魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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第4話 勝負のない日

 道場へ行く予定はなかった。

 

 合宿から戻ったアインハルトは、荷物を自分の部屋へ置いた。着替えを取り出し、使った服を分ける。いつもならそのまま身体を休めるか、次の稽古のために足を動かす。

 

 今日は何をすればいいのか、すぐに決まらなかった。

 

 窓の外はまだ明るい。道場は開いている時間だろう。

 

 そう考えた時、あの場所までの道をもう覚えていることに気づいた。

 

 最初は覇王流を使う相手を探して行った。二度目は、負けたままでいたくなかったから行った。今日の荷物には稽古着も入っている。行こうと思えば、理由は作れる。

 

 アインハルトは鞄を持った。

 

     ◇

 

 合宿は、楽しかった。

 

 その言葉を頭に浮かべるたび、少しだけ足が遅くなる。

 

 川の水は思っていたより冷たかった。バーベキューの時は話し声がいくつも重なり、誰が自分の皿を気にしてくれたのか、途中から分からなくなった。訓練では強い人達の動きを間近で見た。

 

 自分も、その輪の中にいた。

 

 書庫で見つかったクラウス・イングヴァルトの回顧録を、ヴィヴィオ達が読んだ後も。

 

 アインハルトは鞄の持ち手を握り直した。

 

 彼女達は、過去を知ったからといって離れていかなかった。ひどいことを言われたわけでもない。むしろ、知らなかった時より気を遣ってくれたのかもしれない。

 

 休憩の時、ヴィヴィオは次の稽古の話をしていた。リオとコロナも一緒だった。アインハルトが近くへ行くと、三人は話を止めず、彼女の分も場所を空けた。

 

 座ってみれば、何を話していたかすぐ分かった。誰がどの技を使うか、次は何を試したいか。自分の意見を聞かれ、いつものように答えた。

 

 それで終わりのはずなのに、後で一人になると、彼女達が場所を空ける前に何を考えたのか気になった。回顧録を読む前なら、そんなことを考えもしなかっただろう。

 

 だから、余計に自分が何を望むのか分からない。

 

 強くなりたい。そんなことは、ずっと前から決まっている。あの記憶が間違っていなかったと、拳で確かめたい。

 

 けれど合宿の帰り道、ヴィヴィオ達と別れる時には、また会うつもりで手を振っていた。

 

 覇王としての悲願と、その約束は、同じところに置いてよいのだろうか。

 

 答えの出ないまま歩いていると、道場が見えた。

 

 引き戸の向こうから、子供達の声がする。アインハルトは一度通り過ぎ、少し先で足を止めた。

 

 勝負を申し込む気にはならない。

 

 それなら何をしに来たのか。

 

 引き返す前に、扉が開いた。稽古を終えた門下生が二人、並んで出てくる。先に出た方がアインハルトに気づき、会釈した。

 

 以前、ここで受け身を取っていた子だった。

 

「こんにちは」

 

「……こんにちは」

 

 返事をすると、二人はまた話しながら帰っていった。

 

 道場の中から、ヌメロンが顔を出す。

 

「アインハルト。合宿から戻ったんだね」

 

「はい」

 

「おかえり」

 

 その言葉が誰に向けたものか、聞き返す必要はなかった。

 

 アインハルトはしばらく入口に立ち、ようやく靴を脱いだ。

 

     ◇

 

 ヌメロンは畳の端に並んだ道具を片づけていた。アインハルトの鞄を見ても、手合わせを申し込まない。

 

「今日はノーヴェも?」

 

「後で来るよ。片づけ、手伝ってくれる?」

 

 思っていなかった頼み事だった。

 

「私でよければ」

 

「ありがとう。そっちの板を重ねてほしい」

 

 床に置いた練習用の板を、同じ大きさごとに揃える。アインハルトは一枚ずつ持ち上げた。端には門下生がつけた小さな傷がある。前回来た時にはなかったものも混じっていた。

 

「今日も転ぶ稽古を?」

 

「うん。あの子は自分からもう一回って言ったよ」

 

「倒されると分かっていても、ですか」

 

「今日は二回目で、自分から足を戻せたから」

 

 ヌメロンは水差しを持ち上げ、中を空にする。二人が同じ作業をしている間、彼は合宿について急いで聞かなかった。

 

 アインハルトには、それがありがたかった。

 

 板を運び終えると、次に何をすればいいか分からず、道場を見回す。稽古表の新しい欄には、この数日の門下生の名前が増えている。

 

