魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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第二十話 隣にいる

 研究施設の朝。

 

 転送区画へ向かう前に、クオンは観測室へ立ち寄った。

 

 ノーヴェは中央の端末へ座り、その隣ではウェンディとディエチがホテル・アグスタ周辺の記録を整理している。

 

 三人がいることを確かめてから、クオンは口を開いた。

 

「行ってきます。ノーヴェ、ウェンディ、ディエチ」

 

 三人の手が同時に止まった。

 

「本当に言ったっスね」

 

 ウェンディが最初に笑う。

 

「言えと言われました」

 

「昨日の今日で素直っスねえ」

 

「必要だと聞いたので」

 

 クオンはノーヴェを見た。

 

「これで合っていますか?」

 

「あたしに確認すんな」

 

 ノーヴェは顔を逸らした。

 

 耳だけが少し赤い。

 

「どこへ行くんですか?」

 

 ディエチが尋ねた。

 

「ストライクに身体の調整方法を確認してから、ホテル・アグスタへ向かいます」

 

「身体?」

 

 ノーヴェの視線が戻る。

 

「何をする気だ」

 

「戻ってから説明します」

 

「先にしろよ」

 

「転送の予定時刻です」

 

 クオンが区画内の表示を指す。

 

 白い光が足元へ集まり始めていた。

 

「帰ってくる時間は?」

 

「まだ分かりません」

 

「またそれか」

 

「遅くなる場合は、連絡します」

 

 昨日はしなかったことを、今日は先に告げる。

 

 ノーヴェはしばらくクオンを睨んでいた。

 

「絶対だからな」

 

「はい」

 

「いってらっしゃいっス」

 

「気をつけて」

 

 ウェンディとディエチが続けて返す。

 

 ノーヴェだけは黙ったままだった。

 

 転送装置の光が強くなる。

 

 クオンの姿が消える直前。

 

「……行ってこい」

 

 小さな声が届いた。

 

     ◇

 

 ミッドチルダ首都中央区。

 

 朝の喫茶店には、焼きたてのパンとコーヒーの匂いが満ちていた。

 

 出勤前の客が新聞を広げ、学生たちが端末を囲んでいる。

 

 窓際の席で、二人の客が向かい合っていた。

 

 一人は、九歳ほどの少年。

 

 もう一人は、十九歳ほどに見える中性的な青年だった。

 

 長い手足。

 

 椅子へ深く座った姿には、店内のすべてを自分の間合いへ置いているような余裕がある。

 

 青年の傍らには、白い仮面が伏せて置かれていた。

 

 けれど、店内の誰も二人を不思議には思わない。

 

 少年を見れば、連れの青年がいたような気がする。

 

 青年を見れば、一人で座っていたようにも思える。

 

 二人分の注文を運んだ店員でさえ、卓上のカップがなぜ二つあるのか考えないまま離れていった。

 

「それで、兄弟。何を教わりに来た」

 

 青年――クオン・ストライクが尋ねた。

 

 クオンの前には温めたミルク。

 

 ストライクの前には、砂糖を入れていないコーヒー。

 

「身体を大きくする方法です」

 

「俺のようになりたいのか?」

 

「違います」

 

「即答するな」

 

「必要な大きさが違います」

 

 ストライクは片方の眉を上げた。

 

「何に使う」

 

「ノーヴェとの訓練です」

 

 一拍置いて、ストライクが笑った。

 

「何がおかしいのですか?」

 

「女一人に殴られるため、わざわざ器を作り替えたいと言う兄弟が面白い」

 

「今の身体では、ノーヴェが拳を止めます」

 

「怖がられているようには見えなかったがな」

 

「ボクを殴る直前だけ、腰の回転と肩の動きが遅くなります」

 

「よく見ている」

 

「子供を殴っていると思うからです」

 

 ストライクはクオンの頭から足までを見る。

 

「間違ってはいない」

 

「ボクは壊れません」

 

「理屈の話でもない」

 

 クオンには、その違いがまだ分からなかった。

 

「大きくなれば、止めませんか?」

 

「さあな。試す価値はある」

 

 ストライクはコーヒーを一口飲んだ。

 

「やり方は単純だ。俺たちの器は魔力でできている。余剰魔力を骨格、筋肉、神経、魔力路へ回せば形は変えられる」

 

