魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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第十五話 帰る場所

 試験を終えたスバル・ナカジマとティアナ・ランスターは、並んで医務室の椅子に座っていた。

 

 正確には、並ばされていた。

 

「だから、たいした怪我じゃないって」

 

「たいした怪我かどうかを決めるのは、あんたじゃなくて先生」

 

 右脚の処置を受けながら、ティアナが眉を寄せる。

 

 隣ではスバルが、擦り傷の消毒にいちいち肩を跳ねさせていた。

 

「いたっ」

 

「あれだけ派手に走り回っておいて、消毒で騒がないでよ」

 

「痛いものは痛いよ」

 

「あんたねえ……」

 

 呆れた声とは裏腹に、ティアナの口元はわずかに緩んでいる。

 

 合格。

 

 制限時間ぎりぎりではあったが、二人はBランク昇格試験を突破した。

 

 その実感が、ようやく遅れて追いついてきたところだった。

 

 医務室の扉が開く。

 

 高町なのはに続いて、八神はやてとフェイト・T・ハラオウンが入ってきた。

 

 二人は反射的に姿勢を正そうとした。

 

「そのままでいいよ」

 

 なのはが笑って止める。

 

「まずは、二人とも合格おめでとう」

 

「ありがとうございます!」

 

 スバルの返事が医務室に響く。

 

 ティアナも頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

「試験についての細かい講評は、治療が終わってからにしようと思うんだけど」

 

 なのはは一度、はやてを見る。

 

「その前に、二人へ話しておきたいことがあるの」

 

 はやてが前へ出た。

 

 まだ部隊長の制服は着ていない。

 

 機動六課は、今も書類の上にしか存在しない部隊だった。

 

「改めまして。八神はやてです」

 

 穏やかな調子で名乗り、二人の顔を順に見る。

 

「うちは今、古代遺物に関する事件へ専門に対応する、新しい部隊を立ち上げようとしとる」

 

 スバルが息を呑んだ。

 

 なのはが試験官を務めた理由。

 

 執務官であるフェイトが見学していた理由。

 

 それが、ようやく一つにつながった。

 

「まだ正式発足前やから、今日ここで決めてほしいとは言わへん。でも、二人には前線の隊員候補として来てほしいと思っとる」

 

「高町教導官も、その部隊に?」

 

 スバルの問いに、なのはが頷く。

 

「うん。前線隊の教導と指揮を担当する予定だよ」

 

 スバルの顔が一気に明るくなった。

 

 その横で、ティアナは期待が顔へ出るのを抑えるように、フェイトを見る。

 

「私は捜査と指揮、それから執務官業務の方で参加することになってる」

 

「執務官の勉強についても、相談できる環境は用意したいと思ってるよ」

 

 先回りされたティアナが、ほんの少し目を見開いた。

 

「経歴も目標も、調べさせてもろた」

 

 はやては微笑む。

 

「ただし、憧れだけで決めたらあかん。危険な任務もあるし、今の所属を離れることにもなる。二人でよう話して、自分で選んでほしい」

 

 スバルはすぐに答えそうになった。

 

 けれど、隣のティアナを見て、開きかけた口を閉じる。

 

 ティアナもスバルを見る。

 

 試験の最後と同じだった。

 

 先に進む方法を一人で決めない。

 

 二人で確かめてから、同時に頷く。

 

「行きたいです」

 

 スバルが言った。

 

「私もです」

 

 ティアナが続ける。

 

 はやては、二人の返事を急いで書類へ変えようとはしなかった。

 

「ありがとう。せやけど、正式な手続きは返事を持ち帰って、もう一度考えてからや」

 

「え、今ので決定じゃないんですか?」

 

「人生に関わる話やからな。勢いの返事だけで預かるわけにはいかへんよ」

 

「部隊長って、もっと強引に人を引き抜くものだと思ってました」

 

 ティアナの言葉に、はやては肩をすくめる。

 

「そないな部隊長になったら、なのはちゃんとフェイトちゃんに止めてもらうわ」

 

「止めるよ」

 

「うん。全力で」

 

