魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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第11話 応援席

 大会の朝、玄関に大きな鞄が置かれていた。

 

 防具を入れるには横に長く、着替えを入れるには固すぎる。上には折り畳んだ三脚が括りつけられ、脇のポケットから予備の記録媒体がのぞいている。

 

 アインハルトは、自分の競技用鞄を持ったまま立ち止まった。

 

「ヌメロン」

 

「なに?」

 

 台所から声が返る。

 

 ヌメロンは買い物の日に渡したエプロンを着け、昼食用の包みをいくつも並べていた。二人分にしては明らかに多い。

 

「これは何ですか」

 

「撮影機材だよ」

 

「それは見れば分かります。なぜ、道場の記録用機材を全部持っていくのですか」

 

「全部じゃないよ。固定撮影用は置いてあるから」

 

「では、持ち運べるものを全部ですね」

 

「うん」

 

 ヌメロンは悪びれずにうなずいた。

 

 道場では、試合や稽古を後から見直すために映像を残すことがある。動きの癖や、本人には見えない立ち位置を確認するためのものだ。

 

 だが、玄関の鞄には映像記録機だけでなく、静止画用のカメラと交換レンズまで入っている。技術研究に必要とは思えないものも多い。

 

「ノーヴェが試合映像は撮ってくれるはずです」

 

「ノーヴェはセコンドだから、試合中に撮れないでしょ」

 

「会場の公式記録もあります」

 

「それだと、入場するところとか、待っているところとか、勝った後の顔が残らないよ」

 

「勝つ前提なのですね」

 

「勝っても負けても撮るよ」

 

 ヌメロンは包みを一つ閉じ、鞄の隣へ置いた。

 

「世の中のパパはこうするから」

 

 アインハルトは数秒、何も言わなかった。

 

「あなたは保護者です」

 

「保護者も写真は撮るよ」

 

「競技会は運動会ではありません」

 

「アインハルトが出るのは同じだよ」

 

「同じではありません」

 

「写真、いらない?」

 

 聞かれると、すぐには断れなかった。

 

 アインハルトは玄関の鞄へ目を戻す。

 

「試合の邪魔にならない場所からにしてください」

 

「もちろん」

 

「フラッシュも禁止です」

 

「切ってあるよ」

 

「他の選手を勝手に撮らないでください」

 

「アインハルトを中心に撮る」

 

「中心ではなく、私だけで構いません」

 

「分かった」

 

 答えがあまりに早い。

 

 アインハルトは、許可を与えたつもりはなかった。注意事項を並べただけのはずなのに、ヌメロンの中では既に撮影の承諾に変わっている。

 

 台所の卓上には、朝食とは別にサンドイッチ、果物、飲み物、栄養補助食品が並んでいた。

 

「こちらは?」

 

「昼食と、試合前と、試合後の分」

 

「多すぎます」

 

「今日はヴィヴィオ達も来るから」

 

「皆、自分の分は持ってきます」

 

「応援するとお腹が空くかもしれないよ」

 

「応援する側を基準に増やさないでください」

 

 アインハルトは包みを二つだけ残し、他を冷蔵庫へ戻した。ヌメロンは止めなかったが、最後の一つをしまう時だけ少し残念そうな顔をした。

 

「帰ってから食べればいいでしょう」

 

「うん。夕食にするよ」

 

「では、無駄にはなりません」

 

 ヌメロンの表情がすぐに戻る。

 

 アインハルトは自分の鞄を肩へかけた。

 

「そろそろ出ます」

 

「待って」

 

 ヌメロンはエプロンを外し、玄関へ来る。手には、もうカメラがあった。

 

「出発するところを一枚」

 

「まだ家の中です」

 

「だから、出発前の写真だよ」

 

「必要ですか」

 

「必要」

 

 迷いなく答えられる。

 

 アインハルトは小さく息をつき、ティオを抱き直した。

 

「一枚だけです」

 

 電子音が鳴った。

 

 一枚だけと言ったのに、続けて二度鳴った。

 

「ヌメロン」

 

「目を閉じた時のためだよ」

 

「閉じていません」

 

「ティオが閉じたかもしれない」

 

 腕の中で、ティオが抗議するように鳴いた。

 

     ◇

 

