魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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第三十八話 連れて帰るために

 地上本部の正面玄関は、避難してきた職員で埋まっていた。

 

 ストライクは人の流れに逆らって入ろうとして、足を止める。白い仮面の少年を通してくれる警備員などいない。壊れた外壁から上階の廊下へ跳んだ。足場が崩れる前に次の梁を蹴り、レジアス・ゲイズの執務室へ続く階段を探す。

 

 走りながら、何度も同じ印を思い出した。灰色の二番。ヌメロンが差し出した手には水の容器を受け取る力もなかった。

 

 まだ帰れるなら、連れて帰って。

 

 生きているなら担げばいい。重い怪我なら治療班を呼ぶ。どの道を通って、誰に頼むか。考えられることを考え、考えられないところは扉を開けてから決める。そうしなければ足が鈍る。

 

 通路を曲がった先に、黄色い封鎖線が張られていた。

 

「止まれ!」

 

 警備の叫びより早く、封鎖線の内側で剣が上がった。

 

 シグナムだった。その肩にはアギトがいる。室内では救護員が二人の身体を確認し、記録端末へ時刻を打ち込んでいる。ゼストは窓際に立ったまま、槍を持つ手を下げていた。

 

 床に、見慣れた細い指があった。

 

 ドゥーエが、そこにいる。潜入のための顔はもう解け、彼女の顔に戻っていた。胸元を覆う救護用の布は白く、端だけが赤い。立っていない。まぶたも動かない。

 

 ストライクは足を止めた。

 

 救護員が一度脈を確かめ、手を離す。その動作を見てしまった。ヌメロンの見た信号より、ずっと明瞭だった。

 

「……ドゥーエ」

 

 呼んでも振り向かない。

 

 ヌメロンへ、今の視界が伝わる。伝えないことはできなかった。視線を外せば、自分が何を見たかだけは隠せるだろうか。そんな考えが浮かぶ前に、弟の息が遠い通路で止まる感触が来た。

 

「誰だ」

 

 シグナムが問う。刃先はストライクの胸に向いている。

 

「迎えに来た」

 

「その女を知っているのか」

 

「知ってる。通してくれ」

 

 シグナムは道を開けなかった。レジアスの遺体も、凶器も、まだ検分の途中だった。ここに倒れた戦闘機人が二番であることは分かったが、所属と指示系統は調査を待つしかない。

 

「現場は保全中だ。名乗れ。身元を確認してから話す」

 

「待てない」

 

「私も、ここを無人にはできん」

 

 ストライクは剣の向こうを見た。ドゥーエの身体が白い布の下にある。今ならまだ、温かさが残っているかもしれない。そんなことで何が変わるのかを、自分でも分かっていた。

 

「あいつには帰りを待ってるやつがいる」

 

 アギトの炎が小さく揺れる。シグナムの目は、仮面から逸れなかった。

 

「なら、その者へ知らせる。ここで連れ出せば、誰が何をしたか調べられなくなる」

 

「調べてる間に、帰れなくなる」

 

「身体を失わせはしない。手を貸すなら、まずその構えを解け」

 

 ストライクは拳を握り、足を半歩引いた。体重は前足に乗せない。道場で何度も教えてきた構えだ。これ以上近づくなと、身体で告げている。

 

 拳を開くべきだと、ストライクにも分かった。名乗れば、ヌメロンがいる場所を説明させられる。オーダーの関与も、ドゥーエがここへ来た理由も問われる。その間、弟はあの画面の前で待ち続ける。返す言葉を持たない自分を。

 

「そこ、退いてくれ」

 

 シグナムは首を横に振った。

 

     ◇

 

 ヌメロンの目の前で、二番の印は変わらなかった。

 

 灰色の欄に、ストライクの視界が重なる。ドゥーエの手。白い布。救護員が脈を探し終えた手。

 

「……ああ」

 

 声が出たことに、自分で驚いた。息を吸おうとすると、胸の奥が痛む。

 

 ウーノが端末から顔を上げる。

 

「お兄様?」

 

「見つかった」

 

「どこに」

 

「地上本部。ストライクが、いる」

 

