魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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第9話 帰ってもいいですか

 目を覚ましても、パンの焼ける匂いはしなかった。

 

 廊下を歩く音も、台所から聞こえる水音もない。

 

 アインハルトはベッドの上で身体を起こした。

 

 自分の家なのだから、何も聞こえないのが普通だった。

 

 足元では、ティオがまだ丸くなっている。目を開けた雪豹は、アインハルトを見ると小さく鳴いた。

 

「おはようございます、ティオ」

 

 抱き上げ、床へ下ろす。

 

 台所へ行き、一人分の朝食を用意した。パンを焼き、卵を一つ使う。三日前までと同じ手順なのに、食卓へ運んだ皿が少なく見えた。

 

 味が変わったわけではない。

 

 足りないものもない。

 

「問題ありません」

 

 誰に聞かれたわけでもないのに、口にしていた。

 

 ティオが椅子の上から首を傾げる。

 

 アインハルトは食事を終え、稽古の支度を始めた。

 

 今日は年少組の補助に入る。壁の稽古表には、自分の名が書かれている。

 

 道場へ行けば、待っている者がいる。

 

 それで十分なはずだった。

 

     ◇

 

「おはよう、アインハルト」

 

 道場の戸を開けると、ヌメロンが畳を拭いていた。

 

「おはようございます」

 

「今日は早いね」

 

「補助を任されていますから」

 

「まだ誰も来てないよ」

 

「準備することはあります」

 

 アインハルトは靴を揃え、中へ入った。

 

 ヌメロンの挨拶は正しい。

 

 三日前までのように、「おかえり」とは言わなかった。それも当然だった。今日はここから出かけ、ここへ戻ってきたわけではない。

 

 それなのに、胸のどこかへ小さな隙間ができたように感じた。

 

 ティオが床へ降り、道場の奥へ歩き出す。

 

「ティオ。そちらではありません」

 

 呼び止めると、雪豹は居住区へ続く廊下の前で振り返った。

 

「今日は道場です」

 

 ティオはもう一度廊下を見てから、アインハルトのもとへ戻った。

 

「部屋に何か忘れた?」

 

 ヌメロンが尋ねる。

 

「いいえ。忘れ物はありません」

 

「そっか」

 

 彼はそれ以上聞かず、畳を拭く手を動かした。

 

 アインハルトも雑巾を取り、反対側から始める。

 

「朝食は食べた?」

 

「はい」

 

「何を?」

 

「パンと卵です」

 

「昨日と同じだね」

 

「自分で作りました」

 

「上手にできた?」

 

「焼くだけです」

 

「それでも、焦がす人はいるよ」

 

 ヌメロンが笑う。

 

 自分でできることを確認されているようには聞こえなかった。ただ、何を食べたか知りたいだけなのだと、三日間で分かっていた。

 

「ヌメロンは?」

 

「ボク?」

 

「朝食です。食べたのですか」

 

「余ってたパンを一枚」

 

「卵は?」

 

「焼く時間がなくて」

 

 アインハルトは手を止めた。

 

「私より早く来ていたのに?」

 

「畳を拭きたかったから」

 

「食事を減らしてまで行うことではありません」

 

「でも一枚は食べたよ」

 

「一枚しか、でしょう」

 

 ヌメロンは返事をしなかった。

 

 台所にいれば、自分が卵を一つ増やせた。彼の皿だけ少なくなっていることにも気づけた。

 

 そう考えてから、アインハルトは自分が何を前提にしているのか気づいた。

 

「どうしたの?」

 

「何でもありません」

 

 再び畳を拭く。

 

 雑巾を動かす手が、先ほどより少しだけ速くなった。

 

     ◇

 

 年少組の稽古が始まると、考える暇はなくなった。

 

 前に受け身を教えた少年は、道場へ入るなりアインハルトの前へ来た。

 

「アインハルト先生、今日は立ってやるんだよね?」

 

「補助です。まず、座った状態から確認します」

 

「前もできたよ」

 

「今日もできることを確認してからです」

 

 少年は不満そうな顔をしたものの、畳へ座った。

 

