魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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第二十三話 食べてから行く

 研究施設へ戻った時には、日付が変わりかけていた。

 

 転送区画の黒い光が消える。

 

 クオンは誰もいないはずの廊下へ一歩踏み出し、そこで足を止めた。

 

 壁際の長椅子に、ノーヴェが座っていた。

 

 腕を組み、目を閉じている。

 

 眠っているのかと思ったが、クオンが近づく前に片目が開いた。

 

「遅ぇ」

 

「待っていたのですか?」

 

「違う。たまたまここで寝てただけだ」

 

「自分の部屋ではなく?」

 

「細けぇな!」

 

 怒鳴ってから、ノーヴェは視線を逸らした。

 

 クオンは少し考える。

 

 出ていく時に言う言葉は覚えた。

 

 戻った時の言葉も、教えられている。

 

「ただいま」

 

 ノーヴェの眉が、わずかに動いた。

 

「……おう。おかえり」

 

 短い返事だった。

 

 それを聞いてから、クオンは再び歩き出す。

 

「待て」

 

 今度はノーヴェに止められた。

 

「その袖、どうした」

 

 右腕の布に、強く掴まれた跡が残っている。

 

「掴まれました」

 

「見りゃ分かる。誰にだよ」

 

「金色の髪の人です」

 

 ノーヴェの表情が変わった。

 

「管理局か?」

 

「はい。執務官だと思います」

 

「戦ったのか」

 

「いいえ」

 

「追われた?」

 

「待つように言われました」

 

「それで、素直に待ったのかよ」

 

「話したいように見えたので」

 

 ノーヴェは立ち上がり、クオンの正面へ回った。

 

「何を聞かれた」

 

「誰なのか、と」

 

「名前は答えたんだろ」

 

「答えました。でも、そういう意味ではなかったようです」

 

 袖に残る皺へ、クオンの指が触れる。

 

 あの人は、顔を忘れかけながらも手を離さなかった。

 

 最後まで何かを探すように、自分を見ていた。

 

「それで、お前は何て言った」

 

「分かりません、と」

 

 正確には、謝っただけだった。

 

 けれど意味は同じだった。

 

 クオンは久遠ではない。

 

 ただの呪いとも、もう言い切れない。

 

 では何なのかと尋ねられれば、答えはどこにもなかった。

 

「馬鹿だな」

 

 ノーヴェが言った。

 

「分かんねぇなら、今は分かんねぇままでいいだろ」

 

「いいのですか?」

 

「あたしに聞くな。けど、少なくともここじゃ、お前はクオンだ。それで呼べば振り向くだろ」

 

「はい」

 

「なら十分だ」

 

 言い切った直後、ノーヴェは気まずそうに顔を背けた。

 

「ほら、行くぞ。飯が残ってる」

 

「誰の分ですか?」

 

「お前の分だよ!」

 

「ボクが帰る時間は伝えていません」

 

「クアットロが多く作らせただけだ! いらねぇならあたしが食う!」

 

「食べます」

 

「即答かよ」

 

 二人で食堂へ向かう。

 

 自動扉が開くと、消えているはずの照明が半分だけ点いていた。

 

 机には蓋をされた皿が一つ。

 

 その横へ、温め直す時間まで書いたメモが置かれている。

 

 字はディエチのものだった。

 

 冷蔵庫を開けば、飲み物に『勝手に飲むな』という札が貼ってある。

 

 こちらはウェンディの字だ。

 

 ただし、その隣には同じ飲み物がもう一本置かれ、『こっちは可』と追記されていた。

 

「誰も待っていないのでは?」

 

「待ってねぇよ」

 

 ノーヴェが皿を温める。

 

「残してただけだ」

 

「違うのですか?」

 

「全然違う」

 

 クオンには、その違いがまだ分からなかった。

 

 けれど、温められた食事を口へ運ぶと、胸の奥にあった固いものが少しだけ解けた。

 

 理由は、分からなかった。

 

     ◇

 

 翌朝。

 

 訓練区画に、乾いた打撃音が響いていた。

 

 ノーヴェの拳をクオンが手のひらで受ける。

 

 右、左、右。

 

 四発目を受けたところで、クオンは手を下ろした。

 

「何だよ」

 

「手を見せてください」

 

