ウーノの手が、針を離さない。
ヌメロンは脇腹から来た痛みを、すぐには痛みと呼べなかった。肩に当てられた固定具の下で、身体の芯が一つ押し込まれる。息を吸うと、もっと奥まで届きそうで、途中で止めた。
「お兄様。目を、逸らして」
ウーノはヌメロンを見ている。なのに、その指は針をさらに深く押そうとしていた。彼女のもう一方の手が、自分の手首を引き戻す。力を入れるほど二つの腕が震える。
ヌメロンは彼女の名を呼ぼうとした。喉から出たのは短い息だけだった。片手を上げ、ウーノの指先へ触れる。針を握る手の温度を知っている。さっき固定具を直した時と同じ手だ。
「離して……ください。私に、触らないで」
ウーノが言う。指先に込めた力だけが命令へ従っている。
ヌメロンは触れた指を離せなかった。押し退ければ彼女がどこかを折るかもしれない。かといって刺されたままでいれば、次の一撃が来る。ストライクが弟子へ教えた手首の外し方が頭の中にある。握った指の向きを変え、肘へ体重を預ける。知っているのに、床へ伏した腕がその通りには動かない。
ウーノの身体が一瞬だけこわばった。
ヌメロンの指から、ごく僅かな魔力が流れ込む。ウーノの制御層で術式に使われていた分だ。ヌメロンは自分の力が戻ったと分かるより先に、彼女の顔色が変わるのを見た。吸収を止めようと手を離した瞬間、命令を受けた腕が自由になる。
針が抜かれた。空いた穴から光と血が混じってこぼれる。
「逃げて」
ウーノの声に、いつもの落ち着きはない。ヌメロンは膝を立てようとした。立たない。九歳の身体に戻ってから、歩く力はまだなかった。
ウーノが自分の腕を机の角へぶつけた。骨の鳴る音がして、針を持つ指がようやく緩む。床に落ちた針へ目を向けたまま、彼女は震える唇で言った。
「お兄様。これは、私が望んだことではありません」
ヌメロンはその言葉を聞いた。分かる、と返したかった。しかし彼女が自分の腕を壊してまで守ろうとしているのは、彼の身体だ。その身体を傷つけさせている命令は、彼がずっと知っていた。
スカリエッティの前で、十二人を攻撃に使うと言われた夜。ヌメロンは施設を離れなかった。フェイトが来ても通路を塞いだ。ドゥーエの印が消えても、自分では迎えに行けなかった。なのに、命令は届いた。
「大丈夫」
彼女を安心させるつもりで言ったのか、刺された自分を落ち着かせるつもりだったのか、ヌメロンにも分からない。言葉が続かず、ウーノは首を横に振った。端末では、十一人の欄の幾つかが遠方から中央通路へ向きを変えている。
ヌメロンはその画面を見つめた。ドゥーエの灰色は、ほかの色に戻らない。
◇
フェイトがスカリエッティを警備員へ引き渡した時、拘束術式の最終確認がまだ終わっていなかった。
男は腕を押さえられ、階段の踊り場に立っている。研究室の転送端末は壊した。通信機器も取り上げてある。フェイトは彼の目が、こちらの手首ではなく廊下の非常灯を追っていることに気づいた。
「何か待ってるの」
「君は約束を守るために戻るのだろう?」
「戻る。その前に答えて。ナンバーズへの指令は、どこに残した」
「私が捕まれば、君はどうする。みんな自由になると思うかい」
フェイトは警備員へ男を預けたまま、端末の記録を呼んだ。主回線の停止履歴はある。停止後に、別の認証が一度だけ通っている。発信先の欄は空白だった。
研究室の床が先ほど自分から奪った魔力も、ここへは戻っていない。床から伸びた導線は中央通路側の蓄積槽へ続いていた。後で回収できるよう保存された分だ。フェイトはその位置を記録して、警備員に送る。
「……何をさせたの」
