道場の奥で、子供が転んだ。
背中が床につく直前、顎を引く。片手で畳を叩き、身体を横へ逃がす。
「そう。そのまま立って」
ヌメロンが言うと、門下生は片膝をついて起き上がった。
「もう一回お願いします」
「あと一回。それが終わったら水を飲もう」
門下生はうなずき、相手と向かい合う。
今日はヌメロンが道場に残り、ノーヴェは別の稽古へ出ていた。二人で継いだ道場でも、一日の全部を同じ場所で教えるわけではない。夕方には彼女がヴィヴィオを連れて戻ってくる予定だった。
引き戸が開いた。
緑の髪の少女が入口で立ち止まる。約束より少し早い。
「こんにちは、アインハルト」
「こんにちは。稽古が終わるまで待ちます」
アインハルトは靴を揃えて脇へ寄った。道場へ上がるのは、ヌメロンがうなずいてからだった。
門下生の二人が礼をして、もう一度組む。
片方が仕掛け、もう片方が崩れる。昨日より踏みとどまったが、結局は床に転がった。今度は自分で立つ。
「足を止めなかったね」
「でも負けました」
「うん。次は、立つまで見られるようにしよう」
ヌメロンは相手に手を貸すよう促す。勝った方の子が、転んだ子の腕を取った。
アインハルトの目はその手を追った。
彼女は強くなるために来た。なのに、道場では転び方を何度も教えている。勝った側まで床の相手を見て待つ。
稽古の順番を待つ子は、失敗した方に向かって何かを言った。聞こえなかったが、からかう声ではない。転んだ子が笑い、立ち上がって足を踏み直す。
アインハルトは自分の右手を開いた。昨日、ヌメロンに見せた時には赤みが消えていた。今日はもっと強く握れる。
あの子達の稽古が終われば、今度は自分の番だ。
十五分ほどして稽古が終わった。門下生は着替え、アインハルトに会釈して帰っていく。
扉が閉まると、彼女はヌメロンの前へ進んだ。
「右手を」
昨日の言葉を覚えていたのだろう。アインハルトは拳を開いた。指の付け根に残っていた赤みは消えている。手のひらを返し、関節を一つずつ動かした。
「痛みは?」
「ありません」
「分かった」
ヌメロンが離れると、アインハルトは手を握る。
「今度は、最後までお願いします」
「ここで決めたところまでは」
「また、途中で止めるんですか」
「ボクもアインハルトも、明日また手を使うから」
少女は納得しなかったようだ。けれど、靴を脱ぐ時に約束したとおり、稽古場の中央へ行き、礼をする。
ヌメロンも向かい合った。
◇
アインハルトは最初から踏み込まなかった。
前の手合わせで、ヌメロンは真っすぐ来る拳を横へ流した。その動きを覚えている。彼女は二歩の間合いを保ち、低い位置で手を開いた。
ヌメロンは先に動かない。少女の目が肩へ、足元へ、また顔へ戻る。
わずかな沈黙の後、アインハルトが床を蹴った。
踏み込みは前より浅い。拳は同じ速さでも、後ろの足が残っている。外された時に、戻れる形だった。
ヌメロンは掌を重ねて受ける。
重い。
打ち込む位置も変えてきた。前に外された角度を避け、手首ではなく肘の内側を押し上げてくる。
ヌメロンが距離を取り直すと、アインハルトは追いかけなかった。
「前回の手を、覚えていたんだね」
「あなたが先に動けば、届くと思いました」
「もう少しで届いたよ」
「届いていません」
アインハルトの声は静かだった。悔しさはある。でも、昨日のように打つ前から後ろを捨ててはいない。
彼女が再び踏み込む。ヌメロンは腕を上げて、途中で止めた。
その動きを見たアインハルトの拳が、空いた胸元へ伸びる。
狙われた。
ヌメロンは身体を傾け、拳を肩の外へ通す。少女の足が次へ出る前に、その肘の下へ入った。
「まだです」
アインハルトが身体を返す。捉えたはずの腕が外れた。返す手がヌメロンの背へ回る。
二人とも倒れない。足を踏み直し、わずかに離れた。
アインハルトが彼の足を見た。
「今のは、覇王流ではありませんね」
「うん」
「前は使っていた」
「使える技なら、使うよ。でも今の足は、ボクが稽古して覚えた」
「習ったものと、自分で覚えたものが違うんですか」
「身体が違うから。同じ動きをしようとしても、少し変わる」
アインハルトは返事をしなかった。
ヌメロンの足元を見て、もう一度構えを取る。
次は技を確かめるための拳ではなかった。正面からヌメロンを押し切るための拳だ。古い型から始まり、途中で彼女自身の歩幅に変わる。
ヌメロンは受けた。
一歩、二歩。アインハルトは詰める。腕がぶつかり、互いの息が近づく。
それでも、最後の半歩だけヌメロンの方が早かった。
彼は打ち込まず、踏み込んだ足の前へ立つ。アインハルトが身を引こうとした時には、行き場がない。前へ出れば彼の掌に、後ろへ下がれば自分の勢いに崩される。
