地下水路の最初の扉を開けると、向こう側の灯りが一列に点いた。
誰かが侵入を知らせるために点けた灯りだった。
「待ち伏せはあると思う」
フェイトの後ろでシャッハが剣を構える。ヴェロッサの猟犬が床に鼻を寄せ、先の曲がり角へ消えた。
「右の通路に熱源が二つ。片方は動かない」
猟犬を追って角を曲がる。壁に小さな観測窓が並び、その奥には空の寝台が見えた。床には、運び出したばかりの機材の跡がある。
シャッハが観測窓の鍵を調べる。
「研究区画へ続く通路は、ここだけですか」
「図の上ではね」
フェイトは窓の向こうにある寝台の高さを見た。背の低い人間を固定するための位置に、細い跡が二本残っている。
誰が使った寝台か、まだ分からない。フェイトは記録を取ろうとした。入口の扉が勝手に閉じる音がして、手を止める。
「私達が来ると分かって、ここを空けたのかもしれない」
「だったら、先には人がいる」
シャッハが剣の切っ先を上げる。フェイトもバルディッシュの柄を握った。
その時、壁が鳴った。
シャッハが振り向く。壁の内側から伸びた手が、彼女の剣の腕を掴んだ。もう一方の手に握った刃が、肩口を裂く。
「シャッハ!」
フェイトが駆け戻るより早く、シャッハは自分で手を振りほどいた。壁から現れたセインは床へ沈む。攻撃を受けた肩に、赤い線が広がっていた。
斬りつけようとした先には、もう姿がない。セインは壁の向こうで移動し、反対側の観測窓から再び手を伸ばした。
ヴェロッサの猟犬がその腕を追う。シャッハは血のついた肩をかばいながら、窓と扉の両方を睨んだ。
「動けます」
「止血が先だ」
ヴェロッサがシャッハの前へ猟犬を並べた。セインは壁のどこからでも出られる。二人で周囲を見なければ、負傷した腕をかばいながら奥へ進めない。
「フェイト、先へ」
「でも――」
「入口を押さえる。ここを空けたら、帰る道もなくなるよ」
フェイトはシャッハを見る。彼女は剣を持ち直し、頷いた。
フェイトは一人で通路を進んだ。
背後に残した二人を心配して戻れば、奥へ運ばれた人の位置を見失う。奥へ行けば、二人の傷が増えるかもしれない。
ヴェロッサは入口を守ると言った。フェイトはその言葉を信じて、足を速めた。
その背後で、ヴェロッサの猟犬がもう一度壁へ吠えた。
◇
地上では、スバル達の前にギンガが立っていた。
襲撃の映像で見たのと同じ、十三番の表示が胸元にある。
「ギン姉」
呼んでも、返事がない。
ティアナが通信を開こうとする。スバルが走り出すより先に、隊の位置を知らせるためだった。
「待って、スバル。四人の位置を――」
地面に光の線が走った。
オットーの攻撃が二人の間を裂く。スバルは片足で踏みとどまったが、ティアナのいる側へは戻れなかった。
「ティア!」
「私は平気! そっちを見て!」
ティアナが叫ぶ。ギンガは、スバルとの間合いをもう詰めていた。
マッハキャリバーが足元を支える。
『単独での交戦になります』
「うん。ギン姉を、もう一度呼ぶ」
スバルは拳を上げた。返事がない相手でも、姉を番号で呼びたくなかった。
離れた廃ビルには、ティアナを追い込む結界が張られる。出口を探す彼女の前へ、ノーヴェ、ウェンディ、ディードが姿を見せた。
「スバルのところへ行かせて」
「ここから先は、あたしらの持ち場だ」
ノーヴェが前に出る。ティアナは彼女の手首に新しい留め具があるのを見た。地下の補給区画でヌメロンが渡したものだと、知るはずもない。
ノーヴェは肩をかばっていない。痛みを見せず、戦闘の構えを取った。
ティアナが初弾を撃った。
幻像を一つ、窓際に置く。ノーヴェがそちらへ踏み込むより前に、ウェンディの砲撃が幻像の足元を抜いた。
見破られている。
ティアナは二つ目を作らなかった。実弾を撃つ位置を変え、結界の継ぎ目へ端末を向ける。スバルの位置だけでもつかまなければならない。
「こっち見ろよ」
ノーヴェが間合いを詰める。肩を傷めているとは思えない踏み込みだった。ティアナは足を動かし、狭い廊下の柱を挟む。
スバルなら、この距離で相手の動きを止められる。今ここにいるのは自分一人だ。
ティアナは息を整え、結界の外へ向けて短い位置情報を送った。
◇
地下中央通路には、扉が三つあった。
真ん中の扉の前に、少年が立っている。