 競技会場の受付で、二人は別々の通行証を渡された。

 

 アインハルトのものには選手、先に来ていたノーヴェのものには指導者と記されている。

 

 ヌメロンは自分の札を裏返し、もう一度表へ戻した。

 

「選手保護者」

 

 声に出して読む。

 

「兄貴、嬉しそうだな」

 

 受付の脇で待っていたノーヴェが、呆れたように言った。

 

「こういうの、初めてだから」

 

「昨日も保護者登録の通知を何度も見てただろ」

 

「あれとは違うよ。今日はちゃんと、アインハルトの試合を見に来た人の札だから」

 

「そのでかい鞄も、ちゃんと試合を見に来た人の荷物か?」

 

「世の中のパパはこうするから」

 

「どこの世の中だよ」

 

 ノーヴェが鞄を軽く蹴る。

 

「道場の機材を壊すなよ。あと、客席から指示を飛ばすな。技術的な声掛けはあたしがする」

 

「分かってる」

 

「本当か?」

 

「ノーヴェが指導者で、ボクは保護者。役割は取らないよ」

 

 ヌメロンは通行証を首へかけた。

 

「だから、応援する」

 

「そっちの方が不安になってきた」

 

 アインハルトも同じことを思ったが、口には出さなかった。

 

 受付を終えると、選手と一般客の通路が分かれる。

 

 ヌメロンは別れる前に、またカメラを構えた。

 

「今度は何ですか」

 

「受付を終えたところ」

 

「先ほど、受付中にも撮っていました」

 

「あれは書類を書いているところ」

 

「その前にも撮っていました」

 

「会場へ入ったところ」

 

「違いがあるのですか」

 

「あるよ」

 

 ヌメロンが真剣な顔で答えるので、アインハルトにはそれ以上言えなかった。

 

 ノーヴェが彼のカメラの表示を横からのぞく。

 

「兄貴。まだ試合始まってねえのに、何枚撮った?」

 

「八十六枚」

 

「消せ」

 

「どうして?」

 

「同じようなのばっかりだろ!」

 

「全部少しずつ違うよ」

 

「アインハルト、後でお前が選べ。放っとくと全部残すぞ」

 

「そうします」

 

「全部残してもいいのに」

 

「容量の問題ではありません」

 

 アインハルトはそう答えたが、削除するとは言わなかった。

 

     ◇

 

 控室へ向かう通路で、ノーヴェが歩調を落とした。

 

「兄貴、ここまでだ」

 

 この先へ入れるのは、選手と登録された指導者だけだった。

 

「うん」

 

 ヌメロンは足を止める。

 

「観客席にいるよ。なのは達と合流する」

 

「はい」

 

 アインハルトは答え、先へ進もうとした。

 

 けれど、二歩目で止まる。

 

「ヌメロン」

 

「なに?」

 

「もし、今日、勝てなかったら」

 

 ノーヴェは振り返らず、少し先で待った。

 

 アインハルトは、ヌメロンの答えだけを待っている。

 

「一緒に帰るよ」

 

 彼はすぐに答えた。

 

「怪我をしたら手当てをする。悔しかったら話を聞く。お腹が空いていたら、帰ってご飯を作る」

 

「それだけですか」

 

「うん。勝っても負けても、帰る場所は変わらないから」

 

 アインハルトの肩から、わずかに力が抜けた。

 

 勝敗を軽く扱われたとは思わなかった。

 

 今日のために重ねた稽古も、勝ちたいという思いも、ヌメロンは知っている。それでも、試合の結果を家へ帰る条件にはしない。

 

「分かりました」

 

 アインハルトは通路の先へ向き直る。

 

「行ってきます」

 

「行ってらっしゃい、アインハルト」

 

 今度は振り返らず、ノーヴェと共に控室へ入っていった。

 

 扉が閉じてから、ヌメロンはカメラを下ろす。

 

 今の場面は撮っていない。

 

 残したいものの全部が、写真にできるわけではなかった。

 

     ◇

 

 観客席では、なのはとフェイトが一列分の席を取っていた。

 

 ヴィヴィオは二人の間から身を乗り出し、ヌメロンを見つけると大きく手を振る。クリスも頭の上で跳ねた。

 

 少し離れた席にはウェンディとディエチがいる。

 

