道場へ行く予定はなかった。
合宿から戻ったアインハルトは、荷物を自分の部屋へ置いた。着替えを取り出し、使った服を分ける。いつもならそのまま身体を休めるか、次の稽古のために足を動かす。
今日は何をすればいいのか、すぐに決まらなかった。
窓の外はまだ明るい。道場は開いている時間だろう。
そう考えた時、あの場所までの道をもう覚えていることに気づいた。
最初は覇王流を使う相手を探して行った。二度目は、負けたままでいたくなかったから行った。今日の荷物には稽古着も入っている。行こうと思えば、理由は作れる。
アインハルトは鞄を持った。
◇
合宿は、楽しかった。
その言葉を頭に浮かべるたび、少しだけ足が遅くなる。
川の水は思っていたより冷たかった。バーベキューの時は話し声がいくつも重なり、誰が自分の皿を気にしてくれたのか、途中から分からなくなった。訓練では強い人達の動きを間近で見た。
自分も、その輪の中にいた。
書庫で見つかったクラウス・イングヴァルトの回顧録を、ヴィヴィオ達が読んだ後も。
アインハルトは鞄の持ち手を握り直した。
彼女達は、過去を知ったからといって離れていかなかった。ひどいことを言われたわけでもない。むしろ、知らなかった時より気を遣ってくれたのかもしれない。
休憩の時、ヴィヴィオは次の稽古の話をしていた。リオとコロナも一緒だった。アインハルトが近くへ行くと、三人は話を止めず、彼女の分も場所を空けた。
座ってみれば、何を話していたかすぐ分かった。誰がどの技を使うか、次は何を試したいか。自分の意見を聞かれ、いつものように答えた。
それで終わりのはずなのに、後で一人になると、彼女達が場所を空ける前に何を考えたのか気になった。回顧録を読む前なら、そんなことを考えもしなかっただろう。
だから、余計に自分が何を望むのか分からない。
強くなりたい。そんなことは、ずっと前から決まっている。あの記憶が間違っていなかったと、拳で確かめたい。
けれど合宿の帰り道、ヴィヴィオ達と別れる時には、また会うつもりで手を振っていた。
覇王としての悲願と、その約束は、同じところに置いてよいのだろうか。
答えの出ないまま歩いていると、道場が見えた。
引き戸の向こうから、子供達の声がする。アインハルトは一度通り過ぎ、少し先で足を止めた。
勝負を申し込む気にはならない。
それなら何をしに来たのか。
引き返す前に、扉が開いた。稽古を終えた門下生が二人、並んで出てくる。先に出た方がアインハルトに気づき、会釈した。
以前、ここで受け身を取っていた子だった。
「こんにちは」
「……こんにちは」
返事をすると、二人はまた話しながら帰っていった。
道場の中から、ヌメロンが顔を出す。
「アインハルト。合宿から戻ったんだね」
「はい」
「おかえり」
その言葉が誰に向けたものか、聞き返す必要はなかった。
アインハルトはしばらく入口に立ち、ようやく靴を脱いだ。
◇
ヌメロンは畳の端に並んだ道具を片づけていた。アインハルトの鞄を見ても、手合わせを申し込まない。
「今日はノーヴェも?」
「後で来るよ。片づけ、手伝ってくれる?」
思っていなかった頼み事だった。
「私でよければ」
「ありがとう。そっちの板を重ねてほしい」
床に置いた練習用の板を、同じ大きさごとに揃える。アインハルトは一枚ずつ持ち上げた。端には門下生がつけた小さな傷がある。前回来た時にはなかったものも混じっていた。
「今日も転ぶ稽古を?」
「うん。あの子は自分からもう一回って言ったよ」
「倒されると分かっていても、ですか」
「今日は二回目で、自分から足を戻せたから」
ヌメロンは水差しを持ち上げ、中を空にする。二人が同じ作業をしている間、彼は合宿について急いで聞かなかった。
アインハルトには、それがありがたかった。
板を運び終えると、次に何をすればいいか分からず、道場を見回す。稽古表の新しい欄には、この数日の門下生の名前が増えている。
