フェイト・テスタロッサは、白い包帯の子だった。
「久遠君。その覚え方は、ちょっとどうかと思うの」
「ほかに知ってることがなかったから」
「名前、教えたよ?」
「名前と包帯」
「増えてないの」
最初に子供を助けた公園で、なのはが頬を膨らませる。
その隣に立つ少女は、少し困ったように二人を見比べていた。
金色の髪。
結んでいるのは、細い白いリボン。
左手には、もう包帯はない。
「はじめまして」
少女が小さく頭を下げる。
「フェイト・テスタロッサです」
「溱《みなと》 久遠《くおん》。はじめまして」
「包帯、ありがとう」
挨拶の次にそれが来た。
「僕はポーチに入れただけだよ」
「でも、なのはが言ってた。久遠は、私も帰ってくる人数に入れてくれたって」
「帰ってきたんだから、入れて正解だった」
「うん」
フェイトが微笑む。
なのはの笑顔とは違う。
まだ笑うことに慣れていないような、静かな笑顔だった。
「久遠君、フェイトちゃんはね、しばらく遠くに行くの」
「また?」
「今度は危ないことをしに行くんじゃないよ。いろいろ、お話ししないといけないことがあって」
なのはは、それ以上を言わなかった。
久遠も聞かなかった。
聞いても答えられない話なのだろう。
「帰ってくる?」
フェイトへ尋ねる。
少女は一度、なのはを見た。
それから久遠へ向き直る。
「帰ってくる」
さっきより、少しだけ強い声だった。
「今度は、自分でそう決めたから」
「じゃあ、帰ったら教えて」
「どうして?」
「おかえりを言うから」
フェイトは目を丸くした。
隣で、なのはが嬉しそうに笑っている。
「うん。約束する」
「わたしには毎回言わせるのに、フェイトちゃんには約束してあげるんだ」
「なのはは約束しなくても連絡するだろ」
「するけど」
「なら同じだよ」
「同じかな?」
「同じだと思う」
フェイトまで、なのはの味方をした。
どうやら友達にはなれそうだった。
◇
フェイトと二度目に会える日は、まだ決まっていなかった。
だからといって、待つことだけで一日を埋めるわけにはいかない。
学校へ行き。
恭也に転ばされ。
応急手当の本を読んだ。
借りていた本を返すため、市立図書館へ行ったのは、そんな休日の午後だった。
「あと、三センチ……」
本棚の間から、小さな声が聞こえた。
「いや、二センチ……いける。たぶん、いける」
のぞいてみる。
車椅子に座った少女が、片腕を上へ伸ばしていた。
指先の先に、青い背表紙の本がある。
車輪を押さえ、身体を精いっぱい伸ばしているが、わずかに届かない。
久遠は隣へ立ち、本を棚から抜いた。
「これ?」
「あ」
少女が顔を上げる。
肩にかかる茶色の髪。
驚いた青紫色の目が、久遠と手にある本を交互に見た。
「それや。ありがとう、お姉さん」
「男だけど」
「え」
「僕、男」
少女はしばらく久遠の顔を見つめた。
「……顔だけやったら、分からへんかった」
「声を聞いてから言ったよね」
「声もきれいやったから」
「褒めても訂正にはならない」
「ほんなら、可愛い男の子」
「悪くなった」
少女が声を立てて笑った。
「ごめん、ごめん。助かったんはほんまやで」
「ならいいけど」
久遠は本を差し出した。
表紙には、見たことのない料理がいくつも並んでいる。
どうやら外国料理の本らしい。
題名も、久遠には読めない言葉で書かれていた。
「料理の本?」
「せや。写真が一番おいしそうやったから」
「読めるの?」
「これから頑張るところや」
「読めないんだ」
「写真は読める」
「それは見るって言うんだよ」
「細かいこと気にするなあ」
少女は本を膝へ載せた。
ずいぶん厚くて重そうだった。
「運ぼうか」
「大丈夫。膝に載せたら自分で運べる」
「でも――」
「さっきみたいに、届かんときは助けてもらう」
少女の声は明るいままだった。
けれど、言葉ははっきりしていた。
「車椅子やからって、何でもやってくれんでええよ」
久遠は自分の手を引いた。
「ごめん」
「謝れるんやったら、ええ人やな」
「可愛いは取り消して」
「それとこれは別や」
「別なんだ」
「別やね」
少女は満足そうに頷き、車輪へ手をかけた。
「ほなな、親切な可愛い男の子」
「待って」
「怒った?」
「そっち、閲覧席と反対」
少女が進もうとしていた先には、資料室と書かれた扉しかなかった。
「……知っとったで?」
「そう」
「ちょっと、方向を確かめただけや」
「閲覧席まで案内しようか」
「お願いします」
今度は素直だった。
◇
窓際の席は、午後の日差しで暖かかった。
少女は料理の本を開き、久遠は返却前の応急手当の本を置いた。
