魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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第四十話 帰る名前

 黒い頁が、二人の障壁を同時に叩いた。

 

 フェイトは右の通路を見た。壁際にトーレが倒れている。膝を押さえたまま、身体だけがまだ標的へ向かおうとしていた。彼女を迎えに行くには、頁の間を抜けなければならない。

 

「なのは、ウーノの上!」

 

「見えてる!」

 

 折れた柱の残りが落ちる。なのははウーノと柱の間に薄い障壁を重ね、下をすり抜けた破片をもう一枚で弾いた。ウーノの両腕は黒い文字で留められ、本人もそれを引きちぎれない。

 

 フェイトはバルディッシュの欠けた刃を短く構えた。ヌメロンの身体には向けない。床を這う頁の根元だけを切る。切れた一枚はすぐ散ったが、その奥にもう三枚あった。

 

「大丈夫」

 

 ヌメロンの声だった。

 

 十九歳ほどの背丈。血のにじむ脇腹と、服から外れた肩の固定具。十年前の写真にいた少年がそのまま育ったら、こういう顔になったかもしれない。

 

 なのはは息を止めた。

 

「……久遠君」

 

 呼んだ瞬間、ヌメロンの頁が彼女の足元へ集まる。刺すためではない。なのはを後ろへ押し戻し、中央通路から出すための動きだった。

 

 なのはが踏みとどまると、頁は行き場を失い、背後の非常灯を砕いた。暗くなった先に、まだ逃げている職員がいる。

 

「なのは、そこは私が持つ。避難路を」

 

 フェイトが前へ出る。ヌメロンの顔がこちらを向いた。黒い頁が彼女の進む道も塞ぐ。片方はフェイトの杖を絡め取ろうとし、片方は彼女の肩を出口の方角へ押した。

 

「私達を外へ出したいの?」

 

「大丈夫」

 

 ヌメロンは頷かない。彼のすぐ後ろには、逃げ道を奪われたウーノ達がいる。守る対象を増やすほど、閉じ込められる人も増えていた。

 

 フェイトは杖を引くふりをして頁をまとめ、なのはへ合図した。なのはの障壁が頁と壁の間に入り、避難路だけを開ける。奥の職員が走り抜けた。

 

 その数秒、トーレの身体がまた動いた。

 

「止めろ、私を!」

 

 命令に従う脚と、立つことも難しい膝。フェイトは振り返り、トーレの前へ拘束陣を置く。脚が陣の縁を蹴り、痛む関節が折れかけた。彼女が歯を食いしばる。

 

 ヌメロンの頁が割り込んだ。トーレの脚を守るつもりで、拘束陣ごと膝を床へ押さえ込む。トーレが声を漏らし、フェイトはすぐ陣の圧を緩めた。

 

「ヌメロン、止めて! 私が支える」

 

「大丈夫」

 

 足を押さえる文字は少しだけ緩んだ。代わりに別の頁がフェイトの腕へ巻きつく。トーレに近づく者からトーレを守る。自分が傷つけた膝のことは、もう見えていない。

 

     ◇

 

 アースラの指揮卓へ届く映像は、二度途切れた。

 

 はやてが最後に見たのは、フェイトとなのはの間に立つ背の高い少年の横顔だった。十九歳。久遠が生きていれば、いまそう見える歳だ。

 

 肩に巻かれた白い布が床に落ちる。黒い頁が、こちらへ向かってきた二人を押し返す。

 

「隊長、通信が――」

 

 シャーリーの声を遮って、音だけが戻った。

 

『大丈夫』

 

 はやては手を伸ばしかけ、指揮卓の端を掴んだ。久遠からその言葉を聞いた記憶がある。病院で本を渡した日、少し先を歩く彼の背中に言えば、同じように返しただろう。

 

 目の前の少年がいま誰なのか。似た顔からは分からない。

 

「はやて」

 

 クロノが隣へ来た。

 

「地下へ降ります」

 

「座標は外側までだ。内部は妨害と破損で安定しない」

 

「外側から歩きます。指揮は頼める?」

 

 クロノは画面の負傷者と避難路を確かめた。

 

「僕が引き継ぐ。転送は地上の隔離地点へ。中へ行ったら、君も救護班の指示を聞け」

 