「まだ始めたばっかだぞ」

 

「右手です」

 

「平気だ」

 

「血が出ています」

 

 拳の皮が薄く裂けていた。

 

 大きな傷ではない。

 

 ノーヴェは構わず構え直す。

 

「こんなの怪我に入らねぇ」

 

「入りませんか?」

 

「入らねぇ」

 

「では、手当てをしても訓練は続けられますね」

 

「……お前、妙なところで言い返すようになったな」

 

 クオンは救急箱を持ってきた。

 

 消毒し、薄い保護材を当て、拳の動きを妨げないよう包帯を巻いていく。

 

 手つきに迷いはない。

 

 ノーヴェが黙って見ていた。

 

「どこで覚えた」

 

「記録にありました」

 

「また、それか」

 

「倒れ方と、包帯の巻き方は、何度も練習していました」

 

「誰が?」

 

 クオンの指が、一瞬だけ止まる。

 

「久遠が」

 

 答えた声は、いつもと変わらない。

 

 ノーヴェが眉を寄せた。

 

「……お前が?」

 

「同じ読み方です。でも、ボクではありません」

 

「何だそりゃ」

 

「ボクの名前の元になった人です」

 

 ノーヴェはしばらくクオンを見たが、それ以上は追及しなかった。

 

「……ややこしいな」

 

「はい」

 

 包帯を留める。

 

「終わりました」

 

 ノーヴェは拳を二度開閉した。

 

「悪くねぇ」

 

「続けますか?」

 

「当たり前だ」

 

 再び構える。

 

 今度は、最初より少しだけ力を抑えていた。

 

     ◇

 

 それから数日。

 

 クオンは、施設の中で呼ばれる回数が増えた。

 

「クオン、こっち持ってほしいっス!」

 

 ウェンディのライディングボードを支える。

 

「三番の工具をお願いします」

 

 ディエチへ、言われる前に細いレンチを渡す。

 

「クオン。こちらの計算結果に異常がないか、見てくださる?」

 

 クアットロの端末を覗き込み、三行目の入力違いを指す。

 

「本当に見つけますのね」

 

「探すように頼まれたので」

 

「では、頼まなければ気づかないふりをしてくださる?」

 

「気づいたら、言います」

 

「頼んでいなくても?」

 

「はい」

 

「それを世話焼きと呼びますのよ」

 

「世話を焼いているつもりはありません」

 

「まさか、あなたに生活態度を注意される日が来るとは思いませんでしたわ」

 

 クアットロは呆れたように肩をすくめた。

 

 だが、端末脇に置かれた食事へ手をつけていないことを指摘される前に、容器を自分の方へ引き寄せた。

 

「今、食べます」

 

「まだ何も言っていません」

 

「言おうとしたでしょう」

 

「はい」

 

「少しは否定なさい」

 

 別の日には、整備机へ突っ伏して眠ったディエチへ、上着をかけた。

 

 目を覚ましたディエチは礼を言い、代わりにクオンが三日間同じ服を着ていることを指摘した。

 

「替えはあります」

 

「なら、着替えた方がいいと思います」

 

「汚れていません」

 

「そういう問題ではありません」

 

 その会話を聞いていたウェンディが笑い出す。

 

「世話を焼いてたら、焼き返されてるっス」

 

「焼いていません」

 

「まだ言うっスか」

 

 クオンには、彼女たちが笑う理由の全ては分からない。

 

 ただ、ノーヴェが訓練区画にいなければ探した。

 

 ウェンディの声がしなければ、格納庫を覗いた。

 

 ディエチの砲身が分解されたままなら、眠っているのだろうと考えた。

 

 クアットロの食事が残っていれば、端末へ向かいすぎていると分かった。

 

 番号ではなく、名前と一緒に覚えることが増えていく。

 

 それを何と呼ぶのかは、まだ知らなかった。

 

     ◇

 

 同じ頃、機動六課の新人たちは、訓練の第一段階を終えていた。

 

 デバイスにかけられていたリミッターも、一段階解除される。

 

 そして褒美として与えられたのは、久しぶりの一日休暇だった。

 

 スバルとティアナは、ヴァイスから借りたバイクで街へ出た。

 

 エリオとキャロも、少し遅れて市街地へ向かう。

 