スカリエッティは、自分の足で歩き出そうとした。警備員が止める。笑うつもりなのか息を吐いたが、フェイトはその顔を見ずに六課の回線を開いた。
「クロノ。地下中央通路へ、いま人を出して。少年が残ってる。ここで失われた回線が、別の場所へ繋がった」
『本人は?』
「捕縛した。指令の内容はまだ分からない」
『位置を送れ。君も戻れるか』
「戻る」
フェイトはバルディッシュを手に取る。欠けた刃は戻っていない。警備員へ足を止めずに言った。
「拘束を二重にして。男を端末へ近づけないで」
その声を聞いたスカリエッティの表情を、もう確かめなかった。
研究室の奥の隔壁が落ちた。鍵の開閉音とは違う、非常用の封鎖だった。フェイトはバルディッシュの柄を握り直す。中央通路までの道が、また一つ閉ざされた。
◇
地上では、ノーヴェの足が勝手に一歩を踏み出した。
ウェンディを支えていた腕を離しかけ、慌てて抱え直す。端末に映った行き先は、戦線から外れた地下施設だった。何の任務を終えた後に行くのか、書かれていない。対象の名前だけがある。
クオン・ヌメロン。
「……何だ、これ」
ノーヴェは画面を握り潰そうとして、できなかった。指は画面から離れ、歩くために身体の横へ下がる。
「ヌメロン兄ちゃん、どうしたんスか」
ウェンディの声に、説明できることは一つもなかった。彼の怪我も、今どこにいるかも知らない。ただ身体がその居場所だけを知っている。
ウェンディの砲身が、歩くノーヴェの背中越しに持ち上がった。目標はまだ射程外。それでも照準器は地下入口までの地図を自動で引く。ウェンディが押さえようとして、痛めた肩から力が抜けた。
「やめるっス。こんなの、撃つわけないじゃないっスか」
ディードが砲口の前へ入る。自分にも同じ命令が来ていた。だから、ウェンディの腕がどこへ向くか分かる。身体が命じられた方向に動こうとする時、短い時間だけ、意識が間に合う。
「ノーヴェ。いまなら私を拘束できます」
「お前はどうする」
「その後は、自分でできるだけ止めます」
「ふざけんな。二人とも動くな」
命令してもノーヴェ自身の脚は止まらない。ウェンディの肩を抱いたまま壁へ突っ込み、そこでようやく踏みとどまった。三人の動きが喧嘩のようにぶつかる。誰の身体も、帰りたい方角を向かない。
ヌメロンに「お前はお前だろ」と言った時の自分の声が、ノーヴェの耳に残る。いま身体の奥から来る指示は、どの姉妹の声でもなかった。
「あたしらを、あいつに近づけるな!」
ノーヴェは六課が追ってきた方角へ向かって叫んだ。自分を捕まえる相手へ助けを求めるのは腹が立つ。それでも、先へ歩いてしまうよりましだった。
◇
地下の閉じた隔壁の向こうで、トーレは立ち止まった。
フェイトに研究室への道を越えられてから、セッテと二人で施設の他の通路を探していた。奥の警報は聞こえるが、博士から直接の通信はない。その代わりに届いたのが、ヌメロンの座標だった。
「対象を破壊するまで攻撃」
セッテが読んだ。自分の声で読み上げても、腕の内側で拘束されたような感覚は消えない。
「止められるか」
「まだ、足は」
答えの途中でセッテの足が動く。トーレは胸の前に腕を横たえ、妹を止めた。速度を上げれば自分も中央通路へ行く。遅く進めば、命令が身体をさらに強く押す。
「そいつは、もう立てない」
トーレはヌメロンの肩が砕けたとウーノへ伝えたばかりだった。何があっても、その身体へ攻撃を重ねる理由はない。自分がここで妹を押さえる限り、二人とも行けないと分かっていても、命令は消えない。
「腕を、下げてください。姉さんに傷がつく」
「お前が行けば、あいつに傷がつく」
床の換気口から、中央通路の騒ぎが上がってくる。途切れた子供の呼吸。トーレは顔をしかめた。