 自分の名前は、前に手合わせした日付のところにある。

 

「合宿では、どうだった?」

 

 ヌメロンがようやく尋ねた。床を拭く布を渡しながらの、普通の声だった。

 

「訓練は勉強になりました。強い方が何人もいて」

 

「ノーヴェも行ってたね」

 

「はい。ノーヴェは、こちらで教える時と変わりませんでした」

 

「厳しかった?」

 

「間違えると、すぐ分かります」

 

 ヌメロンが少し笑った。

 

 アインハルトも床へ膝をつき、布を動かす。さっき門下生が使っていた場所には、足で踏んだ線がまだ薄く残っていた。

 

「……楽しかったです」

 

 口にした後で、布を動かす手が止まる。

 

 ヌメロンは彼女の方を見ず、自分の受け持つ床を拭いている。

 

「うん」

 

「そう言っていいのか、分かりませんが」

 

「アインハルトが楽しかったなら、聞けてうれしい」

 

 それ以上の問いは来なかった。

 

 水の跡を拭き、板を寄せる。何も考えずに身体を動かせばいいはずなのに、合宿の場面が一つずつ浮かぶ。誰かが笑っていた顔。自分の方を向いていた目。

 

「みんな、回顧録を読みました」

 

 今度は、自分から話した。

 

「クラウス・イングヴァルトのものです。私が受け継いだ過去を、少し知って」

 

 ヌメロンの布が止まる。

 

「そうだったんだ」

 

「知られたくなかったわけではありません。伝えるつもりも、ありませんでしたが」

 

 上手く言葉にならない。

 

 知られる前と後とで、ヴィヴィオ達は同じ人達のはずだ。彼女達が自分を見る目に、ほんの少しの心配が混ざったようにも思う。けれど、自分の方が変わったのかもしれない。

 

「私の話を、彼女達が知っている。それがまだ、慣れません」

 

 ヌメロンは頷いた。分かったふりをしているようには見えなかった。

 

「話したいところだけでいいよ」

 

「何を話せばいいのかも、まだ分からなくて」

 

「じゃあ、今は床を拭こう」

 

 彼は残りの畳を指した。

 

 アインハルトは思わず顔を上げる。

 

「話を聞きたくないんですか」

 

「聞きたいよ。アインハルトが話すなら」

 

「それなのに」

 

「急いで言葉を探すと、疲れるでしょ」

 

 ヌメロンは布を絞り直す。

 

「ここが終わってからでも、明日でもいい」

 

 アインハルトは畳へ目を落とした。

 

 古い記憶には、間に合わなかった出来事がある。思い出すたび、今すぐにでも何かを取り返したくなる。

 

 けれど今、床の線は逃げない。ヌメロンも話を終わらせようとしない。

 

 二人で、残った畳を拭いた。

 

 片づけの最後に、アインハルトは練習用の板を一枚持ち上げた。角の留め具が緩んでいる。

 

「これは外しておきます」

 

「助かる。あとで直すよ」

 

「新しい物に替えないんですか」

 

「直せるところなら。門下生が使い慣れてるしね」

 

 ヌメロンは留め具を確かめ、交換する部品を道具箱から探した。アインハルトは板を支える。勝負の前なら、こんな細かな傷には気づかなかった。

 

「ノーヴェも、こういうことを?」

 

「うん。壊れたところを見つけるのは、ボクより早い。稽古で毎回転ばせてるから、お返しなのかな」

 

「ノーヴェが、毎回?」

 

「この道場で組み手をする時は」

 

 アインハルトは合宿で見たノーヴェを思い出す。強い相手だ。そのノーヴェが、何度もここへ戻って来て同じ相手と稽古している。

 

 ヌメロンは留め具を固定し、アインハルトが手を離すまで板を受け取らなかった。

 

「ありがとう。これでまた使える」

 

 直った部分を指で押す。ぐらつきは消えていた。

 

     ◇

 

 道場を出る頃には、夕方の光が窓から斜めに入っていた。

 

 アインハルトは壁の稽古表の前で足を止める。古い紙には、ストライクの字が残っている。ヌメロンから、その人はもう帰ってこないと聞いた。

 

「あれ、まだ置いてあるんですね」

 

「うん」

 

「新しい表があるのに」

 

「見返すことがあるから」

 

 ヌメロンは古い表へ手を伸ばさない。ただ隣に立つ。

 

「ストライクの書き方、予定が分かりにくいところもあるんだ。何度見ても同じところで迷う」

 

「困るなら、直さないんですか」

 

