試験を終えたスバル・ナカジマとティアナ・ランスターは、並んで医務室の椅子に座っていた。
正確には、並ばされていた。
「だから、たいした怪我じゃないって」
「たいした怪我かどうかを決めるのは、あんたじゃなくて先生」
右脚の処置を受けながら、ティアナが眉を寄せる。
隣ではスバルが、擦り傷の消毒にいちいち肩を跳ねさせていた。
「いたっ」
「あれだけ派手に走り回っておいて、消毒で騒がないでよ」
「痛いものは痛いよ」
「あんたねえ……」
呆れた声とは裏腹に、ティアナの口元はわずかに緩んでいる。
合格。
制限時間ぎりぎりではあったが、二人はBランク昇格試験を突破した。
その実感が、ようやく遅れて追いついてきたところだった。
医務室の扉が開く。
高町なのはに続いて、八神はやてとフェイト・T・ハラオウンが入ってきた。
二人は反射的に姿勢を正そうとした。
「そのままでいいよ」
なのはが笑って止める。
「まずは、二人とも合格おめでとう」
「ありがとうございます!」
スバルの返事が医務室に響く。
ティアナも頭を下げた。
「ありがとうございます」
「試験についての細かい講評は、治療が終わってからにしようと思うんだけど」
なのはは一度、はやてを見る。
「その前に、二人へ話しておきたいことがあるの」
はやてが前へ出た。
まだ部隊長の制服は着ていない。
機動六課は、今も書類の上にしか存在しない部隊だった。
「改めまして。八神はやてです」
穏やかな調子で名乗り、二人の顔を順に見る。
「うちは今、古代遺物に関する事件へ専門に対応する、新しい部隊を立ち上げようとしとる」
スバルが息を呑んだ。
なのはが試験官を務めた理由。
執務官であるフェイトが見学していた理由。
それが、ようやく一つにつながった。
「まだ正式発足前やから、今日ここで決めてほしいとは言わへん。でも、二人には前線の隊員候補として来てほしいと思っとる」
「高町教導官も、その部隊に?」
スバルの問いに、なのはが頷く。
「うん。前線隊の教導と指揮を担当する予定だよ」
スバルの顔が一気に明るくなった。
その横で、ティアナは期待が顔へ出るのを抑えるように、フェイトを見る。
「私は捜査と指揮、それから執務官業務の方で参加することになってる」
「執務官の勉強についても、相談できる環境は用意したいと思ってるよ」
先回りされたティアナが、ほんの少し目を見開いた。
「経歴も目標も、調べさせてもろた」
はやては微笑む。
「ただし、憧れだけで決めたらあかん。危険な任務もあるし、今の所属を離れることにもなる。二人でよう話して、自分で選んでほしい」
スバルはすぐに答えそうになった。
けれど、隣のティアナを見て、開きかけた口を閉じる。
ティアナもスバルを見る。
試験の最後と同じだった。
先に進む方法を一人で決めない。
二人で確かめてから、同時に頷く。
「行きたいです」
スバルが言った。
「私もです」
ティアナが続ける。
はやては、二人の返事を急いで書類へ変えようとはしなかった。
「ありがとう。せやけど、正式な手続きは返事を持ち帰って、もう一度考えてからや」
「え、今ので決定じゃないんですか?」
「人生に関わる話やからな。勢いの返事だけで預かるわけにはいかへんよ」
「部隊長って、もっと強引に人を引き抜くものだと思ってました」
ティアナの言葉に、はやては肩をすくめる。
「そないな部隊長になったら、なのはちゃんとフェイトちゃんに止めてもらうわ」
「止めるよ」
「うん。全力で」
「二人とも即答なん?」
医務室に笑いが起こった。
その場にいる誰も知らない。
試験場の屋上にいた九歳の少年が、すでに二人の名を覚えていることを。
◇
同じ頃。
二人の十歳の子供が、別々の道からミッドチルダへ向かっていた。
エリオ・モンディアル。
キャロ・ル・ルシエ。
