目を開けると、見慣れた天井があった。
ノーヴェはしばらく瞬きをした。
自分の部屋。
自分の寝台。
毛布は胸元まで掛けられ、靴だけが床へ揃えて置かれている。
「……なんでだ?」
昨夜――正しくは、もう朝だった。
リニアレール事件の観測を終えて。
四人全員の帰投表示を見て。
そのあとは。
「起きたか」
隣の寝台から、チンクの声がした。
ノーヴェは勢いよく身体を起こす。
「姉様。あたし、どうやってここまで来た?」
「覚えていないのか」
「覚えてたら聞かねぇよ」
チンクは読みかけの端末を閉じた。
「クオンが運んだ」
「は?」
「お前を抱えて、ここまで歩いてきた」
「あいつが?」
「姉が代わると言ったのだがな。眠っているから、と」
ノーヴェは毛布を跳ね除けた。
「起こせばいいだろ!」
「同じことを言った」
「なら、なんで止めなかったんだよ!」
「特に止める理由がなかった」
淡々と返され、ノーヴェは言葉に詰まる。
理由。
確かに、怪我をしたわけでもない。
服も乱れていない。
靴まで妙にきちんと揃えられている。
「あいつはどこだ」
「観測室だろう。まだ記録を整理している」
「まだやってんのかよ」
ノーヴェは床へ降りた。
扉へ向かい、二歩目で止まる。
「……何か言ってたか?」
「何についてだ」
「あたしが寝てたこととか」
「いや」
「重いとか」
「言っていない」
「変な寝言とか」
チンクは少しだけ考える顔をした。
「『帰ったか』とは言っていたな」
「あたしが!?」
「それ以外は聞いていない」
ノーヴェは両手で顔を覆った。
そのまま数秒動かず。
やがて、指の隙間から低い声を出した。
「……全部忘れろ」
「努力はしよう」
チンクの返事には、わずかに笑いが混じっていた。
◇
観測室に入ると、クオンは昨夜と同じ席にいた。
画面には停止した貨物列車と、回収されたガジェットの情報が並んでいる。
「クオン」
呼ぶと、少年が振り返った。
「起きましたか」
「起きた」
「そうですか」
それだけ言って、画面へ戻る。
ノーヴェは背後まで歩いた。
「あたしを運んだのか」
「はい」
「なんで起こさなかった」
「眠っていたので」
「眠ってたから起こすんだろうが」
クオンは手を止めた。
「起こす必要がありましたか?」
「自分で歩けた」
「眠っていました」
「起きれば歩けた」
「起こさなければ眠れました」
「お前なぁ……」
どこまでも噛み合わない。
けれど、からかわれているわけでもない。
ノーヴェは頭をかいた。
「次からは声かけろ」
「分かりました」
「あと、勝手に一人で残るな」
「ノーヴェも残っていました」
「あたしは――」
お前が残っていたからだ。
そう言いかけて、飲み込む。
「あいつらの帰投を見てたんだよ」
「ボクも同じです」
「……そうかよ」
画面には四人の名前が残っている。
すべての横に、帰投済みの印。
ノーヴェはそれを一度見てから、扉へ向かった。
「飯、食いに来い」
「必要ありません」
「必要かどうかは聞いてねぇ。来い」
返事を待たずに出ていく。
廊下へ出たところで、背後から椅子の動く音がした。
◇
リニアレール事件から、数日が過ぎた。
機動六課では、回収したレリックとガジェットの解析が続いている。
新人たちは休養と検査を終え、訓練へ戻った。
研究施設の転送区画では、クオンが一人で装置の中央に立っていた。
「本当に行くのかよ」
入口にもたれたノーヴェが尋ねる。
「はい」
「画面で見りゃいいだろ」
「画面では分からないものがありました」
「だからって、敵の本拠地まで近づくか?」
「機動六課は敵ではありません」
「ドクターの名前を追ってる連中だぞ」
