「あたしね」
壁の向こうから、ティアナの声がする。
「ここで役に立たなきゃいけないの」
クオンは答えなかった。
言える答えを持っていない。
ただ、続く言葉を待った。
「隊長たちも、副隊長たちも、みんなすごい力を持ってる。スバルには前で戦える身体がある。エリオとキャロにだって、あの子たちにしかできないことがある」
ティアナの指が、クロスミラージュを握る。
「あたしにあるのは、撃つことだけ」
声が少し震えた。
「だから、それくらいはちゃんとできるって証明したかった」
「誰にですか?」
クオンが初めて尋ねた。
「……分からない」
ティアナは膝を抱える。
「みんなに。部隊に。あたしを選んだ人に」
一度、息を吸う。
間には壁がある。
少年の顔も見えない。
明日、もう一度会うかどうかも分からない。
だから、仲間には言えなかった名前が口からこぼれた。
「死んだ兄さんを、役立たずって言った人たちに」
壁の反対側で、クオンの視線が上がった。
「兄さんは、航空隊の魔導師だった。執務官を目指してた。逃走犯を追った任務で死んで、犯人は別の部隊が捕まえた」
ティアナは、何度も思い出してきた言葉を口にする。
「死んでも犯人を止めるべきだった。任務を失敗した、役に立たない魔導師だったって」
十歳の少女には、反論できなかった。
兄は帰ってこなかった。
犯人も、兄が止めたわけではなかった。
結果だけを並べれば、何も言い返せなかった。
「兄さんが教えてくれた射撃魔法で、あたしが執務官になる。どんな任務でも成功できる魔導師になれば、兄さんが間違ってなかったって証明できると思った」
けれど、今日の弾丸は相棒へ向かった。
「なのに、また失敗した」
クオンは壁へ背を預けたまま、動かなかった。
「何か言いなさいよ」
「何を言えばいいか、分かりません」
「普通はあるでしょ。気にするなとか、次があるとか」
「気にしないのですか?」
「無理よ」
「では、言えません」
「次がないって思ってるの?」
「ボクには決められません」
慰めにも、励ましにもならない言葉だった。
ティアナは壁へ後頭部を預け、目を閉じる。
「本当に使えないわね、あんた」
「はい」
「そこも否定しないんだ」
「否定できることがありません」
ティアナの口から、短い息が漏れた。
笑ったのか、呆れただけなのか、壁越しでは分からない。
「でも、強くなりたい」
クオンは口を挟まない。
「もう二度と外したくない。誰も傷つけたくない。兄さんの魔法が役に立たないなんて、言わせたくない」
その三つが同じ願いなのか。
どこかで違うものへ変わっているのか。
クオンには分からなかった。
分からないまま、聞いた。
日が沈み始める。
撤収車両の音が、少しずつ遠ざかっていった。
「……そろそろ戻る」
長い沈黙のあと、ティアナが立ち上がる。
クオンも壁の反対側で立った。
「あんたは?」
「ボクも帰ります」
「そう」
ティアナが角から顔を出す。
そこに少年がいることは分かる。
自分より少し年下に見えることも、声が静かなことも覚えている。
けれど、顔だけがどうしても定まらない。
「そういえば、名前」
「先ほど言いました」
「聞いたはずなんだけど、思い出せないのよ」
「クオンです」
「クオン」
ティアナは確かめるように繰り返した。
「話したこと、誰にも言わないで」
「分かりました」
「……ありがと」
最後の言葉は、クオンへ届く前に消えてしまいそうなほど小さかった。
「これから戻ると連絡します」
「誰に?」
「待っている人です」
クオンが通信端末を取り出す。
ティアナは一度だけ振り返り、仲間たちのいる場所へ歩き出した。
◇
機動六課へ戻る輸送車の前で、スバルが待っていた。
ティアナの姿を見つけた瞬間、飛び上がるように身体を起こす。
「ティア!」
「まだ残ってたの?」
「待ってた。さっきは、その……」
スバルが言葉を探す。
ティアナは、自分が怒鳴った時の顔を思い出した。
「あたしの方こそ、ごめん」
「ううん。私も、指示を破るって決めたから」
「それでね、スバル」
ティアナはクロスミラージュを握る。
壁の向こうで口にした言葉が、まだ胸に残っている。
強くなりたい。
その願いが正しいとは、誰にも言われなかった。
間違っているとも言われなかった。
「頼みがあるの」
「うん」
「あたしと一緒に、特訓して」
スバルは一瞬だけ目を見開いた。
