道場の戸を開ける前に、ノーヴェが言った。
「今日の組み合わせ、文句は受け付けねえぞ」
「まだ何も聞いてないよ」
「聞いてから言われる方が面倒なんだよ」
ヌメロンが笑うと、ノーヴェは肩にかけた鞄を下ろした。中には稽古の予定を書いた端末と、予備の保護具が入っている。
合宿が終わり、大会へ向けた稽古の希望が増えていた。いつもの門下生に加え、ノーヴェの指導を受けるヴィヴィオ達も来る。二人で道場を継いでいてよかった、とヌメロンが思う日が続いている。
「アインハルトも来る?」
「来るって連絡があった。今日はちゃんと稽古着を持ってな」
最後に会った日は、合宿帰りだった。
床を拭き、夕飯を食べた。アインハルトは勝負の予定を決めず、「また来ます」とだけ言った。
その言葉どおり、今日は来る。
「まず全員で足運び。その後、二人ずつ。お前は最後にアインハルトの相手をしてくれ」
「分かった」
「途中の組み合わせは、あたしが決める」
ノーヴェの顔を見て、ヌメロンは少しだけ嫌な予感がした。
「アインハルトに、何をさせるつもり?」
「見てりゃ分かる」
彼女は引き戸を開け、先に道場へ入った。
◇
稽古が始まる頃には、畳に足音がいくつも重なっていた。
ヴィヴィオはいつもの場所で準備運動をしている。リオはその隣で肩を回し、コロナが二人へ水差しの位置を教えた。先に来た門下生は、壁の稽古表を見て自分の順番を確かめる。
アインハルトが入ったのは、その少し後だった。
「こんにちは」
ヌメロンは声をかける。彼女は靴を揃え、彼に礼をした。
「こんにちは。今日は、稽古をお願いします」
「うん。ノーヴェが組み合わせを決めてるよ」
アインハルトは道場を見渡した。合宿で一緒だった三人と目が合う。ヴィヴィオが手を振り、リオは先に声を上げた。
「アインハルトさん、今日は同じ組ですか?」
「まだ聞いていません」
「じゃあ当たるかも!」
リオが笑う。アインハルトも小さく頭を下げた。
ヌメロンには、彼女が握った鞄の持ち手が以前ほど固く見えなかった。合宿の日の話を聞いたから、そう思うのかもしれない。
稽古着に着替える間、ノーヴェが端末を開く。
「大会が近づいてるから、今日は一人で技を通すだけじゃ終わらねえ。相手が何を狙ってるか、途中で見ろ」
門下生たちが頷く。
「倒したらそこで止める。止められなかった奴は、その場で組み直しだ。分かったな」
「はい!」
ヴィヴィオとリオの声が重なった。
アインハルトは少し遅れて、「はい」と答えた。
まず足運びを揃える。ノーヴェが前から見る間、ヌメロンは列の横を歩いた。踏み込む足ばかり速くなる子の後ろへ回り、重心を示す。手を出しすぎれば、自分で気づく前に動きを変えてしまう。
アインハルトは列の中でも、動きが鋭かった。
ただ、最初の二歩から全ての速さを使っている。三歩目が来ても同じ速さで踏めるか、ヌメロンは見ていた。
「アインハルト」
「はい」
「今の三歩目、もう一度見せて」
彼女は元の場所へ戻り、踏み込んだ。
一歩、二歩。三歩目の前にほんの少しだけ腰が沈む。合宿前より短い動作だった。
「そこ、変えたね」
「分かりますか」
「うん。二歩目で急がなくなった」
「合宿で試しました。まだ安定しませんが」
アインハルトは三歩目を確かめるように足を引いた。
ノーヴェが横から言う。
「午後の組み手で試せ。今は形を覚えとけ」
「はい」
アインハルトはその場を離れず、もう一度だけ足を運んだ。三歩目は、さっきより静かだった。
ノーヴェが手を叩き、全員を呼び集めた。
「組み手の前に一回、見せる。あたしがクオンを押すから、足の場所を見てろ」
ヌメロンが向かい合う。ノーヴェは拳を軽く出し、彼の肩に手を掛けた。押す力は強い。ヌメロンの後ろの足が、畳の線を越える。
門下生の一人が「下がった」と言った。
その途端、ヌメロンは前の足を残したまま身体を横へずらした。押していたノーヴェの手が行き場を失う。彼は彼女の腕を取り、転ぶ方向を作った。