「それは、ボクが見る子供たちと同じ意味ではありません」
ノーヴェは眉を寄せた。
以前なら、クオンは組織とそこに属する者を分けなかった。
命令する側と、命令を受ける側も。
同じ場所にいるなら、同じものとして扱った。
「いつ戻る?」
「分かりません」
「分かんねぇまま行くな」
「観察に必要な時間は、現地でなければ算出できません」
「そういう話じゃねぇよ」
転送装置へ光が満ちていく。
ノーヴェは何かを言おうとして。
結局、腕を組んだ。
「……遅くなるなら連絡しろ」
「連絡手段は残します」
「絶対だぞ」
「はい」
白い光が少年の姿を隠す。
次の瞬間には、誰もいなかった。
ノーヴェは空になった転送区画を見つめた。
「行ってきますくらい言えってんだ」
届かない声で呟いた。
◇
機動六課の訓練場には、朝から鋭い金属音が響いていた。
「踏ん張れ、スバル!」
ヴィータが振るうグラーフアイゼンを、スバルは両腕の前へ展開した障壁で受け止める。
赤い鉄槌と青い障壁がぶつかった。
足元の地面が割れる。
「う、うううっ……!」
「声を出してる暇があったら、足を止めろ!」
「止めてます!」
「下がってんじゃねぇか!」
障壁が弾けた。
スバルの身体が後方へ飛ぶ。
背中から地面へ落ちる寸前、マッハキャリバーの車輪が回った。
両足から着地する。
そのまま二本の轍を刻み、数メートル滑って止まった。
「今のは?」
「吹っ飛ばされました!」
「見りゃ分かる。何が足りなかった?」
「障壁の強度……ですか?」
「それもある。けど、一枚で全部受けようとすんな」
ヴィータは鉄槌を肩へ担いだ。
「受け止める。弾く。身体にまとって耐える。守り方は一つじゃねぇ。前で長く立ち続けたいなら、相手と状況に合わせろ」
「はい!」
「いい返事だ。もう一回いくぞ」
「はいっ!」
少し離れた区画では、フェイトがエリオとキャロの前に立っていた。
エリオは前回の出動後、医務室で検査を受けた。
軽い脳震盪と打撲。
大事には至らず、休養を挟んで訓練への復帰を許可されている。
「二人は、スバルやヴィータみたいに攻撃を受け続ける戦い方には向いていません」
フェイトが足元へ金色の魔法陣を開く。
「だから、まず当たらないこと。速く動くだけじゃなく、敵と仲間の位置を見て、安全な場所を選び続けること」
次の瞬間には、その姿が消えていた。
金色の軌跡が、訓練用の標的の間を縫う。
右へ。
左へ。
一度も速度を落とさず、一つの標的にも触れない。
フェイトは二人の背後へ着地した。
「エリオは、どこからでも攻撃と援護へ移れる位置を保つ。キャロは、全員へ補助を届けられる場所を選ぶ。できますか?」
「はい!」
「やってみます」
エリオが走り出す。
キャロも、その背中だけを追わずに周囲を見た。
訓練弾が飛ぶ。
エリオが進路を変え、キャロは逆側へ避けた。
一発目。
二発目。
三発目。
すべてを避けたところで、キャロは足元の小さな石へつまずいた。
「きゃっ」
転ぶより先に、フェイトの腕が身体を支える。
「大丈夫?」
「は、はい。すみません」
「謝らなくていいよ。今ので、足元を見る余裕が足りないって分かったから」
フェイトはキャロが立ったことを確かめてから手を離した。
「次は、そこも見よう」
「はい」
訓練は止まらなかった。
転んでも、次が始まる。
◇
訓練場を囲む林の中に、クオンは立っていた。
部隊敷地の外側。
訓練場まで、声が届く距離。
画面より近い。
鉄槌が障壁へ当たる音。
車輪が地面を削る音。
息を切らした子供たちの返事。
魔力反応だけでは残らないものが、そこにはあった。
巡回する局員は、すでに三度そばを通っている。