自分の名前は、前に手合わせした日付のところにある。
「合宿では、どうだった?」
ヌメロンがようやく尋ねた。床を拭く布を渡しながらの、普通の声だった。
「訓練は勉強になりました。強い方が何人もいて」
「ノーヴェも行ってたね」
「はい。ノーヴェは、こちらで教える時と変わりませんでした」
「厳しかった?」
「間違えると、すぐ分かります」
ヌメロンが少し笑った。
アインハルトも床へ膝をつき、布を動かす。さっき門下生が使っていた場所には、足で踏んだ線がまだ薄く残っていた。
「……楽しかったです」
口にした後で、布を動かす手が止まる。
ヌメロンは彼女の方を見ず、自分の受け持つ床を拭いている。
「うん」
「そう言っていいのか、分かりませんが」
「アインハルトが楽しかったなら、聞けてうれしい」
それ以上の問いは来なかった。
水の跡を拭き、板を寄せる。何も考えずに身体を動かせばいいはずなのに、合宿の場面が一つずつ浮かぶ。誰かが笑っていた顔。自分の方を向いていた目。
「みんな、回顧録を読みました」
今度は、自分から話した。
「クラウス・イングヴァルトのものです。私が受け継いだ過去を、少し知って」
ヌメロンの布が止まる。
「そうだったんだ」
「知られたくなかったわけではありません。伝えるつもりも、ありませんでしたが」
上手く言葉にならない。
知られる前と後とで、ヴィヴィオ達は同じ人達のはずだ。彼女達が自分を見る目に、ほんの少しの心配が混ざったようにも思う。けれど、自分の方が変わったのかもしれない。
「私の話を、彼女達が知っている。それがまだ、慣れません」
ヌメロンは頷いた。分かったふりをしているようには見えなかった。
「話したいところだけでいいよ」
「何を話せばいいのかも、まだ分からなくて」
「じゃあ、今は床を拭こう」
彼は残りの畳を指した。
アインハルトは思わず顔を上げる。
「話を聞きたくないんですか」
「聞きたいよ。アインハルトが話すなら」
「それなのに」
「急いで言葉を探すと、疲れるでしょ」
ヌメロンは布を絞り直す。
「ここが終わってからでも、明日でもいい」
アインハルトは畳へ目を落とした。
古い記憶には、間に合わなかった出来事がある。思い出すたび、今すぐにでも何かを取り返したくなる。
けれど今、床の線は逃げない。ヌメロンも話を終わらせようとしない。
二人で、残った畳を拭いた。
片づけの最後に、アインハルトは練習用の板を一枚持ち上げた。角の留め具が緩んでいる。
「これは外しておきます」
「助かる。あとで直すよ」
「新しい物に替えないんですか」
「直せるところなら。門下生が使い慣れてるしね」
ヌメロンは留め具を確かめ、交換する部品を道具箱から探した。アインハルトは板を支える。勝負の前なら、こんな細かな傷には気づかなかった。
「ノーヴェも、こういうことを?」
「うん。壊れたところを見つけるのは、ボクより早い。稽古で毎回転ばせてるから、お返しなのかな」
「ノーヴェが、毎回?」
「この道場で組み手をする時は」
アインハルトは合宿で見たノーヴェを思い出す。強い相手だ。そのノーヴェが、何度もここへ戻って来て同じ相手と稽古している。
ヌメロンは留め具を固定し、アインハルトが手を離すまで板を受け取らなかった。
「ありがとう。これでまた使える」
直った部分を指で押す。ぐらつきは消えていた。
◇
道場を出る頃には、夕方の光が窓から斜めに入っていた。
アインハルトは壁の稽古表の前で足を止める。古い紙には、ストライクの字が残っている。ヌメロンから、その人はもう帰ってこないと聞いた。
「あれ、まだ置いてあるんですね」
「うん」
「新しい表があるのに」
「見返すことがあるから」
ヌメロンは古い表へ手を伸ばさない。ただ隣に立つ。
「ストライクの書き方、予定が分かりにくいところもあるんだ。何度見ても同じところで迷う」
「困るなら、直さないんですか」
「新しい方には、ちゃんと書いてるよ」
それで彼の答えは終わった。