「二人とも即答なん?」

 

 医務室に笑いが起こった。

 

 その場にいる誰も知らない。

 

 試験場の屋上にいた九歳の少年が、すでに二人の名を覚えていることを。

 

     ◇

 

 同じ頃。

 

 二人の十歳の子供が、別々の道からミッドチルダへ向かっていた。

 

 エリオ・モンディアル。

 

 キャロ・ル・ルシエ。

 

 どちらもフェイトが保護し、見守ってきた子供だった。

 

 そして、どちらも機動六課へ参加する予定になっている。

 

 まだ会ったことのない二人が初めて顔を合わせたのは、到着ロビーへ続く通路だった。

 

 慣れない人波に押され、キャロの小さな身体がよろめく。

 

 抱えていた荷物が腕から離れた。

 

 床へ落ちるより早く、エリオが手を伸ばす。

 

 荷物を受け止め、その勢いのままキャロの肩も支えた。

 

「大丈夫?」

 

「は、はい。ありがとうございます」

 

 礼を言った後で、二人とも相手の荷物につけられた識別票へ気づいた。

 

 迎えの担当者名が同じだった。

 

「もしかして、フェイトさんのところへ?」

 

「はい。あなたもですか?」

 

「うん。僕はエリオ」

 

「キャロです」

 

 ぎこちない自己紹介だった。

 

 けれど、一人で歩いていたときより、二人の足取りは少しだけ軽くなった。

 

 やがて人混みの向こうに、二人を待つ金色の髪が見える。

 

 フェイトが手を振った。

 

 エリオとキャロは顔を見合わせ、並んで駆け出した。

 

 新しい部隊は、まだ始まっていない。

 

 それでも、そこで共に働く者たちは少しずつ集まり始めていた。

 

     ◇

 

「十歳、か」

 

 ジェイル・スカリエッティが、面白がるように言った。

 

 巨大な画面には、到着ロビーを歩くエリオとキャロが映っている。

 

 映像は遠く、音声もない。

 

 それでも二人がフェイトを見つけ、安心した顔をしたことは分かった。

 

 クオンは画面の前に立っている。

 

 試験場から戻ったばかりだった。

 

「あの二人も、機動六課へ入るそうだよ」

 

「子供です」

 

「十五歳と十六歳の二人にも、同じことを言っていたね」

 

「十六歳も子供です」

 

「君は九歳にしか見えないが」

 

「見た目の話はしていません」

 

「では、何を基準に?」

 

「帰る場所を、自分だけでは決められない人です」

 

 スカリエッティの笑みが、わずかに深くなる。

 

「興味深い定義だ」

 

「二人の家は、どこですか?」

 

「これからは機動六課が、そうなるのではないかな」

 

「まだ、ありません」

 

 機動六課は準備中だ。

 

 隊舎が用意されても、人が集められても、そこが帰る場所になるとは限らない。

 

「では、君が確かめてみるかい?」

 

「あなたに言われなくても見ます」

 

「もちろんだとも」

 

 スカリエッティは機嫌よく答える。

 

 少し離れた場所で聞いていたノーヴェが、怪訝そうに二人を見た。

 

「なあ、ドクター」

 

「何だい、ノーヴェ」

 

「なんでこいつにだけ、いちいちお伺い立ててんだ?」

 

 クオンがノーヴェを見る。

 

「お伺い?」

 

「やれって言わねえだろ。見てこい、とも、持ってこい、とも。さっきから、するか、見るかって聞いてばかりじゃねえか」

 

「それはいけませんか?」

 

「いけねえとは言ってねえ。変だって言ってんだよ」

 

 ノーヴェは右手首を左手でさすった。

 

 もう痛みはない。

 

 それでも白い仮面に投げ飛ばされた瞬間を思い出すと、なぜかそうしてしまう。

 

 クアットロが眼鏡の位置を直した。

 

「ドクターは学習のできる方ですもの」

 

「どういう意味だよ」

 

「言葉通りですわ」

 

 スカリエッティは椅子へ深く腰かけ、両手の指を組んだ。

 

