魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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StrikerS編
第十四話 墓のある人


 溱久遠には、墓がある。

 

 遺骨の入っていない、九歳の少年の墓だった。

 

 海鳴市の外れ。

 

 街と海を見下ろす小高い丘に、その墓はある。

 

 十年前、閉館中の図書館から一人の少年が消えた。

 

 公に残されたのは、行方不明という事実だけだった。

 

 高町なのはとフェイト・T・ハラオウンへ伝えられたのも、久遠が図書館から消えたことと、その後の捜索でも見つからなかったことだけだった。

 

 けれど、それがすべてではない。

 

 館内には、命を失うには十分すぎる量の血と、鞄と、携帯電話が残されていた。

 

 その傍らには、どの蔵書記録にも存在しない一冊の黒い本があった。

 

 夜天の書と同じ呪いを宿した、文字のない魔導書。

 

 その現場を知るのは、八神はやてと守護騎士たち、そして報告を扱った管理局上層部の一部だけだった。

 

 はやては、なのはにも、フェイトにも話すことができなかった。

 

 幼なじみがどれほどの血を残して消えたのか。

 

 その場所に、何が残されていたのか。

 

 記録は分けられ、閲覧権限は閉ざされた。

 

 なのはとフェイトがどれだけ調べても、二人の端末にその先が表示されることはない。

 

 それでも大勢が捜した。

 

 警察も、時空管理局も、家族も、友人も。

 

 けれど、少年の身体は見つからなかった。

 

 やがて失踪は死として扱われ、空の棺で葬儀が行われた。

 

 そうして、ここに名前だけの墓が残った。

 

 それは、八神はやてが新しい部隊の構想を、まだ書類の束として抱えていた頃。

 

 機動六課という名が正式に動き出す、ほんの少し前のことだった。

 

     ◇

 

「久遠君。来たよ」

 

 高町なのはは墓石の前にしゃがみ、乾いた布で表面を拭いた。

 

 雨の跡をなぞるように、ゆっくりと。

 

 その隣でフェイト・T・ハラオウンが花を供える。白を基調にした、小さな花束だった。

 

 八神はやては二人より少し下がった場所に立ち、刻まれた名前を見つめている。

 

 丘を越えてきた風が、三人の髪を揺らした。

 

「十年やな」

 

 はやてが言った。

 

「うん」

 

 なのはは墓石を拭く手を止めない。

 

「もう十年、なんだね」

 

 フェイトが花の向きを整える。

 

 三人とも十九歳になっていた。

 

 制服も、肩書も、背負う責任も増えた。

 

 それでもここへ来ると、自分たちだけが先へ進んでしまったような気持ちになる。

 

 墓石に刻まれた久遠は、いつまでも九歳のままだから。

 

「わたしたち、十九になったよ」

 

 なのはは磨いた場所を確かめてから、ようやく顔を上げた。

 

「久遠君が見たら、びっくりするかな」

 

「なのはは、あまり変わっていないと言われるかもしれないね」

 

「フェイトちゃん、それどういう意味?」

 

「いい意味だよ」

 

「今ちょっと考えたよね?」

 

「考えてないよ」

 

 フェイトが困ったように笑う。

 

 はやても笑いかけて、途中で唇を結んだ。

 

「うちは、怒られるやろなあ」

 

「どうして?」

 

「十年も待たせた、言うて」

 

「それなら、待たせたのは久遠君の方だよ」

 

 なのはの声は穏やかだった。

 

 けれど、その手は墓石の端を強く握っている。

 

「帰ってきたら、ちゃんと怒るって決めてるから」

 

「十年分?」

 

「うん。十年分」

 

「長くなりそうだね」

 

「途中で逃がさないよ」

 

 冗談の形をしていても、誰もそれを冗談だとは思わなかった。

 

「今年も、何も見つからなかったね」

 

 なのはが墓石に残った水気を拭う。

 

 十年の間に、何度も同じ報告をした。

 

 似た子供を見たという話。

 

 海鳴を離れた場所で名前を聞いたという噂。

 