 顎を引き、背を丸める。腕で畳を打ち、頭をつけずに起き上がった。

 

「できた!」

 

「はい。では、もう一度」

 

「できたのに?」

 

「一度できたことと、いつでもできることは違います」

 

 ノーヴェが横を通りながら言う。

 

「お前、教え方が兄貴に似てきたな」

 

「どこがですか」

 

「できたところはちゃんと見て、その次をやらせるとこだよ」

 

 少年が二度目の受け身を取る。

 

 今度は起き上がる時に足がもつれた。アインハルトは手を出しかけたが、少年が自分で立つまで待った。

 

「今のは?」

 

「受け身はできています。ただ、立つ時に足を急ぎました」

 

「じゃあ、もう一回」

 

「少し休んでからです」

 

「まだできるよ」

 

「知っています」

 

 口にしてから、アインハルトは道場の奥を見た。

 

 ヌメロンが、別の門下生の構えを直している。

 

 できることと、続けるべきことは違う。

 

 彼に何度も言われた言葉が、今は自分の声で誰かへ渡っている。

 

 稽古の終わり、少年は迎えに来た家族のもとへ走っていった。

 

「今日は立ったところからできたよ!」

 

 大きな声で報告する。

 

 手を引かれ、何度も道場を振り返りながら帰っていった。

 

 アインハルトは戸口で見送った。

 

「寂しい?」

 

 隣に立ったヌメロンが尋ねる。

 

「なぜですか」

 

「あの子が帰ったから」

 

「次の稽古でまた会えます」

 

「うん」

 

「待っていれば、戻ってきます」

 

 答えながら、自分の言葉が胸へ返ってきた。

 

 待っている者がいるから、帰ることができる。

 

 昨日の夜、自分を待っていたのは静かな部屋だけだった。

 

     ◇

 

 午後の稽古で、アインハルトはヌメロンと向かい合った。

 

 ティオを装着し、構える。

 

「今日は何を試す?」

 

「三歩目を。ティオの補助に頼らず、自分で出力を合わせます」

 

「分かった」

 

 礼をして、踏み込む。

 

 一歩目で距離を詰め、二歩目でヌメロンの重心を見る。三歩目を右へ置くはずだった。

 

 けれど、視界の端に居住区へ続く廊下が入った。

 

 ほんの一瞬、足が遅れた。

 

 ヌメロンの掌が手首へ触れる。軌道を外され、身体が前へ流れた。

 

 倒れる前に受け身を取り、畳へ落ちる。

 

「そこまで」

 

 ヌメロンは追わなかった。

 

 アインハルトはすぐに立ち上がる。

 

「もう一度お願いします」

 

「今、何を見たの?」

 

「あなたの足です」

 

「違うよ」

 

 静かに否定された。

 

「二歩目まではボクを見てた。でも、その後は別のところを見た」

 

「見ていません」

 

「じゃあ、何を考えた?」

 

「何も」

 

「それなら、休もう」

 

「まだできます」

 

「知ってる」

 

 また同じ言葉だった。

 

 ヌメロンは構えを解き、水差しの方へ歩く。

 

 アインハルトは拳を握った。

 

 続ければ、次はできる。足を置く場所も、ヌメロンが外れる方向も分かっている。

 

 それでも、彼は待った。

 

 答えを聞き出そうともせず、できるまで拳を受け続けようともしない。

 

 アインハルトはティオを解除し、彼の隣へ座った。

 

「夕食、食べていく?」

 

 水を渡しながら、ヌメロンが尋ねる。

 

「今日は帰ります」

 

「分かった」

 

 昨日と同じ返事だった。

 

 引き止めない。

 

 そのことに安心し、同時に物足りなさを覚える。

 

「ヌメロン」

 

「うん?」

 

 今言うべきなのか、分からなかった。

 

 自宅で一人でも暮らせる。食事も作れる。朝起きて、道場へ通うこともできる。

 

 できないから助けを求めるのではない。

 

 それでも、三日間を知る前と同じ生活へ戻りたいとは思わなかった。

 

「以前お借りした部屋ですが」

 

「何か忘れてた?」

 

「いいえ」

 