それから、迷わず頷く。
「分かった。二人でやろう」
◇
同じ頃。
研究施設の転送装置が、白い光を放った。
入口にはノーヴェが立っている。
約束した時間はない。
それでも、帰還連絡が入ってからずっと同じ場所にいた。
光の中から、人影が一歩踏み出す。
ノーヴェより少し背が高い。
朝までのクオンより手足が伸び、顔立ちにもわずかな成長がある。
ノーヴェの身体が、一瞬だけ強張った。
「ただいま、ノーヴェ」
声は知っている。
魔力の反応も、歩く時にほとんど音を立てない癖も。
「……おかえり」
返してから、ノーヴェはもう一度クオンを見上げた。
「でかくなってんじゃねぇか!」
その声を聞きつけ、近くの部屋からウェンディが顔を出す。
「何の騒ぎっスか?」
後ろから、ディエチも廊下へ出てきた。
二人の視線が、見慣れない少年へ向く。
「ただいま、ウェンディ、ディエチ」
「おかえりっス」
「おかえりなさい」
返事をしてから、ウェンディが首を傾げた。
「クオンっスよね?」
「はい」
「一日で育ちすぎっス」
「身体の器を広げました」
ウェンディがクオンの周囲を一周する。
顔へ視線を合わせようとすると、やはり輪郭は少し滑る。
それでも、誰なのかはもう迷わなかった。
「何のためだ」
ノーヴェが尋ねる。
「ノーヴェとの訓練です」
「は?」
「今まで、ボクへ拳が当たる直前に力を止めていました」
「止めてねぇ」
「腰と右肩が遅くなっていました」
「細けぇな!」
「この高さなら、止めない可能性があります」
「あたしのためだけに大きくなったんスか?」
ウェンディが面白そうに尋ねる。
「訓練に必要だったからです」
「同じだろ!」
ノーヴェの声が廊下へ響く。
奥の扉が開き、スカリエッティが姿を見せた。
「声だけでなく、姿まで変えたのかい?」
「声は変えていません」
「そうだったね」
スカリエッティは、十三歳ほどになったクオンを興味深そうに眺める。
「ホテルでは何を見た?」
「子供が失敗しました」
「それで?」
「一人で残りました」
「連れて帰ったのかい?」
「いいえ。自分で戻りました」
「君は何をした?」
「聞いていました」
「それだけかよ」
ノーヴェが言う。
「はい」
「何か教えたり、止めたりは?」
「していません。何が正しいか分かりませんでした」
ノーヴェはクオンの顔を見た。
「それで、そいつは帰ったんだな?」
「はい」
「なら、今日はそれでいいだろ」
ノーヴェが踵を返す。
「飯が残ってる。食うぞ」
「必要ありません」
「それも昨日聞いた」
返事を待たずに、クオンの袖を掴む。
十三歳の身体になっても、その手は離れなかった。
◇
翌朝。
ノーヴェは訓練区画の中央で拳を構えた。
向かいには、十三歳ほどのクオンが立っている。
伸びた身体の重心には、まだ完全に慣れていない。
「本当に、止めなくていいんだな?」
「はい」
「あとで痛いとか言うなよ」
「痛ければ言います」
「言うのかよ」
ノーヴェが床を蹴った。
一撃目は、クオンの腹部へ向かう。
拳が触れる寸前。
やはり、わずかに速度が落ちた。
クオンは腕で受け流し、ノーヴェの手首を取る。
「止めました」
「うるせぇ!」
掴まれた腕を軸に身体を回し、踵をクオンの側頭部へ振り抜く。
今度は止まらない。
クオンは空いた手で受けた。
衝撃が腕から肩へ抜ける。
新しい重心を捉えきれず、一歩、二歩と後ろへ滑った。
「今のは止めませんでした」
「上から言うな!」
三撃目。
四撃目。
ノーヴェの拳と蹴りが、少しずつ本来の速度へ戻っていく。
クオンは受け、避け、ときどき床へ転がされた。
身体が大きくなっても、技まで勝手に馴染むわけではない。
最後の拳が、クオンの防御を正面から押し切った。
背中から床へ落ちる。
「どうだ!」
ノーヴェが得意そうに笑う。
「痛いです」
「効いてんじゃねぇか!」
「はい。止めなかったので」
クオンが起き上がる。
ノーヴェはもう一度構えようとして、右手を握り直した。
拳の表面が赤くなっている。
「今日は終わりです」
「まだ始めたばっかりだろ」
「右手を見せてください」
「何ともねぇ」
ノーヴェが反射的に拳を背中へ隠す。
訓練区画の扉が開いた。
入口に、二人の少女が立っている。
一人は救急箱を抱え、もう一人は飲み物とタオルを持っていた。
「使いますか?」
救急箱を持った少女が尋ねる。
クオンは受け取る前に、二人を見る。
