ノーヴェが道場へ来る時は、たいてい扉を開ける音より先に分かる。
床を鳴らさず歩いても、ヌメロンには馴染んだ気配だった。
今日は、少し違った。
「稽古、付き合え」
引き戸を開けたノーヴェは、いつもなら先に見る門下生の姿も確かめずに言った。二人で継いだ道場だが、師範同士で組み手をする時は、たいていノーヴェの方から誘ってくる。
頬に小さな擦り傷がある。右肩も、動かす前に一度力を入れる癖が出ていた。
「今日はもう、みんな帰ったよ」
「だから来たんだよ」
ノーヴェは荷物を置き、道場の隅にある水差しへ手を伸ばす。そのまま飲まずに、壁の稽古表を見た。
ヌメロンも彼女の視線を追う。
古い表には、今は帰らない師範の字。新しい表には、門下生の名が並ぶ。昨日の欄の一番下に、もう一つ名前が増えていた。
ノーヴェはそこまで見ないまま、杯を戻した。
「腕、どうしたの」
「何でもねえ」
「ノーヴェ」
「動く。さっさと始めようぜ」
着替えもせず、道場着の上だけを羽織る。ヌメロンはそれ以上聞かずに中央へ進んだ。
互いに礼をする。
ノーヴェの最初の蹴りは低かった。速いが、距離はまだ遠い。ヌメロンが受けに腕を下ろすと、続けて踏み込んでくる。初撃は間合いを測るためだ。
ヌメロンは足を引く。ノーヴェがそこへ追いつくより先に半身になり、肩の横を抜けようとした。
袖をつかまれる。
「後ろを取ろうとするの、分かってる」
「じゃあ、逃げ方を変えるよ」
ヌメロンが腕を返すと、ノーヴェはつかんだ手を離した。無理に引けば崩されると知っている。離れる動きまで含めて稽古だった。
何度もやった組み手だ。
ノーヴェが幼い門下生に教える時より、ヌメロンの前では少しだけ踏み込みが深くなる。止めなくても受けると、互いに知っていた。
「昨日、変な奴が来なかったか」
蹴りと同じ速さで、言葉が飛んできた。
ヌメロンは腕を上げた。ジェットエッジのない稽古の蹴りでも、まともに受ければ姿勢を崩される。
「変な人、って?」
「子供。覇王を名乗る」
受けた腕が半拍、遅れた。ノーヴェはその隙へ踏み込む。
ヌメロンは踏み込まれた足の外へ回った。勢いを受ける手をずらし、ノーヴェの腰を支えて床へ降ろす。倒されながら、ノーヴェは受け身を取った。
「……来たんだな」
「うん。昨日」
ヌメロンが手を離すと、ノーヴェは床に座ったまま腕を組んだ。
「お前、名前も聞いたのか」
「アインハルト・ストラトス」
ノーヴェの表情が険しくなる。
「あたしは今日会った。格闘家を襲ってる奴だ」
ヌメロンは立ち上がった。
最近、実力者が傷つけられているとは聞いていた。昨日、門下生もその話をしようとしていた。手合わせの後でアインハルトの名を聞いた時にも、可能性を考えなかったわけではない。
「ノーヴェには、話すべきだった」
「今それ言うか」
「ごめん」
言い訳を探しても、見つからない。アインハルトが自分の前では勝負を止めたことと、ほかの相手を傷つけたことは、別の出来事だった。
ノーヴェは鼻から息を吐いた。
「あたしに黙ってたのが腹立つ。けど、今は稽古だ。構えろ」
彼女が足を引く。ヌメロンも構え直した。
同じ角度の蹴りが来る。さっき受け損ねた側へ、もう一度。
ヌメロンは今度は下がらず、一歩前へ入った。腰へ手を添え、蹴り足が伸び切る前に軸をずらす。ノーヴェの膝が折れ、片手が床についた。
「同じのを二度、食らうと思った?」
「話しながらならな」
ノーヴェは床の手を支点に身体を回す。ヌメロンの足首へ脚を掛けた。
ヌメロンはその足を越え、支えにした腕の内側へ入る。ノーヴェの身体が浮いた。彼は肩をつかんだまま、受け身の取れる方向へ倒した。
畳が鳴る。ノーヴェは今度も頭を打たずに転がった。
「転び方上手くなってね」
「褒めるとこ、そこかよ」
「前は肩から落ちてた」
「毎回あたしを転ばすな!」
ヌメロンが笑うと、ノーヴェは床から蹴りを出した。彼は半歩だけ下がる。
「続き、やる?」
「当たり前だろ。まだ一本も取ってねえ」
◇
何度か身体を入れ替えたあと、ノーヴェが間合いを外した。
肩を回す。やはり右が少し重そうだった。
「痛む?」
「動くって言ったろ」
「動くかどうかは見たよ。痛むかを聞いてる」
「……少し」
ヌメロンは隅に置いてあった布を取った。
「休憩にしよう」
「まだ一本も決めてねえぞ」
「ノーヴェは三回、きれいに転んだよ」
「数えてんな!」