「こっちっスよ、兄貴!」

 

 ウェンディの声に従って近づくと、全員の視線が機材鞄へ集まった。

 

「ヌメロンくん、それ全部カメラ?」

 

 なのはが尋ねる。

 

「うん。道場にあったものだけだよ」

 

「新しく買ってない、という意味では約束を守ってるんだね」

 

 フェイトが少し困ったように笑う。

 

「必要なら新しいレンズも――」

 

「いらないっス」

 

 ウェンディが即座に止めた。

 

「アインハルトが聞いたら、次の小遣いまで管理されるっスよ」

 

「ボク、小遣い制じゃないよ」

 

「そのうちなるかもしれない」

 

 ディエチが静かに付け足す。

 

 ヌメロンは返事をせず、三脚を組み始めた。固定位置を確かめ、他の観客の視界を遮らない高さへ調整する。

 

 その手際だけは、普段から試合映像を残している者のものだった。

 

「ヌメロンさん、本当にお父さんみたいです」

 

 ヴィヴィオが嬉しそうに言う。

 

「世の中のパパはこうするから」

 

「それ、今日何回目っスか?」

 

「三回目くらい」

 

「あたしらが聞いてない分もあるんスね」

 

 ヌメロンは空いた席へ座る。

 

 すぐに立ち上がる。

 

 座った位置では入場口が見えにくかった。

 

 通路側へ移り、また座る。今度は光の向きを確認し、少しだけ身体を傾けた。

 

「落ち着かないね」

 

 なのはが笑った。

 

「ちゃんと撮りたいから」

 

「緊張してる?」

 

「ボクが?」

 

「うん」

 

 ヌメロンは答える前に、会場中央を見た。

 

 試合場には防護術式が展開され、係員が最後の確認をしている。戦うのは自分ではない。手を伸ばしても、試合が始まれば届かない。

 

 道場なら、危険な一歩の前に止められる。稽古なら、彼が終わりを告げられる。

 

 今日はそれができない。

 

「少しだけ」

 

 ヌメロンは認めた。

 

「でも、アインハルトが自分で出るって決めた場所だから」

 

「うん」

 

 なのはは、それ以上何も言わなかった。

 

 代わりに、空いていた隣の席へ自分の飲み物を移し、ヌメロンが機材を置ける場所を広げた。

 

 会場に選手の名が告げられる。

 

 ヌメロンは話の途中で立ち上がった。

 

「まだアインハルトじゃないっスよ」

 

「入場口に見えたから」

 

「別の金髪の子っス」

 

「そうだった」

 

 座り直す。

 

 数分後、今度こそアインハルトの名が呼ばれた。

 

 ヌメロンは誰より早く立ち上がった。

 

     ◇

 

 アインハルトが試合場へ入る。

 

 競技用の装備を纏い、ティオと共に定位置へ進んだ。

 

 向かいには、同年代ほどの少女が立っている。手甲型のデバイスを装備した、近接戦を得意とする選手だった。

 

 アインハルトは一度、観客席を見上げた。

 

 探す必要はなかった。

 

「アインハルトー!」

 

 会場の音に負けない声が飛んでくる。

 

 カメラを片手に、もう一方の手を大きく振っていた。

 

 隣ではウェンディも立っているが、その声よりヌメロンの方がよく通る。ヴィヴィオが両手を振り、なのはとフェイトも笑っている。ディエチは座ったまま、少し離れて見えるノーヴェへ同情するような視線を送っていた。

 

 試合場の脇に立つノーヴェが、眉間を押さえる。

 

「見るな、アインハルト。集中しろ」

 

「はい」

 

「兄貴の声は聞き流せ。技術的なことは何も言わねえ約束だ」

 

「聞こえていること自体が問題なのですが」

 

「あれでも抑えてるらしい」

 

 ノーヴェがアインハルトの手首の布を直す。

 

「身体は?」

 

「問題ありません」

 

「足も?」

 

「動きます」

 

「なら、いつもどおりやれ。最初の一手で決めようとすんな。相手を見て、転んだら立て」

 

「はい」

 

 アインハルトは目を閉じ、一度だけ深く息を吸った。

 

 開始位置へ向かう。

 

 その背後で、撮影音が連続して鳴った。

 