 アインハルトは一度、言葉を止めた。

 

「もう少し、借りてもいいですか」

 

 ヌメロンは驚いた顔をしなかった。

 

「もう少しって、どのくらい?」

 

「分かりません」

 

「次の調整まで?」

 

「違います」

 

「大会が終わるまで?」

 

「それも、分かりません」

 

 期限を決められない。

 

 ヌメロンはすぐに答えず、アインハルトの言葉を待った。

 

「期限を決めないなら、泊まるんじゃなくて、一緒に暮らすことになるよ」

 

「はい」

 

「アインハルトは、ボクと暮らしたい?」

 

 真っすぐ尋ねられる。

 

 同情も、心配も先に置かれていない。

 

 彼が確認しているのは、アインハルト自身の望みだった。

 

「一人でいることが嫌になったわけではありません」

 

「うん」

 

「自分の家でも、これまでどおり暮らせます」

 

「分かってるよ」

 

「食事も、洗濯もできます。朝も、一人で起きられます」

 

「アインハルトが自分でできることは、三日間で分かった」

 

 ヌメロンは微笑む。

 

「できることを、ボクに証明しなくていいよ」

 

 アインハルトは膝の上で拳を開いた。

 

「それでも私は……あなたと食事をして、道場へ行って、またあの場所へ帰りたいと思いました」

 

「うん」

 

「借りる、という言い方は違うのかもしれません」

 

 居住区へ続く廊下を見る。

 

 あの先に、自分で選んだ枕がある。台所には、ヌメロンへ選んだエプロンが掛かっている。

 

「あの部屋へ、帰ってもいいですか」

 

 ヌメロンは、今度はすぐに答えた。

 

「うん」

 

 穏やかな声だった。

 

「ボクも、アインハルトに帰ってきてほしい」

 

「では、あの部屋を――」

 

「アインハルトの部屋にしよう」

 

 借りるための部屋ではない。

 

 次の誰かが使うかもしれない部屋でもない。

 

 その言葉を胸の中で確かめていると、ヌメロンが何かに気づいたように手を打った。

 

「じゃあ、これからボクがアインハルトのパパになるんだね」

 

「……なぜ、そうなるのですか」

 

「一緒に暮らす大人だから」

 

「師範ではいけないのですか」

 

「師範は道場にいる時だけでしょ」

 

「では、保護者で」

 

「パパの方が短いよ」

 

「文字数の問題ではありません」

 

「兄貴」

 

 背後から、低い声がした。

 

 振り返ると、ノーヴェが腕を組んで立っていた。

 

「いつから聞いていたのですか」

 

 アインハルトが尋ねる。

 

「大事な話の途中で入るわけにいかねえだろ。パパとか言い出したところで我慢できなくなった」

 

「いいところだったのに」

 

「台無しにしたのお前だよ」

 

 ノーヴェはヌメロンの前へ来る。

 

「お前、昔も同じように勝手に兄を名乗ったよな」

 

「勝手じゃないよ」

 

「『今日からボクは君たちのお兄ちゃんだよ』って、誰の許可も取らずに決めただろうが」

 

「でも今は、みんなボクをお兄ちゃんだと思ってる」

 

「反対する暇もなく世話を焼き始めたんだろ」

 

「ノーヴェも兄貴って呼んでくれるでしょ」

 

「今その話は関係ねえ!」

 

 ヌメロンは不思議そうに首を傾げた。

 

 アインハルトは二人のやり取りを見ていた。

 

 ノーヴェが彼を兄と呼ぶようになった始まりは、もっと重大な出来事だと思っていた。

 

 けれど実際は、ヌメロンが勝手に名乗り、帰りを待ち、食事を作り、怪我をすれば手当てをしているうちに、それが本当になったらしい。

 

「アインハルト」

 

 ヌメロンが向き直る。

 

「冗談だよ。呼び方を決めるのはアインハルトだから」

 

「そうしてください」

 

「ヌメロンでも、師範でも、好きなように呼んで」

 

「……今は、ヌメロンでお願いします」

 

「うん。今はね」

 

 今は、という言葉へ何か言い返そうとしたが、ノーヴェが先に口を開いた。

 

