研究施設へ戻った時には、日付が変わりかけていた。
転送区画の黒い光が消える。
クオンは誰もいないはずの廊下へ一歩踏み出し、そこで足を止めた。
壁際の長椅子に、ノーヴェが座っていた。
腕を組み、目を閉じている。
眠っているのかと思ったが、クオンが近づく前に片目が開いた。
「遅ぇ」
「待っていたのですか?」
「違う。たまたまここで寝てただけだ」
「自分の部屋ではなく?」
「細けぇな!」
怒鳴ってから、ノーヴェは視線を逸らした。
クオンは少し考える。
出ていく時に言う言葉は覚えた。
戻った時の言葉も、教えられている。
「ただいま」
ノーヴェの眉が、わずかに動いた。
「……おう。おかえり」
短い返事だった。
それを聞いてから、クオンは再び歩き出す。
「待て」
今度はノーヴェに止められた。
「その袖、どうした」
右腕の布に、強く掴まれた跡が残っている。
「掴まれました」
「見りゃ分かる。誰にだよ」
「金色の髪の人です」
ノーヴェの表情が変わった。
「管理局か?」
「はい。執務官だと思います」
「戦ったのか」
「いいえ」
「追われた?」
「待つように言われました」
「それで、素直に待ったのかよ」
「話したいように見えたので」
ノーヴェは立ち上がり、クオンの正面へ回った。
「何を聞かれた」
「誰なのか、と」
「名前は答えたんだろ」
「答えました。でも、そういう意味ではなかったようです」
袖に残る皺へ、クオンの指が触れる。
あの人は、顔を忘れかけながらも手を離さなかった。
最後まで何かを探すように、自分を見ていた。
「それで、お前は何て言った」
「分かりません、と」
正確には、謝っただけだった。
けれど意味は同じだった。
クオンは久遠ではない。
ただの呪いとも、もう言い切れない。
では何なのかと尋ねられれば、答えはどこにもなかった。
「馬鹿だな」
ノーヴェが言った。
「分かんねぇなら、今は分かんねぇままでいいだろ」
「いいのですか?」
「あたしに聞くな。けど、少なくともここじゃ、お前はクオンだ。それで呼べば振り向くだろ」
「はい」
「なら十分だ」
言い切った直後、ノーヴェは気まずそうに顔を背けた。
「ほら、行くぞ。飯が残ってる」
「誰の分ですか?」
「お前の分だよ!」
「ボクが帰る時間は伝えていません」
「クアットロが多く作らせただけだ! いらねぇならあたしが食う!」
「食べます」
「即答かよ」
二人で食堂へ向かう。
自動扉が開くと、消えているはずの照明が半分だけ点いていた。
机には蓋をされた皿が一つ。
その横へ、温め直す時間まで書いたメモが置かれている。
字はディエチのものだった。
冷蔵庫を開けば、飲み物に『勝手に飲むな』という札が貼ってある。
こちらはウェンディの字だ。
ただし、その隣には同じ飲み物がもう一本置かれ、『こっちは可』と追記されていた。
「誰も待っていないのでは?」
「待ってねぇよ」
ノーヴェが皿を温める。
「残してただけだ」
「違うのですか?」
「全然違う」
クオンには、その違いがまだ分からなかった。
けれど、温められた食事を口へ運ぶと、胸の奥にあった固いものが少しだけ解けた。
理由は、分からなかった。
◇
翌朝。
訓練区画に、乾いた打撃音が響いていた。
ノーヴェの拳をクオンが手のひらで受ける。
右、左、右。
四発目を受けたところで、クオンは手を下ろした。
「何だよ」
「手を見せてください」
「まだ始めたばっかだぞ」
「右手です」
「平気だ」
「血が出ています」
拳の皮が薄く裂けていた。
大きな傷ではない。
ノーヴェは構わず構え直す。
「こんなの怪我に入らねぇ」
「入りませんか?」
「入らねぇ」
「では、手当てをしても訓練は続けられますね」
「……お前、妙なところで言い返すようになったな」
クオンは救急箱を持ってきた。
消毒し、薄い保護材を当て、拳の動きを妨げないよう包帯を巻いていく。
手つきに迷いはない。