「名前を教えてください」
「オットーです」
「ディードです」
「覚えました。ありがとうございます、オットー、ディード」
名前を呼ばれた二人が、わずかに目を合わせる。
ディードが、持っていた飲み物とタオルを差し出した。
「こちらは休憩用です」
「休憩じゃねぇ。少し止めるだけだ」
「それを休憩と呼びます」
オットーが静かに訂正した。
ノーヴェが言い返そうとしたところで、クオンが右手を差し出す。
「明日も訓練しますか?」
「当たり前だ」
「では、今日は手を冷やしてください」
明日も続ける。
その言葉に、ノーヴェは渋々、隠していた拳を差し出した。
クオンは冷却材を薄い布で包み、赤くなった手へ当てる。
「冷てぇ」
「冷やすものです」
「分かってる!」
怒鳴りながらも、ノーヴェは手を引かなかった。
オットーとディードも、その場を離れない。
ウェンディとディエチが、休憩用の椅子を運んでくる。
訓練は止まった。
誰も、先には帰らなかった。
◇
機動六課では、ホテル・アグスタ任務の報告が続いていた。
ティアナは、なのはとフェイトの前へ立っている。
「任務終了後、ホテル裏手で所属不明の少年と接触しました」
ティアナは自分から報告した。
あの少年に敵意はなかった。
それでも、警備区域へ侵入した者を隠すわけにはいかない。
「年齢は?」
フェイトが尋ねる。
「十三歳前後だと思います。あたしより少し年下に見えました」
「服装と髪の色は?」
「それが……」
ティアナは言葉に詰まる。
「見たはずなのに、思い出せません。顔もです」
なのはとフェイトの視線が合った。
「キャロが訓練場で会った子と、同じ症状だね」
なのはが言う。
「でも、キャロは自分たちと同じくらいの年齢だと話していました」
「数日で、九歳か十歳から十三歳に?」
フェイトは端末へ二つの報告を並べた。
監視映像には、どちらも何も残っていない。
接触した二人は、会話だけを覚えている。
「名前は聞いた?」
「二度、聞きました」
ティアナは眉間へ指を当てる。
「その場では覚えていたんです。でも今は、音さえ思い出せません」
「何をしてきたの?」
「何も」
「何も?」
「関係者以外立ち入り禁止だと言ったら、見えないところまで下がりました。ただ……」
ティアナは少しだけ視線を逸らす。
「あたしが戻るまで、壁の向こうにいました」
「どうして?」
「一人で残っていたから、と」
フェイトの指が止まった。
胸の奥へ、古い痛みが触れた。
誰かが、一人でいる子供を見つけた。
何も解決できないまま、それでも帰るまで残った。
その在り方を、確かに知っている気がした。
けれど、思い出そうとした途端に輪郭が滑る。
「フェイトちゃん?」
なのはの声に、フェイトは顔を上げた。
「ごめん。少し、考えてた」
「危害を加えられたり、何かを渡されたりは?」
「ありません。話を聞かれただけです」
「どんな話?」
ティアナの肩が、わずかに強張る。
「任務で失敗したことを、少し」
兄のことまでは言わなかった。
なのははそれ以上、問い詰めなかった。
「報告してくれてありがとう。もしまた会ったら、すぐに知らせて」
「はい」
ティアナが部屋を出る。
扉が閉じても、フェイトは二つの報告を見比べていた。
「同じ子だと思う?」
なのはが尋ねる。
「分からない。年齢が違いすぎる」
「でも、顔も名前も残らない」
「うん」
フェイトは、ティアナの証言を記録へ残した。
所属不明。
十三歳前後。
敵意なし。
顔貌、氏名ともに記憶保持不能。
任務後、一人で残った局員が帰るまで現場に滞在。
分からないことばかりの報告だった。
それでも、消去はしなかった。
◇
その日の訓練は、いつもどおり基礎から始まった。
射撃精度。
移動しながらの照準。
仲間の位置を確認してから撃つ判断。
なのはは、一つずつ丁寧に繰り返させる。
「ティアナ。撃つ前に、もう一度スバルの位置を確認して」
「はい」
「急がなくていいよ。正確に」
「はい」
返事は素直だった。
指示にも従っている。
けれどティアナには、それが足踏みに思えた。
失敗した自分に必要なのは、今までと同じ基礎ではない。
短い時間で、誰にも追いつける力。
もう二度と外さず、誰も傷つけず、どんな敵でも撃ち抜ける力。
そんな方法があるはずだと信じたかった。
通常訓練が終わったあと。
ティアナとスバルは、人のいない区画へ残った。
