魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

53 / 54
第8話 三日だけの部屋

 アインハルトの膝の上で、小さな雪豹が顔を上げた。

 

「準備はいいですか、ティオ」

 

 呼びかけに応じて、アスティオンが短く鳴く。

 

 白い毛並みを模した身体は、見た目だけなら幼い動物と変わらない。けれど、その内側には八神はやてとリインフォース、アギトが組み上げた術式が収められている。

 

 覇王流を再現するだけではない。

 

 今のアインハルトの動きを覚え、これから変わっていく彼女と共に成長するためのデバイスだった。

 

「最初の三日間は、朝と夕方の記録を取る」

 

 ノーヴェが壁際の端末を確認する。

 

「変身前後の差と、休んだ後の術式の戻りを見る。無理に出力を上げる必要はねえ。普段どおり動け」

 

「分かりました」

 

 アインハルトは立ち上がり、ティオを畳へ下ろした。

 

 稽古着の上から装着したアスティオンが淡い光を放つ。身体強化の術式が通り、視線の高さが変わった。

 

 正面にはヌメロンがいる。

 

「最初は足運びだけにしよう」

 

「手合わせはしないのですか」

 

「アスティオンが、アインハルトの普通を覚えるところからだよ」

 

「私にとっては、手合わせも普段の動きです」

 

「じゃあ、足運びが安定したら一本だけ」

 

 ヌメロンが譲る。

 

 アインハルトは構えた。

 

 一歩、二歩。三歩目で角度を変える。リオと手合わせした日から試し続けている足だった。

 

 アスティオンが動きを読み取り、端末へ次々に数値を送る。ノーヴェが画面を見ながら、出力の偏りを確かめていた。

 

「右へ抜ける時だけ、二歩目が強いな」

 

「修正します」

 

「今すぐ変えんな。今日はいつもの癖を取る日だ」

 

「癖と分かっていても、そのまま動くのですか」

 

「直す前の動きも、ティオにはお前だって覚えさせるんだよ」

 

 アインハルトは納得しきれないまま、もう一度同じ足を踏んだ。

 

 ヌメロンは正面から動かない。拳を届かせるつもりで踏み込むと、三歩目で彼の姿が横へ外れた。

 

「今のも記録できた?」

 

 ヌメロンがティオへ尋ねる。

 

 雪豹の姿へ戻ったアスティオンが、端末の隣で鳴いた。

 

「返事をしているのですか」

 

「してると思うよ」

 

「内容まで分かるのですか」

 

「今のは、たぶんできたって」

 

「たぶん?」

 

「これから分かるようになるよ」

 

 ヌメロンは当然のように言った。

 

 アインハルトはティオを見る。彼女の新しい相棒もまた、これから互いを知っていく相手だった。

 

     ◇

 

 朝の記録が終わると、ノーヴェは三日分の予定を表示した。

 

 早朝に基礎出力。夕方に稽古後の変化。就寝前にはアスティオン単体の術式確認もある。

 

「これを三日間ですか」

 

「ああ。はやて達に送る最初の記録になる」

 

 アインハルトは自宅から道場までの移動時間を計算した。普段より早く起きれば間に合う。夕方も稽古後に帰宅し、翌朝また来ればよい。

 

「では、明日も同じ時間に来ます」

 

「待て」

 

 ノーヴェが止めた。

 

「三日だけ、道場の奥へ泊まってけ」

 

「泊まる?」

 

「早朝と寝る前に測るのに、毎日行き来する気かよ。時間がもったいねえ」

 

 アインハルトは道場の奥へ視線を向けた。

 

 廊下の先には、ヌメロンが暮らしている居住区がある。食事に招かれたことはあっても、その先へ入ったことはない。

 

「空いている部屋があるのですか」

 

「あるよ」

 

 ヌメロンが答える。

 

「前は物を置いてたけど、今は使ってない。ベッドと机くらいしかないけど」

 