「私も以前は、彼を理解すれば制御できると考えていた」

 

「以前?」

 

「半年前だ」

 

 画面が切り替わる。

 

 白い通路。

 

 閉じる隔壁。

 

 赤い警告灯の下に、一人の少年が立っていた。

 

「一度だけ、クオンの意思を無視した」

 

 スカリエッティは、懐かしい実験記録でも眺めるように笑った。

 

「結果として、私は研究所を一つ失った」

 

     ◇

 

 半年前。

 

 クオンは、名前のない世界にある研究施設へ入った。

 

 地図に記載されず、正規の航路からも外された場所だった。

 

 スカリエッティの施設へ入るのは、これが初めてではない。

 

 場所は、そのたびに違った。

 

 それでも中に子供がいると知れば、クオンは現れた。

 

 何も盗まない。

 

 誰も傷つけない。

 

 ただ子供たちを見て、やがて帰る。

 

 残るのは、侵入されたという事実だけだった。

 

 記録映像を並べても、姿の印象は観察する者の頭から滑り落ちる。

 

 同じ侵入者なのかという確信さえ、長くは残らない。

 

 それでも侵入経路と行動は、毎回よく似ていた。

 

 スカリエッティは、それらを同じ来訪者によるものだと推測していた。

 

 この施設にも、子供がいた。

 

 だから、見に来た。

 

 理由はそれだけだった。

 

 正面通路を進み、三つ目の扉を越えたところで、前後の隔壁が閉じた。

 

 遮断フィールドが降りる。

 

 転送経路が塞がれ、外部との接続が切れた。

 

 天井のスピーカーから、待ち構えていた男の声が流れる。

 

『ようこそ。ようやく君と話ができる』

 

「ジェイル・スカリエッティですか?」

 

『私を知っているのかい?』

 

「ここにいる子供を作った人です」

 

『素晴らしい。ならば話が早い。君の名前も聞かせてもらえるかな?』

 

「クオンです」

 

『クオン。覚えておこう』

 

『何度も私の施設へ入り込み、何ひとつ奪わず、子供たちを見て帰っていく。警備記録を照合して、ようやく同じ来訪者だと見当をつけたよ』

 

「子供がいたので、確認しました」

 

『何を確認したんだい?』

 

「ここが、帰る場所かどうかです」

 

『ますます興味深い』

 

 通路の奥で、複数の気配が動いた。

 

『悪いが、今日はしばらく客人になってもらおう』

 

「帰る時間は、ボクが決めます」

 

『それは解析が終わってから相談しよう』

 

 クオンは閉じた隔壁に触れた。

 

「開けてください」

 

『断る、と言ったら?』

 

「帰れる道を探します」

 

『力ずくでも?』

 

「必要なら」

 

 会話を打ち切るように、最初の一撃が届いた。

 

 トーレの高速機動。

 

 赤い光が通路を裂き、手刀がクオンの首筋へ迫る。

 

 クオンは半歩だけ身を引いた。

 

 紙一重でかわし、伸びきった腕へ指を添える。

 

 黒い帯がトーレの手首へ巻きついた。

 

 しかし、拘束が閉じるより早く、トーレは自分から翼の出力を落とし、身体を反転させる。

 

 二撃目の踵がクオンの側頭部を捉えた。

 

 小さな身体が壁へ叩きつけられる。

 

 そこへ、チンクの金属片が突き刺さった。

 

 連続する爆発が、通路を炎で塞ぐ。

 

『捕獲対象の損傷を抑えろ。だが、遠慮は必要ない』

 

「矛盾した命令ですわね」

 

 クアットロの声が複数の方向から響く。

 

 炎が晴れたとき、通路には何人もの少女が立っていた。

 

 同じ顔。

 

 同じ武装。

 

 同じ足音。

 

 幻像と実体が入り交じり、どれが攻撃へ移るのか判別できない。

 

 床の下では、セインが待っている。

 

 天井近くにはオットーの光条。

 

 退路にはディードの双剣。

 

 ウェンディのライディングボードが空間を横切り、ノーヴェが低い姿勢で加速する。

 