「生きてるなら返事しろ、ヌメロン」
通信は開かなかった。開けば、自分達の位置を管制に渡し、道が繋がる。近づけないために何もしないという選択まで、追い詰められていく。
◇
オーダーは自分の端末に届いたアースラの報告画面を押さえていた。
ドゥーエの遺体を抱いたストライクが、シグナムとゼストの前で消えた時から、弟の最後の記憶が彼にも残っている。仮面のひびが広がる音。道場へ戻るはずの足の感覚が途切れた瞬間。共有されているからといって、その声がまた自分へ悪態をつくわけではない。
通信画面の向こうでは、アースラにいるクロノが施設からの緊急信号を読んでいた。レジアスへの警告を伏せた判断を書き留めさせた時から、二人の間の距離は変わっていない。
「地上本部の少年は」
クロノが聞く。現場保全の記録はまだ断片的だった。
「ストライクだった。死んだ」
オーダーは答えた。レジアスの危険を伏せた自分の選択から話を逸らすためではない。言葉を分けている余裕がなかった。
中央通路で、ウーノの針がヌメロンへ刺さった記憶が来る。オーダーの手も同じ場所を押さえかけた。動かしたのは弟の身体であって、自分の身体ではない。
「クロノ。まだ終わってないぞ」
「分かっている。場所は」
「地下中央通路だ。スカリエッティが捕まった後に、ナンバーズへ別経路の命令が届いた。ウーノがヌメロンを刺した。手を止めようとしているが、身体が従わない」
クロノは一つずつ情報を入力する。
「君自身は何ができる」
「弟達の記憶が来る。命令の解除コードは分からない」
「なら位置を全部出せ。僕は入口へ救護と拘束班を送る。ナンバーズを見つけても、まず命令を受けた者として扱う」
オーダーは頷き、確認できる情報だけを送った。地上のドゥーエの死を読んでいた時と同じように、自分には隠せるものがある。今回は隠さないと決めたから、失った弟が帰ってくるわけではなかった。
クロノは送信された地図を確認し、フェイトへ退路を知らせる。オーダーの手が一瞬止まったのを見ても、声を荒らげなかった。いま手にした位置と時刻を、現場へ渡す。
◇
なのはは、救護班の腕へヴィヴィオを渡すまで彼女の手を離さなかった。
ゆりかごの駆動炉は止まり、玉座の光も消えた。小さな額に熱がないことを確かめる。安全な区画へ運ばれる時、ヴィヴィオは眠ったまま袖を握ろうとした。
「ここにいるよ。迎えに行くから、先に休んでて」
救護班には連絡先を繰り返し告げた。フェイトが地下へ戻るという通信は入った。連絡がつかなくなった中央通路の少年については、まだ詳しい報告を受けていない。
ヴィヴィオを置いて駆け出すために離すのではない。無事な場所まで誰が抱くかを確かめてから、なのはは通信の受信記録を開いた。
クロノからの至急連絡には、地下施設の座標があった。
◇
ウーノは針を床へ落としても、ヌメロンから離れられなかった。
次に手を伸ばすならどこへ向かうか、自分の中に指示がある。自由な腕の方も、いつまでも自由とは限らない。彼女は机の下へ手を入れ、管制の端末へ通じる線を引き抜こうとした。
線を抜けば自分だけでも止まるかもしれない。その考えを読んだように、手首が途中で止められる。力を込めると指が自分の皮膚へ食い込んだ。
「私は、あなたに帰ってほしくて……」
何を言い終えれば許されるのか、分からない。
ヌメロンは脇腹を押さえて彼女を見た。ストライクがドゥーエを抱えて進んだ理由は分かる。ドゥーエがレジアスを刺したことも、今ウーノの針が自分へ向いたことも、それぞれ消さないままで、それでも帰ってきてほしい。
端末の下段で一つの欄が消えた。
聖王の座。個体反応、取得不能。
