地下水路での戦闘から、一夜が明けた。
機動六課の小会議室には、三人しかいなかった。
なのは。
フェイト。
そして、はやて。
机上の端末には、ティアナたちの戦闘記録が表示されている。
紫色の髪をした召喚師。
甲虫型の召喚獣。
小さな炎の少女。
その三人を逃がした、十三歳ほどの少年。
映像の中に姿はある。
だが、顔へ意識を向けるほど輪郭が曖昧になり、再生を止めれば髪の色すら思い出せなくなる。
「音声は残ってる」
フェイトが再生位置を指定した。
『戻らなければならない人がいます』
静かな声が流れる。
なのはの指が、机の上で止まった。
少し低い。
十年前の子供の声ではない。
けれど、言葉を置く間も、相手を驚かせないように抑えた響きも、知っている気がした。
「この子が、フェイトちゃんの会った子?」
「うん。顔も名前も、どうしても残らない。でも、同じ声だった」
フェイトは右手を見る。
「触れた感触はあった。袖を掴んだ。温かかったよ」
そして、別れ際の仕草を二人へ見せた。
右手を肩より高く上げず、指先だけを二度動かす。
なのはが息を呑んだ。
「……同じだ」
「なのはも、覚えてる?」
「うん。久遠君、学校から帰る時、いつもそうやって手を振ってた」
二人の声に、期待が混じる。
それを聞きながら、はやては端末の端を強く握った。
自分だけが知っている。
図書館の床に残されていた血の量を。
鞄と携帯電話だけを残し、久遠の魔力痕跡が黒い本へ収束していたことを。
生存という言葉では説明できない証拠を。
「声と仕草が似とるだけで、本人やとは決められへん」
「分かってる」
なのはは答えた。
けれど、画面から目を離さない。
「分かってるけど、今度はちゃんと会いたい」
フェイトも頷いた。
「誰なのか、本人の言葉で聞きたい」
はやては、二人が知らない記録を開かなかった。
「単独で追うんは禁止や。敵意がないように見えても、ルーテシアたちの撤退を助けた相手やからな」
「うん」
「見つけたら、まず報告。約束して」
二人の返事を聞き、はやては会議を終わらせた。
扉が閉じたあとも、画面には少年の輪郭が残っている。
「十三歳、か」
久遠が生きていれば、こんな姿になっていたのだろうか。
考えた瞬間、胸が痛んだ。
はやては映像を消した。
◇
同じ朝。
研究施設の食堂では、ウェンディが一枚の紙を掲げていた。
「見てほしいっス!」
大きく書かれているのは、携帯食の名前と個数だった。
その下には、ルーテシアの名前と『一個』という文字がある。
「貸出票を作ったんスか?」
ディエチが尋ねる。
「口約束だけじゃ忘れるかもしれないっスからね」
「ルーテシアは覚えてるよ」
クオンが言った。
「何で言い切れるんスか」
「返すと言っていました」
「世の中、約束どおり返ってくるものばかりじゃないっスよ」
「ウェンディは返さないのですか?」
「あたしの話じゃないっス!」
ノーヴェが朝食を食べながら笑う。
右手には、クオンが昨日巻いた包帯が残っていた。
「笑うなっス!」
「朝からくだらねぇことしてるからだろ」
「貸し借りは大事っスよ!」
「では、その紙を保存しておきます」
ディエチが端末で読み取る。
「何で協力するんだよ」
「返しに来る理由があった方が、また会えますから」
何気ない一言に、ウェンディが少し黙った。
「……それもそうっスね」
食堂の扉が開く。
入ってきたクアットロは、全員の顔を見回した。
「ずいぶん賑やかですこと」
「クアットロも名前を書くっスか?」
「借りる予定はありませんわ」
「返す予定のない奴ほど、そう言うっス」
「失礼ですわね」
笑顔のまま言い返し、クアットロはクオンへ視線を向けた。
「ドクターがお呼びです。あなたも」
