魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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第二十二話 伝えること

 朝の演習場には、夜の冷たさがまだ薄く残っていた。

 

 白い息をひとつ吐き、ティアナはクロスミラージュを握り直す。

 

 隣では、ローラーブーツを起動したスバルが、前を見たまま小さく拳を打ち合わせていた。

 

「昨日の通りでいくよ」

 

「うん」

 

 短い確認。

 

 それだけで通じるくらい、二人は同じ手順を何度も繰り返してきた。

 

 夜の自主練習。人のいない訓練区画。消灯後の廊下を抜け、翌日に疲れを残しても、それでも足りないと思って続けた時間。

 

 今日こそ見せる。

 

 自分たちは、もっとできるのだと。

 

 正面で、なのはがレイジングハートを構えた。

 

「二人とも、準備はいい?」

 

「はい!」

 

「いつでも!」

 

 返事だけなら、いつも通りだった。

 

 けれどなのはは、二人の呼吸がわずかに浅いことに気づいていた。

 

 スバルは左脚に力をかけるたび、ほんの少しだけ重心がぶれる。ティアナは照準を合わせる直前、まばたきが増えている。

 

 疲れている。

 

 それも、一晩眠れば消える種類ではない。

 

『模擬戦、開始します』

 

 シャーリーの合図と同時に、スバルが飛び出した。

 

 正面からの突進。

 

 なのはが桃色の誘導弾を展開する。

 

「アクセルシューター」

 

 放たれた光弾へ、ティアナの射撃が重なる。橙色の弾丸が二発を撃ち落とし、残る軌道をスバルが身を沈めて抜けた。

 

「おおおっ!」

 

 リボルバーナックルが唸る。

 

 なのはは障壁で受けた。衝撃が空気を震わせる。

 

 そこへティアナの影が三つ、左右と上空から迫る。

 

 幻術。

 

 なのはの視線が一瞬だけ散った。

 

 スバルが障壁を押し込み、本物のティアナはその背後、死角から一気に距離を詰める。

 

 クロスミラージュは銃ではなく、短剣形態。

 

 狙うのは、障壁の内側。

 

 近距離での一撃だった。

 

 昨夜までなら、二人はここで成功を疑わなかった。

 

 だが、なのはの目には見えていた。

 

 スバルの踏み込みが深すぎる。

 

 ティアナは攻撃後に身を守る障壁を残していない。

 

 幻術に魔力を回し、射撃で誘導弾を落とし、さらに短剣へ切り替えた。全てを最初の一撃へ注ぎ込んだ組み立てだ。

 

 外した後が、ない。

 

「レイジングハート」

 

『Protection』

 

 障壁が弾けるように広がった。

 

 スバルの腕が外へ流される。同時に桃色の拘束輪が足首を捉え、その突進を止めた。

 

 ティアナの刃は、なのはの胸元まであと数センチ。

 

 そこで、動かなくなった。

 

 なのはの左手がクロスミラージュを押さえ、レイジングハートの穂先がティアナへ向いている。

 

「二人とも、止まって」

 

 低い声だった。

 

 怒鳴ってはいない。

 

 けれど、模擬戦の最中には聞いたことのない硬さがあった。

 

「この組み立ては、ここで終わり。今の二人には使わせられない」

 

 ティアナの胸の奥で、何かがひび割れた。

 

 見せたかった。

 

 認めてほしかった。

 

 無理だと思われたくなかった。

 

「まだ……終わってません!」

 

「ティア!」

 

 スバルの声より早く、ティアナは引き金を引いた。

 

 至近距離から放たれた橙色の魔力弾を、なのはは半歩だけ身をずらして避けた。

 

 次弾を装填しようとする手に、疲労で力が入らない。

 

 それでも、ティアナは前へ出ようとした。

 

 なのはの瞳が揺れる。

 

「――だから、止まって」

 

 桃色の光が、二度閃いた。

 

 一発目はティアナの射撃魔法を相殺し、二発目はその胸元へ。

 

 命中の直前に出力を落とした訓練弾だった。衝撃は姿勢を崩すためだけに調整され、背後には落下を受け止める魔力膜が先回りして展開されていた。

 

 ティアナの体が、そこへ沈む。

 

「ティアナ!」

 

 拘束を振り切ろうとしたスバルにも、足元から拘束魔法が重なった。

 