ヌメロンはそこへ目を留める。直前まで映っていたのは、なのはの盾に拳を向ける大きなヴィヴィオだった。管制区画の中継は止まり、ゆりかごの駆動も失われた。画面に残っているのは、救出前の記録だ。それを示す時刻は、割れた端末の隅で見えなくなっている。
ヴィヴィオは、どうなったのか。ウーノに尋ねようとして、ヌメロンは灰色の欄から目を上げた。
「大丈夫」
何の答えも聞いていないのに、先にその言葉が出た。
ウーノは答えられない。彼女の回線からも、艦の玉座を直接見られなかった。上で子供が助かったという知らせは、まだこちらへ来ていない。
ヌメロンは二番の灰色と、聖王の座の空白を見比べる。自分がこの通路でフェイトを止めていた間に、何が起きたのか。答えを知る道具は、ここにない。答えがない時ほど、悪い方がはっきり見えた。
床へ落ちた針から手を離せないウーノが、背後の音に振り向く。
閉じていた隔壁が、内側から三度揺れた。
◇
トーレは妹の腕を止めながら、中央通路へ降りる階段を見つけた。
隔壁は閉じていた。別の通路から来た自分達も、そこを開ければ標的へ届く。扉に手をかけなければ、命令は脚を前へ押し続ける。手をかければ、向こうのヌメロンに近づく。
「セッテ。私を押して、この階段から落とせ」
「私にも命令がある。できません」
「なら二人で扉を壊すな。止まることだけ考えろ」
セッテが小さく頷く。頷いた次の瞬間には、腕に取り付けた刃が隔壁の継ぎ目へ向いていた。自分の意思と別に動く腕を止めるため、反対の手で刃の根元を握る。
トーレはその身体ごと扉から引き離そうとする。ところが自分の足が先に出た。甲高い音を立てて扉を蹴る。一撃では開かない。次が来る。二人とも止めようとしているのに、扉の歪みは増えていく。
「あいつ、通路でずっと待ってた」
トーレは声を落とす。フェイトを止めろと言われた日も、ドゥーエの印が消えた日も、ヌメロンは施設から出なかった。
「言うこと聞いてたんじゃ、ないのか」
返事をする相手はいない。扉の向こうへ届くのは、靴底と刃が当たる音だけだった。
◇
隔壁が開く前に、ヌメロンはウーノへ手を伸ばした。
自分がここを離れれば、彼女達は追うために歩かなくてはならない。そう伝えようとした。
「大丈夫」
逃げられる身体であれば、まだ意味のある言葉だった。肩は固定されたまま。脇腹を押さえる腕を床につくと、傷に力が入って目の前が暗くなる。
ウーノが彼の背を支えかけ、また手を引っ込めた。
「触れれば、私はまた」
接触した時に自分の魔力が流れたことも、覚えている。そのせいで刺す腕が緩んだのか、逆に彼へ力を与えてしまったのか、判断できない。ヌメロンも、その手が欲しいと自分からは言えなかった。
隔壁に最後の一撃が来る。
壊れた扉を挟み、トーレとセッテがいた。二人は足を止めようとしている。だが停止する指示は、どちらの身体にも通っていない。
「ヌメロン、そこから離れろ!」
トーレが叫ぶ。蹴りの軌道は彼の側へ向いたままだ。無理に壁へ逸らしたため、壁材が飛び散る。破片がウーノをかすめた。
ヌメロンが手を伸ばす。もう頁は作れないと思っていた。薄い一枚が現れて、ウーノの顔へ飛ぶ破片だけを受ける。すぐに裂けた。
トーレはそれを見て表情を変えた。ヌメロンは彼女が声をかける前に、床の血の上へ膝をつく。
「大丈夫」
「どこがだ。私だって、自分の身体を止められないんだぞ」
ヌメロンにも分かっている。分かっているのに、ウーノの頬の傷だけを見て、次に自分が何を守ればいいか分からなくなった。トーレの蹴りなら避けられるという意味だったのか、ウーノは傷つかないという意味だったのか、自分で答えを選べない。