言いながら、ノーヴェは布を受け取った。汗を拭き、肩を軽く押さえる。
「アインハルトと戦った時に?」
「ああ」
ノーヴェは水を飲んでから続けた。
「弱い王に生きる意味があるのか、ってさ。あいつ、そういう顔で拳を出すんだよ」
ヌメロンは昨日の一撃を思い出した。全身を乗せた、逃げ道のない拳。
「強かった」
「あたしもそう思ったよ。だから余計に、あのやり方は放っておけねえ」
「うん」
「うん、じゃねえ。お前、また来たらどうするつもりだ」
ヌメロンは答えず、構えた。
ノーヴェも布を放り、道場の中央へ戻る。今度は互いに大きく動かない。二歩ほどの距離を保ち、拳が届くところを探った。
「手を見ます」
ヌメロンの言葉に合わせて、ノーヴェの拳が飛ぶ。
「何だそれ」
ヌメロンは手首の外側を払う。次が来る前に、自分から腕を伸ばした。ノーヴェは肘を上げて受ける。
「昨日、拳を痛めていた。治ってなければ、手合わせはしない」
「ほかの奴を殴った手でも?」
「だからこそ、どうしたのか聞く」
ノーヴェの足が動いた。ヌメロンは目線より先にその足を見て、腰を落とす。蹴りを受け、返す掌を途中で止めた。ノーヴェの頬まで、指一本分。
「怪我をした人がいることも。あの子が、自分の手をどう使うのかも」
「お前が聞いたら、素直に答えると思うか?」
「思わない」
ノーヴェは止まった掌を横から払った。
「じゃあ、どうすんだよ」
ヌメロンは答えに迷った。その間にノーヴェの膝が入る。かつて傷を負った脇腹へ向かうのが見え、一瞬だけ身体が強張った。
膝が届く前に、ヌメロンはノーヴェの腰へ腕を回した。軸足を払う。ノーヴェは背を丸めて畳へ転がり、すぐに上体を起こした。
「クオン。今、傷の方を見た」
「もう治ってるよ。ノーヴェの膝も当たってない」
「だったらいいけど」
「もう一回?」
ノーヴェが立ち上がり、うなずく。彼女は自分の言葉どおり、問いへの返事を待たずに拳を出した。
ヌメロンは腕で受け、身体を入れ替える。ノーヴェの拳は空を切った。
「答えを聞けるまで、何度か来てもらうよ」
「それだけ?」
「止めなきゃいけない時は止める。昨日もそうした」
「甘やかしてるように聞こえる」
ノーヴェが二歩下がる。ヌメロンは追わなかった。
「ノーヴェがしたことも、ボクは聞きたい。アインハルトを止めたあとで、何を話したのか」
「別に。腹が立ったから、言いたいこと言った」
「そう」
「お前、あたしまで子供扱いしてないだろうな」
「ノーヴェは、教える側でしょ」
ノーヴェはそれ以上、前へ出なかった。
稽古の最初から肩をかばっていたことも、アインハルトに怒ったことも、同じもののようにヌメロンには見えた。彼女には今、拳を教えている子供達がいる。
「あたしのことはいい。お前は自分の肩も見せろ」
「隠してないよ」
「昨日切られたんだろ。今、構えを変えた」
ヌメロンは袖の下を見る。裂けた輪郭は、もうほとんど塞がっていた。ノーヴェの目からは逃げられない。
「昨日よりは治ってる」
「昨日の時点で連絡しろ」
「……うん」
「お前もあたしに言う前に、自分でやれ」
ノーヴェが片手を出す。握手ではない。最後の一本を取る構えだ。
ヌメロンはその手に、同じように手を合わせた。
力のかかる場所がずれる。小さく踏み直し、押して、引く。ノーヴェが重心を落とし、ヌメロンの足を払った。
ヌメロンは浮いた足を下ろさず、ノーヴェの外側へ身体を運ぶ。もう片方の足だけで立ち、彼女の背を支えて畳へ倒した。
ノーヴェの身体が音もなく転がる。見事な受け身だった。
「今のは取ったと思ったんだけどな」
「足を払ったあとの右手が空いてたよ」
「次は塞ぐ」
「うん。そうしたら、また考える」
ノーヴェは差し出された手をつかんで立った。悔しそうな顔のまま、口の端だけを上げる。
ふいに彼女の目が壁へ向いた。
「この道場さ。教える奴が変わると、足音も変わるな」
古い稽古表は、まだそこにある。ヌメロンが視線を上げると、ノーヴェは先にタオルを取りに行った。
誰かが戻ってくると期待して扉を見る日もある。それでも、ここで誰かが足を踏み、帰るために稽古する音は続いている。
ヌメロンは立ち上がり、畳の端を直した。
◇
「まだやってたんスか!」
夕方、引き戸から声がした。ウェンディが包みを抱え、ディエチが後ろから入ってくる。
「玄関の靴、ノーヴェのもあったから。終わるまで待とうかと思った」
