

 すずかが穏やかに言う。

 

「違うと思う」

 

「私は、なのはに賛成ね」

 

「アリサは面白がってるだけだろ」

 

「分かる?」

 

「隠してないからね」

 

 四人で笑う。

 

 その途中で、なのはの携帯電話が震えた。

 

 なのはは誰より早く手を伸ばし、画面を見る。

 

 開いた顔が、そのまま少しだけ残念そうになる。

 

「フェイトじゃなかった?」

 

 久遠が尋ねる。

 

「お兄ちゃんからだったの」

 

「恭也さんも家族なんだから、もう少し嬉しそうにしたら?」

 

「嬉しいけど……」

 

 なのはは画面を閉じた。

 

 すぐ、また開く。

 

「連絡が来たら、ちゃんと教えるって言ってたよ」

 

「分かってるの」

 

「五分に一回見ても、早くは来ないよ」

 

「久遠君だって、この前ずっと見てたでしょう?」

 

「ボクは十分に一回だった」

 

「あまり変わらないわよ」

 

 アリサの指摘に、二人とも黙った。

 

「似た者同士だね」

 

 すずかが笑う。

 

「違うよ」

 

「違うの」

 

 今度は声まで重なった。

 

     ◇

 

 翠屋を出たのは、昼を少し過ぎたころだった。

 

 図書館の待ち合わせまでは、まだ時間がある。

 

 それでも久遠が早めに向かおうとすると、なのはも店の外までついてきた。

 

「見送りはいらないよ」

 

「少し外へ出たかっただけなの」

 

「上着も着ないで?」

 

「すぐ戻るから」

 

 冬の風が、なのはの髪を揺らした。

 

 久遠は首に巻いていたマフラーを外しかける。

 

「いらないの」

 

「寒いだろ」

 

「だったら久遠君がつけてて。図書館まで歩くんだから」

 

「ボクは平気」

 

「平気と寒くないは違うの」

 

「それ、ボクが教えた言い方だよね」

 

「使える言葉は使うの」

 

 なのはは両手を背中へ隠した。

 

 受け取るつもりはないらしい。

 

 久遠は諦めてマフラーを巻き直した。

 

「暗くなる前に帰ってね」

 

「図書館へ行くだけだよ」

 

「久遠君は図書館へ行くだけでも、途中で何か見つけるから」

 

「何かって?」

 

「困ってる子とか。木から降りられない子とか。怪我した動物とか」

 

「毎回見つけるわけじゃないよ」

 

「見つけたら放っておけないでしょう?」

 

「なのはに言われたくない」

 

「だから心配するの。同じだから」

 

 なのはは真っ直ぐ久遠を見る。

 

「帰ったら、連絡してね」

 

「分かった」

 

「本当に?」

 

「帰ったら連絡するよ」

 

「約束なの」

 

「約束」

 

 なのはが、ようやく笑った。

 

「いってらっしゃい、久遠君」

 

「行ってきます」

 

     ◇

 

 図書館の窓際には、まだ誰もいなかった。

 

 久遠は時計を見る。

 

 一時三十八分。

 

 待ち合わせには二十二分早い。

 

 いつもの席へ辞書を三冊積み、外国料理の本が置かれる場所を空けておく。

 

 一冊目を開いたところで、車輪の音が聞こえた。

 

「遅いで、久遠君」

 

「まだ一時四十五分だよ」

 

 はやてが、得意そうな顔で近づいてくる。

 

 膝の上には、見慣れた青い表紙の本。

 

「私が先に声かけたから、今日も私の勝ちや」

 

「先に来たのはボクだけど」

 

「細かいこと気にしたら負けやで」

 

「その決め方なら、ずっとはやてが勝つよね」

 

「気づくん遅かったなあ」

 

 久遠は向かいの椅子を引き、はやてが通れる幅を空けた。

 

 はやては自分で車椅子を机へ寄せる。

 

「今日は本気やね」

 

 三冊の辞書を見て言った。

 

「何語か分からないから、候補を持ってきた」

 

