第十四話 墓のある人
溱久遠には、墓がある。
遺骨の入っていない、九歳の少年の墓だった。
海鳴市の外れ。
街と海を見下ろす小高い丘に、その墓はある。
十年前、閉館中の図書館から一人の少年が消えた。
公に残されたのは、行方不明という事実だけだった。
高町なのはとフェイト・T・ハラオウンへ伝えられたのも、久遠が図書館から消えたことと、その後の捜索でも見つからなかったことだけだった。
けれど、それがすべてではない。
館内には、命を失うには十分すぎる量の血と、鞄と、携帯電話が残されていた。
その傍らには、どの蔵書記録にも存在しない一冊の黒い本があった。
夜天の書と同じ呪いを宿した、文字のない魔導書。
その現場を知るのは、八神はやてと守護騎士たち、そして報告を扱った管理局上層部の一部だけだった。
はやては、なのはにも、フェイトにも話すことができなかった。
幼なじみがどれほどの血を残して消えたのか。
その場所に、何が残されていたのか。
記録は分けられ、閲覧権限は閉ざされた。
なのはとフェイトがどれだけ調べても、二人の端末にその先が表示されることはない。
それでも大勢が捜した。
警察も、時空管理局も、家族も、友人も。
けれど、少年の身体は見つからなかった。
やがて失踪は死として扱われ、空の棺で葬儀が行われた。
そうして、ここに名前だけの墓が残った。
それは、八神はやてが新しい部隊の構想を、まだ書類の束として抱えていた頃。
機動六課という名が正式に動き出す、ほんの少し前のことだった。
◇
「久遠君。来たよ」
高町なのはは墓石の前にしゃがみ、乾いた布で表面を拭いた。
雨の跡をなぞるように、ゆっくりと。
その隣でフェイト・T・ハラオウンが花を供える。白を基調にした、小さな花束だった。
八神はやては二人より少し下がった場所に立ち、刻まれた名前を見つめている。
丘を越えてきた風が、三人の髪を揺らした。
「十年やな」
はやてが言った。
「うん」
なのはは墓石を拭く手を止めない。
「もう十年、なんだね」
フェイトが花の向きを整える。
三人とも十九歳になっていた。
制服も、肩書も、背負う責任も増えた。
それでもここへ来ると、自分たちだけが先へ進んでしまったような気持ちになる。
墓石に刻まれた久遠は、いつまでも九歳のままだから。
「わたしたち、十九になったよ」
なのはは磨いた場所を確かめてから、ようやく顔を上げた。
「久遠君が見たら、びっくりするかな」
「なのはは、あまり変わっていないと言われるかもしれないね」
「フェイトちゃん、それどういう意味?」
「いい意味だよ」
「今ちょっと考えたよね?」
「考えてないよ」
フェイトが困ったように笑う。
はやても笑いかけて、途中で唇を結んだ。
「うちは、怒られるやろなあ」
「どうして?」
「十年も待たせた、言うて」
「それなら、待たせたのは久遠君の方だよ」
なのはの声は穏やかだった。
けれど、その手は墓石の端を強く握っている。
「帰ってきたら、ちゃんと怒るって決めてるから」
「十年分?」
「うん。十年分」
「長くなりそうだね」
「途中で逃がさないよ」
冗談の形をしていても、誰もそれを冗談だとは思わなかった。
「今年も、何も見つからなかったね」
なのはが墓石に残った水気を拭う。
十年の間に、何度も同じ報告をした。
似た子供を見たという話。
海鳴を離れた場所で名前を聞いたという噂。
そのたびになのはとフェイトは確かめに行き、そのたびに久遠ではない誰かへたどり着いた。
「次は、見つかるかもしれないよ」
フェイトが言った。
願いを励ましの形にした声だった。
「うん。だから、また調べる」
なのはは迷わず頷いた。
「はやてちゃんも、何か分かったら教えてね」
胸の奥で、十年前の光景が開きかける。
床を染めた血。
壁際の鞄。
電源の切れた携帯電話。
そして、黒い本。
はやては、それらを声にしなかった。
「もちろんや」