「兄貴! 今は静かにしろ!」

 

「音は切ったよ!」

 

「返事もいらねえ!」

 

 観客席から小さな笑いが起きた。

 

 アインハルトは正面だけを見る。

 

 開始の合図が告げられた。

 

 相手が先に距離を詰める。

 

 踏み込みは速い。一直線に見せ、直前で外へ回る。右の打撃を見せながら、左足でアインハルトの立ち位置を削る動きだった。

 

 アインハルトは正面から受けず、半歩退く。

 

 拳が頬の前を通過する。すぐに二撃目が来た。

 

 腕で受け、足を残す。

 

 反撃の拳は相手の肩に触れたが、浅い。相手はその力を使って横へ逃げる。

 

「追いすぎるな!」

 

 ノーヴェの声が届く。

 

 アインハルトは三歩目を止めた。

 

 道場へ初めて殴り込んだ時なら、そのまま追っていた。届くまで前へ出て、外された後の足を残さなかった。

 

 今は違う。

 

 相手を見て、再び構える。

 

 観客席で、ヌメロンがカメラ越しにその姿を追っている。

 

 彼は何も指示しない。

 

 ノーヴェとの約束を守り、ただ名前を呼ぶ。

 

「アインハルト、頑張って!」

 

 あまりに普通の応援だった。

 

 それなのに、会場のどの音よりも分かりやすい。

 

 相手の少女が再び踏み込む。

 

 今度は、アインハルトが先に動いた。

 

 正面へ一歩。相手が横へ逃げる位置へ、二歩目を重ねる。

 

 右の拳を受けさせ、左で胴を狙う。

 

 相手の防御が下がった。

 

 だが、そこからの返しが速かった。

 

 手甲がアインハルトの腕を巻き込み、軸足の外側へ身体が入る。視界が傾いた。

 

 足が床を離れる。

 

 投げられる。

 

 アインハルトは顎を引いた。

 

 背から落ちず、肩を丸める。衝撃を一か所へ集めず、身体を横へ逃がした。手が試合場を打ち、受け身の音が響く。

 

 そのまま回り、片膝をつく。

 

 相手の追撃が来る前に立った。

 

「上手に転べたよ、アインハルト!」

 

 観客席から、今日一番大きな声が飛んだ。

 

 一瞬だけ、周囲が静かになった。

 

 近くの観客がヌメロンを見る。ウェンディは口を開け、ディエチは額に手を当てた。

 

 なのはが最初に笑った。

 

「そこを褒めるんだ」

 

「大事なところだよ」

 

 ヌメロンは真剣だった。

 

「ちゃんと自分で立ったから」

 

 試合場のアインハルトにも聞こえていた。

 

 恥ずかしいと思う余裕はなかった。

 

 けれど、胸の奥にあった力みが少しだけほどける。

 

 転んだ。

 

 それでも、もう立っている。

 

 相手が構え直す。

 

 アインハルトも拳を上げた。

 

 今の投げで、相手の入り方は分かった。最初の一歩を受け、二歩目で横へ回り、こちらの前進を使って軸を崩す。

 

 なら、その先を作ればいい。

 

 リオと繰り返した打ち合いで覚えた足の残し方。

 

 ティオと共に確かめた、自分だけで前へ出す三歩目。

 

 道場で、ヌメロンに何度止められても探した次の一手。

 

 アインハルトは正面から踏み込んだ。

 

 一歩目を相手が受ける。

 

 二歩目で、相手が外へ回る。

 

 先ほどと同じ位置へ手甲が伸びた。

 

 アインハルトは逆らわない。

 

 崩される方向へ半歩だけ身体を預け、相手が軸足へ入る瞬間を待つ。

 

 そして、残していた足で三歩目を踏んだ。

 

 倒されるための方向が、そのまま前へ出る道になる。

 

 相手の腕の内側へ入り、肩を押し上げる。

 

 防御が開いた。

 

 アインハルトの拳が、定めた位置へ届いた。

 

 防護術式が強く光る。

 

 相手の少女が後ろへ下がり、膝をついた。

 

 判定の音が会場へ響く。

 

 勝者として、アインハルトの名が告げられた。

 

「やった!」

 

 ヌメロンはカメラを下ろし、両手を上げていた。

 