ノーヴェが黙って見ていた。
「どこで覚えた」
「記録にありました」
「また、それか」
「倒れ方と、包帯の巻き方は、何度も練習していました」
「誰が?」
クオンの指が、一瞬だけ止まる。
「久遠が」
答えた声は、いつもと変わらない。
ノーヴェが眉を寄せた。
「……お前が?」
「同じ読み方です。でも、ボクではありません」
「何だそりゃ」
「ボクの名前の元になった人です」
ノーヴェはしばらくクオンを見たが、それ以上は追及しなかった。
「……ややこしいな」
「はい」
包帯を留める。
「終わりました」
ノーヴェは拳を二度開閉した。
「悪くねぇ」
「続けますか?」
「当たり前だ」
再び構える。
今度は、最初より少しだけ力を抑えていた。
◇
それから数日。
クオンは、施設の中で呼ばれる回数が増えた。
「クオン、こっち持ってほしいっス!」
ウェンディのライディングボードを支える。
「三番の工具をお願いします」
ディエチへ、言われる前に細いレンチを渡す。
「クオン。こちらの計算結果に異常がないか、見てくださる?」
クアットロの端末を覗き込み、三行目の入力違いを指す。
「本当に見つけますのね」
「探すように頼まれたので」
「では、頼まなければ気づかないふりをしてくださる?」
「気づいたら、言います」
「頼んでいなくても?」
「はい」
「それを世話焼きと呼びますのよ」
「世話を焼いているつもりはありません」
「まさか、あなたに生活態度を注意される日が来るとは思いませんでしたわ」
クアットロは呆れたように肩をすくめた。
だが、端末脇に置かれた食事へ手をつけていないことを指摘される前に、容器を自分の方へ引き寄せた。
「今、食べます」
「まだ何も言っていません」
「言おうとしたでしょう」
「はい」
「少しは否定なさい」
別の日には、整備机へ突っ伏して眠ったディエチへ、上着をかけた。
目を覚ましたディエチは礼を言い、代わりにクオンが三日間同じ服を着ていることを指摘した。
「替えはあります」
「なら、着替えた方がいいと思います」
「汚れていません」
「そういう問題ではありません」
その会話を聞いていたウェンディが笑い出す。
「世話を焼いてたら、焼き返されてるっス」
「焼いていません」
「まだ言うっスか」
クオンには、彼女たちが笑う理由の全ては分からない。
ただ、ノーヴェが訓練区画にいなければ探した。
ウェンディの声がしなければ、格納庫を覗いた。
ディエチの砲身が分解されたままなら、眠っているのだろうと考えた。
クアットロの食事が残っていれば、端末へ向かいすぎていると分かった。
番号ではなく、名前と一緒に覚えることが増えていく。
それを何と呼ぶのかは、まだ知らなかった。
◇
同じ頃、機動六課の新人たちは、訓練の第一段階を終えていた。
デバイスにかけられていたリミッターも、一段階解除される。
そして褒美として与えられたのは、久しぶりの一日休暇だった。
スバルとティアナは、ヴァイスから借りたバイクで街へ出た。
エリオとキャロも、少し遅れて市街地へ向かう。
任務も訓練もない。
四人で何を食べるか相談することが、その日の一番大きな問題になるはずだった。
異変を見つけたのは、エリオだった。
「キャロ、あそこ!」
路地の奥。
小さな人影が、壁にもたれるように倒れている。
二人が駆け寄ると、それはまだ幼い少女だった。
長い金色の髪。
汚れた白い服。
細い腕には鎖が巻かれ、その先へ赤い宝石を収めたケースが繋がれていた。
「聞こえますか?」
キャロが膝をつく。
少女の瞼が、わずかに開いた。
「……ヴィヴィオ」
「それが、あなたの名前?」
小さく頷く。
それだけで力を使い果たしたように、目が閉じた。
「エリオ君」
「うん。六課へ連絡する」
ほどなく、スバルとティアナも合流した。
スバルがヴィヴィオを抱き上げる。
ティアナは鎖とケースを確認しながら、周囲へ鋭く視線を走らせた。