どちらもフェイトが保護し、見守ってきた子供だった。
そして、どちらも機動六課へ参加する予定になっている。
まだ会ったことのない二人が初めて顔を合わせたのは、到着ロビーへ続く通路だった。
慣れない人波に押され、キャロの小さな身体がよろめく。
抱えていた荷物が腕から離れた。
床へ落ちるより早く、エリオが手を伸ばす。
荷物を受け止め、その勢いのままキャロの肩も支えた。
「大丈夫?」
「は、はい。ありがとうございます」
礼を言った後で、二人とも相手の荷物につけられた識別票へ気づいた。
迎えの担当者名が同じだった。
「もしかして、フェイトさんのところへ?」
「はい。あなたもですか?」
「うん。僕はエリオ」
「キャロです」
ぎこちない自己紹介だった。
けれど、一人で歩いていたときより、二人の足取りは少しだけ軽くなった。
やがて人混みの向こうに、二人を待つ金色の髪が見える。
フェイトが手を振った。
エリオとキャロは顔を見合わせ、並んで駆け出した。
新しい部隊は、まだ始まっていない。
それでも、そこで共に働く者たちは少しずつ集まり始めていた。
◇
「十歳、か」
ジェイル・スカリエッティが、面白がるように言った。
巨大な画面には、到着ロビーを歩くエリオとキャロが映っている。
映像は遠く、音声もない。
それでも二人がフェイトを見つけ、安心した顔をしたことは分かった。
クオンは画面の前に立っている。
試験場から戻ったばかりだった。
「あの二人も、機動六課へ入るそうだよ」
「子供です」
「十五歳と十六歳の二人にも、同じことを言っていたね」
「十六歳も子供です」
「君は九歳にしか見えないが」
「見た目の話はしていません」
「では、何を基準に?」
「帰る場所を、自分だけでは決められない人です」
スカリエッティの笑みが、わずかに深くなる。
「興味深い定義だ」
「二人の家は、どこですか?」
「これからは機動六課が、そうなるのではないかな」
「まだ、ありません」
機動六課は準備中だ。
隊舎が用意されても、人が集められても、そこが帰る場所になるとは限らない。
「では、君が確かめてみるかい?」
「あなたに言われなくても見ます」
「もちろんだとも」
スカリエッティは機嫌よく答える。
少し離れた場所で聞いていたノーヴェが、怪訝そうに二人を見た。
「なあ、ドクター」
「何だい、ノーヴェ」
「なんでこいつにだけ、いちいちお伺い立ててんだ?」
クオンがノーヴェを見る。
「お伺い?」
「やれって言わねえだろ。見てこい、とも、持ってこい、とも。さっきから、するか、見るかって聞いてばかりじゃねえか」
「それはいけませんか?」
「いけねえとは言ってねえ。変だって言ってんだよ」
ノーヴェは右手首を左手でさすった。
もう痛みはない。
それでも白い仮面に投げ飛ばされた瞬間を思い出すと、なぜかそうしてしまう。
クアットロが眼鏡の位置を直した。
「ドクターは学習のできる方ですもの」
「どういう意味だよ」
「言葉通りですわ」
スカリエッティは椅子へ深く腰かけ、両手の指を組んだ。
「私も以前は、彼を理解すれば制御できると考えていた」
「以前?」
「半年前だ」
画面が切り替わる。
白い通路。
閉じる隔壁。
赤い警告灯の下に、一人の少年が立っていた。
「一度だけ、クオンの意思を無視した」
スカリエッティは、懐かしい実験記録でも眺めるように笑った。
「結果として、私は研究所を一つ失った」
◇
半年前。
クオンは、名前のない世界にある研究施設へ入った。
地図に記載されず、正規の航路からも外された場所だった。
スカリエッティの施設へ入るのは、これが初めてではない。
場所は、そのたびに違った。
それでも中に子供がいると知れば、クオンは現れた。
何も盗まない。
誰も傷つけない。
ただ子供たちを見て、やがて帰る。
残るのは、侵入されたという事実だけだった。
