道場へ入ると、いつもより声が少なかった。
畳を踏む足音はする。壁際には鞄も並び、年少の門下生が二人、ノーヴェの前で受け身を繰り返している。
けれど、アインハルトが無意識に探した姿はなかった。
「こんにちは」
「おう。来たな」
ノーヴェは一人の背中を支えながら、顔だけを入口へ向けた。
「ヌメロンは?」
尋ねてから、アインハルトは自分が挨拶より先に彼の居場所を確かめようとしたことに気づいた。
「はやてのとこだ。お前のデバイスに使う追加記録を届けに行ってる」
「私のために?」
「道場で取った記録を渡すだけだ。調整するのははやて達で、最後に決めるのはお前。兄貴もそこは間違えねえよ」
「分かっています」
アインハルトは靴を揃えた。
「今日は戻らないのですか」
「戻る。向こうが長引かなきゃ、稽古が終わる頃にはな」
「そうですか」
それだけ答え、棚へ向かう。
先日から置かせてもらっている予備の布は、畳んだ時と同じ場所にあった。ほかの門下生のものと並んでいても、勝手に置かれた異物には見えない。
アインハルトは持参した稽古着へ着替え、髪を整えた。
「準備できたら、こっち来い」
ノーヴェに呼ばれる。
今日は自分の組み手から始めるものだと思っていた。ところが、ノーヴェが指したのは、先ほどから受け身を取っていた小さな少年だった。
アインハルトより頭一つ以上小さい。まだ道着にも着られているようで、袖が手首の辺りで何度も折られている。
「この子と、ですか」
「組み手はさせねえよ」
ノーヴェは少年の肩へ手を置いた。
「始めてまだ三日だ。後ろ受け身で身体が固まる。あたしは向こうの二人を見るから、お前はこいつを見てろ」
「私が教えるのですか」
「技を教えろとは言ってねえ」
即座に返される。
「危ない落ち方をしたら止めろ。それだけでいい」
「ですが、私は指導者ではありません」
「知ってる。だから、できねえことまで教えようとすんな」
ノーヴェは少年へ向き直った。
「こいつはアインハルト。あたしや兄貴より年は近いけど、強いぞ」
少年が目を見開いてアインハルトを見上げる。
「覇王の人?」
どこで聞いたのか、呼び方だけは知っているらしい。
「はい。アインハルト・ストラトスです」
「すごく強いって聞いた」
「誰からですか」
「みんな」
答えになっていない。
少年はそれでも尊敬を隠さず、真っすぐ彼女を見ていた。
アインハルトは少しだけ居心地の悪さを覚えながら、礼をする。
「よろしくお願いします」
「お、お願いします!」
少年は慌てて頭を下げた。
ノーヴェは二人を残し、別の門下生のところへ向かった。
◇
「まず、立ってください」
アインハルトは少年と向き合った。
「足を前後に。どちらでも構いません。押されても倒れないよう、腰を落とします」
「うん」
「返事は『はい』です」
「はい!」
少年が足を開く。
アインハルトは肩へ掌を当て、ゆっくり押した。少年の身体が後ろへ傾く。だが、倒れる寸前で慌てて足を引き、どうにか踏みとどまった。
「今のように、先に足を出せば倒れません」
「もう一回やって」
「では、先ほどより強く押します」
二度目は、少年も構えた。
押されると分かっているため、最初から後ろの足へ力を入れている。アインハルトが少し力を加えると、少年は歯を食いしばりながら耐えた。
「できました」
誇らしそうな顔をする。
「はい。次は足を引く方向を――」
「アインハルト」
離れた場所から、ノーヴェの声が飛んだ。
「そいつに何を教えてる」
「倒されないための足運びです」
「あたしは受け身を見ろって言ったよな」
「倒れなければ、受け身は必要ありません」
ノーヴェは額へ手を当てた。
「そういうとこだぞ、お前」
少年が二人の顔を交互に見る。
アインハルトには、何を指摘されたのか分からなかった。転倒を防げるなら、その方がいい。実戦でも競技でも、倒されない足を作ることは間違いではない。