アインハルトは二枚を見比べる。古いものを消して新しくする必要はないらしい。今の道場は、両方の予定を壁に並べている。
「前に、あなたはストライクから覇王流を教わったと言いましたね」
「うん」
「その方の技を使う時、別の人のものを借りていると思いますか」
口にした途端、ずいぶん回りくどい質問になったと思った。
ヌメロンは少し考える。
「稽古した時のことは覚えてる。どうやって教えられたかも。でも、今ここで動くのはボクの身体だから」
「同じ技にはならない」
「うん。ストライクが見たら、足の位置を直されるかもしれない」
冗談めかした声だった。けれど、その人が直しに来られないことを、アインハルトはもう知っている。
「それでも、あなたは使うんですね」
「教わったことは、ボクにも残ってるから」
アインハルトは古い紙を見る。
クラウスの記憶は、自分の中にある。自分の身体を使っている時も、過去は消えてくれない。
ヌメロンと自分が同じだとは思わなかった。どんな記憶を受け取ったのかも聞いていない。ただ、他人の残したものについて、彼が毎日の稽古の言葉で答えたことが意外だった。
「次に手合わせする時、さっきの足をもう一度見せてください」
「分かった。アインハルトも、合宿で覚えた動きを見せてね」
「……はい」
勝負の話をすると、答えやすい。
それが今日は、少しだけ残念でもあった。
◇
入口の引き戸が勢いよく開いた。
「ただいま。って、まだいたのか」
ノーヴェだった。合宿の荷物を片方の肩にかけている。アインハルトを見て驚いた顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
「今、片づけが終わったところ」
「ああ。夕方の組、時間どおり終わったんだな」
ヌメロンがうなずく。ノーヴェは荷物を棚へ置き、畳に残った線を目で確かめた。
「あの子、今日はどうだった」
「二回目で自分から足を戻せたよ」
「やるじゃねえか」
二人は門下生の稽古について、短い言葉で通じ合っている。アインハルトはその横で鞄を持ち直した。
ノーヴェが振り返る。
「アインハルトは稽古しに来たのか」
「いえ。今日は、しませんでした」
「そうか」
もっと何か言われると思った。合宿では何度も一緒に動いたし、ノーヴェは自分が休みなく強くなろうとしてきたことも知っている。
けれどノーヴェは、棚にある濡れた布を回収する。
「お前まで床を拭いたのか。助かった」
「少しだけです」
「少しでも二人分は進む」
アインハルトは言葉を返せなかった。
ヌメロンがノーヴェの荷物を見た。
「そのまま帰る?」
「ああ。チンク達が待ってる」
ナカジマ家へ戻るのだろう。ノーヴェは荷物を持ち直し、アインハルトにも目を向けた。
「合宿、疲れただろ。今日はちゃんと休めよ」
「ノーヴェも」
「言うようになったな」
口は悪いが、顔は笑っていた。
ノーヴェが出ていくと、道場に静けさが戻る。
アインハルトは自分の靴を揃えた。
「私も帰ります。片づけを手伝わせていただき、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとう」
引き戸へ手をかける。
今日は手合わせをしなかった。稽古表にも名前は増えない。それでも、ここへ来てからの時間は短く感じた。
「アインハルト」
振り返る。
「ご飯食べて帰らない?」
何を言われたのか、すぐには分からなかった。
「ここで、ですか」
「うん。道場の奥で作れるよ。ノーヴェは家で食べるみたいだけど」
「ご迷惑では」
「一人分も二人分も、そんなに変わらない」
ヌメロンは思いつきで言ったように見えた。だから断っても、きっと困らない。
アインハルトは引き戸から手を離す。
「……では、お言葉に甘えて」
「うん。好き嫌い、ある?」
聞かれて、思わず考え込んだ。覇王流の技を尋ねられるより、答えに時間がかかる。
「特には。熱いものは、少し冷ましてから食べます」
