魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

54 / 54
第9話 帰ってもいいですか

 目を覚ましても、パンの焼ける匂いはしなかった。

 

 廊下を歩く音も、台所から聞こえる水音もない。

 

 アインハルトはベッドの上で身体を起こした。

 

 自分の家なのだから、何も聞こえないのが普通だった。

 

 足元では、ティオがまだ丸くなっている。目を開けた雪豹は、アインハルトを見ると小さく鳴いた。

 

「おはようございます、ティオ」

 

 抱き上げ、床へ下ろす。

 

 台所へ行き、一人分の朝食を用意した。パンを焼き、卵を一つ使う。三日前までと同じ手順なのに、食卓へ運んだ皿が少なく見えた。

 

 味が変わったわけではない。

 

 足りないものもない。

 

「問題ありません」

 

 誰に聞かれたわけでもないのに、口にしていた。

 

 ティオが椅子の上から首を傾げる。

 

 アインハルトは食事を終え、稽古の支度を始めた。

 

 今日は年少組の補助に入る。壁の稽古表には、自分の名が書かれている。

 

 道場へ行けば、待っている者がいる。

 

 それで十分なはずだった。

 

     ◇

 

「おはよう、アインハルト」

 

 道場の戸を開けると、ヌメロンが畳を拭いていた。

 

「おはようございます」

 

「今日は早いね」

 

「補助を任されていますから」

 

「まだ誰も来てないよ」

 

「準備することはあります」

 

 アインハルトは靴を揃え、中へ入った。

 

 ヌメロンの挨拶は正しい。

 

 三日前までのように、「おかえり」とは言わなかった。それも当然だった。今日はここから出かけ、ここへ戻ってきたわけではない。

 

 それなのに、胸のどこかへ小さな隙間ができたように感じた。

 

 ティオが床へ降り、道場の奥へ歩き出す。

 

「ティオ。そちらではありません」

 

 呼び止めると、雪豹は居住区へ続く廊下の前で振り返った。

 

「今日は道場です」

 

 ティオはもう一度廊下を見てから、アインハルトのもとへ戻った。

 

「部屋に何か忘れた?」

 

 ヌメロンが尋ねる。

 

「いいえ。忘れ物はありません」

 

「そっか」

 

 彼はそれ以上聞かず、畳を拭く手を動かした。

 

 アインハルトも雑巾を取り、反対側から始める。

 

「朝食は食べた?」

 

「はい」

 

「何を?」

 

「パンと卵です」

 

「昨日と同じだね」

 

「自分で作りました」

 

「上手にできた?」

 

「焼くだけです」

 

「それでも、焦がす人はいるよ」

 

 ヌメロンが笑う。

 

 自分でできることを確認されているようには聞こえなかった。ただ、何を食べたか知りたいだけなのだと、三日間で分かっていた。

 

「ヌメロンは?」

 

「ボク?」

 

「朝食です。食べたのですか」

 

「余ってたパンを一枚」

 

「卵は?」

 

「焼く時間がなくて」

 

 アインハルトは手を止めた。

 

「私より早く来ていたのに?」

 

「畳を拭きたかったから」

 

「食事を減らしてまで行うことではありません」

 

「でも一枚は食べたよ」

 

「一枚しか、でしょう」

 

 ヌメロンは返事をしなかった。

 

 台所にいれば、自分が卵を一つ増やせた。彼の皿だけ少なくなっていることにも気づけた。

 

 そう考えてから、アインハルトは自分が何を前提にしているのか気づいた。

 

「どうしたの?」

 

「何でもありません」

 

 再び畳を拭く。

 

 雑巾を動かす手が、先ほどより少しだけ速くなった。

 

     ◇

 

 年少組の稽古が始まると、考える暇はなくなった。

 

 前に受け身を教えた少年は、道場へ入るなりアインハルトの前へ来た。

 

「アインハルト先生、今日は立ってやるんだよね?」

 

