魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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第四十一話 空いた席のそばで

 ヌメロンを載せた担架が動き出すと、ノーヴェの足も同じ方を向いた。

 

 彼女は一歩も出るつもりがない。なのに、傷ついた肩の奥から身体が引かれ、足首の拘束帯が張る。

 

「くそっ」

 

 フェイトはノーヴェの拳を拘束したまま、救護員へ合図した。

 

「担架を先に。距離を取って運んで」

 

 ヌメロンは横になったまま振り返ろうとする。脇腹へ当てられた布がずれ、傷から光がこぼれた。

 

「見なくていい」

 

 ノーヴェが言った。自分の手首はまだフェイトの術に捕まっている。それをヌメロンに見せたくないのではない。彼が助けに戻れば、またこの手が彼を殴る。

 

「行って、手当て受けろ」

 

 ヌメロンは返事をしようとして、息を吸うだけで顔を歪めた。十三歳の姿を保つ魔力も心許ない。

 

 救護員は魔力を帯びない布で脇腹を押さえ、傷の奥へ術式を触れさせない。魔力を持つ人の素手も避ける。急に力を吸って身体が変われば、止血した場所がまた開くかもしれない。

 

 担架が曲がり角を過ぎた途端、ノーヴェの身体はその先を追おうとした。警備員が帯を引き、彼女は膝から床へ落ちる。

 

 自分で選んで抱きつけたのに、今は自分で膝も止められない。

 

「ノーヴェ、もう一度隔離地点へ戻る」

 

 フェイトの声に、ノーヴェはうなずいた。拳にかかった術を解かれないまま、運ばれていく担架の音が聞こえなくなるのを待った。

 

     ◇

 

 地下施設の救護室には、元の器材がほとんど残っていなかった。

 

 別の車両から運び込まれた端末を、シャーリーがアースラから遠隔で立ち上げる。現場の医師がナンバーズの腕と脚へ検査具を当てた。警備員は拘束を保ち、ヌメロンのいる車両を別の入口へ移している。

 

 ウーノは傷めた腕を固定され、椅子に座っていた。彼女の両手には近づかない。命令は端末が止まっても、身体の制御層で続いている。

 

「外部の回線を切っただけでは止まりません」

 

 ウーノが言う。スカリエッティが研究室に残した別認証は、起動のきっかけにすぎない。送り込まれた後の命令は、各自の運動補助へ繰り返し出力される。

 

『止めるなら、どこを切る?』

 

 シャーリーが問うた。彼女は読み取れる配線図と、現物にある接点を照らし合わせている。図面だけで手を出せば、戦闘機人の生命維持まで落としかねない。

 

「強制命令の出力だけを遮断する検査用の接点があります。ただし、私達全員が同じ改修を受けたわけではありません」

 

「誰から試す?」

 

 医師の問いにウーノは自分の名を挙げかけた。折れた腕でもヌメロンへ伸びることを、さっき知ったばかりだ。

 

 入口からノーヴェの声がした。

 

「あたしからにしろ」

 

 拘束されたまま、救護員に支えられて立っている。殴ろうとした拳をまだ開けない。医師は腕の傷と本人の意識を確認し、処置の間は身体を固定すること、接点が想定と違えば即座に止めることを説明した。

 

「分かった。止められなかったら、また縛っとけ」

 

 ノーヴェは横になる。フェイトの拘束を残したまま、医師が運動補助の検査口を開く。機械音が一度鳴り、ノーヴェの指が強く曲がった。

 

「まだ動いてる!」

 

 警備員が帯を引く。シャーリーが画面の反応を読み直した。

 

『そこは受信側。実行の信号は、もう一段内側に残ってる。いま止めたのは新しい指示だけ』

 

 危うく拘束を解くところだった。医師は手を止め、ウーノへ別の検査結果を見せる。

 

「私の改修前の図面です。そのままでは……」

 