 任務も訓練もない。

 

 四人で何を食べるか相談することが、その日の一番大きな問題になるはずだった。

 

 異変を見つけたのは、エリオだった。

 

「キャロ、あそこ!」

 

 路地の奥。

 

 小さな人影が、壁にもたれるように倒れている。

 

 二人が駆け寄ると、それはまだ幼い少女だった。

 

 長い金色の髪。

 

 汚れた白い服。

 

 細い腕には鎖が巻かれ、その先へ赤い宝石を収めたケースが繋がれていた。

 

「聞こえますか?」

 

 キャロが膝をつく。

 

 少女の瞼が、わずかに開いた。

 

「……ヴィヴィオ」

 

「それが、あなたの名前?」

 

 小さく頷く。

 

 それだけで力を使い果たしたように、目が閉じた。

 

「エリオ君」

 

「うん。六課へ連絡する」

 

 ほどなく、スバルとティアナも合流した。

 

 スバルがヴィヴィオを抱き上げる。

 

 ティアナは鎖とケースを確認しながら、周囲へ鋭く視線を走らせた。

 

「休暇は終わりね」

 

「残念?」

 

 スバルが聞く。

 

「まさか」

 

 ティアナは首を振った。

 

「この子を帰してからよ。休むのは」

 

 その言葉に、キャロが頷いた。

 

     ◇

 

 六課の医務室で目を覚ましたヴィヴィオは、なのはの指を強く握った。

 

 身元を示す登録はない。

 

 なぜレリックのケースへ繋がれていたのかも分からない。

 

 近づく大人を怖がり、少しでも一人になると肩を震わせる。

 

 それでも、なのはがそばにいる間だけは泣かなかった。

 

「もう大丈夫だよ」

 

 なのはは、目の高さを合わせて言った。

 

「ここには、ヴィヴィオを傷つける人はいないから」

 

 ヴィヴィオは答えなかった。

 

 ただ、指を握る力がほんの少しだけ緩んだ。

 

 フェイトはベッドの反対側から、その様子を見ていた。

 

 帰る場所も、自分を知る人も分からない子供。

 

 放っておけるはずがなかった。

 

 その時、基地へ警報が響いた。

 

 市街地上空と地下水路。

 

 複数のガジェット反応が、同時に現れていた。

 

     ◇

 

 警報とほぼ同時刻。

 

 クオンはスカリエッティから中央区画へ呼び出されていた。

 

 部屋へ入ると、見慣れない三人がいる。

 

 紫色の髪をした少女。

 

 その傍らに立つ、甲虫のような外殻を持つ召喚獣。

 

 空中には、赤い髪の小さな少女が浮いていた。

 

「紹介しよう」

 

 スカリエッティが両手を広げる。

 

「ルーテシア。こちらはガリューとアギトだ。以前から、互いの目的のために協力してもらっている」

 

「協力じゃねぇ」

 

 アギトがすぐに噛みついた。

 

「こっちにも探してるものがあるから、利用し合ってるだけだ」

 

「呼び方は君に任せよう」

 

 スカリエッティは笑ったまま、気にした様子もない。

 

 クオンはルーテシアを見た。

 

 小さい。

 

 自分よりも、さらに幼く見える。

 

「この子も行くのですか?」

 

「この子じゃねぇ。ルールーだ」

 

「アギト」

 

 ルーテシアが止める。

 

 感情の薄い声だった。

 

「私が行く。レリックを探すから」

 

 スカリエッティが空間モニターを開いた。

 

 地下水路の地図と、移動中のケースが表示される。

 

「機動六課がレリックを確保した。ケースに繋がれていた少女はすでに保護され、別の場所にいる。回収するのは中身だけだ」

 

 画面の隅には、医務室のヴィヴィオが映っていた。

 

 なのはの手を握り、ベッドに横たわっている。

 

「あの子には近づきませんか?」

 

「必要はない。約束しよう」

 

「では、なぜボクを?」

 

「ルーテシアたちの帰路を確保してほしい。六課と接触しても、君なら双方の子供を必要以上に傷つけずに済むだろう?」

 

 子供を戦場へ送り出すために。

 

 子供を傷つけない自分を使う。

 

 言葉の形に、歪みがある。

 