「補助です。まず、座った状態から確認します」

 

「前もできたよ」

 

「今日もできることを確認してからです」

 

 少年は不満そうな顔をしたものの、畳へ座った。

 

 顎を引き、背を丸める。腕で畳を打ち、頭をつけずに起き上がった。

 

「できた!」

 

「はい。では、もう一度」

 

「できたのに?」

 

「一度できたことと、いつでもできることは違います」

 

 ノーヴェが横を通りながら言う。

 

「お前、教え方が兄貴に似てきたな」

 

「どこがですか」

 

「できたところはちゃんと見て、その次をやらせるとこだよ」

 

 少年が二度目の受け身を取る。

 

 今度は起き上がる時に足がもつれた。アインハルトは手を出しかけたが、少年が自分で立つまで待った。

 

「今のは?」

 

「受け身はできています。ただ、立つ時に足を急ぎました」

 

「じゃあ、もう一回」

 

「少し休んでからです」

 

「まだできるよ」

 

「知っています」

 

 口にしてから、アインハルトは道場の奥を見た。

 

 ヌメロンが、別の門下生の構えを直している。

 

 できることと、続けるべきことは違う。

 

 彼に何度も言われた言葉が、今は自分の声で誰かへ渡っている。

 

 稽古の終わり、少年は迎えに来た家族のもとへ走っていった。

 

「今日は立ったところからできたよ!」

 

 大きな声で報告する。

 

 手を引かれ、何度も道場を振り返りながら帰っていった。

 

 アインハルトは戸口で見送った。

 

「寂しい?」

 

 隣に立ったヌメロンが尋ねる。

 

「なぜですか」

 

「あの子が帰ったから」

 

「次の稽古でまた会えます」

 

「うん」

 

「待っていれば、戻ってきます」

 

 答えながら、自分の言葉が胸へ返ってきた。

 

 待っている者がいるから、帰ることができる。

 

 昨日の夜、自分を待っていたのは静かな部屋だけだった。

 

     ◇

 

 午後の稽古で、アインハルトはヌメロンと向かい合った。

 

 ティオを装着し、構える。

 

「今日は何を試す?」

 

「三歩目を。ティオの補助に頼らず、自分で出力を合わせます」

 

「分かった」

 

 礼をして、踏み込む。

 

 一歩目で距離を詰め、二歩目でヌメロンの重心を見る。三歩目を右へ置くはずだった。

 

 けれど、視界の端に居住区へ続く廊下が入った。

 

 ほんの一瞬、足が遅れた。

 

 ヌメロンの掌が手首へ触れる。軌道を外され、身体が前へ流れた。

 

 倒れる前に受け身を取り、畳へ落ちる。

 

「そこまで」

 

 ヌメロンは追わなかった。

 

 アインハルトはすぐに立ち上がる。

 

「もう一度お願いします」

 

「今、何を見たの?」

 

「あなたの足です」

 

「違うよ」

 

 静かに否定された。

 

「二歩目まではボクを見てた。でも、その後は別のところを見た」

 

「見ていません」

 

「じゃあ、何を考えた?」

 

「何も」

 

「それなら、休もう」

 

「まだできます」

 

「知ってる」

 

 また同じ言葉だった。

 

 ヌメロンは構えを解き、水差しの方へ歩く。

 

 アインハルトは拳を握った。

 

 続ければ、次はできる。足を置く場所も、ヌメロンが外れる方向も分かっている。

 

 それでも、彼は待った。

 

 答えを聞き出そうともせず、できるまで拳を受け続けようともしない。

 

 アインハルトはティオを解除し、彼の隣へ座った。

 

「夕食、食べていく?」

 

 水を渡しながら、ヌメロンが尋ねる。

 

「今日は帰ります」

 

「分かった」

 

 昨日と同じ返事だった。

 

 引き止めない。

 