「住むって決めたなら、先にやることがあるぞ」

 

「荷物を運ぶことですか」

 

「その前だ。今の住居をどうするか、学校や連絡先の登録をどうするか。アインハルトが未成年なのも忘れんな」

 

 ノーヴェはヌメロンを見る。

 

「兄貴。パパを名乗るなら、冗談だけで済ませるなよ」

 

「分かってる」

 

 先ほどまで笑っていたヌメロンの声が変わった。

 

「必要な手続きは、アインハルトと一緒に確認する。今の家も、すぐに手放さなくていい。戻りたくなった時に戻れるようにしておこう」

 

「戻ることを考えるのですか」

 

「選べるようにするんだよ」

 

 ここへ来る選択をしたからといって、ほかの場所を消す必要はない。

 

「全部を今日決めなくていい。まず、必要なものだけ運ぼう」

 

「はい」

 

 ヌメロンは最後まで、帰る道を塞がなかった。

 

 だからアインハルトも、自分の足でここを選べるのだと思った。

 

     ◇

 

 必要なものだけ。

 

 そう決めたはずだった。

 

「兄、こっちの箱も運ぶっスよ!」

 

「ウェンディ、それは台所用品です。今日は必要ありません」

 

「でも、あとで取りに来るなら二度手間っス」

 

「まず部屋に入る量を見てからです」

 

 数日後の休日。

 

 アインハルトの家には、ヌメロンとノーヴェだけでなく、ウェンディとディエチまで来ていた。

 

 引っ越しを聞きつけたウェンディが、自分から手伝いを申し出たらしい。ディエチは、彼女一人では余計な物まで運ぶからと同行した。

 

「それで、兄がパパになるって本当っスか?」

 

 ウェンディが箱を抱えたまま尋ねる。

 

「誰から聞いたのですか」

 

「ノーヴェからっス」

 

「言ってねえ。兄貴がまた勝手に名乗ったって話をしただけだ」

 

「ということは、私達は叔母さんになるのかな」

 

 ディエチが真面目に考える。

 

「ならねえよ!」

 

 ノーヴェが即座に否定した。

 

「関係としては近いっスよ。ノーヴェ叔母さん」

 

「その呼び方やめろ!」

 

 ウェンディが笑いながら逃げ、ノーヴェが追う。

 

 ディエチは二人を見送り、アインハルトへ向き直った。

 

「嫌なら、私達にも言ってね。呼び方も、手伝うことも」

 

「はい」

 

「兄は、嬉しいと全部やろうとするから」

 

 少し離れたところでは、ヌメロンが本棚の寸法を測っていた。

 

「ヌメロン。何をしているのですか」

 

「今の棚だと、アインハルトの本が全部入らないと思って」

 

「全部は運びません」

 

「なら、向こうの部屋にも新しい棚を」

 

「買いません」

 

「まだ値段の話はしてないよ」

 

「必要かどうかの話です」

 

 ディエチが小さく笑った。

 

「もう止め方を覚えたんだね」

 

「覚えざるを得ませんでした」

 

 アインハルトは自分の本を見直した。

 

 覇王流の資料、学校で使うもの、日々の稽古記録。すぐに必要になる分だけを箱へ入れる。

 

 ヌメロンは、何を持っていくべきか決めなかった。

 

「これは?」

 

「置いていきます」

 

「こっちは?」

 

「持っていきます」

 

 尋ね、答えを聞き、そのとおりに箱へ収める。

 

 アインハルトが暮らしてきた部屋を見ても、寂しそうだとは言わなかった。物が少ないとも、もっと頼ればよかったとも言わない。

 

 ただ、彼女が選んだものを運んだ。

 

「ヌメロン」

 

「何?」

 

「そこへ置いてある稽古記録もお願いします」

 

「全部?」

 

「はい。これからも使いますから」

 

「分かった」

 

 彼が箱へ入れる。

 

 最後に、アインハルトは洗面所から日用品を持ってきた。

 

 三日分ではない。

 

 使いかけのものも、予備も持っていく。

 

 ティオは空になり始めた棚を見上げてから、アインハルトの鞄へ飛び乗った。

 