 そのたびになのはとフェイトは確かめに行き、そのたびに久遠ではない誰かへたどり着いた。

 

「次は、見つかるかもしれないよ」

 

 フェイトが言った。

 

 願いを励ましの形にした声だった。

 

「うん。だから、また調べる」

 

 なのはは迷わず頷いた。

 

「はやてちゃんも、何か分かったら教えてね」

 

 胸の奥で、十年前の光景が開きかける。

 

 床を染めた血。

 

 壁際の鞄。

 

 電源の切れた携帯電話。

 

 そして、黒い本。

 

 はやては、それらを声にしなかった。

 

「もちろんや」

 

 代わりに、いつものように笑った。

 

 なのはとフェイトが探している記録を、自分たちが閉ざしたことを知りながら。

 

 二人に見せたくなかった。

 

 九歳の久遠が最後にいた場所を、なのはの記憶にまで残したくなかった。

 

 それが正しかったのかは、今も分からない。

 

     ◇

 

「今日は、報告があるんだ」

 

 なのはは墓前に座り直した。

 

「はやてちゃんがね、新しい部隊を作ろうとしてるの」

 

「まだ作ってへんよ」

 

 はやてがすぐに訂正する。

 

「準備中や。書類と交渉と根回しの山。正式に始まるんは、もうちょっと先」

 

「でも、名前は決まっているんだよね」

 

 フェイトに促され、はやては墓石へ向き直った。

 

「機動六課」

 

 その名を口にするとき、はやての表情から少しだけ迷いが消えた。

 

「遺失物管理部の、独立部隊。危ないもんが誰かを傷つける前に見つけて、止める。そのための部隊にしたいと思ってる」

 

 十年前。

 

 危険なものの前に、九歳の子供が一人で残された。

 

 なのはとフェイトが知っているのは、その子供が帰らなかったということだけ。

 

 はやては、その先を知っている。

 

 あの夜を繰り返さないために。

 

 その思いが六課のすべてではない。

 

 けれど、間違いなく始まりの一つだった。

 

「私も、はやての部隊に参加するよ」

 

 フェイトが言う。

 

「わたしも」

 

 なのはが続いた。

 

「だから、しばらく忙しくなると思う。始まる前に、ちゃんと報告しておきたくて」

 

「明日は、そのための大事な試験があるんだよね」

 

「うん」

 

 なのはは頷く。

 

「Bランクへの昇格試験。受験するのは、十五歳のスバル・ナカジマと、十六歳のティアナ・ランスター」

 

 はやてが説明を引き継いだ。

 

「これから一緒に働いてほしいと思ってる子らや。もちろん、それと試験の合否は別やけどな」

 

「なのはが試験官で、私とはやては上空から見学することになってる」

 

「責任重大や」

 

「見学する人が言うことかな」

 

「将来の部隊長として、責任は感じてるで」

 

「そこは否定できないね」

 

 三人の間に、少しだけ仕事の空気が混じる。

 

 墓前で話すには現実的すぎる内容だった。

 

 だからこそ、なのははここで話したかった。

 

 夢や理想だけでは人を守れない。

 

 どんな部隊を作るのか。

 

 誰に力を預けるのか。

 

 預けた力を、どこで使わせるのか。

 

 それを考える側に、自分たちは立とうとしている。

 

「スバルって子はな、四年前の空港火災で、なのはちゃんに助けられた子なんよ」

 

 はやての言葉に、なのはは小さく頷いた。

 

「はやてちゃんから聞いて、びっくりしたよ。あのときの子なんだって」

 

「運命みたいだね」

 

 フェイトが微笑む。

 

「そうだとしても、試験では特別扱いできないよ」

 

「うん。なのはなら、そう言うと思った」

 

「落とすための試験じゃないけどね」

 

 なのはは花の向こうにある名前を見る。

 

「今の二人に何ができて、どこで無理をするのか。危ないときに、どうやって帰ってくるのか。それを、ちゃんと見てくる」

 

 帰ってくる。

 

 その言葉だけが、墓石の前に長く残った。

 