一度目は、木立の陰だと思った。
二度目は、人影を見た気がして足を止めた。
三度目は、なぜ足を止めたのかを忘れて歩き去った。
クオンの姿は隠れていない。
そこにいる。
けれど、誰であるかを定めようとした認識だけが、輪郭を結ぶ前に滑り落ちる。
クオン自身にとって、それは呼吸と同じだった。
使おうと考える必要すらない。
少し離れた区画では、なのはとティアナが標的を挟んで向かい合っていた。
「止まったまま撃つんですか?」
「ずっとじゃないよ。でも、自分が動くことに意識を取られて、周りが見えなくなったらセンターガードの仕事ができないから」
なのはが複数の標的を展開する。
「足を止めて、視野を広く。相手に合わせて弾を選んで、誰より早く必要な場所へ当てる」
「判断速度と、命中精度」
「うん。やってみよう」
ティアナがクロスミラージュを構えた。
標的が動き始める。
橙色の弾丸が放たれた。
一発は標的を撃ち抜き、もう一発はその手前へ着弾して進路を変えさせる。
変わった軌道の先を、三発目が待っていた。
「いいね。今の二発目は?」
「仕留めるためじゃなく、動かすためです」
「正解」
次の標的が展開される。
ティアナは一発目を外した。
唇を噛み、すぐに照準を戻す。
「今の、やり直してもいいですか?」
「もちろん」
なのはは標的を初期位置へ戻した。
責める声はない。
外れた弾だけが消え、同じ課題がもう一度始まった。
クオンは黙って見ていた。
◇
研究施設では、ノーヴェが転送記録の画面を開いていた。
表示は一行だけ。
出発済み。
帰還欄は空白。
「それ、十分前にも見てたっスよ」
背後からウェンディが覗き込んだ。
「点検だ」
「何の?」
「転送装置の」
「正常って出てるっス」
「表示だけじゃ分かんねぇこともある」
「クオンと同じこと言ってるっスね」
ノーヴェが椅子ごと振り返る。
「一緒にすんな」
「じゃあ、帰還通知をずっと開いてる理由は何ですか?」
別の端末で作業していたディエチが尋ねた。
「だから点検だって言ってんだろ」
「観測系統の点検なら、私の担当です」
「今日はあたしがやる」
「そうですか」
ディエチはあっさり引いた。
それがかえって気に入らない。
「なんだよ」
「何も」
「言いたいことあるなら言え」
「待っているんだと思いました」
「待ってねぇ!」
大きな声が室内へ響いた。
少し離れた席で、チンクが顔を上げる。
「待つことは、別に恥ではないぞ」
「姉様まで何言ってんだよ」
「姉は事実を言っただけだ」
ウェンディが空いている椅子を引き寄せ、ノーヴェの隣へ座った。
「じゃあ、一緒に点検するっス」
「いらねぇ」
「暇なんで」
「仕事しろよ」
「休憩中っス」
ディエチも作業端末を持って近くへ移った。
「私は仕事を続けます」
「なら元の席でやれ」
「ここでもできます」
帰還欄は、まだ空白だった。
ノーヴェは画面を閉じなかった。
◇
午前の訓練が終わった。
スバルが地面へ大の字に倒れ、ティアナがその横へ座り込む。
エリオとキャロも、息を整えながら給水場所へ向かった。
「今日のスバルさん、すごかったですね」
「最後の一回だけね」
ティアナが容赦なく訂正する。
「その前に五回、綺麗に飛ばされてるから」
「でも、最後は立ってたよ!」
「六回目でね」
「そこ大事かな!?」
四人は、訓練場を見渡せる日陰で昼食を取ることになった。
キャロが用意されたパスタの量に目を丸くし、スバルは当然のように大皿を自分の前へ置く。
「そういえば、みんなの出身ってばらばらだよね」
スバルがフォークを動かしながら言った。