「ボクも?」
「ええ。次のお仕事だそうですわ」
クアットロの後ろで、ディエチとセインも立ち上がった。
クオンは三人を見る。
「三人が行くのですか?」
「まだ説明も聞いてませんわよ」
クアットロが先に歩き出す。
クオンも、その後を追った。
◇
中央区画のモニターには、管理局の輸送計画が映っていた。
前夜に回収されたレリックは、より警備の厚い施設へ移される。
輸送経路は空と地上の二段構え。
ヴィヴィオは、フェイトに付き添われ、別経路で聖王医療院へ向かう予定になっていた。
なのははレリック輸送隊の護衛に就いている。
「狙うのはレリックだけだ」
スカリエッティが言う。
「クアットロは広域幻術で護衛を分断。ディエチは遠距離から輸送隊を停止させ、セインがケースを回収する」
三人の端末へ、それぞれの配置が送られる。
「了解しましたわ」
「分かりました」
「取ってくればいいんだね」
セインが床から上半身だけを出したまま答えた。
「クオンには彼女たちの支援を頼みたい」
「何をすればいいのですか?」
「君の判断に任せるよ」
指示になっていない。
クオンは三人分の作戦図を見る。
クアットロは敵陣の近くで幻術を維持する。
ディエチは一度撃てば、位置を知られる。
セインは防御の内側へ一人で入る。
それぞれの帰路は別だった。
「三人は、同じ場所へ戻りますか?」
「成功すればね」
「失敗したら?」
「自力で離脱する。それも彼女たちの能力のうちだ」
スカリエッティは穏やかに笑う。
「心配かい?」
クオンはすぐに答えられなかった。
心配という感覚が、どれなのか分からない。
ただ、三人のうち一人でも食堂へ戻らない光景を考えると、胸の奥が落ち着かなくなった。
「帰ったか、分からなくなるのは嫌です」
「なら、君が確かめるといい」
望んだ言葉を与えるような返事だった。
クオンは白い仮面を手に取る。
「ヴィヴィオには近づきませんか?」
「今回の目標ではないよ」
「分かりました」
白い仮面で顔を覆う。
認識を阻む膜が、全身へ広がった。
「三人が戻るまで、見ています」
◇
作戦は、クアットロの幻術から始まった。
市街地上空へ、存在しないガジェット反応が次々と現れる。
偽の魔力光。
別方向へ飛ぶ、実体のない敵影。
警戒に当たっていた管理局部隊が分散する。
地上の輸送車両も進路を変えた。
「幻術です!」
リインフォースⅡが叫ぶ。
指揮所にいたはやては、無数の反応を見渡した。
本物を探すのでは遅い。
ならば、偽物をまとめて消す。
「リイン、術式の中心を探すで」
「はいです!」
二人の魔力が重なる。
夜空へ、巨大な魔法陣が展開した。
「響け、終焉の笛!」
広域魔法が空を覆う。
幻影が、端から一つずつ消えていった。
『術式を解析されましたわ』
クアットロの声が通信へ入る。
まだ余裕のある話し方だった。
『予定より少し早いですが、続行します』
「帰る道はありますか?」
『もちろん。どなたに聞いていらっしゃるの?』
「クアットロです」
『そういう意味ではありませんわ』
クオンには違いが分からなかった。
『射線、確保しました』
別の場所から、ディエチの声が届く。
高層建築の屋上。
長大な砲身へ、強い魔力が集まっている。
クオンは黒い頁を通し、その姿を見ていた。
「ディエチ」
『はい』
「右手が震えています」
『照準に影響はありません』
昨日遅くまで武装を調整していた。
睡眠時間が足りていないことを、クオンは知っている。
「撃ったあとは?」
『冷却して、第二射の準備に入ります』
「分かりました」
止めなかった。
ディエチは、自分の役割を理解してそこにいる。
クオンはただ、砲撃のあとに起きることを見逃さないよう、転送座標を近くへ置いた。