 ディエチの砲口は、味方の間を縫ってクオンだけを狙っていた。

 

 正面、背後、上下。

 

 一人で避けられる場所は、どこにもなかった。

 

 退路を探した先には、助けを求める研究員の姿をしたドゥーエがいる。

 

 管制室のウーノは、すべての隔壁と遮断装置を統括し、一瞬ごとに包囲の形を組み直していた。

 

「捕まえた!」

 

 床から現れたセインが、クオンの足を掴む。

 

 オットーの光の檻が閉じる。

 

 ノーヴェの蹴りが腹部へ入り、ディードの刃が服ごと両腕を壁へ縫い止めた。

 

 クオンの身体から力が抜ける。

 

 トーレは油断せず、その首筋へ抑制剤を打ち込んだ。

 

『見事だ。まずは第一段階成功、と言っていいだろう』

 

 スカリエッティの声が弾む。

 

 ウーノの制御で隔壁が一枚だけ開き、拘束されたクオンが搬送されていく。

 

 ナンバーズは役目を果たした。

 

 誰一人欠けていない。

 

 侵入者を軽視せず、連携し、追い詰め、捕らえた。

 

 そのはずだった。

 

     ◇

 

 解析室の中央へ、クオンが固定される。

 

 両手足。

 

 首。

 

 魔力の流れ。

 

 転送と通信。

 

 考えられるすべてを拘束し、何重もの遮断壁で部屋を閉じる。

 

 ウーノが計測を開始した。

 

「生体反応、安定。投薬効果も確認しました」

 

『魔力炉は?』

 

「検出できません」

 

『魔導師でない、と?』

 

「少なくとも、通常のリンカーコアに該当する反応はありません」

 

『ますます面白い』

 

 拘束台の上で、クオンが目を開いた。

 

「ここが、あなたの家ですか?」

 

 解析室に残っていたノーヴェが眉をひそめる。

 

「何言ってんだ?」

 

「あなたたちは、ここへ戻りました」

 

「あたしらの研究所だ。当然だろ」

 

「帰りたい場所ですか?」

 

「は?」

 

『質問に答える必要はない』

 

 スカリエッティの声が割り込む。

 

 ノーヴェは口を閉じた。

 

 クオンは天井のカメラを見る。

 

「今のは、誰が決めましたか?」

 

『私だよ。彼女たちは私の娘であり、私の指示に従う』

 

「では、まだ分かりません」

 

『何がだい?』

 

「ここが、この子たちの家かどうかです」

 

 クオンは拘束を解こうとしなかった。

 

 手首も、足首も、首も固定されたまま。

 

 それでも、身じろぎひとつしなかった。

 

 ただ天井のカメラを見つめ、ナンバーズとスカリエッティの言葉を記録している。

 

『ずいぶん大人しいね』

 

「帰る場所を確認しています」

 

『捕らえられたことは気にならないのかい?』

 

「帰ろうと思えば、帰れます」

 

『強がりにしては、計測値が静かすぎる』

 

 スカリエッティが楽しそうに笑った。

 

 クオンが答えようとした、そのときだった。

 

 施設全体が、縦に揺れた。

 

 天井から白い粉が落ちる。

 

 警報が鳴り、ウーノが計測画面を切り替えた。

 

「施設上空に魔力反応! いえ、近すぎます!」

 

『転送か?』

 

「違います。真上から――」

 

 報告が終わるより早く、解析室の天井が消えた。

 

 爆発ではない。

 

 分厚い装甲板が円形に打ち抜かれ、ひしゃげた金属が室内へ落ちてくる。

 

 トーレたちが身構える。

 

 しかし破片は、誰かに届く前に空中で止まった。

 

 白い羽根が一枚、その間を舞い落ちる。

 

 開いた穴から、一人の人影が降りてきた。

 

 顔は、何の表情も刻まれていない白い仮面に覆われている。

 

 認識を妨げる術式のため、背丈も年齢も輪郭も曖昧に揺らいでいる。

 

 人の形をしている。それ以上の印象が、どうしても頭に残らない。

 