「兄貴もここにいる。記録を取るなら、その方が楽だ」

 

「ですが」

 

 アインハルトはヌメロンを見る。

 

「あなたは、それでよいのですか」

 

「ボクは構わないよ。でも、泊まるかどうかはアインハルトが決めて」

 

 ノーヴェが提案しても、ヌメロンは決定に変えなかった。

 

「家から通いたいなら、それでもいい。朝はボクもここにいるから、来たらすぐ始められる」

 

 断っても困らせない言い方だった。

 

 だからこそ、アインハルトは自分で考えた。

 

 目的はアスティオンの調整であり、期間も決まっている。移動時間を稽古や休息へ使えるなら、合理的でもあった。

 

「……三日間だけ、お借りします」

 

「分かった」

 

 ヌメロンは笑った。

 

「じゃあ、三日間よろしくね」

 

 それだけだった。

 

 家族のような大げさな約束も、ここを自分の家だと思えという言葉もない。

 

 三日間、空いている部屋を借りる。

 

 アインハルトは、そう決めた。

 

     ◇

 

 一日目。

 

 夕方、自宅から必要な物を持って戻ると、ヌメロンが道場の入口で待っていた。

 

「荷物、それだけ?」

 

「三日分ですから」

 

 アインハルトの手にあるのは、着替えと洗面用具を入れた鞄一つだった。ティオはその上へ器用に乗っている。

 

「足りなかったら言って。道場に予備もあるから」

 

「問題ありません」

 

 案内された部屋は、聞いていたとおり簡素だった。

 

 窓際に机が一つ。壁際にはベッドと、小さな棚。新しい寝具が整えられているほかは、何も置かれていない。

 

 誰かの部屋を無理に空けた形跡もなかった。

 

「鍵は内側から掛けられるよ」

 

 ヌメロンは扉を開けた場所から先へ入らない。

 

「洗面所は廊下の突き当たり。浴室を使う時間は、アインハルトが先でいい?」

 

「普段どおりで構いません」

 

「普段はボク一人だから、決まってないんだ」

 

「では、食事の後にお借りします」

 

「分かった。夕飯ができたら呼ぶね」

 

 ヌメロンが扉を閉める。

 

 アインハルトは部屋の中央に立った。

 

「失礼します」

 

 誰もいない部屋へ、思わず口にする。

 

 ティオが鞄から飛び降り、先にベッドへ上がった。前足で布団を確かめ、枕の横に丸くなる。

 

「ティオ。そこは、まだあなたの場所と決まっていません」

 

 注意しても動かなかった。

 

 アインハルトは鞄を机へ置き、着替えを棚へ移す。

 

 三日分の衣服を入れても、棚のほとんどは空いたままだった。

 

 夕食は、道場で何度か食べたものと変わらなかった。

 

 ヌメロンが作り、アインハルトが向かいへ座る。けれど、今日は食べ終えても帰らない。

 

「味、薄くない?」

 

「ちょうどよいです」

 

「苦手なものは?」

 

「ありません」

 

「朝はパンとご飯、どっちがいい?」

 

「どちらでも」

 

「卵は?」

 

「何でも構いません」

 

 ヌメロンが箸を止めた。

 

「ボクが知りたいのは、食べられるかどうかじゃなくて、アインハルトがどっちを食べたいかだよ」

 

「どちらも食べられます」

 

「うん。それなら、明日の朝に食べたい方」

 

 アインハルトは少し考えた。

 

「……パンで」

 

「分かった」

 

 答えは一つ決めただけなのに、ヌメロンは満足そうに頷いた。

 

 食後の術式確認を終え、浴室を借りる。自分の家と違う場所に置かれた物を一つずつ確かめ、使ったものを元へ戻した。

 

 部屋へ戻る時、台所から水音が聞こえた。

 

 ヌメロンが食器を洗っている。

 