 クオンにも、それは分かった。

 

 けれど、行かなければルーテシアが戦わなくなるわけではない。

 

「……分かりました」

 

「話が早くて助かるよ」

 

「ルーテシアが帰るまでです」

 

「もちろんだとも」

 

 ルーテシアはすぐに出口へ向かおうとした。

 

 その足取りが、わずかに揺れる。

 

「待ってください」

 

「時間がない」

 

「最後に食べたのは、いつですか?」

 

 ルーテシアは答えない。

 

 アギトの視線が泳いだ。

 

「朝は、その……急いでたから」

 

「食べていないのですか?」

 

「ルールーは平気だ!」

 

「平気」

 

 本人も同じことを言う。

 

 クオンは二人を見てから、通路の時計を見た。

 

「食べてから行きましょう」

 

「必要ない」

 

「あります」

 

「遅れる」

 

「食べ終わるまで、ボクが待ちます」

 

「お前が待ってどうすんだよ!」

 

 アギトが叫ぶ。

 

 クオンは少し考えた。

 

「一人で食べるより、早いかもしれません」

 

「何でだよ!」

 

「分かりません。でも、そういう時があります」

 

 昨夜の食堂を思い出す。

 

 一人分だけ残されていた皿。

 

 隣に座り、食べ終わるまで悪態をついていたノーヴェ。

 

 ルーテシアはクオンを見上げた。

 

「早く食べられるものなら」

 

「あります」

 

「何で分かるんだよ」

 

「ウェンディが隠していました」

 

     ◇

 

「あたしの非常食っス!」

 

 訓練区画へ戻るなり、ウェンディの声が響いた。

 

「一つ借ります」

 

「もう持ってるじゃないっスか!」

 

 クオンの手には、格納棚から取り出した携帯食がある。

 

「隠し場所、何で知ってるんスか?」

 

「前に、工具を取りに来た時に見えました」

 

「見えても忘れるのが優しさっスよ!」

 

「忘れません」

 

「知ってたっス!」

 

 騒ぎを聞きつけ、ノーヴェとディエチ、クアットロも集まってきた。

 

 ルーテシアは、知らない顔に囲まれても表情を変えない。

 

 ただ、渡された携帯食を持ったまま立っている。

 

「座ったらどうですか」

 

 ディエチが椅子を引いた。

 

「すぐ行くから」

 

「なら、食べている間だけです」

 

 ルーテシアは少し迷い、椅子へ座った。

 

 ディエチが水を置く。

 

 ガリューはルーテシアの後ろに立ち、アギトは机の上へ降りた。

 

「毒なんか入ってねぇだろうな」

 

「あたしが食う予定だったもんに入れるわけないっス!」

 

 ウェンディが胸を張る。

 

「それで安心できるのか?」

 

 ノーヴェが横から言った。

 

「どういう意味っスか!」

 

 ルーテシアが封を開け、一口かじる。

 

 全員の視線が集まった。

 

「……見られると、食べにくい」

 

「そうですよね」

 

 ディエチが最初に目を逸らした。

 

 ノーヴェは壁にもたれ、ウェンディは残りの非常食を数え始める。

 

 クアットロだけは笑顔のまま、クオンを見ていた。

 

「ずいぶん熱心ですのね」

 

「何がですか?」

 

「お食事のお世話が、ですわ」

 

「食べずに戦うと、動けなくなります」

 

「合理的な判断だと?」

 

「はい」

 

「それだけでしょうか」

 

 クオンは答えなかった。

 

 ルーテシアが一口食べるたび、先ほどより顔色が戻っていく。

 

 それを見ていると、胸の奥が少しだけ軽くなる。

 

 合理性だけなら、体調を確認した時点で足りているはずだった。

 

 食べ終わるまでここにいる理由は、自分にも説明できない。

 

「こいつ、放っとけねぇだけだろ」

 

 ノーヴェが言った。

 

「腹減らしたガキが戦いに行くのが、気に入らねぇんだ」

 

「そうなのでしょうか」

 

「あたしに聞くな」

 

 昨夜と同じ答えだった。

 

 ルーテシアが最後の一口を飲み込み、水を飲む。

 

「ごちそうさま」

 

「一個、貸しっスからね」

 

