魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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第2話 兄の道場

 ノーヴェが道場へ来る時は、たいてい扉を開ける音より先に分かる。

 

 床を鳴らさず歩いても、ヌメロンには馴染んだ気配だった。

 

 今日は、少し違った。

 

「稽古、付き合え」

 

 引き戸を開けたノーヴェは、いつもなら先に見る門下生の姿も確かめずに言った。二人で継いだ道場だが、師範同士で組み手をする時は、たいていノーヴェの方から誘ってくる。

 

 頬に小さな擦り傷がある。右肩も、動かす前に一度力を入れる癖が出ていた。

 

「今日はもう、みんな帰ったよ」

 

「だから来たんだよ」

 

 ノーヴェは荷物を置き、道場の隅にある水差しへ手を伸ばす。そのまま飲まずに、壁の稽古表を見た。

 

 ヌメロンも彼女の視線を追う。

 

 古い表には、今は帰らない師範の字。新しい表には、門下生の名が並ぶ。昨日の欄の一番下に、もう一つ名前が増えていた。

 

 ノーヴェはそこまで見ないまま、杯を戻した。

 

「腕、どうしたの」

 

「何でもねえ」

 

「ノーヴェ」

 

「動く。さっさと始めようぜ」

 

 着替えもせず、道場着の上だけを羽織る。ヌメロンはそれ以上聞かずに中央へ進んだ。

 

 互いに礼をする。

 

 ノーヴェの最初の蹴りは低かった。速いが、距離はまだ遠い。ヌメロンが受けに腕を下ろすと、続けて踏み込んでくる。初撃は間合いを測るためだ。

 

 ヌメロンは足を引く。ノーヴェがそこへ追いつくより先に半身になり、肩の横を抜けようとした。

 

 袖をつかまれる。

 

「後ろを取ろうとするの、分かってる」

 

「じゃあ、逃げ方を変えるよ」

 

 ヌメロンが腕を返すと、ノーヴェはつかんだ手を離した。無理に引けば崩されると知っている。離れる動きまで含めて稽古だった。

 

 何度もやった組み手だ。

 

 ノーヴェが幼い門下生に教える時より、ヌメロンの前では少しだけ踏み込みが深くなる。止めなくても受けると、互いに知っていた。

 

「昨日、変な奴が来なかったか」

 

 蹴りと同じ速さで、言葉が飛んできた。

 

 ヌメロンは腕を上げた。ジェットエッジのない稽古の蹴りでも、まともに受ければ姿勢を崩される。

 

「変な人、って?」

 

「子供。覇王を名乗る」

 

 受けた腕が半拍、遅れた。ノーヴェはその隙へ踏み込む。

 

 ヌメロンは踏み込まれた足の外へ回った。勢いを受ける手をずらし、ノーヴェの腰を支えて床へ降ろす。倒されながら、ノーヴェは受け身を取った。

 

「……来たんだな」

 

「うん。昨日」

 

 ヌメロンが手を離すと、ノーヴェは床に座ったまま腕を組んだ。

 

「お前、名前も聞いたのか」

 

「アインハルト・ストラトス」

 

 ノーヴェの表情が険しくなる。

 

「あたしは今日会った。格闘家を襲ってる奴だ」

 

 ヌメロンは立ち上がった。

 

 最近、実力者が傷つけられているとは聞いていた。昨日、門下生もその話をしようとしていた。手合わせの後でアインハルトの名を聞いた時にも、可能性を考えなかったわけではない。

 

「ノーヴェには、話すべきだった」

 

「今それ言うか」

 

「ごめん」

 

 言い訳を探しても、見つからない。アインハルトが自分の前では勝負を止めたことと、ほかの相手を傷つけたことは、別の出来事だった。

 

 ノーヴェは鼻から息を吐いた。

 

「あたしに黙ってたのが腹立つ。けど、今は稽古だ。構えろ」

 

 彼女が足を引く。ヌメロンも構え直した。

 

 同じ角度の蹴りが来る。さっき受け損ねた側へ、もう一度。

 