「休暇は終わりね」
「残念?」
スバルが聞く。
「まさか」
ティアナは首を振った。
「この子を帰してからよ。休むのは」
その言葉に、キャロが頷いた。
◇
六課の医務室で目を覚ましたヴィヴィオは、なのはの指を強く握った。
身元を示す登録はない。
なぜレリックのケースへ繋がれていたのかも分からない。
近づく大人を怖がり、少しでも一人になると肩を震わせる。
それでも、なのはがそばにいる間だけは泣かなかった。
「もう大丈夫だよ」
なのはは、目の高さを合わせて言った。
「ここには、ヴィヴィオを傷つける人はいないから」
ヴィヴィオは答えなかった。
ただ、指を握る力がほんの少しだけ緩んだ。
フェイトはベッドの反対側から、その様子を見ていた。
帰る場所も、自分を知る人も分からない子供。
放っておけるはずがなかった。
その時、基地へ警報が響いた。
市街地上空と地下水路。
複数のガジェット反応が、同時に現れていた。
◇
警報とほぼ同時刻。
クオンはスカリエッティから中央区画へ呼び出されていた。
部屋へ入ると、見慣れない三人がいる。
紫色の髪をした少女。
その傍らに立つ、甲虫のような外殻を持つ召喚獣。
空中には、赤い髪の小さな少女が浮いていた。
「紹介しよう」
スカリエッティが両手を広げる。
「ルーテシア。こちらはガリューとアギトだ。以前から、互いの目的のために協力してもらっている」
「協力じゃねぇ」
アギトがすぐに噛みついた。
「こっちにも探してるものがあるから、利用し合ってるだけだ」
「呼び方は君に任せよう」
スカリエッティは笑ったまま、気にした様子もない。
クオンはルーテシアを見た。
小さい。
自分よりも、さらに幼く見える。
「この子も行くのですか?」
「この子じゃねぇ。ルールーだ」
「アギト」
ルーテシアが止める。
感情の薄い声だった。
「私が行く。レリックを探すから」
スカリエッティが空間モニターを開いた。
地下水路の地図と、移動中のケースが表示される。
「機動六課がレリックを確保した。ケースに繋がれていた少女はすでに保護され、別の場所にいる。回収するのは中身だけだ」
画面の隅には、医務室のヴィヴィオが映っていた。
なのはの手を握り、ベッドに横たわっている。
「あの子には近づきませんか?」
「必要はない。約束しよう」
「では、なぜボクを?」
「ルーテシアたちの帰路を確保してほしい。六課と接触しても、君なら双方の子供を必要以上に傷つけずに済むだろう?」
子供を戦場へ送り出すために。
子供を傷つけない自分を使う。
言葉の形に、歪みがある。
クオンにも、それは分かった。
けれど、行かなければルーテシアが戦わなくなるわけではない。
「……分かりました」
「話が早くて助かるよ」
「ルーテシアが帰るまでです」
「もちろんだとも」
ルーテシアはすぐに出口へ向かおうとした。
その足取りが、わずかに揺れる。
「待ってください」
「時間がない」
「最後に食べたのは、いつですか?」
ルーテシアは答えない。
アギトの視線が泳いだ。
「朝は、その……急いでたから」
「食べていないのですか?」
「ルールーは平気だ!」
「平気」
本人も同じことを言う。
クオンは二人を見てから、通路の時計を見た。
「食べてから行きましょう」
「必要ない」
「あります」
「遅れる」
「食べ終わるまで、ボクが待ちます」
「お前が待ってどうすんだよ!」
アギトが叫ぶ。
クオンは少し考えた。
「一人で食べるより、早いかもしれません」
「何でだよ!」
「分かりません。でも、そういう時があります」
昨夜の食堂を思い出す。
一人分だけ残されていた皿。
隣に座り、食べ終わるまで悪態をついていたノーヴェ。
ルーテシアはクオンを見上げた。
「早く食べられるものなら」
「あります」
「何で分かるんだよ」
「ウェンディが隠していました」
◇
「あたしの非常食っス!」
