リインフォースがいなくなって、二日が過ぎた。
病室には、朝から五人の子供が集まっていた。
ベッドの上には、はやて。
その右側に、なのはとフェイト。
窓際には、人の姿をしたユーノ。
久遠は空いていた丸椅子へ座り、全員の顔を見回した。
「暗いなあ」
はやてが言った。
「外は晴れとるのに、ここだけまだ夜みたいや」
「ごめんね、はやてちゃん」
なのはが無理に笑おうとする。
「謝ってほしいんと違うよ」
はやては、枕元に置かれた青い栞へ触れた。
まだ、笑うと少しだけ泣きそうな顔になる。
それでも、目を逸らさなかった。
「寂しいんは、みんな一緒や。せやけど、ずっと同じ顔で座っとったら、リインフォースに怒られてまう」
「リインフォースは、怒らないと思う」
久遠が言う。
「ほんなら、心配される」
「それは、されるかも」
「やろ?」
はやてが少し笑った。
その笑顔を見て、フェイトの肩から僅かに力が抜ける。
「それでな」
はやては、なのはが膝に載せていた紙を指差した。
「そのお出かけ、本当に今日行くん?」
「そのつもりだったんだけど……」
なのはは紙を持ち上げる。
色の違うペンで、いくつもの場所が書かれていた。
駅前。
本屋。
商店街。
公園。
喫茶店。
その横には、食べたいものまで細かく並んでいる。
「はやてちゃんを置いて遊びに行くのは、よくないかなって」
「置いていかれるほど、一人やないよ」
病室の壁際には、守護騎士たちがいた。
ヴィータは窓辺の椅子へ座り。
シャマルは今日の薬を確認し。
ザフィーラは静かに入口を守っている。
シグナムはベッドのそばに立っていた。
「うちには家族がおる」
はやては四人を見回してから、なのはたちへ向き直った。
「フェイトちゃんは帰ってきてから事件続きで、まだゆっくり遊びに行けてへんやろ。ユーノ君も、人の姿で町を歩くんはあんまりないんやろ?」
「はい」
ユーノが頷く。
「フェレットなら何度も出かけてるけどね」
久遠が付け足した。
「久遠君」
「間違ってないだろ」
「間違ってはいないですけど」
ユーノが困った顔をする。
「ほんなら、行ってきたらええ」
「でも」
「これは主はやての命令だ」
シグナムが静かに言った。
なのはが目を丸くする。
「命令なの?」
「遊びに行けという命令もあるんだね」
フェイトが真面目に受け取っている。
「フェイトちゃん、そこは真剣に考えんでええよ」
はやてが笑う。
「夕方までに、楽しかった話を持って帰ってきて。それがお見舞いや」
「お土産は?」
久遠が尋ねる。
「甘いもんがええなあ」
「話だけじゃなかった」
「お見舞いは多い方が嬉しいやろ」
「主はやて。食事の制限が」
シャマルが口を挟む。
「少しくらいならええって、先生も言うとったで」
「一つだけですよ」
「交渉成立や」
はやてが満足そうに頷く。
「ほら。みんな、行ってらっしゃい」
その言葉に、久遠は立ち上がった。
「行ってきます」
なのはとフェイトも続く。
「行ってきます、はやてちゃん」
「行ってきます」
「行ってきます」
最後にユーノも頭を下げた。
四人分の声に、はやてが手を振る。
「うん。行ってらっしゃい」
◇
「全部は無理だと思う」
病院を出てすぐ、久遠はなのはの計画表を見ながら言った。
「まだ一つ目にも着いてないの」
「だからだよ。公園が三か所もある」
「それぞれ違う公園なの」
「喫茶店も二軒あるよ」
「食べ比べるの」
「はやてへのお土産を買う前に、ボクたちが食べすぎると思う」
なのはが計画表を自分の胸へ引き寄せた。
「じゃあ、久遠君はどこへ行きたいの?」
「本屋」
「一番目から動いてないの!」