「すぐにできますか?」

 

「雑にやれば、すぐ壊れる」

 

「壊れても戻せます」

 

「壊れる前提で技を覚えるな」

 

 ストライクの声が低くなる。

 

 クオンは黙った。

 

「大きさだけを先に決めるな。何をする身体なのか決めろ。必要な骨格と重心は、あとからついてくる」

 

「ノーヴェの拳を受ける身体」

 

「なら、立て」

 

 クオンは椅子から降りた。

 

「目を閉じろ。あの女の踏み込みを思い出せ」

 

 言われたとおりに目を閉じる。

 

 ノーヴェが床を蹴る。

 

 腰が回る。

 

 まっすぐ伸びた拳が、クオンの胸へ向かう。

 

 接触の直前だけ、速度が落ちる。

 

「止めさせたくないなら、どこで受ける」

 

 子供へ拳を振り下ろす形にならない高さ。

 

 ノーヴェが見上げすぎずに済む距離。

 

 拳が自然に伸び切る位置。

 

 クオンの内側で、余剰魔力が動いた。

 

 骨が軋む。

 

 筋肉が引かれ、足裏から伝わる床の位置が遠ざかる。

 

「急ぐな」

 

 ストライクの声が飛ぶ。

 

「先に伸ばした骨格へ魔力路を合わせろ。感覚がずれたまま進めば、自分の足で立てなくなるぞ」

 

 クオンは流れを止めた。

 

 新しい重心を探す。

 

 伸びた脚へ魔力を通し、指先まで感覚が届くことを確かめる。

 

 それから、もう一度だけ器を広げた。

 

 テーブルの上で、コーヒーが冷めていく。

 

 調整が終わった時、そこにいたのは九歳ほどの少年ではなかった。

 

 手足が伸び、肩の位置も高くなっている。

 

 顔立ちには幼さが残っているが、見た目は十三歳ほど。

 

 衣服も、魔力で作られた身体へ合わせて形を変えていた。

 

「これで合っていますか?」

 

「俺ではなく、自分の足へ聞け」

 

 クオンは一歩進んだ。

 

 思っていた位置へ床が来ない。

 

 二歩目で爪先が椅子の脚へ触れ、身体が傾いた。

 

 卓上へ手をつき、倒れることだけは避ける。

 

 ミルクの表面が大きく揺れた。

 

「合っていません」

 

「器は合っている。お前の歩き方が九歳のままだ」

 

 ストライクは助けもせずに笑った。

 

「戻せますか?」

 

「戻すだけなら、今すぐできる」

 

「では、まだ戻しません」

 

「そうしろ。ホテルまで歩けば、少しはましになる」

 

 クオンは足幅を確かめながら席へ戻った。

 

 今度は椅子へぶつからない。

 

「兄弟」

 

 ストライクが呼ぶ。

 

「器を変えただけで、技まで変わったと思うなよ」

 

「分かりました」

 

「分かっていない顔だな」

 

「顔は同じです」

 

「口は少し達者になった」

 

 クオンは残っていたミルクを飲んだ。

 

 少しぬるくなっていた。

 

     ◇

 

 高級ホテル、アグスタ。

 

 広い敷地を囲む森の向こうに、白い外壁と青い屋根が見える。

 

 ホテルでは、骨董美術品のオークションが開かれていた。

 

 古代の魔導器。

 

 由来不明の工芸品。

 

 ロストロギアに近い性質を持つ品も含まれるため、会場の警備は厳重だった。

 

 機動六課は総員で警備任務へ就いている。

 

 会場内では、はやて、なのは、フェイトが正装で来客へ紛れていた。

 

 出品物の鑑定には、無限書庫司書長のユーノ・スクライアも参加している。

 

「今回の鑑定責任者や」

 

 はやてに紹介され、ユーノは困ったように笑った。

 

「三人とも、来てたなら先に教えてくれてもよかったのに」

 

「ユーノ君も、ここにいるって言ってくれなかったよね」

 

 なのはが笑い返す。

 

 短い再会の挨拶を交わしても、四人の視線は会場と出品物から離れない。

 

 今は任務の途中だった。

 

 外周にはシグナム、ヴィータ、ザフィーラ。

 

 防衛線の内側へ、スバル、ティアナ、エリオ、キャロが配置されている。

 