ノーヴェが畳へ落ちる。頭を打たず、滑らかに受け身を取った。
「あたしが押した時、こいつは後ろへ下がった。けど、次の足までまっすぐ引いてねえ。どこに置いた?」
ヴィヴィオが前の線を指した。リオは横の線を指す。
「両方だ」
ノーヴェは立ち上がり、自分の足を置き直す。
「相手の力が強くても、足の場所が残ってりゃ別の動きができる。自分が押す側の時も、そこを見ろ」
アインハルトはヌメロンの足元を見た。ノーヴェに押され、後ろへ下がったところまでは分かった。横へ移った一歩だけ、目で追い切れなかった。
「もう一度、お願いします」
彼女が言うと、ノーヴェはヌメロンへ向き直った。
「今度は一歩ずつやる。お前、また途中であたしを転ばすなよ」
「ノーヴェが先に押してくるなら、約束できないよ」
「そういう答えが返ってくると思った」
二人が位置を戻す。今度は、アインハルトも最後の足まで見た。
◇
相手を決める時間になって、ノーヴェは端末を閉じた。
「ヴィヴィオはコロナ。アインハルトはリオ」
リオの顔が明るくなる。
「お願いします!」
アインハルトがノーヴェを見る。
「リオと、ですか」
「ああ。足運びを使うなら、相手の方もちゃんと見ろ」
「分かりました」
リオは構えたまま、軽く足を動かした。アインハルトも礼をして向かい合う。
ヌメロンが二人の側に立つ。少し離れたところでは、ノーヴェがヴィヴィオとコロナの動きを見ている。
「先に決めておこう」
ヌメロンは二人に聞こえる声で言った。
「今日は三回触れたら区切る。強い打ち込みを止める合図は、ボクが出す。二人とも、それに従って」
「はい」
リオは即座に答え、アインハルトも頷いた。
合図で動き出す。
先に前へ出たのはリオだった。小さな身体のどこにそんな力があるのか、床を蹴る音が重い。アインハルトはその拳を腕の外へ逃がし、横へ抜ける。
リオの肩に掌が触れた。
「一本」
ヌメロンが告げる。リオは悔しそうに口を結び、それでもすぐ構え直した。
「もう一回、お願いします」
「はい」
二度目は、リオが初めから横へ回らせなかった。腕を押し込む力が強い。アインハルトの足が、一歩だけ後ろへ下がる。
リオはそこを追う。
アインハルトの拳が上がった。ヌメロンには、彼女がいつもの踏み込みで押し返せる位置にいるのが分かった。
けれど、そのまま打てば、リオの身体は勢いのまま拳へ入る。
ノーヴェが、もう片方の組を見ながら声を飛ばした。
「アインハルト。相手の足!」
アインハルトの拳がわずかに遅れる。
リオの足は止まらない。自分の拳を通すため、さらに前へ出ている。アインハルトは打つ手を開き、相手の肘の横へ移した。
身体を入れ替える。
リオが前へつんのめった。倒れる前にアインハルトが腕を支える。
「そこまで」
ヌメロンの声で、二人が離れた。
リオはすぐに不満そうな顔をした。
「今の、私の方が当てられたのに」
「当てられてたよ」
ヌメロンが答える。
「ただ、後ろの足が前の足に追いついてなかった。アインハルトが退いたら、次は転ぶ」
リオは足元を見る。
「じゃあ、次はちゃんと運びます」
アインハルトが口を開いた。
「リオ。今の踏み込みは速かったです。私は受けに回りました」
「……ほんとですか」
「はい。だから、次も同じ速さで来てください」
ヌメロンはアインハルトを見た。気を遣って言った声には聞こえない。自分も次の一歩を確かめたいのだ。
「よし、続けよう」
リオが笑って構える。
三度目は、アインハルトが先に攻めた。最初の二歩で詰め、三歩目を急がない。リオが横へ逃げると思った位置に、先回りした足がある。
リオは肩を引いて避ける。アインハルトはそこへ次の手を出すが、触れる直前に止めた。
ヌメロンが一本を告げる。
「当たってないですよ」
リオが首を傾げる。