「なのはさんとはやて部隊長は、第九十七管理外世界の出身なんだっけ」
「地球ですね。フェイトさんも、以前は暮らしていたそうです」
キャロが答える。
「スバルの家も、ずっと昔の先祖を辿れば地球出身なんでしょ」
ティアナが続けた。
「そうらしいんだけど、全然実感ないんだよね。エリオは?」
何気なく向けられた問いに、エリオは一度だけ手を止めた。
「僕は、八歳になるまで本局の特別保護施設にいました」
「え」
スバルの顔を見て、ティアナがため息をつく。
「あんた、知らなかったの?」
「ティアは知ってたの!?」
「本人が話すまで聞かなかっただけ」
エリオは慌てて首を振った。
「隠していたわけじゃないです。それに、物心がついた頃からフェイトさんにはずっとよくしてもらっていました」
「魔法を教えてもらったのも?」
「はい。フェイトさんは、自分も子供の頃に寂しい思いをしたから、寂しい子や悲しい子を放っておけないって」
エリオの声が柔らかくなる。
「自分も、温かい手に助けてもらったからって言っていました」
林の中で、クオンはその言葉を聞いていた。
助けられた者が、別の子供を助ける。
差し出された手は、その場で終わらない。
昼食を終え、午後の訓練前に四人が給水場所へ向かう。
その途中で、キャロだけが足を止めた。
肩にいるフリードが、林の方へ顔を向けている。
「どうしたの?」
小さな竜は、答えるように鳴いた。
「キャロ?」
エリオが振り返る。
「すぐ行きます。先にお水をもらっていてください」
キャロは訓練場の端まで歩いた。
外周柵の向こう。
木々の間に、誰かがいる。
子供だった。
自分たちと、そう変わらない年頃の少年。
けれど、顔を見ようとすると、なぜか視線が胸元や木の幹へずれてしまう。
「見学の方ですか?」
キャロが尋ねた。
「見ています」
「訓練を?」
「あなたたちを」
不思議な答えだった。
けれど、怖いとは思わなかった。
フリードも警戒していない。
「事件のあと、帰れましたか?」
キャロは、リニアレールでの出来事を指しているのだと気づいた。
「はい。みんなで帰れました」
「列車が止まった時ですか?」
「え?」
「その時に、帰ったのですか?」
キャロは少し考えた。
「列車が止まった時は、まだです」
「では、ヘリへ乗った時」
「その時も、帰る途中でした」
「いつ帰ったのですか?」
尋ねる声は平坦だった。
試すような響きも、正解を求める強さもない。
本当に分からないのだと、キャロには思えた。
「六課へ着いて、みんなの顔を見た時です」
あの朝の格納庫を思い出す。
待っていたはやて。
先に戻ったスバルとティアナ。
眠そうに笑ったなのはと、肩を支えてくれたフェイト。
「はやてさんが、おかえりなさいって言ってくれたんです」
「その言葉で、帰ったと分かったのですか?」
「はい」
キャロは頷いた。
「列車が止まった時も、助かったって思いました。でも、おかえりって言ってもらった時に、ちゃんと戻ってこられたんだって思えました」
クオンは返事をしなかった。
朝焼けの格納庫。
四人の帰投表示。
画面越しに聞いた、はやての声。
同じ言葉を、もう一度記録から取り出す。
「あなたにも、帰る場所はありますか?」
今度は、キャロが尋ねた。
「あります」
「そこに、誰かいるんですか?」
「います」
「じゃあ……」
キャロは言いかけて、一度口を閉じた。
会ったばかりの自分が、その誰かの気持ちを決めていいのかは分からない。
「待っているかもしれません」
「待つことは、負担ではありませんか?」
「分かりません。でも、フェイトさんは、私の帰りが遅くなると心配します」
「心配させるなら、伝えない方がいいのでは」
