研究施設の朝。
転送区画へ向かう前に、クオンは観測室へ立ち寄った。
ノーヴェは中央の端末へ座り、その隣ではウェンディとディエチがホテル・アグスタ周辺の記録を整理している。
三人がいることを確かめてから、クオンは口を開いた。
「行ってきます。ノーヴェ、ウェンディ、ディエチ」
三人の手が同時に止まった。
「本当に言ったっスね」
ウェンディが最初に笑う。
「言えと言われました」
「昨日の今日で素直っスねえ」
「必要だと聞いたので」
クオンはノーヴェを見た。
「これで合っていますか?」
「あたしに確認すんな」
ノーヴェは顔を逸らした。
耳だけが少し赤い。
「どこへ行くんですか?」
ディエチが尋ねた。
「ストライクに身体の調整方法を確認してから、ホテル・アグスタへ向かいます」
「身体?」
ノーヴェの視線が戻る。
「何をする気だ」
「戻ってから説明します」
「先にしろよ」
「転送の予定時刻です」
クオンが区画内の表示を指す。
白い光が足元へ集まり始めていた。
「帰ってくる時間は?」
「まだ分かりません」
「またそれか」
「遅くなる場合は、連絡します」
昨日はしなかったことを、今日は先に告げる。
ノーヴェはしばらくクオンを睨んでいた。
「絶対だからな」
「はい」
「いってらっしゃいっス」
「気をつけて」
ウェンディとディエチが続けて返す。
ノーヴェだけは黙ったままだった。
転送装置の光が強くなる。
クオンの姿が消える直前。
「……行ってこい」
小さな声が届いた。
◇
ミッドチルダ首都中央区。
朝の喫茶店には、焼きたてのパンとコーヒーの匂いが満ちていた。
出勤前の客が新聞を広げ、学生たちが端末を囲んでいる。
窓際の席で、二人の客が向かい合っていた。
一人は、九歳ほどの少年。
もう一人は、十九歳ほどに見える中性的な青年だった。
長い手足。
椅子へ深く座った姿には、店内のすべてを自分の間合いへ置いているような余裕がある。
青年の傍らには、白い仮面が伏せて置かれていた。
けれど、店内の誰も二人を不思議には思わない。
少年を見れば、連れの青年がいたような気がする。
青年を見れば、一人で座っていたようにも思える。
二人分の注文を運んだ店員でさえ、卓上のカップがなぜ二つあるのか考えないまま離れていった。
「それで、兄弟。何を教わりに来た」
青年――クオン・ストライクが尋ねた。
クオンの前には温めたミルク。
ストライクの前には、砂糖を入れていないコーヒー。
「身体を大きくする方法です」
「俺のようになりたいのか?」
「違います」
「即答するな」
「必要な大きさが違います」
ストライクは片方の眉を上げた。
「何に使う」
「ノーヴェとの訓練です」
一拍置いて、ストライクが笑った。
「何がおかしいのですか?」
「女一人に殴られるため、わざわざ器を作り替えたいと言う兄弟が面白い」
「今の身体では、ノーヴェが拳を止めます」
「怖がられているようには見えなかったがな」
「ボクを殴る直前だけ、腰の回転と肩の動きが遅くなります」
「よく見ている」
「子供を殴っていると思うからです」
ストライクはクオンの頭から足までを見る。
「間違ってはいない」
「ボクは壊れません」
「理屈の話でもない」
クオンには、その違いがまだ分からなかった。
「大きくなれば、止めませんか?」
「さあな。試す価値はある」
ストライクはコーヒーを一口飲んだ。
「やり方は単純だ。俺たちの器は魔力でできている。余剰魔力を骨格、筋肉、神経、魔力路へ回せば形は変えられる」
「すぐにできますか?」
「雑にやれば、すぐ壊れる」
「壊れても戻せます」
「壊れる前提で技を覚えるな」
ストライクの声が低くなる。
クオンは黙った。
「大きさだけを先に決めるな。何をする身体なのか決めろ。必要な骨格と重心は、あとからついてくる」
「ノーヴェの拳を受ける身体」
「なら、立て」
クオンは椅子から降りた。
「目を閉じろ。あの女の踏み込みを思い出せ」
言われたとおりに目を閉じる。
ノーヴェが床を蹴る。
腰が回る。
まっすぐ伸びた拳が、クオンの胸へ向かう。
接触の直前だけ、速度が落ちる。
「止めさせたくないなら、どこで受ける」
子供へ拳を振り下ろす形にならない高さ。
ノーヴェが見上げすぎずに済む距離。
拳が自然に伸び切る位置。