記録映像を並べても、姿の印象は観察する者の頭から滑り落ちる。
同じ侵入者なのかという確信さえ、長くは残らない。
それでも侵入経路と行動は、毎回よく似ていた。
スカリエッティは、それらを同じ来訪者によるものだと推測していた。
この施設にも、子供がいた。
だから、見に来た。
理由はそれだけだった。
正面通路を進み、三つ目の扉を越えたところで、前後の隔壁が閉じた。
遮断フィールドが降りる。
転送経路が塞がれ、外部との接続が切れた。
天井のスピーカーから、待ち構えていた男の声が流れる。
『ようこそ。ようやく君と話ができる』
「ジェイル・スカリエッティですか?」
『私を知っているのかい?』
「ここにいる子供を作った人です」
『素晴らしい。ならば話が早い。君の名前も聞かせてもらえるかな?』
「クオンです」
『クオン。覚えておこう』
『何度も私の施設へ入り込み、何ひとつ奪わず、子供たちを見て帰っていく。警備記録を照合して、ようやく同じ来訪者だと見当をつけたよ』
「子供がいたので、確認しました」
『何を確認したんだい?』
「ここが、帰る場所かどうかです」
『ますます興味深い』
通路の奥で、複数の気配が動いた。
『悪いが、今日はしばらく客人になってもらおう』
「帰る時間は、ボクが決めます」
『それは解析が終わってから相談しよう』
クオンは閉じた隔壁に触れた。
「開けてください」
『断る、と言ったら?』
「帰れる道を探します」
『力ずくでも?』
「必要なら」
会話を打ち切るように、最初の一撃が届いた。
トーレの高速機動。
赤い光が通路を裂き、手刀がクオンの首筋へ迫る。
クオンは半歩だけ身を引いた。
紙一重でかわし、伸びきった腕へ指を添える。
黒い帯がトーレの手首へ巻きついた。
しかし、拘束が閉じるより早く、トーレは自分から翼の出力を落とし、身体を反転させる。
二撃目の踵がクオンの側頭部を捉えた。
小さな身体が壁へ叩きつけられる。
そこへ、チンクの金属片が突き刺さった。
連続する爆発が、通路を炎で塞ぐ。
『捕獲対象の損傷を抑えろ。だが、遠慮は必要ない』
「矛盾した命令ですわね」
クアットロの声が複数の方向から響く。
炎が晴れたとき、通路には何人もの少女が立っていた。
同じ顔。
同じ武装。
同じ足音。
幻像と実体が入り交じり、どれが攻撃へ移るのか判別できない。
床の下では、セインが待っている。
天井近くにはオットーの光条。
退路にはディードの双剣。
ウェンディのライディングボードが空間を横切り、ノーヴェが低い姿勢で加速する。
ディエチの砲口は、味方の間を縫ってクオンだけを狙っていた。
正面、背後、上下。
一人で避けられる場所は、どこにもなかった。
退路を探した先には、助けを求める研究員の姿をしたドゥーエがいる。
管制室のウーノは、すべての隔壁と遮断装置を統括し、一瞬ごとに包囲の形を組み直していた。
「捕まえた!」
床から現れたセインが、クオンの足を掴む。
オットーの光の檻が閉じる。
ノーヴェの蹴りが腹部へ入り、ディードの刃が服ごと両腕を壁へ縫い止めた。
クオンの身体から力が抜ける。
トーレは油断せず、その首筋へ抑制剤を打ち込んだ。
『見事だ。まずは第一段階成功、と言っていいだろう』
スカリエッティの声が弾む。
ウーノの制御で隔壁が一枚だけ開き、拘束されたクオンが搬送されていく。
ナンバーズは役目を果たした。
誰一人欠けていない。
侵入者を軽視せず、連携し、追い詰め、捕らえた。
そのはずだった。
◇
解析室の中央へ、クオンが固定される。
両手足。
首。
魔力の流れ。
転送と通信。
考えられるすべてを拘束し、何重もの遮断壁で部屋を閉じる。
ウーノが計測を開始した。
「生体反応、安定。投薬効果も確認しました」
『魔力炉は?』
「検出できません」
『魔導師でない、と?』