ノーヴェが近づいてくる。
「最初から全部耐えられる奴はいねえ。倒される時はある」
「だから、倒されない稽古を」
「こいつが怖がってるのは、負けることじゃねえよ」
ノーヴェは少年の前へしゃがんだ。
「背中から落ちるのが怖いんだろ」
少年はしばらく黙ってから、頷いた。
「前に転んだ時、頭を打ったから」
アインハルトは、ようやく少年の構え方を見直した。
腰を落としているのではない。後ろへ傾かないよう、身体を前へ固めている。押された時に足を出せたのも、倒れない方法を理解したからではなく、背中を畳へ向けたくなかっただけだ。
「受け身を覚えれば、頭を打たずに済む」
ノーヴェが言う。
「けど、怖くなくなるまでには時間がかかる。だから、まず転んでも立てるって覚えさせる」
彼女は立ち上がると、アインハルトの腕を取った。
「一回、借りるぞ」
「何を――」
問い終える前に、足を払われた。
アインハルトは反射的に顎を引き、背を丸める。腕で畳を打ち、衝撃を逃がした。
乾いた音が道場に響く。
少年が息を呑んだ。
アインハルトはすぐに起き上がる。
「急に何をするのですか」
「今の、痛かったか?」
「いいえ」
「もう立てるか?」
「見れば分かるでしょう」
ノーヴェは少年を見る。
「だとよ」
少年は、アインハルトが倒れた場所を見つめていた。
派手に鳴った音に反して、彼女は何事もなかったように立っている。
「もう一度、見せてください」
少年が言った。
今度はアインハルトがノーヴェを見る番だった。
「お前が見ろ」
「あなたが投げるのでしょう」
「投げるのは一瞬だ。その後を見せるのはお前だ」
ノーヴェがもう一度、腕を取る。
先ほどよりゆっくりと重心を崩された。アインハルトは倒れる方向に逆らわず、背を丸める。畳へ触れる順番が少年にも見えるよう、動きを大きくした。
背中が落ち、腕が畳を打つ。
すぐに身体を起こした。
「頭は?」
ノーヴェが尋ねる。
「打っていません」
「背中は?」
「痛くありません」
「次はどうする?」
アインハルトは片膝を立て、そのまま立ち上がった。
「立ちます」
自分で答えてから、少年を見る。
教えるべきことが、ようやく分かった。
「最初から、倒れない必要はありません」
先ほどとは反対のことを口にする。
「顎を引いて、頭を畳から離してください。手をつくのではなく、腕全体で畳を打ちます」
「痛くない?」
「正しくできれば、先ほどの私のようにすぐ立てます」
アインハルトは再び畳へ腰を下ろした。
「まず、ここからです。立った状態ではありません。座ったまま、後ろへ倒れてみてください」
少年も隣へ座る。
アインハルトは足の位置と顎の引き方を示した。少年が後ろを見るたび、前を向くように言う。
「見えないから怖い」
「はい。私も最初はそうでした」
言ってから、わずかに考える。
いつ初めて受け身を覚えたのか。覇王の記憶には、多くの戦い方がある。けれど今、自分の身体が覚えている転び方は、道場で何度も畳へ落とされて身につけたものだった。
「ですから、私が隣で同じように倒れます」
二人で背を丸める。
「せーの、でいきます。せーの」
畳を打つ音が重なった。
少年の頭は、床につかなかった。
「できています」
「ほんと?」
「はい。もう一度です」
二度目は、少年の腕が遅れた。三度目は顎が上がった。アインハルトはそのたびに止め、一つずつ直した。
何度目かで、少年は一人でも頭を打たずに倒れた。
起き上がる動作はまだ遅い。それでも畳へ両手をつき、自分の力で立ち上がった。
「できた」
「はい」
アインハルトも立つ。
「では、もう一度」
「まだやるの?」
「一度できただけでは、身体は覚えません」
少年の顔から笑みが消えた。
「休憩を挟め」
ノーヴェの声が飛んでくる。
「怖がらずに一回できたなら、今はそれでいい」
アインハルトは反論しかけたが、少年が額の汗を拭っているのを見て、口を閉じた。