訓練区画へ戻るなり、ウェンディの声が響いた。
「一つ借ります」
「もう持ってるじゃないっスか!」
クオンの手には、格納棚から取り出した携帯食がある。
「隠し場所、何で知ってるんスか?」
「前に、工具を取りに来た時に見えました」
「見えても忘れるのが優しさっスよ!」
「忘れません」
「知ってたっス!」
騒ぎを聞きつけ、ノーヴェとディエチ、クアットロも集まってきた。
ルーテシアは、知らない顔に囲まれても表情を変えない。
ただ、渡された携帯食を持ったまま立っている。
「座ったらどうですか」
ディエチが椅子を引いた。
「すぐ行くから」
「なら、食べている間だけです」
ルーテシアは少し迷い、椅子へ座った。
ディエチが水を置く。
ガリューはルーテシアの後ろに立ち、アギトは机の上へ降りた。
「毒なんか入ってねぇだろうな」
「あたしが食う予定だったもんに入れるわけないっス!」
ウェンディが胸を張る。
「それで安心できるのか?」
ノーヴェが横から言った。
「どういう意味っスか!」
ルーテシアが封を開け、一口かじる。
全員の視線が集まった。
「……見られると、食べにくい」
「そうですよね」
ディエチが最初に目を逸らした。
ノーヴェは壁にもたれ、ウェンディは残りの非常食を数え始める。
クアットロだけは笑顔のまま、クオンを見ていた。
「ずいぶん熱心ですのね」
「何がですか?」
「お食事のお世話が、ですわ」
「食べずに戦うと、動けなくなります」
「合理的な判断だと?」
「はい」
「それだけでしょうか」
クオンは答えなかった。
ルーテシアが一口食べるたび、先ほどより顔色が戻っていく。
それを見ていると、胸の奥が少しだけ軽くなる。
合理性だけなら、体調を確認した時点で足りているはずだった。
食べ終わるまでここにいる理由は、自分にも説明できない。
「こいつ、放っとけねぇだけだろ」
ノーヴェが言った。
「腹減らしたガキが戦いに行くのが、気に入らねぇんだ」
「そうなのでしょうか」
「あたしに聞くな」
昨夜と同じ答えだった。
ルーテシアが最後の一口を飲み込み、水を飲む。
「ごちそうさま」
「一個、貸しっスからね」
ウェンディがすかさず言った。
「何を返せばいい?」
「同じ味を一個っス。別の味は駄目っスよ」
「分かった」
「本当に約束するんスか」
「貸しだから」
ウェンディが面食らったように瞬く。
「クオンより話が早いっスね」
「ボクも返します」
「クオンには貸してないっス」
「では、返しません」
「そこは一個くれてもいいと思うっス!」
「どちらですか?」
「ああもう!」
ノーヴェが堪えきれずに笑った。
ディエチも口元を緩める。
ルーテシアは何が面白いのか分からない顔で、空になった包みを丁寧に畳んでいた。
「行けます」
立ち上がった足は、先ほどより安定している。
クオンも出口へ向かう。
「待て」
ノーヴェが、また止めた。
「お前は食ったのか」
「ボクは必要ありません」
「今、そいつに何て言った」
「食べてから行くように、と」
「なら、お前も食ってから行け」
机の上を、小さな包みが滑ってくる。
ノーヴェが自分の分を投げたらしい。
「ボクは食べなくても動けます」
「知るか。人にだけ言って自分は別ってのが、ムカつくんだよ」
「時間が」
「食いながら歩け」
「行儀が悪いです」
「急いでんだろ!」
ルーテシアがクオンを見る。
「食べないの?」
先ほど自分が向けた言葉が、そのまま返ってくる。
クオンは包みを開いた。
「……食べます」
「よし。行ってこい」
ノーヴェはもうこちらを見ていなかった。
クオンは携帯食を一口かじる。
「行ってきます」
返事は、四人分だった。
「行ってらっしゃい」
◇
クオンたちが去ったあと。
クアットロは中央区画へ戻り、スカリエッティの隣へ立った。
モニターには、地下水路へ向かう二人の反応が表示されている。
「ずいぶん、好きにさせますのね」