「一番目に行きたいんだから、仕方ないだろ」
「僕も本屋には行ってみたいです」
ユーノが久遠の隣へ並ぶ。
「二対二だね」
久遠がフェイトを見る。
「まだフェイトちゃんは何も言ってないよ」
「フェイトは?」
尋ねられたフェイトは、計画表と通りの先を交互に見た。
「私は……みんなと一緒なら、どこでも」
「それは禁止なの」
なのはが即座に言った。
「禁止?」
「今日はフェイトちゃんが行きたいところへ行く日だから。どこでもいい、は駄目」
「でも、まだ行ったことのない場所ばかりだから、選ぶのは難しいよ」
「それなら、見ながら決めればいい」
久遠が言う。
「途中で変えてもいいし」
「計画表は?」
「参考にする」
「久遠君が作ったんじゃないのに、どうしてそんなに簡単に言うの?」
「全部回れないから」
「まだ決まってないの!」
なのはの声が冬の通りへ響いた。
フェイトが口元を押さえる。
「笑った?」
「笑ってないよ」
「笑ってたよね、フェイトちゃん」
「少しだけ」
今度は隠さずに笑った。
その顔を見て、なのはもようやく笑う。
四人は、最初の目的地だけを決めて歩き始めた。
◇
駅前へ続く道には、昨夜の雪が薄く残っていた。
人の姿をしたユーノは、何度も周囲を見ている。
「そんなに珍しい?」
久遠が尋ねる。
「目の高さが違うんです」
「いつも地面に近いから?」
「そうです。あと、人の姿だと歩く場所を選ばないと、ぶつかりますね」
「フェレットのときも、なのはの肩に乗ってただけだろ」
「あれは、なのはが避けてくれていたんです」
「ユーノ君、たまに尻尾でわたしの目を隠してたけどね」
「ごめん、なのは」
「本当にフェレットだったんだね」
フェイトが言う。
「フェイトも知らなかったの?」
「人の姿で会うことの方が多かったから」
「ボクは、ずっとなのはのペットだと思ってた」
「ペットではありません」
「いまは分かってるよ」
「いまは、という言い方が少し気になります」
ユーノは困っていたが、前よりも話しやすそうだった。
魔法のことを打ち明けられた日には、聞きたいことが多すぎた。
はやての病気へ魔法が関わっていると分かってからは、普通の話をする時間がなかった。
こうして並んで町を歩くのは初めてだった。
「そうだ」
フェイトが足を少し緩める。
「久遠。カードのこと、もう一度お礼を言ってもいい?」
「カード?」
「帰ってきたときに、みんながくれたカード」
「渡したときにも聞いたよ」
「あのときは、嬉しいとしか言えなかったから」
色紙に並んだ、四つのおかえり。
「何度も読んだよ」
「同じ言葉しか書いてなかっただろ」
「同じじゃなかった」
フェイトは白いリボンへ触れた。
「字も違ったし、書いた人も違った。みんなが待っていてくれたんだって、分かったから」
「帰ってきた人には、待ってた人数だけ言っていいんだって」
なのはが久遠の言葉を覚えていた。
「久遠君が言ったんだよ」
「そうだった?」
「自分で忘れないで」
「カードはフェイトへ渡したから、見返せない」
「そういう問題じゃないの」
なのはが頬を膨らませる。
その隣で、ユーノが少しだけ視線を逸らした。
「どうしたの?」
久遠が尋ねる。
「いえ。僕も一度、海鳴を離れていたなと思って」
「ユーノ君には、カードを作ってなかったの」
なのはが立ち止まった。
「ご、ごめんね! ユーノ君!」
「謝ってほしいわけじゃないよ。僕はすぐに戻ってきたし」
「帰ってきたのは同じだろ」
久遠も立ち止まる。
ユーノへ向き直った。
「おかえり、ユーノ」
あまりに普通に言ったため、ユーノはすぐに答えなかった。
「いま言うんですか?」