 ウェンディがすかさず言った。

 

「何を返せばいい?」

 

「同じ味を一個っス。別の味は駄目っスよ」

 

「分かった」

 

「本当に約束するんスか」

 

「貸しだから」

 

 ウェンディが面食らったように瞬く。

 

「クオンより話が早いっスね」

 

「ボクも返します」

 

「クオンには貸してないっス」

 

「では、返しません」

 

「そこは一個くれてもいいと思うっス!」

 

「どちらですか?」

 

「ああもう!」

 

 ノーヴェが堪えきれずに笑った。

 

 ディエチも口元を緩める。

 

 ルーテシアは何が面白いのか分からない顔で、空になった包みを丁寧に畳んでいた。

 

「行けます」

 

 立ち上がった足は、先ほどより安定している。

 

 クオンも出口へ向かう。

 

「待て」

 

 ノーヴェが、また止めた。

 

「お前は食ったのか」

 

「ボクは必要ありません」

 

「今、そいつに何て言った」

 

「食べてから行くように、と」

 

「なら、お前も食ってから行け」

 

 机の上を、小さな包みが滑ってくる。

 

 ノーヴェが自分の分を投げたらしい。

 

「ボクは食べなくても動けます」

 

「知るか。人にだけ言って自分は別ってのが、ムカつくんだよ」

 

「時間が」

 

「食いながら歩け」

 

「行儀が悪いです」

 

「急いでんだろ!」

 

 ルーテシアがクオンを見る。

 

「食べないの?」

 

 先ほど自分が向けた言葉が、そのまま返ってくる。

 

 クオンは包みを開いた。

 

「……食べます」

 

「よし。行ってこい」

 

 ノーヴェはもうこちらを見ていなかった。

 

 クオンは携帯食を一口かじる。

 

「行ってきます」

 

 返事は、四人分だった。

 

「行ってらっしゃい」

 

     ◇

 

 クオンたちが去ったあと。

 

 クアットロは中央区画へ戻り、スカリエッティの隣へ立った。

 

 モニターには、地下水路へ向かう二人の反応が表示されている。

 

「ずいぶん、好きにさせますのね」

 

「何のことだい?」

 

「食事会ですわ。あの子を急がせた方が、レリックの回収率は上がったのではなくて?」

 

「数分の遅れで失敗する計画ではないよ」

 

 スカリエッティは椅子へ深く腰掛ける。

 

「それに、実に興味深い変化だ」

 

「変化?」

 

「帰ってきてほしい相手が増えるほど、彼はそのために力を使う。何も望まない兵器より、望みのある存在の方が進む方向を読みやすい」

 

 楽しげな声だった。

 

 クアットロの笑みが、ほんのわずかに薄くなる。

 

「家族ごっこも、実験の一部ということですの?」

 

「私は何も命じていない。彼らが自分で始めたことだよ」

 

 だからこそ価値がある。

 

 スカリエッティは、そう言って笑った。

 

     ◇

 

 地下水路では、すでに戦闘が始まっていた。

 

 ガリューの腕が、エリオのストラーダを受け止める。

 

 鋼と甲殻がぶつかり、火花が散った。

 

「はああっ!」

 

 エリオが踏み込み、穂先から電撃を放つ。

 

 ガリューは腕を交差して受け、後方へ滑った。

 

「エリオ君!」

 

 キャロがケリュケイオンを掲げる。

 

「ブーストアップ!」

 

 桃色の補助光がエリオを包む。

 

 その間にも、小型の召喚虫が水路の脇道へ散っていく。

 

 探しているのは、搬送中に切り離されたレリックのケースだった。

 

「ティア!」

 

「分かってる!」

 

 ティアナの弾丸が、召喚虫の進路へ着弾する。

 

 直接撃ち抜くのではなく、壁と床を崩して道を塞ぐ射撃。

 

 別の支流から回り込もうとした虫の群れへ、スバルがウイングロードを伸ばした。

 

「抜かせない!」

 

 青い道を駆け、一気にルーテシアとの距離を詰める。

 

 その途中へ、黒い帯が一本だけ伸びた。

 

 ウイングロードに巻きつき、道の先を横へ曲げる。

 

「うわっ!」

 

 スバルは体勢を崩しながらも、曲げられた道の先へ着地した。

 

