第1話 道場破り
道場の扉が開く時、ヌメロンは今でも少しだけ顔を上げる。
師範が帰ってくるはずはない。
それでも、乱暴に靴を脱いで、遅刻した弟子を笑い飛ばす声が聞こえる気がした。
「そこ、もう一歩前です」
ヌメロンが言うと、向かい合っていた二人の門下生が同時に足を踏み出した。拳と拳が交わる前に、床を蹴る音が重なる。
「そう。先に相手を見る。型はそれから」
片方が突っ込みすぎて、もう片方が後ろへ転がった。痛そうな音がしたが、自分ですぐに起き上がる。
「大丈夫ですか」
「平気です、師範」
その呼び方には、まだ慣れない。
壁には、ストライクが書いた古い稽古表が残っていた。乱暴な字で、約束の時刻だけは妙に正確だ。ヌメロンとノーヴェが道場を継いでから作った表は、その隣へ貼ってある。古い方を剥がそうと言う者は、いなかった。
今日はノーヴェが別の稽古を受け持っている。こちらに残った門下生を見るのは、ヌメロンの番だった。
「じゃあ、もう一度。今度は転ぶ前に膝を曲げて」
ヌメロンが床に線を引く。門下生が構えを直した、その時だった。
入口の引き戸が開いた。
まだ稽古の時間が終わるには早い。遅れてくる予定の門下生もいない。
立っていたのは、見知らぬ少女だった。
十二歳くらいだろうか。緑の髪を結び、静かな目で道場の奥まで見渡している。靴を脱いで上がろうとはせず、入口から真っすぐヌメロンを見た。
「ここに、覇王流を使う方がいると聞きました」
稽古をしていた二人の息が止まる。
ヌメロンは壁の古い稽古表に目をやった。どこから話が伝わったのか、心当たりはいくつもある。
「いますよ」
「あなたですか」
「今は、ボクです」
少女の視線がわずかに動いた。古い稽古表と、ヌメロンの顔を行き来する。
「手合わせをお願いします」
名前も挨拶もない。断られるとは、考えていない声だった。
「稽古中です。少し待ってもらえますか」
「どのくらいですか」
「あと十五分」
「待ちます」
少女は道場へ上がらず、入口の脇に立った。
門下生の一人がヌメロンへ耳打ちする。
「師範、最近の……」
格闘家を襲う者がいる。そんな話なら聞いていた。被害に遭った人間もいる以上、ただの道場破りとして扱っていいかは分からない。
ヌメロンは小さくうなずく。
「稽古を続けましょう。終わったら、二人とも先に帰ってください」
その十五分、少女は一度も口を挟まなかった。
門下生が失敗しても笑わない。ヌメロンが技の途中で止めて姿勢を直すたび、少女の目がその手の動きを追う。見ているのは人ではなく、拳の運び方なのかもしれなかった。
予定どおりに稽古が終わる。ヌメロンは二人の怪我がないことを確認し、着替えを済ませて帰るのを待った。門下生が入口で少女に会釈しても、彼女は目を伏せるだけだった。
道場の中に、二人きりになる。
「お待たせしました」
「いいえ。時間どおりです」
少女は靴を揃えて上がる。礼をしてから、稽古場の中央へ進んだ。
所作はきれいだった。勝負を挑みに来た人間の足音なのに、床を乱暴に踏まない。
「先に、一つだけ」
ヌメロンが声をかける。
「ここでは、相手が動けなくなるまで打つ稽古はしていません」
「分かっています」
「手合わせも同じです。止めると言ったら止めます」
少女は少し考えた。
「あなたが、止められるなら」
「努力します」
真面目に答えたつもりだったが、少女の眉が動いた。怒らせたかもしれない。
互いに距離を取り、礼をする。
ヌメロンは普段の身体より少し背を伸ばしていた。ストライクの道場を引き受けてから、人に教える時はこの姿を選ぶことが多い。彼が残した型と記憶はある。けれど、それを自分の手足で使えるようになるまでには、長い稽古が必要だった。
少女の初動は速かった。
目線が胸に落ちた時には、拳はもう腹の高さにある。ヌメロンは腕を添えて軌道を外す。少女はそこで止まらない。踏み込んだ足を軸に、もう片方の拳が上がる。
受けた腕に重い衝撃が走った。
子供の拳だから、と力を抜けば間に合わない。
ヌメロンは一歩退き、逆に床を踏んで距離を詰めた。少女の体重が前へ乗り切る前に、手首と肩の間へ掌を入れる。崩すための角度を作ったつもりが、少女は膝を沈めて耐えた。
「……覇王流」
少女がつぶやく。
ヌメロンは答える余裕がなかった。彼女の膝が、こちらの踏み込みに合わせて上がってくる。
肩を引き、間一髪で避ける。頬の横を風が通った。
離れた瞬間、二人は同じ間合いで立ち止まった。
少女はヌメロンの右足を見ている。
「足の運びが違います」
「誰と比べてですか」
「記録に残る覇王流と」
「そうですね」
ヌメロンは自分の足元を見た。最初から同じになるとは思っていない。教えた人間自身、古い型をそのままなぞる性格ではなかった。
「ボクに教えた人は、同じところで止まるなと言う人でした」
「その方は」
「もう、いません」
少女の表情が、ほんの一瞬だけ変わった。