「分かった」
ヌメロンはうなずき、奥の小さな台所へ向かった。
◇
アインハルトは手を洗い、器を並べた。
手伝えることを尋ねたら、ヌメロンが任せたのだ。飯を炊く間に野菜を切り、鍋を温める。包丁の音が一定の間隔で続いた。
道場でのヌメロンは、相手の足が動く前から重心を見ている。台所では、鍋の蓋を開けて湯気を確かめ、味を見て少し首を傾げた。
「何か、足りないんですか」
「少し薄いかなと思って」
「私はまだ食べていません」
「そうだね。ちょっとだけ待って」
ヌメロンが味を整え、もう一度確かめる。
誰かが自分に出す食事の味を気にしている。そのことに、アインハルトは妙に落ち着かなかった。
「合宿では、ちゃんと食べられた?」
「はい。みんなでバーベキューをしました」
「よかった」
「私が食べられなかったら、どうするつもりだったんですか」
「今、ご飯を少し多くよそってたかも」
ヌメロンがごく普通に答える。
アインハルトは並べた器を見た。二つだけの卓だ。稽古の記録も、勝敗も置かれていない。
湯気の立つ野菜のスープと、焼いた肉、それに温かい飯が出た。
「いただきます」
ヌメロンが先に言い、アインハルトも続いた。
スープは熱い。少し冷ましてから口にすると、野菜に火が通りきっているのに形は残っていた。塩気は強くない。合宿で大勢と囲んだ食事とは、違う静けさがある。
「お口に合う?」
「はい。おいしいです」
「よかった」
ヌメロンはそれ以上、何を考えているのか聞かなかった。
アインハルトもすぐには話さなかった。飯を食べて、スープを飲む。ヌメロンが先に皿を空にした時、自分はまだ半分ほど残していた。
「ゆっくりでいいよ」
「遅いでしょうか」
「ボクが早かっただけ」
彼は席を立たず、水を注いで戻る。
食べる速さを合わせなくていい。道場の床を片づけた時と同じように、こちらが終わるまで待っている。
「ヴィヴィオ達には」
言いかけて、アインハルトは箸を置いた。
「合宿から帰る時、また会おうと言われました」
「うん」
「もちろん、会うつもりです。手合わせもします」
それは本当だった。
でも、それだけではない気がする。
「私が過去のことを考えている間も、彼女達は私と遊ぼうとします。あの記憶について、知らないふりをしているわけでもありません」
言葉が一度止まる。
「どうして、あんなふうにできるんでしょう」
ヌメロンは少し考えてから答えた。
「ヴィヴィオ達がアインハルトと過ごした時間も、本当だからかな」
アインハルトは皿を見た。
過去を知る前の時間と、知った後の時間。どちらか片方しか残せないわけではないらしい。
「私には、まだ上手くできません」
「今、話してくれたよ」
「あなたにだけです」
「それでも、聞けてよかった」
ヌメロンは自分の杯を持った。励ますために身を乗り出すことも、勝負の時のように正面へ立ちはだかることもしない。
アインハルトは残りの飯を一口食べた。
温かさが、もう一度口の中へ戻る。
◇
帰る頃には、道場の外は暗くなっていた。
アインハルトは器を洗うと申し出たが、ヌメロンは並んで洗おうと言った。彼が洗い、彼女が水気を拭いて棚へ置く。
稽古表の前を通ると、今日の欄は空いている。
「何も書かないんですか」
「稽古はしてないから」
ヌメロンは布を片づけた。
「今日は来てくれて、助かったよ。床も片づいた」
そこに自分の名前は書かれない。
アインハルトは不思議と、惜しいとは思わなかった。道場の壁に残らなくても、今日ここでしたことは覚えている。
「ごちそうさまでした」
「帰り道、気をつけてね」
アインハルトは靴を履く。いつものように次の手合わせの日を決めようとして、やめた。
「……また来ます」
「うん。待ってる」
ヌメロンは道場の入口で見送った。
角を曲がるまで歩いてから、アインハルトは自分の両手を見た。
今日は一度も拳を握っていない。それでも、あの扉を開けたことを後悔していなかった。