「まず、近距離戦を教えて」
ティアナがクロスミラージュを短剣形態へ変える。
「私が教えるの?」
「前へ出る動きは、あんたの方が上でしょ」
「分かった。でも、無理はなしだよ」
「分かってる」
その返事に、スバルは少しだけ不安そうな顔をした。
それでも、ティアナを一人にはしなかった。
踏み込み。
身体の捻り。
防御を抜くための角度。
スバルが実演し、ティアナが繰り返す。
一度目は足が絡んだ。
二度目は短剣が届かない。
三度目で、訓練標的の表面へ傷をつけた。
「できた!」
「まだ浅いわ。もう一回」
「うん!」
日が落ちても、二人は止めなかった。
◇
秘密の訓練は、一日では終わらない。
早朝。
通常訓練のあと。
消灯前のわずかな時間。
二人は休息を削り、同じ動きを繰り返した。
スバルが前へ出て、相手の障壁を開かせる。
ティアナが死角へ入り、短剣で障壁の内側を狙う。
防御を捨てた、攻撃だけの連携。
成功すれば、格上にも一撃を届かせられる。
失敗すれば、二人とも無防備になる。
「ティア、今日はもう休まない?」
何度目かの早朝、スバルが言った。
ティアナは息を切らし、膝へ手をついている。
「もう一回だけ」
「昨日もそう言ってたよ」
「次で合わせられるから」
スバルは困ったように笑う。
「じゃあ、本当に次で最後ね」
「うん」
スバルはティアナを止められなかった。
けれど、一人で無茶をさせることもできなかった。
だから、隣に立った。
◇
ティアナの事情を、ヴィータが知ったのもその頃だった。
両親を早くに亡くし、兄のティーダが一人で育てたこと。
兄は首都航空隊の魔導師で、執務官を目指していたこと。
そして、ティアナが十歳の時、逃走犯を追う任務で命を落としたこと。
「だから、あいつは証明しようとしてんのか」
ヴィータが端末を閉じる。
兄から教わった射撃魔法は、役に立たないものではない。
兄が届かなかった執務官へ、自分がなる。
どんな任務でも完遂できる魔導師になれば、兄の生き方まで失敗ではなかったと証明できる。
「気持ちは分かるよ」
なのはは、訓練記録を見つめていた。
「だからこそ、急がせたくない」
「けど、本人には止まってるように見えてるぞ」
「うん」
なのはの端末には、四人それぞれに合わせた訓練計画が表示されている。
誰が、どの順番で、どこまで力を伸ばすのか。
今日を勝つためではなく、何年先も生きて戦えるように組まれた計画。
その意味は、まだティアナへ届いていなかった。
「次の模擬戦で、もう一度見てみる」
「甘やかすなよ」
「うん。でも、追い詰めもしない」
「難しいな、教導官」
「難しいよ」
なのはは苦く笑った。
◇
その夜。
なのはは自室の机で、四人の訓練映像を見直していた。
スバルの踏み込み。
ティアナの射線。
エリオの加速。
キャロの補助が届く範囲。
同じ場面を何度も再生し、端末へ次の訓練内容を書き加えていく。
「まだ起きてたの?」
飲み物を持ったフェイトが、開いた扉から顔を覗かせた。
「もう少しだけ。ティアナの動きが、ここ数日ちょっと変わってるから」
「ホテルでのことを気にしてる?」
「たぶん。それに、訓練のあとも疲れが抜けてないみたい」
なのはは映像を止めた。
画面の中で、ティアナは射撃姿勢のまま歯を食いしばっている。
「もっと早く強くなりたいんだと思う」
「気持ちは分かるけど」
「うん。急いで覚えた力は、急いで使わなきゃいけない時に自分を傷つけるから」
なのは自身が、よく知っていることだった。
「明日、模擬戦なんだよね」
「うん。言葉だけじゃ、伝わらないこともあるから」
フェイトが机へカップを置く。
その横には、ホテル・アグスタの警備報告が開いたまま残っていた。
所属不明の十三歳前後の少年。
顔も、名前も、映像も残らない。
けれど、ティアナの証言だけは文字になっている。
「この子のこと、まだ気になってる?」
なのはが尋ねた。
「うん」
フェイトは報告書の一文を見る。
一人で残っていたため、局員が帰るまで現場に滞在。
理由の分からない痛みが、また胸の奥へ触れた。
「敵じゃないと思う」
「私も、そう思う」
「でも、誰なのか分からない」
「分からないままでも、記録は残るよ」
なのはが言った。
フェイトは報告書を閉じなかった。
誰の顔も、名前も残せなかった一日の中で。
帰るまで隣にいたという事実だけが、そこに残った。