「分かってる」

 

 オーダーの回線も開いていた。何か言おうとする気配があり、はやてはそちらを見た。彼が知る弟の記憶があっても、彼女が読んだ十年前の資料をなかったことにはできない。

 

「今、私が聞きたいんは、あの子を止める方法や。あるん?」

 

「命令の解除手順は持っていない」

 

 オーダーが答える。はやては頷いた。答えを知らないことまで、黙っていなかった。

 

 転送陣へ向かう前に、クロノが警備班の通信を回した。命令を受けたナンバーズは標的の前に出せない。意志が味方でも、身体は違う動きをする。その条件だけは現場の全員へ渡した。

 

     ◇

 

 ノーヴェの足首に、二本の拘束帯が巻かれた。

 

 六課の警備員が一方を持ち、もう一方は地面の固定具へ繋がっている。ウェンディもディードも、距離を取った別の支えへ留められた。三人とも同じ地下施設へ引かれている。誰か一人が緩めば、残りの二人まで動き出しかねない。

 

 地下から揺れが上がった。さっきより大きい。崩れた地面の隙間へ、黒い文字が一瞬だけ現れて消えた。

 

「中にいるの、あいつだろ」

 

 警備員が答えない。ノーヴェは身を捩り、脚にかかった力の向きを確かめた。拘束帯へ当たるたび、命令はヌメロンの方へ身体を押す。

 

「このままなら私は行かねえ。だけど、中であいつが死にかけてても、ここで座って見てろっていうのか」

 

「あなたの身体が彼を攻撃する」

 

「知ってる。だから、一人で放してくれとは言ってねえ」

 

 ウェンディが向こうで顔を上げた。痛めた肩を押さえ、砲口を警備員から背けている。

 

「ノーヴェ姉、行ったら、自分が撃つっス」

 

「お前はここにいろ。ディードも」

 

「私だけ残して、姉さんが行く理由はありません」

 

「あたしがあいつと喧嘩して、まだちゃんと仲直りしてねえからだよ」

 

 理由になっているか、自分でも分からなかった。前にヌメロンへ言った言葉が浮かぶ。「お前はお前だろ」。口にした自分が、今度は彼を名前で呼びに行かなくてどうする。

 

 警備員へ向き直る。

 

「帯は外すな。あたしが変な動きをしたら、引きずり倒していい。中へ連れていけ」

 

 警備員は指揮系統へ確認した。少し長い沈黙の後、救護班と拘束班を伴うこと、手綱を離さないことを条件に、隔離地点への移動だけが認められた。

 

 固定具につながっていた方の帯も外さず、端だけを別の警備員が握った。ノーヴェは足を急がせようとして、二人に引き戻される。その速度で行くしかなかった。

 

 ウェンディは唇を噛んだ。ノーヴェも無事に帰れるとは言えない。

 

「……あいつのとこまで行けたら、お前らも帰れるようにする」

 

 自分の脚に来る命令と、自分の足で行きたい方角が、初めて同じになった。

 

     ◇

 

 なのはの結界が、地下通路を細く二つに分けた。

 

 左側にはウーノ達。右側には負傷した職員と出口。黒い頁の進む先だけを見て折り返す。広い結界でヌメロンを覆えば、天井の折れた支柱まで引き寄せる。いまは一枚ずつ受けるしかない。

 

 フェイトがトーレの膝を押さえていた頁を切り、片腕で彼女を壁際の陰へ運んだ。触れたのはトーレの背中だけだ。ヌメロンには近づかない。

 

「歩ける?」

 

「脚が言うことを聞けばな」

 

 トーレは顔をしかめた。自由なはずの片足が、命令のせいでまたヌメロンへ向く。フェイトはその前に柔らかい拘束陣を重ね、膝への荷重を逃がした。

 

 ウーノの両腕を留める頁は、まだ強い。彼女の腕を引きちぎらずに外すには、頁が緩む瞬間を待つ必要がある。

 

 なのはは彼の名を呼び直した。

 

「クオン。ヴィヴィオは助かったよ。わたしが抱いて、救護班に預けた」

 

 ヌメロンの指先が止まった。

 

