目を覚ましても、パンの焼ける匂いはしなかった。
廊下を歩く音も、台所から聞こえる水音もない。
アインハルトはベッドの上で身体を起こした。
自分の家なのだから、何も聞こえないのが普通だった。
足元では、ティオがまだ丸くなっている。目を開けた雪豹は、アインハルトを見ると小さく鳴いた。
「おはようございます、ティオ」
抱き上げ、床へ下ろす。
台所へ行き、一人分の朝食を用意した。パンを焼き、卵を一つ使う。三日前までと同じ手順なのに、食卓へ運んだ皿が少なく見えた。
味が変わったわけではない。
足りないものもない。
「問題ありません」
誰に聞かれたわけでもないのに、口にしていた。
ティオが椅子の上から首を傾げる。
アインハルトは食事を終え、稽古の支度を始めた。
今日は年少組の補助に入る。壁の稽古表には、自分の名が書かれている。
道場へ行けば、待っている者がいる。
それで十分なはずだった。
◇
「おはよう、アインハルト」
道場の戸を開けると、ヌメロンが畳を拭いていた。
「おはようございます」
「今日は早いね」
「補助を任されていますから」
「まだ誰も来てないよ」
「準備することはあります」
アインハルトは靴を揃え、中へ入った。
ヌメロンの挨拶は正しい。
三日前までのように、「おかえり」とは言わなかった。それも当然だった。今日はここから出かけ、ここへ戻ってきたわけではない。
それなのに、胸のどこかへ小さな隙間ができたように感じた。
ティオが床へ降り、道場の奥へ歩き出す。
「ティオ。そちらではありません」
呼び止めると、雪豹は居住区へ続く廊下の前で振り返った。
「今日は道場です」
ティオはもう一度廊下を見てから、アインハルトのもとへ戻った。
「部屋に何か忘れた?」
ヌメロンが尋ねる。
「いいえ。忘れ物はありません」
「そっか」
彼はそれ以上聞かず、畳を拭く手を動かした。
アインハルトも雑巾を取り、反対側から始める。
「朝食は食べた?」
「はい」
「何を?」
「パンと卵です」
「昨日と同じだね」
「自分で作りました」
「上手にできた?」
「焼くだけです」
「それでも、焦がす人はいるよ」
ヌメロンが笑う。
自分でできることを確認されているようには聞こえなかった。ただ、何を食べたか知りたいだけなのだと、三日間で分かっていた。
「ヌメロンは?」
「ボク?」
「朝食です。食べたのですか」
「余ってたパンを一枚」
「卵は?」
「焼く時間がなくて」
アインハルトは手を止めた。
「私より早く来ていたのに?」
「畳を拭きたかったから」
「食事を減らしてまで行うことではありません」
「でも一枚は食べたよ」
「一枚しか、でしょう」
ヌメロンは返事をしなかった。
台所にいれば、自分が卵を一つ増やせた。彼の皿だけ少なくなっていることにも気づけた。
そう考えてから、アインハルトは自分が何を前提にしているのか気づいた。
「どうしたの?」
「何でもありません」
再び畳を拭く。
雑巾を動かす手が、先ほどより少しだけ速くなった。
◇
年少組の稽古が始まると、考える暇はなくなった。
前に受け身を教えた少年は、道場へ入るなりアインハルトの前へ来た。
「アインハルト先生、今日は立ってやるんだよね?」
「補助です。まず、座った状態から確認します」
「前もできたよ」
「今日もできることを確認してからです」
少年は不満そうな顔をしたものの、畳へ座った。
顎を引き、背を丸める。腕で畳を打ち、頭をつけずに起き上がった。
「できた!」
「はい。では、もう一度」
「できたのに?」
「一度できたことと、いつでもできることは違います」
ノーヴェが横を通りながら言う。
「お前、教え方が兄貴に似てきたな」
「どこがですか」
「できたところはちゃんと見て、その次をやらせるとこだよ」
少年が二度目の受け身を取る。
今度は起き上がる時に足がもつれた。アインハルトは手を出しかけたが、少年が自分で立つまで待った。
「今のは?」
「受け身はできています。ただ、立つ時に足を急ぎました」
「じゃあ、もう一回」
「少し休んでからです」
「まだできるよ」
「知っています」