代わりに、いつものように笑った。
なのはとフェイトが探している記録を、自分たちが閉ざしたことを知りながら。
二人に見せたくなかった。
九歳の久遠が最後にいた場所を、なのはの記憶にまで残したくなかった。
それが正しかったのかは、今も分からない。
◇
「今日は、報告があるんだ」
なのはは墓前に座り直した。
「はやてちゃんがね、新しい部隊を作ろうとしてるの」
「まだ作ってへんよ」
はやてがすぐに訂正する。
「準備中や。書類と交渉と根回しの山。正式に始まるんは、もうちょっと先」
「でも、名前は決まっているんだよね」
フェイトに促され、はやては墓石へ向き直った。
「機動六課」
その名を口にするとき、はやての表情から少しだけ迷いが消えた。
「遺失物管理部の、独立部隊。危ないもんが誰かを傷つける前に見つけて、止める。そのための部隊にしたいと思ってる」
十年前。
危険なものの前に、九歳の子供が一人で残された。
なのはとフェイトが知っているのは、その子供が帰らなかったということだけ。
はやては、その先を知っている。
あの夜を繰り返さないために。
その思いが六課のすべてではない。
けれど、間違いなく始まりの一つだった。
「私も、はやての部隊に参加するよ」
フェイトが言う。
「わたしも」
なのはが続いた。
「だから、しばらく忙しくなると思う。始まる前に、ちゃんと報告しておきたくて」
「明日は、そのための大事な試験があるんだよね」
「うん」
なのはは頷く。
「Bランクへの昇格試験。受験するのは、十五歳のスバル・ナカジマと、十六歳のティアナ・ランスター」
はやてが説明を引き継いだ。
「これから一緒に働いてほしいと思ってる子らや。もちろん、それと試験の合否は別やけどな」
「なのはが試験官で、私とはやては上空から見学することになってる」
「責任重大や」
「見学する人が言うことかな」
「将来の部隊長として、責任は感じてるで」
「そこは否定できないね」
三人の間に、少しだけ仕事の空気が混じる。
墓前で話すには現実的すぎる内容だった。
だからこそ、なのははここで話したかった。
夢や理想だけでは人を守れない。
どんな部隊を作るのか。
誰に力を預けるのか。
預けた力を、どこで使わせるのか。
それを考える側に、自分たちは立とうとしている。
「スバルって子はな、四年前の空港火災で、なのはちゃんに助けられた子なんよ」
はやての言葉に、なのはは小さく頷いた。
「はやてちゃんから聞いて、びっくりしたよ。あのときの子なんだって」
「運命みたいだね」
フェイトが微笑む。
「そうだとしても、試験では特別扱いできないよ」
「うん。なのはなら、そう言うと思った」
「落とすための試験じゃないけどね」
なのはは花の向こうにある名前を見る。
「今の二人に何ができて、どこで無理をするのか。危ないときに、どうやって帰ってくるのか。それを、ちゃんと見てくる」
帰ってくる。
その言葉だけが、墓石の前に長く残った。
「久遠君」
なのはは立ち上がった。
「わたしたち、行ってくるね」
「次は、六課のみんなの話も持ってくるよ」
フェイトも続く。
はやては最後に墓石を軽く叩いた。
「留守番、頼んだで」
返事はない。
分かっていた。
三人は並んで墓地を出ていく。
なのはだけが入口の前でもう一度振り返った。
花は風に揺れている。
墓石の前には、誰もいなかった。
「いってきます」
もう一度だけ言って、なのはも二人の後を追った。
◇
「倒れる練習をしましょう」
そう言った少年は、十年前に海鳴市の図書館から消えた溱久遠と、まったく同じ姿をしていた。
背丈も。
顔立ちも。
声も。
九歳だったあの日から、何一つ成長していない。
訓練用の簡素な服を身につけ、周囲を見回すこともなく、白い訓練室の中央に立っている。
子供の姿には不釣り合いなほど、その視線は静かだった。
ただ一つ。
ここにいる者たちは、誰も彼を久遠とは呼ばない。
