強くなるために最初に覚えることは、相手を倒す方法ではなかった。
「まず、転んでみようか」
「強くなる話はどこにいったんですか」
「強くなるための話だよ」
高町家の道場で、久遠は恭也と向かい合っていた。
道着ではない。
動きやすい服装で来るように言われたので、ジャージ姿である。
その正面で、恭也はいつもと変わらない穏やかな顔をしていた。
「昨日、教えてくれるって言いましたよね」
「言ったな」
「戦い方を」
「戦いたいわけじゃないとも言っていた」
「言いましたけど」
「だったら、最初はこれでいい」
恭也が足元の敷物を軽く叩く。
畳の上に、厚い練習用のマットが敷かれていた。
「立っている練習より先に、倒れても壊れないための練習をする」
「転ぶだけで強くなれるんですか?」
「下手に転べば怪我をする。上手に転べば、次に立てる」
恭也は久遠の肩へ手を置いた。
「力を抜け。顎を引いて、身体を丸める」
「はい」
「じゃあ、倒すぞ」
「待ってください。まだ心の準備が――」
足を払われた。
「あっ」
視界が傾く。
背中がマットへ落ちた。
鈍い音。
息が詰まる。
「痛い」
「うん。いまのは失敗だ」
「先に言ってください」
「言ったら、身体を固くするだろ」
差し出された手を取り、久遠は起き上がった。
「もう一度だ。今度は、倒れる前に息を吐け」
「また足を払うんですか?」
「転んでくれれば払わない」
「自分から転ぶの、嫌なんですけど」
「落ちる子供の下へ入るよりは安全だよ」
言い返せなかった。
久遠は教えられたとおりにしゃがみ、後ろへ身体を倒す。
顎を引く。
背中を丸める。
腕で衝撃を逃がす。
今度は、さっきより少しだけ痛くなかった。
「それを繰り返す」
「何回ですか?」
「身体が覚えるまで」
「具体的には?」
「久遠が数えるのをやめるまでかな」
「終わらないやつだ」
「よく分かったな」
それから久遠は、何度も転んだ。
後ろへ。
横へ。
立ち上がっては、また倒される。
十回を過ぎたころには、腕も背中も痛んでいた。
「今日はここまで」
恭也が告げる。
「まだできます」
「できることと、続けていいことは違う」
「でも、痛いだけです」
「その痛みを無視するな」
恭也は久遠の腕を取り、赤くなった場所を確かめた。
「痛みは、身体から届く報告だ。怪我をしているのか、疲れているのか、まだ動けるのか。聞かなければ判断できない」
「痛かったら、やめるんですか?」
「痛いことと、退くことは別だよ」
恭也は手を離した。
「報告を聞いたうえで、続けるか退くかを決める。今のお前は、休むべきだ」
「僕が決めるんじゃないんですか」
「一人で決めない約束をしたんだろ?」
どうして知っているのかと思ったが、桃子から聞いたのだろう。
「……分かりました」
「よし。返事ができるなら、まだ大丈夫だな」
「大丈夫って言う人は、だいたい大丈夫じゃないそうです」
「誰に教わった?」
「なのはです」
恭也は声を立てて笑った。
◇
久遠が倒れ方を覚えている間も、なのはの秘密は続いていた。
学校では、いつもどおり笑っている。
放課後には、アリサやすずかと寄り道もする。
けれど、ときどき白いフェレットを連れて、どこかへいなくなる。
そして夜になると、短い連絡が届いた。
『帰ったよ』
『おかえり』
『ただいま』
三つの言葉だけは、どんなに遅くなっても交わした。
久遠も、道場から帰れば連絡した。
『帰った』
『おかえりなの』
『ただいま』
何をしていたのか尋ねられたので、恭也に転ばされていると正直に答えた。
翌朝、なのはは久遠の腕に増えた湿布を見て頬を膨らませた。
「久遠君も、危ないことしてるの」
「マットの上で転んでるだけだよ」
「怪我してるよ」
「これは怪我じゃなくて筋肉痛」
「痛いんだ」
「痛いよ」
