魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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第三十七話 返事を待つ場所

「あの研究を、誰が止められた」

 

 ゼストの問いに、レジアスはすぐ答えなかった。

 

 机には地上本部からの退避命令がある。職員を安全な区画へ移すため、自分が先ほど承認したものだ。ゼストの部隊が研究施設へ踏み込んだ時、同じように職員の名前を並べて考えることができていたか。

 

「私には、止める権限があった」

 

 ようやく言う。

 

「なら、なぜ」

 

「守るために必要だと、思った」

 

 レジアスはゼストから目を逸らさない。地上の人間が救援を求めても、本局の判断を待つうちに手遅れになる。自分達で動かせる力を持ちたかった。そのために、見てはいけない書類へ何度も目を通した。

 

「研究に問題があることは知っていた。君達があの施設へ向かった理由も分かっていた。だが、君達が殺されたのは、すべてが終わってから知った」

 

 ゼストの手が槍の柄を握る。

 

「知らなければ、許したことにはならないと?」

 

「ならない」

 

 レジアスの声は乾いていた。

 

「報告を上げた者を遠ざけたのは私だ。君の部隊が何を見るか、分かっていたのに」

 

 言葉にすると、机の上の退避名簿も違って見える。かつて失った者達にも名前があった。いつの間にか事件番号だけで話していた。

 

「クイントのことは、スバル達に――」

 

「俺が聞く」

 

 ゼストが遮った。娘達のところへ責任を押しつける話を聞きに来たわけではない。

 

「友人だったお前が、俺達を見なかった理由を聞いている」

 

 レジアスは口を閉じる。地上を守りたいと言えば、ゼストがまだ分かってくれると思っていた時期があった。ここで同じ言葉を使えば、もう二度と目を合わせられない気がした。

 

 扉の外で短い認証音が鳴った。

 

「今は、入るな」

 

 レジアスが言う。返事はなかった。

 

 外の廊下でドゥーエは、扉越しに聞こえた声を思い返す。古い部隊のこと。地上を守るために見なかったもの。どちらの言葉が正しいか、彼女が決める役目ではない。

 

 入室認証は通っている。書類を届けて去るだけなら、レジアスはこのあとも生きて、部隊について答えるだろう。

 

 ドクターから与えられた任務も、ここまで入るために使った顔も、なくならない。ドゥーエは紙束の下に刃を沿わせる。扉が開く前に、一度だけ指が止まった。

 

 帰還口で「おかえり」と言う少年の顔が浮かぶ。自分が何をしたか話せる日が来るのか、分からなかった。それでも今は扉を押す。

 

 予定表には、退避資料を運ぶ補佐官の入室が載っている。警備の確認を抜けた顔が、扉の隙間から覗いた。長く地上本部で見慣れてきた職員の顔だった。

 

「急ぎの書類です」

 

 ゼストは槍を下げていた。レジアスも、彼の目から離れて資料を受け取ろうとする。

 

 差し出された紙の下に、細い刃があった。

 

「レジアス!」

 

 ゼストが叫ぶ。刃はもう、レジアスの胸へ届いていた。

 

 レジアスは書類を落とす。退避者の名前が床に散った。

 

 刃を握った女の顔が変わった。

 

 ナンバーズの二番、ドゥーエ。

 

 ゼストが間へ入る。ドゥーエはレジアスを支えるふりをして身体を寄せ、もう一方の刃をゼストに向けた。

 

「まだ仕事が残っています」

 

 声は穏やかだった。レジアスに刺した刃を抜けば、助からないことを彼女自身も分かっている。

 

 ゼストは槍で刃を払う。ドゥーエは身を翻し、机を間に挟んだ。次の動きは速い。ゼストの喉を狙った手を避け、槍を振り抜く。

 

 ドゥーエが壁に当たった。

 

 破片が床に落ち、彼女の片腕が動かなくなる。それでももう一度立とうとする。

 

「やめろ」

 

 ゼストは、彼女を知らない。

 