 廊下には明かりがあり、扉の向こうに誰かがいる。

 

 アインハルトは部屋へ入り、鍵を掛けた。

 

 ベッドに横になると、枕が少し低かった。二度ほど位置を直し、畳んだ布を下へ入れる。

 

 ティオが枕元で身体を丸めた。

 

 しばらくすると、廊下の足音が近づいた。

 

 扉が軽く叩かれる。

 

「アインハルト。起きてる?」

 

「はい」

 

「何か足りないものはない?」

 

「ありません」

 

「分かった。おやすみ、アインハルト」

 

 足音が遠ざかる。

 

 返事をする必要があるのか、一瞬迷った。

 

「……おやすみなさい、ヌメロン」

 

 廊下で足音が一度止まった。

 

「うん。おやすみ」

 

 もう一度返ってくる。

 

 自宅では聞こえない音だった。

 

 誰かが食器を片づける音。廊下を歩く音。隣の部屋の扉が閉まる音。

 

 静かではない。

 

 けれど、不快でもなかった。

 

 アインハルトは枕の位置をもう一度だけ直し、目を閉じた。

 

     ◇

 

 二日目。

 

 目を覚ますと、台所から焼いたパンの匂いがした。

 

 扉を開ける。まだ稽古着へ着替える前のヌメロンが、昨日と同じ擦り切れたエプロンを着けていた。

 

「おはよう、アインハルト」

 

「おはようございます」

 

「眠れた?」

 

「はい」

 

「枕、低かったでしょ」

 

 アインハルトは足を止めた。

 

「なぜ分かるのですか」

 

「朝、記録端末を確認した時、首の右側だけ少し固かったから」

 

「調整には影響しません」

 

「眠る方には影響するよ」

 

 ヌメロンはそう言いながら、皿へパンを置いた。

 

「今日、買い物に行こう。夕飯の材料も少なくなってるから」

 

「枕を買う必要はありません。あと二日です」

 

「見るだけ」

 

「買わないのですね」

 

「合うものがなかったら」

 

 条件つきだった。

 

 アインハルトは返事を保留し、朝食の席へ着いた。

 

 朝の記録を終えた後、アインハルトはティオの調整を受けるため、はやて達のもとへ向かうことになっていた。

 

 玄関で靴を履き、立ち上がる。

 

「では、行ってきます」

 

 言葉が先に出た。

 

 自宅を出る時には、誰にも言わない言葉だった。

 

 振り返ると、ヌメロンが自然に答える。

 

「いってらっしゃい、アインハルト。ティオも」

 

 ティオが彼の足元へ一度寄り、それからアインハルトを追ってきた。

 

 外へ出ても、先ほどの言葉が耳に残っていた。

 

     ◇

 

 午後、調整を終えて道場へ戻る。

 

 入口の戸へ手を掛けたところで、中から足音が近づいてきた。

 

 戸が開く。

 

「おかえり、アインハルト」

 

 ヌメロンがいた。

 

 前は、自分が帰ってきた彼を迎えた。

 

 今度は、自分が迎えられる側だった。

 

「……ただいま、ヌメロン」

 

 口にすると、胸の奥にあった小さな緊張がほどけた。

 

「調整はどうだった?」

 

「問題ありません。リインフォースから、明日の記録も見たいと」

 

「分かった。あとで一緒に確認しよう」

 

 ヌメロンはティオにも「おかえり」と声をかける。ティオは彼の周りを一度回り、道場の中へ入った。

 

 短い稽古を終えた後、二人で買い物へ出た。

 

 目的は夕食の材料と、足りない日用品だけだった。

 

 少なくとも、アインハルトはそう聞いていた。

 

「ヌメロン」

 

「何?」

 

「その肉は、何人分ですか」

 

 食料品店へ入って間もなく、ヌメロンが籠へ入れた包みを見て尋ねた。

 

「ウェンディ達が来ても足りるくらい」

 