口にしてから、アインハルトは道場の奥を見た。
ヌメロンが、別の門下生の構えを直している。
できることと、続けるべきことは違う。
彼に何度も言われた言葉が、今は自分の声で誰かへ渡っている。
稽古の終わり、少年は迎えに来た家族のもとへ走っていった。
「今日は立ったところからできたよ!」
大きな声で報告する。
手を引かれ、何度も道場を振り返りながら帰っていった。
アインハルトは戸口で見送った。
「寂しい?」
隣に立ったヌメロンが尋ねる。
「なぜですか」
「あの子が帰ったから」
「次の稽古でまた会えます」
「うん」
「待っていれば、戻ってきます」
答えながら、自分の言葉が胸へ返ってきた。
待っている者がいるから、帰ることができる。
昨日の夜、自分を待っていたのは静かな部屋だけだった。
◇
午後の稽古で、アインハルトはヌメロンと向かい合った。
ティオを装着し、構える。
「今日は何を試す?」
「三歩目を。ティオの補助に頼らず、自分で出力を合わせます」
「分かった」
礼をして、踏み込む。
一歩目で距離を詰め、二歩目でヌメロンの重心を見る。三歩目を右へ置くはずだった。
けれど、視界の端に居住区へ続く廊下が入った。
ほんの一瞬、足が遅れた。
ヌメロンの掌が手首へ触れる。軌道を外され、身体が前へ流れた。
倒れる前に受け身を取り、畳へ落ちる。
「そこまで」
ヌメロンは追わなかった。
アインハルトはすぐに立ち上がる。
「もう一度お願いします」
「今、何を見たの?」
「あなたの足です」
「違うよ」
静かに否定された。
「二歩目まではボクを見てた。でも、その後は別のところを見た」
「見ていません」
「じゃあ、何を考えた?」
「何も」
「それなら、休もう」
「まだできます」
「知ってる」
また同じ言葉だった。
ヌメロンは構えを解き、水差しの方へ歩く。
アインハルトは拳を握った。
続ければ、次はできる。足を置く場所も、ヌメロンが外れる方向も分かっている。
それでも、彼は待った。
答えを聞き出そうともせず、できるまで拳を受け続けようともしない。
アインハルトはティオを解除し、彼の隣へ座った。
「夕食、食べていく?」
水を渡しながら、ヌメロンが尋ねる。
「今日は帰ります」
「分かった」
昨日と同じ返事だった。
引き止めない。
そのことに安心し、同時に物足りなさを覚える。
「ヌメロン」
「うん?」
今言うべきなのか、分からなかった。
自宅で一人でも暮らせる。食事も作れる。朝起きて、道場へ通うこともできる。
できないから助けを求めるのではない。
それでも、三日間を知る前と同じ生活へ戻りたいとは思わなかった。
「以前お借りした部屋ですが」
「何か忘れてた?」
「いいえ」
アインハルトは一度、言葉を止めた。
「もう少し、借りてもいいですか」
ヌメロンは驚いた顔をしなかった。
「もう少しって、どのくらい?」
「分かりません」
「次の調整まで?」
「違います」
「大会が終わるまで?」
「それも、分かりません」
期限を決められない。
ヌメロンはすぐに答えず、アインハルトの言葉を待った。
「期限を決めないなら、泊まるんじゃなくて、一緒に暮らすことになるよ」
「はい」
「アインハルトは、ボクと暮らしたい?」
真っすぐ尋ねられる。
同情も、心配も先に置かれていない。
彼が確認しているのは、アインハルト自身の望みだった。
「一人でいることが嫌になったわけではありません」
「うん」
「自分の家でも、これまでどおり暮らせます」
「分かってるよ」
「食事も、洗濯もできます。朝も、一人で起きられます」
「アインハルトが自分でできることは、三日間で分かった」
ヌメロンは微笑む。
「できることを、ボクに証明しなくていいよ」
アインハルトは膝の上で拳を開いた。
「それでも私は……あなたと食事をして、道場へ行って、またあの場所へ帰りたいと思いました」
「うん」
「借りる、という言い方は違うのかもしれません」
居住区へ続く廊下を見る。
あの先に、自分で選んだ枕がある。台所には、ヌメロンへ選んだエプロンが掛かっている。
「あの部屋へ、帰ってもいいですか」