 レジアスにしたことは見た。止めなければ、自分の後ろの人間にも刃を向ける。そう判断して槍を構えた。

 

 ドゥーエの顔から、別人の輪郭が薄れる。

 

 出撃前に会った少年が、一度だけ頭に浮かんだ。

 

『戻ってからのお楽しみです』

 

 あの時、自分は帰る時刻を言わなかった。いつも通りの見送りだと思っていた。

 

 戻ったら、あの子がまた先に声をかけるのだと思っていた。自分の口から何を言うかは決めていなかった。

 

 ゼストの槍が届く。

 

 ドゥーエの身体が床へ落ちた。

 

 ゼストは槍を引き、レジアスのそばに膝をつく。声をかける。返ってきたのは浅い息だけで、言いかけた答えの続きはなかった。

 

 レジアスの目は、床の名簿へ向いたまま閉じた。

 

     ◇

 

 シグナムとアギトが部屋へ着いた時、ゼストはそこにいた。

 

 槍の先には血が残る。床には二人が倒れ、散った書類の間へ、ゼストの影が落ちている。

 

「何があった」

 

 シグナムはレヴァンティンを抜いたまま尋ねた。

 

「この女がレジアスを刺した」

 

 ゼストはドゥーエを指す。

 

「俺が、彼女を止めた」

 

 シグナムは二つの傷と凶器の位置を見る。槍の傷はドゥーエの側にある。レジアスの胸には、細い刃が残っていた。

 

 アギトはゼストの肩へ寄った。いつもなら、言い訳ひとつせず槍を握る相手が、今は立ち上がるのに時間をかけている。

 

「その子、戦闘機人か」

 

 シグナムの問いに、ゼストが頷く。

 

「俺は名を知らない」

 

 アギトが床の識別を読む。

 

「二番……ドゥーエ」

 

 シグナムは通信を開いた。人命救助と現場の保全を求める。室内の二人にもう手は届かない。通路の向こうには、まだ避難している職員がいた。

 

 ゼストはレジアスのそばから動かない。シグナムも、彼を追い立てなかった。

 

     ◇

 

 地下施設の中央通路で、ヌメロンは手当てされた腕を見ていた。

 

 動かせば痛む。ウーノに止められた通り、静かにしている方がましだった。

 

 壁の端末に、各地の配置が小さく表示される。戦いが始まってから、戻った者の欄はまだない。ティアナの結界が解けたことでノーヴェ達の位置が変わり、ヴィヴィオのいる艦はさらに高く昇っていた。

 

 どこかの回線で短い警報が鳴る。

 

 十二人の名前が並ぶ欄を、ヌメロンはすぐには見なかった。いつも警報ばかりが増える。ウーノが戻れば、何の報告か教えてもらえると思った。

 

 二度目が鳴った。

 

 顔を向ける。二番の文字が、灰色になっている。

 

 ドゥーエ。

 

 最後の受信時刻から、数字が増えていく。隠密任務なら通信を切ることもある。彼女は顔を変え、記録の外を歩くのが仕事だ。

 

 それでも、この欄の小さな反応まで消えたことはなかった。

 

 出撃前、彼女が別の顔で話しかけてきた時にも、この欄だけは二番だった。姿が見えなくても、どこかでまだ任務を続けていると分かった。そのための小さな表示だった。

 

 ヌメロンは、隣の印を確かめる。一番がある。三番もある。順に追うと、二番だけが抜けていた。画面の故障ならほかにも同じことが起きてほしかった。

 

「……ドゥーエ?」

 

 端末を触ろうとする。腕の固定具が床に引っかかり、指が届かない。

 

 ウーノの管制回線を呼ぶより、監視装置が先に点いた。

 

『彼女の連絡が途切れたようだね』

 

 スカリエッティの声だった。

 

「どこにいるの」

 

『任務中だ。私にも詳細な状況は分からない』

 

「さっきまで、ここにあった」

 

