朝の演習場には、夜の冷たさがまだ薄く残っていた。
白い息をひとつ吐き、ティアナはクロスミラージュを握り直す。
隣では、ローラーブーツを起動したスバルが、前を見たまま小さく拳を打ち合わせていた。
「昨日の通りでいくよ」
「うん」
短い確認。
それだけで通じるくらい、二人は同じ手順を何度も繰り返してきた。
夜の自主練習。人のいない訓練区画。消灯後の廊下を抜け、翌日に疲れを残しても、それでも足りないと思って続けた時間。
今日こそ見せる。
自分たちは、もっとできるのだと。
正面で、なのはがレイジングハートを構えた。
「二人とも、準備はいい?」
「はい!」
「いつでも!」
返事だけなら、いつも通りだった。
けれどなのはは、二人の呼吸がわずかに浅いことに気づいていた。
スバルは左脚に力をかけるたび、ほんの少しだけ重心がぶれる。ティアナは照準を合わせる直前、まばたきが増えている。
疲れている。
それも、一晩眠れば消える種類ではない。
『模擬戦、開始します』
シャーリーの合図と同時に、スバルが飛び出した。
正面からの突進。
なのはが桃色の誘導弾を展開する。
「アクセルシューター」
放たれた光弾へ、ティアナの射撃が重なる。橙色の弾丸が二発を撃ち落とし、残る軌道をスバルが身を沈めて抜けた。
「おおおっ!」
リボルバーナックルが唸る。
なのはは障壁で受けた。衝撃が空気を震わせる。
そこへティアナの影が三つ、左右と上空から迫る。
幻術。
なのはの視線が一瞬だけ散った。
スバルが障壁を押し込み、本物のティアナはその背後、死角から一気に距離を詰める。
クロスミラージュは銃ではなく、短剣形態。
狙うのは、障壁の内側。
近距離での一撃だった。
昨夜までなら、二人はここで成功を疑わなかった。
だが、なのはの目には見えていた。
スバルの踏み込みが深すぎる。
ティアナは攻撃後に身を守る障壁を残していない。
幻術に魔力を回し、射撃で誘導弾を落とし、さらに短剣へ切り替えた。全てを最初の一撃へ注ぎ込んだ組み立てだ。
外した後が、ない。
「レイジングハート」
『Protection』
障壁が弾けるように広がった。
スバルの腕が外へ流される。同時に桃色の拘束輪が足首を捉え、その突進を止めた。
ティアナの刃は、なのはの胸元まであと数センチ。
そこで、動かなくなった。
なのはの左手がクロスミラージュを押さえ、レイジングハートの穂先がティアナへ向いている。
「二人とも、止まって」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
けれど、模擬戦の最中には聞いたことのない硬さがあった。
「この組み立ては、ここで終わり。今の二人には使わせられない」
ティアナの胸の奥で、何かがひび割れた。
見せたかった。
認めてほしかった。
無理だと思われたくなかった。
「まだ……終わってません!」
「ティア!」
スバルの声より早く、ティアナは引き金を引いた。
至近距離から放たれた橙色の魔力弾を、なのはは半歩だけ身をずらして避けた。
次弾を装填しようとする手に、疲労で力が入らない。
それでも、ティアナは前へ出ようとした。
なのはの瞳が揺れる。
「――だから、止まって」
桃色の光が、二度閃いた。
一発目はティアナの射撃魔法を相殺し、二発目はその胸元へ。
命中の直前に出力を落とした訓練弾だった。衝撃は姿勢を崩すためだけに調整され、背後には落下を受け止める魔力膜が先回りして展開されていた。
ティアナの体が、そこへ沈む。
「ティアナ!」
拘束を振り切ろうとしたスバルにも、足元から拘束魔法が重なった。
「離して! まだあたしは――」
「模擬戦は終了」
なのははそう告げた。
レイジングハートを下ろす手が、わずかに震えていた。
「二人とも、医務室へ。今すぐ」
意識が遠のく直前、ティアナが最後に見たのは、勝ち誇る教官の顔ではなかった。
ひどく痛そうに唇を噛む、なのはの顔だった。
◇
目を開けると、白い天井があった。
「……最悪」
声にすると、情けなさまで一緒にこぼれた。
体を起こそうとして、全身の重さに顔をしかめる。
「急に起きない」
ベッド脇にいたシャマルが、ティアナの肩をそっと押さえた。
「模擬弾のダメージはほとんどないわ。今つらいのは、蓄積した疲労のせい。魔力も筋力も、ずっと回復しきらないまま使っていたでしょう」
否定できなかった。
「スバルは?」
「隣。あなたより先に目を覚まして、同じことを聞いたわ」
仕切りの向こうから、小さくベッドがきしむ音がした。