「新しい方には、ちゃんと書いてるよ」

 

 それで彼の答えは終わった。

 

 アインハルトは二枚を見比べる。古いものを消して新しくする必要はないらしい。今の道場は、両方の予定を壁に並べている。

 

「前に、あなたはストライクから覇王流を教わったと言いましたね」

 

「うん」

 

「その方の技を使う時、別の人のものを借りていると思いますか」

 

 口にした途端、ずいぶん回りくどい質問になったと思った。

 

 ヌメロンは少し考える。

 

「稽古した時のことは覚えてる。どうやって教えられたかも。でも、今ここで動くのはボクの身体だから」

 

「同じ技にはならない」

 

「うん。ストライクが見たら、足の位置を直されるかもしれない」

 

 冗談めかした声だった。けれど、その人が直しに来られないことを、アインハルトはもう知っている。

 

「それでも、あなたは使うんですね」

 

「教わったことは、ボクにも残ってるから」

 

 アインハルトは古い紙を見る。

 

 クラウスの記憶は、自分の中にある。自分の身体を使っている時も、過去は消えてくれない。

 

 ヌメロンと自分が同じだとは思わなかった。どんな記憶を受け取ったのかも聞いていない。ただ、他人の残したものについて、彼が毎日の稽古の言葉で答えたことが意外だった。

 

「次に手合わせする時、さっきの足をもう一度見せてください」

 

「分かった。アインハルトも、合宿で覚えた動きを見せてね」

 

「……はい」

 

 勝負の話をすると、答えやすい。

 

 それが今日は、少しだけ残念でもあった。

 

     ◇

 

 入口の引き戸が勢いよく開いた。

 

「ただいま。って、まだいたのか」

 

 ノーヴェだった。合宿の荷物を片方の肩にかけている。アインハルトを見て驚いた顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。

 

「今、片づけが終わったところ」

 

「ああ。夕方の組、時間どおり終わったんだな」

 

 ヌメロンがうなずく。ノーヴェは荷物を棚へ置き、畳に残った線を目で確かめた。

 

「あの子、今日はどうだった」

 

「二回目で自分から足を戻せたよ」

 

「やるじゃねえか」

 

 二人は門下生の稽古について、短い言葉で通じ合っている。アインハルトはその横で鞄を持ち直した。

 

 ノーヴェが振り返る。

 

「アインハルトは稽古しに来たのか」

 

「いえ。今日は、しませんでした」

 

「そうか」

 

 もっと何か言われると思った。合宿では何度も一緒に動いたし、ノーヴェは自分が休みなく強くなろうとしてきたことも知っている。

 

 けれどノーヴェは、棚にある濡れた布を回収する。

 

「お前まで床を拭いたのか。助かった」

 

「少しだけです」

 

「少しでも二人分は進む」

 

 アインハルトは言葉を返せなかった。

 

 ヌメロンがノーヴェの荷物を見た。

 

「そのまま帰る?」

 

「ああ。チンク達が待ってる」

 

 ナカジマ家へ戻るのだろう。ノーヴェは荷物を持ち直し、アインハルトにも目を向けた。

 

「合宿、疲れただろ。今日はちゃんと休めよ」

 

「ノーヴェも」

 

「言うようになったな」

 

 口は悪いが、顔は笑っていた。

 

 ノーヴェが出ていくと、道場に静けさが戻る。

 

 アインハルトは自分の靴を揃えた。

 

「私も帰ります。片づけを手伝わせていただき、ありがとうございました」

 

「こちらこそ、ありがとう」

 

 引き戸へ手をかける。

 

 今日は手合わせをしなかった。稽古表にも名前は増えない。それでも、ここへ来てからの時間は短く感じた。

 

「アインハルト」

 

 振り返る。

 

「ご飯食べて帰らない?」

 

 何を言われたのか、すぐには分からなかった。

 

「ここで、ですか」

 

「うん。道場の奥で作れるよ。ノーヴェは家で食べるみたいだけど」

 

「ご迷惑では」

 

「一人分も二人分も、そんなに変わらない」

 

 ヌメロンは思いつきで言ったように見えた。だから断っても、きっと困らない。

 

 アインハルトは引き戸から手を離す。

 

「……では、お言葉に甘えて」

 

「うん。好き嫌い、ある?」

 

 聞かれて、思わず考え込んだ。覇王流の技を尋ねられるより、答えに時間がかかる。

 

「特には。熱いものは、少し冷ましてから食べます」

 

「分かった」

 

 ヌメロンはうなずき、奥の小さな台所へ向かった。

 