「案内はここまででいい?」
「せっかくやし、一緒に読まへん?」
「料理の本を?」
「一人より二人の方が、解読できるかもしれへん」
「僕も読めないよ」
「写真は読めるやろ」
「見る、ね」
「まだ言うてる」
久遠は向かいの椅子へ座った。
最初の頁には、丸い鍋に入った白い料理が載っている。
その横に材料らしき単語と数字が並んでいた。
「これは牛乳かな」
「なんで?」
「白いから」
「それやったら、小麦粉かもしれへんで」
「じゃあ、こっちは?」
「白いから塩」
「砂糖かもしれない」
二人で頁を見つめる。
「作ったら分かるかな」
「分からん材料で作ったらあかんと思う」
「料理するんだ?」
「好きやで。一人分やと、量を合わせるんが面倒やけど」
「家族は?」
「今は私一人」
さらりとした答えだった。
久遠は何を返せばいいか迷った。
可哀想だと言うのは違う気がした。
「じゃあ、失敗しても被害は一人分だね」
「そこは成功する前提で話してくれへん?」
「材料が分からないから」
「確かになあ」
少女はまた笑った。
「私、八神はやて。はやてでええよ」
「溱久遠」
「みなと、くおん?」
「うん」
「久遠君やな」
「はやて」
「いきなり呼び捨て?」
「はやてでいいって言っただろ」
「言うたけど、ほんまに呼ぶとは思わんかった」
「じゃあ、八神さん」
「距離が遠なった。はやてでええ」
「難しいな」
「友達いうんは、だいたいそんなもんや」
「もう友達なの?」
「同じ本をここまで真剣に読んだ仲やで」
二人が開いたのは、まだ三頁目だった。
「基準が低い」
「入りやすくてええやろ」
久遠は少し考えた。
「なら、友達でいいよ」
「決まりやな」
はやてが右手を差し出す。
久遠はその手を握った。
◇
閉館を知らせる音楽が流れた。
「もうこんな時間か」
はやては料理の本を閉じかけ、途中で手を止めた。
「栞、忘れた」
「貸出票を挟めば?」
「返すとき一緒に入れてまいそうや」
「それは困るね」
久遠は応急手当の本から、自分の栞を抜いた。
薄い青色の厚紙に、白い紐がついたもの。
「これ、使う?」
「久遠君のやろ」
「僕の本は今日返すから」
「次に会うたとき、返すわ」
はやては青い栞を、二人で読んだ頁へ挟んだ。
「次って、いつ?」
「私は来週も来るで。この時間くらい」
「僕も、たぶん」
「ほんなら待っとる」
「先に来た方が待つだけだろ」
「それを待ち合わせって言うんや」
「時間、決めてないよ」
「二時」
「いま決めたね」
「窓際の、この席な」
「空いてなかったら?」
「先に来た方が取っとく」
「分かった」
「約束やで」
はやてが小指を差し出す。
久遠も小指を絡めた。
「約束」
◇
次の週。
久遠は約束の十分前に図書館へ着いた。
窓際の席には、もうはやてがいた。
「遅いで、久遠君」
「まだ二時前だけど」
「私が先に来たから、待たせた」
「待った、でしょ」
「待たせた、や。そっちの方が勝った感じするし」
「何に勝ったの」
「待ち合わせ」
意味が分からなかった。
けれど、はやては楽しそうだった。
机の上には、あの料理の本がある。
青い栞も、きちんと挟まっていた。
「これ、返すわ」
はやてが栞を抜こうとする。
「その本を返すときでいいよ」
「それやったら、ずっと借りとこかな」
「本は期限までに返して」
「栞の方や」
「それなら、あげる」
はやての指が止まった。
「ええの?」
「うん。次の頁が分からなくなると困るだろ」
「どの頁も分かってへんけどな」
「じゃあ、なおさら必要だ」
はやては青い栞を見つめたあと、大切そうに本へ戻した。
「ありがとう。大事にする」
「普通の栞だよ」
「もろたら、私の大事な栞や」
その日も二人は、読めない料理の本を開いた。
辞書を一冊持ってきたが、そもそも何語なのか分からず、最初の十分で役に立たなくなった。
それでも頁は、少しずつ進んだ。
料理の名前を勝手につけ。
写真だけで味を予想し。
ときどき司書に、もう少し静かにするよう注意された。
帰る前には、次の時間を決めた。
その次も。
さらに、その次も。
窓際の席は、いつの間にか二人のいつもの席になった。
待つことは、怖いものだと思っていた。
帰ってくるか分からない人を待つ時間しか、久遠は知らなかったから。
けれど、時計を見ながら少し楽しみにする待ち方もあるらしい。
市立図書館へ行けば、はやてがいる。
はやてが先なら、久遠を待っている。
久遠が先なら、はやてを待つ。
その日から久遠には、待ち合わせる友達が一人増えた。
そして次に会ったとき、はやてには家族が増えていた。