「ティオも準備ができたようです」

 

「じゃあ、一度運ぼうか」

 

 ヌメロンが箱を持ち上げる。

 

「それと、アインハルト」

 

「何でしょう」

 

「この家の鍵は持っててね」

 

「ですが、道場で暮らすなら」

 

「ここもアインハルトの家だった場所だから。返すかどうかは、急がなくていい」

 

 アインハルトは鍵を見た。

 

 残しておくことは、迷っていることではない。

 

 帰れる場所が二つあってもよいのだと、ヌメロンは言っている。

 

「分かりました」

 

 鍵を鞄へ入れた。

 

     ◇

 

 道場へ戻ると、部屋の前に大きな荷物が置かれていた。

 

 寝具一式、新しい机、収納棚。どれも三日前にはなかったものだ。

 

 アインハルトは隣にいるヌメロンを見た。

 

「これは何ですか」

 

「部屋に必要なもの」

 

「机と棚は、既にあります」

 

「長く使うなら、もう少し大きい方が」

 

「相談なく高価な物を買わないでください」

 

「まだ最初の決まりを作ってなかったから」

 

「決める前ならよいという意味ではありません」

 

 ノーヴェが荷物の伝票を確認する。

 

「返品できるな。机と棚は返す。寝具は?」

 

「枕だけで十分です」

 

「ベッドに合う大きさなんだよ」

 

 ヌメロンが抵抗する。

 

 ディエチが寝具へ触れ、品質表示を確認した。

 

「これは長く使えると思う。アインハルトが気に入れば、残してもいいんじゃないかな」

 

 全員がアインハルトを見る。

 

 自分の部屋に置くものを、自分で選ぶ。

 

 彼女は寝具を確かめた。色は落ち着いていて、触れた感触も悪くない。

 

「寝具だけ、使います」

 

「分かった」

 

 ヌメロンが嬉しそうに答えた。

 

「ただし、次からは先に相談してください」

 

「はい」

 

「返事が軽いっスね」

 

 ウェンディが笑う。

 

「アインハルトさん、端末で承認を取るようにした方がいいっスよ。兄が買い物する時、一定額を超えたら通知が来るように」

 

「それいいな」

 

 ノーヴェが賛成する。

 

「ボクの買い物なのに?」

 

「前科がありすぎるんだよ」

 

「検討します」

 

 アインハルトが真剣に答えると、ヌメロンは少し困った顔をした。

 

 部屋へ荷物を入れる。

 

 机には学校の資料を置き、棚には稽古記録と衣服を収めた。空いた場所はまだ多い。それでも、三日間だけ泊まった時とは違う。

 

 ティオの整備台を窓際へ置く。雪豹は新しい寝具の上へ飛び乗り、買い物で選んだ枕へ顎を乗せた。

 

「やはり、その枕が目的だったのですね」

 

 ティオは目を閉じ、聞こえないふりをした。

 

 ウェンディが持ってきた飾りの半分は、アインハルトが断った。残ったのは、小さな時計と、机に置ける照明だけだった。

 

「これで終わりっスか?」

 

「十分です」

 

「壁が寂しくないっス?」

 

「必要になれば、自分で選びます」

 

「その方がいいよ」

 

 ヌメロンが言う。

 

「ここはアインハルトの部屋だから」

 

 他人が完成させるのではなく、アインハルト自身がこれから作っていく部屋。

 

 彼女は棚に残った空きを見て、頷いた。

 

「はい。私の部屋です」

 

     ◇

 

 荷物を運び終えると、全員で居間へ集まった。

 

 ノーヴェが端末を卓上へ置く。

 

「一緒に暮らすなら、最初に決めとけ。後から揉める方が面倒だ」

 

「生活の決まりですか」

 

「そうだ。まず、遅くなる時は連絡する。これは二人ともだ」

 

「分かりました」

 

「うん」

 

「食事の希望を聞かれた時、『何でもいい』で済ませない」

 

 ヌメロンが付け足す。

 

 アインハルトは彼を見る。

 

「毎回決めるのですか」

 