「……水を飲みましょう」
「はい、アインハルト先生」
「先生ではありません」
少年は返事をせず、水差しの方へ走っていった。
◇
「お前、教える時まで自分の稽古みてえにやるんだな」
年少組が休憩している間、ノーヴェは壁際へ座った。
アインハルトも少し離れた場所へ腰を下ろす。
「できないまま終わらせる方が、無責任です」
「できたとこで終わらせるのも大事なんだよ。次もやれると思えるからな」
ノーヴェは自分の水を飲む。
「まあ、初めてにしちゃ悪くなかった」
「私は指導者ではありません」
「まだ言ってんのか」
アインハルトは水差しへ目を向けた。少年は、もう一人の門下生に先ほどの受け身を見せようとしている。今度はノーヴェが行かせず、座って休めと声をかけた。
「ノーヴェ」
「何だ」
「ヌメロンは、あなたにとっても兄なのですか」
ノーヴェは水の容器を口元で止めた。
「何だよ、急に」
「先ほども、兄貴と呼んでいました」
「いつも呼んでるだろ」
「そうですが」
高町家で見た席を思い出す。
なのは達は、関係に名前を決めたことはないと言っていた。けれどノーヴェは、ヌメロンを兄と呼ぶ。
「血が繋がっているわけではないと聞いています」
「ああ。けど兄貴だよ」
「いつからですか」
ノーヴェは少し考えた。
「いつから、なんて決めた覚えはねえな」
彼女は道場の入口を見る。
「気づいたら、あいつがあたし達の帰りを待ってた」
「帰りを?」
「怪我して戻りゃ手当てして、腹減ってりゃ飯を作る。誰か一人遅けりゃ、帰ってくるまで起きてる。うるせえって言ってもやめなかった」
ノーヴェは、わずかに口元を緩めた。
「だから、兄貴でいいかって思っただけだ」
ヌメロンが語ったことと似ていた。
誰かに頼まれたから、その場所にいるのではない。毎日してきた小さなことが積み重なり、気づけば呼び方と居場所ができている。
「この道場は、ストライクという方のものだったのですよね」
「そうだ」
ノーヴェの声から笑みが消えた。
「あいつは帰ってこなかった。けど、ここで教わってた奴らは残った。道場も、あいつが教えた転び方もな」
アインハルトは畳へ手を触れた。
先ほど、自分が何度も倒れた場所だ。
「それで、あなたとヌメロンが継いだのですか」
「兄貴一人に背負わせる気はなかった。それに、あたしもここをなくしたくなかった」
「ストライクの代わりとして?」
「違う」
ノーヴェははっきり否定した。
「あたしも兄貴も、ストライクじゃねえ。あいつと同じ教え方もできねえよ」
それでも、と彼女は続ける。
「残された奴が、残ったもんを次へ渡すことはできる」
水差しの側で、少年がもう一度、座った姿勢から後ろへ倒れている。今度は頭を打たず、自分で起き上がった。
「お前が今やったのも、それだ」
「私が?」
「お前に受け身を教えた奴がいて、お前はそれをあいつに見せた。全部同じ形じゃなくても、残ってくだろ」
アインハルトは少年を見る。
自分が教えたつもりだった。
けれど、自分一人で作ったものではない。ノーヴェに投げられ、ヌメロンに倒され、それでも立たされた回数が、あの子へ渡ったのだ。
「教えるというのは、不思議ですね」
「急にどうした」
「自分が持っていると思っていたものが、自分だけのものではなかったと分かります」
「そんなもんだろ」
ノーヴェは立ち上がる。
「休憩終わりだ。先生、あいつの続き見てやれ」
「ですから、先生ではありません」
「本人に言え」
少年は既に、アインハルトの前へ戻ってきていた。
「アインハルト先生、次は立ったところからやりたい」
「まだ座った状態からです」
「先生じゃないって言わないの?」
「……言っても聞かないでしょう」
少年は嬉しそうに笑った。
◇
立った姿勢からの受け身へ移る頃には、入口から差す光が赤くなっていた。