「少なくとも、通常のリンカーコアに該当する反応はありません」
『ますます面白い』
拘束台の上で、クオンが目を開いた。
「ここが、あなたの家ですか?」
解析室に残っていたノーヴェが眉をひそめる。
「何言ってんだ?」
「あなたたちは、ここへ戻りました」
「あたしらの研究所だ。当然だろ」
「帰りたい場所ですか?」
「は?」
『質問に答える必要はない』
スカリエッティの声が割り込む。
ノーヴェは口を閉じた。
クオンは天井のカメラを見る。
「今のは、誰が決めましたか?」
『私だよ。彼女たちは私の娘であり、私の指示に従う』
「では、まだ分かりません」
『何がだい?』
「ここが、この子たちの家かどうかです」
クオンは拘束を解こうとしなかった。
手首も、足首も、首も固定されたまま。
それでも、身じろぎひとつしなかった。
ただ天井のカメラを見つめ、ナンバーズとスカリエッティの言葉を記録している。
『ずいぶん大人しいね』
「帰る場所を確認しています」
『捕らえられたことは気にならないのかい?』
「帰ろうと思えば、帰れます」
『強がりにしては、計測値が静かすぎる』
スカリエッティが楽しそうに笑った。
クオンが答えようとした、そのときだった。
施設全体が、縦に揺れた。
天井から白い粉が落ちる。
警報が鳴り、ウーノが計測画面を切り替えた。
「施設上空に魔力反応! いえ、近すぎます!」
『転送か?』
「違います。真上から――」
報告が終わるより早く、解析室の天井が消えた。
爆発ではない。
分厚い装甲板が円形に打ち抜かれ、ひしゃげた金属が室内へ落ちてくる。
トーレたちが身構える。
しかし破片は、誰かに届く前に空中で止まった。
白い羽根が一枚、その間を舞い落ちる。
開いた穴から、一人の人影が降りてきた。
顔は、何の表情も刻まれていない白い仮面に覆われている。
認識を妨げる術式のため、背丈も年齢も輪郭も曖昧に揺らいでいる。
人の形をしている。それ以上の印象が、どうしても頭に残らない。
身にまとうのは、白を基調に黒を重ねた騎士甲冑。
腰から伸びる衣が大きく翻り、その背には夜の中で目立つ白い翼が広がっている。
白い仮面の人物は拘束台のクオンを見つけると、迷わず駆け寄った。
「大丈夫か、兄弟」
よく通る声だった。
天井を破ったことなど少しも気にしていない、不遜な響きがあった。
拘束されたクオンは、首だけをそちらへ向けた。
「なぜ来たのですか、ストライク」
「お前が捕らえられたのを感じた」
ストライクと呼ばれた男は、拘束具を値踏みするように眺める。
「これだけ厳重に固められているんだ。お前を捕らえるほど強いやつがいると思ってな」
「ボクは変身していません」
「……なんだ」
「抵抗も最低限です。ここが、この子たちの家か確認していました」
白い仮面が、ゆっくりとナンバーズへ向いた。
期待に満ちていた姿勢が、目に見えて緩む。
「こいつらが強いんじゃなく、お前が戦っていなかっただけか」
「はい」
「期待外れだな」
クオンは拘束されたまま、わずかに頭を下げた。
「誤認させました。申し訳ありません」
「撤退してください」
「兄弟がそう言うなら退こう」
ストライクは即答した。
強い者がいると思って来た。
いないと分かった。
ならば、ここに留まる理由はない。
白い仮面の奥で視線を巡らせ、壊した天井の穴を見上げる。
「お前も用が済んだら帰ってこい」
『待ちたまえ』
スカリエッティの声が二人を止めた。
男の興味は、拘束台の少年から、天井を破って現れた侵入者へ移っていた。
『ストライク、と呼ばれていたね。君もクオンなのかい?』
返事はない。
ストライクはスピーカーへ視線さえ向けなかった。
『拘束台の彼を兄弟と呼んだね。その身体、その魔力、その甲冑。君たちは、いったい何者なんだい?』
問いかけは、存在しないものとして無視された。