 そこから先を言えば、ウーノにも同じものを見せることになる。彼女は二番が帰る時、いつも持ち帰った顔を解くための席を空けていた。ヌメロンは口を開き直して、閉じた。

 

「帰ってくる?」

 

 ウーノが問うた。彼女はまだ見ていない。答えを求める声が震えている。

 

「ストライクが、迎えてる」

 

 ヌメロンは目をそらせなかった。見なければ、地上でストライクが一人になる気がした。

 

     ◇

 

 シグナムの剣が一歩先に届く。ストライクは刃を手の甲で逸らし、踏み込んだ足から拳を返した。

 

 拳は甲冑の肩をかすめる。踏み込みで床板が鳴った。道場なら、ここで相手の軸足を払う。しかし今はシグナムを倒すよりも、奥へ通ることが先だった。腰を低くして剣の下を抜け、ドゥーエへ向かう。

 

 アギトの炎が前を塞いだ。熱で押し返すための壁。ストライクは跳び越えたが、背後で避難中の職員が転ぶ音を聞いて、振り返った。

 

 シグナムが斬り込む。刃先を殺し、肩を打つ軌道だ。ストライクは横へ流しきれず、壁へ叩きつけられる。

 

「避難路まで来るな」

 

「なら、そいつらを先に逃がせ!」

 

 シグナムは警備員へ退避を指示した。剣を持ったまま職員の方を見た数秒で、ストライクは室内へ飛び込む。

 

 ドゥーエのそばに膝をつく。仮面に床の冷たさが近づいた。布を払うと、彼女の顔は静かだった。いつも出かける前に作っていた笑い方ではない。瞼の下にどんな目があるか、今なら自分は知っている。

 

「帰るぞ」

 

 身体の下へ腕を入れようとした瞬間、槍が横に渡された。

 

 ゼストがいた。

 

「この女はレジアスを刺した」

 

「……ああ」

 

「俺が止めた」

 

 ストライクは槍の先を見た。そこに何がついているかも見た。

 

「そうか」

 

 ゼストを倒したい、という衝動が来る。拳を握り直した。だが、彼が何を守って槍を振るったのか、窓際のもう一つの布を見れば分かる。レジアスを刺した事実は、ストライクがドゥーエを大事に思っていたからといって消えない。

 

「こいつがやったことを消す気はない」

 

「なら、ここに残せ」

 

「名前を呼んで待ってるやつがいる」

 

 ゼストの表情がわずかに変わった。それでも槍は下がらなかった。

 

「俺にも、問うべき相手がいた」

 

 ストライクは返せない。ゼストが失った答えを、ドゥーエから取り返すことはできない。ドゥーエが帰ると言ったのを待っていたヌメロンにも、ここへ手ぶらでは戻れない。

 

 彼女を抱き上げた。

 

 シグナムが室内へ入る。ストライクは一歩下がり、ゼストの槍の柄を空いた手で掴む。掌に摩擦の熱が残った。格闘なら、得意な間合いだ。柄を引き、相手の足元に自分の脚を入れる。ゼストは崩れかけた身体を立て直し、槍の反対側を壁へ突いてストライクを押し返した。

 

 背中に当たるものを避け、ドゥーエの後頭部を腕で支え直す。

 

 廊下の先には破れた外壁がある。あそこまで行けば、降りられる。ストライクは魔力を注いで十九歳の姿へ伸びた。抱えた身体の重さを、両腕に引き受けられる。

 

「道を開けろ!」

 

 肩を入れてシグナムの防御を押す。剣は拳では折れない。だから刃を追わず、彼女の肘を押し、足の外側へ回り込む。シグナムが踏み直すところへ膝を入れる。鎧の上から衝撃が伝わり、彼女の軸がずれた。

 

 開いた隙から廊下へ出る。アギトの炎が進路の下を照らした。外壁の欠けた先、下階では職員が退避している。ここから降りれば、自分達の重みで剥がれる破片が人へ落ちる。

 

「人がいる!」

 

 ストライクは足を止めた。強引に降りる道を捨て、非常階段へ向かう。シグナムはその扉を塞いだ。後ろにはゼスト。職員が去るまで待てばいいと頭では分かる。だが、追い詰められているうちにドゥーエを取り上げられれば、もう抱き上げる機会はない。