 ウーノは息を整え、ノーヴェの肩の古い処置痕に気づいた。そこから内側へ交換された回路がある。手術記録はここにはないが、端末に残る値と一致する。

 

「もう一つ下です。生命維持とは別の、動作の出力だけ」

 

 医師はノーヴェに確認し、別の接点を遮断する。拳の拘束が鳴った。まだ力が入っているように見えたが、次に彼女が自分で手を開いた時、術へ逆らう衝撃は来なかった。

 

「……開く」

 

 ノーヴェは指を見た。目を閉じ、もう一度握る。ヌメロンのいる方へ向かおうとすれば脚も動く。けれど、それを自分でやめられる。警備員が帯を緩める前に、医師は装置の反応を二度確かめた。

 

『あくまで強制出力の停止だよ。埋め込まれた命令そのものはまだある。処置の戻りも調べないと』

 

 シャーリーの声にノーヴェが顔をしかめた。今すぐ自由になったと思いたかった。それでも、担架を追いかける脚を自分で止められたことは事実だった。

 

「次はウーノを」

 

 ノーヴェが言う。ウーノは少し離れた椅子から答えた。

 

「トーレとセッテもです。その後、地上の妹達を」

 

 誰か一人の処置で終わる命令ではなかった。

 

     ◇

 

 夜のうちに、クロノは現場ごとの拘束と医療体制を組み直した。

 

 地下にいる三人とノーヴェ。地上で抵抗したウェンディとディード。別の戦線や拘束地点にいる者達も、一人ずつ確かめなければならない。ギンガは意識が戻るまで別の管理下で検査を待ち、ゆりかご側で確保された者も診断の順番から外さない。

 

 現場の映像には、ヌメロンが頁で彼女達を傷つけた場面も残っている。見なかったことにはできない。身体を命令に使われた側の傷も、誰が命令を送り出したかも、同じ記録へ残す。

 

 通信の向こうで、オーダーは資料を受け取った。

 

「スカリエッティが捕まっても、命令は消えなかった」

 

「ああ」

 

 クロノは地上本部の別の記録を開いた。レジアスを襲う可能性を伏せたオーダーの申告は、消されず残っている。ドゥーエが犯したことと、彼女を帰したかったヌメロンの願いも、混ぜて一行にはできない。

 

「君の判断については、この件が終わってから調べる」

 

「それでいい」

 

「よくない。僕が今ここで君を信じたから、済む話でもない」

 

 オーダーは言い返さなかった。遠くの弟が自分の名を選んで帰ってきた記憶は届いた。だからこそ、別の弟の返事はもう来ないことも知っている。

 

「ストライクのことは、僕からも記録する。彼が何を選んで現場へ行ったのか」

 

 クロノはうなずいた。オーダーに証言の機会を与えることと、彼の伏せた事実を見逃すことは別だった。

 

 アースラの通信が切れた後も、オーダーは空いた画面を閉じられなかった。

 

     ◇

 

 翌朝、ノーヴェは自分の脚で医療区画の廊下を歩いた。

 

 近くにヌメロンがいる。歩く方向を選ぶ時に分かる。足首は勝手には進まない。ただ、それを確かめるために近づくことは禁じられていた。

 

 医師は強制出力を止めた後も、拘束具を保管したまま経過を見る。ウーノの腕も、トーレの膝も、セッテの打ち身も治ってはいない。運動補助を止めれば、負傷した脚で歩けるようになるわけでもない。

 

 ウェンディとディードにも医師が別の処置を終えた。二人の型はノーヴェと異なり、検査口の位置から確認し直す必要があった。別の戦線にいた姉妹には、それぞれの拘束先へ処置班が向かった。スカリエッティの手が届かない場所へ移してから、ようやく全員の診断を始められた。

 

 ノーヴェが目指したのはヌメロンの部屋ではない。ウーノの部屋だった。

 