 古い端末には、聖王の座の欄だけが暗いまま残っている。ヌメロンはなのはの顔と、その欄を交互に見た。知らせを受け取れないわけではない。受け取った先で、ドゥーエとストライクが帰ってこないことも、ウーノ達を自分が傷つけたことも、もう一度知らなければならない。

 

「大丈夫」

 

 誰に向けた返事か分からない。黒い頁は緩まず、なのはを出口へ押す力だけが増した。

 

 救出を伝えれば止まると思っていたわけではない。それでも、なのはは言葉が届いたか確かめたくて、もう半歩踏み込んだ。

 

 足元の頁が彼女の靴を掴んだ。

 

「なのは!」

 

 フェイトが切る。別の頁がなのはの胸へ向かう。なのははレイジングハートを横たえて防ぎ、砕けた壁の破片を肩で受けた。

 

 避難を終えた職員の背中に、一瞬だけ光が差す。そこまで追っていた頁が止まったのだ。ヌメロンは遠ざかる者を追わず、そばに残るなのはとフェイトだけを押し出そうとしている。

 

「ここから出れば、私達は安全だと、思ってる」

 

 フェイトが言った。

 

「ヌメロン自身は?」

 

 なのはが尋ねる。二人とも答えられない。本人の脇腹から、まだ光が落ちている。

 

     ◇

 

 転送されたはやてが地下施設の外へ着いた時、救護班は負傷者を階段から運び出していた。

 

 ここからなら、なのは達が開けた通路を歩ける。建物を揺らす衝撃が足裏に来る。はやては途中の職員を救護班へ預け、シャッハから内部の位置を受け取った。

 

「隊長、下では頁が人に巻きついています」

 

「聞いとる。負傷したナンバーズも中やな」

 

「はい。私達が先に救護班を通そうとしましたが、近づくほど頁が増えます」

 

 はやては頷き、進む。前へ出れば指揮の席には戻れないかもしれない。クロノへ任せた以上、ここにいる人の傷を見ずに指示だけを送ることもできなかった。

 

 入口にはノーヴェがいた。警備員二人に拘束帯を持たれ、階段の先を睨んでいる。ウェンディとディードの姿はない。二人が別に留められていると聞き、はやてはそこを確かめてから近づいた。

 

「あんたも、あいつを見に来たのか」

 

「うん。六課の隊長や。中にいるなのはちゃん達を呼びに来た」

 

「あたしも行く」

 

「身体が勝手に攻撃するって聞いとる」

 

「知ってて来た。止められたら、あんたらが止めろ」

 

 はやてには即答できなかった。ヌメロンのそばに彼女を連れて行けば、彼への攻撃を増やす。一方で、少年を囲んでいるのが彼を捕らえようとする人ばかりだとしたら、そこへ届くはずだった名前も届かない。

 

「私が先に入る。中の様子を見てからや。帯はそのまま」

 

「分かった。置いて行くなよ」

 

 互いに約束できる範囲でだけ返事をした。

 

     ◇

 

 ヌメロンは、なのはの肩から血が出たのを見た。

 

 頁が届くより、少し早く気づいていた。倒れた壁材が彼女へ落ちる。守るために一枚を伸ばし、足元を押した。なのはは残った職員を庇って動かなかった。破片が肩を裂いた。

 

 見たものから、古い記憶が開く。木から落ちた子を庇ったなのはの膝。久遠がその傷を見て、怖くて、それでも彼女が生きていたから安心した日のこと。

 

 思い出すことと、自分で選ぶことの境目が薄くなった。

 

 なのはを帰す。フェイトも帰す。はやてには触れさせない。

 

 それだけなら、間違っていないはずだった。守るための動きが相手を傷つけても、最初の目的だけを確かめて、頁は次へ進んだ。

 

 中央通路の奥に、設備の中枢がある。壁の向こうで、まだ命令を送る信号が生きている。そこへ頁を全部集め、ほかの人を出口へ押し出す。途中で施設が崩れれば、真ん中に残るのは自分一人でいい。

 

 ウーノを柱から離す。一瞬だけ、彼女の傷ついた腕が自由になった。途端にもう片方の手が、ヌメロンへ向く。彼女は壁に肩をぶつけて抑えた。

 

「お兄様、違います。その線を切っても、命令は私達の中に残ります」

 

