魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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第3話 二つの拳

 道場の奥で、子供が転んだ。

 

 背中が床につく直前、顎を引く。片手で畳を叩き、身体を横へ逃がす。

 

「そう。そのまま立って」

 

 ヌメロンが言うと、門下生は片膝をついて起き上がった。

 

「もう一回お願いします」

 

「あと一回。それが終わったら水を飲もう」

 

 門下生はうなずき、相手と向かい合う。

 

 今日はヌメロンが道場に残り、ノーヴェは別の稽古へ出ていた。二人で継いだ道場でも、一日の全部を同じ場所で教えるわけではない。夕方には彼女がヴィヴィオを連れて戻ってくる予定だった。

 

 引き戸が開いた。

 

 緑の髪の少女が入口で立ち止まる。約束より少し早い。

 

「こんにちは、アインハルト」

 

「こんにちは。稽古が終わるまで待ちます」

 

 アインハルトは靴を揃えて脇へ寄った。道場へ上がるのは、ヌメロンがうなずいてからだった。

 

 門下生の二人が礼をして、もう一度組む。

 

 片方が仕掛け、もう片方が崩れる。昨日より踏みとどまったが、結局は床に転がった。今度は自分で立つ。

 

「足を止めなかったね」

 

「でも負けました」

 

「うん。次は、立つまで見られるようにしよう」

 

 ヌメロンは相手に手を貸すよう促す。勝った方の子が、転んだ子の腕を取った。

 

 アインハルトの目はその手を追った。

 

 彼女は強くなるために来た。なのに、道場では転び方を何度も教えている。勝った側まで床の相手を見て待つ。

 

 稽古の順番を待つ子は、失敗した方に向かって何かを言った。聞こえなかったが、からかう声ではない。転んだ子が笑い、立ち上がって足を踏み直す。

 

 アインハルトは自分の右手を開いた。昨日、ヌメロンに見せた時には赤みが消えていた。今日はもっと強く握れる。

 

 あの子達の稽古が終われば、今度は自分の番だ。

 

 十五分ほどして稽古が終わった。門下生は着替え、アインハルトに会釈して帰っていく。

 

 扉が閉まると、彼女はヌメロンの前へ進んだ。

 

「右手を」

 

 昨日の言葉を覚えていたのだろう。アインハルトは拳を開いた。指の付け根に残っていた赤みは消えている。手のひらを返し、関節を一つずつ動かした。

 

「痛みは?」

 

「ありません」

 

「分かった」

 

 ヌメロンが離れると、アインハルトは手を握る。

 

「今度は、最後までお願いします」

 

「ここで決めたところまでは」

 

「また、途中で止めるんですか」

 

「ボクもアインハルトも、明日また手を使うから」

 

 少女は納得しなかったようだ。けれど、靴を脱ぐ時に約束したとおり、稽古場の中央へ行き、礼をする。

 

 ヌメロンも向かい合った。

 

     ◇

 

 アインハルトは最初から踏み込まなかった。

 

 前の手合わせで、ヌメロンは真っすぐ来る拳を横へ流した。その動きを覚えている。彼女は二歩の間合いを保ち、低い位置で手を開いた。

 

 ヌメロンは先に動かない。少女の目が肩へ、足元へ、また顔へ戻る。

 

 わずかな沈黙の後、アインハルトが床を蹴った。

 

 踏み込みは前より浅い。拳は同じ速さでも、後ろの足が残っている。外された時に、戻れる形だった。

 

 ヌメロンは掌を重ねて受ける。

 

 重い。

 

 打ち込む位置も変えてきた。前に外された角度を避け、手首ではなく肘の内側を押し上げてくる。

 

 ヌメロンが距離を取り直すと、アインハルトは追いかけなかった。

 

「前回の手を、覚えていたんだね」

 

「あなたが先に動けば、届くと思いました」

 

「もう少しで届いたよ」

 

「届いていません」

 

 アインハルトの声は静かだった。悔しさはある。でも、昨日のように打つ前から後ろを捨ててはいない。

 

 彼女が再び踏み込む。ヌメロンは腕を上げて、途中で止めた。

 

 その動きを見たアインハルトの拳が、空いた胸元へ伸びる。

 

 狙われた。

 