「全部違うたら?」

 

「来週は別の三冊」

 

「図書館の辞書、全部試すつもり?」

 

「その前に本の返却期限が来る」

 

「延長するで」

 

「料理を作るより、借りるのが目的になってない?」

 

「久遠君と読むんが目的やから、だいたい合うとる」

 

 何でもない声で言われた。

 

 久遠は返事をしようとして、一度止まる。

 

「……なら、写真だけ見てもよかったんじゃない?」

 

「そこは喜ぶところやで」

 

「喜んでるよ」

 

「全然見えへん」

 

「いつも一緒に読んでるだろ」

 

「久遠君は、言葉が足らへんなあ」

 

「辞書は三冊あるよ」

 

「そういう言葉と違う」

 

 はやてが呆れたように笑った。

 

 青い栞を抜き、前回の続きを開く。

 

 大きな鍋の中に、赤いスープらしきものが入っている。

 

 周りには、見たことのある野菜と、見たことのない香草。

 

「今日は、これの名前だけでも調べるで」

 

「作り方じゃなくて?」

 

「名前が分からん料理を作るんは、なんか怖いやん」

 

「材料も分からないよ」

 

「ほんなら、名前と材料まで」

 

「作り方は?」

 

「来週」

 

 目標は最初から低かった。

 

     ◇

 

 三十分後。

 

「たぶん、玉ねぎ」

 

「さっきは肉って言うてへんかった?」

 

「辞書には両方載ってる」

 

「一つの言葉が肉と玉ねぎになるん?」

 

「辞書を間違えたかもしれない」

 

「三冊とも?」

 

「本の方が間違ってる可能性もある」

 

「本に謝り」

 

 二人で声を抑えて笑う。

 

 近くを通った司書がこちらを見る。

 

 久遠とはやては同時に口を閉じた。

 

 司書が通り過ぎる。

 

「いまのは久遠君が悪い」

 

「はやても笑っただろ」

 

「私は静かに笑っとった」

 

「声が出てたよ」

 

「証拠ある?」

 

「ボクが聞いた」

 

「久遠君は私の味方やから、証人にはならんなあ」

 

「どういう決まり?」

 

「いま決めた」

 

 また笑いそうになり、二人で口元を押さえた。

 

 料理の名前は、まだ分からない。

 

 材料も、玉ねぎか肉か決まっていない。

 

 それでも青い栞は、前より一頁だけ先へ進んだ。

 

     ◇

 

「なあ、久遠君」

 

 休憩のため本を閉じたとき、はやてが言った。

 

「フェイトちゃん、まだ遠くにおるん?」

 

「うん。もう少しかかると思う」

 

「寂しい?」

 

「なのはが?」

 

「久遠君が」

 

「寂しくないよ」

 

「即答やな」

 

「帰ってくるって言ったから」

 

 帰る日が決まっていないことと、帰ってこないことは違う。

 

 待っている時間が長くても、約束までなくなるわけではない。

 

「信じとるんや」

 

「フェイトは約束を守るよ」

 

「ずいぶん信用しとるんやね」

 

「友達だから」

 

 はやては頬杖をつくように手を添えた。

 

「なのはちゃんは幼なじみで、フェイトちゃんは帰ってくる友達。アリサちゃんは?」

 

「声が大きい友達」

 

「怒られるで」

 

「でも、誰かが困ると一番先に怒ってくれる」

 

「すずかちゃんは?」

 

「優しい友達」

 

「普通やな」

 

「静かに見てるけど、決めたらたぶん一番頑固」

 

「なるほど。久遠君は?」

 

「ボク?」

 

「四人から見た久遠君」

 

 考えたことがなかった。

 

「よく怪我をする友達」

 

「それ、友達の説明と違うやろ」

 

「なのはには、たぶんそう思われてる」

 

「ほんなら、私から見た久遠君を教えたる」

 

「可愛い男の子はなしで」

 

「先に禁止された」

 

「毎回言うからだよ」

 

 はやては少し考えるふりをした。

 

「届かん本を取ってくれる友達」

 