少年自身も、そう名乗らなかった。
クオン。
今の彼は、自分の名をそう告げていた。
クオンが同じ言葉をもう一度口にすると、ノーヴェは心底嫌そうな顔をした。
「……はあ?」
世界を隔てた、ジェイル・スカリエッティの研究施設。
その一角に設けられた訓練室には、白い床と白い壁、それから殴っても蹴っても壊れにくい標的が並んでいる。
戦闘機人を鍛える場所としては、必要十分。
少なくとも、転び方を教わるための場所には見えなかった。
「聞こえませんでしたか?」
「聞こえたから聞き返してんだよ。なんであたしが、今さら転び方なんか習わなきゃならねえ」
「立っていられなくなることがあるからです」
「ねえよ」
「では、試してみましょう」
クオンが一歩踏み込む。
ノーヴェの足首へ踵をかけ、膝の向きへわずかに力を添えた。
「うおっ!?」
前のめりになったノーヴェは、とっさに右手を床へ突く。
硬質な音が響き、床材に細い亀裂が走った。
戦闘機人の手首は、その程度では壊れない。
ノーヴェは片腕だけで身体を跳ね上げると、着地と同時にクオンを睨みつけた。
「何しやがる!」
「右手だけで、身体を支えましたね」
「だからなんだよ」
「その手が壊れていたら、次の攻撃ができません」
「壊れねえよ。あたしらを普通の人間と一緒にすんな」
「痛くはありませんか?」
「…………」
「右の手首です」
「このくらい、痛いうちに入らねえ」
「痛いのですね」
「うるせえ!」
壁際で見ていたウェンディが吹き出した。
「ノーヴェ、完全に遊ばれてるっス」
「次はテメェがやれ!」
「遠慮するっス!」
即答したウェンディの隣で、ディエチだけが心配そうにノーヴェの右手を見ている。
クオンは笑わなかった。
「我慢できるかどうかは、聞いていません」
静かな声だった。
「痛みは、身体から届く報告です。無かったことにすれば、次に何を選べるのか分からなくなります」
「痛かったら、やめろってのかよ」
「やめてもいいです」
予想していなかった答えに、ノーヴェが口を閉じる。
「続けてもいいです。ただし、痛みに続けさせられるのでも、誰かに我慢させられるのでもなく、自分で選んでください」
「簡単に言いやがって」
「簡単ではありません」
クオンは自分から床へ倒れた。
顎を引き、正面から手をつかず、肩から背中へ衝撃を流す。そのまま一回転し、片膝を立てて起き上がった。
立ち上がるまで、一秒もかからない。
「だから練習します」
遠い世界の、小さな家の庭。
久遠もまた、高町恭也に足を払われ、何度も土の上へ転がされた。
立っているための技より先に、倒れても壊れないための技を教わった。
クオンは、その日のことを一つも忘れていない。
今は教わったものを、ノーヴェへ渡していた。
「もう一度、来てください」
「今度はぶっ飛ばす」
「はい」
ノーヴェの足裏でローラーが唸った。
一瞬で間合いを詰め、今度は左へ回り込みながら拳を突き出す。
クオンは拳を流し、脚を払う。
悪態を吐きながらも、ノーヴェはもう右手を突かなかった。
身体を丸め、肩から床へ落ちる。背中、腰、脚へと衝撃を逃がし、回転の終わりには片膝でクオンを見上げていた。
そこから間を置かず、拳を振るう。
クオンの鼻先で、ぴたりと止まった。
「……どうだ」
「上手です」
「子供扱いすんな」
「褒めただけですよ」
ノーヴェは怒った顔のまま、少しだけ胸を張った。
「まあ。ずいぶん地味な訓練ですこと」
訓練室の扉が開く。
眼鏡をかけた少女――クアットロが、いつもの微笑みを浮かべて立っていた。
「姿勢制御も損傷検知も自動で行える身体に、受け身から教えるなんて」
「機械が教えるのは、壊れた場所までです」
「その後の最適行動も計算できますわ」
「選ぶのは、彼女たちです」
クアットロの笑みは崩れない。
「ドクターから、お話があるそうですわ」
「命令ですか?」
「まさか」
クアットロは大げさに目を丸くする。