 ヌメロンは身体を傾け、拳を肩の外へ通す。少女の足が次へ出る前に、その肘の下へ入った。

 

「まだです」

 

 アインハルトが身体を返す。捉えたはずの腕が外れた。返す手がヌメロンの背へ回る。

 

 二人とも倒れない。足を踏み直し、わずかに離れた。

 

 アインハルトが彼の足を見た。

 

「今のは、覇王流ではありませんね」

 

「うん」

 

「前は使っていた」

 

「使える技なら、使うよ。でも今の足は、ボクが稽古して覚えた」

 

「習ったものと、自分で覚えたものが違うんですか」

 

「身体が違うから。同じ動きをしようとしても、少し変わる」

 

 アインハルトは返事をしなかった。

 

 ヌメロンの足元を見て、もう一度構えを取る。

 

 次は技を確かめるための拳ではなかった。正面からヌメロンを押し切るための拳だ。古い型から始まり、途中で彼女自身の歩幅に変わる。

 

 ヌメロンは受けた。

 

 一歩、二歩。アインハルトは詰める。腕がぶつかり、互いの息が近づく。

 

 それでも、最後の半歩だけヌメロンの方が早かった。

 

 彼は打ち込まず、踏み込んだ足の前へ立つ。アインハルトが身を引こうとした時には、行き場がない。前へ出れば彼の掌に、後ろへ下がれば自分の勢いに崩される。

 

「そこまで」

 

 アインハルトの拳は彼の胸の前で止まった。

 

 彼女はまだ動ける。ヌメロンもそうだ。それでも、決まった形だった。

 

「……はい」

 

 ヌメロンが一歩退く。アインハルトは拳をほどき、指先を見た。痛みは出ていない。

 

「前より強かった」

 

「あなたには、届きませんでした」

 

「ボクが後ろへ下がった回数は増えたよ」

 

「それは勝ちではありません」

 

「そうだね」

 

 ヌメロンは水差しから杯へ注いだ。アインハルトは少しだけ迷い、受け取る。

 

「ここで教わっている子達は、なぜ転ぶ練習をしているんですか」

 

 杯を持ったまま尋ねた。

 

「転んでも、自分で起きたいから」

 

「勝てば、転ばずに済みます」

 

「そういう日もある」

 

「勝つための稽古ではないんですか」

 

「勝つためにもやってるよ。さっきの子は、負けた次の一歩が昨日より速かった」

 

 アインハルトは、門下生が立ち上がった場所を見る。

 

 ヌメロンはそれ以上、説明しなかった。自分が昨日この少女へ勝負の意味を話したとしても、門下生の一歩を代わりに見せることはできなかった。

 

「ノーヴェにも、教えているんですか」

 

「一緒に教えてる。ここはボクとノーヴェの道場だから」

 

 アインハルトの顔が上がった。

 

「ノーヴェ・ナカジマの?」

 

「うん。昨日、二人で稽古したよ」

 

「あの方とは、私も戦いました」

 

「聞いた」

 

「あなたは、あの方とどういう関係ですか」

 

「妹だよ」

 

 アインハルトは杯を握り直した。

 

「似ていませんね」

 

「よく言われる」

 

 ヌメロンが笑うと、アインハルトは何か言いかけて口を閉じた。強さの形も、話し方も違う二人だ。今知ったところで、昨日の戦いが変わるわけではない。

 

「昨日、壁にあった古い稽古表も見ました」

 

 アインハルトの視線が、またその表へ向いた。

 

「あれはノーヴェの字ではありませんね」

 

「ストライクが書いた。最初にこの道場で教えてた人だよ」

 

「その方は、どこに」

 

「もう帰ってこない」

 

 ヌメロンは古い紙を見た。忙しい日には時間を書き直した跡もある。技の名前より、門下生が来る日付の方がずっと多く残っていた。

 

「あなたは、その人の覇王流を継いだんですね」

 

「教わったよ。道場もノーヴェと一緒に継いだ」

 

 ヌメロンは自分の足元に視線を落とす。

 

「でも、さっきの足はボクが覚えたんだ。ストライクに見せたら、何て言うかな」

 

「その方なら、見ただけで分かるはずです」

 

 アインハルトは当然のように言った。知ることのできない相手の評価を、確かなものとして口にする。ヌメロンは否定しなかった。

 

