稽古の終わった道場に、甘い匂いがしていた。
畳の上にはまだ昼間の熱が残っている。窓を開けると、庭を抜けた風が、隅へ寄せた稽古表の端を揺らした。
ノーヴェが最後の座布団を置いた時には、ウェンディはもう菓子箱の蓋を開けていた。
「待て。全員座ってからだ」
「見てるだけっスよ。お、これ、種類違うんだ」
「見るだけなら、なんで一個減ってるんだよ」
「検品?」
「飲み込んでから言うな」
ディエチが湯呑みを受け取りながら、小さく笑った。チンクは箱の中を覗き、端の一つ
を指さす。
「それは残しておいてくれ。姉はそれがいい」
「はーい。チンク姉の分、確保っと」
ウェンディが菓子を小皿へ移す。その隣へ、ヌメロンが盆を置いた。
「ノーヴェも座って。お茶、冷めちゃうよ」
「お前が座ったらな」
「ボクは、あと布巾を――」
「そこにある」
ノーヴェが自分の脇を叩く。ヌメロンは一度台所の方を見てから、ようやく腰を下ろし
た。
「じゃあ、甘えちゃおうかな」
「最初からそうしろよ」
布巾を差し出すと、礼を言って受け取る。その手に、ウェンディが小皿まで載せた。
「お兄ちゃんの分も取っといたっス」
「ありがとう。……これ、さっきウェンディが食べたのと同じ?」
「おいしかったんで」
「それなら安心だ」
ヌメロンは笑って、菓子を半分に割った。
ノーヴェもようやく茶を飲む。稽古のあとには少し熱かったが、その熱さも嫌ではな
かった。
◇
「これ、どこで買ったんスか?」
包み紙を裏返しながら、ウェンディが聞いた。
「もらったんだ。ヴェロシティから」
「ヴェロ……?」
「ヴェロシティ」
聞き返す声に、ヌメロンはもう一度ゆっくり繰り返した。
「ボクの兄弟だよ」
ノーヴェは、湯呑みを口から離した。
兄弟。
その呼び方は知っている。初めて聞いたのは、あの口の悪い男からだった。
けれど、今ヌメロンが口にしたのは、知らない名前だった。
「名前、あるのか」
「うん」
「お前とストライクと、あのスーツの……」
「オーダー?」
「そう。あいつ以外にも」
「いるよ。ヴェロシティと、クェーサー」
ウェンディが指を折りかけて、菓子を持っていたことに気づく。先に口へ入れてから、
改めて数え直した。
「五人?」
「名前を持ったのはね」
ヌメロンは頷いた。
五人、と答えた声は、ごく普通だった。
ノーヴェも数え直さなかった。茶を一口飲んで、箱の中へ目を落とす。
「その二人の話、あんまり聞いてなかったな」
「そういえば、ちゃんと話したことなかったね」
「お兄ちゃん、自分の話は後回しにするから」
ディエチに言われ、ヌメロンは少し困った顔になった。
「そうかな」
「そうだろ。こっちの稽古とか、飯とか、そういうのばっか聞いて」
「ノーヴェの話を聞くの、好きなんだよ」
「今そういう話してねえから」
横でウェンディが笑う。ノーヴェが睨むと、わざと菓子箱へ顔を向けた。
チンクが湯呑みを置いた。
「では、今日はお前の話を聞こう。菓子をくれた兄弟は、どんな男なんだ?」
◇
「走るのが好きなんだ」
「足が速いのか?」
「速いよ。でも、最近よく走らせてるのはバイクの方」
「バイク?」
ウェンディが身を乗り出す。
「お兄ちゃんと同じ顔で?」
「同じ顔でも、バイクには乗れるよ」
「いや、そうなんスけど。なんか、想像するとかわいいなって」
「ボクより大きいから、ウェンディが想像してるのとは少し違うと思う」
ヌメロンは自分の頭の上へ手をかざした。ウェンディの視線が、その手の高さを追う。
「革の上着を着て、ヘルメットを持って。帰ってくると、今日はどの道を通ったとか、ど
こに寄ったとか、そういう話をしてる」
「遠くまで?」
ディエチの問いに、ヌメロンは菓子箱の蓋を向けた。
「これは、ここの店。わざわざ寄ってきたんだって」
印刷された住所を見て、ノーヴェは眉を上げた。
「結構あるぞ」
「うん。近くでも買えるよって言ったら、その店まで行きたかったんだって」
「分かる気もするっス。途中が楽しいんでしょ」
「そうそう。ウェンディとは話が合いそうだね」
ヌメロンは頷いてから、ふっと笑った。
「ただ、お土産を渡す時まで格好つけなくてもいいと思うんだ」
「何したんだよ」