セッテが姉を押しのけて通路へ出る。腕の刃を上げ、狙いをヌメロンへ向ける。意思では刃先を壁へ返そうとし、命令は肩を正面へ戻す。二つの動きがぶつかって、彼女の肩の関節が鳴った。
「大丈夫」
ヌメロンが声を張った。セッテの肩が壊れそうな音を立てている。大丈夫だと言われた本人が、余計に顔を歪めた。止めたのはセッテではなく、間へ入ったトーレの身体だった。トーレは妹の刃を腕で受け、ヌメロンから引き離す。その手も、彼を倒す力を求めて震えている。
三人が争えば、互いが怪我をする。スカリエッティはそう言った。ヌメロンが彼女達を逃がすために残った通路で、言われた通りのことが起きている。
「大丈夫」
誰の言葉も、止まらない。トーレの足が滑り、命令に引かれるようにヌメロンへ踏み込んだ。ヌメロンはストライクの受け身を思い出す。逃げるための足運びも分かる。動かせる足が一本もない。
トーレの蹴りは壁へそらされた。代わりに彼女の靴底が、ヌメロンの肩をかすめる。固定具が割れた。
ヌメロンは声を上げなかった。視界の端で、聖王の座の欄がまた点滅している。反応なし。上ではもう艦が止まっている。自分が守ると決めた子が、そこから帰れたのかを誰も教えてくれない。
ドゥーエが帰れなかった。ストライクも帰らない。ここで十一人の身体まで使われている。自分はフェイトを止め、ヴィヴィオのところへも行かなかった。
なのはがヴィヴィオを連れ出したかもしれない。フェイトは戻ると言った。いま立ち上がれれば、ここにいる三人を帰せるかもしれない。かもしれない、ばかりだった。確かめるための足も、助けに向かうための足も動かない。
間に合わなかった。
心の中で言うと、ドゥーエとストライクとヴィヴィオの顔が、一緒に浮かんだ。どの名前を先に呼べばいいのかも分からない。目の前にはまだ、身体を命令に取られた三人がいる。
「大丈夫」
「……誰が?」
トーレが聞く。ヌメロンは答えなかった。答えれば一人を選ぶことになる。自分が傷ついても大丈夫だと言ったのか、彼女達は帰れると言ったのか、境がほどけていく。
彼は壊れた固定具へ指をかけた。外せば痛む。肩がさらに動かなくなるかもしれない。それでも、このままここで誰かが身体を折るのを見ていたくなかった。
◇
フェイトは、研究室側の隔壁から動けずにいた。
バルディッシュの短い刃を差し込んでも、内側の留め具まで届かない。破壊すれば開けられる。だがこの扉は、地下中央通路へ魔力を流す配線と同じ壁に立っていた。いま強い術を撃ち込めば、向こうの誰に何が届くか分からない。
『迂回路を送る』
クロノから位置が届く。シャッハとヴェロッサが守っている入口まで一度引き返し、別の整備路を回る道だ。フェイトは扉へ手を置いたまま、先を急ぎたい自分と折り合いをつけた。
「入口へ戻る。中央通路を見られる回線を開けて」
『映像は途切れている。音声も断続的だ』
フェイトは壊れたザンバーの柄を握り、走り出す。ヌメロンへ約束してから、どれだけ経ったか分からない。急いでも間に合わない可能性を考えたくなかった。
◇
地下中央通路では、ウーノがまたヌメロンへ近づいていた。
医療用の針はもう持っていない。かわりに、倒れた彼の肩を支えたいという思いと、攻撃を続けろという命令が同じ腕に来る。自分の胸を掴んで踏みとどまった。
「お兄様、私を見ないで」
「大丈夫」
ヌメロンは彼女から目を逸らさない。見ないことにすれば、彼女が自分の腕を傷つけている事実まで消えてしまいそうだった。
セッテが刃を床へ突き立て、身体の進む向きを抑えている。トーレの脚はあと一歩でヌメロンへ届く。遠方で命令を受けた子達も、この場所へ向きを変えた。