『潜入中に反応を消すのは珍しくないよ』

 

 ヌメロンは返事をしなかった。あの子の仕事を知っている。隠す時には、どの情報が消えて、どの情報だけが帰還のために残るかも聞いた。今消えたのは、帰ってくる時にも残していた方だった。

 

「迎えに行きたい」

 

『君が動けば、残った子達にはどういう指令が届くかな』

 

 声に強さはない。ヌメロンは壁の方へ手を伸ばし、痛みで止めた。

 

 自分で行けないことを、身体が先に教えてくる。たとえ立てても、その先で誰を傷つけさせられるか分からない。

 

「……まだ、決まってない」

 

『何がだい?』

 

「帰らないって、決まってない」

 

 スカリエッティの返事はなかった。

 

 もう一度、床に手をつく。膝を寄せたところで、固定していた肩から熱い痛みが走る。身体が持ち上がらない。

 

 目の高さが下がった。

 

 包帯を巻いた腕が、さっきより小さい。固定具の端が浮き、服の袖に手が隠れる。使い切った力で保っていた十三歳の輪郭がほどけ、九歳ほどの姿へ戻っていく。

 

 指を包んでいた布も緩み、床へ落ちた。拾おうとして身体を動かすと、肩が言うことをきかない。小さくなった身体なら通路を這って行けるのではないかと、ヌメロンは一度思った。肘さえ支えられず、頬が床に触れた。

 

 遠くの地上本部へ行くには、まず扉まで行かなければならない。その距離が今は残っている。

 

 落ちていた頁が戻ったわけではない。指を開いても、黒い文字は一つも生まれなかった。

 

 ドゥーエの印は、灰色のままだ。

 

 ストライク。

 

 別の場所にいる兄弟へ、見たものが伝わる。端末の文字、動かない腕、名前を呼んだ自分の声。けれど記憶を見せるだけでは、頼みごとにはならなかった。

 

「ストライク……聞いて」

 

 声にすると、今の身体には大きすぎて、咳が出た。

 

     ◇

 

 地上でストライクは、崩れた街路の角に立ち止まった。

 

 避難車両の最後尾が曲がり角を抜けたところだった。ノーヴェ達のいる廃ビルからも少し離れている。白い仮面の内側へ、ヌメロンの記憶が流れ込む。

 

 二番の反応が途切れた。床に置かれた腕は、見慣れた十三歳のものより小さい。

 

 ストライクにも、その先は見えない。ドゥーエがどこで倒れたのかも、そもそも倒れたのかも知らない。

 

「聞いてる」

 

 口に出すと、近くの退避誘導員が一瞬振り返った。ストライクは人のいない路地へ入る。

 

『ボクが、行けない』

 

「見た」

 

『ドゥーエが、消えた』

 

 子供の声が震える。ストライクは答えを急がなかった。ヌメロンはまだ、ドゥーエが死んだとは言っていない。言えるだけのものを受け取っていない。

 

『見てきて。まだ帰れるなら……連れて帰って』

 

 ストライクが拳を握る。

 

「分かった。俺が行く」

 

『……お願い』

 

 助けを求める相手の声が、途中で切れた。通信障害ではない。息が足りず、続けられなくなっただけだった。

 

 ストライクはノーヴェ達の方角を見る。姿は見えない。地上を回り、負傷した子を見つければ動くようにとオーダーに頼まれた。その仕事は、終わったわけではない。

 

 それでも、ヌメロンから今、具体的な頼みを受けた。

 

 レジアスの執務室。最後に分かっているドゥーエの行き先へ向かう。道中で何が起きているか、行くまで分からない。

 

 オーダーが暗殺の見立てを伏せた記憶も、ストライクにはある。だからこそ急ぐ。誰に責任があるかを問いただすのは、ドゥーエの姿を見つけてからでもできる。

 

 自分も、あの見立てを知っていた。地上でディエチを助け、その後もほかの姉妹の動きを追った。その間、ドゥーエがどこにいるかを確かめには行かなかった。今、ヌメロンから頼まれたことが、それまでの時間を戻してくれるわけではない。