白と黒の騎士甲冑。仮面はない。
フェイトは足を止めた。六課の隊舎でヴィヴィオを抱いていた、あの少年だった。
「クオン?」
少年の目がフェイトへ向く。
「……ボクは、クオン・ヌメロン」
クオンという名の後に続いたものを、フェイトは胸の内で繰り返した。
「ヌメロン。ヴィヴィオを助けようとしてくれたのは、あなたでしょう」
「うん」
「なのはが迎えに行ってる。私は、ここにいる子達を助けたい。通して」
ヌメロンは首を横に振った。
「ここからは通せない」
少年の後ろには、研究区画へ続く扉がある。ヴェロッサ達が見つけた地図と、位置が一致する。
「なぜ?」
「ボクの役目だから」
「あなたが選んだの?」
ヌメロンは答えなかった。
フェイトは少年の手を見る。ヴィヴィオを抱いていた手だ。今は黒い頁が指の間に浮かび、扉の前で薄い障壁になっている。
以前、久遠が手を差し出した時のことを思い出す。十年前に会えなくなった幼なじみと、目の前の少年を同じ人だと言い切ることはできない。だからこそ、今ここにいる彼へ聞きたかった。
記録に残った血の写真を見た時も、はやてが話せなかった夜のことを聞いた時も、フェイトには自分の知らなかった久遠の時間があった。
今また、その顔に似た少年が、知らない場所に一人で立っている。
似ているからといって久遠として扱えば、この少年が自分で名乗った名前を聞き落としてしまう。フェイトは「ヌメロン」と呼んだ。
「ここを守らないと、誰かが困るの?」
ヌメロンはフェイトを見た。口が動きかけ、止まる。
通路の監視装置には、スカリエッティの接続表示が残っていた。
「答えられない?」
ヌメロンは頁を広げた。
「止まって」
警告の直後、床を走った黒い文字がフェイトの足元へ届いた。フェイトは跳んでかわす。立っていた場所の床が、折り畳まれるように塞がった。
フェイトが一歩下がれば、文字の動きも止まる。
奥へ進めば、また動く。
ヌメロンは彼女を倒そうとしているのではない。ここで留めている。
「聞きたいことがある。あなたの名前だけじゃない」
「ボクにも、聞きたいことはある」
「じゃあ――」
「でも、今は話せない」
フェイトの視線が監視装置へ向かった。
ヌメロンも見た。しまった、という顔ではなかった。見られていることを、最初から知っている顔だった。
フェイトが一歩踏み出す。
黒い障壁が道を塞いだ。
フェイトは肩を下げ、バルディッシュを構える。ヌメロンの目は彼女の武器へ移った。
「私を傷つけたくないなら、道を開けて」
「君が戻るなら、攻撃しない」
どちらも、相手の求める答えではなかった。
フェイトは速度を上げる。ヌメロンの頁が背後まで回り、通路の幅を狭めた。速さだけで抜けようとすれば、彼が張った刃に肩から飛び込むことになる。
フェイトがバルディッシュで受ける。刃は身体へ向かって伸びず、足を止めたところで壁へ戻った。
傷つけずに止めようとしている。
そう分かるから、フェイトも強く斬り返せなかった。
彼女は刃を伏せ、障壁の端へ柄を打ち込む。黒い頁が二枚裂けた。生まれた隙間へ踏み込むと、ヌメロンが身体ごと押し戻してくる。
ぶつかった腕は、映像で見た少年の腕より細かった。
フェイトが力を緩めた一瞬に、ヌメロンは裂けた頁を繋ぎ直す。新しい頁は、さっきより薄い。彼の呼吸も速くなっていた。
「下がって」
「あなたこそ」
ヌメロンはもう一枚広げた。出口だけでなく、左右の整備路まで塞ぐ。その分だけ自分の足元を守る頁が減る。
フェイトが見つけた隙を、彼は身体で埋めた。
◇
なのはとヴィータがゆりかごの外壁を抜くと、内部の通路は複数の層に分かれていた。
中枢へ向かう道と、艦を動かしている駆動路。両方を放っておくことはできない。
「あたしが駆動路へ行く」
ヴィータが言った。
「一緒に止められる方法を探そう」
「そんな時間ねえ。ヴィヴィオが待ってるだろ」
なのはは返せなかった。
ヴィヴィオを一人にしている時間が延びるほど、何をされるか分からない。駆動路を止めなければ、艦ごと遠くへ行ってしまう。
「戻ったら連絡して」
「お前もな」
ヴィータはグラーフアイゼンを肩へ担ぎ、枝分かれした通路へ入った。
なのはは姿が見えなくなるまで待った。それから中枢へ向かう。