 落下はしていない。

 

 攻撃も受けていない。

 

 ただ、ルーテシアまで届かなかった。

 

「誰!?」

 

 暗がりから、十三歳ほどの少年が歩いてくる。

 

 仮面はない。

 

 姿は見える。

 

 けれど顔へ意識を向けると、焦点がわずかに外れていく。

 

 ティアナが、誰より早く銃口を向けた。

 

「あんた……」

 

 顔は思い出せない。

 

 名前も残っていない。

 

 それでも、その声を知っている。

 

 ホテルの壁を挟み、何も言わずに自分の話を聞いていた少年。

 

「あの時の奴ね」

 

「はい」

 

 クオンはティアナを見る。

 

 立つ位置が以前とは違う。

 

 スバルだけではなく、エリオとキャロの動きも視界へ収めている。

 

 退路を残し、仲間の射線を塞がない場所にいる。

 

「戻れたのですね」

 

「見れば分かるでしょ」

 

「はい」

 

「それに、今日も帰るわ。四人全員で」

 

 迷いのない返事だった。

 

 クオンの指から、少しだけ力が抜けた。

 

「そうですか」

 

「安心したような顔しないで。今は敵よ」

 

「敵なのですか?」

 

「あの子たちを手伝ってるんでしょうが!」

 

 もっともだった。

 

 クオンはルーテシアを庇う位置に立っている。

 

「帰るまで手伝うと約束しました」

 

「なら、その前に止める!」

 

 ティアナの周囲へ、複数の幻影が広がった。

 

 同時に、スバルが反対側から踏み込む。

 

 クオンは黒い帯を展開した。

 

 一本がスバルの拳を逸らす。

 

 二本がティアナの射撃を防ぐ。

 

 撃ち返さない。

 

 拘束もしない。

 

 ただ、ルーテシアまで届く攻撃だけを止める。

 

「邪魔!」

 

 ティアナの声が、三方向から重なる。

 

 右の幻影が撃つ。

 

 クオンが受ける。

 

 左の幻影も撃つ。

 

 黒い障壁が弾く。

 

 本物は正面にいない。

 

 背後から放たれた一発が、クオンの右袖をかすめた。

 

 布が裂ける。

 

 先ほどまで、フェイトが掴んだ皺の残っていた場所だった。

 

「当たりました」

 

「次は袖じゃ済ませないわよ」

 

「外さないのですね」

 

「外さない。でも、倒すためだけに撃ってるんじゃない」

 

 ティアナは仲間の位置を確かめる。

 

「全員で帰るために撃つの」

 

 クオンの胸の奥へ、その言葉が残った。

 

 全員で帰る。

 

 ノーヴェたちも同じ言葉を使うだろうか。

 

 問いかける時間はなかった。

 

「見つけた」

 

 ルーテシアが呟く。

 

 支流から戻った召喚虫が、切断された鎖ごとケースを運んでくる。

 

 ルーテシアが中の反応を確かめた。

 

「本物」

 

「では、帰りましょう」

 

「待って!」

 

 キャロの声が響く。

 

 ルーテシアが振り向いた。

 

 二人の召喚師の視線が重なる。

 

「あなたも、召喚師なの?」

 

「うん」

 

「どうして、それを探してるの?」

 

「母さんを起こすため」

 

「お母さんを?」

 

 ルーテシアはそれ以上答えなかった。

 

 代わりに、キャロを見返す。

 

「名前は?」

 

「キャロ。キャロ・ル・ルシエです」

 

「私は、ルーテシア」

 

 短い名乗り。

 

 その間だけは、戦場の音が遠のいたようだった。

 

 アギトがルーテシアの肩へ戻る。

 

 ガリューも、エリオから距離を取った。

 

「クオン」

 

 ルーテシアが呼ぶ。

 

「道が塞がってる」

 

「開けます」

 

 黒い魔法陣が、水路の壁へ広がった。

 

 空間へ何本もの帯が突き刺さり、転送経路を固定していく。

 

 ティアナが照準を合わせた。

 

「逃がさない!」

 

 橙色の弾丸が放たれる。

 

 クオンは黒い障壁で受け止めた。

 

 衝撃に押され、一歩下がる。

 

