グラーフアイゼンのカートリッジが、乾いた音を立てた。
噴き出した推進炎が、鉄槌を一気に加速させる。
クアットロの障壁では受け切れない。
ヴィータも、それを承知していた。
だから狙ったのは身体ではなく、足元だった。
地面を砕き、体勢を崩したところで拘束する。
「逃がさねぇ!」
振り下ろされた鉄槌とクアットロの間へ、黒い頁が舞った。
一枚。
二枚。
重なった頁が黒い帯へ変わり、グラーフアイゼンの柄へ巻きつく。
軌道がわずかに逸れた。
鉄槌がクアットロの横を通り、舗装を大きく陥没させる。
砕けた破片が宙へ舞った。
「誰だ!」
ヴィータが顔を上げる。
クアットロの前に、白い仮面の少年が立っていた。
右手首には、応急処置の固定具が巻かれている。
その下から、黒い頁が細かな欠片となってこぼれていた。
「間に合いました」
「遅いですわ」
クアットロが眼鏡の位置を直す。
「あと一秒遅ければ、少々みっともない姿を晒すところでした」
「怪我は?」
「ありません」
「帰れますか?」
「見て分かりませんの?」
「分からないので聞いています」
クアットロは一瞬だけ黙った。
「通常の転送経路は、すべて閉じられましたわ」
上空には、幾重もの白い光輪が広がっている。
はやてとリインフォースⅡによる空間固定。
クオンが黒い魔法陣を開こうとすると、座標が定まる前に外側から押し潰された。
「今の攻撃を逸らした奴」
ヴィータが鉄槌を構え直す。
「そいつから離れろ。二人まとめて拘束する」
「クアットロを帰らせてもらえませんか?」
「ダメだ」
返事に迷いはなかった。
「そいつは広域幻術で局員を攪乱して、レリックを奪わせた。大人しく投降しろ」
「投降すれば、クアットロは帰れますか?」
「取り調べが終わるまでは帰せねぇ」
「では、できません」
「だったら、力ずくで止める!」
ヴィータが地面を蹴った。
◇
『未確認対象が介入しました!』
指揮所で、リインフォースⅡが声を上げた。
はやての画面へ、二つの反応が映る。
一つは幻術の術者。
もう一つは、地下水路にも現れた少年だった。
「認識阻害は?」
『継続中です。映像も照準補助も、対象の細部を固定できません』
「術式だけ追う。無理に顔を見ようとせんでええ」
はやては局地戦術回線を開いた。
「ヴィータ、聞こえる?」
『おう。今から二人とも捕まえる』
「少年は転送術式を使う。リインとこっちで出口を塞ぐから、深追いはせんといて」
『分かった』
返事と同時に、赤い反応が黒い反応へ衝突する。
クオンが展開した障壁が、一枚砕けた。
二枚目も、鉄槌の勢いを殺し切れない。
それでも、黒い弾丸は一発も撃ち返されなかった。
「攻撃反応がない?」
『防御と、軌道を逸らす術式だけです』
相手は逃げようとしている。
だからといって、逃がすことはできない。
はやては空間固定の範囲を狭めた。
◇
横薙ぎの一撃を、クオンは三本の帯で受けた。
一本目が切れる。
二本目で速度を落とし、三本目で鉄槌を上へ流す。
衝撃が右腕へ返った。
固定具が音を立ててひび割れる。
「その手、もう使い物にならないでしょう」
背後でクアットロが言う。
「まだ動きます」
「ディエチと同じ言い訳ですわね」
「ノーヴェにも言われました」
「でしたら学習なさい」
クアットロの瞳が金色に光る。
「IS発動――シルバーカーテン」
周囲の景色が歪んだ。
右へ走るクアットロ。
左へ転送陣を開くクオン。
上空へ逃れる二人。
十を超える偽の動きが、一斉に展開される。
「小細工を!」
ヴィータが最も近い幻影を砕く。
そこには誰もいない。
「右へ三歩」
クアットロの指示に従い、クオンが動く。
直前までいた場所へ、はやての拘束輪が閉じた。
「次は上です」
頭上から降った魔力弾を、黒い頁が受け流す。
二人でなければ、最初の数秒で捕まっていた。
だが、はやてとリインも幻術の外側から術式そのものを追っている。
『本体、見つけました!』
偽物が白い光に触れ、次々と消えていく。
クアットロの笑みが薄くなった。
「相性が悪いですわね」
「もう一度、転送を試します」
「右斜め上。固定術式の継ぎ目が一瞬だけ開きます」