 ヌメロンは今度は下がらず、一歩前へ入った。腰へ手を添え、蹴り足が伸び切る前に軸をずらす。ノーヴェの膝が折れ、片手が床についた。

 

「同じのを二度、食らうと思った?」

 

「話しながらならな」

 

 ノーヴェは床の手を支点に身体を回す。ヌメロンの足首へ脚を掛けた。

 

 ヌメロンはその足を越え、支えにした腕の内側へ入る。ノーヴェの身体が浮いた。彼は肩をつかんだまま、受け身の取れる方向へ倒した。

 

 畳が鳴る。ノーヴェは今度も頭を打たずに転がった。

 

「転び方上手くなってね」

 

「褒めるとこ、そこかよ」

 

「前は肩から落ちてた」

 

「毎回あたしを転ばすな!」

 

 ヌメロンが笑うと、ノーヴェは床から蹴りを出した。彼は半歩だけ下がる。

 

「続き、やる?」

 

「当たり前だろ。まだ一本も取ってねえ」

 

     ◇

 

 何度か身体を入れ替えたあと、ノーヴェが間合いを外した。

 

 肩を回す。やはり右が少し重そうだった。

 

「痛む?」

 

「動くって言ったろ」

 

「動くかどうかは見たよ。痛むかを聞いてる」

 

「……少し」

 

 ヌメロンは隅に置いてあった布を取った。

 

「休憩にしよう」

 

「まだ一本も決めてねえぞ」

 

「ノーヴェは三回、きれいに転んだよ」

 

「数えてんな!」

 

 言いながら、ノーヴェは布を受け取った。汗を拭き、肩を軽く押さえる。

 

「アインハルトと戦った時に?」

 

「ああ」

 

 ノーヴェは水を飲んでから続けた。

 

「弱い王に生きる意味があるのか、ってさ。あいつ、そういう顔で拳を出すんだよ」

 

 ヌメロンは昨日の一撃を思い出した。全身を乗せた、逃げ道のない拳。

 

「強かった」

 

「あたしもそう思ったよ。だから余計に、あのやり方は放っておけねえ」

 

「うん」

 

「うん、じゃねえ。お前、また来たらどうするつもりだ」

 

 ヌメロンは答えず、構えた。

 

 ノーヴェも布を放り、道場の中央へ戻る。今度は互いに大きく動かない。二歩ほどの距離を保ち、拳が届くところを探った。

 

「手を見ます」

 

 ヌメロンの言葉に合わせて、ノーヴェの拳が飛ぶ。

 

「何だそれ」

 

 ヌメロンは手首の外側を払う。次が来る前に、自分から腕を伸ばした。ノーヴェは肘を上げて受ける。

 

「昨日、拳を痛めていた。治ってなければ、手合わせはしない」

 

「ほかの奴を殴った手でも?」

 

「だからこそ、どうしたのか聞く」

 

 ノーヴェの足が動いた。ヌメロンは目線より先にその足を見て、腰を落とす。蹴りを受け、返す掌を途中で止めた。ノーヴェの頬まで、指一本分。

 

「怪我をした人がいることも。あの子が、自分の手をどう使うのかも」

 

「お前が聞いたら、素直に答えると思うか?」

 

「思わない」

 

 ノーヴェは止まった掌を横から払った。

 

「じゃあ、どうすんだよ」

 

 ヌメロンは答えに迷った。その間にノーヴェの膝が入る。かつて傷を負った脇腹へ向かうのが見え、一瞬だけ身体が強張った。

 

 膝が届く前に、ヌメロンはノーヴェの腰へ腕を回した。軸足を払う。ノーヴェは背を丸めて畳へ転がり、すぐに上体を起こした。

 

「クオン。今、傷の方を見た」

 

「もう治ってるよ。ノーヴェの膝も当たってない」

 

「だったらいいけど」

 

「もう一回?」

 

 ノーヴェが立ち上がり、うなずく。彼女は自分の言葉どおり、問いへの返事を待たずに拳を出した。

 

 ヌメロンは腕で受け、身体を入れ替える。ノーヴェの拳は空を切った。

 

「答えを聞けるまで、何度か来てもらうよ」

 