「久遠君」

 

 なのはは立ち上がった。

 

「わたしたち、行ってくるね」

 

「次は、六課のみんなの話も持ってくるよ」

 

 フェイトも続く。

 

 はやては最後に墓石を軽く叩いた。

 

「留守番、頼んだで」

 

 返事はない。

 

 分かっていた。

 

 三人は並んで墓地を出ていく。

 

 なのはだけが入口の前でもう一度振り返った。

 

 花は風に揺れている。

 

 墓石の前には、誰もいなかった。

 

「いってきます」

 

 もう一度だけ言って、なのはも二人の後を追った。

 

     ◇

 

「倒れる練習をしましょう」

 

 そう言った少年は、十年前に海鳴市の図書館から消えた溱久遠と、まったく同じ姿をしていた。

 

 背丈も。

 

 顔立ちも。

 

 声も。

 

 九歳だったあの日から、何一つ成長していない。

 

 訓練用の簡素な服を身につけ、周囲を見回すこともなく、白い訓練室の中央に立っている。

 

 子供の姿には不釣り合いなほど、その視線は静かだった。

 

 ただ一つ。

 

 ここにいる者たちは、誰も彼を久遠とは呼ばない。

 

 少年自身も、そう名乗らなかった。

 

 クオン。

 

 今の彼は、自分の名をそう告げていた。

 

 クオンが同じ言葉をもう一度口にすると、ノーヴェは心底嫌そうな顔をした。

 

「……はあ?」

 

 世界を隔てた、ジェイル・スカリエッティの研究施設。

 

 その一角に設けられた訓練室には、白い床と白い壁、それから殴っても蹴っても壊れにくい標的が並んでいる。

 

 戦闘機人を鍛える場所としては、必要十分。

 

 少なくとも、転び方を教わるための場所には見えなかった。

 

「聞こえませんでしたか?」

 

「聞こえたから聞き返してんだよ。なんであたしが、今さら転び方なんか習わなきゃならねえ」

 

「立っていられなくなることがあるからです」

 

「ねえよ」

 

「では、試してみましょう」

 

 クオンが一歩踏み込む。

 

 ノーヴェの足首へ踵をかけ、膝の向きへわずかに力を添えた。

 

「うおっ!?」

 

 前のめりになったノーヴェは、とっさに右手を床へ突く。

 

 硬質な音が響き、床材に細い亀裂が走った。

 

 戦闘機人の手首は、その程度では壊れない。

 

 ノーヴェは片腕だけで身体を跳ね上げると、着地と同時にクオンを睨みつけた。

 

「何しやがる!」

 

「右手だけで、身体を支えましたね」

 

「だからなんだよ」

 

「その手が壊れていたら、次の攻撃ができません」

 

「壊れねえよ。あたしらを普通の人間と一緒にすんな」

 

「痛くはありませんか?」

 

「…………」

 

「右の手首です」

 

「このくらい、痛いうちに入らねえ」

 

「痛いのですね」

 

「うるせえ!」

 

 壁際で見ていたウェンディが吹き出した。

 

「ノーヴェ、完全に遊ばれてるっス」

 

「次はテメェがやれ!」

 

「遠慮するっス!」

 

 即答したウェンディの隣で、ディエチだけが心配そうにノーヴェの右手を見ている。

 

 クオンは笑わなかった。

 

「我慢できるかどうかは、聞いていません」

 

 静かな声だった。

 

「痛みは、身体から届く報告です。無かったことにすれば、次に何を選べるのか分からなくなります」

 

「痛かったら、やめろってのかよ」

 

「やめてもいいです」

 

 予想していなかった答えに、ノーヴェが口を閉じる。

 

「続けてもいいです。ただし、痛みに続けさせられるのでも、誰かに我慢させられるのでもなく、自分で選んでください」

 

「簡単に言いやがって」

 

「簡単ではありません」

 

 クオンは自分から床へ倒れた。

 

 顎を引き、正面から手をつかず、肩から背中へ衝撃を流す。そのまま一回転し、片膝を立てて起き上がった。

 