 扉は開いている。警備員が見える位置に立ち、ウーノは固定された腕で端末を操作していた。診断に使う図面が、本人の説明の通りに並んでいる。

 

「まだ働いてんのか」

 

「忘れる前に、改修の違いを書いています」

 

「休めよ」

 

 以前なら自分が言われる側だった。ウーノは端末の文字から視線を離す。ノーヴェの肩に包帯がある。

 

「お兄様に触れた時、その傷は」

 

「あいつの頁につけられた。殴り返すとこだったけどな」

 

 ウーノの顔から色が消える。

 

「あなたが、無事で」

 

「無事とは言ってねえ」

 

 ノーヴェは空いている椅子へ座った。ウーノは謝ろうとしたが、その前に別の話をしなければならなかった。地上本部から届いた正式な報告を、自分だけ読んでいる。

 

「ドゥーエの消息が分かりました」

 

 ノーヴェは背筋を伸ばした。

 

「どこで潜ってた」

 

 問いを発してから、ウーノが端末を握れない方の指で押さえているのを見た。いつもならドゥーエの帰還時間を答える人が、時刻を言わない。

 

「地上本部でレジアス・ゲイズを刺し、ゼストに止められました。ドゥーエは亡くなりました」

 

 ノーヴェは窓の外へ目をやる。医療区画の駐車場に車が一台止まり、誰かが荷物を積んでいる。何も変わらない速さで動いていた。

 

「……ストライクは?」

 

 なぜ、その名を聞いたのか分からなかった。彼が地上の救援へ行ったことは知っている。ヌメロンがひどく壊れた顔をしていたのも見た。

 

「ドゥーエを連れ帰ろうとして、現場で消えました」

 

「誰が見た」

 

「シグナムとゼストが。救護員も」

 

 ノーヴェは床を蹴って立ち上がりかけた。膝が椅子へ当たる。自分の足は止まった。昨日までなら、この勢いでヌメロンの方へ歩いてしまっただろう。

 

「ドゥーエは、戻ってくるのか。……身体だけでも」

 

「地上本部に残っています。捜査と保全が終わるまでは、こちらへ運べません」

 

 帰りを待つ席へ連れてこられないと、ウーノも知っていた。

 

「二人とも、あいつの所には帰ってねえんだな」

 

「はい」

 

 ウーノはそれ以上の言葉を探さなかった。ドゥーエが生きている可能性を残すような言い換えも、ストライクが記憶として残ったから帰ったと数えることもできない。

 

「先に教えろよ」

 

「確認できたのが今朝でした。あなたに話せる状態になるまで、待たせました」

 

「そういう意味じゃねえ」

 

 ノーヴェは椅子へ座り直す。誰に言ったのか自分でも分からない。二人が戻らないあいだ、自分は地下でヌメロンの首に腕を回し、帰ってこいと怒鳴った。あいつには、帰ってくるという言葉がどんなふうに聞こえたのだろう。

 

 ウェンディとディードには、ウーノが医師のいるところで別に伝えると約束した。ノーヴェが一人で廊下へ出ると、扉の近くにトーレが松葉杖をついていた。ドゥーエの名を聞いたのか、部屋へは入らないまま立っている。

 

 誰が先に泣くかを決める必要はなかった。ノーヴェは壁際に寄り、トーレが座れるよう通路を空けた。

 

     ◇

 

 ヌメロンの病室には、曇りガラスの小窓があった。

 

 午後になると、ノーヴェは廊下のそこまで来た。医師に許されたのは短い面会だけだった。彼の脇腹にはまだ深い傷があり、彼女の身体にも遮断した命令が残っている。両方の検査結果を確認し、警備員が廊下にいる条件で、ようやく扉が開いた。

 

「死にかけの顔してんな」

 

「ノーヴェも」

 

 ヌメロンの声は細い。枕の横に腕を置いても、包帯の下の肩が痛む。ノーヴェは椅子を引き、傷のない側へ座った。

 