「まだ言ってなかったから」
「道の真ん中だよ、久遠君」
「場所は決めてなかった」
フェイトが、静かに笑っている。
ユーノも困ったように笑った。
「ただいま、久遠君」
「うん」
「わたしも」
なのはが一歩前へ出る。
「おかえり、ユーノ君」
「私も言っていい?」
「もちろん」
「おかえり、ユーノ」
「ただいま。なのは、フェイト」
今度は三人分だった。
通り過ぎる人が、不思議そうに四人を見る。
「続きは本屋で話そう」
久遠が歩き出す。
「久遠君が始めたんでしょう?」
なのはも追いかける。
「でも、言えてよかった」
ユーノの声が、後ろから聞こえた。
◇
本屋に入った途端、四人は二つに分かれた。
ユーノは、迷うことなく歴史書の棚へ向かい。
久遠は、新刊の実用書を確かめる。
なのはとフェイトは、入口に取り残された。
「案内されてるのは、わたしたちの方かもしれないね」
フェイトが言った。
「二人とも、本屋だけ迷わないの」
なのはは久遠の後ろへ回り、手に取った本の表紙をのぞいた。
「応急手当の本?」
「新しい版が出てる」
「前にも買ってたよね」
「前のは家に置く。これは鞄に入る大きさだから、持ち歩ける」
「今日は楽しい本を選ぶ日なの」
「これも役に立つよ」
「役に立つ本じゃなくて、久遠君が楽しむ本」
「読むのは楽しい」
「けが人が出てから使う本でしょう?」
「出ない方がいいけど、出たときに知らないよりはいい」
なのはは本を取り上げなかった。
ただ、隣の棚から一冊の小説も抜き出す。
「じゃあ、こっちも」
「二冊買えってこと?」
「一冊は役に立つ本。一冊は久遠君が何もしなくていいときに読む本」
「何もしなくていいとき?」
「誰もけがをしてなくて、待ってるだけでいいとき」
差し出されたのは、少年たちが遠い町まで旅をする物語だった。
表紙では、四人の登場人物が同じ道を歩いている。
「面白い?」
「まだ読んでないから分からないの」
「なら、なのはも買って」
「どうして?」
「先に読んだ方が、面白いか教える」
「二人で読めばいいんじゃないかな」
フェイトが後ろから言った。
手には、星座の本を持っていた。
「それにしたの?」
「うん。この世界の星を、ちゃんと知りたいから」
「別の世界だと、星も違う?」
「違うよ。でも、似た形に見える星もある」
フェイトが頁を開く。
「今度、一緒に見よう」
「夜に?」
「うん」
「大人も呼ぼうね」
なのはが言った。
「久遠君だけだと、夜中まで見ていそうなの」
「フェイトも止めないと思う」
「私も見たいから」
「ほら」
「じゃあ、僕が止めます」
いつの間にか戻ってきたユーノが言った。
腕には、考古学と古代文字の本が三冊積まれている。
「ユーノが一番遅くまで読むと思う」
「これは調べものです」
「ボクの応急手当と同じこと言ってる」
「一緒にしないでください」
「同じだよ」
「久遠君、こっちの小説も買うんでしょう?」
なのはが逃がさないように本を差し出す。
結局、久遠は二冊とも買った。
◇
喫茶店では、フェイトが五分近くメニューを見つめていた。
「決まらない?」
向かいに座った久遠が尋ねる。
「どれもおいしそうで」
「それなら、好きなものを選べばいいよ」
「好きなものが、まだ分からないんだ」
フェイトは困ったように言った。
「なのはは、何にする?」
「わたしは苺のパフェなの」
「じゃあ、私も」
「それは禁止」
久遠となのはの声が重なった。
フェイトが瞬きをする。
「二人とも同じことを言ったね」
「今日はフェイトちゃんが選ぶ日なの」
「同じものを選びたいなら、同じでもいいけど」