 聞こえている。それでもヌメロンには、もう別のやり方が思いつかない。線を全部切り終えるより先に自分が消えれば、対象を攻撃する命令も終わるだろう。

 

 図書館の閉じた扉。黒い本に押しつけた手。自分の身体へすべてを集めれば、ほかの人は帰れる。

 

 その答えは、十年前に久遠が残したものだった。ヌメロンがこの地下へ来る前から、自分の中にある。

 

 いままでだって、間違えた時はそこへ戻ればよかった。久遠がはやてとなのはとフェイトを守ろうとした気持ちは、誰のものより確かだ。守れなかった今の自分より、ずっと。

 

「大丈夫」

 

 頁はフェイトとなのはを通路の外へ運び出そうとした。二人が離れないのを見ると、その背後に別の頁を重ねる。やがて、入ってきたはやての足元にも黒い文字が届いた。

 

「……久遠君?」

 

 はやての声だった。

 

 十九歳の顔がこちらを向く。病院で外国料理の本を鞄に入れた少年の顔と、重ならないはずの年齢が、そこにあった。

 

 頁ははやてに触れる寸前で止まり、足元に輪を作った。動かなければ安全だと教えるように、彼女の周りだけを残して床を黒く染める。

 

「大丈夫」

 

 はやては黒い輪を見た。久遠が図書館から帰らなかった夜、自分は病室で次に一緒に読む本のことを考えていた。実際に何が起きたかを知ったのは、ずっと後の資料からだ。いま目の前の少年も、自分達を残して帰らないつもりなのか。彼の内側までは分からない。それでも、ここで待つことはできなかった。

 

「私をここに置いて、君はどこへ行くん」

 

 答えはない。ヌメロンが振り返る先で、管制設備へ向かう頁が束になった。柱の残りへ深く食い込み、建物を支えていた金具が軋む。

 

 なのはが、はやての周りの頁を障壁で押し戻す。

 

「はやてちゃん、外へ!」

 

「あんたらだけ置いて、帰れへん」

 

 フェイトは頁の根元を切りながら、二人の間へ入った。

 

「彼は、私達を守るためにここを壊そうとしてる」

 

「うん。……それをあの子一人にさせたら、また同じや」

 

 はやてが片膝をつき、床のひびへ魔法陣を広げた。すべての頁を止めるほどの力はない。天井の荷重だけを一度受ける。なのはとフェイトが動ける数秒を作るためだった。

 

 頭上で折れた金具が、陣の上へ落ちる。はやての両腕が重みで沈んだ。

 

「ここ、長くは持たへん!」

 

 なのはは前の頁をまとめて押さえ、フェイトへ視線を送った。フェイトはうなずき、中央設備へ進む黒い束の横へ回り込む。

 

 切るのは設備ではない。頁の束が通り抜ける床と、その奥の傷ついた少年の間へ、障壁を差し込む。フェイトが根元を断ち、なのはが離れた頁を壁へ留める。

 

 一度は成功した。だがヌメロンが動くと、断った先から文字がまた生まれる。新しく伸びた頁は設備でなく、なのはの杖とフェイトの脚を狙った。二人を傷つけたくないという気持ちと、二人が邪魔をするという判断が、同じ手で出ていた。

 

「近づくほど強くなる」

 

 フェイトが言う。これ以上、身体で受け続けるだけなら、先にヌメロンの魔力が尽きるかもしれない。だがその時、建物が持つとは思えなかった。巻きついた頁の下でウーノが呼吸を浅くし、セッテは壁際から立ち上がれない。

 

 なのはは通信を開いた。

 

「クロノ君、職員の退避は?」

 

『研究区画の生体反応はすべて出口側へ出た。中央には君達とナンバーズだけだ。医療班は閉鎖板の外で待機している』

 

「分かった。中心の頁を縫い止める。身体を傷つけずに、本人の動きを止めたい」

 

『外にノーヴェがいる。命令は続いている。本人が中へ行きたがっている』

 

 なのはの返事は遅れた。彼を止めるために、彼を攻撃せよと命じられた少女を近づけていいのか。ヴィヴィオを抱いた時、操られている身体がどんなに本人を苦しめるかを知ったばかりだった。

 

 はやてが横から通信へ入る。

 