ヌメロンは、今度はすぐに答えた。
「うん」
穏やかな声だった。
「ボクも、アインハルトに帰ってきてほしい」
「では、あの部屋を――」
「アインハルトの部屋にしよう」
借りるための部屋ではない。
次の誰かが使うかもしれない部屋でもない。
その言葉を胸の中で確かめていると、ヌメロンが何かに気づいたように手を打った。
「じゃあ、これからボクがアインハルトのパパになるんだね」
「……なぜ、そうなるのですか」
「一緒に暮らす大人だから」
「師範ではいけないのですか」
「師範は道場にいる時だけでしょ」
「では、保護者で」
「パパの方が短いよ」
「文字数の問題ではありません」
「兄貴」
背後から、低い声がした。
振り返ると、ノーヴェが腕を組んで立っていた。
「いつから聞いていたのですか」
アインハルトが尋ねる。
「大事な話の途中で入るわけにいかねえだろ。パパとか言い出したところで我慢できなくなった」
「いいところだったのに」
「台無しにしたのお前だよ」
ノーヴェはヌメロンの前へ来る。
「お前、昔も同じように勝手に兄を名乗ったよな」
「勝手じゃないよ」
「『今日からボクは君たちのお兄ちゃんだよ』って、誰の許可も取らずに決めただろうが」
「でも今は、みんなボクをお兄ちゃんだと思ってる」
「反対する暇もなく世話を焼き始めたんだろ」
「ノーヴェも兄貴って呼んでくれるでしょ」
「今その話は関係ねえ!」
ヌメロンは不思議そうに首を傾げた。
アインハルトは二人のやり取りを見ていた。
ノーヴェが彼を兄と呼ぶようになった始まりは、もっと重大な出来事だと思っていた。
けれど実際は、ヌメロンが勝手に名乗り、帰りを待ち、食事を作り、怪我をすれば手当てをしているうちに、それが本当になったらしい。
「アインハルト」
ヌメロンが向き直る。
「冗談だよ。呼び方を決めるのはアインハルトだから」
「そうしてください」
「ヌメロンでも、師範でも、好きなように呼んで」
「……今は、ヌメロンでお願いします」
「うん。今はね」
今は、という言葉へ何か言い返そうとしたが、ノーヴェが先に口を開いた。
「住むって決めたなら、先にやることがあるぞ」
「荷物を運ぶことですか」
「その前だ。今の住居をどうするか、学校や連絡先の登録をどうするか。アインハルトが未成年なのも忘れんな」
ノーヴェはヌメロンを見る。
「兄貴。パパを名乗るなら、冗談だけで済ませるなよ」
「分かってる」
先ほどまで笑っていたヌメロンの声が変わった。
「必要な手続きは、アインハルトと一緒に確認する。今の家も、すぐに手放さなくていい。戻りたくなった時に戻れるようにしておこう」
「戻ることを考えるのですか」
「選べるようにするんだよ」
ここへ来る選択をしたからといって、ほかの場所を消す必要はない。
「全部を今日決めなくていい。まず、必要なものだけ運ぼう」
「はい」
ヌメロンは最後まで、帰る道を塞がなかった。
だからアインハルトも、自分の足でここを選べるのだと思った。
◇
必要なものだけ。
そう決めたはずだった。
「兄、こっちの箱も運ぶっスよ!」
「ウェンディ、それは台所用品です。今日は必要ありません」
「でも、あとで取りに来るなら二度手間っス」
「まず部屋に入る量を見てからです」
数日後の休日。
アインハルトの家には、ヌメロンとノーヴェだけでなく、ウェンディとディエチまで来ていた。
引っ越しを聞きつけたウェンディが、自分から手伝いを申し出たらしい。ディエチは、彼女一人では余計な物まで運ぶからと同行した。
「それで、兄がパパになるって本当っスか?」
ウェンディが箱を抱えたまま尋ねる。
「誰から聞いたのですか」
「ノーヴェからっス」
「言ってねえ。兄貴がまた勝手に名乗ったって話をしただけだ」
「ということは、私達は叔母さんになるのかな」
ディエチが真面目に考える。
「ならねえよ!」
ノーヴェが即座に否定した。
「関係としては近いっスよ。ノーヴェ叔母さん」
「その呼び方やめろ!」
ウェンディが笑いながら逃げ、ノーヴェが追う。
ディエチは二人を見送り、アインハルトへ向き直った。
「嫌なら、私達にも言ってね。呼び方も、手伝うことも」