 立ち上がるまで、一秒もかからない。

 

「だから練習します」

 

 遠い世界の、小さな家の庭。

 

 久遠もまた、高町恭也に足を払われ、何度も土の上へ転がされた。

 

 立っているための技より先に、倒れても壊れないための技を教わった。

 

 クオンは、その日のことを一つも忘れていない。

 

 今は教わったものを、ノーヴェへ渡していた。

 

「もう一度、来てください」

 

「今度はぶっ飛ばす」

 

「はい」

 

 ノーヴェの足裏でローラーが唸った。

 

 一瞬で間合いを詰め、今度は左へ回り込みながら拳を突き出す。

 

 クオンは拳を流し、脚を払う。

 

 悪態を吐きながらも、ノーヴェはもう右手を突かなかった。

 

 身体を丸め、肩から床へ落ちる。背中、腰、脚へと衝撃を逃がし、回転の終わりには片膝でクオンを見上げていた。

 

 そこから間を置かず、拳を振るう。

 

 クオンの鼻先で、ぴたりと止まった。

 

「……どうだ」

 

「上手です」

 

「子供扱いすんな」

 

「褒めただけですよ」

 

 ノーヴェは怒った顔のまま、少しだけ胸を張った。

 

「まあ。ずいぶん地味な訓練ですこと」

 

 訓練室の扉が開く。

 

 眼鏡をかけた少女――クアットロが、いつもの微笑みを浮かべて立っていた。

 

「姿勢制御も損傷検知も自動で行える身体に、受け身から教えるなんて」

 

「機械が教えるのは、壊れた場所までです」

 

「その後の最適行動も計算できますわ」

 

「選ぶのは、彼女たちです」

 

 クアットロの笑みは崩れない。

 

「ドクターから、お話があるそうですわ」

 

「命令ですか?」

 

「まさか」

 

 クアットロは大げさに目を丸くする。

 

「丁重なご招待です。ドクターは学習のできる方ですもの」

 

「分かりました」

 

 クオンはノーヴェの右手へ視線を落とした。

 

「今日はここまでにします。手首を冷やしてください」

 

「だから平気だって言ってんだろ」

 

「平気かどうかではありません。痛いのでしょう?」

 

 ノーヴェは答えず、顔を背けた。

 

 それでも右手首を左手で押さえたのを見届けてから、クオンはクアットロの後に続いた。

 

     ◇

 

 ジェイル・スカリエッティは、巨大な画面を背にしてクオンを迎えた。

 

「来てくれて嬉しいよ、クオン」

 

「話は何ですか?」

 

「相変わらず早いね。挨拶を楽しむつもりは?」

 

「あなたとの挨拶は長いので」

 

「手厳しい」

 

 口では残念そうに言いながら、男の笑みは深くなる。

 

 クオンが従順でないことさえ、この男にとっては観察の対象だった。

 

 スカリエッティが指を鳴らす。

 

 画面に、いくつもの資料が表示された。

 

 時空管理局の組織図。

 

 古代遺物管理部に新設が検討されている部隊。

 

 まだ正式稼働前と記された計画書。

 

 そして、翌日に予定されたBランク昇格試験の受験者名簿。

 

「八神はやてが準備を進めている独立部隊。通称、機動六課」

 

 男は楽しそうに説明する。

 

「興味深い人材を集めている。明日は、その候補となる二人の試験があるそうだ」

 

 スバル・ナカジマ。

 

 ティアナ・ランスター。

 

 画面に十代半ばの少女たちの写真が並ぶ。

 

 試験官の欄には、高町なのは。

 

 見学者の欄には、八神はやてとフェイト・T・ハラオウン。

 

 三つの名前を見た瞬間、クオンは一度だけ瞬きをした。

 

 高町なのは。

 

 八神はやて。

 

 フェイト・T・ハラオウン。

 

 どれも、知らない名前ではなかった。

 

 画面の中の三人は、十年前より背が伸び、顔立ちも変わっている。

 

 黒い画面へ薄く映り込んだクオンだけが、九歳の姿をしていた。

 