「聞いた。ドゥーエとストライクのこと」

 

 ヌメロンの手が止まった。ノーヴェが知ったと分かっても、謝る言葉から先へ進めない。

 

「ボクが、ストライクに頼んだ」

 

「知ってる」

 

「連れて帰ってほしかった」

 

「それも分かる」

 

 ノーヴェは彼の手を見る。見慣れた十三歳の手だ。昨日までの九歳の手でも、十九歳の手でもない。そのどれもが同じように震えた。

 

「あいつが自分で出たことも、知ってる」

 

 ヌメロンにはストライクの最後の記憶が残っている。自分の願いを聞いた後に、兄が何を選んだかも分かる。それでも、頼まなければ違ったのではないかという考えを手放せない。

 

「何か、言いたいことあるか」

 

 ノーヴェが訊いた。

 

「……分からない。謝りたい。ドゥーエにも、ストライクにも。ノーヴェやウーノにも。でも謝ったら、許してほしいみたいになる」

 

「じゃあ、今すぐ言わなくていい」

 

 ノーヴェは彼の傷を見る。自分が抱きついた時の血ではない。その前にウーノが意に反してつけた傷だ。誰も傷を自分の都合のいい話に変えられない。

 

「あたしも腹立ってる。スカリエッティにも、あの命令にも。ドゥーエがあそこへ行ったことにも。ストライクが帰れなかったことにも」

 

「うん」

 

「お前にも、ちょっと」

 

 ヌメロンは目を伏せた。

 

「でも、帰ってきてほしいって言ったのは本当だ」

 

 それ以上の結論を急がなかった。ノーヴェは席を立つ前、椅子を元の位置へ戻した。

 

「治ったら、次はあたしに会いに来い。警備の許可いるなら取る」

 

「……うん」

 

 廊下へ出ると、ウーノが救護員に連れられて通りかかった。二人は顔を見合わせる。ウーノはヌメロンの部屋へ入る順番を求めなかった。今、自分の手の傷を見せれば、彼がまた何と言うか分からなかった。

 

 ノーヴェも代わりに決めない。行くかどうかを選べる時間が、やっと戻ってきた。

 

     ◇

 

 二日後、医療区画の別の部屋で、ウーノはヌメロンの前に座った。

 

 自分から面会を申し込んだ。強制出力は遮断され、運動補助は医師の監視下で一部だけ動かしている。検査の間、ヌメロンから離れた場所に置かれた標的データを見ても、手足は命令のままには動かなかった。

 

 それでもウーノは、座る前に自分の両腕を机の上へ見えるように置いた。

 

「お兄様。私の手は、怖くありませんか」

 

 針を掴んだ指には固定具がある。ヌメロンはその手を見て、首を横に振った。

 

「ウーノが針を落とすために、その腕を机へ打ったのを見てた。怖がるなら、そっちの痛みを怖がるよ」

 

「でも、私はあなたを刺しました」

 

「うん。痛かった」

 

 ウーノの顔が強ばる。ヌメロンは包帯に触れず、机の上に自分の手を置いた。

 

「ボクはウーノ達のお兄ちゃんだよ。いたずらされても、困らない」

 

「あれをいたずらと呼ぶには、傷が深すぎます」

 

「そうだね。だから二人とも、ちゃんと治そう。ウーノの腕も、ボクの脇腹も」

 

 ウーノは彼の手と自分の指を見比べた。彼が刺されたことを笑い飛ばしたわけではない。いまさら自分から離れるつもりがないから、軽い言葉を選んだのだ。

 

「命令が止まっても、傷のことは残ります」

 

「ウーノを怖がる理由にはならないよ。今日はウーノがここに来てくれて嬉しい」

 

 ウーノは返事をする前に、机へ置いた手の位置を少し変えた。ヌメロンの手を握ることはしない。それでも、見える場所から下ろさなくてよかった。

 