「あと指一本のところ。続けたら受けられなかった」
ヌメロンは距離を示した。リオは納得し、頷く。
最後の一本だけは、リオが取った。
アインハルトが三歩目を探っている間に、リオは同じ方向へ行かず、逆側から腕を伸ばした。アインハルトの袖に、小さな手が触れる。
「取った!」
リオが飛び上がる。
アインハルトは自分の袖を見て、それからリオを見た。
「今のは、私が見ていませんでした」
「次は見ててくださいね」
「はい。次は」
言い返したアインハルトの声は、少しだけ速かった。
ノーヴェが近づいてくる。いつの間にか、向こうの組の稽古も一区切りついていた。
「二人とも、よかった。リオは最後の足を覚えとけ。アインハルトは二本目、拳を変えたな」
「はい。あのまま打つより、横へ入る方がいいと思いました」
「そう。リオの方も止まらず来てた。そこを見られたなら、今日の組み合わせは当たりだ」
リオが隣で胸を張る。
アインハルトはまだ袖を見ていた。取られた一本を忘れるつもりはないのだろう。
「どうだった?」
ヌメロンが尋ねる。
「強かったです」
「リオが?」
「はい。押し返そうとしたら、前より踏み込んできました」
「聞こえてますよ!」
リオが照れたように笑った。
アインハルトも、わずかに表情を緩めた。
◇
全員の組み手が終わっても、アインハルトは道場に残った。
水を飲み、足を動かす。試したい三歩目がまだある顔だった。
「クオン、相手してやれ」
ノーヴェが門下生を帰しながら言う。
「いいよ。ノーヴェは後片づけ?」
「途中で見に来る。あたしの稽古表に書くんだからな」
アインハルトはヌメロンと向かい合った。
「お願いします」
「今日は、何を確かめたい?」
「三歩目を。リオには先回りできましたが、あなたには前に届かなかったので」
彼女は合宿前の手合わせを覚えている。
ヌメロンも覚えていた。最後に彼が足を置いた位置と、彼女が拳を止めた位置。
「分かった。最初は同じ距離から始めよう」
礼をする。
アインハルトは一歩目を踏み、二歩目で速度を上げない。三歩目だけ角度を変えた。
ヌメロンは下がる。正面から受けるには、距離が近い。
アインハルトの拳が袖へ触れそうになった時、彼は足を引いて外した。
「あと少し」
「分かっています」
アインハルトは深く息を吸い、今度は最初の一歩を変えた。
速さより距離を取る。二歩目で自分の身体を詰めすぎない。最後の一歩が残る。
ヌメロンは横へ回り、彼女の背へ抜けた。
アインハルトが追う。前ならそのまま、もっと強く踏み込んだだろう。今日は一度止まり、ヌメロンの足を見てから向きを決めた。
拳が届く。
ヌメロンは手首の横に掌を添え、軌道を外した。もう片方の手で彼女の肩の位置を押さえる。先に動けば、アインハルトの足は止まる。
「そこまで」
彼女は動きを止めた。先ほどのリオとは逆の位置にいる。
「抜けられませんか」
「今は、難しいと思う」
「前なら、ここまで届かなかった」
「うん。ボクも一歩下がった」
アインハルトは返事をしなかった。けれどヌメロンの掌を振り払おうともせず、構えを解いた。
「もう一度、お願いします」
「水を飲んでから」
「さっき飲みました」
「その後、リオと三本やったよ」
アインハルトは一瞬だけ不満そうな顔をした。ヌメロンは水差しを指す。
「一杯だけ」
「……分かりました」
引き下がる時、彼女は先ほど肩を押さえられた位置を自分の手で確かめた。次はそこを空けないつもりだろう。
ヌメロンも自分の袖を見る。アインハルトの拳が触れる寸前まで来ていた。
水を飲んで戻ってきたアインハルトは、次の三歩目を試した。
その日、彼女の拳がヌメロンを倒すことはなかった。それでも最後の一本では、彼の袖を指先がかすめた。
「今の、触れました」
「うん。次は避けるよ」
「私も、次は掴みます」
アインハルトは真っすぐ答える。
ノーヴェが戻り、二人を見比べた。