「そうかもしれないね」

 

 昔の稽古表と新しい稽古表は、並んでいる。ヌメロンは今日の欄へ手を伸ばした。

 

 道場の時計が鳴る。

 

「そろそろ次の稽古の時間だ」

 

「また、来てもいいですか」

 

 言ってから、アインハルト自身が意外そうに目を伏せた。

 

「勝てるまで、手合わせしたいので」

 

「うん。稽古の時間を確認してから来てくれたら、床を空けておく」

 

 アインハルトは杯を戻し、礼をする。

 

 外へ出る前に、壁の新しい稽古表を見た。自分の名前の隣へ、今日の日付が書き足されている。勝敗は記されていない。

 

 彼女は何も言わず、扉を閉めた。

 

     ◇

 

 道場の床を拭いていると、向こうから弾む足音が来た。

 

「クオンお兄ちゃん、こんにちは!」

 

 ヴィヴィオは入口で靴を脱ぎながら声をかけた。先に揃えた靴の向きが違うことに気づいて直す。その間にノーヴェが入ってくる。

 

「今日は早いね」

 

「学校が早く終わったの。ノーヴェさんと一緒に来たよ」

 

 ヴィヴィオは道場の中を見渡す。

 

「もう前の稽古、終わっちゃった?」

 

「うん。今、片づけてたところ」

 

「じゃあ、すぐ準備するね」

 

 ノーヴェはヴィヴィオの鞄を棚へ置き、ヌメロンを見る。

 

「来たか」

 

「うん。さっき帰ったよ」

 

「手はどうだった」

 

「治ってた。今日は自分で拳を止めたよ」

 

 ノーヴェは短くうなずく。ヴィヴィオが着替えに行く間に、二人で畳の位置を戻した。

 

「昨日の話、あいつにしたか」

 

「ボクとノーヴェが一緒に道場を継いだことは。あとは、ノーヴェが妹だって」

 

「妹って言うと、大抵ああいう顔をする」

 

「どんな?」

 

「似てねえ、って顔」

 

「実際、言われた」

 

 ノーヴェが少し笑った。

 

 ヴィヴィオが戻る。稽古着の袖を整え、二人の前で礼をした。

 

「今日もよろしくお願いします!」

 

「よろしく。まず、前に決めたところからな」

 

 ノーヴェは指を二本立てる。

 

「一発目のあと、足が止まる。クオンに二回続けて取られたろ」

 

「今日は止めないよ」

 

 ヴィヴィオが胸を張った。

 

「言ったな。じゃあ見せてみろ」

 

 ノーヴェが先に向かい合い、合図をする。ヴィヴィオは拳を出し、すぐ引いた。その足は確かに止まらなかったが、前に出すぎて身体が傾く。

 

 ノーヴェが腕を添える。

 

「続けるなら、後ろの足も連れてこい。前だけ急いでる」

 

「はい!」

 

 ヴィヴィオは足の位置を直す。ノーヴェが手を上げると、拳だけを出し、後ろの足を運んだ。拳は届かない。

 

「今日は後ろへ逃げる相手だと思え。追うなら、どうする」

 

「一歩目だけで届かせようとしない」

 

「そう。クオンはまず受けるけど、その後は待ってくれねえからな」

 

「知ってる。前は二発目を打つ前に後ろへ回られた」

 

 ヴィヴィオは答えながら、足元の線を見た。門下生の位置を確かめるためヌメロンが引いた線だ。彼女もここで何度も稽古したから、線のどちら側に立てば自分の歩幅になるか分かっている。

 

 もう一度。

 

 今度は後ろの足がついてきた。ヴィヴィオは自分で違いに気づいたらしく、拳を引いたまま一度笑った。

 

「今の、ちょっと良かった」

 

「ちょっとな。クオンで試せ」

 

 ノーヴェとヌメロンが場所を入れ替わる。

 

 ヴィヴィオはその間に水を飲み、足を軽く動かした。誰に言われなくても、稽古の前に息を整える。ここへ何度も通ううちにできた癖だった。

 

「行くよ、クオンお兄ちゃん」

 

「うん。おいで」

 

 最初の一撃をヌメロンは腕で受けた。

 