「今日は来る予定があるのですか」

 

「ないよ」

 

「では、二人分でよいのでは」

 

「急に来るかもしれない」

 

「来なかった場合は?」

 

 ヌメロンは包みを見た。

 

「しばらく肉料理が続くね」

 

「戻してください」

 

「保存できるよ」

 

「二人分にしてください」

 

「ティオもいるから、二人と一匹分」

 

「ティオは食事を必要としません」

 

 ティオが買い物籠の中を覗き込み、小さく鳴いた。

 

「食べたそうだけど」

 

「そう見えるだけです」

 

 アインハルトは大きな包みを戻し、小さいものへ替えた。

 

 野菜も同じだった。ヌメロンは一袋で足りるものを二袋取り、日持ちするからと三種類の果物を入れる。

 

「普段から、この量を買っているのですか」

 

「ノーヴェ達が来る時は、もっと多いよ」

 

「一人の時は?」

 

「余ったものを食べるから、あまり買わないかな」

 

 ヌメロン自身のための食材は、ほとんど選んでいないらしい。

 

 アインハルトは籠の中身を半分ほど戻した。

 

 食料品を選び終えると、ヌメロンは生活用品の売り場へ向かった。

 

「夕食の材料だけではなかったのですか」

 

「枕を見るだけ」

 

 寝具売り場で、店員に勧められた枕を一つずつ確かめる。

 

 アインハルトが高さの合うものを選ぶより先に、ヌメロンは三つを籠へ入れた。

 

「なぜ三つも入れるのですか」

 

「一晩ずつ試せるよ」

 

「残りは一晩です」

 

「なら、今夜途中で替えれば三つ試せる」

 

「眠りの質を下げる提案をしないでください」

 

「合わなかったら困るでしょ」

 

「三日間だけです」

 

「うん。順番に試せば、一番合うものが分かる」

 

「そういう意味ではありません」

 

 アインハルトは二つを棚へ戻した。

 

 一つ残したのは、昨夜と同じ眠り方をすれば、翌日の計測に影響する可能性があるからだ。そう自分へ説明した。

 

「これは?」

 

 次にヌメロンが手に取ったのは、上質な室内着だった。

 

「必要ありません」

 

「持ってきたもの、一着だけだったよね」

 

「洗い替えはあります」

 

「でも、これは肌触りがいいよ」

 

「値札を見ましたか」

 

「見たよ」

 

「高価だと思わないのですか」

 

「長く使えるなら、そうでもないよ」

 

「三日間です」

 

「次に泊まる時も使える」

 

 ヌメロンは、何の疑いもなく次があるものとして話していた。

 

 アインハルトは一瞬だけ返事を忘れた。

 

「……戻してください」

 

「気に入らなかった?」

 

「必要ないと言っています」

 

「分かった」

 

 残念そうな顔はしたが、彼は素直に戻した。

 

 その後も、アスティオン用の整備布、予備の稽古着、足に合いそうな室内履きが籠へ入っては、アインハルトによって棚へ戻された。

 

「あなたは、買う前に必要かどうかを考えないのですか」

 

「必要だと思ったものしか入れてないよ」

 

「三日間の滞在に、予備の稽古着は必要ありません」

 

「でも毎日稽古するよ」

 

「自分で持ってきています」

 

「一着だけでしょ」

 

「洗います」

 

「その間に着るものが」

 

「あります」

 

 同じやり取りを何度繰り返したか分からない。

 

 ようやく会計へたどり着いた時、籠の中身は最初の半分以下になっていた。

 

 それでも、表示された合計を見て、アインハルトは目を疑った。

 

「まだ高すぎます」

 

「そう?」

 

「そう、ではありません。三日間の滞在に支払う金額ではありません」

 

「食材はこれからも使えるし、枕も残るよ」

 

「私は三日後に帰ります」

 