 そのことに安心し、同時に物足りなさを覚える。

 

「ヌメロン」

 

「うん?」

 

 今言うべきなのか、分からなかった。

 

 自宅で一人でも暮らせる。食事も作れる。朝起きて、道場へ通うこともできる。

 

 できないから助けを求めるのではない。

 

 それでも、三日間を知る前と同じ生活へ戻りたいとは思わなかった。

 

「以前お借りした部屋ですが」

 

「何か忘れてた?」

 

「いいえ」

 

 アインハルトは一度、言葉を止めた。

 

「もう少し、借りてもいいですか」

 

 ヌメロンは驚いた顔をしなかった。

 

「もう少しって、どのくらい?」

 

「分かりません」

 

「次の調整まで?」

 

「違います」

 

「大会が終わるまで?」

 

「それも、分かりません」

 

 期限を決められない。

 

 ヌメロンはすぐに答えず、アインハルトの言葉を待った。

 

「期限を決めないなら、泊まるんじゃなくて、一緒に暮らすことになるよ」

 

「はい」

 

「アインハルトは、ボクと暮らしたい?」

 

 真っすぐ尋ねられる。

 

 同情も、心配も先に置かれていない。

 

 彼が確認しているのは、アインハルト自身の望みだった。

 

「一人でいることが嫌になったわけではありません」

 

「うん」

 

「自分の家でも、これまでどおり暮らせます」

 

「分かってるよ」

 

「食事も、洗濯もできます。朝も、一人で起きられます」

 

「アインハルトが自分でできることは、三日間で分かった」

 

 ヌメロンは微笑む。

 

「できることを、ボクに証明しなくていいよ」

 

 アインハルトは膝の上で拳を開いた。

 

「それでも私は……あなたと食事をして、道場へ行って、またあの場所へ帰りたいと思いました」

 

「うん」

 

「借りる、という言い方は違うのかもしれません」

 

 居住区へ続く廊下を見る。

 

 あの先に、自分で選んだ枕がある。台所には、ヌメロンへ選んだエプロンが掛かっている。

 

「あの部屋へ、帰ってもいいですか」

 

 ヌメロンは、今度はすぐに答えた。

 

「うん」

 

 穏やかな声だった。

 

「ボクも、アインハルトに帰ってきてほしい」

 

「では、あの部屋を――」

 

「アインハルトの部屋にしよう」

 

 借りるための部屋ではない。

 

 次の誰かが使うかもしれない部屋でもない。

 

 その言葉を胸の中で確かめていると、ヌメロンが何かに気づいたように手を打った。

 

「じゃあ、これからボクがアインハルトのパパになるんだね」

 

「……なぜ、そうなるのですか」

 

「一緒に暮らす大人だから」

 

「師範ではいけないのですか」

 

「師範は道場にいる時だけでしょ」

 

「では、保護者で」

 

「パパの方が短いよ」

 

「文字数の問題ではありません」

 

「兄貴」

 

 背後から、低い声がした。

 

 振り返ると、ノーヴェが腕を組んで立っていた。

 

「いつから聞いていたのですか」

 

 アインハルトが尋ねる。

 

「大事な話の途中で入るわけにいかねえだろ。パパとか言い出したところで我慢できなくなった」

 

「いいところだったのに」

 

「台無しにしたのお前だよ」

 

 ノーヴェはヌメロンの前へ来る。

 

「お前、昔も同じように勝手に兄を名乗ったよな」

 

「勝手じゃないよ」

 

「『今日からボクは君たちのお兄ちゃんだよ』って、誰の許可も取らずに決めただろうが」

 

「でも今は、みんなボクをお兄ちゃんだと思ってる」

 

「反対する暇もなく世話を焼き始めたんだろ」

 

「ノーヴェも兄貴って呼んでくれるでしょ」

 

「今その話は関係ねえ!」

 

 ヌメロンは不思議そうに首を傾げた。

 

