「久遠君。昨日の夜、変な声、聞こえなかった?」
翌朝。
通学路で、なのはがそんなことを尋ねてきた。
目の下には、ほんの少しだけ眠そうな影がある。
「変な声って?」
「助けて、って」
「誰かいたの?」
「ううん。夢の中で聞こえたの」
「それなら夢じゃない?」
「そうだと思うんだけど……」
なのはは胸元へ手を当てた。
「でも、耳で聞いたんじゃなくて、ここに届いたみたいだったの」
「僕には何も聞こえなかったよ」
「そっか」
なのはは考え込む。
久遠は昨日、植え込みへ落ちたときに打った背中を押さえた。
「なのはも、木から降りるときに頭を打った?」
「打ってないの」
「なら、やっぱり夢だよ」
「久遠君、信じてないね」
「夢を見たことは信じてる」
「声の方は?」
「もう一度聞こえたら考える」
それで終わる話だと思っていた。
その日の授業中、なのはが突然、窓の外を見つめるまでは。
◇
「なのは。なのはってば」
昼休み。
アリサが机を指先で叩く。
なのはは反応しなかった。
窓の外へ顔を向けたまま、何かへ耳を澄ませている。
「なのは」
久遠が呼ぶと、ようやく肩が揺れた。
「え?」
「アリサが三回呼んだ」
「四回よ」
「ご、ごめん」
「朝からずっとぼんやりしてるけど、寝不足?」
すずかが心配そうにのぞき込む。
「ちょっと夢見が悪かっただけなの」
なのはは笑った。
けれど、その手は胸元を押さえていた。
「また聞こえた?」
久遠が小さな声で尋ねる。
なのはの表情が止まった。
それだけで答えは分かった。
「……少しだけ」
「どこから?」
「分からないの」
「先生に言う?」
「そこまでしなくても大丈夫だよ」
「大丈夫って言う人は、だいたい大丈夫じゃない」
「昨日の久遠君だね」
「僕はちゃんと病院へ行く」
放課後、久遠は背中を診てもらうことになっていた。
桃子が近所の医院へ連絡を入れたらしい。
「一緒に行こうか?」
「アリサとすずかを待たせるだろ。打ったところを診てもらうだけだから、一人で平気」
「また平気って言ったの」
「今回は病院へ行くからいいんだよ」
「それなら、たぶん大丈夫だね」
「絶対わざと言ってるだろ」
なのはは笑った。
その笑顔がいつもと同じだったから、久遠は先に学校を出た。
約束どおり、病院へ行くために。
その少し後。
なのはたちは、林の中で傷ついた白いフェレットを見つけた。
◇
「この子……」
草の上で、白い小動物が浅い呼吸を繰り返していた。
首元には、赤い宝石が光っている。
夢の中で見たものと同じだった。
なのはは膝をつく。
「あなたが、わたしを呼んだの?」
「なのは、何言ってるの?」
アリサには、声が聞こえていない。
すずかにも。
けれど、なのはには分かった。
この子が、昨日から助けを求めていた。
三人はフェレットを動物病院へ運んだ。
大きな怪我はしているものの、今すぐ命に関わる状態ではないと言われた。
それでも、なのはの胸に届く声は止まらなかった。
その夜。
ベッドの中で目を閉じていたなのはは、弾かれたように身体を起こした。
――お願い。
昼間よりも、はっきり聞こえる。
怯えた声。
何かに追われている。
なのはは枕元の携帯電話を手に取った。
画面に、久遠の名前を呼び出す。
昨日、約束した。
一人で決めない。
助けを呼べるなら、ちゃんと呼ぶ。
二人とも帰ってくる。
――早く。もう、抑えられない。
声が痛みに震えた。
なのはの指が止まる。
久遠を起こして、何を頼めばいいのだろう。
どこへ行けばいいかも分からない。
相手が何なのかも分からない。
昨日の傷が残っている久遠を、真夜中の外へ呼び出すことだけはできなかった。
「ごめんね、久遠君」
電話を置く。
なのはは一人で家を出た。
◇
夜の街を走った先で、なのはを待っていたのは、白いフェレットと黒い影だった。