 ヴィヴィオはすぐに二発目へつなぐ。前の足だけで身体を追わず、後ろの足を運ぶ。ノーヴェが見ている位置から、畳を踏む音が二つ続いた。

 

「そう、今の足!」

 

 ノーヴェの声が飛ぶ。

 

 ヌメロンは二発目を外へ流した。ヴィヴィオはあらかじめ空けていた側へ回り込む。

 

 手が、ヌメロンの袖へ触れた。

 

「当たった!」

 

「触れたね」

 

「前より一歩、近かった!」

 

 ヴィヴィオが嬉しそうにノーヴェを見た。その一瞬の隙に、ヌメロンは彼女の背後へ回る。ヴィヴィオは振り向こうとして姿勢を崩した。

 

 ヌメロンが腕を支え、転ぶ前に止める。

 

「続きも見てないと」

 

「あっ。はい」

 

「でも、袖には届いたよ」

 

「やった。もう一回!」

 

「先に直すとこがある」

 

 ノーヴェが二人の間に立った。

 

「今のはクオンが待ってた。触れたあとの足が、さっきと同じとこに残ってる」

 

「そうだね。次はそこも動かしてみよう」

 

 ヌメロンが袖を示す。ヴィヴィオは自分の足を見て、位置を半歩変えた。

 

「分かった。もう一回、お願いします」

 

 二度目は袖に届かなかった。

 

 三度目は届いたが、今度はヌメロンが先に手首を押さえた。

 

 四度目でヴィヴィオは自分から動きを止めた。

 

「待って。今、前へ出る前に止まってる」

 

「気づいたか」

 

 ノーヴェが笑う。ヴィヴィオは構えたまま深呼吸し、後ろの足から踏み直した。

 

 ヌメロンは正面に立ち続けた。彼女が新しい動きを確かめられるまで、同じ速さで拳を出す。

 

 次の一撃は、袖には届かなかった。

 

 けれど、ヴィヴィオの足は止まらなかった。

 

「……今の、いい?」

 

「いいよ」

 

 ヌメロンが答えるより先に、ノーヴェが言った。

 

「やっと二発目が一発目につながった」

 

 ヴィヴィオは両手を上げ、すぐに構え直す。

 

「次は当てたい!」

 

「その前に水」

 

「はーい」

 

     ◇

 

 休憩になっても、ヴィヴィオの足はじっとしていなかった。

 

 座ったまま、先ほどの踏み込みを小さく繰り返している。ノーヴェが水を飲めともう一度言って、ようやく杯を持った。

 

「ねえ、クオンお兄ちゃん。さっき誰と稽古してたの?」

 

「どうして?」

 

「いつもと違う踏み跡があったから」

 

 ヌメロンは床を見る。畳を拭いたつもりだったが、深く踏んだ跡がまだ薄く残っていた。

 

「アインハルトと」

 

 ヴィヴィオの手が止まる。

 

「アインハルトさん、ここにも来てるんだ」

 

「まだ二回だけ。最初は道場破りだったよ」

 

「へえ……」

 

 ヴィヴィオは杯を両手で持ち、少し考えた。

 

「稽古、どうだった?」

 

「昨日より上手くなってた。また来たいって」

 

「そうなんだ」

 

 ヴィヴィオが笑う。ノーヴェは隣で黙っている。

 

「ヴィヴィオは、アインハルトと話した?」

 

「うん。手合わせもしたよ。でも、私の伝えたいことは、まだ全部は伝わってないかも」

 

 ヌメロンはうなずく。

 

 彼女たちが何を話したのか、代わりに聞き出す必要はない。二人はもう、互いの名前を知っている。

 

「また、話せるといいね」

 

「うん。今度はもっと、ちゃんと拳も届かせたい」

 

「そのための、今の稽古だ」

 

 ノーヴェがヴィヴィオの肩を軽く叩く。ヴィヴィオは水を飲み干し、立ち上がった。

 

「もう一回、お願いします!」

 

 ノーヴェが構えを取る。

 

 ヴィヴィオは道場の中央へ走っていった。

 

 ヌメロンは空の杯を片づける。アインハルトが使った杯も、もう洗って伏せてある。

 

 今日ここで交わした拳は、どちらもまだ終わっていない。

 

 ヌメロンも立ち上がり、二人の稽古へ戻った。

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