クオンの内側で、余剰魔力が動いた。
骨が軋む。
筋肉が引かれ、足裏から伝わる床の位置が遠ざかる。
「急ぐな」
ストライクの声が飛ぶ。
「先に伸ばした骨格へ魔力路を合わせろ。感覚がずれたまま進めば、自分の足で立てなくなるぞ」
クオンは流れを止めた。
新しい重心を探す。
伸びた脚へ魔力を通し、指先まで感覚が届くことを確かめる。
それから、もう一度だけ器を広げた。
テーブルの上で、コーヒーが冷めていく。
調整が終わった時、そこにいたのは九歳ほどの少年ではなかった。
手足が伸び、肩の位置も高くなっている。
顔立ちには幼さが残っているが、見た目は十三歳ほど。
衣服も、魔力で作られた身体へ合わせて形を変えていた。
「これで合っていますか?」
「俺ではなく、自分の足へ聞け」
クオンは一歩進んだ。
思っていた位置へ床が来ない。
二歩目で爪先が椅子の脚へ触れ、身体が傾いた。
卓上へ手をつき、倒れることだけは避ける。
ミルクの表面が大きく揺れた。
「合っていません」
「器は合っている。お前の歩き方が九歳のままだ」
ストライクは助けもせずに笑った。
「戻せますか?」
「戻すだけなら、今すぐできる」
「では、まだ戻しません」
「そうしろ。ホテルまで歩けば、少しはましになる」
クオンは足幅を確かめながら席へ戻った。
今度は椅子へぶつからない。
「兄弟」
ストライクが呼ぶ。
「器を変えただけで、技まで変わったと思うなよ」
「分かりました」
「分かっていない顔だな」
「顔は同じです」
「口は少し達者になった」
クオンは残っていたミルクを飲んだ。
少しぬるくなっていた。
◇
高級ホテル、アグスタ。
広い敷地を囲む森の向こうに、白い外壁と青い屋根が見える。
ホテルでは、骨董美術品のオークションが開かれていた。
古代の魔導器。
由来不明の工芸品。
ロストロギアに近い性質を持つ品も含まれるため、会場の警備は厳重だった。
機動六課は総員で警備任務へ就いている。
会場内では、はやて、なのは、フェイトが正装で来客へ紛れていた。
出品物の鑑定には、無限書庫司書長のユーノ・スクライアも参加している。
「今回の鑑定責任者や」
はやてに紹介され、ユーノは困ったように笑った。
「三人とも、来てたなら先に教えてくれてもよかったのに」
「ユーノ君も、ここにいるって言ってくれなかったよね」
なのはが笑い返す。
短い再会の挨拶を交わしても、四人の視線は会場と出品物から離れない。
今は任務の途中だった。
外周にはシグナム、ヴィータ、ザフィーラ。
防衛線の内側へ、スバル、ティアナ、エリオ、キャロが配置されている。
そのどの配置図にも記されていない少年が一人。
クオンは、ホテルを見下ろす林の斜面に立っていた。
朝まで九歳ほどだった身体は、十三歳ほどまで成長している。
ホテルへ着くまでに三度つまずき、一度は段差を飛び越えすぎた。
今は立ち止まり、伸びた手足の感覚を確かめている。
訓練場より近い。
ガラス越しに会場の人影が見える。
通信の一部も聞こえる。
クオンは、子供たちの配置を一人ずつ確認した。
◇
「すごい人ばかりだよね」
待機中、スバルが周囲を見回した。
「八神部隊長に、隊長たち。副隊長たちも全員そろってるし」
「観光に来たんじゃないのよ」
ティアナは素っ気なく答える。
視線の先では、ヴィータが戦槌を肩へ担いでいた。
能力制限を受けた状態でも、自分たちとは比較にならない力を持つ副隊長。
空ではシグナムが外周を確認し、ザフィーラが地上の経路を塞いでいる。
エリオとキャロには、希少な資質がある。
スバルには、前へ出続けられる身体と力がある。
自分には何がある。
ティアナはクロスミラージュを握った。
狙って、撃つ。
それだけは、誰よりもできなければならない。
そうでなければ、ここへ選ばれた理由までなくなる気がした。
◇
最初に異変を捉えたのは、シャマルの探査だった。
『東側から多数接近。ガジェットです!』
警報と同時に、待機していた全員が動いた。
シグナムが空へ上がる。
ヴィータの周囲へ、鋼鉄の球が展開される。
ザフィーラは防衛線の前へ出た。
『外は私たちが受け持つ。フォワードは防衛線を維持しろ』
シグナムの指示に、四人が応じる。
ガジェットの第一陣が森を抜けた。