久遠がメニューを指でなぞる。
「なのはと同じだから、だけならやめた方がいい」
「久遠君、そういうときはもう少し優しく言うの」
「どこが優しくないの?」
「全部なの」
フェイトは二人を見ながら、もう一度メニューへ目を落とした。
やがて、端に載っていた写真を指差す。
「これにする」
「チョコレートケーキ?」
「うん。前から食べてみたかったから」
「じゃあ、決まりだね」
なのはが嬉しそうに笑う。
ユーノは温かい紅茶。
久遠はサンドイッチを選んだ。
「甘いものじゃないんだ」
「昼ご飯を食べてないから」
「もう二時だよ」
「本屋に長くいたから」
「久遠君とユーノ君のせいなの」
「なのはも同じくらいいただろ」
「わたしは二人を待ってたの」
「本を三冊持ってたよ」
フェイトが小さく告げる。
「フェイトちゃん」
「ごめん」
謝りながら笑っている。
運ばれてきたチョコレートケーキを、フェイトは慎重に一口食べた。
「どう?」
三人に同時に聞かれる。
「おいしい」
短い答えだった。
けれど、その顔を見れば十分だった。
「また食べようね」
なのはが言う。
「うん」
「次は違うものも選べばいい」
「同じものを食べたくなったら?」
「そのときは同じでいいよ」
「難しいね」
「自分で選ぶって、そういうものかも」
ユーノが静かに言った。
四人で笑った。
店の外を歩く人の中に、魔導師はいない。
怪物も。
壊れた魔導書も。
誰かを傷つけなければ得られないものもなかった。
好きなものを一つ選び。
選んだものを、おいしいと言う。
それだけでよかった。
◇
「写真を撮ろう」
喫茶店を出たところで、なのはが言った。
「いきなりだね」
「向こうに写真を撮れるところがあるの」
なのはが指差した先には、ゲームセンターがあった。
入口の奥に、写真シール機が並んでいる。
「この前、久遠君は写らなかったでしょう?」
「撮る人が必要だったから」
「次は入るって約束したの」
「でも、アリサとすずかとはやてがいない」
「全員で撮る約束とは別に、今日の写真も撮ればいいんだよ」
フェイトが言った。
「今日ここにいるのは、四人だから」
久遠が答える前に、ユーノが一歩下がる。
「僕は撮りますよ」
「ユーノ君まで外へ行かないの」
なのはが袖を掴んだ。
「でも、僕は学校の友達では」
「今日は一緒に出かけた友達だろ」
久遠が言う。
ユーノが久遠を見る。
「ボクと交代したいなら、外にいてもいいけど」
「どうしてどちらかが外に出る前提なんですか」
「それなら、四人で入ろう」
「最初からそう言ってるの!」
なのはに背中を押され、狭い撮影場所へ四人で入った。
◇
『撮影まで、五秒です』
機械の声が流れる。
「久遠君、もっと中へ」
「狭いよ」
「外に切れちゃうの」
「ユーノが前に行けば?」
「僕も十分詰めています」
「フェイトちゃん、もう少しこっち」
「こっち?」
「反対なの!」
『三、二――』
なのはが久遠の袖を掴む。
フェイトがユーノの腕を引いた。
『一』
白い光が瞬いた。
二枚目。
今度は全員が正面を向く。
三枚目。
機械から指定された形に合わせ、四人で手を上げる。
四枚目。
「今度こそ、普通に――」
久遠が言いかけたところで、なのはが笑った。
つられてフェイトも笑う。
ユーノは二人の方を見た。
久遠だけが、何が起きたのか分からない顔をしていた。
もう一度、光が瞬く。
◇
「一枚目がいいと思う」
店の外で写真を見比べながら、フェイトが言った。
「ユーノ君、目を閉じてるよ」
「眩しかったんです」
「久遠君は横を向いてるの」
「なのはが急に引っ張ったから」
「でも、みんな入ってる」