「丁重なご招待です。ドクターは学習のできる方ですもの」
「分かりました」
クオンはノーヴェの右手へ視線を落とした。
「今日はここまでにします。手首を冷やしてください」
「だから平気だって言ってんだろ」
「平気かどうかではありません。痛いのでしょう?」
ノーヴェは答えず、顔を背けた。
それでも右手首を左手で押さえたのを見届けてから、クオンはクアットロの後に続いた。
◇
ジェイル・スカリエッティは、巨大な画面を背にしてクオンを迎えた。
「来てくれて嬉しいよ、クオン」
「話は何ですか?」
「相変わらず早いね。挨拶を楽しむつもりは?」
「あなたとの挨拶は長いので」
「手厳しい」
口では残念そうに言いながら、男の笑みは深くなる。
クオンが従順でないことさえ、この男にとっては観察の対象だった。
スカリエッティが指を鳴らす。
画面に、いくつもの資料が表示された。
時空管理局の組織図。
古代遺物管理部に新設が検討されている部隊。
まだ正式稼働前と記された計画書。
そして、翌日に予定されたBランク昇格試験の受験者名簿。
「八神はやてが準備を進めている独立部隊。通称、機動六課」
男は楽しそうに説明する。
「興味深い人材を集めている。明日は、その候補となる二人の試験があるそうだ」
スバル・ナカジマ。
ティアナ・ランスター。
画面に十代半ばの少女たちの写真が並ぶ。
試験官の欄には、高町なのは。
見学者の欄には、八神はやてとフェイト・T・ハラオウン。
三つの名前を見た瞬間、クオンは一度だけ瞬きをした。
高町なのは。
八神はやて。
フェイト・T・ハラオウン。
どれも、知らない名前ではなかった。
画面の中の三人は、十年前より背が伸び、顔立ちも変わっている。
黒い画面へ薄く映り込んだクオンだけが、九歳の姿をしていた。
「おや」
スカリエッティは、クオンが一度だけ瞬きをしたことを見逃さなかった。
「気になる名前でもあったかな?」
クオンはすぐに答えなかった。
「試験は、何時からですか?」
「答えないのかい?」
「今、必要な質問ではありません」
クオンは二人の受験者へ視線を移した。
「この子たちを、どうするつもりですか?」
「私が?」
「あなたが、ボクに見せたのです」
「ただの好奇心だよ。優秀な魔導師が、次の世代をどう育てるのか。君も興味があると思ってね」
「戦闘記録を持ち帰れ、という依頼なら断ります」
「そんな無粋な命令はしないさ」
「依頼でも断ります」
「では、君自身のために見てくるといい」
スカリエッティは両手を広げた。
「十五歳と十六歳の子供たちが、自分の意思で一つ上の力を求める。その選択を、君がどう見るのか。私は、その答えに興味がある」
クオンは画面を見る。
受験者は十五歳と十六歳。
試験官たちは十九歳。
九歳だった三人は、大人と呼ばれる側へ立っていた。
自分だけが、九歳の姿のまま。
「見に行きます」
「そうか。感想を楽しみにしているよ」
「あなたのために答えるとは言っていません」
「それも含めて、楽しみにしている」
クオンは研究室の出口へ向かう。
「もう出発するのかい? 試験は明朝だよ」
「その前に、行く場所があります」
「どこへ?」
クオンは足を止めた。
「あなたに伝える必要はありません」
◇
海鳴市へ夜が戻った。
墓地の門は閉じている。
人の気配もない。
丘の上を監視するカメラが、ゆっくりと首を振る。
その視界を、九歳ほどの少年が横切った。
けれど、記録された映像には何も残らない。
風に揺れる木々と、夜露に濡れた石だけ。
クオンは誰にも呼び止められず、丘を上った。
墓前には新しい花があった。
クオンは墓石の前に立つ。
溱久遠。
刻まれた文字を、指先でなぞった。
「十年、ですか」
昼間、墓前にいた三人は十九歳になっていた。
墓石に触れている指は、九歳の子供のものだった。
「ボクは、変わっていません」
返事の代わりに、丘を越える風が花を揺らした。