 そのどの配置図にも記されていない少年が一人。

 

 クオンは、ホテルを見下ろす林の斜面に立っていた。

 

 朝まで九歳ほどだった身体は、十三歳ほどまで成長している。

 

 ホテルへ着くまでに三度つまずき、一度は段差を飛び越えすぎた。

 

 今は立ち止まり、伸びた手足の感覚を確かめている。

 

 訓練場より近い。

 

 ガラス越しに会場の人影が見える。

 

 通信の一部も聞こえる。

 

 クオンは、子供たちの配置を一人ずつ確認した。

 

     ◇

 

「すごい人ばかりだよね」

 

 待機中、スバルが周囲を見回した。

 

「八神部隊長に、隊長たち。副隊長たちも全員そろってるし」

 

「観光に来たんじゃないのよ」

 

 ティアナは素っ気なく答える。

 

 視線の先では、ヴィータが戦槌を肩へ担いでいた。

 

 能力制限を受けた状態でも、自分たちとは比較にならない力を持つ副隊長。

 

 空ではシグナムが外周を確認し、ザフィーラが地上の経路を塞いでいる。

 

 エリオとキャロには、希少な資質がある。

 

 スバルには、前へ出続けられる身体と力がある。

 

 自分には何がある。

 

 ティアナはクロスミラージュを握った。

 

 狙って、撃つ。

 

 それだけは、誰よりもできなければならない。

 

 そうでなければ、ここへ選ばれた理由までなくなる気がした。

 

     ◇

 

 最初に異変を捉えたのは、シャマルの探査だった。

 

『東側から多数接近。ガジェットです!』

 

 警報と同時に、待機していた全員が動いた。

 

 シグナムが空へ上がる。

 

 ヴィータの周囲へ、鋼鉄の球が展開される。

 

 ザフィーラは防衛線の前へ出た。

 

『外は私たちが受け持つ。フォワードは防衛線を維持しろ』

 

 シグナムの指示に、四人が応じる。

 

 ガジェットの第一陣が森を抜けた。

 

 ヴィータの鉄球が複数機をまとめて貫く。

 

 炎をまとったシグナムの斬撃が大型機を断ち、ザフィーラの鋼の軛が地上機を縫い止めた。

 

 強い。

 

 ティアナは奥歯を噛む。

 

 あれで、能力を制限されている。

 

 同じ部隊にいるというだけで、同じ場所へ立てたわけではない。

 

 林の中から、クオンも戦場を見ていた。

 

 三人の大人が、子供たちより前へ出ている。

 

 列車の時とは配置が違う。

 

 その事実だけを覚える。

 

     ◇

 

 戦場から離れた丘に、薄紫色の髪の少女が立っていた。

 

 その傍らには、大柄な騎士。

 

 少女――ルーテシアの端末へ、スカリエッティから通信が入る。

 

『やあ、ルーテシア。少し頼みがあるのだが』

 

「レリック?」

 

『残念ながら違う。だが、会場に興味深い品が一つある』

 

 ゼストの表情が険しくなる。

 

「我々の目的とは無関係だ」

 

『もちろん、断ってくれても構わないよ』

 

 言葉とは裏腹に、スカリエッティの声はルーテシアだけを待っている。

 

「……いいよ」

 

『ありがとう。場所は送った』

 

 通信が切れる。

 

 ゼストが少女を見る。

 

「無理に従う必要はない」

 

「分かってる」

 

 ルーテシアの足元へ、紫色の召喚陣が広がった。

 

 呼び出された小さな虫の群れが、戦場へ向かう。

 

 虫がガジェットへ取りついた瞬間、機械の動きが変わった。

 

 決められた軌道をなぞるだけだった機体が、シグナムたちの攻撃を読んで回避し始める。

 

 さらに別の召喚陣が、防衛線の内側へ開いた。

 

 召喚魔法の発生地点を追っていたリインフォースⅡは、丘の上に二つの人影を見つけた。

 

 薄紫色の髪の少女と、大柄な騎士。

 

『見つけました!』

 

 通信を開こうとした瞬間、黒い影がリインの前へ割り込んだ。

 

 人に似ているが、人ではない。

 

 鋭い腕が振るわれる。

 

 リインは障壁で受けたが、小さな身体ごと弾き飛ばされた。

 