そう答えると、なのはは少しだけ驚いた。
「ちゃんと言うようになったね」
「言わないと、恭也さんが練習を終わらせてくれないから」
「それ、反対じゃない?」
「言っても終わらないんだよ」
「じゃあ、意味ないの」
二人で笑った。
笑ったあと、なのはは久遠の腕へ触れないよう、湿布の端だけを指で押さえた。
「無理しないでね」
「なのはも」
「うん」
返事は素直だった。
だからこそ、信用できなかった。
◇
転び方の次に恭也から教わったのは、殴り方ではなかった。
「人が倒れていたら、最初に何をする?」
「助け起こす」
「不正解。まず周りを見る」
「周り?」
「その人を倒した危険が、まだ残っているかもしれない。助けに入った人間まで倒れたら、救助される人が増えるだけだ」
次に意識と呼吸を確かめる。
動かしていい怪我か考える。
自分だけで無理なら、大人を呼ぶ。
久遠が想像していた強さとは、ずいぶん違っていた。
「戦い方は、いつ教えてくれるんですか?」
「必要になったら」
「いつ必要になります?」
「必要にならないのが一番だな」
恭也はそう言って、応急手当の本を一冊渡した。
久遠は少しだけ不満だったが、持ち帰って最初から読んだ。
分からない言葉には付箋を貼った。
翌日、桃子に尋ねた。
さらに次の日には、近所の薬局で小さな救急ポーチを買った。
消毒綿。
滅菌ガーゼ。
包帯。
絆創膏。
テープと、小さな鋏。
子供だけで使わない方がいいものは、桃子に教えてもらって外した。
一度使ったものを補充できるよう、中身の一覧も入れた。
「ずいぶん真剣ね」
桃子が完成したポーチをのぞき込む。
「また誰かが木から落ちるかもしれないので」
「そうね」
「納得するんですか?」
「半分だけ」
「残りの半分は?」
「なのはのためでしょう?」
久遠は黙った。
桃子は答えを求めず、包帯をもう一つ追加した。
「二人分あった方がいいものね」
◇
「久遠君。今日、少し会える?」
なのはから連絡が来たのは、その数日後だった。
待ち合わせ場所は、最初に子供を助けた公園。
黄色い帽子が引っかかっていた木の下で、なのははユーノを抱いて待っていた。
「前に話した子を、迎えに行くの」
挨拶のあと、なのはは真っ直ぐにそう告げた。
「難しい子?」
「うん」
「一人で行く?」
「ユーノ君もいるし、ほかにも一緒に行ってくれる人がいるよ」
「危ない?」
なのははユーノを抱く腕へ力を込めた。
「危なくないとは、言えないの」
「いつ帰る?」
「分からない」
「連絡は?」
「たぶん、届かないところへ行くから」
「たぶん」
「……届かないと思うの」
なのはは言い直した。
「でも、帰ってきたら必ず連絡する」
久遠は、やめろとは言わなかった。
何も知らないまま、なのはが決めたことを否定したくなかった。
代わりに鞄から、用意していた救急ポーチを取り出した。
「持っていって」
「これ、救急箱?」
「小さいから救急ポーチ」
「久遠君が作ったの?」
「桃子さんにも手伝ってもらった」
なのはが中を開く。
包帯が二つ入っているのを見て、久遠の顔を見た。
「二人分?」
「なのはと、その子の分」
「会ったこともないのに?」
「なのはが連れて帰りたい相手なんだろ」
「うん」
「だったら、帰ってくる人数に入ってる」
なのははポーチを胸元へ抱いた。
「使わずに帰れるかもしれないよ」
「その方がいい」
「わたしが二つとも使ったら?」
「怒る」
「やっぱり?」
「でも、帰ってきたら補充する」
「うん」
なのはは笑った。
いつもの、明るい笑顔だった。
それでも久遠には、手が少し震えているのが見えた。
「怖い?」
「……少し」
「怖いって言っていいんだよ」
「久遠君に言われると、ちょっと変な感じなの」
「僕も教わったから」
なのはは一度だけ深く息を吸った。