「ティア……ごめん」
「なんでスバルが謝るのよ」
「だって、あたしがもっとちゃんと踏ん張れてたら」
「違う。あたしの作戦よ」
言葉を切った途端、胸が苦しくなった。
作戦。
なのはは、それを使わせられないと言った。
頑張った時間ごと、否定されたように聞こえた。
「なのはさんは?」
シャマルの表情が少し曇った。
「訓練場の記録を確認しているわ。二人が起きたら話をしたいって」
「……叱るためですか」
「違うと思う」
「でも、あたしたちは命令を無視しました」
「それも話すでしょうね。でも、それだけじゃないわ」
ティアナは顔を背けた。
優しい言葉ほど、今は信じるのが怖かった。
しばらくして、医務室へエリオとキャロが来た。二人とも何かを言いたそうにしながら、最初はただ椅子に座っていた。
やがてエリオが膝の上で拳を握る。
「ティアナさん。あの攻撃、すごかったです」
「慰めならいらないわ」
「慰めじゃありません。でも……怖かったです」
ティアナが振り向く。
「ティアナさんたちが、攻撃した後にどう戻るのか分からなかったから」
子どもの率直さが、胸へ刺さった。
キャロも、ためらいながら頷いた。
「なのはさんも、同じところを見ていたと思います」
「分かったようなこと言わないで」
強く返してから、ティアナはすぐに後悔した。
キャロは肩をすくめたが、目を逸らさなかった。
「分かりません。だから、ちゃんと聞きたいです」
ホテルの床で、見知らぬ少年が言った言葉を思い出す。
――分からないことを、分かったことにしないためです。
名前も顔も、もううまく思い出せない。
ただ、あの静かな声だけが胸に残っていた。
「……そうね」
ティアナは毛布の上で拳をほどいた。
「聞かないと、分からないわよね」
◇
午後。
医務室を出た四人は、なのはを探して隊舎の廊下を歩いていた。
先頭を進んでいたスバルが、曲がり角で急に足を止める。
向こうからシャーリーとヴィータが歩いてきたからだった。
「お、起きたか」
「はい。あの、なのはさんは……」
「訓練場だ。お前らと話す前に、確認してえことがあるってよ」
ヴィータは四人の顔を順に見た。
「その前に、あたしらから話しとくことがある」
案内されたのは、小さなミーティングルームだった。
シャーリーが端末を操作すると、壁面モニターに古い記録映像が映る。
そこにいたなのはは、今よりずっと幼かった。
それでも、空を飛び、強い魔法を放ち、迷いなく前へ進んでいる。
「なのはさんが、まだ小学生だった頃の映像です」
シャーリーの声は静かだった。
「この頃のなのはさんは、怪我をしても疲れても、周りに心配をかけないように隠していました。自分はまだ大丈夫だって、ずっとそう思っていたんです」
映像が切り替わる。
医療記録。損傷箇所を示す図。長いリハビリテーションの経過。
スバルが息を呑んだ。
「蓄積した無理が、任務中に一気に出ました。なのはさんは空で倒れて、歩くところからやり直すことになった」
「そんな……」
「だからあいつは、強くなるなとは言わねえ」
ヴィータが腕を組んだ。
「むしろ、誰より強くなれって思ってる。けどな、帰ってこられねえ強さは認めねえんだ。自分がそれで、周りを泣かせたから」
ティアナは画面から目を離せなかった。
攻撃のあとがない。
エリオが言ったこと。
なのはの震えていた手。
別々だったものが、少しずつつながっていく。
「だったら……最初から、そう言ってくれれば」
声が掠れた。
ヴィータは否定しなかった。
「ああ。そこはあいつの失敗だ」
ティアナが顔を上げる。
「教える側が、分かってるつもりで言葉を省いちまった。お前が何を怖がって、何を急いでたのかも、拾いきれなかった」
「なのはさんが……失敗?」
「するに決まってんだろ。無敵の教官じゃねえ。十九の小娘だぞ」
「ヴィータ副隊長、それ本人の前では言わないでくださいね」
シャーリーが困ったように笑う。
「大切なのは、どちらか一方だけが悪かったことにしないで、これからどうするかを話すことです」
ティアナは俯いた。
自分が間違えたことは、消えない。
命令を破った。仲間まで巻き込んだ。焦りに任せて、止まれという声すら拒んだ。
けれど、話してもいいのだろうか。
失敗した側からでも。
「……行こう、ティア」
スバルが手を差し出した。
ティアナはその手を見て、今度は一人で決めなかった。
「うん」
しっかり握って、立ち上がった。
◇
訓練場では、なのはが一人で朝の模擬戦を再生していた。