『ならば、帰さなければいい』
スカリエッティの声から笑みが消える。
『二人とも捕らえろ。今度は出力を抑える必要はない』
兄弟から帰れと言われた。
ならば帰る。
足底へ、精密な魔法陣が編み上がる。
何もない空中を地面のように踏み、打ち抜いた天井へ向かって一歩を進めた。
「逃がすか!」
動いたのはノーヴェだけだった。
足裏のローラーを最大まで加速させ、背を向けたストライクへ一直線に迫る。
ストライクは振り返らない。
空中へ置いた右足を軸にして、身体をわずかに捻った。
ノーヴェの拳が肩口を通り過ぎる。
伸びきった腕へ手を添え、進んできた力を一度も止めずに向きだけを変える。
天地が反転した。
「なっ――」
ノーヴェの身体が、軽々と宙へ放り出される。
白い仮面の奥で、ストライクが笑った。
「綺麗なこけ方を、ちゃんと学ぶんだな」
掌に収縮させた魔法陣が、一瞬だけ開く。
殺傷するためではない。
ノーヴェの勢いを逃がさず、通路の奥へ押し返すための一撃だった。
小さな身体が床を跳ねる。
受け身を取れず、右手を強く突いた。
壁際まで転がったところで動かなくなる。
意識を失っていた。
ストライクは追わなかった。
倒れたノーヴェを一度だけ見て、拘束台のクオンへ顔を向ける。
「じゃあな、兄弟」
「はい」
空中をもう一歩踏む。
白い翼が翻り、ストライクの姿は天井の穴から消えた。
『追え!』
スカリエッティの命令に、誰も即座には動けなかった。
ストライクが踏み切った空間には、足底魔法陣の残光だけが浮かんでいる。
すでに反応は施設の索敵範囲外へ抜けていた。
『……構わない。残ったクオンの拘束を強化しろ。今度こそ完全に意識を落とせ』
ナンバーズが拘束台へ向き直る。
九歳のクオンは、ストライクが消えた穴を見上げていた。
「ストライクは、必要がないので帰しました」
『君一人なら捕らえられる。それは、すでに実証されている』
「いいえ」
黒い頁が一枚、拘束台の上へ落ちた。
「捕らえられたのは、変身していないボクです」
頁が増える。
クオンの小さな身体を覆い、白と黒の衣へ変わっていく。
手首を固定していた金具が、音もなく砕けた。
足首、首、魔力を封じるはずだった拘束が、役目を失って床へ落ちる。
九歳の姿は変わらない。
その身体に収まっている力だけが、先ほどまでとは別物だった。
「全員、下がれ!」
トーレが叫ぶ。
判断は正しかった。
だが、距離を取るよりクオンの術式が閉じる方が早い。
床、壁、天井。
解析室のすべてに、黒い三角形が浮かび上がる。
トーレの高速機動が始まる前に、翼が拘束された。
ディエチの砲口へ黒い頁が入り込み、発射術式だけを分解する。
チンクの金属片は指を離れた瞬間に黒い枠へ封じられた。
セッテとディードの刃は、クオンへ届く三歩手前で静止する。
ウェンディのライディングボードは床へ縫い止められた。
セインが潜ろうとした床そのものが閉ざされる。
オットーの光条は展開と同時に制御を奪われ、術者自身を囲む檻へ組み替えられた。
クアットロが幻像を展開する。
しかし、クオンは見分けようとしなかった。
施設の管制網へ術式を流し、映像と幻像をまとめて遮断する。
「こんな、強引な――!」
「強引ではありません」
クオンの声は、変身前と何も変わらない。
「必要な処理をしています」
最後まで管制を維持しようとしたウーノの操作卓も、黒い頁に覆われた。
助けを求める研究員へ姿を変えたドゥーエは、クオンの背後まで接近していた。
その手が触れる前に、足元で拘束陣が閉じる。
誰一人、クオンへ届かなかった。
最初の戦闘と同じナンバーズ。
同じ能力。
同じ連携。
違うのは、クオンが変身しているという一点だけだった。
動ける者がいなくなるまで、ほとんど時間はかからなかった。
クオンは一人ずつ生命反応を確認する。