「私が入口で話した。拘束帯も付けたままや。まず、あの子らを攻撃せず連れて来られる道を作る」

 

 なのははウーノの腕を見た。その手で刺してしまった子を、次の子にも傷つけさせたくない。けれどノーヴェが来ることを、ノーヴェの代わりに拒むこともできない。

 

「フェイトちゃん、ついてくれる?」

 

「うん。腕が動いたら私が止める。ヌメロンへ届くまでは、絶対に手を離さない」

 

 二人は通路の端に短い道を作った。なのはが左右の頁を押さえ、フェイトが拘束帯を引き受ける位置まで進む。ノーヴェ自身の足でそこを通る以外に、近づく方法はなかった。

 

     ◇

 

 ノーヴェは地下へ下り、最初にセッテを見た。

 

 折れた刃の横で、身体を起こせずにいる。次にトーレの膝、ウーノの腕。三人とも命令に逆らった跡がある。そして、その傷を増やした黒い文字が壁一面に広がっていた。

 

「ヌメロン兄ちゃん」

 

 十九歳ほどの少年は振り向かない。背丈が違う。知らない顔ではないのに、目がどこも見ていなかった。

 

 ノーヴェの足が急に速くなる。自分の意思で一歩出した後、命令がその先を奪った。警備員が後ろから帯を引き、彼女は膝から倒れた。

 

「放すなよ!」

 

 警備員へ怒鳴る。倒れた床から起きたいと願う自分と、彼を攻撃したくて起きる身体を分ける方法がない。フェイトがそばへ来た。

 

「分かってる。行くなら私と一緒に。腕が向いたら止める」

 

「さっさとやれ」

 

 フェイトはノーヴェの両拳の外側に小さな拘束を置いた。打とうとすれば手首より先が動かない。代わりに身体の別の部分が命令を受けるだろう。足首の帯も外せなかった。

 

 ヌメロンの頁が、近づく彼女の前へ集まった。敵として認識したのか、守ろうとしているのか、分からない。黒い文字の先はノーヴェの胸を押し、来た道へ返そうとする。

 

「そっち行ったら、お前が一人になるだろ!」

 

 ヌメロンの顔がようやく動いた。

 

「大丈夫」

 

「何がだよ。トーレも、ウーノも、あんなに痛そうなのに」

 

 壁の向こうからトーレがうなった。まだ意識がある。ウーノもその方へ顔を向けた。ヌメロンが守ろうとしていた相手は、どこかへ運ばれる荷物ではない。今ここで、彼のことを案じている人達だった。

 

 ノーヴェは頁に押される。足首の帯に引かれ、また前へ転ぶ。伸ばしかけた両拳がヌメロンの脇腹へ向き、フェイトの拘束にぶつかった。

 

「……っ、言ったろ。あたしを止めろって」

 

「止めてる。君は声を出して」

 

 フェイトも腕に力を込める。術式の端が食い込み、ノーヴェの手首が赤くなった。それでも拘束を緩めれば、命令された拳が傷口へ届く。

 

 はやての支える陣がまた軋んだ。なのははヌメロンの頁を上から抑え、両手で細い結界を重ねた。彼を撃てば、もっと早く終わるかもしれない。だが、この崩れかけた通路で狙うべきなのは、少年の身体ではなかった。

 

「クオン、手を放して」

 

 なのはは伝える。久遠へ言っているつもりだったのか、自分にも分からない。それでも目の前にいる人へ言わなければ、彼の選択にならない。

 

 ヌメロンは首を横に振った。

 

 はやてを。なのはを。フェイトを。

 

 その三人の名に触れるたび、十年前の図書館で久遠が黒い本を抱いた時の痛みが戻る。もう誰にも傷ついてほしくない。自分が帰れなくても、三人が生きていればいい。

 

 正しいはずの願いだった。

 

 ヌメロンがそこへ自分の名前を重ねると、ノーヴェの顔が薄れる。ウーノが固定具を替えてくれた夜も、ストライクに兄弟と呼ばれた時も、どれも守るべき人を分類するための記録になっていく。

 

 なぜノーヴェが怒ると悲しいのか。なぜウーノの腕に触れるのが怖いのか。二番の欄が灰色になる前、何を待っていたのか。

 