 身にまとうのは、白を基調に黒を重ねた騎士甲冑。

 

 腰から伸びる衣が大きく翻り、その背には夜の中で目立つ白い翼が広がっている。

 

 白い仮面の人物は拘束台のクオンを見つけると、迷わず駆け寄った。

 

「大丈夫か、兄弟」

 

 よく通る声だった。

 

 天井を破ったことなど少しも気にしていない、不遜な響きがあった。

 

 拘束されたクオンは、首だけをそちらへ向けた。

 

「なぜ来たのですか、ストライク」

 

「お前が捕らえられたのを感じた」

 

 ストライクと呼ばれた男は、拘束具を値踏みするように眺める。

 

「これだけ厳重に固められているんだ。お前を捕らえるほど強いやつがいると思ってな」

 

「ボクは変身していません」

 

「……なんだ」

 

「抵抗も最低限です。ここが、この子たちの家か確認していました」

 

 白い仮面が、ゆっくりとナンバーズへ向いた。

 

 期待に満ちていた姿勢が、目に見えて緩む。

 

「こいつらが強いんじゃなく、お前が戦っていなかっただけか」

 

「はい」

 

「期待外れだな」

 

 クオンは拘束されたまま、わずかに頭を下げた。

 

「誤認させました。申し訳ありません」

 

「撤退してください」

 

「兄弟がそう言うなら退こう」

 

 ストライクは即答した。

 

 強い者がいると思って来た。

 

 いないと分かった。

 

 ならば、ここに留まる理由はない。

 

 白い仮面の奥で視線を巡らせ、壊した天井の穴を見上げる。

 

「お前も用が済んだら帰ってこい」

 

『待ちたまえ』

 

 スカリエッティの声が二人を止めた。

 

 男の興味は、拘束台の少年から、天井を破って現れた侵入者へ移っていた。

 

『ストライク、と呼ばれていたね。君もクオンなのかい?』

 

 返事はない。

 

 ストライクはスピーカーへ視線さえ向けなかった。

 

『拘束台の彼を兄弟と呼んだね。その身体、その魔力、その甲冑。君たちは、いったい何者なんだい?』

 

 問いかけは、存在しないものとして無視された。

 

『ならば、帰さなければいい』

 

 スカリエッティの声から笑みが消える。

 

『二人とも捕らえろ。今度は出力を抑える必要はない』

 

 兄弟から帰れと言われた。

 

 ならば帰る。

 

 足底へ、精密な魔法陣が編み上がる。

 

 何もない空中を地面のように踏み、打ち抜いた天井へ向かって一歩を進めた。

 

「逃がすか!」

 

 動いたのはノーヴェだけだった。

 

 足裏のローラーを最大まで加速させ、背を向けたストライクへ一直線に迫る。

 

 ストライクは振り返らない。

 

 空中へ置いた右足を軸にして、身体をわずかに捻った。

 

 ノーヴェの拳が肩口を通り過ぎる。

 

 伸びきった腕へ手を添え、進んできた力を一度も止めずに向きだけを変える。

 

 天地が反転した。

 

「なっ――」

 

 ノーヴェの身体が、軽々と宙へ放り出される。

 

 白い仮面の奥で、ストライクが笑った。

 

「綺麗なこけ方を、ちゃんと学ぶんだな」

 

 掌に収縮させた魔法陣が、一瞬だけ開く。

 

 殺傷するためではない。

 

 ノーヴェの勢いを逃がさず、通路の奥へ押し返すための一撃だった。

 

 小さな身体が床を跳ねる。

 

 受け身を取れず、右手を強く突いた。

 

 壁際まで転がったところで動かなくなる。

 

 意識を失っていた。

 

 ストライクは追わなかった。

 

 倒れたノーヴェを一度だけ見て、拘束台のクオンへ顔を向ける。

 

「じゃあな、兄弟」

 

「はい」

 

 空中をもう一歩踏む。

 

 白い翼が翻り、ストライクの姿は天井の穴から消えた。

 

『追え!』

 

 スカリエッティの命令に、誰も即座には動けなかった。

 