「片手にヘルメット、もう片方にこの箱を持ってね。『近くを通ったから』って」
「近くじゃねえだろ」
「でしょう? だからそう言ったら、『帰り道からは近い』って」
ウェンディが噴き出した。
「帰り道、そっちに曲げただけっスよね」
「ボクもそう思う」
ヌメロンは、今度は声を立てて笑った。
ノーヴェはその顔を横から見た。
普段もよく笑う。こちらが失敗した時には安心させるように、何かできた時には嬉しそ
うに。
今の笑い方は、どちらとも少し違った。
「本人に言ったのか、それ」
「言ったよ。笑ってた」
「お前、兄弟には結構遠慮ねえんだな」
「そう?」
ヌメロンは意外そうに瞬いてから、割った菓子の残りを食べた。
「でも、おいしいね。遠回りしてくれてよかった」
「それも言っとけよ」
「うん。ちゃんと言う」
◇
「もう一人は?」
ディエチが尋ねた。
「クェーサーは、すごく真面目。人の世話をするのが好きで、よく気がつくんだ」
「お兄ちゃんみたいな感じ?」
「ボク、あそこまではしないよ」
あまりに早い返事だったので、四人の視線が集まった。
ヌメロンは少しだけ口を閉じた。
「……何?」
「いや。続けて」
ノーヴェが促す。ウェンディは口元を押さえていた。
「この前、山の家に寄った時、上着の袖口が少しほつれてたんだ。ボクは帰ってから直せ
ばいいと思ってたんだけど、クェーサーが見つけて」
「直してくれたの?」
「うん。脱いだら、もう針と糸が出てきた」
「用意がいいな」とチンクが言う。
「すぐ終わるからって、お茶まで淹れてくれてね。待ってる間、ボクも何かしようと思っ
たんだけど」
「座らされたんだな」
「どうして分かったの?」
ノーヴェは布巾を指さした。
ついさっき、自分がヌメロンを座らせた時に使ったものだ。
「お前も似たようなことするから」
「あ」
「自覚なかったんスね」
ウェンディに言われ、ヌメロンは小皿へ目を落とした。
「……でも、袖が直ったあとに、次は襟を見せてくださいって言われた時は、さすがにも
う大丈夫って言ったよ」
「一着まるごと点検する気だったのか」
「たぶん」
「そこは違うな。お前だったら先に怪我してねえか聞く」
「ノーヴェ」
「違うか?」
ヌメロンは反論を諦めて、お茶を飲んだ。
その間にディエチが、少し考えるように首を傾げる。
「二人とも、やっぱりお兄ちゃんに似てる?」
「顔はね。ただ、クェーサーは女の人だから、会ったら少し驚くかも」
ウェンディの手が止まった。
「……今、さらっと変なこと言わなかったっスか?」
「女の人?」
ノーヴェも聞き返した。ヌメロンは、何でもないことのように頷く。
「髪も長いし、服も自分で選んでるよ」
「いや、服の話じゃなくて。お前ら、元は同じだろ」
「うん。最初はクェーサーも少年の姿だったんだけど」
「変わったのか」
「そう。どうしてなのかは、本人にもよく分からないみたい」
しばらく、誰も言葉を継がなかった。
ウェンディが自分の指を見て、もう一度折り直す。
「じゃあ、お兄ちゃんのお姉ちゃん?」
「姉かどうかは、決めたことないなあ」
「妹かもしれない?」
「クェーサーに聞いたら、どちらでもって言いそう」
「そこは決めようよ」
ディエチが困ったように笑う。
「ボクたちは、ウーノやチンクみたいに、誰がお姉ちゃんか決まってないからね」
「不便ではないか?」
チンクが尋ねると、ヌメロンはしばらく考えた。
「今のところは。何かあれば名前で呼ぶし」
「そうか。まあ、会ってから聞いてみよう」
「チンク、クェーサーのお姉ちゃんになるつもり?」
「そこまでは言っていない」
「否定もしないんスね」
チンクがウェンディを見る。その顔には、確かに少しだけ、知らない妹を迎える時のよ
うな真剣さがあった。
◇
「お兄ちゃんは、二人といる時もお兄ちゃんなんスか?」
ウェンディの質問に、ヌメロンが瞬いた。
「どういうこと?」
「面倒見たり、ちゃんと食べたか聞いたり。さっきみたいに、座れって言われるまで動い
てたり」
「最後のは、そんなにいつもじゃないよ」
ノーヴェが顔を向けると、目が合った。
「……気をつけます」
「よし」
ディエチが笑う。チンクは冷めかけた茶を飲み干した。