「それだけ?」

 

「止めなきゃいけない時は止める。昨日もそうした」

 

「甘やかしてるように聞こえる」

 

 ノーヴェが二歩下がる。ヌメロンは追わなかった。

 

「ノーヴェがしたことも、ボクは聞きたい。アインハルトを止めたあとで、何を話したのか」

 

「別に。腹が立ったから、言いたいこと言った」

 

「そう」

 

「お前、あたしまで子供扱いしてないだろうな」

 

「ノーヴェは、教える側でしょ」

 

 ノーヴェはそれ以上、前へ出なかった。

 

 稽古の最初から肩をかばっていたことも、アインハルトに怒ったことも、同じもののようにヌメロンには見えた。彼女には今、拳を教えている子供達がいる。

 

「あたしのことはいい。お前は自分の肩も見せろ」

 

「隠してないよ」

 

「昨日切られたんだろ。今、構えを変えた」

 

 ヌメロンは袖の下を見る。裂けた輪郭は、もうほとんど塞がっていた。ノーヴェの目からは逃げられない。

 

「昨日よりは治ってる」

 

「昨日の時点で連絡しろ」

 

「……うん」

 

「お前もあたしに言う前に、自分でやれ」

 

 ノーヴェが片手を出す。握手ではない。最後の一本を取る構えだ。

 

 ヌメロンはその手に、同じように手を合わせた。

 

 力のかかる場所がずれる。小さく踏み直し、押して、引く。ノーヴェが重心を落とし、ヌメロンの足を払った。

 

 ヌメロンは浮いた足を下ろさず、ノーヴェの外側へ身体を運ぶ。もう片方の足だけで立ち、彼女の背を支えて畳へ倒した。

 

 ノーヴェの身体が音もなく転がる。見事な受け身だった。

 

「今のは取ったと思ったんだけどな」

 

「足を払ったあとの右手が空いてたよ」

 

「次は塞ぐ」

 

「うん。そうしたら、また考える」

 

 ノーヴェは差し出された手をつかんで立った。悔しそうな顔のまま、口の端だけを上げる。

 

 ふいに彼女の目が壁へ向いた。

 

「この道場さ。教える奴が変わると、足音も変わるな」

 

 古い稽古表は、まだそこにある。ヌメロンが視線を上げると、ノーヴェは先にタオルを取りに行った。

 

 誰かが戻ってくると期待して扉を見る日もある。それでも、ここで誰かが足を踏み、帰るために稽古する音は続いている。

 

 ヌメロンは立ち上がり、畳の端を直した。

 

     ◇

 

「まだやってたんスか!」

 

 夕方、引き戸から声がした。ウェンディが包みを抱え、ディエチが後ろから入ってくる。

 

「玄関の靴、ノーヴェのもあったから。終わるまで待とうかと思った」

 

 ディエチの手には、もう一つ小さな袋がある。

 

「待たなくてよかったのに」

 

「夕飯、持ってきたんだ。多めに作ったから」

 

 ヌメロンが受け取ろうとすると、ディエチは彼の肩を見た。

 

「右、痛い?」

 

「少し切れたけど、塞がったよ」

 

「またどこかへ行ってたんスか?」

 

「道場に来た人と手合わせをした」

 

「うわ、ほんとに道場破りっスか」

 

 ウェンディが嬉しそうに目を輝かせ、ノーヴェに頭を軽くはたかれた。

 

「人が怪我してんのに盛り上がるな」

 

「ごめんっス。でもノーヴェも、肩かばってるッスよ」

 

「あたしは平気」

 

「はい、二人とも同じこと言った」

 

 ディエチが袋から冷却材を二つ出した。

 

 ヌメロンとノーヴェが顔を見合わせる。

 

「用意がいいね」

 

「ウェンディから、二人が稽古してるって連絡が来たから」

 

「絶対どっちか無茶してると思ったッス」

 

「無茶はしてない」

 

 ノーヴェの声と、ヌメロンの声が重なった。

 

 ウェンディが指をさして笑う。

 

「ほら、そっくりっス」

 