ヴィータの鉄球が複数機をまとめて貫く。
炎をまとったシグナムの斬撃が大型機を断ち、ザフィーラの鋼の軛が地上機を縫い止めた。
強い。
ティアナは奥歯を噛む。
あれで、能力を制限されている。
同じ部隊にいるというだけで、同じ場所へ立てたわけではない。
林の中から、クオンも戦場を見ていた。
三人の大人が、子供たちより前へ出ている。
列車の時とは配置が違う。
その事実だけを覚える。
◇
戦場から離れた丘に、薄紫色の髪の少女が立っていた。
その傍らには、大柄な騎士。
少女――ルーテシアの端末へ、スカリエッティから通信が入る。
『やあ、ルーテシア。少し頼みがあるのだが』
「レリック?」
『残念ながら違う。だが、会場に興味深い品が一つある』
ゼストの表情が険しくなる。
「我々の目的とは無関係だ」
『もちろん、断ってくれても構わないよ』
言葉とは裏腹に、スカリエッティの声はルーテシアだけを待っている。
「……いいよ」
『ありがとう。場所は送った』
通信が切れる。
ゼストが少女を見る。
「無理に従う必要はない」
「分かってる」
ルーテシアの足元へ、紫色の召喚陣が広がった。
呼び出された小さな虫の群れが、戦場へ向かう。
虫がガジェットへ取りついた瞬間、機械の動きが変わった。
決められた軌道をなぞるだけだった機体が、シグナムたちの攻撃を読んで回避し始める。
さらに別の召喚陣が、防衛線の内側へ開いた。
召喚魔法の発生地点を追っていたリインフォースⅡは、丘の上に二つの人影を見つけた。
薄紫色の髪の少女と、大柄な騎士。
『見つけました!』
通信を開こうとした瞬間、黒い影がリインの前へ割り込んだ。
人に似ているが、人ではない。
鋭い腕が振るわれる。
リインは障壁で受けたが、小さな身体ごと弾き飛ばされた。
『リイン!』
「大丈夫です。召喚師を確認しました。でも、護衛の召喚獣がいます!」
黒い召喚獣――ガリューは追撃せず、主人の命令を待つ。
その隙に、別の召喚陣がホテル内部へ繋がった。
林の斜面で、クオンが顔を上げる。
ガジェットを変えた魔力反応は、子供のものだった。
◇
「来ます!」
キャロが叫んだ。
転送されたガジェットが、フォワードたちの前へ現れる。
小型機に交じり、装甲の厚い大型機もいる。
『防衛線を維持して。ヴィータ副隊長が向かっています』
シャマルの指示が通信へ届く。
「了解!」
スバルがウイングロードを伸ばした。
エリオがその下を走り、ガジェットの足を止める。
キャロの補助魔法が二人を包む。
ティアナは後方から射撃を放った。
一発目が装甲へ弾かれる。
二発目はAMFに威力を削られた。
三発目は避けられる。
当たらない。
撃ち抜けない。
自分以外の三人は、それぞれの位置で役割を果たしている。
自分だけが、結果を残せていない。
「ティア、焦らなくていいよ!」
スバルの声が届く。
「焦ってない!」
ティアナは即座に返した。
『防衛に専念して。無理に撃墜しなくていいから』
シャマルが重ねて指示する。
守ればいい。
ヴィータが来るまで耐えれば、それで任務は成功する。
その成功の中に、自分が必要だった証拠は残るのか。
「スバル。二人で前へ出るわ」
「え?」
「クロスシフト。あたしがまとめて落とす」
「でも、指示は防衛だよ」
「ここで止めれば同じでしょ」
ティアナがカートリッジを装填する。
一発。
二発。
三発。
さらに、四発目。
クロスミラージュが警告を発した。
手首が震える。
それでも構えを解かない。
「いける。撃てる」
スバルが敵を引きつける。
ティアナの周囲へ、複数の射撃魔法が展開された。
林の中で、クオンはティアナの魔力が乱れるのを見た。
橙色の弾丸が放たれる。
一発目が小型機を撃ち抜く。
二発目が大型機の装甲を砕いた。
三発目が、その内側へ突き刺さる。
最後の一発だけが、軌道を外れた。
敵ではない。
前方にいるスバルへ向かう。
クオンの足元へ、白い魔法陣が開きかけた。
その前に、赤い影が飛び込んだ。
ヴィータの鉄槌が弾丸を打ち砕く。
橙色の光が、スバルの目前で散った。
「ティアナ!」
ヴィータの怒声が響く。
クオンは足元の光を消した。
ヴィータはスバルの無事を確かめ、それからティアナへ向き直る。
「今の軌道が見えてなかったとは言わせねぇぞ」