「発射します」
閃光が夜を裂いた。
◇
砲撃警報が輸送部隊へ響く。
レリックを載せた地上車両へ、回避するだけの時間はなかった。
だが、砲撃と車両の間へ桃色の光が飛び込んだ。
「通さないよ!」
なのはの防御魔法が幾重にも展開する。
限定解除されたレイジングハートが、白い装甲を開いた。
砲撃と障壁が衝突する。
周囲の窓が震え、夜空が白く染まった。
なのはの身体が押し戻される。
それでも障壁は割れない。
砲撃は上空へ逸らされ、雲を貫いて消えた。
輸送車両は止まったが、破壊されてはいない。
護衛の局員にも負傷者はいなかった。
『失敗しました』
ディエチの声は平静だった。
だが、クオンが置いた頁には別のものが映っている。
熱を持った砲身。
握ったまま開かない右手。
膝をつきかけた身体。
「ディエチ」
『第二射を準備します』
「右手を開いてください」
『まだ動きます』
「開いて」
返事がない。
ディエチの照準器に、桃色の反応が映る。
発射地点を割り出したなのはが、こちらへ向かっていた。
『クアットロ、第二射まで時間を稼いでください』
『承知しましたわ』
「ディエチ」
クオンは、彼女の名をもう一度呼んだ。
「次に撃ったら、右腕が壊れます」
『交換できます』
「その腕を使っているのは、今のディエチです」
『任務は終わっていません』
「セインが中へ入りました」
輸送車両の下に、彼女の反応がある。
「ディエチの役目は、もう届いています」
砲撃は防がれた。
だが、輸送隊を止め、護衛の目を空へ向けた。
潜入するための隙は作られている。
ディエチは、もう一度砲身を見た。
右手を見た。
『……離脱します』
「はい」
クオンは黒い転送陣を開いた。
その場へ現れ、熱を持った砲身からディエチの手を外す。
動かない指を一本ずつ開いた。
「痛いですか?」
「少し」
「ほかは?」
「右肩に痺れがあります。歩行には問題ありません」
「ディエチ」
「はい」
「先に帰ってください」
黒い光が、ディエチを包む。
「クオンは?」
「セインとクアットロが、まだです」
「分かりました。戻ったら、右手を見せます」
「はい」
転送が完了する。
一人。
まず、ディエチが帰った。
◇
研究施設の転送区画に、ディエチが現れた。
待っていたノーヴェが立ち上がる。
「一人か」
「クオンは、ほかの二人のところです」
「右手、どうした」
「少し痺れています」
「少しでそんな持ち方するかよ。医療区画へ行くぞ」
「先に、武装の冷却を」
「ウェンディにやらせる」
「あたしがやるんスか!?」
格納庫から顔を出したウェンディが叫ぶ。
「できねぇのか」
「できるっスけど!」
「なら頼む」
ノーヴェはディエチの左腕を取った。
ディエチは一度だけ転送陣を振り返り、医療区画へ歩き出した。
◇
セインは、輸送車両の床下を進んでいた。
無機物の中へ潜り、壁も装甲もすり抜ける。
砲撃によって停止した車両の中央に、レリックのケースが固定されている。
「見つけた」
床から両腕を出し、固定具を外す。
ケースを内部へ引き込もうとした瞬間、周囲の魔力が変わった。
対潜行用の封鎖術式。
床そのものに、干渉を阻む層が生まれる。
「うそ、聞いてない!」
セインの身体が床の途中で止まった。
ケースを手放せば、すぐに抜けられる。
だが、それでは任務を果たせない。
外では局員たちが異常に気づき、車両を囲み始めている。
『セイン、応答なさい』
「捕まった! ケースは持ってるけど、動けない!」
『今、幻術を重ねますわ』
周囲へ偽の警報が広がる。
しかし、床の封鎖は解けない。
「セイン」
すぐ近くから、別の声がした。
床の中に、一枚の黒い頁が浮かんでいる。
「クオン!? 何でここに入れるの!」