「離して! まだあたしは――」

 

「模擬戦は終了」

 

 なのははそう告げた。

 

 レイジングハートを下ろす手が、わずかに震えていた。

 

「二人とも、医務室へ。今すぐ」

 

 意識が遠のく直前、ティアナが最後に見たのは、勝ち誇る教官の顔ではなかった。

 

 ひどく痛そうに唇を噛む、なのはの顔だった。

 

     ◇

 

 目を開けると、白い天井があった。

 

「……最悪」

 

 声にすると、情けなさまで一緒にこぼれた。

 

 体を起こそうとして、全身の重さに顔をしかめる。

 

「急に起きない」

 

 ベッド脇にいたシャマルが、ティアナの肩をそっと押さえた。

 

「模擬弾のダメージはほとんどないわ。今つらいのは、蓄積した疲労のせい。魔力も筋力も、ずっと回復しきらないまま使っていたでしょう」

 

 否定できなかった。

 

「スバルは?」

 

「隣。あなたより先に目を覚まして、同じことを聞いたわ」

 

 仕切りの向こうから、小さくベッドがきしむ音がした。

 

「ティア……ごめん」

 

「なんでスバルが謝るのよ」

 

「だって、あたしがもっとちゃんと踏ん張れてたら」

 

「違う。あたしの作戦よ」

 

 言葉を切った途端、胸が苦しくなった。

 

 作戦。

 

 なのはは、それを使わせられないと言った。

 

 頑張った時間ごと、否定されたように聞こえた。

 

「なのはさんは?」

 

 シャマルの表情が少し曇った。

 

「訓練場の記録を確認しているわ。二人が起きたら話をしたいって」

 

「……叱るためですか」

 

「違うと思う」

 

「でも、あたしたちは命令を無視しました」

 

「それも話すでしょうね。でも、それだけじゃないわ」

 

 ティアナは顔を背けた。

 

 優しい言葉ほど、今は信じるのが怖かった。

 

 しばらくして、医務室へエリオとキャロが来た。二人とも何かを言いたそうにしながら、最初はただ椅子に座っていた。

 

 やがてエリオが膝の上で拳を握る。

 

「ティアナさん。あの攻撃、すごかったです」

 

「慰めならいらないわ」

 

「慰めじゃありません。でも……怖かったです」

 

 ティアナが振り向く。

 

「ティアナさんたちが、攻撃した後にどう戻るのか分からなかったから」

 

 子どもの率直さが、胸へ刺さった。

 

 キャロも、ためらいながら頷いた。

 

「なのはさんも、同じところを見ていたと思います」

 

「分かったようなこと言わないで」

 

 強く返してから、ティアナはすぐに後悔した。

 

 キャロは肩をすくめたが、目を逸らさなかった。

 

「分かりません。だから、ちゃんと聞きたいです」

 

 ホテルの床で、見知らぬ少年が言った言葉を思い出す。

 

 ――分からないことを、分かったことにしないためです。

 

 名前も顔も、もううまく思い出せない。

 

 ただ、あの静かな声だけが胸に残っていた。

 

「……そうね」

 

 ティアナは毛布の上で拳をほどいた。

 

「聞かないと、分からないわよね」

 

     ◇

 

 午後。

 

 医務室を出た四人は、なのはを探して隊舎の廊下を歩いていた。

 

 先頭を進んでいたスバルが、曲がり角で急に足を止める。

 

 向こうからシャーリーとヴィータが歩いてきたからだった。

 

「お、起きたか」

 

「はい。あの、なのはさんは……」

 

「訓練場だ。お前らと話す前に、確認してえことがあるってよ」

 

 ヴィータは四人の顔を順に見た。

 

「その前に、あたしらから話しとくことがある」

 

 案内されたのは、小さなミーティングルームだった。

 

 シャーリーが端末を操作すると、壁面モニターに古い記録映像が映る。

 

 そこにいたなのはは、今よりずっと幼かった。

 

 それでも、空を飛び、強い魔法を放ち、迷いなく前へ進んでいる。

 

「なのはさんが、まだ小学生だった頃の映像です」

 

 シャーリーの声は静かだった。

 

「この頃のなのはさんは、怪我をしても疲れても、周りに心配をかけないように隠していました。自分はまだ大丈夫だって、ずっとそう思っていたんです」

 