「普通だね」

 

「勝手に車椅子を押さん友達」

 

「それも普通だろ」

 

「一人分の時間を、二人で使ってくれる友達」

 

 久遠は何も言わなかった。

 

 はやての声は、いつもと同じように明るい。

 

 けれど、その言葉だけは、笑って流してはいけない気がした。

 

「はやては、待ち合わせる友達だよ」

 

「うん」

 

「先に来たら待っててくれて、ボクが先なら、ちゃんと来る」

 

「うん」

 

「だから、一人分じゃない」

 

「なにが?」

 

「最初から、二人分の時間だよ」

 

 はやてが目を丸くする。

 

 それから、ゆっくり顔を伏せた。

 

「はやて?」

 

「久遠君は、ほんまにずるいなあ」

 

「何が?」

 

「分からんでええよ」

 

「教えてくれないと分からない」

 

「教えたら、もっとずるなるから嫌や」

 

「意味が分からないよ」

 

「それでええ」

 

 顔を上げたはやては笑っていた。

 

 けれど、耳が少しだけ赤くなっていた。

 

 久遠は暖房が暑いのだと思った。

 

     ◇

 

「いつか、みんなに会ってみたいなあ」

 

 はやては、料理の本を開き直しながら言った。

 

「なのはたちに?」

 

「久遠君の話だけやと、ほんまにおるんか怪しいし」

 

「いるよ」

 

「四人とも可愛くて、優しくて、久遠君のこと心配しとる女の子なんやろ?」

 

「アリサは優しいって言うと怒るかもしれない」

 

「そこやなくて」

 

「なに?」

 

「……なんでもない」

 

 はやてが小さく息を吐く。

 

「じゃあ、フェイトが帰ってきたら紹介するよ」

 

「ええの?」

 

「はやても会いたいんだろ」

 

「会いたい」

 

「すずかとは、本の話が合うと思う。なのはは、たぶん最初から話しかける。アリサは――」

 

「声が大きい」

 

「覚えてたんだ」

 

「大事なところやろ?」

 

「違うよ」

 

「フェイトちゃんは?」

 

「少し静かだけど、はやてが話せば聞いてくれる」

 

「久遠君は?」

 

「ボクもいるよ」

 

「そうやね」

 

 はやては嬉しそうに笑った。

 

「ほんなら、みんなでこの料理を作ろう」

 

「それまでに読めたらね」

 

「読めんかったら、写真を見て作る」

 

「危ないからやめよう」

 

「久遠君がおったら大丈夫や」

 

「ボクに料理の失敗を止める力はないよ」

 

「魔法でも無理かもしれんなあ」

 

「魔法?」

 

「言い方や。そんな顔せんでもええやん」

 

 久遠は自分がどんな顔をしたのか分からなかった。

 

 魔法。

 

 なのはが出会い、久遠にはまだ名前さえ知らされていないもの。

 

 はやてにとっては、料理の失敗を止めるくらい遠い、ただの空想だった。

 

「そうだね。魔法でも無理だと思う」

 

「そこは何とかしてくれへん?」

 

 二人はまた、司書に怒られないくらいの声で笑った。

 

     ◇

 

 閉館を知らせる音楽が流れた。

 

 結局、料理の名前は分からなかった。

 

 材料も、三つしか判明しなかった。

 

「大成果やな」

 

「三冊使って三つだけだよ」

 

「一冊に一つや。分かりやすいやん」

 

「来週は五冊持ってくる」

 

「久遠君、負けず嫌いやったん?」

 

「はやてにだけは言われたくない」

 

 本を閉じる。

 

 青い栞を、今日進んだ一頁へ挟む。

 

 はやてはそれを確かめてから、本を膝へ載せた。

 

「来週も二時でええ?」

 

「うん」

 

「今度は私が先に来るからな」

 

「今日も、はやての中では勝ったんじゃないの?」

 

「連勝記録を伸ばすんや」

 

「何回?」

 

「今日で五回」

 

「全部、判定がおかしい」

 

「負けた人は、みんなそう言うんやで」

 