 アインハルトは二人のやり取りを見ていた。

 

 ノーヴェが彼を兄と呼ぶようになった始まりは、もっと重大な出来事だと思っていた。

 

 けれど実際は、ヌメロンが勝手に名乗り、帰りを待ち、食事を作り、怪我をすれば手当てをしているうちに、それが本当になったらしい。

 

「アインハルト」

 

 ヌメロンが向き直る。

 

「冗談だよ。呼び方を決めるのはアインハルトだから」

 

「そうしてください」

 

「ヌメロンでも、師範でも、好きなように呼んで」

 

「……今は、ヌメロンでお願いします」

 

「うん。今はね」

 

 今は、という言葉へ何か言い返そうとしたが、ノーヴェが先に口を開いた。

 

「住むって決めたなら、先にやることがあるぞ」

 

「荷物を運ぶことですか」

 

「その前だ。今の住居をどうするか、学校や連絡先の登録をどうするか。アインハルトが未成年なのも忘れんな」

 

 ノーヴェはヌメロンを見る。

 

「兄貴。パパを名乗るなら、冗談だけで済ませるなよ」

 

「分かってる」

 

 先ほどまで笑っていたヌメロンの声が変わった。

 

「必要な手続きは、アインハルトと一緒に確認する。今の家も、すぐに手放さなくていい。戻りたくなった時に戻れるようにしておこう」

 

「戻ることを考えるのですか」

 

「選べるようにするんだよ」

 

 ここへ来る選択をしたからといって、ほかの場所を消す必要はない。

 

「全部を今日決めなくていい。まず、必要なものだけ運ぼう」

 

「はい」

 

 ヌメロンは最後まで、帰る道を塞がなかった。

 

 だからアインハルトも、自分の足でここを選べるのだと思った。

 

     ◇

 

 必要なものだけ。

 

 そう決めたはずだった。

 

「兄、こっちの箱も運ぶっスよ!」

 

「ウェンディ、それは台所用品です。今日は必要ありません」

 

「でも、あとで取りに来るなら二度手間っス」

 

「まず部屋に入る量を見てからです」

 

 数日後の休日。

 

 アインハルトの家には、ヌメロンとノーヴェだけでなく、ウェンディとディエチまで来ていた。

 

 引っ越しを聞きつけたウェンディが、自分から手伝いを申し出たらしい。ディエチは、彼女一人では余計な物まで運ぶからと同行した。

 

「それで、兄がパパになるって本当っスか?」

 

 ウェンディが箱を抱えたまま尋ねる。

 

「誰から聞いたのですか」

 

「ノーヴェからっス」

 

「言ってねえ。兄貴がまた勝手に名乗ったって話をしただけだ」

 

「ということは、私達は叔母さんになるのかな」

 

 ディエチが真面目に考える。

 

「ならねえよ!」

 

 ノーヴェが即座に否定した。

 

「関係としては近いっスよ。ノーヴェ叔母さん」

 

「その呼び方やめろ!」

 

 ウェンディが笑いながら逃げ、ノーヴェが追う。

 

 ディエチは二人を見送り、アインハルトへ向き直った。

 

「嫌なら、私達にも言ってね。呼び方も、手伝うことも」

 

「はい」

 

「兄は、嬉しいと全部やろうとするから」

 

 少し離れたところでは、ヌメロンが本棚の寸法を測っていた。

 

「ヌメロン。何をしているのですか」

 

「今の棚だと、アインハルトの本が全部入らないと思って」

 

「全部は運びません」

 

「なら、向こうの部屋にも新しい棚を」

 

「買いません」

 

「まだ値段の話はしてないよ」

 

「必要かどうかの話です」

 

 ディエチが小さく笑った。

 

「もう止め方を覚えたんだね」

 

「覚えざるを得ませんでした」

 

 アインハルトは自分の本を見直した。

 