クオンは目を閉じる。
暗い図書館。
床に落ちた携帯電話。
誰にも届かなかった声。
そこで何があったのかを語る者は、ここにはいない。
それでも、墓石へ触れた指に少しだけ力が入った。
「……痛かった」
十年前には、言えなかった言葉だった。
長い沈黙のあと、クオンは傾いていた花を直した。
「でも、帰ってきました」
墓石の下には、誰も眠っていない。
その空の墓へ向かって、少年は静かに頭を下げた。
「ただいま」
顔を上げる。
「明日、高町なのはを見に行きます」
少年の姿は、次の風が吹く前に消えていた。
◇
翌朝。
墓地の管理人は、開門前の丘で一人の少年を見たと話した。
九歳ほどの、小さな子供。
墓石の前にしゃがみ、供えられた花へ触れていたという。
管理人は、その顔を知っている気がした。
ずっと前に捜索願の写真で見た、行方不明の少年。
あの子と同じ顔だったと、確かに思った。
けれど、誰かに説明しようとした頃には、顔立ちも、服装も、声も思い出せなくなっていた。
監視映像には何も残っていない。
花の向きが少し変わっているだけだった。
奇妙な噂は、海鳴の街へ静かに落ちた。
その頃。
世界を隔てたミッドチルダでは、二人の少女が開始線に立っていた。
◇
スバル・ナカジマは、目を閉じると今でも炎を思い出す。
四年前の空港火災。
熱で歪む空気。
崩れていく天井。
幼い自分には、逃げ道が見つけられなかった。
その炎の向こうから、白い光が降りてきた。
翼のような魔力光を広げ、一人の魔導師が手を伸ばしてくれた。
あの手に届きたい。
今度は自分が、誰かへ手を伸ばせるようになりたい。
それが、スバルが陸戦魔導師を目指した始まりだった。
「スバル」
隣から、ティアナ・ランスターの声が飛ぶ。
「ぼうっとしない。始まるわよ」
「う、うん!」
スバルは目を開けた。
演習場に設けられた市街地型のコース。
制限時間内に課題を突破し、目標地点へ到達する。
二人が挑むのは、CランクからBランクへの昇格試験だった。
上空のヘリでは、八神はやてとフェイトがモニターを見つめている。
試験区域では、高町なのはが二人の動きと安全管理を担当していた。
機動六課は、まだ正式には始まっていない。
この時点でそこにいるのは、一人の試験官と、二人の見学者と、二人の受験者だけだった。
そして。
どの名簿にも記されていない、一人の観察者。
クオンはコースを見下ろす建物の屋上に立っていた。
監視用のセンサーは、すぐそばを探査光でなぞっても反応しない。
職員が屋上を見上げても、視線は少年の上を滑っていく。
開始を告げる音が鳴った。
スバルとティアナが同時に走り出す。
先行するスバルが道を開き、ティアナが後方から射撃で支える。
一人が迷えば、もう一人が進路を示す。
一人が崩せなければ、二人で崩す。
呼吸の合った連携だった。
「上手ですね」
クオンは呟く。
戦い方の評価ではない。
互いを一人にしないことへの評価だった。
試験は順調に進んだ。
けれど、最後まで順調なだけの試験ではない。
崩れた足場を越える際、ティアナが脚を痛めた。
致命的な怪我ではない。
それでも走り続ければ、動きは確実に鈍る。
残り時間も少ない。
続行すれば、二人とも不合格になるかもしれない。
退けば、次の機会はある。
クオンは屋上の縁へ一歩近づいた。
痛みは報告だ。
無かったことにしてはいけない。
ノーヴェへ教えたばかりの言葉を、今度は自分へ向ける。
ティアナは痛みを隠さなかった。
スバルも、それに気づいている。
残り時間と負傷を考えれば、諦めるしかない。
ティアナはそう判断した。
けれど、スバルは首を振った。
親友の夢を、ここでつまずかせたりしない。
自分が憧れたあの人なら、こんなときにも諦めない。
スバルが前へ進む方法を示し、ティアナがその可能性を見定める。
最後には二人で頷き、もう一度走り出した。
「自分で選んだ」
クオンの声に、喜びはない。