「ルーテシア。ガリューとアギトを先に」

 

「クオンは?」

 

「あとから帰ります」

 

「本当に?」

 

 初めて、ルーテシアの声に迷いが混じった。

 

「はい」

 

「……分かった」

 

 ガリューがルーテシアを抱き上げる。

 

 三人の体が転送光へ沈んでいく。

 

 キャロが一歩、前へ出た。

 

「ルーテシア!」

 

 少女は最後にもう一度だけ振り返った。

 

 何も言わないまま、光の向こうへ消える。

 

 残ったクオンを、四人が囲んだ。

 

「あんたも行くの?」

 

 ティアナが尋ねる。

 

「はい」

 

「あの子を戦わせてる奴のところへ戻るのね」

 

 クオンは答えに詰まった。

 

 戻る場所には、スカリエッティがいる。

 

 けれど、それだけではない。

 

 待っていると言わなかったノーヴェがいる。

 

 貸した非常食を数えているウェンディがいる。

 

 水を用意したディエチがいる。

 

 笑いながら全てを観察するクアットロがいる。

 

「戻らなければならない人がいます」

 

「それで正しいと思ってる?」

 

「分かりません」

 

 クオンは正直に答えた。

 

「でも、待っている人を置いてはいけません」

 

 黒い光が強くなる。

 

「あなたたちも帰ってください」

 

「言われなくても帰るわよ」

 

 ティアナは銃口を下ろさない。

 

「全員で」

 

「……はい」

 

 クオンは、その言葉をもう一度聞いた。

 

 転送が始まる。

 

「待ちなさい。名前は――」

 

 ティアナの声が追いかけてくる。

 

「クオンです」

 

 答えは水路へ残った。

 

 けれど、音の輪郭はすぐに四人の記憶から滑り落ちていく。

 

 黒い魔法陣が砕けた時、そこにはもう誰もいなかった。

 

     ◇

 

「みんな、無事!?」

 

 フェイトが地下水路へ到着したのは、その直後だった。

 

「はい。怪我はありません」

 

 エリオが答える。

 

「ケースは奪われました。紫色の髪の召喚師と、正体不明の少年が――」

 

 ティアナの報告に、フェイトの目が止まった。

 

「少年?」

 

「十三歳くらいです。顔は……見たはずなのに、思い出せません」

 

「声は?」

 

 問いが、少しだけ早かった。

 

 ティアナは不思議そうにフェイトを見る。

 

「声は覚えています。ホテルで会った奴と同じです。でも、名前は聞いたのに……」

 

 フェイトは右手を握った。

 

 林で掴んだ袖の感触が蘇る。

 

「何をしていたの?」

 

「召喚師の子を逃がしました。あたしたちを攻撃することもできたはずなのに、守るだけで」

 

 ティアナは、クオンが消えた場所を見る。

 

「待っている人がいるから戻るって」

 

 フェイトの胸が痛んだ。

 

 同時に、ほんの少しだけ安堵した。

 

 あの少年には、戻ろうとする場所がある。

 

「戦闘記録は残ってる?」

 

「はい。映像は乱れてますが、音声なら」

 

「消さないで。複製を作って、閲覧制限をかけておいて」

 

「分かりました」

 

 フェイトはそれ以上、皆の前で聞かなかった。

 

 まずは四人を帰す。

 

 話すのは、それからだ。

 

     ◇

 

 研究施設へ戻ると、転送区画の照明が点いていた。

 

 ノーヴェが長椅子に座っている。

 

 昨夜と同じ場所だった。

 

 その隣にはウェンディとディエチが立ち、少し離れた壁際でクアットロが端末を見ている。

 

「遅ぇ」

 

 ノーヴェの第一声まで、昨夜と同じだった。

 

「待っていたのですか?」

 

「違う。こいつらが勝手に集まっただけだ」

 

「ノーヴェが一番先にいたっスよ」

 

「ウェンディ!」

 

 ルーテシアが一歩前へ出る。

 

「借りたもの、次に返す」

 

「同じ味っスよ」

 

「覚えてる」

 

「ならいいっス」

 

 ウェンディは満足そうに頷いた。

 

 ディエチがルーテシアの全身を確かめる。

 

「怪我は?」

 

「ない」

 

「ガリューとアギトも?」

 