 覇王流の資料、学校で使うもの、日々の稽古記録。すぐに必要になる分だけを箱へ入れる。

 

 ヌメロンは、何を持っていくべきか決めなかった。

 

「これは?」

 

「置いていきます」

 

「こっちは?」

 

「持っていきます」

 

 尋ね、答えを聞き、そのとおりに箱へ収める。

 

 アインハルトが暮らしてきた部屋を見ても、寂しそうだとは言わなかった。物が少ないとも、もっと頼ればよかったとも言わない。

 

 ただ、彼女が選んだものを運んだ。

 

「ヌメロン」

 

「何?」

 

「そこへ置いてある稽古記録もお願いします」

 

「全部?」

 

「はい。これからも使いますから」

 

「分かった」

 

 彼が箱へ入れる。

 

 最後に、アインハルトは洗面所から日用品を持ってきた。

 

 三日分ではない。

 

 使いかけのものも、予備も持っていく。

 

 ティオは空になり始めた棚を見上げてから、アインハルトの鞄へ飛び乗った。

 

「ティオも準備ができたようです」

 

「じゃあ、一度運ぼうか」

 

 ヌメロンが箱を持ち上げる。

 

「それと、アインハルト」

 

「何でしょう」

 

「この家の鍵は持っててね」

 

「ですが、道場で暮らすなら」

 

「ここもアインハルトの家だった場所だから。返すかどうかは、急がなくていい」

 

 アインハルトは鍵を見た。

 

 残しておくことは、迷っていることではない。

 

 帰れる場所が二つあってもよいのだと、ヌメロンは言っている。

 

「分かりました」

 

 鍵を鞄へ入れた。

 

     ◇

 

 道場へ戻ると、部屋の前に大きな荷物が置かれていた。

 

 寝具一式、新しい机、収納棚。どれも三日前にはなかったものだ。

 

 アインハルトは隣にいるヌメロンを見た。

 

「これは何ですか」

 

「部屋に必要なもの」

 

「机と棚は、既にあります」

 

「長く使うなら、もう少し大きい方が」

 

「相談なく高価な物を買わないでください」

 

「まだ最初の決まりを作ってなかったから」

 

「決める前ならよいという意味ではありません」

 

 ノーヴェが荷物の伝票を確認する。

 

「返品できるな。机と棚は返す。寝具は?」

 

「枕だけで十分です」

 

「ベッドに合う大きさなんだよ」

 

 ヌメロンが抵抗する。

 

 ディエチが寝具へ触れ、品質表示を確認した。

 

「これは長く使えると思う。アインハルトが気に入れば、残してもいいんじゃないかな」

 

 全員がアインハルトを見る。

 

 自分の部屋に置くものを、自分で選ぶ。

 

 彼女は寝具を確かめた。色は落ち着いていて、触れた感触も悪くない。

 

「寝具だけ、使います」

 

「分かった」

 

 ヌメロンが嬉しそうに答えた。

 

「ただし、次からは先に相談してください」

 

「はい」

 

「返事が軽いっスね」

 

 ウェンディが笑う。

 

「アインハルトさん、端末で承認を取るようにした方がいいっスよ。兄が買い物する時、一定額を超えたら通知が来るように」

 

「それいいな」

 

 ノーヴェが賛成する。

 

「ボクの買い物なのに?」

 

「前科がありすぎるんだよ」

 

「検討します」

 

 アインハルトが真剣に答えると、ヌメロンは少し困った顔をした。

 

 部屋へ荷物を入れる。

 

 机には学校の資料を置き、棚には稽古記録と衣服を収めた。空いた場所はまだ多い。それでも、三日間だけ泊まった時とは違う。

 

 ティオの整備台を窓際へ置く。雪豹は新しい寝具の上へ飛び乗り、買い物で選んだ枕へ顎を乗せた。

 

「やはり、その枕が目的だったのですね」

 

 ティオは目を閉じ、聞こえないふりをした。

 