 ストライクが踏み切った空間には、足底魔法陣の残光だけが浮かんでいる。

 

 すでに反応は施設の索敵範囲外へ抜けていた。

 

『……構わない。残ったクオンの拘束を強化しろ。今度こそ完全に意識を落とせ』

 

 ナンバーズが拘束台へ向き直る。

 

 九歳のクオンは、ストライクが消えた穴を見上げていた。

 

「ストライクは、必要がないので帰しました」

 

『君一人なら捕らえられる。それは、すでに実証されている』

 

「いいえ」

 

 黒い頁が一枚、拘束台の上へ落ちた。

 

「捕らえられたのは、変身していないボクです」

 

 頁が増える。

 

 クオンの小さな身体を覆い、白と黒の衣へ変わっていく。

 

 手首を固定していた金具が、音もなく砕けた。

 

 足首、首、魔力を封じるはずだった拘束が、役目を失って床へ落ちる。

 

 九歳の姿は変わらない。

 

 その身体に収まっている力だけが、先ほどまでとは別物だった。

 

「全員、下がれ!」

 

 トーレが叫ぶ。

 

 判断は正しかった。

 

 だが、距離を取るよりクオンの術式が閉じる方が早い。

 

 床、壁、天井。

 

 解析室のすべてに、黒い三角形が浮かび上がる。

 

 トーレの高速機動が始まる前に、翼が拘束された。

 

 ディエチの砲口へ黒い頁が入り込み、発射術式だけを分解する。

 

 チンクの金属片は指を離れた瞬間に黒い枠へ封じられた。

 

 セッテとディードの刃は、クオンへ届く三歩手前で静止する。

 

 ウェンディのライディングボードは床へ縫い止められた。

 

 セインが潜ろうとした床そのものが閉ざされる。

 

 オットーの光条は展開と同時に制御を奪われ、術者自身を囲む檻へ組み替えられた。

 

 クアットロが幻像を展開する。

 

 しかし、クオンは見分けようとしなかった。

 

 施設の管制網へ術式を流し、映像と幻像をまとめて遮断する。

 

「こんな、強引な――!」

 

「強引ではありません」

 

 クオンの声は、変身前と何も変わらない。

 

「必要な処理をしています」

 

 最後まで管制を維持しようとしたウーノの操作卓も、黒い頁に覆われた。

 

 助けを求める研究員へ姿を変えたドゥーエは、クオンの背後まで接近していた。

 

 その手が触れる前に、足元で拘束陣が閉じる。

 

 誰一人、クオンへ届かなかった。

 

 最初の戦闘と同じナンバーズ。

 

 同じ能力。

 

 同じ連携。

 

 違うのは、クオンが変身しているという一点だけだった。

 

 動ける者がいなくなるまで、ほとんど時間はかからなかった。

 

 クオンは一人ずつ生命反応を確認する。

 

 致命傷はない。

 

 意識を失っているのは、ストライクに投げ飛ばされたノーヴェだけだった。

 

 右手首を痛めている。

 

「帰します」

 

 黒い転送陣が開く。

 

 トーレを外へ。

 

 セッテとディードを外へ。

 

 チンク、ディエチ、ウェンディを外へ。

 

 セイン、オットー、クアットロ、ドゥーエを外へ。

 

 最後まで管制を続けたウーノも、操作卓から引き離して転送する。

 

 最後にクオンは、意識のないノーヴェを抱き上げた。

 

 痛めた右手首へ負担がかからないように腕を胸元へ置く。

 

 先に転送した姉妹たちと同じ場所へ、静かに送り出した。

 

     ◇

 

 十二の生命反応が、施設の外へ移った。

 

 スカリエッティ本人がここにいないことも、すでに確認している。

 

 施設内に人は残っていない。

 

 九歳のクオンが、最後の反応を確かめる。

 

「全員、帰しました」

 

 クオンは右手を上げた。

 

 その背後へ、巨大な三角形の魔法陣が開いた。

 

 一つの陣が分かれ、壁と床と天井を伝って研究所全体へ広がっていく。

 

 白い施設の中へ、夜が満ちた。

 