「セインの座標が分かったからです」
「説明になってない!」
「怪我は?」
「挟まってるだけ! でも、もうすぐ外から固定される!」
「ケースを持ったまま、ボクの手を掴めますか?」
「やってみる!」
セインは片腕でケースを抱え、もう片方の手を黒い頁へ伸ばした。
指先が触れた瞬間、頁が手の形へ変わる。
クオンの手だった。
「離さないでください」
「そっちこそ!」
空間を繋ぐ。
床をすり抜けるのではなく、セインのいる場所ごと出口へ移す。
封鎖術式が抵抗し、黒い頁が何枚も裂けた。
「クオン、手が!」
「大丈夫です」
「大丈夫に見えない!」
指先から黒い欠片が崩れている。
それでも、手は離れなかった。
「セイン」
「何!」
「帰ります」
黒い光が弾けた。
◇
転送区画へ、セインとケースが転がり込む。
床へ肩を打ちつける直前、ノーヴェが受け止めた。
「いったぁ……」
「怪我は?」
遅れて現れたクオンが尋ねる。
右手の輪郭が、黒い頁のように揺らいでいた。
「あたしより、そっちでしょ!」
「セインからです」
「肩をちょっと打った。ほかは平気」
「ケースは?」
「持ってる」
「では、セインも帰りました」
「も、って何だよ」
ノーヴェがクオンを見る。
「ディエチが先に帰っています」
「医療区画だ。右腕に痺れがあるが、ひどい損傷はねぇ」
クオンは頷いた。
「ディエチ。セイン」
一人ずつ、名前を口にする。
「二人、帰りました」
「あと一人っス」
ウェンディが端末を見る。
クアットロの反応は、まだ市街地に残っている。
幻術はほとんど消されていた。
周囲には管理局の包囲網が狭まり、その中を赤い魔力反応が一直線に近づいている。
「ヴィータ副隊長です」
オットーが解析結果を告げた。
「空間固定も始まっています。今からでは、通常転送は通りません」
画面の中で、クアットロの退路が一つずつ閉じていく。
『クオン』
通信に、クアットロの声が入った。
いつもの笑みを含んだ声ではなかった。
『こちらは予定どおりとは言いにくい状況ですわ』
「怪我は?」
『まだありません』
「帰る道は?」
わずかな沈黙。
『……見つけているところです』
クオンは白い仮面へ手をかけた。
右手はまだ崩れかけている。
ディエチを送り、セインを床から引き抜き、使える魔力も減っていた。
「待っていてください」
『来るおつもり?』
「はい」
『頼んでいませんわ』
「知っています」
仮面を付け直す。
「でも、クアットロだけ帰っていません」
ノーヴェがクオンの左腕を掴んだ。
「その手で行く気か」
「まだ動きます」
「ディエチと同じこと言ってんじゃねぇ」
クオンは、自分の右手を見る。
動く。
けれど、壊れていないわけではない。
「……はい」
認めたクオンへ、ノーヴェが小さな固定具を巻いた。
黒い頁が散る範囲を押さえ、手首を支える。
「これで治るわけじゃねぇ。少しマシになるだけだ」
「ありがとうございます」
「礼は、全員で戻ってから言え」
ノーヴェは手を離す。
「クアットロを連れて帰れ」
一度言葉を切り、クオンの仮面を睨んだ。
「お前も帰ってこい」
胸の奥に、その言葉が残った。
クオンは頷く。
「行ってきます」
黒い魔法陣が足元へ広がる。
空間固定に阻まれ、いつものようには開かない。
クオンは座標を一つずつ探した。
クアットロの近く。
まだ閉じられていない、わずかな隙間。
黒い光が、十三歳の身体を包む。
その頃。
クアットロの正面では、ヴィータがグラーフアイゼンを構えていた。
「ずいぶん派手な悪戯をしてくれたな」
クアットロの背後には、もう道がない。
鉄槌のカートリッジが、乾いた音を立てた。
同時に、二人の間へ黒い頁が舞い始める。