 

 ゼストの槍を拳で外へ打つ。足を伸ばして柄を踏み、逆足の蹴りをシグナムへ入れる。十九歳の足の長さなら、剣の間合いにも届く。シグナムは防御して後ろへ下がり、ゼストは槍を放さない。二人を離した間にドゥーエを抱え直して、階段の扉へ手をかけた。

 

「下ろせ。これ以上は取り返しがつかん」

 

 シグナムが言った。

 

「ごめんな、兄弟」

 

 シグナムへの返事にはなっていない。地下で待っているヌメロンへ、思わず漏れた言葉だった。

 

 シグナムが背後から手首を取る。ストライクは身体を回して掴みを解き、肘を鎧の継ぎ目へ当てた。シグナムが息を呑む。その間もドゥーエの身体だけは離さない。抱える腕の方から、魔力が余計に流れた。攻撃を受けるたび、彼女まで傷つく気がして、防御を厚くしていた。

 

 ゼストの槍の柄が、ドゥーエを抱いた腕の下を狙う。遺体を落とさせるための一撃。ストライクは反射で背を向けて受けた。肩に強い衝撃が走る。膝が折れ、十九歳の輪郭がほんの一瞬ぶれた。

 

 避難職員の最後尾が曲がった。

 

 外壁からなら、今は降りられる。

 

 ストライクは非常階段を諦めて身を翻した。シグナムが廊下側へ出る。距離を詰めるには蹴り一つ。ストライクはドゥーエを片腕で抱え、もう一方の拳を床へ打ち込んだ。床板が跳ね、シグナムがそれを避ける。作った隙へ走る。

 

 外壁の破れ目まで、あと二歩。

 

 ゼストが槍を突き出した。狙いは走るストライクの肩口。そこを止めれば、遺体を抱えたまま倒れる。シグナムも足を止めさせるつもりで剣を構えていた。

 

 ストライクには、槍が見えた。右へ避けられる。だが右へ身を倒せば、腕の中のドゥーエが槍の線に残る。身体を捻って彼女を胸の奥へ押し込み、空いた腕で槍を払った。

 

 掌が、柄を掴み損ねる。

 

 槍先が胸を貫いた。

 

 ゼストが即座に引こうとする。ストライクが一歩踏み込んだため、狙っていた肩から軌道が変わっていた。シグナムの剣も止まる。ストライクは槍を追って動こうとしたが、足の裏に力が入らない。

 

「ここまでか……」

 

 外壁まで、あと二歩。ストライクは笑おうともせず、その距離を見た。まだドゥーエを抱いている。放せば、今まで運んだ距離が全部なくなる気がした。

 

 ゼストは槍を引いた。シグナムが間へ入り、ストライクの腕からドゥーエの身体を受け取ろうとする。

 

「渡せ。彼女は落とさせない」

 

「……わかったよ」

 

 力の抜けた腕を下ろす。拳を握り直すことも、もうできない。指の輪郭が崩れ、魔力の光が一粒、もう一粒と床へこぼれた。

 

 シグナムは、ストライクの腕を無理に解かなかった。抱いている力が抜けるのを待ち、ドゥーエを支えて救護員へ渡す。ストライクは追いかけようとして、胸の穴に何も詰まらないのを知る。傷口からこぼれる光を手で押さえても、身体の内側が続かない。

 

 白い仮面にひびが入った。

 

 彼が息をするたびひびは広がり、足元へ割れ落ちる。十九歳の顔が露わになり、頬が少しずつ幼くなっていく。服の袖が余り、指が布の中へ隠れた。

 

「……久遠?」

 

 シグナムが名前を漏らした。知っている九歳の面影が、目の前で近づいてくる。仮面の下の少年を見たことのあるヴィータにも、今の顔を見せたかった。そんな考えが浮かぶより先に、足元の光は止まらない。

 

「違う。俺はストライクだ」

 

 名前を言い直す声は、まだ強い。

 

 ゼストが片膝をつき、傷へ治療の術式を向ける。光は胸を通り抜け、床に落ちた。アギトがゼストの肩から降りて両手で魔力を重ねる。それでも、ほどけた身体は繋がらない。

 