「おや」

 

 スカリエッティは、クオンが一度だけ瞬きをしたことを見逃さなかった。

 

「気になる名前でもあったかな?」

 

 クオンはすぐに答えなかった。

 

「試験は、何時からですか?」

 

「答えないのかい?」

 

「今、必要な質問ではありません」

 

 クオンは二人の受験者へ視線を移した。

 

「この子たちを、どうするつもりですか?」

 

「私が?」

 

「あなたが、ボクに見せたのです」

 

「ただの好奇心だよ。優秀な魔導師が、次の世代をどう育てるのか。君も興味があると思ってね」

 

「戦闘記録を持ち帰れ、という依頼なら断ります」

 

「そんな無粋な命令はしないさ」

 

「依頼でも断ります」

 

「では、君自身のために見てくるといい」

 

 スカリエッティは両手を広げた。

 

「十五歳と十六歳の子供たちが、自分の意思で一つ上の力を求める。その選択を、君がどう見るのか。私は、その答えに興味がある」

 

 クオンは画面を見る。

 

 受験者は十五歳と十六歳。

 

 試験官たちは十九歳。

 

 九歳だった三人は、大人と呼ばれる側へ立っていた。

 

 自分だけが、九歳の姿のまま。

 

「見に行きます」

 

「そうか。感想を楽しみにしているよ」

 

「あなたのために答えるとは言っていません」

 

「それも含めて、楽しみにしている」

 

 クオンは研究室の出口へ向かう。

 

「もう出発するのかい? 試験は明朝だよ」

 

「その前に、行く場所があります」

 

「どこへ?」

 

 クオンは足を止めた。

 

「あなたに伝える必要はありません」

 

     ◇

 

 海鳴市へ夜が戻った。

 

 墓地の門は閉じている。

 

 人の気配もない。

 

 丘の上を監視するカメラが、ゆっくりと首を振る。

 

 その視界を、九歳ほどの少年が横切った。

 

 けれど、記録された映像には何も残らない。

 

 風に揺れる木々と、夜露に濡れた石だけ。

 

 クオンは誰にも呼び止められず、丘を上った。

 

 墓前には新しい花があった。

 

 クオンは墓石の前に立つ。

 

 溱久遠。

 

 刻まれた文字を、指先でなぞった。

 

「十年、ですか」

 

 昼間、墓前にいた三人は十九歳になっていた。

 

 墓石に触れている指は、九歳の子供のものだった。

 

「ボクは、変わっていません」

 

 返事の代わりに、丘を越える風が花を揺らした。

 

 クオンは目を閉じる。

 

 暗い図書館。

 

 床に落ちた携帯電話。

 

 誰にも届かなかった声。

 

 そこで何があったのかを語る者は、ここにはいない。

 

 それでも、墓石へ触れた指に少しだけ力が入った。

 

「……痛かった」

 

 十年前には、言えなかった言葉だった。

 

 長い沈黙のあと、クオンは傾いていた花を直した。

 

「でも、帰ってきました」

 

 墓石の下には、誰も眠っていない。

 

 その空の墓へ向かって、少年は静かに頭を下げた。

 

「ただいま」

 

 顔を上げる。

 

「明日、高町なのはを見に行きます」

 

 少年の姿は、次の風が吹く前に消えていた。

 

     ◇

 

 翌朝。

 

 墓地の管理人は、開門前の丘で一人の少年を見たと話した。

 

 九歳ほどの、小さな子供。

 

 墓石の前にしゃがみ、供えられた花へ触れていたという。

 

 管理人は、その顔を知っている気がした。

 

 ずっと前に捜索願の写真で見た、行方不明の少年。

 

 あの子と同じ顔だったと、確かに思った。

 

 けれど、誰かに説明しようとした頃には、顔立ちも、服装も、声も思い出せなくなっていた。

 

 監視映像には何も残っていない。

 

 花の向きが少し変わっているだけだった。

 

 奇妙な噂は、海鳴の街へ静かに落ちた。

 

 その頃。

 