『待ちたまえ』

 

 残されたスピーカーから、スカリエッティの声が響く。

 

『君は、自分が何を壊そうとしているか理解しているのか?』

 

「はい」

 

 答えたのは、九歳のクオンだった。

 

『彼女たちを完成させるために必要な研究だ』

 

「完成は、あなたが決めることではありません」

 

『では、なぜ壊す?』

 

「ここは、ボクを帰さないと決めました」

 

『それだけかい?』

 

「はい」

 

 短い沈黙のあと、スピーカーから笑い声が漏れた。

 

『なるほど。ならば私も開き直るとしよう』

 

「はい」

 

『外へ出したナンバーズを、私の本拠の研究所まで連れ帰ってくれないかい? トーレに道を案内させよう』

 

「わかりました」

 

『今から施設を壊そうとしている相手に、その娘たちを送り届けてもらう。まったく、奇妙な話だ』

 

「帰る子供を、家に帰します」

 

『素晴らしい。では、頼んだよ』

 

 正しいからではない。

 

 クオンは、正しさを選んでいない。

 

 帰さない場所を消す。

 

 帰る場所を知らない子供は、案内された家へ送り届ける。

 

 与えられた命令のように、迷いなく処理しているだけだった。

 

 クオンが上げた指を閉じる。

 

 夜が落ちた。

 

 研究設備が、内側から押し潰される。

 

 保存されていたデータが焼き切れ、捕獲用の遮断装置が砕け、施設を支える柱が一本ずつ消えていく。

 

 爆発ではなかった。

 

 巨大な何かが、研究所という存在だけを握り潰している。

 

 壁が折れ、床が沈み、白い研究所が闇へ呑まれた。

 

 崩壊の闇が監視カメラを呑み込み、映像は途切れた。

 

     ◇

 

「それで、研究所が一つ消えた」

 

 現在。

 

 映像を止めたスカリエッティが、軽い調子で結論づけた。

 

 ノーヴェは自分の右手を見下ろしている。

 

 覚えているのは、白い仮面へ殴りかかったところまでだった。

 

 拳をいなされ、天地が反転した。

 

 綺麗なこけ方を、ちゃんと学ぶんだな。

 

 不遜な声を最後に、意識が途切れた。

 

 次に目を覚ましたとき、ノーヴェは研究所の外にいた。

 

 周囲には姉妹たちが揃っていた。

 

 右手首が痛み、目の前では研究所が音もなく崩れていた。

 

「だから聞いてんだよ」

 

 ノーヴェがクオンを指さす。

 

「あたしが気絶した後、何があった?」

 

「君たちが捕らえたクオンが、変身した」

 

 スカリエッティが答える。

 

「それだけか?」

 

「それだけだよ」

 

「あのでかい白仮面は?」

 

「ストライクです」

 

 クオンが答えた。

 

「名前じゃねえ。あいつがやったのかって聞いてんだ」

 

「ストライクは帰りました」

 

「じゃあ、お前一人で?」

 

「はい」

 

 ノーヴェは言葉を失った。

 

 クアットロだけが、細めた目の奥で何かを計算している。

 

「だから、命令しないのか」

 

「正確には、命令する利益がないと学んだのさ」

 

 スカリエッティは笑う。

 

「捕獲そのものには成功した。君たちの連携にも不備はなかった。ただし、彼が戦っていない状態を、私は制圧できたと誤認した」

 

 スカリエッティは画面に映る崩壊前の研究所を見る。

 

「変身した彼には、誰一人触れられなかった。一人を捕らえれば別の一人が現れ、現れた一人が帰っても、捕らえた本人だけで研究所を消せる。もう一度試して得られるものより、失うものの方が大きい」

 

「怖くねえのかよ」

 

「まさか。これほど興味深い隣人は他にいないよ」

 

 クオンは会話を聞き終えると、画面へ向き直った。

 

 映っているのは、フェイトの左右を歩くエリオとキャロだった。

 

 二人はまだ、互いとの距離を測っている。

 

 けれど、どちらも一人ではない。

 