通信には、フェイトの位置も表示されていた。地下施設の内部で、ひとつの区画から動かなくなっている。
『フェイトちゃん?』
すぐには返事がなかった。
なのはは足を止める。フェイトの反応は消えていない。けれど、これだけ長く同じ区画に留まる理由は何だろう。
『今、答えられなくてもいいから。怪我だけ、しないでね』
送った言葉に、返事はない。
なのはは通信を切らずに進んだ。自分がここで戻ってもフェイトのいる地下施設には届かない。その間、ヴィヴィオは艦の中枢に繋がれたままだった。
ゆりかごの奥から、幼い声が聞こえた気がした。
なのはは中枢の印を見て、走った。
◇
フェイトが障壁の右を抜こうとすると、ヌメロンは新しい頁をそこへ重ねた。
左へ跳べば、床に残った文字が足を取りに来る。フェイトは速度を落とさない。捕まる前に刃で術式を断つと、ヌメロンがその切れ目を身体で塞いだ。
フェイトの肩が彼の胸元へ当たる。細い身体が壁にぶつかった。それでもヌメロンは倒れない。フェイトが距離を取ると、彼も壁から背を離す。肩当ての下で、呼吸するたび胸が動いていた。
「ここでずっと立っているつもり?」
「君が戻るまで」
「戻らない。救助を待っている人がいる」
「知ってる」
フェイトの胸へ、その一言が重く落ちた。彼は奥に誰がいるか知っている。助けを求めていることも知りながら、ここに立っている。
フェイトはバルディッシュの切っ先を伏せたまま、一歩踏み込んだ。ヌメロンの頁がすぐに刃へ変わる。
二度、三度、打ち合う。
黒い頁の端がフェイトの頬をかすめた。熱いものが一筋流れる。ヌメロンの目がそこへ向いた。
「このくらいで止まれない」
「分かってる」
次の頁を作りながら、ヌメロンは膝を折った。踏み込みのためではない。傷ついた足が一度、身体を支えられなくなった。
フェイトは手を止める。止めた分だけ、ヌメロンは立て直し、後ろの扉に新しい障壁を足す。
壁には、壊された頁の跡が残っていた。ひとつ破るごとに彼は作り直す。左右の整備路、正面の扉、フェイトの足元。同じ身体で幾つも支えれば、次の頁を広げる手が少しずつ遅れる。
「ヴィヴィオは、あなたに助けてって言った」
フェイトが言う。
「なのはが迎えに行ってる。でも、ここにいる子達も同じだよ」
「……分かってる」
「なら、どうして」
ヌメロンは答えかけ、歯を噛んだ。監視装置の灯は消えていない。これ以上、何を守っているかも言えなかった。
「……通さない」
フェイトは、同じ言葉しか返ってこない理由をまだ知らない。
フェイトがさらに踏み込む。ヌメロンは止めようとし、肩から彼女の前へ出た。
バルディッシュの柄が障壁へ当たる。黒い頁が砕け、その衝撃がヌメロンの腕まで伝わった。鈍い音がして、片腕が垂れる。まだ動く方の手で、彼はもう一枚、扉へ押しつけた。
フェイトは彼の前から離れる。
倒せば通れる。それが分かっていても、十年前の久遠に似た少年が自分を見上げる目を、見ないふりはできなかった。
そのためらいの間に、ヌメロンは呼吸を整えないまま頁を増やした。使った力を取り戻せるわけではない。床に落ちた頁の端が、黒い光の粉となって消える。
フェイトは気づいた。彼が立ち続ける限り、この戦いは彼の身体から削られていく。
「ヌメロン。もう立てないでしょう」
「まだ、通してない」
少年が名を呼ばれて顔を上げる。その隙にフェイトは奥へ跳ばなかった。
「あなたがそこを守る理由、いつか聞く。今は、私が通る」
「通さない」
ヌメロンは扉の前へ戻る。フェイトが一撃を避ければ、その背に頁が回る。逃げ道を塞ぐ動きに迷いはない。
魔力を通路いっぱいに広げれば、彼も施設の奥にいる人達も巻き込む。フェイトは正面の障壁だけを狙った。
金色の光が、厚く重ねた頁へぶつかる。
一枚目が砕ける。二枚目が裂ける。ヌメロンは肩を壁に預け、垂れた腕まで持ち上げて三枚目を重ねた。
フェイトが力を緩めたら、また道を塞ぐ。彼が倒れるまで続くと分かった。
フェイトは金色の光を収めなかった。最後の障壁が壊れるまで押し切る。
砕けた黒い頁の向こうで、ヌメロンが膝をついた。まだ手を伸ばす。その指先から生まれた細い頁が、形になる前に消えた。
フェイトは彼の背後へ回った。ヌメロンも振り向こうとするが、足が滑る。倒れかけた身体をフェイトが受け止め、床へ下ろした。