 ウーノは机に置いた手に目を落とした。ドゥーエの席をどうするか、ずっと考えていた。

 

「ドゥーエのこと、みんなに伝えました」

 

「うん」

 

「次に部屋へ行く時も、あの子の席は残したい。使わない席を片付けなくてよいかと、聞かれたので」

 

 ヌメロンは返事をするまで時間がかかった。

 

「ウーノがそこに座りたい時は座って。待つためだけに空けておくと、ウーノが休む場所までなくなる」

 

 ウーノが目を上げた。

 

「……それでも空いていると分かる方が、私には必要です」

 

「うん」

 

 同じ席に違う答えがあってもよかった。二人ともドゥーエがいないと知っている。どちらかの方法だけを守らせる必要はなかった。

 

     ◇

 

 数日後、なのはは古い事件の写真を、自分で開いた。

 

 ヴィヴィオの容体が安定していることを医師に確かめてからだった。フェイトとはやてがいる病院の小さな会議室で、机に置いた端末を伏せずに見る。

 

 図書館のいつもの席。黒い本。床に残った血。

 

 その夜、久遠を迎えに行くつもりだった未来のことを思う。彼は返却箱に本を入れたら連絡すると言った。あの携帯電話が床に落ちたまま見つかった理由を、なのはは初めて写真で知った。

 

 はやては隣で立っている。自分がこの写真を読んでから、十年が経った。

 

「前にも聞いたよね。どうして話してくれなかったの、って」

 

 なのはが言った。はやては頷く。

 

「最初は、本人が見つかるまで、って思ってた。私が知ってるのは資料だけやし、遺体はなかった。なのはちゃんが久遠君を待ってるのも見てた」

 

 言葉を続けるために息を吸う。

 

「あとで話そうとするたび、十年分の待った時間まで私が黙ってたことになる。怖くて、また言えへんかった」

 

 フェイトは写真の端へ視線を落とした。血の量をクロノから聞いた夜、なのはに話すのが怖かった自分もいた。結局その夜に話したからといって、はやての十年を簡単に裁く言葉は出なかった。

 

「私、久遠君かもしれないって思ったまま、ヴィヴィオの所へ行った」

 

 なのはの指が写真から離れる。

 

「無事に連れ帰れたから、今度は久遠君とも話せるって、少しだけ思ってた」

 

 十三歳のクオンを見た時の希望も、十九歳の姿を見た時の動揺も本当だった。目の前の資料と別々にはできない。

 

「隠されてたのは悲しかった。今も、怒ってないとは言えないよ」

 

「うん」

 

 はやては頷く。責めないでほしいと言いかけて、飲み込んだ。

 

「ヴィヴィオが帰ってきてくれて、本当に嬉しい。なのに、久遠君が帰ってこなかったことまで、今になって苦しい」

 

 フェイトがなのはの隣へ座る。

 

「私も、写真を見た時に怖かった。はやてがあの本を持っていたことも、久遠のことも、一緒に聞いてよかったのか分からなかった」

 

「聞いてよかった」

 

 なのはが返す。

 

「あの子にも聞けることがある。でも、久遠君の代わりに答えさせていいのか分からない」

 

 三人の目が、端末から外れた。病室にいる少年へこの写真を持っていくなら、彼が話せるかどうかを先に確かめたい。フェイトがそう言い、はやても頷いた。

 

 久遠のことを知りたい気持ちと、ヌメロンを傷つけたくない気持ちは、どちらも消えなかった。

 

     ◇

 

 三人が病室を訪れた時、ヌメロンは十九歳の姿で待っていた。

 

 事件から休んだ数日で戻った魔力を使い、自分でその姿を取った。医師には脇腹の傷と肩の固定具を確かめてもらい、短い面会の間だけなら保てると言われている。誰かに求められた姿ではなかった。地下では勝手に伸びてしまった背丈を、今日は自分の意思で選んだ。

 