「何だよ。槍で突いた本人が、今さら」

 

 そう言って睨んだあと、ストライクは視線をドゥーエへ戻した。運ぼうとした距離を数えれば、あと二歩だった。下階が空くまで守るつもりで、守れたものは一つもない。

 

 九歳の背丈になった。床に座ったまま、ストライクは袖の中で拳を握ろうとする。指先を見た。形を失った先から光が離れていく。

 

 地下でヌメロンがそれを見ている。兄弟の記憶が繋がっているから分かった。ドゥーエの死も、今、自分が消えかけていることも、隠しようがない。

 

『ストライク、帰ってきて』

 

 ヌメロンの声が頭の奥に響いた。外へ出ていない声まで、届く。

 

「……嫌だね」

 

 強がって鼻で笑った。続く言葉は喉に引っかかった。

 

『お願い。もう、迎えに行かなくていいから』

 

「言うのが遅えんだよ。……ただ、もう少し逃げる練習をしとくべきだったな」

 

 九歳の久遠が、何度も受け身を取り、転んでは立ち上がる稽古をした記録が浮かぶ。ストライクはその場面を知っていても、今、抱えた子を連れて槍から逃げ切る足を持っていなかった。

 

 ストライクは膝の上の光を見る。ヌメロンが頼んだのはドゥーエを助けることだった。ドゥーエがもう助からないと見た後は、自分で決めて抱いた。その選択を弟のせいにはできない。

 

「ヌメロン。悪い。ドゥーエを、連れて帰れなかった」

 

『そんなこと、もういい』

 

「よくねえよ」

 

 悪態にもう力はなかった。最後にドゥーエの方へ目を向ける。白い布の端から、彼女の手だけが見えた。伸ばした自分の手は、届く前に光になった。

 

 シグナムが名を呼ぼうとする。何と呼ぶべきか分からず、口を閉じた。ゼストも槍を置いたまま動けない。二人の前で、少年の輪郭が肩から崩れ、遅れて声の残る場所が消えた。

 

 床に落ちた仮面の破片だけが残る。

 

 ストライクという一人の返事は、もう来なかった。

     ◇

 

 スカリエッティは、研究室の壁に映った地上の反応を指で払った。

 

 ドゥーエの端末は沈黙している。ゼストとレジアスの結末も、研究設備を通じて報告は受けていた。ただ、今は目の前のフェイトがどこを見ているかの方が面白い。

 

「二番まで失った。君達は、どこまで奪うのだろうね」

 

 フェイトは拘束された手首を動かさずに答えた。

 

「殺した人の名前を数えるのは、あなたの仕事じゃない」

 

「彼女に指示を出したのは私だよ」

 

「だから、あなたを止める」

 

 言い切ってから、足元へ視線を落とす。床の拘束は手首からのびる光を一本に束ねていた。力任せに引いた時には動かなかったが、壁の映像が切り替わるたびに束の端がわずかに暗くなる。映像装置と同じ経路から供給されている。

 

 スカリエッティはフェイトの目を追った。

 

「気づいたね」

 

「あなたが見せたかったから?」

 

「そこから逃げられるなら、試してみるといい」

 

 彼は手を上げる。研究室の壁に新しい影が映った。入り口近くに待機させていた機械兵だ。フェイトが拘束を解いた直後、背中から射線を取れる位置に置かれている。

 

 フェイトはエリオとキャロがまだ地上にいることを思う。ルーテシアを止めても召喚獣は動き続けている。あの二人が自分に追いつくまで待つ必要はない。自分が帰る道を作る番だ。

 

『バルディッシュ、刃は?』

 

『短い形なら。使用は一度が限界です』

 

 ザンバーは折れたまま。拘束を切り、機械兵を退け、スカリエッティを無力化する三つのために一撃しかない。

 

 フェイトは強く目を閉じる。かつて母に必要とされたかった頃、手に入らない答えを何度でも訊ねた。今この男が差し出す言葉も、自分を動かすために選ばれている。聞き続ける理由はない。

 

 フェイトは壁の映像へ声を向けた。

 

「エリオ。キャロ。聞こえてるなら、ルーテシアをお願い」

 