 図書館を出ると、空は薄い灰色だった。

 

 雪にはならない、小さな雨が落ち始めている。

 

 はやては鞄から折り畳み傘を出した。

 

「それ、自分で差せる?」

 

「傘立て、ついとるで」

 

 車椅子の横へ、傘を固定するための金具がある。

 

「知らなかった」

 

「何でもやってくれんでええって言うたやろ」

 

「何でもできるって意味じゃないだろ」

 

「せやな。できんときは頼む」

 

 はやては傘を開き、自分で金具へ留めた。

 

「できるときは?」

 

「見とってくれたらええ」

 

「分かった」

 

 久遠も傘を開く。

 

 図書館の前で、道が二つに分かれている。

 

「ほな、また来週」

 

「また来週」

 

「約束やで」

 

「約束」

 

 はやてが車輪を押す。

 

 数メートル進んだところで、振り返った。

 

「久遠君!」

 

「なに?」

 

「みんなに会わせてな!」

 

「フェイトが帰ったらね!」

 

「待っとる!」

 

 雨音の向こうで、はやてが笑った。

 

 久遠も手を振る。

 

 青い栞を挟んだ本が、はやての膝にある。

 

 来週になれば、また同じ席で続きを読む。

 

 その次の週も。

 

 料理の名前が分かるまで。

 

 全員で作れる日が来るまで。

 

 何度でも待ち合わせればいい。

 

 このときの二人には、そう信じない理由がなかった。

 

     ◇

 

 家へ着いたのは、午後五時十二分だった。

 

 久遠は濡れた傘を閉じ、玄関へ入る。

 

 靴を脱ぐより先に、携帯電話を取り出した。

 

『帰ったよ』

 

 なのはへ送る。

 

 十秒もしないうちに、返事が来た。

 

『おかえりなさい』

 

『早いね』

 

『待ってたから』

 

 久遠は画面を見つめる。

 

『ただいま』

 

 そう返してから、自分の部屋へ向かった。

 

     ◇

 

 夜の八時。

 

 もう一度、携帯電話が鳴った。

 

 今度は、なのはからの短い文だった。

 

『フェイトちゃんから連絡が来たよ』

 

 続けて、転送された文章が届く。

 

『みんなへ。元気です。もう少しで帰れると思います。帰ったら、会いに行きます』

 

 丁寧で、少し固い。

 

 フェイトらしい文章だった。

 

 久遠は朝に作った色紙を思い出す。

 

 四つ並んだ、おかえり。

 

 図書館で交わした、いつか紹介するという約束。

 

 来週の二時の、いつもの席。

 

 明日になれば学校がある。

 

 放課後になれば、なのはたちと話す。

 

 日曜日になれば、はやてと本を読む。

 

 フェイトが帰れば、一人増える。

 

 いつか二つの友達が一つになれば、もっと賑やかになる。

 

 久遠は、そうなる日を当たり前のように思い浮かべた。

 

『帰ってきたら、おかえりを言うよ』

 

 フェイトへ返事を送る。

 

 少しして、フェイトから届いた。

 

『うん。ただいまを言いに帰るね』

 

 久遠は笑った。

 

 机の上のノートを開き、次の日の予定を書く。

 

 学校へ行く。

 

 図書館へ返す本を忘れない。

 

 帰ったら、なのはへ連絡する。

 

 どれも、わざわざ書くほどではない予定だった。

 

 けれど、忘れない方がいいことばかりだった。

 

 その日、久遠は誰も助けなかった。

 

 なのはは空を飛ばなかった。

 

 フェイトは遠い場所で、帰る準備をしていた。

 

 はやては青い栞を挟んだ本を、枕元へ置いて眠った。

 

 誰も傷つかず。

 

 誰も泣かず。

 

 誰もいなくならなかった。

 

 約束は、次に会うための言葉でしかなかった。

 

 おかえりは、帰ってきた人へ言えばよかった。

 

 また明日は、本当に明日へ続いていた。

 

 そんな、何も起きなかった一日だった。

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