 なのはは扉の前で立ち止まる。十年前の同級生が生きていたら、このくらいの背丈で自分を見ていたのかもしれない。そう思うほど、包帯を巻いた彼の身体も、そこにいるヌメロン自身のものだと分かる。

 

「この姿で話したかったんだ」

 

 ヌメロンが言う。はやては椅子に座る前、話したくないことは答えなくていいと言った。ヌメロンは、それが気遣いだけではないと分かる。三人とも、聞いた後に何を失うかを知っている。

 

「はやて。あの時とは逆だね」

 

 はやてが彼を見た。ヌメロンはベッドから、椅子に腰を下ろしたはやてへ目を向ける。

 

「あの時?」

 

「久遠がはやての病室へ、本を受け取りに行った時。あの時ははやてがベッドにいて、久遠が会いに行った。今日は、はやてがここへ来てくれた」

 

 はやては外国料理の本を久遠へ渡した日のことを思い出した。あの日の続きを聞きたくて、同時に、目の前にいる彼をその日の少年にしてしまいそうで、言葉が止まる。

 

「……覚えとるん?」

 

「ううん。ボク達は久遠の記憶を受け取って、記録してる。はやてと読んだ本も、病室で交わした約束も、知ってる。でも、あの時の久遠が何を嬉しいと思ったかまでは、記録だけじゃ分からない」

 

 はやては膝の上で手を重ねた。会えなかった十年を埋める返事を、そこへ求めてはいけないと分かっていても、二人で読んだ本のことを彼が知っているのは嬉しかった。

 

「あの夜のことは?」

 

 なのはが尋ねた。

 

「図書館で久遠が感じたことは、ボク達の中に残ってる。怖かったことも、帰りたかったことも」

 

 フェイトが目を伏せる。ヌメロンは、図書館の窓際の席を思い出す。黒い本に押しつけた指。床に落ちた携帯電話。呼びたい名前を呼べなかった喉。

 

「……久遠君は、帰ろうとした?」

 

 なのはの問いに、ヌメロンは頷いた。

 

「家へ帰りたかった。死にたくなかった。はやてと図書館へ戻る約束も、なのはとフェイトに会う約束も覚えてた」

 

 はやてが膝の上で指先を握りしめる。あの日、自分が渡した外国料理の本を、久遠は鞄に入れて出ていった。

 

「でも、あの呪いを外へ出したら、ほかの人に触れると思った」

 

「だから、一人で?」

 

「怖かったよ。助けに来てほしかった。来た人が傷つくのはもっと怖かった」

 

 なのははその言葉を、久遠が自分に言った声で聞くことができなかった。十九歳になったヌメロンが自分の言葉で伝えている。今になって駆けつけることも、あの時の久遠に「帰ろう」と言うこともできない。

 

「人間の久遠は、図書館から帰れなかった。残ったボク達が、あの人の名前を受け取った」

 

 フェイトが頷く。資料の写真から言えることと、ヌメロンの記憶が告げることは違う。それでも、床にいた少年へ今から手を伸ばせないことだけは同じだった。

 

「図書館より前の久遠のことは、出来事として知ってる。でも、なのはやフェイトと過ごした日の気持ちまで、ボクにあったわけじゃない」

 

 ヌメロンは包帯のある肩をかばい、少し姿勢を変えた。十九歳の指で自分の膝を押さえる。図書館から戻れなかった九歳の少年の記憶を持っていても、今日ここに座るのはヌメロンだ。

 

「あの人の代わりに、なのは達との十年を埋めることはできない。ボクは、あの夜の先を生きたクオンの一人だから」

 

 はやては頷いた。地下で、十九歳の姿へ向かって久遠君と呼んだ声を思い出す。謝るべき相手も、目の前にいる。

 

「私は、君を見て久遠君に帰ってきてほしいと思った。君の名を聞いた後でも、まだその気持ちがある」

 

「うん」

 

「それを、君の仕事にはせえへん」

 