「そこまで」
アインハルトの拳は彼の胸の前で止まった。
彼女はまだ動ける。ヌメロンもそうだ。それでも、決まった形だった。
「……はい」
ヌメロンが一歩退く。アインハルトは拳をほどき、指先を見た。痛みは出ていない。
「前より強かった」
「あなたには、届きませんでした」
「ボクが後ろへ下がった回数は増えたよ」
「それは勝ちではありません」
「そうだね」
ヌメロンは水差しから杯へ注いだ。アインハルトは少しだけ迷い、受け取る。
「ここで教わっている子達は、なぜ転ぶ練習をしているんですか」
杯を持ったまま尋ねた。
「転んでも、自分で起きたいから」
「勝てば、転ばずに済みます」
「そういう日もある」
「勝つための稽古ではないんですか」
「勝つためにもやってるよ。さっきの子は、負けた次の一歩が昨日より速かった」
アインハルトは、門下生が立ち上がった場所を見る。
ヌメロンはそれ以上、説明しなかった。自分が昨日この少女へ勝負の意味を話したとしても、門下生の一歩を代わりに見せることはできなかった。
「ノーヴェにも、教えているんですか」
「一緒に教えてる。ここはボクとノーヴェの道場だから」
アインハルトの顔が上がった。
「ノーヴェ・ナカジマの?」
「うん。昨日、二人で稽古したよ」
「あの方とは、私も戦いました」
「聞いた」
「あなたは、あの方とどういう関係ですか」
「妹だよ」
アインハルトは杯を握り直した。
「似ていませんね」
「よく言われる」
ヌメロンが笑うと、アインハルトは何か言いかけて口を閉じた。強さの形も、話し方も違う二人だ。今知ったところで、昨日の戦いが変わるわけではない。
「昨日、壁にあった古い稽古表も見ました」
アインハルトの視線が、またその表へ向いた。
「あれはノーヴェの字ではありませんね」
「ストライクが書いた。最初にこの道場で教えてた人だよ」
「その方は、どこに」
「もう帰ってこない」
ヌメロンは古い紙を見た。忙しい日には時間を書き直した跡もある。技の名前より、門下生が来る日付の方がずっと多く残っていた。
「あなたは、その人の覇王流を継いだんですね」
「教わったよ。道場もノーヴェと一緒に継いだ」
ヌメロンは自分の足元に視線を落とす。
「でも、さっきの足はボクが覚えたんだ。ストライクに見せたら、何て言うかな」
「その方なら、見ただけで分かるはずです」
アインハルトは当然のように言った。知ることのできない相手の評価を、確かなものとして口にする。ヌメロンは否定しなかった。
「そうかもしれないね」
昔の稽古表と新しい稽古表は、並んでいる。ヌメロンは今日の欄へ手を伸ばした。
道場の時計が鳴る。
「そろそろ次の稽古の時間だ」
「また、来てもいいですか」
言ってから、アインハルト自身が意外そうに目を伏せた。
「勝てるまで、手合わせしたいので」
「うん。稽古の時間を確認してから来てくれたら、床を空けておく」
アインハルトは杯を戻し、礼をする。
外へ出る前に、壁の新しい稽古表を見た。自分の名前の隣へ、今日の日付が書き足されている。勝敗は記されていない。
彼女は何も言わず、扉を閉めた。
◇
道場の床を拭いていると、向こうから弾む足音が来た。
「クオンお兄ちゃん、こんにちは!」
ヴィヴィオは入口で靴を脱ぎながら声をかけた。先に揃えた靴の向きが違うことに気づいて直す。その間にノーヴェが入ってくる。
「今日は早いね」
「学校が早く終わったの。ノーヴェさんと一緒に来たよ」
ヴィヴィオは道場の中を見渡す。
「もう前の稽古、終わっちゃった?」
「うん。今、片づけてたところ」
「じゃあ、すぐ準備するね」
ノーヴェはヴィヴィオの鞄を棚へ置き、ヌメロンを見る。
「来たか」
「うん。さっき帰ったよ」
「手はどうだった」
「治ってた。今日は自分で拳を止めたよ」
ノーヴェは短くうなずく。ヴィヴィオが着替えに行く間に、二人で畳の位置を戻した。
「昨日の話、あいつにしたか」
「ボクとノーヴェが一緒に道場を継いだことは。あとは、ノーヴェが妹だって」
「妹って言うと、大抵ああいう顔をする」
「どんな?」
「似てねえ、って顔」
「実際、言われた」
ノーヴェが少し笑った。
ヴィヴィオが戻る。稽古着の袖を整え、二人の前で礼をした。
「今日もよろしくお願いします!」
「よろしく。まず、前に決めたところからな」
ノーヴェは指を二本立てる。
「一発目のあと、足が止まる。クオンに二回続けて取られたろ」
「今日は止めないよ」
ヴィヴィオが胸を張った。
「言ったな。じゃあ見せてみろ」
ノーヴェが先に向かい合い、合図をする。ヴィヴィオは拳を出し、すぐ引いた。その足は確かに止まらなかったが、前に出すぎて身体が傾く。