 答えを選ぶ前に、古い願いが代わりに決めてしまう。

 

 自分が消えれば、三人が安全になる。

 

 ヌメロンは奥の設備へ向けて頁を広げた。天井の支えがさらに鳴る。はやての陣が一段沈んだ。

 

「……そんな終わり方で、誰が帰れんだよ」

 

 ノーヴェが言った。警備員の手は帯を引き、フェイトも彼女の拳を拘束している。自由になったわけではない。それでも倒れた姿勢から、彼女はまた前へ這った。

 

「あたしが、お前の名前を呼びに来た。久遠って人を迎えに来たんじゃない」

 

 ヌメロンの手が止まる。頁はまだ止まらない。

 

「ヌメロン兄ちゃん。戻ってこい」

 

 返事の代わりに、黒い文字がノーヴェの肩を打った。

 

 彼女は歯を食いしばり、上体を起こす。近づくほど、命令も強くなる。拘束された拳がまた伸び、フェイトに引き止められた。手を開こうとしても指は握られたまま。ノーヴェは首だけで距離を詰め、ヌメロンの胸に額を押し当てた。

 

 頁が二人の間を通ろうとした。なのはの結界が外側からその一枚を留める。フェイトはノーヴェの手首を守り、はやては天井を支える。三人とも、彼女の代わりに抱きしめてやることはできなかった。

 

 ノーヴェの腕が、自分の意思で動いた。

 

 彼の背へ回す。次の瞬間、片方の拳が命令に引かれて脇腹へ向かう。フェイトの拘束が受け止め、ノーヴェの肩に痛みが走った。それでももう一方の腕は離さなかった。

 

「お前はお前だろ」

 

 前に言った時は、あいつが笑うと思っていた。いまは笑えなくてもいい。彼が聞いてくれるなら、同じことを何度でも言う。

 

 ヌメロンの口が動いた。

 

「大丈夫」

 

 ノーヴェの背を押して出口へやる頁が、また一枚増えた。彼女の腕に巻きつき、強引に引き剥がそうとする。ノーヴェは離さない。腕を締める文字に血が滲んだ。

 

「大丈夫じゃねえんだよ」

 

 何度言っても、その言葉は戻ってくる。ヌメロンには、ここにいる誰かが傷つくのを見たくないという思いだけが残っていた。その誰かの中に、自分自身を入れられない。

 

 ノーヴェの腕に血が増える。

 

 はやての魔法陣がたわむ。

 

 なのはの肩の傷を、フェイトが一瞬見る。

 

 三人を帰すために残るはずだった自分が、ここへ来た人の傷を増やしている。頁へそう伝えても、守るという命令は止まらない。指で引き戻す。一枚が戻り、次の一枚がノーヴェの背へ伸びる。

 

 久遠が最後に黒い本を抱いた時、痛かったことを知っている。死にたくなかったことも、なのは達に来てほしかったことも知っている。全部残った記憶だった。

 

 それでも、久遠はノーヴェの名を呼んだことがない。ウーノが腕を傷つけてまで自分を止めた時の顔も知らない。ストライクが帰らないと分かった時、この地下で何もできずにいたのは久遠ではなかった。

 

 どれもヌメロンが生きた時間だった。

 

 久遠が願ったように三人を守りたい。その願いまで捨てなくていい。ただ、そのために自分が消えることを、いま抱きついているノーヴェは望んでいない。

 

 ヌメロンは自分の脇腹を押さえた。痛みがある。まだ傷が塞がっていない。それを隠すために「大丈夫」と言っても、刺した本人のウーノには嘘だと分かるだろう。

 

 奥の設備へ向かった頁を、もう一度引いた。

 

 戻らない。束の中心だけが床へ残り、天井の支えへ食い込んでいる。力ずくで引けば、ノーヴェを抱いたまま下敷きになる。

 

「フェイト」

 

 はやてが声を張る。

 

「あの束の向こうを切って! なのはちゃん、ノーヴェの上!」

 

 フェイトが頁の付け根へバルディッシュを入れた。なのはの結界が、ヌメロンとノーヴェの頭上で傾く梁を受ける。三人の術式が重なる場所から、ヌメロンの頁が一枚ずつ外れた。

 