致命傷はない。
意識を失っているのは、ストライクに投げ飛ばされたノーヴェだけだった。
右手首を痛めている。
「帰します」
黒い転送陣が開く。
トーレを外へ。
セッテとディードを外へ。
チンク、ディエチ、ウェンディを外へ。
セイン、オットー、クアットロ、ドゥーエを外へ。
最後まで管制を続けたウーノも、操作卓から引き離して転送する。
最後にクオンは、意識のないノーヴェを抱き上げた。
痛めた右手首へ負担がかからないように腕を胸元へ置く。
先に転送した姉妹たちと同じ場所へ、静かに送り出した。
◇
十二の生命反応が、施設の外へ移った。
スカリエッティ本人がここにいないことも、すでに確認している。
施設内に人は残っていない。
九歳のクオンが、最後の反応を確かめる。
「全員、帰しました」
クオンは右手を上げた。
その背後へ、巨大な三角形の魔法陣が開いた。
一つの陣が分かれ、壁と床と天井を伝って研究所全体へ広がっていく。
白い施設の中へ、夜が満ちた。
『待ちたまえ』
残されたスピーカーから、スカリエッティの声が響く。
『君は、自分が何を壊そうとしているか理解しているのか?』
「はい」
答えたのは、九歳のクオンだった。
『彼女たちを完成させるために必要な研究だ』
「完成は、あなたが決めることではありません」
『では、なぜ壊す?』
「ここは、ボクを帰さないと決めました」
『それだけかい?』
「はい」
短い沈黙のあと、スピーカーから笑い声が漏れた。
『なるほど。ならば私も開き直るとしよう』
「はい」
『外へ出したナンバーズを、私の本拠の研究所まで連れ帰ってくれないかい? トーレに道を案内させよう』
「わかりました」
『今から施設を壊そうとしている相手に、その娘たちを送り届けてもらう。まったく、奇妙な話だ』
「帰る子供を、家に帰します」
『素晴らしい。では、頼んだよ』
正しいからではない。
クオンは、正しさを選んでいない。
帰さない場所を消す。
帰る場所を知らない子供は、案内された家へ送り届ける。
与えられた命令のように、迷いなく処理しているだけだった。
クオンが上げた指を閉じる。
夜が落ちた。
研究設備が、内側から押し潰される。
保存されていたデータが焼き切れ、捕獲用の遮断装置が砕け、施設を支える柱が一本ずつ消えていく。
爆発ではなかった。
巨大な何かが、研究所という存在だけを握り潰している。
壁が折れ、床が沈み、白い研究所が闇へ呑まれた。
崩壊の闇が監視カメラを呑み込み、映像は途切れた。
◇
「それで、研究所が一つ消えた」
現在。
映像を止めたスカリエッティが、軽い調子で結論づけた。
ノーヴェは自分の右手を見下ろしている。
覚えているのは、白い仮面へ殴りかかったところまでだった。
拳をいなされ、天地が反転した。
綺麗なこけ方を、ちゃんと学ぶんだな。
不遜な声を最後に、意識が途切れた。
次に目を覚ましたとき、ノーヴェは研究所の外にいた。
周囲には姉妹たちが揃っていた。
右手首が痛み、目の前では研究所が音もなく崩れていた。
「だから聞いてんだよ」
ノーヴェがクオンを指さす。
「あたしが気絶した後、何があった?」
「君たちが捕らえたクオンが、変身した」
スカリエッティが答える。
「それだけか?」
「それだけだよ」
「あのでかい白仮面は?」
「ストライクです」
クオンが答えた。
「名前じゃねえ。あいつがやったのかって聞いてんだ」
「ストライクは帰りました」
「じゃあ、お前一人で?」
「はい」
ノーヴェは言葉を失った。
クアットロだけが、細めた目の奥で何かを計算している。
「だから、命令しないのか」
「正確には、命令する利益がないと学んだのさ」
スカリエッティは笑う。
「捕獲そのものには成功した。君たちの連携にも不備はなかった。ただし、彼が戦っていない状態を、私は制圧できたと誤認した」