『リイン!』

 

「大丈夫です。召喚師を確認しました。でも、護衛の召喚獣がいます!」

 

 黒い召喚獣――ガリューは追撃せず、主人の命令を待つ。

 

 その隙に、別の召喚陣がホテル内部へ繋がった。

 

 林の斜面で、クオンが顔を上げる。

 

 ガジェットを変えた魔力反応は、子供のものだった。

 

     ◇

 

「来ます!」

 

 キャロが叫んだ。

 

 転送されたガジェットが、フォワードたちの前へ現れる。

 

 小型機に交じり、装甲の厚い大型機もいる。

 

『防衛線を維持して。ヴィータ副隊長が向かっています』

 

 シャマルの指示が通信へ届く。

 

「了解!」

 

 スバルがウイングロードを伸ばした。

 

 エリオがその下を走り、ガジェットの足を止める。

 

 キャロの補助魔法が二人を包む。

 

 ティアナは後方から射撃を放った。

 

 一発目が装甲へ弾かれる。

 

 二発目はAMFに威力を削られた。

 

 三発目は避けられる。

 

 当たらない。

 

 撃ち抜けない。

 

 自分以外の三人は、それぞれの位置で役割を果たしている。

 

 自分だけが、結果を残せていない。

 

「ティア、焦らなくていいよ!」

 

 スバルの声が届く。

 

「焦ってない!」

 

 ティアナは即座に返した。

 

『防衛に専念して。無理に撃墜しなくていいから』

 

 シャマルが重ねて指示する。

 

 守ればいい。

 

 ヴィータが来るまで耐えれば、それで任務は成功する。

 

 その成功の中に、自分が必要だった証拠は残るのか。

 

「スバル。二人で前へ出るわ」

 

「え?」

 

「クロスシフト。あたしがまとめて落とす」

 

「でも、指示は防衛だよ」

 

「ここで止めれば同じでしょ」

 

 ティアナがカートリッジを装填する。

 

 一発。

 

 二発。

 

 三発。

 

 さらに、四発目。

 

 クロスミラージュが警告を発した。

 

 手首が震える。

 

 それでも構えを解かない。

 

「いける。撃てる」

 

 スバルが敵を引きつける。

 

 ティアナの周囲へ、複数の射撃魔法が展開された。

 

 林の中で、クオンはティアナの魔力が乱れるのを見た。

 

 橙色の弾丸が放たれる。

 

 一発目が小型機を撃ち抜く。

 

 二発目が大型機の装甲を砕いた。

 

 三発目が、その内側へ突き刺さる。

 

 最後の一発だけが、軌道を外れた。

 

 敵ではない。

 

 前方にいるスバルへ向かう。

 

 クオンの足元へ、白い魔法陣が開きかけた。

 

 その前に、赤い影が飛び込んだ。

 

 ヴィータの鉄槌が弾丸を打ち砕く。

 

 橙色の光が、スバルの目前で散った。

 

「ティアナ!」

 

 ヴィータの怒声が響く。

 

 クオンは足元の光を消した。

 

 ヴィータはスバルの無事を確かめ、それからティアナへ向き直る。

 

「今の軌道が見えてなかったとは言わせねぇぞ」

 

「今のは、作戦のうちで……」

 

「味方へ当たる作戦があるか!」

 

 ティアナの肩が震えた。

 

 スバルが庇うように一歩前へ出る。

 

「あたしも、前へ出るって決めました」

 

「二人で命令破ってどうすんだ!」

 

 ヴィータは二人を睨みつけた。

 

 次のガジェット反応が近づく。

 

「話はあとだ。二人とも防衛線まで下がれ。今度は指示を聞け」

 

「……はい」

 

「返事!」

 

「はい!」

 

 ティアナとスバルが後退するまで、ヴィータは二人と敵の間に立っていた。

 

     ◇

 

 ホテルの反対側では、ガリューが会場から一つの品を運び出していた。

 

 追跡が向けられるより早く、召喚陣の中へ姿を消す。

 

 ガジェットの反応も、ほどなく途絶えた。

 

 機動六課はホテルと参加者を守り切った。

 

 盗まれた品は一つ。

 

 警備任務は成功と記録され、その横へ新たな捜査項目が加えられた。

 

     ◇

 

 任務終了後。

 