アインハルトは少年の背に手を添え、途中まで身体を支えた。最初は畳へ着く寸前まで離さない。次は少し早く手を離す。
「怖かったら言ってください」
「言ったら、やめる?」
「一つ前へ戻します」
「やめないんだ」
「怖くないところから、もう一度始めます」
少年は考えてから頷いた。
背中が畳へ落ちる。腕を打つ音はまだ小さい。それでも頭は上がっていた。
「今のは?」
「できています」
「じゃあ、もう一回」
先ほどまでとは逆に、少年の方から言った。
アインハルトは頷き、もう一度手を添える。
三度目が終わると、少年は自分で起き上がった。立ち方はぎこちないが、後ろへ倒れる前の怯えた顔はしていない。
「今日は、ここまでです」
「もうできるよ」
「だから、ここまでです」
ノーヴェに言われた言葉を、そのまま使う。
「できたところで終われば、次もできると思えます」
「それ、ノーヴェ先生が言ってた」
「……そうですね」
「アインハルト先生も、次に教えてくれる?」
返事に迷った。
自分はここへ、強くなるために来ている。ヌメロンやノーヴェと拳を交え、覇王流を確かめるための場所だ。
誰かを教えるためではない。
けれど、少年は次もここへ来るつもりでいる。そして自分も、また来ると何度も言ってきた。
「私がいる時でよければ」
「約束?」
「はい」
少年が笑った、その時だった。
道場の戸が開く。
「ただいま。遅くなってごめん」
聞き慣れた声に、アインハルトは入口を振り返った。
ヌメロンが立っていた。片手に資料を入れた鞄を持ち、もう片方の腕へ上着を掛けている。
ノーヴェより先に、少年が駆け寄った。
「クオン先生、おかえり!」
「ただいま。今日は受け身だった?」
「うん。あっ」
少年はノーヴェを見る。
「はい! 受け身でした!」
「今さら遅えよ」
ノーヴェが呆れた声を出した。
ヌメロンが笑う。
アインハルトは、そのやり取りを少し離れた場所から見ていた。
高町家で、ヴィヴィオとなのは達がフェイトを迎えた声を思い出す。あの時、ヌメロンも迷わず「おかえり」と言っていた。
帰ってきた者へ、ここにいてよいと伝える言葉。
考えるより先に、口が動いた。
「おかえりなさい、ヌメロン」
彼がアインハルトを見る。
一瞬だけ驚いた顔をして、それからいつものように笑った。
「ただいま、アインハルト」
その返事は、道場へ戻ってきたことだけを指す言葉ではないように聞こえた。
「何か変わったことはあった?」
ヌメロンがノーヴェへ尋ねるより早く、少年が両手を上げた。
「アインハルト先生に、受け身を教えてもらった!」
「先生ではありません」
反射的に訂正する。
ヌメロンは鞄を壁際へ置くと、少年の前へしゃがんだ。
「見せてもらっていい?」
「できるよ!」
少年は畳へ座り、後ろ受け身を取った。顎を引き、頭をつけずに腕で畳を打つ。そのまま勢いよく起き上がろうとして、片膝をついた。
アインハルトが手を出しかける。
けれど少年は自分で踏みとどまり、立ち上がった。
「できた!」
「うん。上手だよ」
ヌメロンは少年の頭を撫でた。
「怖くなかった?」
「最初は怖かった。でも、アインハルト先生が何回も転んでくれたから」
「何回も?」
ヌメロンがアインハルトを見る。
「見本を示しただけです」
「立ったところからやる時も、ずっと手を添えてくれた」
「必要だったからです」
少年が自分で立てたことを確かめるように、ヌメロンはその足元を見る。それからアインハルトの前へ来た。
「ちゃんと、その子が立つところまで見てくれたんだね」
「私は、ただ受け身を――」
言葉の途中で、頭に手のひらが触れた。
大きな手が、金色の髪を崩さないように、ゆっくりと一度だけ撫でる。
「ありがとう、アインハルト」
身体が固まった。
拳を向けられた時なら、考える前に動ける。腕を取られても、重心を崩されても、次に何をすべきか分かる。
けれど、褒めるためだけに触れられた時、どう返せばよいのかは知らなかった。