「何のことだい?」
「食事会ですわ。あの子を急がせた方が、レリックの回収率は上がったのではなくて?」
「数分の遅れで失敗する計画ではないよ」
スカリエッティは椅子へ深く腰掛ける。
「それに、実に興味深い変化だ」
「変化?」
「帰ってきてほしい相手が増えるほど、彼はそのために力を使う。何も望まない兵器より、望みのある存在の方が進む方向を読みやすい」
楽しげな声だった。
クアットロの笑みが、ほんのわずかに薄くなる。
「家族ごっこも、実験の一部ということですの?」
「私は何も命じていない。彼らが自分で始めたことだよ」
だからこそ価値がある。
スカリエッティは、そう言って笑った。
◇
地下水路では、すでに戦闘が始まっていた。
ガリューの腕が、エリオのストラーダを受け止める。
鋼と甲殻がぶつかり、火花が散った。
「はああっ!」
エリオが踏み込み、穂先から電撃を放つ。
ガリューは腕を交差して受け、後方へ滑った。
「エリオ君!」
キャロがケリュケイオンを掲げる。
「ブーストアップ!」
桃色の補助光がエリオを包む。
その間にも、小型の召喚虫が水路の脇道へ散っていく。
探しているのは、搬送中に切り離されたレリックのケースだった。
「ティア!」
「分かってる!」
ティアナの弾丸が、召喚虫の進路へ着弾する。
直接撃ち抜くのではなく、壁と床を崩して道を塞ぐ射撃。
別の支流から回り込もうとした虫の群れへ、スバルがウイングロードを伸ばした。
「抜かせない!」
青い道を駆け、一気にルーテシアとの距離を詰める。
その途中へ、黒い帯が一本だけ伸びた。
ウイングロードに巻きつき、道の先を横へ曲げる。
「うわっ!」
スバルは体勢を崩しながらも、曲げられた道の先へ着地した。
落下はしていない。
攻撃も受けていない。
ただ、ルーテシアまで届かなかった。
「誰!?」
暗がりから、十三歳ほどの少年が歩いてくる。
仮面はない。
姿は見える。
けれど顔へ意識を向けると、焦点がわずかに外れていく。
ティアナが、誰より早く銃口を向けた。
「あんた……」
顔は思い出せない。
名前も残っていない。
それでも、その声を知っている。
ホテルの壁を挟み、何も言わずに自分の話を聞いていた少年。
「あの時の奴ね」
「はい」
クオンはティアナを見る。
立つ位置が以前とは違う。
スバルだけではなく、エリオとキャロの動きも視界へ収めている。
退路を残し、仲間の射線を塞がない場所にいる。
「戻れたのですね」
「見れば分かるでしょ」
「はい」
「それに、今日も帰るわ。四人全員で」
迷いのない返事だった。
クオンの指から、少しだけ力が抜けた。
「そうですか」
「安心したような顔しないで。今は敵よ」
「敵なのですか?」
「あの子たちを手伝ってるんでしょうが!」
もっともだった。
クオンはルーテシアを庇う位置に立っている。
「帰るまで手伝うと約束しました」
「なら、その前に止める!」
ティアナの周囲へ、複数の幻影が広がった。
同時に、スバルが反対側から踏み込む。
クオンは黒い帯を展開した。
一本がスバルの拳を逸らす。
二本がティアナの射撃を防ぐ。
撃ち返さない。
拘束もしない。
ただ、ルーテシアまで届く攻撃だけを止める。
「邪魔!」
ティアナの声が、三方向から重なる。
右の幻影が撃つ。
クオンが受ける。
左の幻影も撃つ。
黒い障壁が弾く。
本物は正面にいない。
背後から放たれた一発が、クオンの右袖をかすめた。
布が裂ける。
先ほどまで、フェイトが掴んだ皺の残っていた場所だった。
「当たりました」
「次は袖じゃ済ませないわよ」
「外さないのですね」
「外さない。でも、倒すためだけに撃ってるんじゃない」
ティアナは仲間の位置を確かめる。
「全員で帰るために撃つの」
クオンの胸の奥へ、その言葉が残った。
全員で帰る。
ノーヴェたちも同じ言葉を使うだろうか。
問いかける時間はなかった。