「怖いよ」
「うん」
「でも、行ってくる」
「うん」
「待っててくれる?」
「待つよ」
久遠は救急ポーチの蓋を閉じた。
「帰ってくるまで」
◇
久遠の知らない場所で。
なのはは遠い世界へ渡った。
崩れていく城の中を走った。
何度も名前を呼び、差し出した手を諦めなかった。
そして、一人だった少女もまた、最後にはその手を取った。
二人は傷ついた。
それでも、二人とも帰ってきた。
すべてが終わり、安全な場所へ移されたあと。
救護を待つ短い時間に、なのはは久遠の救急ポーチを開いた。
自分の腕へ、一つ。
金色の髪をした少女の手へ、一つ。
白い包帯を巻く。
「それは?」
少女が尋ねる。
「幼なじみにもらったの」
「君の?」
「二人分なの」
なのはは少女の手へ巻いた包帯を整えた。
「久遠君が、あなたも帰ってくる人数に入れたから」
「私を、知らないのに?」
「名前も、まだ知らないよ」
少女は自分の手を見つめた。
「変わった人だね」
「ちょっとだけね」
なのはが笑う。
少女の口元にも、ごく小さな笑みが浮かんだ。
「帰ろう、フェイトちゃん」
「……うん」
◇
連絡が来ない夜、久遠は道場にいた。
何度目かの受け身を取り、すぐに立ち上がる。
「もう一度」
「今日は終わりだ」
恭也が告げた。
「まだ時間があります」
「お前の意識が、ここにない」
久遠は黙った。
なのはがどこにいるのか分からない。
携帯電話もつながらない。
何度転んでも、何度立ち上がっても、何一つ届かない。
「帰ってくるまで、起きているつもりか?」
「連絡が来るまでは」
「待つ側が先に倒れてどうする」
恭也は道場の灯りを一つ消した。
「食べて、風呂に入って、眠れ。待つことと、動かずに壊れていくことは違う」
「眠っている間に、連絡が来たら」
「起きたときに返せばいい」
「遅いです」
「なのはは、お前を眠らせないために帰ってくるわけじゃないだろ」
それも分かっていた。
久遠は渋々頷く。
「誰かが帰ってくるか分からないとき、恭也さんは怖くないんですか」
「怖いよ」
恭也は迷わず答えた。
「だから、帰ってきたときに迎えられるようにしておくんだ」
久遠は家へ帰った。
食事をした。
風呂へ入り、携帯電話を枕元へ置いて目を閉じた。
眠れるはずがないと思っていたのに、いつの間にか眠っていた。
空が白み始めるころ。
短い振動で目を覚ます。
『帰ったよ』
久遠は眠気の残る指で返事を打った。
『おかえり』
すぐに、もう一度携帯電話が震える。
『ただいま』
その文字を見たまま、久遠は長く息を吐いた。
◇
翌日の夕方。
なのはが救急ポーチを返しに来た。
「中身、減ってる」
久遠が確かめる。
「うん」
「二つとも?」
「ちゃんと、二人分使ったよ」
なのはの腕には白い包帯が巻かれている。
もう一つは、ここにはいない誰かの手に巻かれているらしい。
「その子も帰れた?」
「うん。まだ、すぐには会えないんだけど」
「そう」
「でも、もう一人じゃないよ」
なのはの顔を見れば、それが本当だと分かった。
「名前、聞いてもいい?」
「フェイトちゃん」
「フェイト」
「フェイト・テスタロッサちゃん」
久遠はその名前を覚えた。
顔も知らない。
声も知らない。
どこから来たのかも、なのはと何をしたのかも知らない。
ただ、救急ポーチからなくなった包帯だけが、その少女も無事に帰ったことを教えていた。
「今度、紹介するね」
「うん」
「きっと、友達になれると思うの」
「なのはがそう思うなら、たぶん」
「また、たぶんなの?」
「まだ会ってないから」
なのはが笑った。
久遠も笑う。
「おかえり、なのは」
「ただいま、久遠君」
待っていた時間は、それでようやく終わった。
次の日、久遠はまた道場で転んだ。
帰ってきた誰かを、今度こそ支えられるようになるために。