 映像が切り替わる。

 

 医療記録。損傷箇所を示す図。長いリハビリテーションの経過。

 

 スバルが息を呑んだ。

 

「蓄積した無理が、任務中に一気に出ました。なのはさんは空で倒れて、歩くところからやり直すことになった」

 

「そんな……」

 

「だからあいつは、強くなるなとは言わねえ」

 

 ヴィータが腕を組んだ。

 

「むしろ、誰より強くなれって思ってる。けどな、帰ってこられねえ強さは認めねえんだ。自分がそれで、周りを泣かせたから」

 

 ティアナは画面から目を離せなかった。

 

 攻撃のあとがない。

 

 エリオが言ったこと。

 

 なのはの震えていた手。

 

 別々だったものが、少しずつつながっていく。

 

「だったら……最初から、そう言ってくれれば」

 

 声が掠れた。

 

 ヴィータは否定しなかった。

 

「ああ。そこはあいつの失敗だ」

 

 ティアナが顔を上げる。

 

「教える側が、分かってるつもりで言葉を省いちまった。お前が何を怖がって、何を急いでたのかも、拾いきれなかった」

 

「なのはさんが……失敗?」

 

「するに決まってんだろ。無敵の教官じゃねえ。十九の小娘だぞ」

 

「ヴィータ副隊長、それ本人の前では言わないでくださいね」

 

 シャーリーが困ったように笑う。

 

「大切なのは、どちらか一方だけが悪かったことにしないで、これからどうするかを話すことです」

 

 ティアナは俯いた。

 

 自分が間違えたことは、消えない。

 

 命令を破った。仲間まで巻き込んだ。焦りに任せて、止まれという声すら拒んだ。

 

 けれど、話してもいいのだろうか。

 

 失敗した側からでも。

 

「……行こう、ティア」

 

 スバルが手を差し出した。

 

 ティアナはその手を見て、今度は一人で決めなかった。

 

「うん」

 

 しっかり握って、立ち上がった。

 

     ◇

 

 訓練場では、なのはが一人で朝の模擬戦を再生していた。

 

 立体映像の中で、ティアナとスバルが何度も突進する。

 

 視線。足運び。射線。魔力配分。

 

 どこで兆候を見落としたのか。

 

 何を言えば、止まる前に届いたのか。

 

「なのは」

 

 フェイトの声に、なのはは映像を止めた。

 

「二人とも起きたって」

 

「そっか」

 

「顔、怖いよ」

 

「怒ってないんだけどな」

 

「知ってる。でも、自分に怒ってる顔も、見ている方には怖く見えるから」

 

 なのはは両頬を軽く叩いた。

 

「……ちゃんと伝えられるかな」

 

「全部きれいに言おうとしなくていいよ。なのはが間違えたと思ったところも、そのまま話せばいい」

 

 入口で足音が止まる。

 

 ティアナとスバル。その後ろに、エリオとキャロがいた。

 

「なのはさん」

 

 最初に頭を下げたのは、ティアナだった。

 

「すみませんでした。命令を無視しました。勝手な訓練で体調も崩して、スバルまで巻き込んで……模擬戦でも、止まれって言われたのに」

 

「あたしもです」

 

 スバルが隣で頭を下げる。

 

「ティアだけのせいじゃありません。あたしも、一緒に決めてやりました」

 

 なのはは二人の前まで歩いた。

 

「顔を上げて」

 

 二人が恐る恐る従う。

 

「私も、ごめんなさい」

 

「え……」

 

「二人の疲れにもっと早く気づくべきだった。どうして今の訓練をしているのか、先に何を考えているのかも、伝えられてなかった」

 

 なのはは空中に訓練計画を開いた。

 

 基礎射撃。移動射撃。幻術との複合。部隊運用。近接対応。単独任務想定。

 

 いくつもの段階が、先まで続いている。

 

「ティアナ。あなたの射撃精度と幻術は、部隊全体を見る位置で一番生きる。私はあなたを、前衛を支えて戦場を組み立てるセンターガードとして育てたいと思ってる」

 

「センター……ガード」

 

「うん。でも、それしかさせないって意味じゃないよ」

 

 なのはが計画の後半を示す。

 