「それは駄目です」
思わず声が強くなった。
キャロは自分でも驚いたように、わずかに肩をすくめる。
「す、すみません。でも、何も分からない方が、もっと心配すると思います」
フェイトが出張へ出る朝。
自分が訓練へ向かう時。
短い言葉を交わすだけで、また会えると思えた。
「だから私は、出かける時と帰った時は、ちゃんと言うようにしています」
「何をですか?」
「行ってきますと、ただいまです」
クオンは、その二つの言葉を記録した。
「キャロー!」
給水場所から、エリオが呼ぶ。
「お水、持ってきたよ!」
「ありがとうございます!」
キャロが振り返る。
「もう行きますね」
「はい」
「気をつけて帰ってください」
キャロは小さく手を振り、仲間たちのもとへ走っていった。
もう一度振り返った時。
少年はいなかった。
何を話したのかは覚えている。
けれど、相手の顔だけが思い出せなかった。
◇
同じ頃。
はやては陸士一〇八部隊を訪れていた。
「密輸ルートの捜査協力、か」
ゲンヤ・ナカジマ三佐は、机に置かれた資料へ目を通す。
隣では、ギンガ・ナカジマ陸曹が端末へ事件情報を表示していた。
リニアレールへ積まれていたレリック。
列車が通った経路。
荷主を隠すために重ねられた、複数の偽装名義。
「本局の捜査部にも依頼は出しています。ただ、地上の流れを追うなら、地上部隊に頼るんが一番やと思いまして」
「筋は通ってる」
ゲンヤが資料を閉じる。
「それに、お前がわざわざ頭を下げに来た。断ったら、あとで何を言われるか分からねぇ」
「そんな怖い上司みたいに言わんといてください」
「今はお前が部隊長だろうが」
「ゲンヤさんは、今も昔も尊敬する上官ですよ」
はやては笑った。
ゲンヤは一瞬だけ黙り、それから鼻を鳴らす。
「ギンガ。動けるな?」
「はい」
ギンガは資料を自分の端末へ移した。
「陸士一〇八部隊、ギンガ・ナカジマ陸曹。密輸経路の捜査へ入ります」
「助かります」
「六課との連絡役はフェイト隊長にお願いしています。必要なら、捜査期間中の出向手続きもこちらで」
「了解しました」
「それと、リインが新しいデバイスを用意したい言うてます。スバルのマッハキャリバーと同型を基礎にするそうです」
ギンガの表情がわずかに明るくなる。
「フェイト執務官と一緒に動けて、新型デバイスまでですか。ありがたいお話です」
「六課には妹もお世話になっていますから」
「スバルなら、今日も元気に吹き飛ばされてる頃やね」
「元気なら何よりです」
姉妹の間では、それで状況が伝わるらしい。
ゲンヤは腕を組み、はやてを見る。
「貸すからには、ちゃんと帰せよ」
「はい」
はやての返事から、笑みが消えた。
「帰ってきてもらいます。ギンガにも、六課のみんなにも」
「なら、任せる」
短い言葉とともに、捜査権限が移される。
追うべきものは、レリックだけではない。
それを求めて現れるガジェット。
誰が作り、何のために動かしているのか。
いくつもの線が、少しずつ同じ場所へ向かい始めていた。
◇
どの部隊にも属さない端末へ、新しい人事情報が届いた。
陸士一〇八部隊。
機動六課。
ギンガ・ナカジマ。
二つの組織を結ぶ線が、画面の上に一本増える。
端末の前に座る者は、内容を読み終えると、報告書へ小さな印を付けた。
介入はしない。
まだ、その時ではない。
増えた線がどこへ続くのか。
今は、それだけを見ていた。
◇
本局中央ラボ。
分解されたガジェットの部品を前に、シャーリーが首を傾げていた。
「やっぱり変なんですよね」
隣に立つフェイトが、解析画面を見る。
「レリックが?」