昼間の動物病院を抜け出したフェレットを、形の定まらない獣が追っている。
誰にも見つからない夜の中で、それだけが大きく蠢いていた。
なのはには、何が起きているのか分からなかった。
それでも、目の前で誰かが傷つこうとしていることだけは分かった。
「こっち!」
なのははフェレットを抱き上げ、黒い影から逃げる。
角を曲がる。
すぐ後ろで地面が砕けた。
転びかけた身体を立て直し、また走る。
『僕の言葉が、聞こえますか』
腕の中から、声が届いた。
なのはは驚かなかった。
驚く余裕がなかった。
「聞こえるよ。どうすればいいの?」
『力を貸してください』
フェレット――ユーノが、自分の名と、赤い宝石の役目を伝える。
異世界。
魔法。
ジュエルシード。
突然与えられた言葉のほとんどを、なのはは理解できなかった。
ただ、ユーノが一人では止められないことだけは理解した。
「わたしに、できる?」
『あなたにしか、頼めません』
なのはは赤い宝石を握った。
胸の奥に、昨日交わした約束が浮かぶ。
一人ではない。
いまは、助けを求めたユーノがいる。
そして、帰る場所には久遠がいる。
「分かったの」
赤い光が夜を照らす。
その日、高町なのはは魔法と出会った。
久遠の知らない場所で。
◇
「打ったところは、ただの打撲だった」
翌朝。
待ち合わせ場所で、久遠は昨日の診察結果を報告した。
「骨も大丈夫。痛みも、そのうち引くって」
「よかったの」
なのはは心から安心したように笑った。
けれど、自分のことは何も言わない。
眠そうな目。
走ったときに擦ったらしい手のひら。
鞄から顔を出している、白いフェレット。
「その子、昨日の?」
「う、うん。しばらく家で預かることになったの。名前はユーノ君」
「そう」
久遠はユーノを見る。
ユーノも久遠を見返した。
不思議なくらい、人の話を理解しているような目だった。
「昨日、また声を聞いたんだね」
なのはの足が止まった。
「……うん」
「電話してって言った」
「ごめんなさい」
「危ないことをした?」
なのははすぐに答えなかった。
嘘をつけないところは、昔から変わらない。
「少しだけ」
「一人で?」
「一人じゃないよ。ユーノ君が一緒だったの」
鞄の中で、ユーノが申し訳なさそうに耳を伏せた。
「僕には言えない?」
「……いまは、まだ」
「どうして」
「久遠君を、危ないことに巻き込みたくないから」
久遠は何かを言い返そうとして、やめた。
なのはは、自分を仲間外れにしたいわけではない。
守ろうとしている。
それが分かるからこそ、腹が立った。
「もう心配には巻き込まれてるよ」
「……ごめん」
「全部話せとは言わない」
久遠は携帯電話を取り出した。
「でも、帰ってきたら連絡して」
「帰ってきたら?」
「『帰った』って、一言だけでいい。どこへ行ったかも、何をしていたかも聞かない」
「それだけでいいの?」
「約束を全部守れないなら、一つだけでも守って」
二人とも、ちゃんと帰ってくる。
昨日交わしたばかりの約束だった。
「分かったの」
なのはは自分の携帯電話を両手で持つ。
「帰ったら、必ず連絡する」
「うん」
「久遠君もだよ」
「僕は夜中に出歩かない」
「昼でも。どこかへ行って、帰ってきたら」
「毎日連絡することになるけど」
「毎日でいいの」
「分かった」
新しい約束は、小指ではなく二人の携帯電話へ残った。
◇
それから、なのはには秘密が増えた。
家に来た白いフェレット。
突然入る用事。
眠そうにしている朝。
袖の下に隠された、小さな傷。
久遠は理由を聞かなかった。
聞いても、なのはを困らせるだけだと分かっていた。
代わりに、夜遅くまで携帯電話を手元へ置くようになった。
『帰ったよ』
短い連絡が届く。
『おかえり』