「執務官を目指すなら、単独で動く力も、近距離で身を守る力も必要になる。ちゃんとそこまで考えてる。ただ、今すぐ全部を一度にやったら、得意なものまで崩してしまう」

 

 ティアナの目が揺れた。

 

「知ってたんですか。あたしが、執務官を……」

 

「面談記録も見たし、普段の勉強も見てるよ」

 

「だったら、どうして」

 

「言葉にしなくても、分かってもらえてると思ってた」

 

 なのはは苦く笑った。

 

「教官なのにね。それじゃ駄目だった」

 

 ティアナの喉が震える。

 

「あたしは……役に立たないって思われてるんだと思ってました」

 

「思ってない」

 

 なのはは即座に答えた。

 

「一度も」

 

「兄さんみたいに、届かないまま終わるのが怖くて。凡人だから、余計にやらなきゃって。止まったら、置いていかれる気がして」

 

「うん」

 

「でも、怖いって言うのも、弱いみたいで嫌で……」

 

「言ってくれて、ありがとう」

 

 なのはは、そこで初めてティアナの手を取った。

 

「私はあなたを置いていかない。けど、無理に走って倒れそうな時は止めるよ。止めた理由も、今度はちゃんと話す」

 

 ティアナの目から、涙が一粒落ちた。

 

「もう一度……教えてもらえますか」

 

「もちろん」

 

「近距離も、いつか」

 

「基礎を積んだら、徹底的にやろう」

 

「幻術との組み合わせも」

 

「それは次の段階から入れる。今日の作戦にも、いいところはたくさんあったから」

 

 全てを否定されたわけではなかった。

 

 間違えたところを止められただけだった。

 

 その違いが分かった瞬間、ティアナは泣きながら笑った。

 

「はい……!」

 

「スバルも」

 

「はいっ!」

 

「返事は元気だけど、二人とも今日は休養。自主練習も禁止」

 

「うっ」

 

「食事をして、お風呂に入って、ちゃんと寝る。これも訓練です」

 

「はい……」

 

 二人の声が揃って小さくなる。

 

 エリオとキャロが顔を見合わせ、ようやく笑った。

 

 少し離れて見守っていたフェイトが、四人へ歩み寄る。

 

「『ストライカー』っていうのはね、ただ強い人のことじゃないんだよ」

 

 全員の視線が集まる。

 

「困難な状況でも、仲間と一緒に道を切り開いて、全員で帰ってこられる人。私は、そういう人だと思ってる」

 

 なのはが頷いた。

 

「だから、急がなくていい。一歩ずつ、みんなで強くなろう」

 

 今度の返事は、四人分だった。

 

「はい!」

 

 高い天井へ、声がまっすぐ響いた。

 

     ◇

 

 その日の夕方。

 

 フェイトはホテル・アグスタ跡地近くの林道にいた。

 

 骨董品強奪事件の事後調査はほぼ終わっている。だが、報告書に残った一行だけが、どうしても気にかかっていた。

 

 十三歳ほどの少年。

 

 ティアナのそばに留まり、彼女が部隊へ戻るのを見届けたらしい人物。

 

 聞き取りをした局員たちは、少年と会話したことを覚えていた。しかし顔立ちも、髪や服の色も、名乗ったはずの名前さえ一致しない。

 

 監視映像には、初めから誰も映っていなかった。

 

「ここ、かな」

 

 林道脇の倒木。

 

 報告によれば、少年はこの辺りでティアナと話していた。

 

 フェイトが足を止めた時、風に混じって葉を踏む音がした。

 

 振り向く。

 

 少し離れた木立の間に、少年が立っていた。

 

 黒い髪。

 

 細い体。

 

 年齢は報告通り、十三歳くらいに見える。

 

 確かに見えているのに、目を離した瞬間には輪郭が記憶から抜け落ちそうになる。

 

「待って」

 

 少年が足を止めた。

 

 逃げる様子はない。

 

 ただ、静かにフェイトを見る。

 

「ホテルで、ティアナの話を聞いてくれたのは君?」

 

「はい」

 

 短い返事だった。

 

 その声を聞いた瞬間、フェイトの胸の奥が痛んだ。

 

 知っている。

 

 そう思った。

 

 けれど、いつ、どこで聞いたのかが出てこない。

 

「どうして、あの子のそばに?」

 

「一人で残っていましたから」

 