「うん。だから残ったものは、次に来た時に使えばいい」

 

 ヌメロンは支払いを済ませた。

 

 金額を気にしていないというより、アインハルトのために使うことを問題だと思っていない顔だった。

 

 店を出る前、アインハルトは一度だけ生活用品売り場へ戻った。

 

 ヌメロンが首を傾げる。

 

「何か忘れた?」

 

「待っていてください」

 

 アインハルトは、先ほどから気になっていたものを手に取った。

 

 派手な装飾のない、丈夫な濃色のエプロン。

 

 値札を確認し、高すぎないことも確かめる。

 

「それ、誰の?」

 

「必要なものです」

 

 彼女はそれ以上説明せず、自分で会計を済ませた。

 

     ◇

 

 道場へ戻ると、ノーヴェが稽古表を整理していた。

 

 両手に袋を提げたヌメロンを見るなり、眉を寄せる。

 

「兄貴。まさか、全部買ったんじゃねえだろうな」

 

「アインハルトが半分くらい戻してくれたよ」

 

「半分でも多いんだよ」

 

 ノーヴェは袋の一つを開けた。

 

「二人分の買い物で、何でこの量になる」

 

「ウェンディ達が来るかもしれないから」

 

「連絡あったのか?」

 

「ないよ」

 

「じゃあ来ねえよ」

 

「急に来る時もあるよ」

 

「その時に買い足せ」

 

 ノーヴェは深く息を吐いた。

 

 アインハルトは尋ねる。

 

「ヌメロンは、いつもこのような買い方をするのですか」

 

「ああ。値札を見ずに品質だけ見て、足りなきゃ多めに買う。払えるかどうかじゃなく、必要かどうかの話だって何度言っても聞きやしねえ」

 

「必要なものを選んでるよ」

 

「お前の『必要』は信用できねえんだよ」

 

 ノーヴェはヌメロンが着ている服の袖を摘まんだ。

 

 目立たない場所が丁寧に繕われている。

 

「こいつ、自分の服は破れても直して着るくせに、人に使う金だけ上限がねえんだ」

 

「まだ着られるものを捨てる必要はないでしょ」

 

「だったら、アインハルトの室内着も本人が持ってるならいらねえだろ」

 

「着心地のいいものがあったから」

 

「買ったのですか」

 

 アインハルトが問う。

 

「戻したよ」

 

「私が戻させました」

 

「よくやった」

 

 ノーヴェが真剣な顔で頷いた。

 

「今度から兄貴と買い物に行く時は、会計前に全部確認しろ」

 

「次も私が行くのですか」

 

「一回止められた奴は貴重なんだよ」

 

 ヌメロンだけが納得していない顔をしている。

 

 夕食の準備が始まる前に、アインハルトは自分で買った包みを差し出した。

 

「ヌメロン。これを」

 

 包みを開き、エプロンを見た彼が瞬きをする。

 

「ボクに?」

 

「今使っているものは、端が擦り切れています」

 

「まだ使えるよ」

 

「必要経費です」

 

「さっき、必要経費という言葉を信用してはいけないと言っていませんでしたか」

 

「あなたが言う場合だけです」

 

 ノーヴェが吹き出した。

 

 ヌメロンは古いエプロンと新しいものを見比べる。

 

「ありがとう、アインハルト。大事に使うよ」

 

「使うために買ったのです。大事にしまっておかないでください」

 

「うん。今日から使う」

 

 その場で新しいエプロンへ替えた。

 

 濃い色は、彼の服によく合っていた。

 

「似合う?」

 

 なぜ自分へ尋ねるのか分からず、アインハルトは少しだけ視線を逸らす。

 

「似合わないものは選びません」

 

「そっか」

 

 ヌメロンが嬉しそうに笑った。

 

 ノーヴェは二人を見比べ、また何か言いたそうな顔をしたが、口には出さなかった。

 

 その夜の夕食は、アインハルトが量を決めた食材で作られた。

 