ヌメロンが再び構えると、彼女も拳を上げる。次は互いに、最初の一撃を知っている。
少女は正面から来た。足音を消す気がない。打ち込む一撃のため、逃げ道を捨てた踏み込みだった。
強い。
同時に、その拳が何かを確かめようとしているのも分かった。
ヌメロンは受け流さず、真正面から腕を合わせた。掌と拳がぶつかる。腕の芯が痺れた。少女の身体は衝撃を逃がさず、もう半歩を押し込もうとする。
そのまま続ければ、どちらかが床に倒れる。
ヌメロンは足を引き、力の向きを横へ流した。少女の拳が肩をかすめる。布が裂けて、軽い痛みが残った。
「そこまで」
呼吸の間に言う。
少女は止まらなかった。ヌメロンの言葉より早く、次の拳が動き始めている。
「そこまでです」
今度は受ける手をそのまま手首へ添えた。腕を折らない。強引に投げもしない。踏み込む足の前を自分の足で塞ぐ。
少女の拳が胸元で止まった。
二人とも、息が荒い。
「……止められましたね」
少女が言う。
「約束しましたから」
「本気で戦ったら、勝てたかもしれません」
「そうかもしれません」
ヌメロンが手を離すと、少女は一歩下がった。
「では、なぜ続けなかったんですか」
「今の一撃で、ボクの肩は切れました」
破れた袖を見せる。血ではない。身体を形作る魔力が、ほんの少し光になってこぼれていた。指で押さえると、すぐに収まる。
「あなたも、手を痛めている」
少女は自分の拳を見た。指の付け根が赤い。
「この程度なら」
「そうですね。だから、ここで止められます」
「怪我をしたくないから、戦わないんですか」
「怪我をしたら、手当てをします。勝負の続きより先に」
少女の眉が寄る。
ヌメロンには、その顔の理由が分からない。勝負を軽んじられたと思ったのかもしれない。それなら、言い方を間違えた。
「さっきの拳は、強かったです。受けるのが遅れていたら倒れていました」
「……倒れなかった」
「はい」
「それなら、まだ足りません」
少女は拳を握り直す。赤くなった指を隠すように。
ヌメロンは、自分の手を見た。
戦場で、妹達が帰る数を数えていた頃の癖が残っている。怪我を見つけると、勝った負けたより先に手が伸びる。師範になっても、それは変わらなかった。
「手を冷やしましょう」
「結構です」
「なら、水だけでも」
少女は断ろうとして、道場の隅を見た。稽古の合間に使う水差しと、清潔な布が置いてある。
「水を飲んだら、また手合わせしていただけますか」
「今日の続きは、しません」
ヌメロンははっきり答えた。
少女の目が冷たくなる。
「負けを認めるつもりもありません」
「分かりました」
「どうしても確かめたいなら、別の日に来てください。今日は、あなたの手を休ませたい」
「……別の日なら、いいんですか」
「手が治っていたら」
少女はまた自分の拳を見る。
ようやく水差しの方へ歩いた。ヌメロンが渡した杯を受け取る時、指先が少しだけ震えていた。先ほどの衝撃のせいか、怒りのせいかは分からない。
「名前を聞いてもいいですか」
ヌメロンは尋ねた。
「覇王、イングヴァルトです」
名乗りは迷いがなかった。覚悟を決めて繰り返してきた言葉なのだろう。
「そう呼ばれているんですね」
「そう名乗っています」
「分かりました。道場の記録には、何と書けばいいですか」
「記録?」
「誰が来て、いつ稽古をしたか。うちでは残すんです。怪我があれば、それも」
少女がヌメロンを見た。
壁には、ストライクの古い稽古表がある。その隣に今日の稽古表。門下生の名前と時刻が、一人ずつ書かれていた。
勝った人間の名だけを残す場所ではない。
「アインハルト」
かすかな声だった。
「アインハルト・ストラトスです」
「ボクはクオン・ヌメロンです。来てくれて、ありがとうございます」
「お礼を言われることはしていません」
「待ってくれました。門下生の稽古が終わるまで」
アインハルトは杯の水を飲んだ。何も言わず、空になった杯を両手で返す。
ヌメロンは古い稽古表の隣にある新しい表へ、彼女の名前を書いた。今日の日付と、右手を冷やしたことも添える。
アインハルトはその様子をじっと見ていた。
「次は、負けません」
「ボクも稽古しておきます」
「私は、勝つために来ます」
「はい。アインハルト」
名前を呼ぶと、彼女は返事をしなかった。
ただ、帰る前にもう一度だけ壁の稽古表を見た。
◇
夜、ヌメロンは戸締まりの前に床を拭いた。
門下生が転んだ場所。自分が足を引いた場所。アインハルトが拳を止めた場所。掃除を終えると、どこにも痕は残らない。
肩の裂け目だけはまだ少し残っていた。
ストライクなら、あの一撃をどう受けただろう。
思い出そうとすれば、答えに似たものはいくつも浮かぶ。彼の記憶は残っている。それでも、今日あの場で拳を受けたのは自分だった。
壁の古い稽古表は剥がさない。
新しい表には、名前が一つ増えた。
ヌメロンは戸を閉め、灯りを落とす。次に彼女が来たら、まず右手を確かめようと思った。
勝負の続きは、その後でいい。