「今度はリオから取られた一本も取り返せよ」
「はい」
「リオも次は黙って取られないけどな」
ノーヴェの言葉に、アインハルトは頷く。ここではヌメロンとの手合わせが終わっても、ほかの相手との稽古が続いていく。
◇
「まだいたっスか、みんな!」
ウェンディの声が道場へ飛び込んできた。
彼女はディエチと一緒に、大きな袋を二つ抱えている。中身は洗ったタオルと、注文していた保護具だった。
「頼んでたの、届いたんスよ。ディエチがこっちに来るっていうから一緒に」
「ありがとう、ウェンディ。ディエチも」
ヌメロンが袋を受け取る。ノーヴェは空の棚を示した。
「タオルはそっち。保護具はあたしが数える」
「仕事が速いっスね、師範」
「お前も手伝え」
ウェンディは笑いながら棚へ向かった。
ディエチはアインハルトに気づいた。
「こんにちは。稽古の途中?」
「いえ、今終わったところです」
「じゃあ、喉渇いてるよね」
彼女は水の入った小さな容器を一つ差し出す。アインハルトはヌメロンを見るより先に、両手で受け取った。
「ありがとうございます」
ウェンディが棚から顔を出す。
「今日は兄に勝ったっスか?」
「いいえ」
「うちのノーヴェも勝てないから、気にしなくていいっスよ」
「余計なこと言うな!」
ノーヴェがタオルを一枚、ウェンディの方へ投げた。ウェンディは器用に受け取り、笑う。
「でもアインハルトさん、袖には触れたよ」
ヌメロンが言うと、ウェンディの目が丸くなった。
「おお、すごいっス!」
「指先だけです」
「次は掴むんでしょ?」
ヌメロンに尋ねられ、アインハルトは頷いた。
「はい」
ディエチは保護具の数を確かめながら、ノーヴェへ何かを相談している。ウェンディが返事を横から挟み、ノーヴェにもう一度たしなめられた。
アインハルトは三人の会話を聞きながら、水を一口飲んだ。
ヌメロンは彼女の空いた容器を受け取る。
「今日はありがとう、アインハルト。リオも楽しそうだった」
「私も、勉強になりました」
「次の三歩目も、見せてね」
「はい」
前より返事が早かった。
◇
帰り支度をしているアインハルトの鞄は、少し膨らんでいた。
稽古着、手首に巻く予備の布、洗って持ち帰るもの。道場へ来るたびに、全部詰め直しているらしい。
ヌメロンは棚の下段を見る。ノーヴェが仕分けた保護具の隣には、まだ一つ空きがあった。
「アインハルトの物、ここへ置いてもいいよ」
「私の?」
「毎回持ってくるの、大変でしょ。稽古で使うものだけなら、場所がある」
アインハルトは棚へ視線を向けた。
空きは広くない。布を数枚と、予備の道具が入る程度だ。ヌメロンは勝手に彼女の鞄へ手を出さず、返事を待った。
「でも、ほかの方の棚では」
「今は使ってないよ。ノーヴェにも聞こう」
ノーヴェは保護具の数を数え終え、会話を聞いていた。
「置いとけ。使う時に探さなくて済む」
それだけ言って、次の袋へ手を伸ばす。
アインハルトは鞄を開いた。
稽古着は持ち帰る。その下から、予備の手首の布を一組出した。昨日まで何度も持ち歩いたものだ。
「これを、置いてもいいですか」
「うん」
ヌメロンが棚の扉を開ける。アインハルトは布を畳み直し、自分で中へ入れた。
「名前、付けておく?」
「お願いします」
紙片を渡すと、アインハルトは自分で名前を書いた。
小さな札が、布の前に置かれる。
「次に来た時に使います」
「待ってる」
アインハルトは棚を閉めた。
道場を出る時の鞄は、来た時より少しだけ軽い。
ヌメロンは彼女を見送り、棚の方を見る。
布が一組、残っている。
明日の稽古表には、まだアインハルトの名前がない。次にいつ来るかも決まっていない。
それでも、彼女は自分であそこへ置いた。
ノーヴェがタオルの棚を閉め、ヌメロンの隣へ来る。
「にやけてるぞ」
「そう?」
「そうだよ」
ヌメロンは否定しなかった。
次の稽古で、彼女が何を試すのか楽しみだった。