「はい」
「兄は、嬉しいと全部やろうとするから」
少し離れたところでは、ヌメロンが本棚の寸法を測っていた。
「ヌメロン。何をしているのですか」
「今の棚だと、アインハルトの本が全部入らないと思って」
「全部は運びません」
「なら、向こうの部屋にも新しい棚を」
「買いません」
「まだ値段の話はしてないよ」
「必要かどうかの話です」
ディエチが小さく笑った。
「もう止め方を覚えたんだね」
「覚えざるを得ませんでした」
アインハルトは自分の本を見直した。
覇王流の資料、学校で使うもの、日々の稽古記録。すぐに必要になる分だけを箱へ入れる。
ヌメロンは、何を持っていくべきか決めなかった。
「これは?」
「置いていきます」
「こっちは?」
「持っていきます」
尋ね、答えを聞き、そのとおりに箱へ収める。
アインハルトが暮らしてきた部屋を見ても、寂しそうだとは言わなかった。物が少ないとも、もっと頼ればよかったとも言わない。
ただ、彼女が選んだものを運んだ。
「ヌメロン」
「何?」
「そこへ置いてある稽古記録もお願いします」
「全部?」
「はい。これからも使いますから」
「分かった」
彼が箱へ入れる。
最後に、アインハルトは洗面所から日用品を持ってきた。
三日分ではない。
使いかけのものも、予備も持っていく。
ティオは空になり始めた棚を見上げてから、アインハルトの鞄へ飛び乗った。
「ティオも準備ができたようです」
「じゃあ、一度運ぼうか」
ヌメロンが箱を持ち上げる。
「それと、アインハルト」
「何でしょう」
「この家の鍵は持っててね」
「ですが、道場で暮らすなら」
「ここもアインハルトの家だった場所だから。返すかどうかは、急がなくていい」
アインハルトは鍵を見た。
残しておくことは、迷っていることではない。
帰れる場所が二つあってもよいのだと、ヌメロンは言っている。
「分かりました」
鍵を鞄へ入れた。
◇
道場へ戻ると、部屋の前に大きな荷物が置かれていた。
寝具一式、新しい机、収納棚。どれも三日前にはなかったものだ。
アインハルトは隣にいるヌメロンを見た。
「これは何ですか」
「部屋に必要なもの」
「机と棚は、既にあります」
「長く使うなら、もう少し大きい方が」
「相談なく高価な物を買わないでください」
「まだ最初の決まりを作ってなかったから」
「決める前ならよいという意味ではありません」
ノーヴェが荷物の伝票を確認する。
「返品できるな。机と棚は返す。寝具は?」
「枕だけで十分です」
「ベッドに合う大きさなんだよ」
ヌメロンが抵抗する。
ディエチが寝具へ触れ、品質表示を確認した。
「これは長く使えると思う。アインハルトが気に入れば、残してもいいんじゃないかな」
全員がアインハルトを見る。
自分の部屋に置くものを、自分で選ぶ。
彼女は寝具を確かめた。色は落ち着いていて、触れた感触も悪くない。
「寝具だけ、使います」
「分かった」
ヌメロンが嬉しそうに答えた。
「ただし、次からは先に相談してください」
「はい」
「返事が軽いっスね」
ウェンディが笑う。
「アインハルトさん、端末で承認を取るようにした方がいいっスよ。兄が買い物する時、一定額を超えたら通知が来るように」
「それいいな」
ノーヴェが賛成する。
「ボクの買い物なのに?」
「前科がありすぎるんだよ」
「検討します」
アインハルトが真剣に答えると、ヌメロンは少し困った顔をした。
部屋へ荷物を入れる。
机には学校の資料を置き、棚には稽古記録と衣服を収めた。空いた場所はまだ多い。それでも、三日間だけ泊まった時とは違う。
ティオの整備台を窓際へ置く。雪豹は新しい寝具の上へ飛び乗り、買い物で選んだ枕へ顎を乗せた。
「やはり、その枕が目的だったのですね」
ティオは目を閉じ、聞こえないふりをした。
ウェンディが持ってきた飾りの半分は、アインハルトが断った。残ったのは、小さな時計と、机に置ける照明だけだった。
「これで終わりっスか?」
「十分です」
「壁が寂しくないっス?」
「必要になれば、自分で選びます」
「その方がいいよ」
ヌメロンが言う。