「それもです。エネルギー結晶体にしては、用途の分からない機構が多すぎます。単なる動力源とも思えません」
「すぐに使い方が分かるなら、ロストロギアには指定されないからね」
「それは、そうなんですけど」
シャーリーが別の資料を開く。
「こっちはガジェットの動力部です。内部から、見覚えのある反応が出ています」
青い結晶の解析像が表示された。
フェイトの目が細くなる。
「ジュエルシード……」
「やっぱりそうなんですか?」
「昔、なのはと一緒に探したロストロギアです。すべて管理局の保管下にあるはずだけど」
シャーリーが回路図を拡大する。
「それと、これを見てください。製造者の署名みたいなものが、制御回路へ残されています」
画面へ、一つの名前が表示された。
ジェイル・スカリエッティ。
フェイトは、その名を知っていた。
「一級捜索指定の次元犯罪者です。ロストロギア事件だけじゃない。生命操作や生体改造に関わる事件にも、何度も名前が出ています」
「そんな人が、どうして自分の名前を分かるように残すんでしょう」
「本人なら、挑発。別人なら、捜査を誤らせるため」
フェイトは回路図を見つめる。
「ただ、どちらにしても偶然じゃない。私たちがこの事件を追うことまで知ったうえで、置かれた手がかりです」
ようやく見えた名前は、答えではなかった。
こちらを見ている何者かが、わざと残した次の問いだった。
◇
午後の訓練が始まる前。
なのはは、外周柵の近くに立つキャロを見つけた。
「キャロ、どうしたの?」
「さっき、見学の子とお話ししていたんです」
「見学?」
「私たちと同じくらいの男の子でした」
なのはが周囲を見る。
訓練の見学予定は聞いていない。
来客があれば、受付と警備から連絡が入るはずだった。
「どんな子だった?」
「それが……」
キャロは言葉に詰まる。
「声は覚えています。話したことも。でも、顔がどうしても」
その言葉を聞いた瞬間、なのはの胸が強く鳴った。
理由は分からない。
「何を話したの?」
「事件のあと、いつ帰ったと思ったかって聞かれました」
「いつ?」
「はやてさんに、おかえりって言ってもらった時です」
なのはの視線が、ほんの少し揺れた。
「それから、その子にも帰る場所があるか聞きました」
「なんて答えたの?」
「あるって。そこには、誰かいるそうです」
帰る場所はある。
なのははその言葉を、心の中で繰り返した。
懐かしいものに触れたような痛みだけがある。
けれど、誰の声だったのかは掴めない。
「ほかには?」
「待っているかもしれませんって言いました。それから、フェイトさんが遅くなると心配することも」
「フェイトちゃんが?」
「はい。だから私は、行ってきますと、ただいまを言うようにしているって」
キャロは少し不安そうになった。
「変なこと、言ってしまったでしょうか」
「ううん」
なのはは首を振った。
「きっと、いいことを言ったよ」
キャロへ微笑んでから、通信端末を開く。
警備記録を確かめた。
外周へ近づいた反応はない。
監視映像にも、林の中に少年の姿は残っていなかった。
「もしまた会っても、一人で遠くまでついていっちゃだめだよ」
「はい」
キャロが訓練場へ戻る。
なのはは、もう一度林を見た。
誰もいない。
それでも。
そこに誰かが立っていたような感覚だけが、消えずに残った。
◇
夕刻。
別の街では、小さな少女と大柄な男が人混みの中を歩いていた。
少女の髪は薄紫色。
その右手には、手袋型のデバイスが装着されている。
「次の場所、見つかった」
少女が言う。
「そうか」
隣の男が短く答えた。
少女の端末へ、古い建物の画像が映る。
高級ホテル、アグスタ。