久遠が返す。
『ただいま』
それだけのやり取りを、何度も繰り返した。
早い日もあった。
日付が変わってから届く日もあった。
そして、連絡が遅い日の翌日は、決まってなのはの笑顔が少しだけ疲れていた。
「最近、難しい子に会ったの」
ある日の帰り道、なのはがぽつりと言った。
「秘密の話?」
「うん。だから、詳しくは言えないんだけど」
「その子も、助けを求めてるの?」
「分からない」
なのはは迷いながら答えた。
「何も言ってくれないの。でも、たぶん、一人なの」
「なのはは、その子を助けたい?」
「助けたい」
迷いのない返事だった。
「じゃあ、その子も一緒に帰ってくればいい」
「え?」
「なのはだけ帰ってきても、その子が帰れないなら終わってないだろ」
なのはは目を丸くした後、ゆっくり笑った。
「うん。そうだね」
その夜、連絡はなかなか来なかった。
午後十一時。
午前零時。
午前一時。
久遠はベッドの上で、携帯電話の画面を何度も確かめた。
どこにいるのか分からない。
何と向き合っているのかも分からない。
助けを呼ばれているのかさえ、分からない。
ただ待つことしかできなかった。
午前一時を少し過ぎたころ、ようやく携帯電話が震えた。
『帰ったよ』
久遠は息を吐く。
『おかえり』
すぐに返す。
けれど、その日は『ただいま』が返ってこなかった。
◇
翌朝のなのはは、いつもどおり笑っていた。
左手首に、白い包帯を巻いたまま。
「昨日の子?」
久遠が尋ねる。
なのはは包帯を隠そうとして、途中でやめた。
「うん」
「助けられた?」
「まだ」
「なのはは帰ってきた」
「うん」
「その子は?」
「帰せなかったの」
なのはは悔しそうに俯いた。
「でも、次は」
包帯を巻いた手を握る。
「次は、ちゃんと一緒に帰るの」
久遠には止められなかった。
何が起きているのか知らない。
相手が誰なのかも知らない。
なのはが持っている力も、背負っている危険も知らない。
知らないまま、やめろとは言えなかった。
けれど、ただ待つことしかできない自分を、受け入れることもできなかった。
◇
「恭也さん」
その日の夕方。
久遠は高町家の道場を訪ねた。
稽古を終えた恭也が、汗を拭きながら振り返る。
「どうした、久遠」
「僕に、戦い方を教えてください」
恭也の目がわずかに細くなった。
「誰かと喧嘩でもするのか?」
「違います」
「なら、どうして戦い方が必要なんだ」
久遠はすぐに答えられなかった。
なのはが何をしているのかは話せない。
そもそも、自分も知らない。
「誰かが怪我をして帰ってきたときに」
包帯を巻いた手を思い出す。
「何もできないままでいたくないんです」
「戦えれば、何かできると思うのか?」
「分かりません」
久遠は正直に答えた。
「でも、知らないからって何もしなかったら、次も待つことしかできない」
恭也はしばらく久遠を見つめた。
「戦いたいわけじゃないんだな」
「はい」
「強くなりたい?」
「たぶん」
「そこは、たぶんなのか」
「何ができるようになればいいのか、まだ分からないから」
恭也は小さく笑った。
「分かった。明日、動きやすい服で来い」
「教えてくれるんですか?」
「ただし、最初に覚えるのは人を倒す方法じゃない」
「じゃあ、何ですか」
「自分が倒れたとき、壊れないための方法だ」
そのとき、久遠の携帯電話が震えた。
画面には、短い一文。
『帰ったよ』
久遠はすぐに文字を打つ。
『おかえり』
今度は、少し間を置いて返事が届いた。
『ただいま』
なのはを呼んだ声は、久遠には聞こえない。
なのはが口にしなかった言葉も、まだ分からない。
それでも、帰ってきたことだけは分かる。
いつか、その一言を待つだけで終わらないために。
久遠は翌日から、倒れ方を覚えることになった。