フェイトは一枚目を大切そうに持っていた。
四人が狭い画面へ押し込まれている。
なのはは笑い。
フェイトは驚き。
ユーノは目を閉じ。
久遠は、なのはの方を見ている。
きれいに撮れた写真なら、ほかにもあった。
それでも、四人が選んだのは最初の一枚だった。
「はやてちゃんにも、これを持って帰ろう」
なのはが言う。
「失敗してるのに?」
「楽しかった話も一緒に持って帰るんでしょう?」
「なら、これが一番話しやすいね」
ユーノも頷いた。
写真は四人分と、はやての分。
五枚に分けられた。
今度は、誰も画面の外に残らなかった。
◇
病院へ戻る前に、四人は焼き菓子の詰め合わせを買った。
はやてが一つ。
ヴィータとシグナムとシャマルとザフィーラが一つずつ。
残りは、病室にいる全員で分けられるだけの数を選んだ。
「多くない?」
なのはが箱を見つめる。
「家族が増えたから」
久遠が答えた。
「それなら、これくらい必要だね」
フェイトが箱を抱える。
「私が持つよ」
「重くない?」
「大丈夫」
「平気と大丈夫は禁止なの」
なのはが言った。
「これは本当に大丈夫」
「じゃあ、交代で持とう」
ユーノが箱の反対側を支える。
「二人で持つほど重くないよ」
「二人で持ってもいいだろ」
久遠も言った。
フェイトは少しだけ迷ってから、箱の半分をユーノへ渡した。
「うん。一緒に持とう」
帰り道では、なのはが次に行けなかった場所の話をした。
フェイトは、今度は公園へ行きたいと言った。
ユーノは歴史資料館も見てみたいと言い。
久遠は、図書館ならはやても一緒に行けると付け足した。
行き先は、まだいくつも残っていた。
◇
「ほんまに、楽しかったみたいやな」
写真を受け取ったはやてが笑った。
「ユーノ君、目ぇ閉じとる」
「瞬きをしただけです」
「久遠君は、なのはちゃんしか見てへんなあ」
「引っ張られたからだよ」
「言い訳が同じなの」
なのはが言う。
「フェイトちゃんは、びっくりした顔も可愛いな」
「ありがとう、はやて」
フェイトの頬が僅かに赤くなる。
「でも、久遠君がちゃんと写真の中におる」
はやては、四人が押し込まれた一枚を指でなぞった。
「今度は、うちも一緒に撮ろうな」
「アリサとすずかも」
「家族も全員や」
「すごい人数になるね」
「二枚に分けたら?」
ユーノが提案する。
「それだと、全員一緒にならないだろ」
久遠が答えた。
「久遠君がそれ言うん?」
「次は入るって約束したから」
「忘れんといてな」
「ノートにも書いてある」
はやては写真を、青い栞のそばへ置いた。
「これも、退院するときに持って帰る」
「なくさないでね」
「大事なもんは、忘れへんよ」
はやてが答える。
焼き菓子の箱が開かれた。
ヴィータは一番大きなものを選ぼうとして、シャマルに手を叩かれる。
ザフィーラは遠慮したが、はやてに渡されて受け取った。
シグナムは最後に残った一つを手にした。
全員で同じものを食べる。
誰もいなくなった場所を埋めるためではない。
いま、ここにいる人を確かめるように。
◇
「シグナム」
菓子を食べ終えたあと、久遠が呼んだ。
「何だ」
「ボクに、戦い方を教えて」
病室が静かになった。
ヴィータが椅子から身を乗り出す。
「お前、何言ってんだ?」
なのはも久遠を見る。
「久遠君、事件はもう終わったの」
「分かってる」
「だったら、どうして」
「終わったから、聞けるんだよ」
久遠はシグナムから目を逸らさなかった。
「恭也さんに、転び方と逃げ方は教わってる。でも、相手が魔法を使ったら、同じじゃない」
「同じでないどころか、比較にもならん」
シグナムが答える。