 スカリエッティが眉を上げた。通信は外へ開いていない。そのことを知ったうえでフェイトは話している。届かなくても、託す相手を選ぶために。

 

「あなたの言う通りに生きなかった子が、今は誰かを助けてるよ」

 

 言葉の終わりに、バルディッシュが床へ落ちた。

 

 スカリエッティの視線が柄を追う。フェイトの指先は柄から離れない。短い刃が床の供給線へ食い込む。壁の映像がいっせいに途切れ、拘束の束が暗くなった。

 

 手首を引く。皮膚が裂けるほど光の輪をこすり、右手だけを抜く。機械兵の一斉射撃が背後から来た。フェイトは残った拘束を軸に身体を反転させる。弾は拘束の支柱に当たり、束の光が砕けた。

 

 両手が自由になる。

 

 スカリエッティが奥の扉へ下がる。フェイトは追った。機械兵が間へ入り、足を止める。バルディッシュの刃はもう消えていた。残った柄を振り、機械兵の手首を打って射線を天井へそらす。崩れた装置から火花が降る。

 

「君は地下の少年を置いてきた」

 

 背後でスカリエッティが言う。フェイトは走りながら返した。

 

「あとで戻ると約束した」

 

「まだ戻っていないね」

 

「だから、ここで止まらない」

 

 扉に手をついた男の腕を掴む。踏み込みで壁へ押し付け、拘束術式を展開する。術者本人を捕らえるための術だ。男が研究用の転送端末へ指を伸ばしかけ、フェイトは端末ごと蹴り割った。

 

 研究室の警報が上がる。彼女は管理局の回線を開き、位置と被疑者の確保を短く伝えた。通信先から応答が来るまで、拘束は解かない。

 

「ナンバーズへの命令系統はどこ」

 

 スカリエッティは笑った。拘束された腕は動かない。

 

「彼女達がどこまで自分で考えるか、君は知らない」

 

「あなたに聞いてる」

 

 答えはない。フェイトは別の端末を調べようとする。まだ地下通路へ戻れていない。捕縛しただけでは、救出したことにならない。

 

     ◇

 

 ゆりかごの内部で、ヴィータは足を止めた。

 

 駆動炉の光が防壁越しに明滅している。先ほど砕いた支柱は、別の回路へ負荷を逃がしていた。今度は外側を叩くだけでは足りない。内側へ力を通す必要がある。

 

「アイゼン、まだいけるか」

 

『Ja』

 

 返事は短い。彼女の脇腹から流れた血が、柄を握る手を滑らせた。

 

 通信を開く。はやてから何度も呼ばれていた。

 

『ヴィータ! 聞こえるか、どこにおるんや』

 

「炉の手前。止める」

 

『待って。応援を送る。あんた、その傷で――』

 

「送ってくれ。終わった後に担いでくれるやつが要る」

 

 はやての息が詰まる。ヴィータは謝らなかった。助けが必要なのは本当だ。今、炉の前にいるのが自分だというのも本当だった。

 

「なのはは、あの子のとこか」

 

『うん。今も戦っとる』

 

「だったら、こっちはあたしがやる」

 

 グラーフアイゼンの頭を防壁へ押し当てる。魔力を薄く、細く流して継ぎ目を探った。傷の痛みで集中が途切れそうになるたび、なのはが子供を抱いて帰るところを想像した。自分が抱き上げたかった別の少年のことも、わざと考えた。十年前に間に合わなかった夜を、今ここで言い訳にはできない。

 

 防壁の内側に接続路を見つけた。

 

「一回だけだ。付き合え」

 

 槌が回る。炉の外壁ではなく、内側の細い路へ衝撃を通す。一本が折れ、隣の路が光り、そこも折れる。駆動音が低くなる。最後の反動がヴィータの身体を吹き飛ばし、壁に叩きつけた。

 

 起き上がれない。槌の柄に指をかけたまま、耳を澄ます。鳴り続けていた低い振動が消えた。

 

『駆動炉、停止を確認!』

 

 はやての声が通信から来る。ヴィータは口の中の血を飲み込む。

 

「……聞こえた」

 

『そこを動かんといて。すぐ迎えに行かせる』

 