「クェーサーには、むしろ世話を焼かれてるみたいだな」
「そうだね。ヴェロシティにも、たまには外へ出てこいって言われるし」
「出ればいいじゃねえか」
ノーヴェが言うと、ヌメロンは道場の方を見た。
「でも、稽古があるから」
「休みの日に」
「その日は買い出しとか」
「あたしが行ける」
ヌメロンはまだ何か言いかけたが、ノーヴェは先に湯呑みを置いた。
「土産くれるくらいには、向こうもお前に会いたいんだろ」
返事が途切れた。
ヌメロンは菓子箱を見た。ノーヴェもつられて、その箱を見る。
遠くの店の住所。少し折れた蓋の角。箱が潰れないように巻かれていた、厚めの紙。
「……そうだね」
ヌメロンは蓋の角を指で戻した。
「今度はボクから行こうかな」
「おう」
「ノーヴェたちの話ばっかりして、うるさいって言われるかもしれないけど」
「してんのかよ」
「するよ」
今度の返事には、迷いがなかった。
「ノーヴェの教え方が上手になったとか。ウェンディが遊びに来た時、ディエチが一緒に
片づけてくれたとか。チンクが――」
「分かった。分かったから」
ノーヴェが手を上げる。ウェンディはにやにやしていたが、ディエチは湯呑みの方へ顔
を伏せた。
チンクが軽く咳払いをする。
「悪いことまで話してはいないだろうな」
「どれのこと?」
「……心当たりを尋ねるな」
ヌメロンが笑った。
兄弟の前でも、きっとこうして笑っているのだろう。
ノーヴェには、少しだけその様子が想像できた。知らない家の食卓で、知らない顔をし
た同じ顔の連中に囲まれて、こちらの話をしているヌメロン。
そこでは誰も、彼をお兄ちゃんとは呼ばない。
「なあ」
「うん?」
「あたしたちも、会っていいか」
ヌメロンが顔を上げた。
「いいと思うよ。二人にも聞いてみる」
「紹介してほしいっス。お菓子のお礼も言いたいし」
「私も」
ディエチが頷く。チンクは空になった小皿を重ねながら言った。
「お前ばかり、向こうで私たちの話をするのは不公平だろう。こちらにも聞きたい話があ
る」
「ボクの?」
「そう。兄弟から見た、お前の話だ」
ヌメロンが、ほんの少し困った顔をした。
今度はノーヴェも笑った。
◇
茶の時間が終わる頃には、菓子箱は空になっていた。
ディエチが皿を運び、ウェンディが座布団を重ねる。ヌメロンが立ち上がろうとする
と、チンクが盆を取った。
「話してもらった礼だ。今日は座っていろ」
「お茶を淹れただけだよ」
「そのお茶のお礼も入ってるっス」
ウェンディが横から言う。
ヌメロンは腰を浮かせたまま三人を見て、それからノーヴェを見た。
「座っとけ」
「……はい」
素直に座り直した隣で、ノーヴェは空の包み紙を畳んだ。
「今度持ってく菓子、あたしたちも選ぶ」
「いいの?」
「もらったんだから、返すんだよ。数は、お前が教えろ」
「分かった」
ヌメロンが菓子箱の蓋を閉じる。
その指が、箱の端で少し止まった。
「ストライクは、甘いものを出すと、まず文句を言ってたな」
ノーヴェは手を止めず、紙の折り目を押さえた。
「食わなかったのか?」
「食べてた」
「じゃあ、文句だけか」
「うん。大きいのを取ってから言うんだ」
「何だそれ」
台所の方でウェンディが笑った。聞こえていたらしい。
ヌメロンも笑った。少し目を伏せたまま、それでも笑っていた。
ノーヴェは畳んだ紙を箱へ入れ、蓋を押さえた。
「その話も、今度聞かせろよ」
「ストライクの?」
「お前が知ってる、あいつの話。稽古以外の」
ヌメロンは、窓の向こうを一度見た。
日が傾いて、庭の影が長くなっていた。開け放した窓からは、もう涼しい風が入ってく
る。
「たくさんあるよ」
「じゃあ、一度に全部話すなよ。茶が足りなくなる」
「ノーヴェが淹れてくれる?」
「それくらいやる」
「じゃあ、楽しみにしてる」
ヌメロンは、今度はノーヴェの顔を見て笑った。
台所から、次はいつ集まるのかとウェンディの声がした。
ヌメロンが答える前に、チンクが、まず兄弟二人の予定を聞いてからだと返す。ディエ
チはもう、何を持っていくか考えているらしい。
ノーヴェは空になった箱を脇へ寄せた。
次は、少し大きな箱を買おうと思った。