数日後、そこで骨董美術品のオークションが開かれる。
出品物の中には、希少な古代遺物も含まれていた。
二人の進む先に、機動六課の姿はまだない。
けれど、同じものを求める道は、少しずつ近づいていた。
◇
研究施設の画面にも、ホテル・アグスタの予定が表示されていた。
警備と護送を担当するのは、機動六課。
スカリエッティが指を動かすと、会場周辺の地図と搬入予定が広がった。
「ガジェットを出すんスか?」
ウェンディが尋ねる。
「状況次第だね」
「クオンにも行かせるのか?」
ノーヴェは入口近くの席から振り返った。
転送記録の画面は、まだ開いたままだ。
「私は命令しないよ」
スカリエッティは楽しそうに答える。
「彼が近くで見たいと言った。次も見るかどうかは、彼が決めることだ」
「だからって、一人で好きに行かせるなよ」
「なら、君が止めるかい?」
「戻ってきたら言う」
言い切ってから、ノーヴェは画面を見る。
出発から、予定していた訓練時間はとうに過ぎている。
連絡はない。
「連絡手段、残すって言ったよな」
「こちらから呼ぶことはできるっスよ」
ウェンディが端末を示した。
「呼ぶか?」
「呼ばねぇ」
「心配なら呼べばいいじゃないですか」
ディエチの言葉に、ノーヴェは唇を曲げる。
「あいつが自分で連絡するって言ったんだ」
「では、待つんですね」
「点検だ」
同じ答えを繰り返す。
チンクが食事を取りに行こうと誘っても、席を立たなかった。
ウェンディとディエチが一度部屋を出て、戻ってきても。
照明が夜間用へ切り替わっても。
帰還欄は空白のままだった。
◇
転送装置が起動したのは、施設内の時刻が日付をまたぐ少し前だった。
入口の表示が青へ変わる。
白い光の中に、小さな人影が現れた。
クオンが一歩踏み出す。
「遅ぇ」
最初に届いたのは、ノーヴェの声だった。
クオンは入口に立つ少女を見る。
「予定時刻は伝えていません」
「だから遅ぇんだよ」
「意味が分かりません」
「待ってるほうは、いつ戻るか分かんねぇ間、ずっと遅ぇんだ」
ノーヴェは大股で近づいた。
クオンの袖を掴み、腕を持ち上げる。
「怪我は?」
「ありません」
「本当だろうな」
「はい」
反対側の腕も見る。
服に血がついていないことを確かめ、ようやく手の力を少し緩めた。
「連絡はどうした」
「観察を中断する必要がありませんでした」
「こっちが必要としてたんだよ」
クオンが黙る。
訓練場で聞いた言葉が戻ってくる。
心配はします。
遅かったら、すごく心配すると思います。
でも、帰ってきたら嬉しいです。
「ノーヴェは、待っていましたか?」
「待ってねぇ」
即答だった。
その手は、まだクオンの袖を掴んでいる。
「転送装置の点検をしてただけだ」
「長時間、必要ですか?」
「うるせぇ」
ノーヴェは視線を逸らした。
「次から、出る前に言え」
「何をですか?」
「行ってきます、って」
「行動予定なら、端末へ残しました」
「予定じゃねぇ」
ノーヴェが袖を引く。
「行ってきます。帰ってきたら、ただいま。そう言え」
「知っています」
「知ってんなら使え」
クオンは答えなかった。
知識としては知っている。
記録の中で、何度も聞いた。
海鳴の墓地で、誰もいない石の前へ告げたこともある。
あの時、返事はなかった。
ノーヴェはしばらく黙っていた。
やがて、逸らしていた顔を戻す。
「……おかえり」
小さな声だった。
けれど、クオンには届いた。
誰かが帰った映像へ向けられた言葉ではない。
記録の中の誰かへ残された言葉でもない。
初めて、その言葉が自分へ向けられた。
クオンは一拍だけ遅れて答えた。
「ただいま、ノーヴェ」