「彼女たちに会いに行くのかい?」

 

 スカリエッティが尋ねる。

 

「会いません」

 

「では、見るだけ?」

 

「はい」

 

「何を確かめる?」

 

「帰る場所になるかどうかです」

 

「ならなかったら?」

 

 クオンは即座に答えた。

 

「帰します」

 

「どこへ?」

 

 そこで初めて、クオンは答えを止めた。

 

 エリオの家。

 

 キャロの家。

 

 記録上の住所は分かる。

 

 保護施設も、預けられていた場所も分かる。

 

 けれど、それが二人の帰りたい場所かどうかは、記録に書かれていない。

 

「分かりません」

 

 だから、クオンはそう答えた。

 

「先に、確かめます」

 

 少年の姿が黒い頁へほどけていく。

 

 部屋から消える寸前、ノーヴェが呼び止めた。

 

「クオン」

 

「はい」

 

「今度、あたしが倒れたら」

 

 ノーヴェは右手を握る。

 

「勝手に外へ送るな。帰る場所は、あたしが決める」

 

「分かりました」

 

「それと」

 

「はい」

 

「手ぇ突かない倒れ方。あれ、もう一回教えろ」

 

 クオンは頷いた。

 

「明日にしましょう」

 

「今日じゃねえのかよ」

 

「右手が痛いのでしょう?」

 

「もう痛くねえ!」

 

 黒い頁が閉じる。

 

 クオンの姿は消え、ノーヴェの抗議だけが部屋に残った。

 

     ◇

 

 夕暮れのミッドチルダ。

 

 フェイトはエリオとキャロを連れ、これから二人が暮らす場所へ向かっていた。

 

 道の途中で、キャロが何度も荷物を持ち直す。

 

 そのたびにエリオが気づき、半分持とうかと声をかける。

 

 キャロは最初こそ遠慮したが、三度目には小さく頷いた。

 

 二人で一つの荷物を持つ。

 

 少し歩きにくそうにして、それでもどちらも手を放さない。

 

 フェイトが振り返り、二人を待つ。

 

 今度は三人で並んだ。

 

 通りの向かい側に、九歳ほどの少年が立っていた。

 

 誰も、その姿に気づかない。

 

 クオンは三人の歩く先を見る。

 

 今夜を過ごす場所はある。

 

 迎えに来る人もいる。

 

 けれど、帰る場所かどうかは、まだ分からない。

 

 だから連れ出さない。

 

 危険はない。

 

 怪我もない。

 

 本人たちは、前へ歩いている。

 

 今は処理の必要がない。

 

「確認を続けます」

 

 それだけを告げて、クオンは夕暮れの中へ消えた。

 

 その数分後。

 

 地上本部の監察用領域で、今朝保存された記録に新しい情報が加えられた。

 

 フェイト・T・ハラオウン。

 

 保護対象、エリオ・モンディアル。

 

 同じく、キャロ・ル・ルシエ。

 

 三人の移動経路と、周辺の公共センサーから抽出された測定値が並ぶ。

 

 映像に、少年の姿はない。

 

 魔力反応もない。

 

 管理局への通報も、照会もなかった。

 

 報告欄へ、朝の記録と同じ形式で追記される。

 

 保護対象二名への介入なし。

 

 正規系統における認知、記録ともになし。

 

 情報露出状況の監察を継続する。

 

 報告は、さらに上位の権限領域へ送られた。

 

 返答は一行だけだった。

 

 了解した。引き続き、こちらからの接触は不要だ。

 

 署名はない。

 

 ただし、返答に用いられた権限は、最初の閲覧者よりも上位にあった。

 

 保存と同時に、記録が開かれた形跡は再び消えた。

 

 同じ時刻。

 

 試験を終えたスバルとティアナも、新しい部隊へ進む返事をそれぞれの上官へ伝えていた。

 

 四人が選んだ道は、まだ一本につながっていない。

 

 機動六課も、まだ始まっていない。

 

 その発足まで、あと少し。

 

 そして、彼らが歩く道の外側には。

 

 正規の名簿には載らない、一人の少年がいた。

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