 

 白い仮面を直し、走り出した。

 

     ◇

 

 アースラへ入った地上本部の報告は、最初は二人の死亡通知だけだった。

 

 レジアス・ゲイズ。身元確認中の戦闘機人。

 

 はやては送られてきた執務室の映像を開き、床に落ちた番号を読んだ。

 

「二番……」

 

 そばにいたクロノも、同じ映像を見ている。彼の端末には、以前オーダーから受け取った地上本部の避難経路が残っていた。その資料には、執務室へ入る補佐官の動線まで載っている。

 

「オーダーを呼ぶ」

 

 クロノの声は静かだった。

 

 通信像が現れる。スーツ姿の男は、いつも通りに画面の前へ座っていた。

 

『レジアスの件かい』

 

「君が送った資料に、暗殺者の出入りは含まれていたか」

 

「出入り予定はあった」

 

「身元は?」

 

 オーダーは少しだけ間を置いた。

 

「偽名だと考えていた。レジアスが狙われる可能性も推定していた」

 

 はやてがクロノを見る。クロノはオーダーから目を離さない。

 

「それを、僕には送っていない」

 

「送らなかった」

 

「なぜ」

 

 オーダーの隣に、送信されず残った資料が映る。彼は消さなかった。

 

「レジアスがいなくなれば、地上本部で私の進めたい人事が通る。彼を守る情報を渡すことは、その機会を失うことだった」

 

 クロノが息を吸う。

 

「君が殺したと言っているわけじゃない。間に合うかもしれない情報を持っていたのに、僕が判断する機会を奪った」

 

「そうだ」

 

 オーダーは弁明しなかった。先に送った避難経路で、逃げられた職員もいる。だからといって、伏せたもう一通の重さは変わらない。

 

 遠い地下の通路で、ヌメロンが小さくなった腕を持ち上げられずにいる。同じクオンであるオーダーには、その記憶も届いていた。ストライクが助けに向かったのは、彼が命じたからではない。弟が自分の口で頼んだからだ。

 

「君は、僕が止めろと言ったことは守る。何年もそうしてきた」

 

 クロノの声がわずかに低くなる。

 

「言われていない手段を使う前に、今回の結果を考えなかったのか」

 

「考えたよ」

 

 オーダーは、地上本部の警護へ関する資料をクロノへ送った。今なら偽名の照合に使える。レジアスを守るためには、もう使えない。

 

「遅い」

 

「分かっている」

 

 はやては言葉を挟めなかった。目の前の男が、彼女達へ必要な時に情報を送ってきたことも事実だ。クロノの顔には、その歳月だけの疲れがあった。

 

「クロノ君。出入り予定を見とったのなら、あの部屋を守る人に先に渡せた」

 

 はやてが言うと、オーダーは頷いた。

 

「送れば、ドゥーエは見つかったかもしれない」

 

 彼が見つかってほしくなかったのはレジアスではなく、殺しに向かった方だった。はやてはそこで気づき、胸が冷えた。どちらの死も、これで取り消せない。

 

「地上の指揮権を、この件を隠したまま動かさないで」

 

 クロノが言う。

 

「自分の判断を記録に残して。あとで必ず聞く」

 

「記録する」

 

 通信が切れた。はやてが画面から顔を上げる。

 

「クロノ君、あの男が……」

 

「僕が知っていたはずの人だ。君の作戦は続けて。地上の後始末は僕が受ける」

 

 クロノは次の通話を開いた。はやてはまだ、地上の報告にある二番の正体を六課へ共有していない。ヴィータの反応も、フェイトの反応も追っている最中だった。

 

     ◇

 

 市街地では、エリオがガリューの刃を両手で止めた。

 

 先ほどまで、キャロが名を呼ぶとルーテシアの目が動いた。今は召喚の指示だけが、彼女の口から落ちてくる。

 