「動けねえよ」

 

 軽口にするつもりだったが、声はかすれた。ゆりかごが止まったからといって、中の子が帰れたわけではない。ヴィータはなのはの回線が開くのを待った。

 

     ◇

 

 ヴィヴィオの拳が盾へ落ちた時、なのはは膝をついた。

 

 肩の傷が開く。ヴィヴィオが痛そうな顔をする一瞬だけ、操作の光が目の奥で薄くなる。自分が傷つけたと思わせるための仕組みだと分かっても、なのははその顔を見過ごせなかった。

 

「ヴィヴィオ」

 

「呼ばないで」

 

 声は強い。前に流れる魔力が、その声に合わないほど無理に張られていた。

 

 クアットロの投影が玉座の端で笑う。なのはの置いた測定光は、投影のたびに別の壁を照らした。どれも偽物ではない。信号が中継され、何度も折り返されている。

 

『中継点は四つ。最後の接続は下層です』

 

 レイジングハートが位置を告げる。壁の向こうではない。離れた管制区画だ。なのはがそこへ走れば、ヴィヴィオを残すことになる。ヴィヴィオを抱き締めようとすれば、遠隔の操作が身体を動かす。

 

「誰が教えてあげたんですの、その子の帰る場所を」

 

 クアットロが言う。

 

 なのはは投影を見ない。

 

「ヴィヴィオが教えてくれた」

 

「いまは帰りたくないとおっしゃってますわ」

 

「いまの言葉も聞いてる。でも、ヴィヴィオが前に自分で言ったことまで、あなたに取り消させない」

 

 ヴィヴィオが駆ける。大人の身体の速さで距離を詰め、盾の外へ拳を打つ。なのはは避けず、袖を掴んで進む向きをずらした。強く握れば腕を折る。放せば次の打撃が来る。指に残るその細さだけが、なのはに力の限度を教えた。

 

 壁の端の測定光から、細い線を放つ。クアットロの投影は横に逃げたが、光は像を狙っていない。中継点をつなぐ路を逆にたどり、最後の端末へ印を置く。

 

『位置を特定』

 

 なのはは息を吸い込んだ。

 

「レイジングハート。壁と端末の位置を重ねて」

 

『射線上に非戦闘員反応なし。障壁の外側に二名』

 

「隔壁を閉じて。巻き込まないように」

 

 映像越しのクアットロの笑みが止まる。

 

「その子を見ていない間に撃つ気ですの?」

 

「見てるよ」

 

 なのははヴィヴィオの両手を自分の手で受ける。ヴィヴィオの指が震えていた。反対の手に杖を持ち替え、肩越しに下層の隔壁へ照準を合わせる。視線は子供から外さない。

 

「怖いね。わたしも、怖い」

 

「うそ」

 

「うん。怖がってるって、ちゃんと伝わるか分からない。だから帰ってから、何回でも話す」

 

 ヴィヴィオが首を振る。その動きに、ほんの少しだけ自分の意志が混じった。

 

 砲撃が壁を貫いた。隔壁の内側だけを通り、いくつもの床を斜めに抜ける。中継点が一つずつ消え、最後にクアットロの隠れた端末が砕ける。遠い区画から、彼女の驚いた声が途切れた。生体反応は残り、武装の反応だけが消える。

 

 それでもヴィヴィオの身体は止まらなかった。端末からの命令がなくなっても、既に流し込まれた制御が残っている。拳がなのはの胸を打つ。

 

「ママじゃ、ない」

 

 もう一度聞いた言葉が、最初より痛かった。なのはは崩れそうになる足で立つ。言い返すためではない。

 

「うん。いま、そう言いたいなら聞く。でも、痛いのを我慢して言わなくていい」

 

 ヴィヴィオの目から涙が落ちた。目を閉じることさえできないように、操作の光が瞬いている。

 

「ヴィヴィオが嫌がっても、ここにいるよ」

 

 杖を下ろして両手を広げる。次の一撃を防ぐ結界は薄い。なのははヴィヴィオの攻撃を身体で受け止め、その中心で制御の光に杖の先を触れさせた。子供の身体を狙わず、外から貼られた術式の継ぎ目だけを切る。