 ヌメロンはすぐには答えなかった。はやてが望みを捨てられないことまで、ここで否定したくなかった。

 

「ボク達は久遠だけど、クオンだ。久遠から受け取ったものは消えない。でも、ボクを見た時は、今ここにいるボクに話してほしい」

 

 なのはが顔を上げた。フェイトもヌメロンを見る。はやては、さっき彼に何の役目も負わせないと言った。その返事を、聞こうと思った。

 

 ヌメロンは三人の顔を、一人ずつ見た。久遠と同じ名前の音を持つ自分が、ここまで生きてきたことも、三人に知ってほしかった。

 

「改めて、はじめまして。ボクの名前はクオン・ヌメロン」

 

 はやてが頷く。なのははすぐに声を出せなかったが、彼の名を聞き終えてから、ゆっくり頷いた。フェイトも、その隣で頭を下げた。十年の悲しみや後悔は、どれも消えない。彼の名乗りも、消えなかった。

 

 看護師が面会の終わりを知らせる。三人は部屋を出る時、久遠の写真を持ち込まなかった。なのははあとでまた見るつもりだった。はやても、預かった写本をこれからどう扱うか急いで決めなかった。

 

 続きのある会話として、扉を閉めた。

 

     ◇

 

 それから数日、医師達は一人ずつ違う身体の図面を開いた。

 

 接点を見つけて強制出力を止め、傷んだ部分が命令以外の機能まで失っていないかを調べる。安全な検査室で模擬の標的データを流し、動作の指示が筋肉へ届かないことを確かめる。戻せば危険な経路は、医療用の封鎖具でそのまま隔てた。

 

 結果が出るまで、ナンバーズはそれぞれの拘束先で待った。ヌメロンから離れている者にも同じ検査をする。ドゥーエを除く十一人の強制出力が遮断されたと最後に報告が揃った時、ノーヴェはもう魔力の拘束を付けていなかった。

 

 命令の痕跡は証拠として封じられ、身体の奥に残る改修を今後どう直すかは一人ずつ決めていく。拘束先も、負った傷も、犯したことの調査も同じにはならない。安全確認と釈放は別の話だった。

 

 ヌメロンがそれを聞いたのは、病院の廊下を短く歩けるようになった日だった。

 

「これで、もう追われない?」

 

 シャーリーからの記録を読んだフェイトが答える。

 

「あの命令で身体を動かされることは、いま確認した範囲では止められた。これからも定期的に調べるよ」

 

「そう」

 

 ヌメロンは壁に手をつく。安心した瞬間に、ドゥーエだけが報告から抜けていると気づく。ディエチがゆりかごから運ばれ、ほかの姉妹も別々の部屋で診てもらったことは嬉しい。それでも、十二にはならない。

 

 フェイトはその顔を見て、無事を数える続きを代わりに言わなかった。

 

     ◇

 

 ヴィヴィオがヌメロンの病室へ来たのは、その翌日だった。

 

 なのはが手をつなぎ、医師が許した時間だけ扉を開ける。少女はベッドのそばまで走りかけて、包帯に気づいて止まった。

 

「クオンお兄ちゃん、痛い?」

 

「まだ、少し」

 

 ヴィヴィオは頷く。前に会った時、お兄さんは瓦礫を支えて自分を抱いた。いまは片方の腕を動かさないようにしている。

 

「なのはママが、助けに来てくれたよ」

 

「うん。ヴィヴィオが帰れたって聞いた」

 

「お兄ちゃんも帰った?」

 

 ヌメロンは隣の椅子へ目をやる。ノーヴェが座った席。ウーノが腕を見せに来た時の席。はやて達が立って話した場所。

 

「まだ病院だけど、帰るつもりだよ」

 

「じゃあ、よかった」

 

 ヴィヴィオはそれだけで、少し笑った。過去に何があったかを訊くには幼い。ヌメロンも、彼女が帰ってきたことを確かめる以上の説明を求めなかった。

 