 ティアナはホテル裏手の警備経路に残っていた。

 

 壁へ背を預け、俯いている。

 

「ティア」

 

 追ってきたスバルが声をかけた。

 

「もう終わったって。戻ろう」

 

「先に戻って」

 

「でも」

 

「いいから!」

 

 強い声に、スバルの足が止まる。

 

「……分かった。またあとでね」

 

 スバルは何度も振り返りながら、その場を離れた。

 

 ティアナは顔を上げない。

 

 自分の力を示すつもりで、相棒を撃ちかけた。

 

 ヴィータが間に合わなければ、何が起きていたのか。

 

 考えるたび、指先が冷たくなる。

 

 壁際へ、小さな雫が落ちた。

 

 少し離れた林の中で、クオンはその姿を見ていた。

 

 周囲では撤収が始まっている。

 

 ホテルの警備は終わった。

 

 子供たちも帰投の準備へ入っている。

 

 ティアナだけが動かない。

 

 クオンは通信端末を取り出した。

 

 遅くなる場合は連絡する。

 

 出てくる前に、ノーヴェへ告げたことだった。

 

 回線を繋ぐ。

 

『終わったんだろ。帰ってくんのか?』

 

「まだ戻りません」

 

『なんでだよ』

 

「一人で残っている子供がいます」

 

『迎えに行くのか?』

 

「分かりません」

 

『分かんねぇのに残るのか』

 

 クオンは、俯いたままのティアナを見る。

 

「はい」

 

 通信の向こうで、ノーヴェが息を吐いた。

 

『次に移動する時も連絡しろ』

 

「分かりました」

 

『勝手に切るなよ』

 

「もう切ってもいいですか?」

 

『いちいち確認すんな!』

 

「では、あとで連絡します」

 

 回線を閉じる。

 

 今度は、連絡できた。

 

 クオンは林から出た。

 

     ◇

 

 伸びた身体で歩いても、足音はほとんどしない。

 

 それでも、ティアナは近づく気配に顔を上げた。

 

「誰?」

 

「クオンです」

 

「どこの隊?」

 

「所属はありません」

 

 ティアナは目元を乱暴に拭った。

 

 少年の顔を見ようとしても、視線が肩や背後の壁へ滑ってしまう。

 

 年齢は自分より少し下に見える。

 

 それ以上の輪郭が残らない。

 

「だったら、ここは関係者以外立ち入り禁止よ」

 

「分かりました」

 

 クオンは素直に後ろへ下がった。

 

 ホテルの角を曲がり、ティアナから姿が見えなくなる位置まで離れる。

 

 けれど、林へは戻らなかった。

 

 壁の反対側へ座る。

 

 風が木々を揺らす。

 

 遠くで、撤収を始めた隊員たちの声が聞こえた。

 

 五分。

 

 十分。

 

 ティアナの足音はしない。

 

「……まだいるの?」

 

 壁の向こうから声がした。

 

「はい」

 

「一人にして」

 

「離れています」

 

「そういう意味じゃない」

 

「意味が分かりません」

 

 苛立ったような息が聞こえた。

 

「帰りなさいよ」

 

「あなたが戻ってから帰ります」

 

「なんで」

 

「一人で残っていたので」

 

「だから何よ」

 

 クオンは答えを探した。

 

 正しい言葉は見つからない。

 

「分かりません」

 

「本当に何しに来たのよ、あんた」

 

「隣にいます」

 

「それ、隣って言わないでしょ」

 

「近づくと立ち入り禁止です」

 

 返事はなかった。

 

 怒らせたのかもしれない。

 

 それでも、帰れとはもう言われなかった。

 

 さらに時間が過ぎる。

 

 日が傾き、二人分の影が壁の両側へ伸びた。

 

「……あたし、失敗したの」

 

 先に沈黙を破ったのは、ティアナだった。

 

「見ていました」

 

「最悪」

 

「はい」

 

「そこは否定しなさいよ」

 

「何を否定すればいいか分かりません」

 

 また、長い沈黙が落ちた。

 

「あたしね」

 

 今度の声は、少しだけ近かった。

 

「ここで役に立たなきゃいけないの」

 

 クオンは答えなかった。

 

 言える答えを持っていない。

 

 ただ、壁の向こうから続く声を待った。

 

 数歩離れた隣で。

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