 

 光が弾ける。なのはの腕が痺れ、膝から床へ落ちた。ヴィヴィオの大人の身体が縮み始める。小さな手を離さないよう、なのはは床へ這って寄る。

 

「……なのは、ママ?」

 

 返ってきた声は、ヴィヴィオの声だった。

 

「ここにいる」

 

「わたし、あんなこと、言って……」

 

「聞いたよ。話したくなったら、あとで聞く」

 

 言いかけた謝罪を、なのはは急がせなかった。小さくなった身体を抱き、呼吸を確かめる。ヴィヴィオの腕が背中へ回る。さっきまで触れられなかった温度だった。

 

『駆動炉の停止を確認しました』

 

 レイジングハートの報告に、なのはは頷く。ヴィータが返事をしたという追加の知らせを待ってから、六課の回線を開いた。

 

「ヴィヴィオを保護しました。クアットロの管制区画を特定、本人は生きています。隔壁を開ける前に、確保班を」

 

 返事の間に、ヴィヴィオが袖を引いた。

 

「クオンお兄ちゃん、いる?」

 

 なのはの手が、一瞬止まる。前に会った少年のことを、まだこの子は覚えている。地下でフェイトが対峙した少年と同じ顔かどうか、なのははまだ自分の目で確かめていない。

 

「いま、フェイトちゃんが探してる。会いに行けるようにしよう」

 

 約束していい範囲を選びながら答える。ヴィヴィオは服を握ったまま、もう目を閉じた。

 

     ◇

 

 地上では、ティアナがスバルのそばに着いていた。

 

 ギンガは拘束されたまま意識がない。医療班が来るまでティアナは脚の痛みをかばい、スバルと交代で呼吸を確認する。遠くで召喚獣の咆哮が続き、エリオとキャロがルーテシアを守って踏みとどまっていた。ルーテシアが目を覚ますまで召喚の混乱は収まらない。二人は後退しながら周囲の避難路を空ける。

 

 別の区画では、ノーヴェがウェンディの肩を支え、ディードに後ろを見させていた。六課の部隊と正面からぶつかる余力はない。退く先で仲間の所在を確かめようとして、二番の応答がないことを知る。

 

「あいつ、潜ってる時はいつもこうだろ」

 

 ノーヴェはそう言って画面を閉じた。ウェンディは言い返さなかった。ドゥーエが姿を見せずに帰ってくる夜を、二人とも知っている。

 

     ◇

 

 フェイトの通信に、なのはの声が入った。

 

『ヴィヴィオ、保護できたよ』

 

 フェイトは壁際でスカリエッティを拘束したまま、長く息を吐いた。なのはの声は疲れ切っているが、抱いている子の呼吸を聞かせてくれる。

 

「よかった。ヴィータは?」

 

『炉を止めて、返事もした。救護が向かってる』

 

 フェイトは目を閉じかけ、すぐ開く。通路の少年にまだ会っていない。

 

「私は地下へ戻る。約束した子がいる」

 

『……久遠君に似た、あの子?』

 

「うん。本人に聞いてみる」

 

 なのははヴィヴィオを抱き直した。

 

『戻ってきて。あなたも、その子も』

 

 フェイトは短く答え、研究室の扉へ向かう。拘束されたスカリエッティを後続へ引き渡すまで、まだ数歩ある。その数歩の間、男は黙っていた。

 

     ◇

 

 地下中央通路で、ヌメロンはウーノの支える腕からもたれ落ちていた。

 

 ストライクが最後に見たものは、ドゥーエの手だった。そこへ伸ばした指が光になる。その瞬間、ストライクの記憶がヌメロンへ押し寄せた。

 

 道場の床を踏む裸足の感触。小さな弟子が拳を痛めないよう、握り方を直した時の手の温度。次の稽古ではあの子にもう一度やらせよう、と考えていたこと。今朝、ヌメロンの頼みを聞いて地上本部へ向かう前には、ドゥーエを抱えて帰るための道をいくつも考えていた。その一つひとつが、自分で通ってきた道のように分かる。

 