 ウェンディが持ってきた飾りの半分は、アインハルトが断った。残ったのは、小さな時計と、机に置ける照明だけだった。

 

「これで終わりっスか?」

 

「十分です」

 

「壁が寂しくないっス?」

 

「必要になれば、自分で選びます」

 

「その方がいいよ」

 

 ヌメロンが言う。

 

「ここはアインハルトの部屋だから」

 

 他人が完成させるのではなく、アインハルト自身がこれから作っていく部屋。

 

 彼女は棚に残った空きを見て、頷いた。

 

「はい。私の部屋です」

 

     ◇

 

 荷物を運び終えると、全員で居間へ集まった。

 

 ノーヴェが端末を卓上へ置く。

 

「一緒に暮らすなら、最初に決めとけ。後から揉める方が面倒だ」

 

「生活の決まりですか」

 

「そうだ。まず、遅くなる時は連絡する。これは二人ともだ」

 

「分かりました」

 

「うん」

 

「食事の希望を聞かれた時、『何でもいい』で済ませない」

 

 ヌメロンが付け足す。

 

 アインハルトは彼を見る。

 

「毎回決めるのですか」

 

「食べたいものがある時だけでいいよ。でも、何も考えずに何でもいいって言うのは禁止」

 

「では、ヌメロンも自分の分を減らして私へ回さないでください」

 

「足りない時は?」

 

「最初から二人分作ってください」

 

「それも入れよう」

 

 ディエチが記録する。

 

「兄は相談なく高い物を買わない」

 

「高い、の基準は?」

 

「アインハルトさんが高いと思ったらっス」

 

「それだと全部止められない?」

 

「必要なものなら止めません」

 

「昨日、室内着を戻したよね」

 

「必要ありませんでした」

 

「ほら」

 

「兄貴が聞かずに買うのが悪い」

 

 ノーヴェが切り捨てた。

 

「アインハルトも、稽古後に一人で無理な追加練習をしない」

 

「無理かどうかは、私が判断します」

 

「その判断が信用できねえから決めるんだよ」

 

「では、ヌメロンかノーヴェに伝えてから行います」

 

「よし」

 

「ボクの決まりだけ多くない?」

 

 ヌメロンが一覧を見る。

 

「これまで守れていなかった数です」

 

 アインハルトが答えると、ウェンディが卓上へ伏せて笑った。

 

「もう完全に兄の扱いを分かってるっス」

 

「アインハルト、ボクよりノーヴェ達の言うことを信じてない?」

 

「買い物については、そうです」

 

「限定してるだけ優しいな」

 

 ノーヴェまで笑う。

 

 ヌメロンは不満そうだったが、最後には全ての決まりへ同意した。

 

「ほかに決めることは?」

 

 ディエチが尋ねる。

 

 アインハルトは考えた。

 

「部屋へ入る時は、先に声をかけてください」

 

「もちろん」

 

 ヌメロンは即座に答えた。

 

「それから、朝の稽古をする時は私も起こしてください」

 

「毎日?」

 

「毎日です」

 

「休む日も必要だよ」

 

「では、休む日も一緒に決めます」

 

「分かった」

 

 決まりは、どちらかが相手を縛るためのものではなかった。

 

 二人が同じ場所で暮らし、それぞれの時間も守るための約束だった。

 

     ◇

 

 夕方になると、ノーヴェ達は帰っていった。

 

「困ったら連絡しろよ」

 

 ノーヴェが言う。

 

「兄貴だけじゃ話にならねえ時は、あたしに直接でいい」

 

「ボク、そんなに信用ない?」

 

「金の話以外は信用してる」

 

「かなり限定されてない?」

 

 ウェンディは最後まで、「叔母さんと呼んでもいいっスよ」と言い続けた。ディエチは次に必要な物があれば手伝うと告げ、二人で帰っていく。

 

 アインハルトは見送りのため、道場の外へ出た。

 