「それだけ?」

 

 少年は少し考えるように首を傾けた。

 

「一人でいる時は、誰かがいた方がいいと思いました」

 

 飾りのない言い方。

 

 正しいことを言っているつもりすらないような声音。

 

 フェイトは、自分の指先が冷たくなるのを感じた。

 

「名前を、聞いてもいい?」

 

 少年の唇が動く。

 

「クオンです」

 

 風が木々を揺らした。

 

 聞こえた。

 

 確かに聞こえたのに、音の形がすぐに崩れていく。

 

「ク……」

 

 フェイトは繰り返そうとした。

 

 続きが出ない。

 

 少年の目が、ほんの少しだけ伏せられた。

 

 それが残念そうに見えたのは、気のせいだったかもしれない。

 

「ティアナは、帰りましたか?」

 

「うん」

 

 フェイトは答えた。

 

「みんなのところに帰ったよ。なのはとも、ちゃんと話せた」

 

「そうですか」

 

 少年の肩から、わずかに力が抜けた。

 

 それを見て、フェイトは確信した。

 

 この子は、結果を確認するために来たのだ。

 

 自分が感謝されるためでも、何かを要求するためでもなく。

 

 ただ、帰れたかどうかを。

 

「ありがとう」

 

「僕は、話を聞いただけです」

 

「それでも。あの子が一人だった時間に、そばにいてくれた」

 

 少年は返事をしなかった。

 

 代わりに、ほんの少しだけ頭を下げた。

 

 そして、木立の奥へ向き直る。

 

「待って!」

 

 フェイトは思わず手を伸ばした。

 

 指先が、少年の袖を掴む。

 

 布の感触。

 

 その下にある腕の温度。

 

 幻ではない。

 

 少年は振り返った。

 

 互いの目が合う。

 

 フェイトの口から、問いがこぼれた。

 

「君は……誰なの?」

 

 名を聞きたいのではなかった。

 

 さっき聞いたはずの名は、もう音の半分も残っていない。

 

 それでも、その声も、その立ち方も、こちらを驚かせないように少しだけ距離を取る癖も、胸の奥にある古い場所を叩いていた。

 

 少年は答えを探すように、わずかに目を伏せた。

 

「すみません」

 

 やがて出てきたのは、その一言だけだった。

 

 拒絶ではない。

 

 答えを持っていない者の声だった。

 

 フェイトの手から、袖がゆっくり抜ける。

 

 少年は数歩進み、木立へ入る直前に一度だけ振り返った。

 

 右手を肩より高く上げず、指先だけを二度、小さく動かす。

 

 別れの合図。

 

 フェイトの呼吸が止まった。

 

 知っている。

 

 今度は、はっきりそう思った。

 

 記憶の中の小さな手が、同じように揺れた気がした。

 

「待って……!」

 

 一歩踏み出した時には、そこに誰もいなかった。

 

 探査魔法を広げても、反応はない。

 

 顔も、服装も、名乗った音も、もう曖昧になり始めている。

 

 けれど、指先にはまだ袖の感触が残っていた。

 

 耳には、静かな声が残っていた。

 

 目の奥には、あの別れ方が残っていた。

 

 フェイトはすぐに端末を開いた。

 

 消えてしまう前に、書き留める。

 

 接触を確認。

 

 対象は実在する。

 

 現時点で敵意なし。

 

 ホテル・アグスタにて、ティアナ・ランスターが部隊へ帰還するまで付き添った人物と同一と推定。

 

 そこまで入力して、指が止まる。

 

 少し迷ったあと、報告書には似つかわしくない一文を付け加えた。

 

 ――別れ際、右手の指を二度振った。

 

 理由は説明できない。

 

 証拠にもならない。

 

 それでも、書かずにはいられなかった。

 

「……なのは」

 

 端末を閉じ、フェイトは小さく呟いた。

 

「今度は、私がちゃんと話すから」

 

 誰に何を伝えるのか、自分でもまだ整理できていない。

 

 けれど、一人で抱えたままにはしない。

 

 今日、ティアナとなのはがそうしたように。

 

 分からないままでも、言葉にするところから始めようと思った。

 

 夕暮れの林を、風が静かに通り抜けていった。

 

 その向こうで、もう見えない少年が同じ風を受けていることを、フェイトはまだ知らなかった。

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