 けれど、次の稽古の日にストライクが道場へ立つ記憶はない。弟子に声をかけるはずだった未来も、ドゥーエを連れてヌメロンの前へ帰るはずだった未来も、そこから先には続いていない。

 

 ヌメロンが自分の目で見ているのは、地下通路の天井だった。自分はまだここにいて、ストライクの覚えた足の運び方まで知っている。その足で誰かを迎えに行くはずだったストライクだけが、どこにもいない。

 

 ドゥーエの欄は灰色のまま。ストライクにはそこに並ぶ欄すらない。あの声が聞きたくて、名を呼ぶ。返事の代わりに、槍を受けた胸の感触と、割れた仮面の音が思い出される。

 

「ドゥーエ……」

 

 ウーノが顔を寄せた。二番がどうなったか、問いかけようとする。その前にヌメロンはもう一つの名前を呼んだ。

 

「ストライク……」

 

 ウーノの手が止まる。普段なら理由を聞いた。誰が、どこで、という順番で確かめた。今はヌメロンが続けられないと分かる。握れないはずの指が、床にかかった自分の袖を探している。

 

 ヌメロンは何度も息を吸った。ウーノへ知らせなければならない。ドゥーエはもう帰らない。ストライクも帰らない。口を動かすたび、地上で自分が見ているだけだった時間が戻る。ドゥーエが抱き上げられた時、連れ帰ってほしいと願った。あの外壁へ走るストライクを見ても、やめてくれとは言わなかった。胸が貫かれてから、ようやく帰ってこいと頼んだ。

 

 頼まなければ、あいつは明日も道場にいたかもしれない。そう思うと、思い出せる稽古の声が増えるほど息が苦しくなる。自分はストライクの記憶と、拳の動かし方まで継いだ。こんなにも鮮やかに残るのに、その先を生きる本人はもういない。あいつが自分で使うはずだった時間を、奪った。ヌメロンにはそうとしか思えなかった。

 

「ドゥーエ……ストライク……」

 

 名前を並べる以外、声にならない。止まらない息を押し殺そうとして、喉が鳴った。

 

 ウーノは袖を手の下へ寄せる。小さな指は掴めないまま、布の上に乗った。肩の固定具を直そうとしたウーノの手を、ヌメロンは避けない。九歳ほどの身体には、離れるための力が残っていなかった。脇には治療用のトレイが置かれ、肩の手当てに使った処置具がまだ並んでいる。

 

「お兄様。ここにいます」

 

 ウーノもドゥーエの名を口にできなかった。なぜ二人の名を続けて呼ぶのか、聞けない。彼の目が端末の二番から離れないことだけは見える。

 

 端末の明かりが落ちた。停電ではない。非常用の電源へ切り替わって、十一人分の欄が再び点灯する。ウーノが警報の原因を探すより早く、見覚えのない優先表示が画面を覆った。

 

 発信元はスカリエッティの管理系統。彼が拘束されて主回線を失った後に作動する、別経路の命令だった。あらかじめ書き込まれた待機時間が終わり、生きているナンバーズの制御層へ同じ文面が送られている。

 

 対象、クオン・ヌメロン。停止を認めず、対象が破壊されるまで攻撃を継続。

 

 ウーノは読んだ。読めたのに、端末を切る方へ指を動かせない。命令はもう手の中ではなく、自分の身体に届いている。

 

「お兄様、離れて」

 

 ヌメロンは顔を上げた。ウーノの声が震えている。さっき袖を差し出した人が、もう片方の腕を自分から遠ざけようとしていた。その腕が途中で止まり、関節の向きを変える。指が治療用のトレイに触れ、太い穿刺針を掴んだ。

 

「違う……私、そんなこと、したくない」

 

 ウーノは自由な手で動く腕を押さえた。力を込めるほど、針先がヌメロンへ向く。彼女の身体は命令に従い、表情と声だけが逆らっていた。

 

 ヌメロンは頁を作ろうとした。何も出ない。立ち上がろうとして、固定した肩に痛みが走る。逃げる足も、誰かに助けを呼ぶ声も、まだ戻っていなかった。

 

 彼が見たのは、歯を食いしばるウーノの顔だった。

 

 ウーノの握った穿刺針が、ヌメロンの脇腹へ深く突き立った。

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