立体映像の中で、ティアナとスバルが何度も突進する。
視線。足運び。射線。魔力配分。
どこで兆候を見落としたのか。
何を言えば、止まる前に届いたのか。
「なのは」
フェイトの声に、なのはは映像を止めた。
「二人とも起きたって」
「そっか」
「顔、怖いよ」
「怒ってないんだけどな」
「知ってる。でも、自分に怒ってる顔も、見ている方には怖く見えるから」
なのはは両頬を軽く叩いた。
「……ちゃんと伝えられるかな」
「全部きれいに言おうとしなくていいよ。なのはが間違えたと思ったところも、そのまま話せばいい」
入口で足音が止まる。
ティアナとスバル。その後ろに、エリオとキャロがいた。
「なのはさん」
最初に頭を下げたのは、ティアナだった。
「すみませんでした。命令を無視しました。勝手な訓練で体調も崩して、スバルまで巻き込んで……模擬戦でも、止まれって言われたのに」
「あたしもです」
スバルが隣で頭を下げる。
「ティアだけのせいじゃありません。あたしも、一緒に決めてやりました」
なのはは二人の前まで歩いた。
「顔を上げて」
二人が恐る恐る従う。
「私も、ごめんなさい」
「え……」
「二人の疲れにもっと早く気づくべきだった。どうして今の訓練をしているのか、先に何を考えているのかも、伝えられてなかった」
なのはは空中に訓練計画を開いた。
基礎射撃。移動射撃。幻術との複合。部隊運用。近接対応。単独任務想定。
いくつもの段階が、先まで続いている。
「ティアナ。あなたの射撃精度と幻術は、部隊全体を見る位置で一番生きる。私はあなたを、前衛を支えて戦場を組み立てるセンターガードとして育てたいと思ってる」
「センター……ガード」
「うん。でも、それしかさせないって意味じゃないよ」
なのはが計画の後半を示す。
「執務官を目指すなら、単独で動く力も、近距離で身を守る力も必要になる。ちゃんとそこまで考えてる。ただ、今すぐ全部を一度にやったら、得意なものまで崩してしまう」
ティアナの目が揺れた。
「知ってたんですか。あたしが、執務官を……」
「面談記録も見たし、普段の勉強も見てるよ」
「だったら、どうして」
「言葉にしなくても、分かってもらえてると思ってた」
なのはは苦く笑った。
「教官なのにね。それじゃ駄目だった」
ティアナの喉が震える。
「あたしは……役に立たないって思われてるんだと思ってました」
「思ってない」
なのはは即座に答えた。
「一度も」
「兄さんみたいに、届かないまま終わるのが怖くて。凡人だから、余計にやらなきゃって。止まったら、置いていかれる気がして」
「うん」
「でも、怖いって言うのも、弱いみたいで嫌で……」
「言ってくれて、ありがとう」
なのはは、そこで初めてティアナの手を取った。
「私はあなたを置いていかない。けど、無理に走って倒れそうな時は止めるよ。止めた理由も、今度はちゃんと話す」
ティアナの目から、涙が一粒落ちた。
「もう一度……教えてもらえますか」
「もちろん」
「近距離も、いつか」
「基礎を積んだら、徹底的にやろう」
「幻術との組み合わせも」
「それは次の段階から入れる。今日の作戦にも、いいところはたくさんあったから」
全てを否定されたわけではなかった。
間違えたところを止められただけだった。
その違いが分かった瞬間、ティアナは泣きながら笑った。
「はい……!」
「スバルも」
「はいっ!」
「返事は元気だけど、二人とも今日は休養。自主練習も禁止」
「うっ」
「食事をして、お風呂に入って、ちゃんと寝る。これも訓練です」
「はい……」
二人の声が揃って小さくなる。
エリオとキャロが顔を見合わせ、ようやく笑った。
少し離れて見守っていたフェイトが、四人へ歩み寄る。
「『ストライカー』っていうのはね、ただ強い人のことじゃないんだよ」
全員の視線が集まる。
「困難な状況でも、仲間と一緒に道を切り開いて、全員で帰ってこられる人。私は、そういう人だと思ってる」
なのはが頷いた。
「だから、急がなくていい。一歩ずつ、みんなで強くなろう」
今度の返事は、四人分だった。
「はい!」
高い天井へ、声がまっすぐ響いた。
◇
その日の夕方。
フェイトはホテル・アグスタ跡地近くの林道にいた。
骨董品強奪事件の事後調査はほぼ終わっている。だが、報告書に残った一行だけが、どうしても気にかかっていた。
十三歳ほどの少年。
ティアナのそばに留まり、彼女が部隊へ戻るのを見届けたらしい人物。
聞き取りをした局員たちは、少年と会話したことを覚えていた。しかし顔立ちも、髪や服の色も、名乗ったはずの名前さえ一致しない。