選んだから正しいとは限らない。
子供は、自分が壊れる選択さえできてしまう。
だから、止める側が必要になる。
無理な選択を止めるために。
支えるために。
帰る場所を残すために。
クオンは試験区域全体へ意識を広げた。
緊急時の救助経路。
防護の配置。
二人の状態を追う試験官の視線。
なのはは、ただ結果だけを見てはいなかった。
いつでも手を伸ばせる距離を保ちながら、それでも二人が自分たちで越えるための余地を残している。
これは戦場ではない。
少なくとも今は、まだ。
スバルが道を作る。
ティアナが残る力を射撃へ変える。
二人の攻撃が最後の目標を捉えた。
制限時間は、ほとんど残っていなかった。
ぎりぎりの到達だった。
勢いのまま足場を飛び出した二人の身体が、宙へ投げ出される。
地面は遠い。
スバルがティアナへ手を伸ばす。
ティアナもスバルの腕を掴む。
クオンの足が、屋上の縁を離れかけた。
その前に。
白い光が、二人へ届いた。
高町なのはが宙を駆け、落下する二人を両腕で受け止める。
速すぎず。
遅すぎず。
二人が最後まで自分の力を使い切った、その直後に。
四年前、炎の中へ差し伸べられた手が、もう一度スバルを掴んだ。
驚いて見開かれた青緑の瞳。
白い防護服を見上げる顔に、幼い日の記憶が重なる。
なのはも、腕の中の少女の名を呼んだ。
救助された子供と、救助した魔導師。
四年越しの再会だった。
上空で見ていたはやてが、安堵と期待の混じった息を吐く。
フェイトも静かに微笑んだ。
試験は終わった。
試験の課題を突破したのは、二人の力だった。
誰かに結果を譲られたのでも。
誰かに役目を代わってもらったのでもない。
スバルとティアナは、自分たちの選択で最後までたどり着いた。
クオンは屋上に留まったまま、白い光を見つめている。
「帰しましたね」
その声は、誰にも届かない。
なのはは二人を抱きとめている。
はやてとフェイトは、その無事を見届けている。
九歳だった三人は、今、子供を預かる役目に立っていた。
それを大人と呼ぶのか、クオンにはまだ決められない。
少なくとも、高町なのはは二人の選択を見届け、危険の先で手を伸ばした。
それでも、この試験の先には任務がある。
危険な遺失物があり、戦闘があり、帰れないかもしれない場所がある。
今日手を伸ばせたからといって、明日も間に合うとは限らない。
クオンは、二人の受験者の名を口にした。
「スバル・ナカジマ」
「ティアナ・ランスター」
「覚えました」
少年の輪郭が、朝の光へ溶けていく。
センサーには最後まで、人影として捉えられるものは何も映らない。
誰にも見つからないまま、クオンは試験場を去った。
試験終了後、会場の記録は時空管理局の保管領域へ送られた。
スバル・ナカジマとティアナ・ランスターの走行記録。
高町なのはによる救助。
八神はやてとフェイト・T・ハラオウンの観覧記録。
そして、誰もいないはずの屋上に一度だけ残った、対象判定にも満たないごく小さな測定値の乱れ。
その乱れが機器誤差として処理されるより先に、その記録へ閲覧要求が入った。
所属、地上本部監察部門。
認証、有効。
閲覧者名だけが、空欄だった。
記録は複製され、管理局内部の別領域へ送られる。
送信先で開かれたのは、何も映っていない数秒間だった。
続いて、高町なのは。
フェイト・T・ハラオウン。
八神はやて。
三人の名前と現在の所属が、順に確認される。
報告欄へ、短い一文が入力された。
対象の活動に伴う検知痕跡を確認。
正規系統による個体識別には至らず。
情報露出状況の監察を継続する。
保存が終わると同時に、閲覧履歴からは、申請者が空欄だった痕跡も、記録が複製された事実も消えた。
機動六課は、まだ始まっていない。
けれど、後にその部隊へ集う者たちは、この朝、確かに出会った。
そして、彼女たちがまだ知らない場所で。
墓のある少年もまた、歩き始めていた。