「魔力を持たぬ子供が、魔導師と戦う術などない」
「戦って勝つ方法じゃない」
「では、何を習う」
「逃げて、帰る方法」
シグナムの目が僅かに細くなる。
「結界の中に入ったら、声が届かない。空を飛ぶ相手からは、走っても逃げられない。壁があっても、魔法なら壊せる」
久遠は一つずつ、自分が見てきたものを挙げた。
「何も知らないままより、一秒でも長く立っていられる方法を知りたい」
「その一秒で、何をする」
「助けを呼ぶ」
「来なければ?」
「来るまで逃げる」
「逃げ切れなければ?」
久遠はすぐに答えられなかった。
シグナムの問いは、意地悪ではない。
戦場を知る者の声だった。
「それでも、何もしないよりはいい」
「違う」
シグナムは短く言った。
「何もせず、戦場へ入らない。それがお前にとって最善だ」
「シグナム」
はやてが呼ぶ。
「帰り方だけ、教えたってくれへん?」
「主はやて」
「久遠君は、知らんかったら自分で調べるで。たぶん、できるまで一人で試す」
「そこまでしないよ」
「するやろ」
全員の視線が久遠へ集まる。
なのはまで頷いていた。
「……少しは試すかもしれない」
「ほら」
はやてはシグナムを見る。
「戦いに行く方法やなくて、帰ってくる方法。それなら、うちも知っててほしい」
シグナムは長く黙った。
やがて、久遠へ向き直る。
「一度だけだ」
「うん」
「返事を急ぐな。私の教えることを、戦う理由には使わないと誓えるか」
「誓う」
「危険を知ったときは、一人で確かめず、なのはたちか我らへ知らせると誓えるか」
久遠は、一瞬だけ黙った。
「久遠君?」
なのはが呼ぶ。
「……誓う」
「ならば教える」
シグナムが答えた。
◇
病院の裏には、小さな庭があった。
冬の花壇には何も咲いていない。
芝生の端に雪が残り、冷たい風が木の枝を揺らしている。
シグナムは人払いの結界を張った。
久遠には、景色が変わったように見えない。
「もう結界の中?」
「そうだ」
「何も分からない」
「魔力を持たぬ者に、術式の境界を感じ取ることは難しい」
「入る前に気づく方法は?」
「周囲を見ろ。人の声が同時に消えた。先ほどまでいた鳥もいない。遠くを走る車の音も聞こえん」
言われてから、久遠は気づいた。
病院の窓には明かりがある。
道路も見えている。
それなのに、庭だけが深い山の中のように静かだった。
「魔法が見えなくても、変わったものは見つけられる」
「そうだ。最初に覚えろ。知らぬ場所で、急に何かが消えたなら、進むな」
シグナムは足元から細い枝を拾った。
真っ直ぐで、久遠の腕より少し長い。
「その技でやるの?」
「当たり前だ。お前を斬るわけではない」
枝先が久遠へ向けられる。
ただの木の枝なのに、剣を突きつけられたように身体が固くなった。
「病院の入口まで戻れ」
シグナムは久遠と扉の間に立っている。
距離は二十歩ほど。
「私に枝で触れられれば、そこで終わりだ」
「攻撃してもいい?」
「好きにしろ。ただし、私を倒せるとは考えるな」
「考えてないよ」
「その答えは正しい」
久遠は腰を落とした。
恭也から教わったように、両足へ同じだけ力を入れる。
枝先を見た。
「始め」
声と同時に、枝が消えた。
冷たい先端が、久遠の首筋へ触れている。
一歩も動けなかった。
「武器を見るな」
シグナムが枝を引く。
「でも、何が来るか分からない」
「武器は一人では動かん。肩を見ろ。腰を見ろ。足を見ろ。使う者が先に動き、武器は後からついてくる」
「もう一回」
「構えろ」
二度目。
今度はシグナムの肩を見た。
右肩が僅かに沈む。
久遠は左へ跳んだ。
枝が上着の袖を叩く。