「キャロ、右へ」

 

「うん」

 

 フリードの背に乗ったキャロが高度を変える。真下で召喚陣が開いた。避け切れない衝撃に背が揺れ、フリードの翼が壁をかすめる。

 

「ルーテシアちゃん、私たちの声、聞こえる?」

 

 ルーテシアは答えなかった。キャロの方を見ても、視線が通り過ぎる。誰かに操られていることは分かる。どこからなのか、ここからは分からない。

 

 エリオが前へ出た。ガリューはルーテシアの命令を守っている。彼だけを倒せば、ルーテシアが別のものを呼ぶだろう。

 

「彼女を止める。キャロ、離れないで」

 

「うん」

 

 キャロはフリードを地面へ下ろした。逃げるための高さを捨て、呼びかけが届く距離まで進む。

 

 エリオの槍がガリューの腕を受け、その隙間をキャロが抜けた。ルーテシアの魔法が、少女二人の間で爆ぜる。

 

 キャロは腕で顔をかばう。痛みが走る。それでも立ち止まって、名前を呼んだ。

 

「ルーテシアちゃん! 私を見て」

 

 紫の瞳が、一瞬だけキャロを捉えた。

 

「……かえ、れない」

 

 ルーテシアの唇が、そう動いた。すぐに召喚陣が再び光り、苦しそうに顔が歪む。

 

「帰るところがあるんでしょ」

 

 キャロには、その場所を用意できない。けれど、ルーテシアが目を開いた時にそこへ向かえるよう、今はこの場で止めたかった。

 

 エリオがガリューを押し返す。シグナムに教わった一歩の踏み込みを使い、ガリューの身体をルーテシアから離す。キャロと目が合った。

 

 二人の攻撃が同時に届く。ルーテシアの周りの術式が裂け、少女が膝をついた。

 

 ガリューの動きが止まる。

 

「ルーテシアちゃん」

 

 キャロが駆け寄ろうとした時、背後で新しい召喚陣が開いた。ルーテシアの目は閉じている。誰の指示もないまま、呼ばれていたものだけが動き始めた。

 

 エリオがキャロの腕を引く。

 

「まだ終わってない」

 

「うん。ここにいる子達も、止めよう」

 

 フリードが前へ出る。キャロは倒れたルーテシアと召喚されたものの間に立った。

 

     ◇

 

 スカリエッティの研究室で、フェイトの手首を留める光はまだ消えていない。

 

 壁に映る別の戦場で、エリオとキャロがルーテシアを守りながら退いていた。映像には途切れた音声も混じる。

 

「よく育てたね」

 

 スカリエッティが言う。

 

「あの子達に何かするつもりなら、私に――」

 

「君は自分で作られた経緯を知っている。親が望んだ通りに生きられなかった時、どう呼ばれた?」

 

 フェイトは息を止めた。ここで母の話を持ち出されると思っていなかったわけではない。それでも、エリオとキャロの姿を見ながら聞きたくはなかった。

 

「あの子達を、そんな話に使わないで」

 

「君と同じ技術に連なる子だ。心配するのは当然だよ」

 

 スカリエッティは拘束を解かないまま、バルディッシュの欠けた刃へ視線を落とす。

 

「君はあの通路の少年にも似たものを見たのかな。自分の来歴を知らずに立つ姿に」

 

「あの子が何を知っているか、あなたにも分からないはず」

 

「そうだね。だから興味がある」

 

 少年を語る声に、愛情はなかった。フェイトは、自分が彼の肩を砕いたことを忘れられない。そうしてこの部屋へ来て、まだ誰も連れ出せていない。

 

 壁の向こうでキャロが再びルーテシアを呼ぶ声がした。

 

 それは、届くかどうか分からなくても呼び続ける声だった。

 

 フェイトがバルディッシュの柄を握る。欠けた刃は戻っていない。拘束を外すために残せる魔力も、限られている。

 

『フェイト』

 

 相棒だけが、短く応えた。

 