 ヌメロンは初めて、彼女達へ任せて手を下ろした。

 

 はやてにだけ重さが残らないよう、床の下へ広げた頁を今度は梁の支えに使う。なのはが障壁を移すのに合わせ、そこも手放す。守ろうとする相手が自分の力で立っているのを見て、押し戻す代わりに道を空けた。

 

 中心の頁が解けた途端、肩に残っていた力が抜けた。十九歳の身体が揺らぎ、黒い文字が輪郭から散る。ヌメロンは倒れかけたが、ノーヴェの腕がまだ背にあった。

 

 彼女の拳は命令から自由になっていない。フェイトが拘束を保ち、警備員も足首の帯を引いた。守っている人間達の力を借りても、危険はそのまま残っている。

 

「……ボク」

 

 喉が痛む。さっきまで繰り返した言葉の次を、探す。

 

 久遠の願いを自分のものにして、久遠の顔でここに残ることもできたのかもしれない。その先に、ウーノ達と同じ食卓へ帰る自分の姿は浮かばなかった。

 

「ボクは、クオン・ヌメロン」

 

 ノーヴェの腕が背中へ食い込む。

 

「知ってる」

 

「帰りたい」

 

 はやての魔法陣が天井の重さを支えたまま、少しだけ震えた。なのはは結界を下ろさない。フェイトもノーヴェの手を離さない。誰も、彼が名乗っただけで傷や命令が消えるとは思っていなかった。

 

 伸びた背丈が縮む。十三歳ほどになったところで変化が止まり、ヌメロンは膝をついた。脇腹の穴から、また小さな光が落ちる。ノーヴェの腕は彼を支えていたが、痛めた肩の方から力が抜けかけている。

 

「救護、入って! 拘束は続けて!」

 

 フェイトが外の班へ指示した。トーレの膝、セッテの身体、ウーノの腕、ノーヴェの手首。運ぶべき負傷者は四人では済まない。ヌメロンの傷もすぐ処置が要る。

 

 ウーノは柱から離れ、両腕を警備員の拘束に預けた。命令の届いた身体がまた動く前に、自分から膝をつく。目の前の兄が名を取り戻しても、彼女が刺した事実はなくならない。

 

「お兄様」

 

 声をかけると、ヌメロンは顔を上げた。彼女の腕を見る。

 

「……痛い?」

 

 ウーノは答えを急がなかった。傷は痛い。彼を刺した手も、頁に締められた肩も。けれど、今までの「大丈夫」とは違う問いが返ってきた。

 

「はい。あとで手当てを受けます」

 

 ヌメロンが頷く。自分が治すとは言わない。彼女には自分の傷を診てもらう権利がある。

 

 はやては傾いた天井を救護班の支柱へ渡し、ようやく陣を閉じた。通路に立つ十三歳の顔を、もう一度見る。久遠なら十九歳になると知っていたから、さっきの背丈に胸が痛んだ。その痛みが消えないまま、今度はこの少年の名を呼ぶ。

 

「ヌメロン」

 

 彼は振り向いた。

 

 久遠からは、あの夜の返事をもらえなかった。目の前の少年へその返事を求めたら、別の帰り道まで失わせるところだった。

 

 ノーヴェが彼の背を離す。拘束帯を持つ警備員の方へ自分から両腕を差し出し、もう一度止めてくれと目で伝えた。ヌメロンも、追って抱き返さない。まだ命令のある身体を安全に運ぶには、少し距離が必要だった。

 

 フェイトが担架の来る側へ道を空ける。なのははその横に立ち、ヌメロンへもう一度伝えた。

 

「ヴィヴィオは無事だよ。いま、安全なところで眠ってる」

 

「……さっきも、聞こえてた」

 

「うん」

 

 聞こえていても、すぐには信じられなかった。自分がここで傷つけた人達のことも、ドゥーエとストライクが帰らないことも、知らせ一つで変わるわけではなかった。

 

 誰も彼に、全員が帰ったとは言わなかった。

 

 戻らない二人の名前が、ヌメロンの中に残る。それでも今、彼自身を待っている人が目の前にいる。

 

 ヌメロンはノーヴェの手首の拘束を見て、もう一度はやて達を見た。助けられながら帰ることを、今は選べた。

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