 なのはが窓際から声をかける。

 

「ヴィヴィオ、そろそろ戻ろう」

 

「また来てもいい?」

 

「うん」

 

 少女は大きく手を振った。ヌメロンも傷のない方の手を上げる。なのはは彼を久遠とは呼ばず、「またね、ヌメロン」と言ってヴィヴィオと廊下へ出た。

 

 久遠と約束した図書館の時間は戻らない。けれどヴィヴィオと交わした「また」は、これから守ることができる。

 

     ◇

 

 医療区画の共同室には、午後になると短い面会の時間ができた。

 

 病院の管理する場所で、出入りする人の名前を記録する。調査の終わっていない姉妹は許可された時間だけ来る。以前いた研究施設へ誰かを戻すための部屋ではない。

 

 ウーノが先に座っていた。傷めた腕の固定具は小さくなったが、診断の紙をめくる時は片手を使う。テーブルの端に椅子が一つ、少し離れて残っている。

 

 短い距離は歩けるようになったが、共同室までの廊下を歩き切るにはまだ傷が痛む。ヌメロンは看護師に押してもらった車椅子で来た。入口で止まると、ウーノが顔を上げた。

 

「お兄様、座り心地は大丈夫ですか」

 

「うん。ウーノの隣まで来られた」

 

 ウーノは傷めた腕を下ろしたまま頷いた。看護師が車輪を固定して部屋を出る。面会が終わる頃にまた迎えに来るという。

 

 ノーヴェがその後から入ってきた。警備員の案内を受け、期限つきの面会札を机へ置く。

 

「ちっとは顔色戻ったな」

 

「ノーヴェも、歩けるようになった」

 

「元から歩ける」

 

「止まれるようになった」

 

 言い返そうとしたノーヴェは、椅子に腰を下ろしてから口を閉じた。ついこの間まで、自分の脚が誰へ向かうかを自分で決められなかった。そんな日の後なら、返す言葉は少し遅くてもいい。

 

 ウェンディとディードも別の面会時刻に来る予定だった。トーレはまだ膝の処置を続けている。全員がこの机を囲む日は、今のところ決まっていない。

 

 空いた椅子のことを、三人とも知っていた。ウーノが共同室の職員に頼んで、一脚だけ余分に置いてもらったものだ。

 

 ドゥーエを待つ時に残した席と、同じ位置へ置いた。もう待てば入ってくるという意味ではない。ドゥーエがそこに座っていたことを、ここへ来た誰もが知っているというだけだった。

 

 ストライクの席は、元からこの部屋にはない。別の場所で誰かが道場の予定を確かめるたび、その不在もまた形を持つだろう。

 

 ヌメロンは空いた椅子を見た後、自分の車椅子の車輪に手を添えた。

 

 前は、ここにいる人の帰りを一人で数えようとしていた。自分がいなくなるところまで数えれば、終わらせられると思った。

 

「ボクは、ここにいるよ」

 

 誰かの代わりに席を埋めるための言葉ではなかった。ウーノが片手でカップを押さえ、ノーヴェが窓の外から彼へ視線を戻す。

 

「見りゃ分かる」

 

 ノーヴェはぶっきらぼうに答えた。

 

 ウーノは、ドゥーエの席を片付けなかった。

 

 いない人がいる。

 

 帰ってきた人もいる。

 

 看護師が迎えに来た時、ノーヴェが車椅子の後ろへ回った。

 

「帰るなら、押してやる」

 

「じゃあ、甘えちゃおうかな。ノーヴェ、お願い」

 

「最初からそう言えよ」

 

 ノーヴェが持ち手を握る。ヌメロンはウーノを振り返った。

 

「ウーノも、途中まで一緒に行こう」

 

「はい、お兄様」

 

 ウーノは車椅子の横へ並ぶ。ドゥーエの席は空いたまま、三人は一緒に廊下へ出た。

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