 ヌメロンが新しいエプロンを着け、アインハルトが皿を並べる。ティオは空いた椅子の上から、二人の動きを見ていた。

 

「買い物、どうだった?」

 

「疲れました」

 

「稽古より?」

 

「あなたから商品を戻させる方が難しかったです」

 

「でも、枕は買えたよ」

 

「一つだけです」

 

「今夜は眠れるといいね」

 

 それを言われると、買った意味を否定できない。

 

 アインハルトは返事の代わりに、ヌメロンの皿へ料理を一つ取り分けた。

 

 彼が自分の分だけ少なくしていたことに気づいたからだった。

 

     ◇

 

 三日目。

 

 新しい枕は、悔しいことに身体へ合った。

 

 目を覚ました時、首に昨日のような固さはない。ティオは枕の端へ顎を乗せ、アインハルトより先に使い心地を確かめていた。

 

「ティオ。それは私の枕です」

 

 抱き上げると、短い抗議の声を出す。

 

 扉を開ける前から、台所の音が聞こえた。

 

「おはようございます」

 

「おはよう、アインハルト」

 

 ヌメロンは新しいエプロンを着けていた。

 

 卓上にはパンと卵料理が並んでいる。昨日、アインハルトが選んだ朝食だった。

 

「枕はどうだった?」

 

「問題ありません」

 

「合ってた?」

 

「……はい」

 

「よかった」

 

 彼は、それ見たことかとは言わなかった。

 

 朝食を終え、最後の記録を取る。

 

 初日には偏っていた三歩目の出力を、ティオが先に補助した。アインハルトが身体の向きを変えるよりわずかに早く、術式が足元へ集まる。

 

「今、ティオが合わせました」

 

 アインハルトが足を止める。

 

「うん。アインハルトが右へ行くって分かったんだね」

 

 ヌメロンが答える。

 

 ティオが得意そうに鳴いた。

 

「まだ三日です」

 

「三日も一緒に動いたから」

 

 アインハルトはティオを抱き上げた。

 

 出会ったばかりの相手でも、同じ時間を過ごせば、少しずつ呼吸を覚えていく。

 

 それはデバイスだけの話ではないように思えた。

 

 午前の稽古では、前回受け身を教えた少年が来た。

 

「アインハルト先生!」

 

「補助です」

 

「今日は立ったところからやっていい?」

 

「まず、前回の確認をします」

 

 アインハルトは迷わず隣へ座った。

 

 少年と一緒に背を丸め、畳を打つ。頭が上がっていることを確かめてから、立った姿勢へ進ませた。

 

 ヌメロンは口を挟まず、少し離れた場所から二人を見ていた。

 

 昼前、三日分の記録がそろった。

 

 ノーヴェが端末からはやて達へ送信する。

 

「これで最初の調整は終わりだ。追加があれば連絡が来る」

 

「はい」

 

「三日間、お疲れさま」

 

 ヌメロンが言った。

 

 予定どおり終わった。

 

 問題なく、正しく、三日間で。

 

     ◇

 

 夕方、アインハルトは借りていた部屋で荷物をまとめた。

 

 三日分の衣服を鞄へ戻す。洗面用具と、ティオの整備用品も入れる。

 

 持ってきた時より少しだけ荷物が増えていた。

 

 新しい枕だけは入らない。

 

「それは置いていっていいよ」

 

 開いた扉の外から、ヌメロンが言った。

 

「ですが、私のために買ったものです」

 

「次に来た時、使えるでしょ」

 

 買い物の時と同じ言葉だった。

 

「ほかの誰かが泊まる時にも使えるし」

 

 アインハルトは枕を見た。

 

 自分だけのものとして残されるわけではない。それが当然だった。この部屋は借りただけで、三日間はもう終わる。

 

「分かりました」

 

 枕をベッドの上へ戻す。

 