「遅い」
「でも、首には当たらなかった」
「腕を失えば、その先はない」
「枝だろ」
「実戦のつもりで見ろ」
「分かった」
三度目。
久遠は最初から横へ走った。
正面を抜けるより、植え込みを回った方がいい。
シグナムも動く。
一歩。
それだけで、進路の先へ立っていた。
久遠は急に止まろうとして、足を滑らせた。
顎を引く。
腕で床を打たず、肩から転がる。
薄い雪の上へ倒れ、そのまま立ち上がった。
「受け身は覚えているようだな」
「毎週、転ばされてるから」
「誰にだ」
「恭也さん」
「なのはの兄か」
「うん」
「よい師だ」
「最初は、できるまで何度も投げる怖い人だと思った」
「それも、よい師の条件だ」
「シグナムと気が合いそう」
「私語はそこまでだ」
枝が久遠の胸へ触れた。
「いまのも?」
「戦場で相手が待つと思うな」
「話しかけたのはシグナムだろ」
「返事をする義務はない」
「ずるい」
「戦場に公平を求めるな」
久遠は雪を払い、もう一度構えた。
◇
五度目も。
六度目も。
久遠は病院の入口へ届かなかった。
武器ではなく、身体を見る。
正面へ下がらず、横へ逃げる。
壁や木を間へ挟み、相手から自分を見えなくする。
一つずつ意識するたびに、別の何かを忘れた。
シグナムを見ると、入口を見失う。
入口を見ると、足元の雪で滑る。
足元を見ると、枝が触れる。
「もう一度」
「何度繰り返しても、同じだ」
「今度はできる」
「何をだ」
「シグナムを抜ける」
「目的が変わっている」
久遠は口を閉じた。
「私は、私を抜けろとは言っていない。病院へ戻れと言った」
「シグナムが邪魔してるだろ」
「ならば、なぜ私の正面から戻ろうとする」
久遠は周囲を見る。
病院の入口は、シグナムの後ろにある。
けれど、庭の外へ続く道は一つではなかった。
植え込みの向こうに、駐車場へ回る細い通路がある。
「あっちから回る」
「遅い」
シグナムが先に通路を塞いだ。
「分かったなら、動く前に相手へ教えるな」
「それもずるい」
「二度言わせるな」
再び、枝先が向けられる。
「始め」
久遠は動かなかった。
シグナムの身体を見る。
入口を見る。
駐車場への通路を見る。
病院の窓を見る。
なのはたちは、待合室で待っている。
はやても病室にいる。
助けを呼ぶ。
そう答えたばかりだった。
久遠は上着のポケットへ手を入れた。
「何をしている」
「助けを呼ぶ」
携帯電話を取り出す。
画面には、電波が表示されている。
人払いの結界は張られていても、電話までは止められていない。
登録された名前から、八神はやてを選ぶ。
「待て」
「戦場で相手が待つと思うな」
シグナムが僅かに目を見開いた。
呼び出し音は一度で途切れた。
『久遠君?』
「はやて。シグナムが帰してくれない」
『シグナム?』
電話の向こうで、はやての声が低くなる。
『久遠君をいじめたらあかんで』
「主はやて。これは訓練です」
『帰るための訓練やろ? ほんなら帰したって』
シグナムが答えている間に、久遠は駐車場へ続く通路へ走った。
「あっ、久遠君、いま逃げたん?」
「うん」
『ええ判断や。シグナム、追いかけたらあかんよ』
「……御意」
枝が下ろされる。
久遠は細い通路を抜け、病院の入口へ回った。
自動扉へ手をつく。
「着いた」
『おかえり、久遠君』
「ただいま」
電話を切る。
少し遅れて、シグナムが歩いてきた。
「主はやてを呼ぶとはな」
「駄目だった?」
「いや」
「でも、シグナムなら止められたよね」
「無論だ」
「じゃあ、ボクが勝ったことにはならない」
「私に勝つ必要はない」
シグナムは折った枝を、庭の端へ戻した。