「分かりました」
クアットロが残る幻影を一点へ集中させる。
はやての解析が、偽の座標へ引かれた。
生まれた隙間へ、クオンは黒い帯を差し込む。
空間をこじ開ける。
出口が見えかけた。
「そこだ!」
ヴィータの鉄槌が、転送陣を横から打ち抜いた。
黒い魔法陣が砕ける。
反動がクオンの身体を貫いた。
膝をつく。
「何をしていますの!」
クアットロが初めて声を荒らげた。
「問題ありません」
「どこがですの!」
十三歳だった身体の輪郭が揺れる。
伸びていた手足が、わずかに短くなっていた。
肩の位置が下がり、長かった上衣の裾が地面へ近づく。
身体を大きく保っていた余剰魔力まで、転送へ使ったためだった。
「縮んでいますわよ」
「まだ動けます」
「それは問題がないという意味ではありません」
クアットロがクオンの左腕を取る。
「二人まとめて捕まるのが最も非効率です。私がもう一度幻術を展開します。その間に、あなただけ――」
「もう来ました」
「何ですって?」
「クアットロを迎えに、ここまで来ました」
クオンは立ち上がる。
「一人で帰るためではありません」
「だからといって、共倒れを選ぶおつもり?」
「二人で帰る方法を探します」
「見つからなければ?」
「見つかるまで探します」
「非論理的ですわ」
「すみません」
「謝ればよいという話では――」
会話を切り裂くように、ヴィータが踏み込んだ。
◇
クオンはクアットロを背後へ押した。
グラーフアイゼンを両腕で受ける。
黒い障壁が衝撃を吸い上げた。
足元の舗装が大きく陥没する。
「何で撃ち返さねぇ!」
ヴィータが鉄槌を押し込みながら叫ぶ。
「ヴィータを倒したくありません」
「何で、あたしの名前を知ってる!」
クオンは答えなかった。
答えられる言葉を、まだ持っていない。
その沈黙が、ヴィータの目をさらに険しくした。
「お前、誰なんだ」
鉄槌が一度引かれる。
上空から、はやての拘束弾が降った。
一発目を帯で弾く。
二発目を頁で消す。
三発目は、避けた先へ置かれていた。
光輪が右足首へ閉じる。
『今や、ヴィータ!』
「おう!」
グラーフアイゼンが加速する。
クオンが右手で受け止めた。
固定具が完全に砕け、黒い頁が弾け飛ぶ。
吸収し切れなかった力が肩を抜け、身体を地面へ沈ませた。
輪郭が、さらに小さくなる。
十二歳。
十一歳。
短くなった腕では、同じ位置で鉄槌を支えられない。
「離れなさい!」
クアットロの幻影が、ヴィータの視界を白く塗り潰した。
ほんの一瞬、力が緩む。
クオンは足首を黒い頁へ変え、拘束輪から引き抜いた。
形を戻すために、また魔力を失う。
十歳。
ヴィータが幻影を振り払った時、目の前にいた少年は、もう自分よりずっと小さくなっていた。
「お前……その姿」
クオンは再び転送陣を開こうとする。
はやての空間固定が押し返す。
「クアットロ。継ぎ目は?」
「探しています!」
「急いでください」
「言われなくても分かっていますわ!」
ヴィータの次の一撃が迫る。
狙いは身体ではない。
転送術式を維持している左肩。
クオンは避けようとした。
だが、背後にはクアットロがいる。
半歩だけ動きを戻し、彼女の前へ残った。
「馬鹿、避けろ!」
ヴィータが叫ぶ。
グラーフアイゼンの縁が、クオンの肩をかすめる。
致命傷を避けるため、ヴィータ自身が最後に軌道を逸らしていた。
それでも衝撃は仮面まで走った。
白い表面へ、一本の亀裂が入る。
音を立てて、右半分が砕けた。
◇
仮面の下にあったのは、九歳ほどの少年の顔だった。
男とも女とも見える、中性的な輪郭。
黒い髪。
光の映らない瞳。
見えている。
それなのに、瞬きをすれば細部が失われる。
認識を阻む力が、割れた仮面の下でも残っていた。
「……久遠?」
ヴィータの口から、名前がこぼれた。
十年前。
はやてが図書館で待っていた、魔法を持たない少年。
写真で何度も見た顔。
はやての部屋で何度も見た、少し困ったような笑顔。
同じだと断言できない。
違うとも言えない。
顔を覚えられないのに、面影だけが胸へ刺さった。
『ヴィータ?』
局地戦術回線から、はやての声がする。
『今、何て言うたん?』