 道場にある低い卓を出して、四人で座った。食べ物の包みを開くと、温かい湯気が立つ。稽古の後で空腹だったノーヴェが真っ先に箸を取った。

 

「ありがと、ディエチ」

 

「ノーヴェの分もあるよ」

 

「最初からあたしが来るって分かってたみてえだな」

 

「靴があったから、途中で増やした」

 

 ウェンディは道場の新しい稽古表を見ている。

 

「門下生、増えたっスね。知ってる名前もある」

 

「先週はウェンディに蹴り方を聞いてた人もいたよ」

 

「あー、あの子! こっちに来たんスか」

 

 ウェンディが一つずつ名前を読んでいる間、ディエチは冷却材をノーヴェへ渡した。ノーヴェは文句を言いかけ、受け取る。

 

 ヌメロンにももう一つ差し出された。

 

「治ってても、今日は休んで」

 

「分かった。ありがとう、ディエチ」

 

「兄とノーヴェがここを継いでから、私達も寄りやすくなった」

 

 ディエチは当たり前のことのように言った。

 

 彼女はこの道場の昔を、詳しく知らない。ウェンディもそうだ。それぞれ別の場所で、それぞれの時間を過ごしてきた。

 

 今、同じ卓に並ぶことまで、昔を知っている必要はなかった。

 

 ノーヴェは箸を置き、隣のヌメロンを見た。

 

「聞いたか。休めってさ」

 

「ノーヴェもだよ」

 

「あたしはコーチの仕事がある」

 

「ボクも明日の稽古がある」

 

「そういうところ張り合うなって!」

 

 ウェンディの声に、ディエチが少し笑う。

 

 食べ終わる頃には、外が暗くなっていた。ヌメロンは四人分の器を重ねる。ノーヴェが手を出すと、今度は断らずに半分を渡した。

 

     ◇

 

 戸締まりを手伝ってから、三人は帰り支度をした。

 

 ウェンディとディエチが先に靴を履く。ノーヴェは最後まで道場に残り、入口でヌメロンを振り返った。

 

「あの子が来ても、一人で抱え込むなよ」

 

「ノーヴェも、一人で向き合わないで」

 

「あたしには、あいつらがいる」

 

 顎で先に出た二人を示す。

 

「ボクにもいるよ」

 

 ヌメロンは答えた。

 

 ノーヴェが一度だけうなずく。帰り際に肩を小突かれた。さっき痛めた方ではない。

 

 扉が閉まる。

 

 ヌメロンは消灯する前に稽古表を見た。昨日の欄に書いた名の横には、右手を冷やした記録がある。

 

 アインハルトに次の手合わせを約束したわけではない。治っていたら、と言っただけだ。

 

 それでも、道場の灯りを落とすのが少し遅れた。

 

 足音がした。

 

 引き戸の向こうに、緑の髪が見える。

 

「もう、稽古は終わりましたか」

 

 アインハルトは入口で立ち止まった。昨日と同じように、勝手には上がらない。

 

「今日は終わったよ。アインハルト」

 

 ヌメロンは戸を開けた。

 

 彼女の目は、畳に置き忘れられた四つの座布団と、水差しのそばの杯へ向いた。ついさっきまで誰かがいた道場だと、見れば分かる。

 

「手は?」

 

「治りました」

 

 アインハルトは右手を開いて見せる。赤みは消えていた。

 

「確かめてください」

 

「うん。次に来た時に」

 

「今ではないんですか」

 

「今夜はもう閉めるところ。明日の稽古が終わったあとなら、時間を作れるよ」

 

 彼女は道場の奥を見た。稽古表には、明日も門下生の名前が並んでいる。

 

「……では、待ちます」

 

「ありがとう」

 

「勝負のためです」

 

「分かってる」

 

 アインハルトは一礼し、踵を返した。

 

 ヌメロンは彼女の背中が角を曲がるまで見送ってから、道場へ戻る。座布団を片づけ、杯を洗う。

 

 明日は門下生が帰ってから、もう一度床を空けよう。

 

 その前に、ノーヴェへ連絡を入れなければならない。

 

 今度は、一人で決めないために。

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