 世界を隔てたミッドチルダでは、二人の少女が開始線に立っていた。

 

     ◇

 

 スバル・ナカジマは、目を閉じると今でも炎を思い出す。

 

 四年前の空港火災。

 

 熱で歪む空気。

 

 崩れていく天井。

 

 幼い自分には、逃げ道が見つけられなかった。

 

 その炎の向こうから、白い光が降りてきた。

 

 翼のような魔力光を広げ、一人の魔導師が手を伸ばしてくれた。

 

 あの手に届きたい。

 

 今度は自分が、誰かへ手を伸ばせるようになりたい。

 

 それが、スバルが陸戦魔導師を目指した始まりだった。

 

「スバル」

 

 隣から、ティアナ・ランスターの声が飛ぶ。

 

「ぼうっとしない。始まるわよ」

 

「う、うん!」

 

 スバルは目を開けた。

 

 演習場に設けられた市街地型のコース。

 

 制限時間内に課題を突破し、目標地点へ到達する。

 

 二人が挑むのは、CランクからBランクへの昇格試験だった。

 

 上空のヘリでは、八神はやてとフェイトがモニターを見つめている。

 

 試験区域では、高町なのはが二人の動きと安全管理を担当していた。

 

 機動六課は、まだ正式には始まっていない。

 

 この時点でそこにいるのは、一人の試験官と、二人の見学者と、二人の受験者だけだった。

 

 そして。

 

 どの名簿にも記されていない、一人の観察者。

 

 クオンはコースを見下ろす建物の屋上に立っていた。

 

 監視用のセンサーは、すぐそばを探査光でなぞっても反応しない。

 

 職員が屋上を見上げても、視線は少年の上を滑っていく。

 

 開始を告げる音が鳴った。

 

 スバルとティアナが同時に走り出す。

 

 先行するスバルが道を開き、ティアナが後方から射撃で支える。

 

 一人が迷えば、もう一人が進路を示す。

 

 一人が崩せなければ、二人で崩す。

 

 呼吸の合った連携だった。

 

「上手ですね」

 

 クオンは呟く。

 

 戦い方の評価ではない。

 

 互いを一人にしないことへの評価だった。

 

 試験は順調に進んだ。

 

 けれど、最後まで順調なだけの試験ではない。

 

 崩れた足場を越える際、ティアナが脚を痛めた。

 

 致命的な怪我ではない。

 

 それでも走り続ければ、動きは確実に鈍る。

 

 残り時間も少ない。

 

 続行すれば、二人とも不合格になるかもしれない。

 

 退けば、次の機会はある。

 

 クオンは屋上の縁へ一歩近づいた。

 

 痛みは報告だ。

 

 無かったことにしてはいけない。

 

 ノーヴェへ教えたばかりの言葉を、今度は自分へ向ける。

 

 ティアナは痛みを隠さなかった。

 

 スバルも、それに気づいている。

 

 残り時間と負傷を考えれば、諦めるしかない。

 

 ティアナはそう判断した。

 

 けれど、スバルは首を振った。

 

 親友の夢を、ここでつまずかせたりしない。

 

 自分が憧れたあの人なら、こんなときにも諦めない。

 

 スバルが前へ進む方法を示し、ティアナがその可能性を見定める。

 

 最後には二人で頷き、もう一度走り出した。

 

「自分で選んだ」

 

 クオンの声に、喜びはない。

 

 選んだから正しいとは限らない。

 

 子供は、自分が壊れる選択さえできてしまう。

 

 だから、止める側が必要になる。

 

 無理な選択を止めるために。

 

 支えるために。

 

 帰る場所を残すために。

 

 クオンは試験区域全体へ意識を広げた。

 

 緊急時の救助経路。

 

 防護の配置。

 

 二人の状態を追う試験官の視線。

 

 なのはは、ただ結果だけを見てはいなかった。

 

 いつでも手を伸ばせる距離を保ちながら、それでも二人が自分たちで越えるための余地を残している。

 

 これは戦場ではない。

 

 少なくとも今は、まだ。

 

 スバルが道を作る。

 