 棚は空になった。

 

 初日に来た時と、ほとんど同じ部屋へ戻っている。

 

「寝具は、そのままでいいですか」

 

「うん。あとでボクが洗うよ」

 

「自分で使ったものです」

 

「じゃあ、一緒に外そうか」

 

 二人でシーツを外し、畳んだ。

 

 ヌメロンは引き止めなかった。

 

 もう一日だけ記録を取ろうとも、ここから通えばいいとも言わない。三日間というアインハルトの言葉を、そのまま守っている。

 

 それが彼の優しさだと分かっていた。

 

 分かっているのに、部屋が空へ戻っていくことを寂しいと思った。

 

「忘れ物はない?」

 

「ありません」

 

「夕飯、食べていく?」

 

「今日は帰ります」

 

 一度、自分の家へ戻るべきだと思った。

 

「分かった。少し持って帰る?」

 

 ヌメロンは既に、保存容器へ料理を取り分けていた。

 

「用意していたのですか」

 

「アインハルトが帰ってから作らなくていいように」

 

「帰ると言う前から?」

 

「三日間だけって聞いてたから」

 

 最後まで、彼は勝手に続きを決めなかった。

 

 アインハルトは容器を受け取り、鞄へ入れた。

 

「ありがとうございます」

 

「家まで送るよ」

 

「一人で帰れます」

 

「知ってる」

 

 いつもの答えだった。

 

「でも、荷物があるから途中まで」

 

「では、お願いします」

 

 道場を出る前、アインハルトは居住区を振り返った。

 

 台所には、自分が選んだエプロンが掛かっている。

 

 部屋には、自分に合う枕が残っている。

 

 三日前にはなかったものだった。

 

「どうしたの?」

 

「いいえ」

 

 アインハルトは前を向く。

 

「行きましょう、ヌメロン」

 

     ◇

 

 自宅の前まで来ると、ヌメロンは鞄を返した。

 

「三日間、お疲れさま」

 

「ヌメロンも。記録を取っていただき、ありがとうございました」

 

「ティオとも、もう合ってきたね」

 

「はい。まだ始まったばかりですが」

 

「これからだね」

 

 ティオがアインハルトの足元で鳴いた。

 

「明日は、道場へ来る?」

 

「稽古がありますから」

 

「じゃあ、待ってるよ」

 

「はい。また明日」

 

 ヌメロンが帰っていく。

 

 その背中が角を曲がるまで見送ってから、アインハルトは自宅の扉を開けた。

 

 中は、出ていった時のままだった。

 

 物の位置も、空気も変わっていない。

 

 アインハルトは靴を脱ぎ、暗い部屋へ入る。

 

「ただいま」

 

 返事はない。

 

 ティオだけが、足元で小さく鳴いた。

 

 三日前まで、それが普通だった。

 

 誰にも言わずに出かけ、誰にも迎えられずに帰る。静かな部屋で一人分の食事を取り、眠る前に廊下の音を気にすることもない。

 

 鞄から、ヌメロンにもらった容器を取り出す。

 

 夕食を作らなくてよいことよりも、彼が自分の帰った後のことまで考えていたことが、胸に残った。

 

 アインハルトは居間の明かりをつけた。

 

 広くなったわけではない。

 

 それでも、自分の部屋が以前より少しだけ広く感じられた。

 

「三日間だけです」

 

 誰に言うでもなく、確認する。

 

 ティオが首を傾げた。

 

 アインハルトは端末を開き、明日の稽古予定を見る。

 

 年少組、後ろ受け身。

 

 師範、ノーヴェ。補助、アインハルト。

 

 帰る場所は静かでも、明日、自分を待っている場所はある。

 

 それだけで十分なはずだった。

 

 なのに、道場の奥に残してきた枕と、台所に掛かった新しいエプロンを思い出す。

 

 三日間で終わったのは、アスティオンの最初の調整だけだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。