「見つけた」
ルーテシアが呟く。
支流から戻った召喚虫が、切断された鎖ごとケースを運んでくる。
ルーテシアが中の反応を確かめた。
「本物」
「では、帰りましょう」
「待って!」
キャロの声が響く。
ルーテシアが振り向いた。
二人の召喚師の視線が重なる。
「あなたも、召喚師なの?」
「うん」
「どうして、それを探してるの?」
「母さんを起こすため」
「お母さんを?」
ルーテシアはそれ以上答えなかった。
代わりに、キャロを見返す。
「名前は?」
「キャロ。キャロ・ル・ルシエです」
「私は、ルーテシア」
短い名乗り。
その間だけは、戦場の音が遠のいたようだった。
アギトがルーテシアの肩へ戻る。
ガリューも、エリオから距離を取った。
「クオン」
ルーテシアが呼ぶ。
「道が塞がってる」
「開けます」
黒い魔法陣が、水路の壁へ広がった。
空間へ何本もの帯が突き刺さり、転送経路を固定していく。
ティアナが照準を合わせた。
「逃がさない!」
橙色の弾丸が放たれる。
クオンは黒い障壁で受け止めた。
衝撃に押され、一歩下がる。
「ルーテシア。ガリューとアギトを先に」
「クオンは?」
「あとから帰ります」
「本当に?」
初めて、ルーテシアの声に迷いが混じった。
「はい」
「……分かった」
ガリューがルーテシアを抱き上げる。
三人の体が転送光へ沈んでいく。
キャロが一歩、前へ出た。
「ルーテシア!」
少女は最後にもう一度だけ振り返った。
何も言わないまま、光の向こうへ消える。
残ったクオンを、四人が囲んだ。
「あんたも行くの?」
ティアナが尋ねる。
「はい」
「あの子を戦わせてる奴のところへ戻るのね」
クオンは答えに詰まった。
戻る場所には、スカリエッティがいる。
けれど、それだけではない。
待っていると言わなかったノーヴェがいる。
貸した非常食を数えているウェンディがいる。
水を用意したディエチがいる。
笑いながら全てを観察するクアットロがいる。
「戻らなければならない人がいます」
「それで正しいと思ってる?」
「分かりません」
クオンは正直に答えた。
「でも、待っている人を置いてはいけません」
黒い光が強くなる。
「あなたたちも帰ってください」
「言われなくても帰るわよ」
ティアナは銃口を下ろさない。
「全員で」
「……はい」
クオンは、その言葉をもう一度聞いた。
転送が始まる。
「待ちなさい。名前は――」
ティアナの声が追いかけてくる。
「クオンです」
答えは水路へ残った。
けれど、音の輪郭はすぐに四人の記憶から滑り落ちていく。
黒い魔法陣が砕けた時、そこにはもう誰もいなかった。
◇
「みんな、無事!?」
フェイトが地下水路へ到着したのは、その直後だった。
「はい。怪我はありません」
エリオが答える。
「ケースは奪われました。紫色の髪の召喚師と、正体不明の少年が――」
ティアナの報告に、フェイトの目が止まった。
「少年?」
「十三歳くらいです。顔は……見たはずなのに、思い出せません」
「声は?」
問いが、少しだけ早かった。
ティアナは不思議そうにフェイトを見る。
「声は覚えています。ホテルで会った奴と同じです。でも、名前は聞いたのに……」
フェイトは右手を握った。
林で掴んだ袖の感触が蘇る。
「何をしていたの?」
「召喚師の子を逃がしました。あたしたちを攻撃することもできたはずなのに、守るだけで」
ティアナは、クオンが消えた場所を見る。
「待っている人がいるから戻るって」
フェイトの胸が痛んだ。
同時に、ほんの少しだけ安堵した。
あの少年には、戻ろうとする場所がある。
「戦闘記録は残ってる?」
「はい。映像は乱れてますが、音声なら」
「消さないで。複製を作って、閲覧制限をかけておいて」
「分かりました」
フェイトはそれ以上、皆の前で聞かなかった。
まずは四人を帰す。
話すのは、それからだ。
◇