 ティアナが残る力を射撃へ変える。

 

 二人の攻撃が最後の目標を捉えた。

 

 制限時間は、ほとんど残っていなかった。

 

 ぎりぎりの到達だった。

 

 勢いのまま足場を飛び出した二人の身体が、宙へ投げ出される。

 

 地面は遠い。

 

 スバルがティアナへ手を伸ばす。

 

 ティアナもスバルの腕を掴む。

 

 クオンの足が、屋上の縁を離れかけた。

 

 その前に。

 

 白い光が、二人へ届いた。

 

 高町なのはが宙を駆け、落下する二人を両腕で受け止める。

 

 速すぎず。

 

 遅すぎず。

 

 二人が最後まで自分の力を使い切った、その直後に。

 

 四年前、炎の中へ差し伸べられた手が、もう一度スバルを掴んだ。

 

 驚いて見開かれた青緑の瞳。

 

 白い防護服を見上げる顔に、幼い日の記憶が重なる。

 

 なのはも、腕の中の少女の名を呼んだ。

 

 救助された子供と、救助した魔導師。

 

 四年越しの再会だった。

 

 上空で見ていたはやてが、安堵と期待の混じった息を吐く。

 

 フェイトも静かに微笑んだ。

 

 試験は終わった。

 

 試験の課題を突破したのは、二人の力だった。

 

 誰かに結果を譲られたのでも。

 

 誰かに役目を代わってもらったのでもない。

 

 スバルとティアナは、自分たちの選択で最後までたどり着いた。

 

 クオンは屋上に留まったまま、白い光を見つめている。

 

「帰しましたね」

 

 その声は、誰にも届かない。

 

 なのはは二人を抱きとめている。

 

 はやてとフェイトは、その無事を見届けている。

 

 九歳だった三人は、今、子供を預かる役目に立っていた。

 

 それを大人と呼ぶのか、クオンにはまだ決められない。

 

 少なくとも、高町なのはは二人の選択を見届け、危険の先で手を伸ばした。

 

 それでも、この試験の先には任務がある。

 

 危険な遺失物があり、戦闘があり、帰れないかもしれない場所がある。

 

 今日手を伸ばせたからといって、明日も間に合うとは限らない。

 

 クオンは、二人の受験者の名を口にした。

 

「スバル・ナカジマ」

 

「ティアナ・ランスター」

 

「覚えました」

 

 少年の輪郭が、朝の光へ溶けていく。

 

 センサーには最後まで、人影として捉えられるものは何も映らない。

 

 誰にも見つからないまま、クオンは試験場を去った。

 

 試験終了後、会場の記録は時空管理局の保管領域へ送られた。

 

 スバル・ナカジマとティアナ・ランスターの走行記録。

 

 高町なのはによる救助。

 

 八神はやてとフェイト・T・ハラオウンの観覧記録。

 

 そして、誰もいないはずの屋上に一度だけ残った、対象判定にも満たないごく小さな測定値の乱れ。

 

 その乱れが機器誤差として処理されるより先に、その記録へ閲覧要求が入った。

 

 所属、地上本部監察部門。

 

 認証、有効。

 

 閲覧者名だけが、空欄だった。

 

 記録は複製され、管理局内部の別領域へ送られる。

 

 送信先で開かれたのは、何も映っていない数秒間だった。

 

 続いて、高町なのは。

 

 フェイト・T・ハラオウン。

 

 八神はやて。

 

 三人の名前と現在の所属が、順に確認される。

 

 報告欄へ、短い一文が入力された。

 

 対象の活動に伴う検知痕跡を確認。

 

 正規系統による個体識別には至らず。

 

 情報露出状況の監察を継続する。

 

 保存が終わると同時に、閲覧履歴からは、申請者が空欄だった痕跡も、記録が複製された事実も消えた。

 

 機動六課は、まだ始まっていない。

 

 けれど、後にその部隊へ集う者たちは、この朝、確かに出会った。

 

 そして、彼女たちがまだ知らない場所で。

 

 墓のある少年もまた、歩き始めていた。

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