ヌメロンは裂けかけた頁を、ウーノの足とトーレの靴の間へ置いた。攻撃を止めるには薄い。それでも二人がぶつかるのを防ぎたかった。
「お兄様。もういいです。私にかまわないで」
首を振る。
「大丈夫」
ドゥーエとストライクには届かなかった言葉だ。今ここにいるウーノへ言い続ければ、誰かを連れ帰れたことになるだろうか。自分の中に残るストライクの拳の使い方は、何も答えない。
トーレが頁を踏み抜いた。蹴りを壁へ逸らそうとした脚が、固定具の端にかかる。肩の固定が割れ、ヌメロンは床を滑った。脇腹の刺し傷から光がこぼれる。
「大丈夫」
自分に向けた言葉か、トーレに向けた言葉か。その区別を考える前に、トーレの足がまた上がった。
◇
ノーヴェは瓦礫の陰で、脚にかかった命令に抗っていた。
ウェンディとディードも近くにいる。三人で地下を目指せば、ヌメロンを攻撃しに行くことになる。ここで足を止めれば、あの子は地下に残った命令を受けた姉妹と一人で向き合う。
「六課の連中、来てるか」
ディードが道路の先を指す。警備の部隊が距離を取りながら近づいていた。ノーヴェは逃げる代わりに両手を上げる。足を縛るなら今だと伝えようとした。
その時、地下から最初の衝撃が上がった。崩落とは違う。黒い線が地面の割れ目を伝って伸び、すぐに引いた。
ヌメロンの頁だと分かる。それでもノーヴェには、彼が自分の足で立っているのか、誰かに追い立てられているのか見えない。
◇
中央通路でトーレの脚を止めたのは、ヌメロンが作った頁ではなかった。
トーレ自身が床に膝をつき、足首を押さえた。命令に引かれる分と、自分で押し戻す分がぶつかる。関節が軋み、あと一度強く踏み込めば壊れる。
「いいから、離れろ」
言った相手は動けない。トーレもそれを知っている。
ヌメロンは「大丈夫」と返した。何を保証しているのか、分からない。ウーノが刺した身体も、セッテの腕も、トーレの脚も、大丈夫には見えなかった。
セッテの刃が彼の肩の横を通り、後ろの壁へ深く刺さった。そこに通っていた配線が断ち切られる。壁の内側でガラスの破れる音がした。
蓄積槽。研究室の床から集められた魔力が、中央通路側の保管設備へ流れていた。ガラスの奥から金色が漏れる。フェイトが研究室で奪われた力だと、ヌメロンは知らない。目の前で何かが流れ出たことしか見えない。
ウーノが制御盤を探して振り向いた。一方の手が、自分の意志より先にヌメロンへ伸びる。彼を突き倒そうとする腕を、壊れた方の手で支えた。セッテも壁から刃を抜いてしまえば次は彼へ向く。トーレの膝はいつまでももたない。
「お兄様。後ろへ」
ヌメロンは這って下がった。背中が割れた槽の縁に当たる。掌をついた先に、こぼれた魔力を帯びた金属の導管が露出していた。
離れようとした。手首が体重を支えられず、掌を押しつけてしまう。
金色の光が接触した皮膚から流れ込んだ。
掌を焼く熱で、閉ざされた図書館の記憶が開いた。血のついた指。黒い本へ押しつけた小さな手。落ちた携帯電話には、なのはの名前が残っている。
久遠はその手を離せなかった。離せば、図書館へ戻ってくる誰かに呪いが触れる。助けてほしかった。自分を助けに来た人には、触れてほしくなかった。怖さも、帰りたかった気持ちも、ヌメロンの中に欠けずに残っている。
いまは自分の掌を離したい。力が戻れば三人を止められるかもしれない。戻った力で三人を傷つけるかもしれない。二つの未来を選ぶ間もなく、身体が魔力を吸い上げた。
ウーノの手に触れた時とは比べものにならない。研究室の床がフェイトから奪い、ここに貯めていた分が、触れた手を通って呪いの身体へ移る。傷を塞ぐ前に骨格が変わり、九歳の短い腕が伸びて十三歳の頃の長さになる。