     ◇

 

 アインハルトは手を洗い、器を並べた。

 

 手伝えることを尋ねたら、ヌメロンが任せたのだ。飯を炊く間に野菜を切り、鍋を温める。包丁の音が一定の間隔で続いた。

 

 道場でのヌメロンは、相手の足が動く前から重心を見ている。台所では、鍋の蓋を開けて湯気を確かめ、味を見て少し首を傾げた。

 

「何か、足りないんですか」

 

「少し薄いかなと思って」

 

「私はまだ食べていません」

 

「そうだね。ちょっとだけ待って」

 

 ヌメロンが味を整え、もう一度確かめる。

 

 誰かが自分に出す食事の味を気にしている。そのことに、アインハルトは妙に落ち着かなかった。

 

「合宿では、ちゃんと食べられた?」

 

「はい。みんなでバーベキューをしました」

 

「よかった」

 

「私が食べられなかったら、どうするつもりだったんですか」

 

「今、ご飯を少し多くよそってたかも」

 

 ヌメロンがごく普通に答える。

 

 アインハルトは並べた器を見た。二つだけの卓だ。稽古の記録も、勝敗も置かれていない。

 

 湯気の立つ野菜のスープと、焼いた肉、それに温かい飯が出た。

 

「いただきます」

 

 ヌメロンが先に言い、アインハルトも続いた。

 

 スープは熱い。少し冷ましてから口にすると、野菜に火が通りきっているのに形は残っていた。塩気は強くない。合宿で大勢と囲んだ食事とは、違う静けさがある。

 

「お口に合う?」

 

「はい。おいしいです」

 

「よかった」

 

 ヌメロンはそれ以上、何を考えているのか聞かなかった。

 

 アインハルトもすぐには話さなかった。飯を食べて、スープを飲む。ヌメロンが先に皿を空にした時、自分はまだ半分ほど残していた。

 

「ゆっくりでいいよ」

 

「遅いでしょうか」

 

「ボクが早かっただけ」

 

 彼は席を立たず、水を注いで戻る。

 

 食べる速さを合わせなくていい。道場の床を片づけた時と同じように、こちらが終わるまで待っている。

 

「ヴィヴィオ達には」

 

 言いかけて、アインハルトは箸を置いた。

 

「合宿から帰る時、また会おうと言われました」

 

「うん」

 

「もちろん、会うつもりです。手合わせもします」

 

 それは本当だった。

 

 でも、それだけではない気がする。

 

「私が過去のことを考えている間も、彼女達は私と遊ぼうとします。あの記憶について、知らないふりをしているわけでもありません」

 

 言葉が一度止まる。

 

「どうして、あんなふうにできるんでしょう」

 

 ヌメロンは少し考えてから答えた。

 

「ヴィヴィオ達がアインハルトと過ごした時間も、本当だからかな」

 

 アインハルトは皿を見た。

 

 過去を知る前の時間と、知った後の時間。どちらか片方しか残せないわけではないらしい。

 

「私には、まだ上手くできません」

 

「今、話してくれたよ」

 

「あなたにだけです」

 

「それでも、聞けてよかった」

 

 ヌメロンは自分の杯を持った。励ますために身を乗り出すことも、勝負の時のように正面へ立ちはだかることもしない。

 

 アインハルトは残りの飯を一口食べた。

 

 温かさが、もう一度口の中へ戻る。

 

     ◇

 

 帰る頃には、道場の外は暗くなっていた。

 

 アインハルトは器を洗うと申し出たが、ヌメロンは並んで洗おうと言った。彼が洗い、彼女が水気を拭いて棚へ置く。

 

 稽古表の前を通ると、今日の欄は空いている。

 

「何も書かないんですか」

 

「稽古はしてないから」

 

 ヌメロンは布を片づけた。

 

「今日は来てくれて、助かったよ。床も片づいた」

 

 そこに自分の名前は書かれない。

 

 アインハルトは不思議と、惜しいとは思わなかった。道場の壁に残らなくても、今日ここでしたことは覚えている。

 

「ごちそうさまでした」

 

「帰り道、気をつけてね」

 

 アインハルトは靴を履く。いつものように次の手合わせの日を決めようとして、やめた。

 

「……また来ます」

 

「うん。待ってる」

 

 ヌメロンは道場の入口で見送った。

 

 角を曲がるまで歩いてから、アインハルトは自分の両手を見た。

 

 今日は一度も拳を握っていない。それでも、あの扉を開けたことを後悔していなかった。

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