「平気だ」

 

 アギトが答え、ガリューも静かに頷いた。

 

 ノーヴェの視線が、最後にクオンへ向く。

 

 裂けた右袖で止まった。

 

「それは怪我か」

 

「服だけです」

 

「本当だな?」

 

「はい」

 

「ならいい」

 

 ノーヴェは立ち上がった。

 

「腹減った。飯にするぞ」

 

「さっき食べた」

 

 ルーテシアが言う。

 

「あれだけで足りるか。行くぞ」

 

「ノーヴェも世話焼きですわね」

 

 クアットロが笑う。

 

「うるせぇ!」

 

 皆が食堂へ向かい始める。

 

 クオンはその場に残り、一人ずつ目で追った。

 

 ルーテシア。

 

 ガリュー。

 

 アギト。

 

 ノーヴェ。

 

 ウェンディ。

 

 ディエチ。

 

 クアットロ。

 

 全員いる。

 

 胸の奥にあった力が、ゆっくり抜けていく。

 

「何してるっスか?」

 

 ウェンディが振り返った。

 

「全員、戻ったことを確認していました」

 

「完全にお兄ちゃんっスね」

 

「誰がこいつの妹だ!」

 

 ノーヴェがすぐに怒鳴る。

 

「あたしは別に、嫌ではありません」

 

 ディエチが静かに言った。

 

「ディエチ!」

 

「兄とは、何をする人ですか?」

 

 クオンが尋ねる。

 

 ウェンディは腕を組んで考えた。

 

「面倒を見たり、危ない時に助けたりっスかね」

 

「食べろって、うるさく言う奴」

 

 ルーテシアが付け加える。

 

「それならノーヴェも同じです」

 

「あたしを巻き込むな!」

 

「あとは」

 

 ディエチが、少しだけ笑う。

 

「帰ってくるのを待つ人でしょうか」

 

 クオンは、誰もいなかったはずの廊下に座るノーヴェを思い出した。

 

 一人分だけ残されていた食事。

 

 戻った時に聞いた、おかえりという言葉。

 

「よく分かりません」

 

 それが今の答えだった。

 

「でも」

 

 クオンは全員を見る。

 

 名前の違う、一人ずつを見る。

 

「帰ってきて、よかったです」

 

 ウェンディが笑った。

 

 ディエチも頷く。

 

 ルーテシアは無表情のまま、ほんの少しだけ目を細めた。

 

 ノーヴェは、また顔を背けている。

 

「……ただいま」

 

 誰が最初に言ったのかは、分からなかった。

 

 けれど、声は次々に重なった。

 

「ただいまっス」

 

「ただいま戻りました」

 

「ただいま、ですわ」

 

 クオンは、昨夜もらった言葉を思い出す。

 

 今度は自分が返す番だった。

 

「おかえりなさい」

 

 口にすると、胸の奥が温かくなった。

 

 その感覚の名前は、まだ分からない。

 

 分からないままでも、今は消したくないと思った。

 

     ◇

 

 食事を終え、皆が部屋へ戻ったあと。

 

 クオンは一人、食堂の机に座っていた。

 

 空になった皿。

 

 飲み終えたカップ。

 

 ウェンディが置き忘れた包装紙。

 

 少し前まで誰かがいた痕跡が、あちこちに残っている。

 

 クオンは、もう一度名前を数えた。

 

 誰が戻り、誰がまだ戻っていないのか。

 

 全員いる。

 

 そう思ったところで、自動扉が開いた。

 

「まだいたのか」

 

 忘れ物を取りに来たノーヴェだった。

 

「全員が戻ったか、考えていました」

 

「戻っただろ」

 

「はい」

 

「なら、お前も戻れ」

 

 クオンが顔を上げる。

 

「ボクも?」

 

「お前だけ数え忘れてんじゃねぇよ」

 

 ノーヴェは机に置かれていた手袋を拾う。

 

「行くぞ、クオン」

 

 呼ばれた。

 

 いつもの名前で。

 

 クオンは立ち上がった。

 

「はい」

 

 二人で食堂を出る。

 

 照明が消え、誰もいなくなった部屋の扉が閉じた。

 

 その夜、クオンが数えた名前の中へ、初めて自分の名前も加わった。

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