ノーヴェが腕を添える。
「続けるなら、後ろの足も連れてこい。前だけ急いでる」
「はい!」
ヴィヴィオは足の位置を直す。ノーヴェが手を上げると、拳だけを出し、後ろの足を運んだ。拳は届かない。
「今日は後ろへ逃げる相手だと思え。追うなら、どうする」
「一歩目だけで届かせようとしない」
「そう。クオンはまず受けるけど、その後は待ってくれねえからな」
「知ってる。前は二発目を打つ前に後ろへ回られた」
ヴィヴィオは答えながら、足元の線を見た。門下生の位置を確かめるためヌメロンが引いた線だ。彼女もここで何度も稽古したから、線のどちら側に立てば自分の歩幅になるか分かっている。
もう一度。
今度は後ろの足がついてきた。ヴィヴィオは自分で違いに気づいたらしく、拳を引いたまま一度笑った。
「今の、ちょっと良かった」
「ちょっとな。クオンで試せ」
ノーヴェとヌメロンが場所を入れ替わる。
ヴィヴィオはその間に水を飲み、足を軽く動かした。誰に言われなくても、稽古の前に息を整える。ここへ何度も通ううちにできた癖だった。
「行くよ、クオンお兄ちゃん」
「うん。おいで」
最初の一撃をヌメロンは腕で受けた。
ヴィヴィオはすぐに二発目へつなぐ。前の足だけで身体を追わず、後ろの足を運ぶ。ノーヴェが見ている位置から、畳を踏む音が二つ続いた。
「そう、今の足!」
ノーヴェの声が飛ぶ。
ヌメロンは二発目を外へ流した。ヴィヴィオはあらかじめ空けていた側へ回り込む。
手が、ヌメロンの袖へ触れた。
「当たった!」
「触れたね」
「前より一歩、近かった!」
ヴィヴィオが嬉しそうにノーヴェを見た。その一瞬の隙に、ヌメロンは彼女の背後へ回る。ヴィヴィオは振り向こうとして姿勢を崩した。
ヌメロンが腕を支え、転ぶ前に止める。
「続きも見てないと」
「あっ。はい」
「でも、袖には届いたよ」
「やった。もう一回!」
「先に直すとこがある」
ノーヴェが二人の間に立った。
「今のはクオンが待ってた。触れたあとの足が、さっきと同じとこに残ってる」
「そうだね。次はそこも動かしてみよう」
ヌメロンが袖を示す。ヴィヴィオは自分の足を見て、位置を半歩変えた。
「分かった。もう一回、お願いします」
二度目は袖に届かなかった。
三度目は届いたが、今度はヌメロンが先に手首を押さえた。
四度目でヴィヴィオは自分から動きを止めた。
「待って。今、前へ出る前に止まってる」
「気づいたか」
ノーヴェが笑う。ヴィヴィオは構えたまま深呼吸し、後ろの足から踏み直した。
ヌメロンは正面に立ち続けた。彼女が新しい動きを確かめられるまで、同じ速さで拳を出す。
次の一撃は、袖には届かなかった。
けれど、ヴィヴィオの足は止まらなかった。
「……今の、いい?」
「いいよ」
ヌメロンが答えるより先に、ノーヴェが言った。
「やっと二発目が一発目につながった」
ヴィヴィオは両手を上げ、すぐに構え直す。
「次は当てたい!」
「その前に水」
「はーい」
◇
休憩になっても、ヴィヴィオの足はじっとしていなかった。
座ったまま、先ほどの踏み込みを小さく繰り返している。ノーヴェが水を飲めともう一度言って、ようやく杯を持った。
「ねえ、クオンお兄ちゃん。さっき誰と稽古してたの?」
「どうして?」
「いつもと違う踏み跡があったから」
ヌメロンは床を見る。畳を拭いたつもりだったが、深く踏んだ跡がまだ薄く残っていた。
「アインハルトと」
ヴィヴィオの手が止まる。
「アインハルトさん、ここにも来てるんだ」
「まだ二回だけ。最初は道場破りだったよ」
「へえ……」
ヴィヴィオは杯を両手で持ち、少し考えた。
「稽古、どうだった?」
「昨日より上手くなってた。また来たいって」
「そうなんだ」
ヴィヴィオが笑う。ノーヴェは隣で黙っている。
「ヴィヴィオは、アインハルトと話した?」
「うん。手合わせもしたよ。でも、私の伝えたいことは、まだ全部は伝わってないかも」
ヌメロンはうなずく。
彼女たちが何を話したのか、代わりに聞き出す必要はない。二人はもう、互いの名前を知っている。
「また、話せるといいね」
「うん。今度はもっと、ちゃんと拳も届かせたい」
「そのための、今の稽古だ」
ノーヴェがヴィヴィオの肩を軽く叩く。ヴィヴィオは水を飲み干し、立ち上がった。
「もう一回、お願いします!」
ノーヴェが構えを取る。
ヴィヴィオは道場の中央へ走っていった。
ヌメロンは空の杯を片づける。アインハルトが使った杯も、もう洗って伏せてある。
今日ここで交わした拳は、どちらもまだ終わっていない。
ヌメロンも立ち上がり、二人の稽古へ戻った。