「お前は私を倒さず、味方を呼び、別の道を選び、目的の場所へ戻った」
「はやての命令を使っただけだよ」
「使えるものを使った。それでよい」
シグナムが久遠の前に立つ。
「覚えておけ。戦う者は、目の前の敵を倒すことを勝利と思い込みやすい」
「違うの?」
「勝利の形は、戦う理由によって変わる」
病院の窓へ視線を向ける。
「お前の勝利は、敵を倒すことではない。生きて帰り、待つ者へ声を返すことだ」
「ただいまって?」
「そうだ」
「シグナムも?」
「無論だ」
答えに迷いはなかった。
「我らの勝利は、主はやてのもとへ帰還すること。どれほど敵を倒そうと、帰れなければ敗北だ」
「前は、帰らなくてもいいと思ってた?」
シグナムは黙った。
闇の書を完成させるためなら。
はやてを救うためなら。
自分たちが消えても構わないと、守護騎士たちは考えていた。
「そうだ」
シグナムは否定しなかった。
「だが、主はやてに叱られた。勝手にいなくなることは、忠義ではないとな」
「リインフォースにも、帰ってきてほしかった」
「ああ」
「ボクも」
「分かっている」
冷たい風が二人の間を通り抜けた。
「久遠」
「なに?」
「助けを呼べ」
シグナムの声は静かだった。
「敵わぬ相手に出会ったとき。何かが起きたとき。守りたい者がいたときほど、一人で終わらせようとするな」
「もし、声が届かなかったら?」
久遠が尋ねる。
「それでも呼べ」
シグナムは答えた。
「届かぬと、自分で決めるな。呼びながら逃げろ。我らが必ず探す」
「うん」
「戦場へ立たぬことが、お前にとって最善の戦い方だ」
「うん。ボクも、そう思う」
「ならば忘れるな」
「忘れない」
「約束だ」
「約束」
二人は病院の中へ戻った。
◇
待合室では、なのはとフェイトとユーノが待っていた。
「遅いの」
なのはが立ち上がる。
「帰る練習にしては、長かったね」
フェイトも笑う。
「先に帰ってもよかったのに」
「久遠君が帰るまで待つって、決めたから」
「一人で帰らない方がいいでしょう?」
ユーノが言った。
久遠は三人を見る。
シグナムに教わったばかりのことを思い出す。
待っている人へ、声を返す。
「ただいま」
「おかえり、久遠君」
なのはが答える。
「おかえり」
フェイトも。
「おかえりなさい」
ユーノも続いた。
帰ってきた一人に、三つのおかえりが返ってくる。
その日の帰り道。
四人は、朝に通った道を並んで歩いた。
なのはは、次こそ計画表の全部を回ると言った。
フェイトは、今日行けなかった公園を指差した。
ユーノは、買った本の話をした。
久遠は、次ならはやても連れてこようと言った。
誰も急がなかった。
誰かが遅れれば、ほかの三人も足を緩めた。
◇
夜。
久遠は机の上へ、今日の写真を置いた。
四人とも、きれいには写っていない。
それでも、誰も外にはいなかった。
ノートの新しい頁へ、今日教わったことを書く。
武器ではなく、使う人を見る。
相手だけでなく、周りと出口を見る。
一つの道が塞がれても、別の道を探す。
使えるものは、全部使う。
一人で敵を倒そうとしない。
助けを呼ぶ。
生きて帰る。
帰ったら、待っている人へ声を返す。
最後の一行に、二本の線を引いた。
忘れないように。
写真を、ノートの内側へ挟む。
明日になれば、また病院へ行く。
はやてと話す。
なのはへ連絡する。
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その日の久遠は、教わった通りに帰った。
待っていた人へ、ただいまと言った。
そして、誰の外側にもいなかった。