「ここはアインハルトの部屋だから」
他人が完成させるのではなく、アインハルト自身がこれから作っていく部屋。
彼女は棚に残った空きを見て、頷いた。
「はい。私の部屋です」
◇
荷物を運び終えると、全員で居間へ集まった。
ノーヴェが端末を卓上へ置く。
「一緒に暮らすなら、最初に決めとけ。後から揉める方が面倒だ」
「生活の決まりですか」
「そうだ。まず、遅くなる時は連絡する。これは二人ともだ」
「分かりました」
「うん」
「食事の希望を聞かれた時、『何でもいい』で済ませない」
ヌメロンが付け足す。
アインハルトは彼を見る。
「毎回決めるのですか」
「食べたいものがある時だけでいいよ。でも、何も考えずに何でもいいって言うのは禁止」
「では、ヌメロンも自分の分を減らして私へ回さないでください」
「足りない時は?」
「最初から二人分作ってください」
「それも入れよう」
ディエチが記録する。
「兄は相談なく高い物を買わない」
「高い、の基準は?」
「アインハルトさんが高いと思ったらっス」
「それだと全部止められない?」
「必要なものなら止めません」
「昨日、室内着を戻したよね」
「必要ありませんでした」
「ほら」
「兄貴が聞かずに買うのが悪い」
ノーヴェが切り捨てた。
「アインハルトも、稽古後に一人で無理な追加練習をしない」
「無理かどうかは、私が判断します」
「その判断が信用できねえから決めるんだよ」
「では、ヌメロンかノーヴェに伝えてから行います」
「よし」
「ボクの決まりだけ多くない?」
ヌメロンが一覧を見る。
「これまで守れていなかった数です」
アインハルトが答えると、ウェンディが卓上へ伏せて笑った。
「もう完全に兄の扱いを分かってるっス」
「アインハルト、ボクよりノーヴェ達の言うことを信じてない?」
「買い物については、そうです」
「限定してるだけ優しいな」
ノーヴェまで笑う。
ヌメロンは不満そうだったが、最後には全ての決まりへ同意した。
「ほかに決めることは?」
ディエチが尋ねる。
アインハルトは考えた。
「部屋へ入る時は、先に声をかけてください」
「もちろん」
ヌメロンは即座に答えた。
「それから、朝の稽古をする時は私も起こしてください」
「毎日?」
「毎日です」
「休む日も必要だよ」
「では、休む日も一緒に決めます」
「分かった」
決まりは、どちらかが相手を縛るためのものではなかった。
二人が同じ場所で暮らし、それぞれの時間も守るための約束だった。
◇
夕方になると、ノーヴェ達は帰っていった。
「困ったら連絡しろよ」
ノーヴェが言う。
「兄貴だけじゃ話にならねえ時は、あたしに直接でいい」
「ボク、そんなに信用ない?」
「金の話以外は信用してる」
「かなり限定されてない?」
ウェンディは最後まで、「叔母さんと呼んでもいいっスよ」と言い続けた。ディエチは次に必要な物があれば手伝うと告げ、二人で帰っていく。
アインハルトは見送りのため、道場の外へ出た。
角を曲がるまで三人へ頭を下げる。
振り返ると、道場の戸が閉まっていた。
中にはヌメロンがいる。
一度、息を整える。
これは、三日間の調整のためではない。
忘れ物を取りに来たわけでも、夕食だけを食べて帰るわけでもない。
アインハルトは戸を開けた。
「おかえり、アインハルト」
新しいエプロンを着けたヌメロンが、居住区へ続く廊下の前に立っていた。
三日間と同じ言葉だった。
けれど、もう終わる日を数える必要はない。
「ただいま、ヌメロン」
ティオがアインハルトの足元を抜け、先に廊下を走っていく。
今度は呼び止めなかった。
雪豹は迷わず、アインハルトの部屋へ入った。
「夕飯、何がいい?」
ヌメロンが尋ねる。
何でもよい、と答えかける。
今日決めたばかりの約束を思い出した。
「以前作っていただいた、肉と野菜の煮込みを」
「それだけで足りる?」
「では、それと……卵料理を」
「分かった」
ヌメロンは台所へ向かう。
アインハルトも荷物を置き、後に続いた。
借りていた部屋ではない。
帰ってもよい場所でもない。
ここはもう、自分が帰ると決めた場所だった。