 角を曲がるまで三人へ頭を下げる。

 

 振り返ると、道場の戸が閉まっていた。

 

 中にはヌメロンがいる。

 

 一度、息を整える。

 

 これは、三日間の調整のためではない。

 

 忘れ物を取りに来たわけでも、夕食だけを食べて帰るわけでもない。

 

 アインハルトは戸を開けた。

 

「おかえり、アインハルト」

 

 新しいエプロンを着けたヌメロンが、居住区へ続く廊下の前に立っていた。

 

 三日間と同じ言葉だった。

 

 けれど、もう終わる日を数える必要はない。

 

「ただいま、ヌメロン」

 

 ティオがアインハルトの足元を抜け、先に廊下を走っていく。

 

 今度は呼び止めなかった。

 

 雪豹は迷わず、アインハルトの部屋へ入った。

 

「夕飯、何がいい?」

 

 ヌメロンが尋ねる。

 

 何でもよい、と答えかける。

 

 今日決めたばかりの約束を思い出した。

 

「以前作っていただいた、肉と野菜の煮込みを」

 

「それだけで足りる?」

 

「では、それと……卵料理を」

 

「分かった」

 

 ヌメロンは台所へ向かう。

 

 アインハルトも荷物を置き、後に続いた。

 

 借りていた部屋ではない。

 

 帰ってもよい場所でもない。

 

 ここはもう、自分が帰ると決めた場所だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

無能力転生者はリリカルなのは世界で生き延びたい(令和版)(作者:百男合)(原作:魔法少女リリカルなのは)

「だって、なのフェイは最高だから…」▼「聞こえないな。もっと大きな声で言いなさい」▼「なのフェイは最高です!」▼ 大体こういうノリにしたい(希望)小説です。▼ ミッドチルダから現代日本に渡界してきた家族の第一子として生を受けた主人公。▼ しかしそこはモブにも主人公にも厳しいリリカルなのはの世界。▼ 戦闘能力なし、レアスキルなし。▼ 生き残るためにやっていたこ…


総合評価:1396/評価:8/連載:49話/更新日時:2026年10月04日(日) 18:00 小説情報

人の世話を焼くのが大好きなあの子から逃げ切る予定(作者:紺南)(原作:魔法少女リリカルなのは)

ただし高町なのはは生贄に捧げて良いものとする


総合評価:771/評価:7.71/連載:3話/更新日時:2026年09月23日(水) 16:40 小説情報

海女取島への漂流者(作者:粗茶Returnees)(原作:魔法少女リリカルなのは)

 ひょんなことから海女取島に流れ着いた主人公は、そこで出会った久瀬姉妹に厄介になることに。侵略種と呼ばれる脅威を払いながらの共同生活が始まった。▼


総合評価:853/評価:8.86/連載:21話/更新日時:2026年09月30日(水) 17:00 小説情報

「俺は、"高町なのは"が嫌いだ」(作者:コミュニ爺)(原作:魔法少女リリカルなのは)

臆病で卑屈な少年が、なのはさんに墜とされるまでのお話▼※オリ主がなのはさんを口汚く罵る場面があります。苦手な方はブラウザバックをよろしくお願いします。▼※2026.06.08:あらすじとタグを一部変更。


総合評価:115/評価:-.--/短編:3話/更新日時:2026年07月11日(土) 22:39 小説情報

忘却少年の日誌(作者:グラビトン)(原作:魔法少女リリカルなのは)

少年は己の名以外の記憶を失った、そして二度と取り戻せない。▼先が見えない中久瀬シイナと共に歩み…………過去は彼に少しづつ迫りつつある。▼「絶対に守るからね、もう二度と、君を傷つけないから」▼主に昔の幼馴染み達から。▼※タグは順次追加するかもしれません。


総合評価:42/評価:-.--/連載:2話/更新日時:2026年08月29日(土) 19:20 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>