「今のは、作戦のうちで……」
「味方へ当たる作戦があるか!」
ティアナの肩が震えた。
スバルが庇うように一歩前へ出る。
「あたしも、前へ出るって決めました」
「二人で命令破ってどうすんだ!」
ヴィータは二人を睨みつけた。
次のガジェット反応が近づく。
「話はあとだ。二人とも防衛線まで下がれ。今度は指示を聞け」
「……はい」
「返事!」
「はい!」
ティアナとスバルが後退するまで、ヴィータは二人と敵の間に立っていた。
◇
ホテルの反対側では、ガリューが会場から一つの品を運び出していた。
追跡が向けられるより早く、召喚陣の中へ姿を消す。
ガジェットの反応も、ほどなく途絶えた。
機動六課はホテルと参加者を守り切った。
盗まれた品は一つ。
警備任務は成功と記録され、その横へ新たな捜査項目が加えられた。
◇
任務終了後。
ティアナはホテル裏手の警備経路に残っていた。
壁へ背を預け、俯いている。
「ティア」
追ってきたスバルが声をかけた。
「もう終わったって。戻ろう」
「先に戻って」
「でも」
「いいから!」
強い声に、スバルの足が止まる。
「……分かった。またあとでね」
スバルは何度も振り返りながら、その場を離れた。
ティアナは顔を上げない。
自分の力を示すつもりで、相棒を撃ちかけた。
ヴィータが間に合わなければ、何が起きていたのか。
考えるたび、指先が冷たくなる。
壁際へ、小さな雫が落ちた。
少し離れた林の中で、クオンはその姿を見ていた。
周囲では撤収が始まっている。
ホテルの警備は終わった。
子供たちも帰投の準備へ入っている。
ティアナだけが動かない。
クオンは通信端末を取り出した。
遅くなる場合は連絡する。
出てくる前に、ノーヴェへ告げたことだった。
回線を繋ぐ。
『終わったんだろ。帰ってくんのか?』
「まだ戻りません」
『なんでだよ』
「一人で残っている子供がいます」
『迎えに行くのか?』
「分かりません」
『分かんねぇのに残るのか』
クオンは、俯いたままのティアナを見る。
「はい」
通信の向こうで、ノーヴェが息を吐いた。
『次に移動する時も連絡しろ』
「分かりました」
『勝手に切るなよ』
「もう切ってもいいですか?」
『いちいち確認すんな!』
「では、あとで連絡します」
回線を閉じる。
今度は、連絡できた。
クオンは林から出た。
◇
伸びた身体で歩いても、足音はほとんどしない。
それでも、ティアナは近づく気配に顔を上げた。
「誰?」
「クオンです」
「どこの隊?」
「所属はありません」
ティアナは目元を乱暴に拭った。
少年の顔を見ようとしても、視線が肩や背後の壁へ滑ってしまう。
年齢は自分より少し下に見える。
それ以上の輪郭が残らない。
「だったら、ここは関係者以外立ち入り禁止よ」
「分かりました」
クオンは素直に後ろへ下がった。
ホテルの角を曲がり、ティアナから姿が見えなくなる位置まで離れる。
けれど、林へは戻らなかった。
壁の反対側へ座る。
風が木々を揺らす。
遠くで、撤収を始めた隊員たちの声が聞こえた。
五分。
十分。
ティアナの足音はしない。
「……まだいるの?」
壁の向こうから声がした。
「はい」
「一人にして」
「離れています」
「そういう意味じゃない」
「意味が分かりません」
苛立ったような息が聞こえた。
「帰りなさいよ」
「あなたが戻ってから帰ります」
「なんで」
「一人で残っていたので」
「だから何よ」
クオンは答えを探した。
正しい言葉は見つからない。
「分かりません」
「本当に何しに来たのよ、あんた」
「隣にいます」
「それ、隣って言わないでしょ」
「近づくと立ち入り禁止です」
返事はなかった。
怒らせたのかもしれない。
それでも、帰れとはもう言われなかった。
さらに時間が過ぎる。
日が傾き、二人分の影が壁の両側へ伸びた。
「……あたし、失敗したの」
先に沈黙を破ったのは、ティアナだった。
「見ていました」
「最悪」
「はい」
「そこは否定しなさいよ」
「何を否定すればいいか分かりません」
また、長い沈黙が落ちた。
「あたしね」
今度の声は、少しだけ近かった。
「ここで役に立たなきゃいけないの」
クオンは答えなかった。
言える答えを持っていない。
ただ、壁の向こうから続く声を待った。
数歩離れた隣で。