「離れて!」
ウーノが叫ぶ。ヌメロンも離したい。吸収が止まるまでに身体を動かす力が戻り、手を導管から剥がした時には掌の下の光が弱くなっていた。
ストライクが膝を曲げて踏み込んだ記憶がある。その足の向きを、自分の身体でも再現できた。ここまで待っても手に入らなかった力だ。だがストライクが戻ったわけではない。ヌメロンは立ち上がった自分の足を、誰のものとも思えなかった。
肩幅がさらに広がる。服の縫い目が裂け、九歳のために替えた固定具が床へ落ちた。脇腹の穴からこぼれた光は止まらない。身体を長く保つだけの力はないのに、黒い頁は通路の端まで広がる。
十九歳ほどの姿になっていた。
脇腹の穴は閉じない。息を吸うたび、肩の奥まで引き裂かれる。身体が大きくなっても、針を刺された九歳の子の痛みはどこへも行かなかった。
トーレが口を開く。
「ヌメロン。私達は命令でやってる。あんたを殺したくて来たんじゃ――」
「大丈夫」
トーレには、許すと言われたように聞こえた。だが、彼は自分達の顔を見ていなかった。
ヌメロンの視界で、ウーノの手とセッテの刃とトーレの足が、同じ速さで近づいてくる。どれも攻撃を止めたがっている人の身体だと、少し前までは分かっていた。いまは誰の動きを先に止めれば誰が傷つかないか、区別がつかない。
黒い頁が一枚、トーレの膝を打った。命令を妨げるために足だけを止めるつもりだった。衝撃は十九歳の身体から出た力に合わせて強まり、彼女を壁まで吹き飛ばした。
「トーレ!」
セッテの声でヌメロンは振り向いた。肩へ伸ばした頁が、セッテの刃を根元から折る。彼女自身も床を滑り、壊れた槽の外枠へ当たった。ヌメロンはすぐ手を引こうとしたが、別の頁がもう伸びている。
ウーノを、近づけない。そう決めたはずだった。頁が彼女の両腕を柱へ縫い留める。壊れた腕まで締め上げられ、ウーノの声が喉で止まった。
「大丈夫」
ヌメロンはそう言った。トーレの膝は腫れ、セッテの刃は折れ、ウーノの肩は引かれている。誰も大丈夫ではない。それでも声だけが同じ形で出る。
近寄って、三人の傷を確かめたかった。近寄れば、また頁が動く。手を伸ばしてほしかった。差し出された手を、自分が折るかもしれなかった。
床に落ちた端末には、聖王の座の反応がない。ストライクの次の稽古も、ドゥーエの帰還もない。ここにいた三人を傷つけたのは自分の頁だった。
間に合わなかった。
まだ、三人は呼吸している。ウーノは止まってほしいと叫べる。トーレもセッテも、生きて帰れる。その望みを捨てたくなくて、ヌメロンは自分の腕に黒い頁を巻きつけた。これ以上、誰にも届かないように。
頁は一枚だけ腕へ戻った。残りは彼の指より先に動き続ける。十年前の少年が一身に引き受けたはずの黒い文字を、いま自分は抱えきれない。
それでも、何を壊せば取り返せるのか、分からない。分からないまま頁が壁の中へ入る。命令を送ってきた回線を探すつもりが、似た形の線を片端から断ち切った。照明、換気、医療用の電源。管制端末だけが生き残り、攻撃命令も消えない。
中央通路の柱が折れた。
瓦礫はウーノの真上へ落ちる。ヌメロンが頁を向ける。守るための一枚は確かに彼女を庇った。その先で跳ね返った破片がセッテの足元に散り、彼女が倒れる。ヌメロンは足を出して助けようとした。次の頁がそれより早く、倒れたセッテを標的から遠ざけるために床ごと持ち上げた。彼女はさらに強く壁へ当たった。
「お兄様、止まって!」
ウーノは両腕を留められたまま叫ぶ。彼には届いているはずだ。それでも頁は動き続ける。トーレが膝を押さえて起き上がろうとすると、頁がその進路を塞ぎ、また壁へ押し返す。