「……子供扱いしないでください」
ようやく出たのは、抗議だった。
それでも、アインハルトはその手を払いのけなかった。
ヌメロンはすぐに手を離す。
「ごめん。嫌だった?」
「嫌とは言っていません」
即答してから、アインハルトはわずかに俯いた。
「ただ……慣れていないだけです」
「そっか」
ヌメロンは、それ以上触れなかった。
代わりに少年が、不思議そうに二人を見る。
「先生も、クオン先生に褒めてもらうの?」
「私は先生ではありません」
「でも、教えてくれたよ」
「それは……」
言葉に詰まる。
壁際で見ていたノーヴェが、堪えきれずに笑った。
「諦めろ、アインハルト。今日のお前は先生だ」
「ノーヴェまで」
「ボクも、そう思うよ」
ヌメロンまで加わった。
アインハルトは三人を順番に見て、反論をやめた。
「……今日だけです」
少年が嬉しそうに「はい」と答えた。
◇
年少の門下生を送り出した後、道場には三人だけが残った。
ノーヴェが稽古表へ今日の内容を書き込み、ヌメロンは届けてきた資料の控えを棚へしまっている。
アインハルトは畳を拭いた。
「デバイスの方は、どうでしたか」
「順調だよ。今日は追加の動作記録を渡して、出力調整について少し話した」
「私のいないところで、決まったことは?」
「ないよ。アインハルトに選んでもらう部分は残してある」
「そうですか」
アインハルトは安心して、雑巾を進めた。
ヌメロンが棚を閉じる。
「今日は、自分の稽古ができなかったね」
「受け身は取りました」
「ノーヴェに投げられたんだって?」
「見本のためです」
「なら、次はボクが相手をするよ」
「次ではなく、今からでも構いません」
「年少組の相手をした後でしょ。今日は終わり」
「まだ動けます」
「知ってるよ」
以前にも聞いた答えだった。
できるかどうかと、続けるべきかどうかは違う。今日、少年へ伝えたばかりのことを、自分だけ無視するわけにはいかなかった。
「……分かりました」
「その代わり」
ヌメロンは稽古表を見る。
「次も、手伝ってくれる?」
アインハルトは手を止めた。
「私でよければ」
「アインハルトがいいんだよ」
あまりにも自然に言われた。
高町家で、なのは達が彼について話していた言葉を思い出す。
今も昔も、無自覚でやるから質が悪い。
あの時は意味が分からなかった。今も全て分かったわけではない。
ただ、自分の名前を選ぶように言われると、胸の内側が少しだけ落ち着かなくなることは分かった。
「ほらな」
ノーヴェが小さく言った。
「何が?」
ヌメロンだけが分かっていない。
「何でもねえよ、兄貴」
ノーヴェは端末へ視線を戻した。
「来週の年少組は、同じ時間だ。アインハルト、来られるか?」
「はい」
「なら補助で名前入れとくぞ」
「補助……」
ノーヴェが稽古表へ一行を加える。
年少組、後ろ受け身。
師範、ノーヴェ。補助、アインハルト。
自分の名が、対戦相手としてではない場所に記された。
「やっぱり先生だね」
ヌメロンが言う。
「補助です」
「うん。じゃあ、アインハルト補助先生」
「その呼び方はやめてください」
今度はノーヴェも声を上げて笑った。
片づけを終え、アインハルトは棚を開けた。
予備の布は、朝と同じ場所にある。
以前は、自分の物がここに置かれていることだけが、戻ってくる理由のように思えた。
今は壁の稽古表にも、自分の名前がある。
アインハルトは布の端を整え、棚を閉じた。
「では、また来週」
「待ってるよ、アインハルト」
ヌメロンが答える。
「遅刻すんなよ、先生」
「補助です」
ノーヴェへ訂正し、道場を出る。
今日は誰にも勝っていない。
ヌメロンと拳を交えてもいない。
それでも、ここへ来る前には持っていなかったものが一つ増えていた。
棚に置いた物ではない。
誰かに与えられた称号でもない。
次にここへ来た時、自分を待っている小さな役目だった。