ディエチの手には、もう一つ小さな袋がある。
「待たなくてよかったのに」
「夕飯、持ってきたんだ。多めに作ったから」
ヌメロンが受け取ろうとすると、ディエチは彼の肩を見た。
「右、痛い?」
「少し切れたけど、塞がったよ」
「またどこかへ行ってたんスか?」
「道場に来た人と手合わせをした」
「うわ、ほんとに道場破りっスか」
ウェンディが嬉しそうに目を輝かせ、ノーヴェに頭を軽くはたかれた。
「人が怪我してんのに盛り上がるな」
「ごめんっス。でもノーヴェも、肩かばってるッスよ」
「あたしは平気」
「はい、二人とも同じこと言った」
ディエチが袋から冷却材を二つ出した。
ヌメロンとノーヴェが顔を見合わせる。
「用意がいいね」
「ウェンディから、二人が稽古してるって連絡が来たから」
「絶対どっちか無茶してると思ったッス」
「無茶はしてない」
ノーヴェの声と、ヌメロンの声が重なった。
ウェンディが指をさして笑う。
「ほら、そっくりっス」
道場にある低い卓を出して、四人で座った。食べ物の包みを開くと、温かい湯気が立つ。稽古の後で空腹だったノーヴェが真っ先に箸を取った。
「ありがと、ディエチ」
「ノーヴェの分もあるよ」
「最初からあたしが来るって分かってたみてえだな」
「靴があったから、途中で増やした」
ウェンディは道場の新しい稽古表を見ている。
「門下生、増えたっスね。知ってる名前もある」
「先週はウェンディに蹴り方を聞いてた人もいたよ」
「あー、あの子! こっちに来たんスか」
ウェンディが一つずつ名前を読んでいる間、ディエチは冷却材をノーヴェへ渡した。ノーヴェは文句を言いかけ、受け取る。
ヌメロンにももう一つ差し出された。
「治ってても、今日は休んで」
「分かった。ありがとう、ディエチ」
「兄とノーヴェがここを継いでから、私達も寄りやすくなった」
ディエチは当たり前のことのように言った。
彼女はこの道場の昔を、詳しく知らない。ウェンディもそうだ。それぞれ別の場所で、それぞれの時間を過ごしてきた。
今、同じ卓に並ぶことまで、昔を知っている必要はなかった。
ノーヴェは箸を置き、隣のヌメロンを見た。
「聞いたか。休めってさ」
「ノーヴェもだよ」
「あたしはコーチの仕事がある」
「ボクも明日の稽古がある」
「そういうところ張り合うなって!」
ウェンディの声に、ディエチが少し笑う。
食べ終わる頃には、外が暗くなっていた。ヌメロンは四人分の器を重ねる。ノーヴェが手を出すと、今度は断らずに半分を渡した。
◇
戸締まりを手伝ってから、三人は帰り支度をした。
ウェンディとディエチが先に靴を履く。ノーヴェは最後まで道場に残り、入口でヌメロンを振り返った。
「あの子が来ても、一人で抱え込むなよ」
「ノーヴェも、一人で向き合わないで」
「あたしには、あいつらがいる」
顎で先に出た二人を示す。
「ボクにもいるよ」
ヌメロンは答えた。
ノーヴェが一度だけうなずく。帰り際に肩を小突かれた。さっき痛めた方ではない。
扉が閉まる。
ヌメロンは消灯する前に稽古表を見た。昨日の欄に書いた名の横には、右手を冷やした記録がある。
アインハルトに次の手合わせを約束したわけではない。治っていたら、と言っただけだ。
それでも、道場の灯りを落とすのが少し遅れた。
足音がした。
引き戸の向こうに、緑の髪が見える。
「もう、稽古は終わりましたか」
アインハルトは入口で立ち止まった。昨日と同じように、勝手には上がらない。
「今日は終わったよ。アインハルト」
ヌメロンは戸を開けた。
彼女の目は、畳に置き忘れられた四つの座布団と、水差しのそばの杯へ向いた。ついさっきまで誰かがいた道場だと、見れば分かる。
「手は?」
「治りました」
アインハルトは右手を開いて見せる。赤みは消えていた。
「確かめてください」
「うん。次に来た時に」
「今ではないんですか」
「今夜はもう閉めるところ。明日の稽古が終わったあとなら、時間を作れるよ」
彼女は道場の奥を見た。稽古表には、明日も門下生の名前が並んでいる。
「……では、待ちます」
「ありがとう」
「勝負のためです」
「分かってる」
アインハルトは一礼し、踵を返した。
ヌメロンは彼女の背中が角を曲がるまで見送ってから、道場へ戻る。座布団を片づけ、杯を洗う。
明日は門下生が帰ってから、もう一度床を空けよう。
その前に、ノーヴェへ連絡を入れなければならない。
今度は、一人で決めないために。