研究施設へ戻ると、転送区画の照明が点いていた。
ノーヴェが長椅子に座っている。
昨夜と同じ場所だった。
その隣にはウェンディとディエチが立ち、少し離れた壁際でクアットロが端末を見ている。
「遅ぇ」
ノーヴェの第一声まで、昨夜と同じだった。
「待っていたのですか?」
「違う。こいつらが勝手に集まっただけだ」
「ノーヴェが一番先にいたっスよ」
「ウェンディ!」
ルーテシアが一歩前へ出る。
「借りたもの、次に返す」
「同じ味っスよ」
「覚えてる」
「ならいいっス」
ウェンディは満足そうに頷いた。
ディエチがルーテシアの全身を確かめる。
「怪我は?」
「ない」
「ガリューとアギトも?」
「平気だ」
アギトが答え、ガリューも静かに頷いた。
ノーヴェの視線が、最後にクオンへ向く。
裂けた右袖で止まった。
「それは怪我か」
「服だけです」
「本当だな?」
「はい」
「ならいい」
ノーヴェは立ち上がった。
「腹減った。飯にするぞ」
「さっき食べた」
ルーテシアが言う。
「あれだけで足りるか。行くぞ」
「ノーヴェも世話焼きですわね」
クアットロが笑う。
「うるせぇ!」
皆が食堂へ向かい始める。
クオンはその場に残り、一人ずつ目で追った。
ルーテシア。
ガリュー。
アギト。
ノーヴェ。
ウェンディ。
ディエチ。
クアットロ。
全員いる。
胸の奥にあった力が、ゆっくり抜けていく。
「何してるっスか?」
ウェンディが振り返った。
「全員、戻ったことを確認していました」
「完全にお兄ちゃんっスね」
「誰がこいつの妹だ!」
ノーヴェがすぐに怒鳴る。
「あたしは別に、嫌ではありません」
ディエチが静かに言った。
「ディエチ!」
「兄とは、何をする人ですか?」
クオンが尋ねる。
ウェンディは腕を組んで考えた。
「面倒を見たり、危ない時に助けたりっスかね」
「食べろって、うるさく言う奴」
ルーテシアが付け加える。
「それならノーヴェも同じです」
「あたしを巻き込むな!」
「あとは」
ディエチが、少しだけ笑う。
「帰ってくるのを待つ人でしょうか」
クオンは、誰もいなかったはずの廊下に座るノーヴェを思い出した。
一人分だけ残されていた食事。
戻った時に聞いた、おかえりという言葉。
「よく分かりません」
それが今の答えだった。
「でも」
クオンは全員を見る。
名前の違う、一人ずつを見る。
「帰ってきて、よかったです」
ウェンディが笑った。
ディエチも頷く。
ルーテシアは無表情のまま、ほんの少しだけ目を細めた。
ノーヴェは、また顔を背けている。
「……ただいま」
誰が最初に言ったのかは、分からなかった。
けれど、声は次々に重なった。
「ただいまっス」
「ただいま戻りました」
「ただいま、ですわ」
クオンは、昨夜もらった言葉を思い出す。
今度は自分が返す番だった。
「おかえりなさい」
口にすると、胸の奥が温かくなった。
その感覚の名前は、まだ分からない。
分からないままでも、今は消したくないと思った。
◇
食事を終え、皆が部屋へ戻ったあと。
クオンは一人、食堂の机に座っていた。
空になった皿。
飲み終えたカップ。
ウェンディが置き忘れた包装紙。
少し前まで誰かがいた痕跡が、あちこちに残っている。
クオンは、もう一度名前を数えた。
誰が戻り、誰がまだ戻っていないのか。
全員いる。
そう思ったところで、自動扉が開いた。
「まだいたのか」
忘れ物を取りに来たノーヴェだった。
「全員が戻ったか、考えていました」
「戻っただろ」
「はい」
「なら、お前も戻れ」
クオンが顔を上げる。
「ボクも?」
「お前だけ数え忘れてんじゃねぇよ」
ノーヴェは机に置かれていた手袋を拾う。
「行くぞ、クオン」
呼ばれた。
いつもの名前で。
クオンは立ち上がった。
「はい」
二人で食堂を出る。
照明が消え、誰もいなくなった部屋の扉が閉じた。
その夜、クオンが数えた名前の中へ、初めて自分の名前も加わった。