「食べたいものがある時だけでいいよ。でも、何も考えずに何でもいいって言うのは禁止」

 

「では、ヌメロンも自分の分を減らして私へ回さないでください」

 

「足りない時は?」

 

「最初から二人分作ってください」

 

「それも入れよう」

 

 ディエチが記録する。

 

「兄は相談なく高い物を買わない」

 

「高い、の基準は?」

 

「アインハルトさんが高いと思ったらっス」

 

「それだと全部止められない?」

 

「必要なものなら止めません」

 

「昨日、室内着を戻したよね」

 

「必要ありませんでした」

 

「ほら」

 

「兄貴が聞かずに買うのが悪い」

 

 ノーヴェが切り捨てた。

 

「アインハルトも、稽古後に一人で無理な追加練習をしない」

 

「無理かどうかは、私が判断します」

 

「その判断が信用できねえから決めるんだよ」

 

「では、ヌメロンかノーヴェに伝えてから行います」

 

「よし」

 

「ボクの決まりだけ多くない?」

 

 ヌメロンが一覧を見る。

 

「これまで守れていなかった数です」

 

 アインハルトが答えると、ウェンディが卓上へ伏せて笑った。

 

「もう完全に兄の扱いを分かってるっス」

 

「アインハルト、ボクよりノーヴェ達の言うことを信じてない?」

 

「買い物については、そうです」

 

「限定してるだけ優しいな」

 

 ノーヴェまで笑う。

 

 ヌメロンは不満そうだったが、最後には全ての決まりへ同意した。

 

「ほかに決めることは?」

 

 ディエチが尋ねる。

 

 アインハルトは考えた。

 

「部屋へ入る時は、先に声をかけてください」

 

「もちろん」

 

 ヌメロンは即座に答えた。

 

「それから、朝の稽古をする時は私も起こしてください」

 

「毎日?」

 

「毎日です」

 

「休む日も必要だよ」

 

「では、休む日も一緒に決めます」

 

「分かった」

 

 決まりは、どちらかが相手を縛るためのものではなかった。

 

 二人が同じ場所で暮らし、それぞれの時間も守るための約束だった。

 

     ◇

 

 夕方になると、ノーヴェ達は帰っていった。

 

「困ったら連絡しろよ」

 

 ノーヴェが言う。

 

「兄貴だけじゃ話にならねえ時は、あたしに直接でいい」

 

「ボク、そんなに信用ない?」

 

「金の話以外は信用してる」

 

「かなり限定されてない?」

 

 ウェンディは最後まで、「叔母さんと呼んでもいいっスよ」と言い続けた。ディエチは次に必要な物があれば手伝うと告げ、二人で帰っていく。

 

 アインハルトは見送りのため、道場の外へ出た。

 

 角を曲がるまで三人へ頭を下げる。

 

 振り返ると、道場の戸が閉まっていた。

 

 中にはヌメロンがいる。

 

 一度、息を整える。

 

 これは、三日間の調整のためではない。

 

 忘れ物を取りに来たわけでも、夕食だけを食べて帰るわけでもない。

 

 アインハルトは戸を開けた。

 

「おかえり、アインハルト」

 

 新しいエプロンを着けたヌメロンが、居住区へ続く廊下の前に立っていた。

 

 三日間と同じ言葉だった。

 

 けれど、もう終わる日を数える必要はない。

 

「ただいま、ヌメロン」

 

 ティオがアインハルトの足元を抜け、先に廊下を走っていく。

 

 今度は呼び止めなかった。

 

 雪豹は迷わず、アインハルトの部屋へ入った。

 

「夕飯、何がいい?」

 

 ヌメロンが尋ねる。

 

 何でもよい、と答えかける。

 

 今日決めたばかりの約束を思い出した。

 

「以前作っていただいた、肉と野菜の煮込みを」

 

「それだけで足りる?」

 

「では、それと……卵料理を」

 

「分かった」

 

 ヌメロンは台所へ向かう。

 

 アインハルトも荷物を置き、後に続いた。

 

 借りていた部屋ではない。

 

 帰ってもよい場所でもない。

 

 ここはもう、自分が帰ると決めた場所だった。

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