ヴィータは答えられなかった。
少年の身体は、九歳の大きさまで戻っている。
長い上衣。
胸元の意匠。
腰から伸びる布の形。
今まで見ていたはずなのに、認識阻害によって記憶に残らなかった装い。
それは、はやてが夜天の主としてまとう騎士甲冑と同じだった。
ただし、白と黒が反転している。
下衣は、汚れのない白いズボン。
鏡の向こう側で、はやての姿を裏返したような衣装だった。
「その服……」
ヴィータの声が震える。
「お前は、誰だ」
クオンは、半分になった仮面をヴィータへ向けた。
名を尋ねられた。
答えられることは、それだけだった。
「ボク達はクオンだ」
周囲の記録装置では、その音だけが雑音へ崩れた。
至近距離にいたヴィータのデバイスが拾った声だけが、はやてと結ばれた局地戦術回線へ残った。
『クオン……?』
はやてが、その音を繰り返す。
久遠。
クオン。
同じ音を持つ二つの名前。
その一瞬だけ、ヴィータの目に少年の姿が形を結んだ。
九歳の面影。
反転した夜天の騎士甲冑。
誰かを背後へ庇い、傷ついた手で立ち続ける姿。
「今ですわ!」
クアットロの声が響く。
シルバーカーテンが、空間固定の観測へ偽の座標を差し込んだ。
一つだった反応が無数に分かれる。
『座標が増えました!』
リインの解析が一瞬だけ止まる。
「左後方、二メートル!」
クオンは残る魔力を、全てそこへ注ぎ込んだ。
黒い魔法陣が開く。
「待ちやがれ!」
ヴィータが踏み込む。
クオンはクアットロの腕を掴んだ。
今度は、クアットロも振り払わない。
「帰りますわよ」
「はい」
「あなたもです」
その言葉と同時に、黒い光が二人を包んだ。
ヴィータの手が、砕けた仮面へ届く。
白い破片が一つ、指先へ触れた。
だが掴む前に黒い頁へ変わり、消えていく。
次の瞬間には、二人ともいなかった。
◇
研究施設の転送区画へ、クアットロが膝から着地した。
腕の中には、九歳まで縮んだクオンがいる。
足元の魔法陣が消えるより早く、ノーヴェが駆け寄った。
「クオン!」
クアットロから受け取り、床へ倒れそうになった身体を支える。
「何やってんだ、お前!」
「クアットロは?」
「先に自分の心配をしやがれ!」
「聞かないと、分かりません」
クアットロが眼鏡を直した。
服には土埃がついている。
それでも立ち方に異常はない。
「損傷はありませんわ。あなた以外は」
「そうですか」
クオンの肩から力が抜ける。
視線を動かす。
右腕を固定されたディエチ。
肩を冷やしているセイン。
隣に立つクアットロ。
「ディエチ」
「います」
「セイン」
「いるよ」
「クアットロ」
「ここにいますわ」
一人ずつ返事がある。
「三人とも、帰りました」
「あと一人だ」
ノーヴェが言う。
クオンは、ぼやけ始めた視界で彼女を見る。
「誰ですか?」
「お前だよ」
ノーヴェの手が、小さくなった肩を強く掴んでいる。
「お前も帰ってきた。忘れんな」
クオンは少し考えた。
誰もいなくなった食堂で、ノーヴェに同じことを言われた。
自分だけを数え忘れるな、と。
「……ただいま」
「おう。おかえり」
返事を聞いたところで、クオンの意識が途切れた。
ノーヴェが抱き止める。
ディエチが医療区画へ連絡し、セインが空いた寝台を確認する。
「こちらへ」
クアットロが扉を開けた。
廊下の奥から、スカリエッティが歩いてくる。
「無事に戻ったようだね」
「報告は後ほど」
クアットロが、その進路へ立った。
「今は休ませますわ」
スカリエッティが目を細める。
「君がそう言うのかい?」
「何か問題でも?」
「いや。実に興味深い」
その言葉へ答えず、クアットロは医療区画の扉を閉めた。
◇
輸送襲撃から一時間後。
機動六課の小会議室は、外部との通信を切られていた。
いるのは、はやて、シグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラの五人だけ。
なのはとフェイトは、襲撃で不安定になったヴィヴィオへ付き添っている。
二人は、ここで何が話されるのかを知らない。
はやてが、局地戦術回線に残った音声を再生した。
『ボク達はクオンだ』