手首だけを短い拘束の光で留める。拘束がなくても、彼は起き上がれなかった。
「……行かせたくなかった」
ヌメロンの声が掠れる。
「分かってる」
フェイトの頬に血が残っている。ヌメロンの肩当ては割れ、片腕は力なく床へ落ちていた。刃を向けずに抜けようとして、彼をここまで傷つけたのは自分だった。
「手当てを呼ぶ」
「ここには、呼ばないで」
監視装置の灯が残っている。フェイトには拒まれる理由が分からない。入口ではまだシャッハ達が戦っている。誰かを今すぐ寄越せる状況でもなかった。
ヌメロンの呼吸と脈を確かめる。意識はある。すぐに危険な状態ではないと分かっても、そこに寝かせて行くことが正しいとは思えなかった。
「あとで戻る。あなたの話を聞きたい」
返事はない。
フェイトは扉を開け、奥へ進んだ。
ヌメロンは追おうとして肘をついた。身体は床から離れない。拘束が消えても、立てないことは分かっていた。
閉まりかけた扉の向こうへ、もう一度、指を伸ばす。黒い頁は出なかった。
監視装置からスカリエッティの声がした。
『よく持たせてくれたね』
ヌメロンは顔を上げられなかった。垂れた腕を動かそうとしても、指先しか動かない。
「……命令、は」
『君を攻撃する指令なら、まだ出していない。最後まで止めようとしたのを見ていたよ』
「……十二人、とも?」
『ああ』
ヌメロンは息を吸った。うまく入らず、次の言葉が出るまで時間がかかる。
「……みんな、は」
『それぞれの任務を続けているよ』
それ以上を聞こうとして、咳が出た。あの子達の声が聞きたかった。スカリエッティから、もう返事は来ない。
十二人への指令は今は出ていない。それしか確かめられなかった。
フェイトの足音が遠ざかる。ヴィヴィオのいる艦へは行けない。十二人の誰のところへも行けない。肘をつき直すと、腕が折れて、床へ戻った。
施設の管制回線に、地上からの短い戦況報告が入る。銃声に混じってノーヴェの声が聞こえた。ほかの声も続いた。帰還の報告は、まだない。
もう一度、身体を起こそうとする。掌が滑り、また同じ場所に倒れた。扉まで這う力も残っていない。
ノーヴェの壊れた留め具を直しかけたまま、補給区画に置いてきた。彼女が帰ったら渡すつもりだった。
その部屋へも、今は戻れない。
通路の奥で、別の二人の足音がフェイトを迎えた。
◇
廃ビルの結界の中で、ティアナが膝をついた。
ディードの刃が足をかすめた。走れば痛む。撃つ姿勢を取り直す間に、ノーヴェとウェンディが位置を変える。
「まだやるのか」
ノーヴェが尋ねる。
「スバルに連絡するまでは」
ティアナは端末へ手を伸ばした。結界の外へ声が届くまで、撃ち続けるしかない。
別の場所では、ギンガの拳をスバルが受けていた。
「ギン姉、私だよ」
押し返す腕に、ためらいはない。
エリオとキャロの前にも、ルーテシアとガリューがいる。キャロが名前を呼んでも、ルーテシアは顔を上げなかった。
誰もまだ、連れて帰りたい相手へ手を伸ばせていない。
アースラに届く報告は、分断された位置と負傷者の数ばかり増えていった。
◇
ヴィータは駆動路の奥で、グラーフアイゼンを振り下ろした。
硬い外殻が割れ、内部の駆動音が一つ止まる。隣の機構はまだ動いている。彼女は次の支柱へ向かった。
なのはからの通信が一度入る。
『ヴィータちゃん、そっちは?』
「進んでる。お前は奥へ行け」
『うん。気をつけて』
「分かってるよ」
短く切った。なのはの声はヴィヴィオに近づくにつれ、静かになっていた。
ヴィータは自分の胸元に残る古い傷へ手を当てかけ、やめる。見上げた駆動路の天井には、まだ動いている機構がいくつもあった。
「ここを止めりゃ、あいつらが帰れる」
もう一度、槌を構える。
暗がりから伸びた細い影に気づいたのは、振り下ろす直前だった。
身体を捻る。避けきれない。硬いものが、彼女の脇腹を貫いた。
グラーフアイゼンが床へ落ちる音が、駆動音の間に響く。
『ヴィータちゃん?』
なのはの声が通信から漏れた。
ヴィータは応えようとした。口を開いても、息だけが出る。
少し離れた通路で、なのはが足を止めた。
『ヴィータちゃん。返事して』
中枢へ向かう印は、まだ前にある。
なのはは通信を切らず、もう一度、ヴィータの名前を呼んだ。