 フェイトは腕を引き、床へ届く拘束の根元を探った。今はまだ動かない。それでも、スカリエッティが次に映像へ目を向ける瞬間を待てる。

 

     ◇

 

 ゆりかごの玉座では、なのはの盾がヴィヴィオの拳に押し込まれていた。

 

 力で押し返せば、ヴィヴィオの腕が傷つく。なのはは肩を下げ、衝撃を身体の横へ逃がす。壁に置いた測定光が、クアットロの投影像へ流れる次の信号を拾った。

 

『前回より方向が絞れました』

 

 レイジングハートが告げる。なのははその位置へ視線を動かさない。見たと知られれば、クアットロが経路を変える。

 

「そろそろ、疲れたでしょう?」

 

 投影像が笑う。なのはは息を整えながら、ヴィヴィオの次の足音を待った。

 

「ヴィヴィオも、疲れてるよ」

 

「でも止まれませんわ」

 

 なのはには、その言葉が自分に向けられているのか、ヴィヴィオに向けられているのか分からなかった。

 

 ヴィヴィオの手が、また肩の傷へ来る。なのはは受け止め、指先に触れる。

 

「帰ろう。まだ聞いてくれなくても、何度でも言うから」

 

 ヴィヴィオの目が、一瞬だけなのはを追った。そこへ操作の光が重なり、指が再び強く握られる。

 

 なのはは手を離す。壁の小さな測定光を、一つだけ増やした。

 

     ◇

 

 駆動路では、ヴィータが槌を床へ突いた。

 

 脇腹の傷を押さえていた手を離すと、痛みで視界が揺れる。傷を広げない姿勢を探す時間はない。駆動機構はまだ、ゆりかごを動かしている。

 

「なのはは……着いたか」

 

 通信には答えがない。返事がなくても、なのはが中枢へ進むと言った声は覚えている。

 

 ヴィータはグラーフアイゼンを引き寄せる。一撃で止まらなかった支柱の奥に、もっと大きな駆動炉がある。こちらを止めなければ、ヴィヴィオを乗せた艦ごと空へ昇り続ける。

 

「まだ、やれる」

 

 言葉で痛みが消えるわけではない。槌を持つ手だけは、放さなかった。

 

     ◇

 

 地下中央通路で、ヌメロンは端末の二番を見つめていた。

 

 ウーノが戻り、身体に合わなくなった固定具を替えた。何が起きたかは知らない、と彼女も言った。二番の欄はまだ灰色だ。

 

「ほかの子は?」

 

「管制で確認できる限り、反応はあります」

 

 残った十一人の反応は、今も各地にある。彼女達に自分を攻撃させる指令もまだ出ていない。それを聞いても、失われた一つの欄は元に戻らない。

 

 ウーノが水を差し出す。ヌメロンは手を伸ばしたが、小さくなった指に力が入らず、受け取れなかった。ウーノが容器を支える。

 

「お兄様、ドゥーエは――」

 

「分からない」

 

 彼女に言わせたくなかった。確認されていないことを、どちらかに決めたくない。

 

「ストライクが、見に行ってくれる」

 

 ウーノの手が止まる。

 

「あなたが頼んだのですか」

 

「うん。ボクは行けないから」

 

 自分で名を呼べば、向こうが返事をしてくれると思っていた。最初に二番を呼んだ時は、帰還口でドゥーエが振り返った。

 

 今は、名前を呼んでも通路の壁に声が当たるだけだ。

 

 ウーノが容器を下ろした。何か言いたげな顔をしたが、監視装置の灯を見て口をつぐむ。

 

 ヌメロンは自分の小さな手を見る。直せなかった留め具も、届かなかった扉も、指先に残る。

 

 ストライクがまだ着いていないことだけは、共有される足音で分かった。

 

「返事、待つ」

 

 ウーノは頷き、そばに座った。次の任務報告が管制へ届くまでの短い間だけだった。

 

 壁の二番は、灰色のまま動かなかった。

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