短い名乗りが、閉ざされた部屋へ流れる。
「ボク、ではなく、ボク達か」
シグナムが呟いた。
「あたしが見たのは一人だ」
ヴィータは、停止した映像を睨んでいる。
画面には、仮面の割れた少年がいる。
映像でも顔だけが定まらない。
見ている間は九歳ほどの中性的な少年だと分かるのに、目を離せば印象が抜け落ちる。
「久遠君に見えたん?」
はやてが尋ねた。
「分かんねぇ」
ヴィータは拳を握る。
「見えた時は、そう思った。けど、今思い出そうとすると顔が出てこねぇ」
「服装は?」
シャマルが尋ねる。
ヴィータの視線が、はやてへ向いた。
「同じだった」
「似とった、やなくて?」
「同じだ。長い上衣も、胸元も、腰の布も。白と黒だけが逆だった」
一度、言葉を切る。
「ズボンは白かった」
はやては自分の騎士甲冑を思い浮かべた。
夜天の主の装いを、鏡の向こうで反転させた姿。
九歳ほどの身体。
久遠と同じ音の名。
複数形の名乗り。
偶然と呼ぶには、重なるものが多すぎる。
「あの少年は、ヴィータを知っていたのだな」
ザフィーラが言う。
「名前だけじゃねぇ。あたしの攻撃を、最初から知ってるみたいに流してた」
「反撃は?」
「一度もねぇ」
ヴィータは悔しそうに答えた。
「あたしを倒したくないって言った。あの女を帰すことしか考えてなかった」
沈黙が落ちる。
十年前の図書館で、久遠に何が起きたのか。
それを見届けた者は、誰もいない。
床に残された血と、全ての魔力痕跡が収束していた黒い本。
分かっているのは、それだけだった。
それでも、一度も撃ち返さず誰かを庇った少年へ、知らないはずの久遠の最期を重ねそうになる。
だからこそ、同じだとは決められない。
「考えられるのは三つです」
シャマルが慎重に口を開いた。
「久遠君が、何らかの形で生き延びた可能性」
一つ目。
「図書館に残された黒い本が、久遠君の姿や記憶を写している可能性」
二つ目。
「そのどちらでもないものが、久遠君と夜天の書の両方に関わって生まれた可能性」
三つ目。
「どれも、今ある情報だけでは確かめられません」
「せやな」
はやては端末へ、新しい隔離記録を作った。
『対象呼称――クオン』
『申告――ボク達』
『溱久遠との関連――未確定』
そして、閲覧権限をこの部屋にいる五人だけへ設定する。
「なのはちゃんとフェイトちゃんには話さん」
ヴィータが顔を上げた。
「また隠すのか?」
「今は、や」
「二人は、あの声と仕草だけで久遠を思い出してる。名前と顔と、その服まで知ったら、今度こそ本人だと思うぞ」
「分かっとる」
「だから隠すのかよ」
「せや」
はやては逃げずに答えた。
「正しいとは言わへん。二人が知ることを、私が勝手に決めることになる」
十年前もそうした。
図書館に残された血。
鞄と携帯電話。
魔力の全てが黒い本へ収束していた記録。
それらを、なのはとフェイトには見せなかった。
二人は現地警察に残った行方不明事件の記録しか知らない。
「でも、まだ仮説を希望として渡したくない」
はやての声が、わずかに震えた。
「違った時、二人にもう一回、久遠君を失わせることになる」
「はやてもだろ」
ヴィータが言う。
「お前だって、期待してる」
はやては否定しなかった。
できなかった。
「せやから、私が先に確かめる」
シグナムが静かに尋ねる。
「六課の共有報告には、どう記載しますか」
「認識阻害を持つ未確認の少年。敵性協力者を救出し、交戦を避けて逃走。それだけや」
「名乗りは?」
「局地回線から切り離す」
「服装と九歳の姿も?」
「こっちへ移す」
はやては隔離記録を閉じた。
「消すんやない」
自分へ言い聞かせるように言う。
「今は、ここで預かるだけや」
誰も、それを正しいとは言わなかった。
間違っているとも言わなかった。
閉じた画面の向こうには、同じ音を持つ二つの名前がある。
久遠。
クオン。
同じものなのか。
違うものなのか。
答えは、まだ誰も持っていない。
十年前。
私たちには、魔法を持たない大切な人がいた。
そして今、その人と同じ音の名を持つ少年が、誰かを置いて帰れないと言った。
それだけが、消せない事実として残った。