スカリエッティは画面に映る崩壊前の研究所を見る。
「変身した彼には、誰一人触れられなかった。一人を捕らえれば別の一人が現れ、現れた一人が帰っても、捕らえた本人だけで研究所を消せる。もう一度試して得られるものより、失うものの方が大きい」
「怖くねえのかよ」
「まさか。これほど興味深い隣人は他にいないよ」
クオンは会話を聞き終えると、画面へ向き直った。
映っているのは、フェイトの左右を歩くエリオとキャロだった。
二人はまだ、互いとの距離を測っている。
けれど、どちらも一人ではない。
「彼女たちに会いに行くのかい?」
スカリエッティが尋ねる。
「会いません」
「では、見るだけ?」
「はい」
「何を確かめる?」
「帰る場所になるかどうかです」
「ならなかったら?」
クオンは即座に答えた。
「帰します」
「どこへ?」
そこで初めて、クオンは答えを止めた。
エリオの家。
キャロの家。
記録上の住所は分かる。
保護施設も、預けられていた場所も分かる。
けれど、それが二人の帰りたい場所かどうかは、記録に書かれていない。
「分かりません」
だから、クオンはそう答えた。
「先に、確かめます」
少年の姿が黒い頁へほどけていく。
部屋から消える寸前、ノーヴェが呼び止めた。
「クオン」
「はい」
「今度、あたしが倒れたら」
ノーヴェは右手を握る。
「勝手に外へ送るな。帰る場所は、あたしが決める」
「分かりました」
「それと」
「はい」
「手ぇ突かない倒れ方。あれ、もう一回教えろ」
クオンは頷いた。
「明日にしましょう」
「今日じゃねえのかよ」
「右手が痛いのでしょう?」
「もう痛くねえ!」
黒い頁が閉じる。
クオンの姿は消え、ノーヴェの抗議だけが部屋に残った。
◇
夕暮れのミッドチルダ。
フェイトはエリオとキャロを連れ、これから二人が暮らす場所へ向かっていた。
道の途中で、キャロが何度も荷物を持ち直す。
そのたびにエリオが気づき、半分持とうかと声をかける。
キャロは最初こそ遠慮したが、三度目には小さく頷いた。
二人で一つの荷物を持つ。
少し歩きにくそうにして、それでもどちらも手を放さない。
フェイトが振り返り、二人を待つ。
今度は三人で並んだ。
通りの向かい側に、九歳ほどの少年が立っていた。
誰も、その姿に気づかない。
クオンは三人の歩く先を見る。
今夜を過ごす場所はある。
迎えに来る人もいる。
けれど、帰る場所かどうかは、まだ分からない。
だから連れ出さない。
危険はない。
怪我もない。
本人たちは、前へ歩いている。
今は処理の必要がない。
「確認を続けます」
それだけを告げて、クオンは夕暮れの中へ消えた。
その数分後。
地上本部の監察用領域で、今朝保存された記録に新しい情報が加えられた。
フェイト・T・ハラオウン。
保護対象、エリオ・モンディアル。
同じく、キャロ・ル・ルシエ。
三人の移動経路と、周辺の公共センサーから抽出された測定値が並ぶ。
映像に、少年の姿はない。
魔力反応もない。
管理局への通報も、照会もなかった。
報告欄へ、朝の記録と同じ形式で追記される。
保護対象二名への介入なし。
正規系統における認知、記録ともになし。
情報露出状況の監察を継続する。
報告は、さらに上位の権限領域へ送られた。
返答は一行だけだった。
了解した。引き続き、こちらからの接触は不要だ。
署名はない。
ただし、返答に用いられた権限は、最初の閲覧者よりも上位にあった。
保存と同時に、記録が開かれた形跡は再び消えた。
同じ時刻。
試験を終えたスバルとティアナも、新しい部隊へ進む返事をそれぞれの上官へ伝えていた。
四人が選んだ道は、まだ一本につながっていない。
機動六課も、まだ始まっていない。
その発足まで、あと少し。
そして、彼らが歩く道の外側には。
正規の名簿には載らない、一人の少年がいた。