監視映像には、初めから誰も映っていなかった。
「ここ、かな」
林道脇の倒木。
報告によれば、少年はこの辺りでティアナと話していた。
フェイトが足を止めた時、風に混じって葉を踏む音がした。
振り向く。
少し離れた木立の間に、少年が立っていた。
黒い髪。
細い体。
年齢は報告通り、十三歳くらいに見える。
確かに見えているのに、目を離した瞬間には輪郭が記憶から抜け落ちそうになる。
「待って」
少年が足を止めた。
逃げる様子はない。
ただ、静かにフェイトを見る。
「ホテルで、ティアナの話を聞いてくれたのは君?」
「はい」
短い返事だった。
その声を聞いた瞬間、フェイトの胸の奥が痛んだ。
知っている。
そう思った。
けれど、いつ、どこで聞いたのかが出てこない。
「どうして、あの子のそばに?」
「一人で残っていましたから」
「それだけ?」
少年は少し考えるように首を傾けた。
「一人でいる時は、誰かがいた方がいいと思いました」
飾りのない言い方。
正しいことを言っているつもりすらないような声音。
フェイトは、自分の指先が冷たくなるのを感じた。
「名前を、聞いてもいい?」
少年の唇が動く。
「クオンです」
風が木々を揺らした。
聞こえた。
確かに聞こえたのに、音の形がすぐに崩れていく。
「ク……」
フェイトは繰り返そうとした。
続きが出ない。
少年の目が、ほんの少しだけ伏せられた。
それが残念そうに見えたのは、気のせいだったかもしれない。
「ティアナは、帰りましたか?」
「うん」
フェイトは答えた。
「みんなのところに帰ったよ。なのはとも、ちゃんと話せた」
「そうですか」
少年の肩から、わずかに力が抜けた。
それを見て、フェイトは確信した。
この子は、結果を確認するために来たのだ。
自分が感謝されるためでも、何かを要求するためでもなく。
ただ、帰れたかどうかを。
「ありがとう」
「僕は、話を聞いただけです」
「それでも。あの子が一人だった時間に、そばにいてくれた」
少年は返事をしなかった。
代わりに、ほんの少しだけ頭を下げた。
そして、木立の奥へ向き直る。
「待って!」
フェイトは思わず手を伸ばした。
指先が、少年の袖を掴む。
布の感触。
その下にある腕の温度。
幻ではない。
少年は振り返った。
互いの目が合う。
フェイトの口から、問いがこぼれた。
「君は……誰なの?」
名を聞きたいのではなかった。
さっき聞いたはずの名は、もう音の半分も残っていない。
それでも、その声も、その立ち方も、こちらを驚かせないように少しだけ距離を取る癖も、胸の奥にある古い場所を叩いていた。
少年は答えを探すように、わずかに目を伏せた。
「すみません」
やがて出てきたのは、その一言だけだった。
拒絶ではない。
答えを持っていない者の声だった。
フェイトの手から、袖がゆっくり抜ける。
少年は数歩進み、木立へ入る直前に一度だけ振り返った。
右手を肩より高く上げず、指先だけを二度、小さく動かす。
別れの合図。
フェイトの呼吸が止まった。
知っている。
今度は、はっきりそう思った。
記憶の中の小さな手が、同じように揺れた気がした。
「待って……!」
一歩踏み出した時には、そこに誰もいなかった。
探査魔法を広げても、反応はない。
顔も、服装も、名乗った音も、もう曖昧になり始めている。
けれど、指先にはまだ袖の感触が残っていた。
耳には、静かな声が残っていた。
目の奥には、あの別れ方が残っていた。
フェイトはすぐに端末を開いた。
消えてしまう前に、書き留める。
接触を確認。
対象は実在する。
現時点で敵意なし。
ホテル・アグスタにて、ティアナ・ランスターが部隊へ帰還するまで付き添った人物と同一と推定。
そこまで入力して、指が止まる。
少し迷ったあと、報告書には似つかわしくない一文を付け加えた。
――別れ際、右手の指を二度振った。
理由は説明できない。
証拠にもならない。
それでも、書かずにはいられなかった。
「……なのは」
端末を閉じ、フェイトは小さく呟いた。
「今度は、私がちゃんと話すから」
誰に何を伝えるのか、自分でもまだ整理できていない。
けれど、一人で抱えたままにはしない。
今日、ティアナとなのはがそうしたように。
分からないままでも、言葉にするところから始めようと思った。
夕暮れの林を、風が静かに通り抜けていった。
その向こうで、もう見えない少年が同じ風を受けていることを、フェイトはまだ知らなかった。