ヌメロンは誰も見なかった。床の血の上を歩き、天井へ手をかざす。もっと遠くの命令系統を切れば終わる。ひとつ残れば、全員がまた動く。そう思うほど、止めるための範囲が広がった。
「大丈夫」
何に答えているのか、もう分からない。頁は通路から離れ、研究区画の廊下まで伸びた。非常階段に残っていた職員が揺れに立ち止まる。逃げ道を塞ぐはずのない黒い文字が、その足元に巻きついた。
誰かを守るための力だと、ヌメロンは思っていた。立ち止まると、命令を受けた姉妹がまた身体を傷つける。その恐れだけが、頁を動かし続けた。
◇
研究室側の隔壁を迂回したフェイトは、シャッハとヴェロッサのいる入口へ戻った。
中央通路へ繋がる整備路には、新しい閉鎖板が降りている。まだ中に入れない。ヴェロッサの猟犬が隙間から先へ走り、すぐに戻ってきた。目にしたのは人影より、足元を這う大量の黒い文字だった。
「少年は?」
「犬では、あの奥まで近寄れない」
ヴェロッサが答える。フェイトは入口を壊すために魔力を集め、内部にいる誰かを巻き込まない角度を探した。シャッハはその間、廊下で怯える職員を後ろへ下がらせる。
クロノから通信が入る。
『中央区画の障壁が幾つも消えた。何が起きている?』
「ここからはまだ見えない。入って確かめる」
フェイトが言い終える前に、天井の向こうで二度、硬い音がした。何かが通路を叩き、遅れて柱が折れる音だった。
彼女は扉へ術を放った。閉鎖板の外周だけを砕き、内部の支えを残す。開いた隙は人一人が通れる幅だった。
◇
なのはは地下施設の入口に着いた。
ヴィヴィオを救護班へ預けてから、クロノの座標をたどった。途中でフェイトの位置を追い、入口の別側へ下りた。二人はまだ合流していない。
なのはが見たのは、廊下の壁から漏れる黒い文字だった。追ってきた職員を後ろへ下がらせる。細い結界を床へ伸ばし、足元の文字だけを切る。壁の向こうに誰がいるか分からないまま、大きな砲撃はできない。
『フェイトちゃん、今どこ?』
『中央通路へ入るところ。そっちにも黒い頁が?』
『ある。中の人を避難させる。合流はその後』
名前も顔も、なのはにはまだ見えていない。ヴィヴィオが尋ねた「クオンお兄ちゃん」がここにいるのか、確かめるには通路を開けるしかなかった。
◇
フェイトと、遅れて合流したなのはが中央通路の入口に立った時、もう声をかけるための静けさはなかった。
十九歳ほどに伸びたヌメロンの身体から、黒い頁が何層にも開いている。トーレは膝を押さえて壁際に倒れ、セッテは折れた刃のそばで起き上がれない。ウーノは柱に両腕を留められたまま、顔を上げていた。
頁は彼女達の動きを止めるだけでは済まなかった。フェイトの足元へも、なのはの胸元へも、同時に伸びる。初めて二人を見て狙いを決めた動きではない。ここへ来たもの全部を、もう止めなければならないものとして捉えている。
フェイトは障壁で手前の頁を受けた。外側をなのはが守る。二人とも彼と争うために来たわけではない。その場へ入らなければ、止められない人達がいる。
「ヌメロン」
フェイトが名前を呼んだ。
顔はこちらを向いた。彼女のことを覚えているかどうか、目からは分からない。ストライクの足運びを継いだ立ち姿も、彼自身のそれだった。頁の攻撃は止まらない。
頁の向こうで金色の髪が揺れる。来てほしかった。来ないでほしかった。どちらも本当なのに、もう一方を伝えようとするたび黒い文字が二人へ伸びた。
「大丈夫」
聞こえたのはそれだけだった。ウーノのことか、トーレ達のことか、目の前に立った二人のことか。本人にももう分からないまま、次の頁が放たれた。