 ヴィヴィオとウェンディも跳ねる。フェイトが拍手をし、なのはが名前を呼んだ。ディエチも立ち上がり、小さく手を叩いている。

 

 ヌメロンは誰よりも楽しそうだった。

 

 試合場の中央で、アインハルトは相手と礼を交わす。

 

 それから観客席を見た。

 

 カメラは、もう彼女へ向いていない。

 

 勝った瞬間を残すために持ってきたはずの機材を忘れ、ヌメロンはただ笑っていた。

 

     ◇

 

 試合場を下りると、最初にノーヴェが待っていた。

 

「よく三歩目を残したな」

 

「はい」

 

「一回目に投げられたのも無駄じゃねえ。相手の入り方を見て、同じ形を誘えた」

 

「まだ、受けに回る時間が長すぎました」

 

「それは後で映像を見て直す。今は勝ったことも認めろ」

 

 ノーヴェはアインハルトの肩を軽く叩いた。

 

「よくやった」

 

「ありがとうございます」

 

「あと、兄貴がうるさくて悪かったな」

 

「ノーヴェが謝ることではありません」

 

「あいつ、一番楽しんでただろ」

 

「はい」

 

 否定はできなかった。

 

 選手用通路を出ると、ヌメロンが待っている。

 

 規則を守り、立入可能な線の手前で止まっていた。首には選手保護者の札、肩には大きな機材鞄がある。

 

 アインハルトを見つけると、すぐに近づいてきた。

 

「お疲れさま、アインハルト。痛いところはない?」

 

「ありません」

 

「本当に?」

 

「受け身を取りました」

 

「うん。すごく上手だった」

 

「勝ったことより先に、そちらなのですね」

 

「勝ったところもすごかったよ。でも、転んだ時に怪我をしなかったから、その後に勝てた」

 

 ヌメロンは彼女の腕と足を目で確かめる。触れる前に、アインハルトが自分で両腕を動かして見せた。

 

「問題ありません」

 

「分かった」

 

 ヌメロンはようやく表情を緩めた。

 

 アインハルトは、その顔を見てから尋ねる。

 

「見ていましたか」

 

「最初から最後まで」

 

「本当に、最後までですか」

 

「うん。転んだところも、立ったところも」

 

 勝ったところだけではない。

 

 うまく届かなかった拳も、相手に崩された瞬間も、その後に自分で立ったところも見ていた。

 

 アインハルトは小さくうなずく。

 

「写真は?」

 

「たくさん撮ったよ」

 

 ヌメロンが表示を開く。

 

 受付で書類を書く横顔、控室へ向かう後ろ姿、ノーヴェに手首の布を直されている場面。開始位置に立つ姿から、最初の踏み込みまで連続して残っている。

 

 投げられた瞬間の写真は少し傾いていた。

 

 その次には、片膝から立ち上がる姿がある。

 

「勝った瞬間は?」

 

「あるよ」

 

 ヌメロンは一枚を表示した。

 

 画面には、強くぶれた試合場の光と、端に切れたアインハルトの髪だけが写っている。

 

「これは、撮れているとは言いません」

 

「勝ったから、応援しようと思って」

 

「そのために、あれだけの機材を持ってきたのでは?」

 

「撮るより先に立ってた」

 

「あなたは、試合中から立っていました」

 

「もっと立ったんだよ」

 

 意味が分からない。

 

 けれど、アインハルトは画面の中の失敗した一枚をしばらく見た。

 

 勝った瞬間を正確に残したものなら、会場の公式記録がある。ノーヴェが後で見せてくれる試合映像にも、拳が届いた場面は映っているだろう。

 

 このぶれた一枚だけが、その瞬間、ヌメロンが撮ることを忘れて喜んだ証拠だった。

 

「撮りすぎです」

 

「世の中のパパはこうするから」

 

「まだ、パパと呼んでいません」

 

 ヌメロンが少しだけ目を丸くする。

 

「でも、写真はいらない?」

 

「……後で全部送ってください」

 

「全部?」

 

「選ぶのは私がします。あなたに任せると、同じ写真を全部残しそうですから」

 

「少しずつ違うのに」

 

「私が確認します」

 

「分かった」

 

 ヌメロンは嬉しそうに端末を閉じた。

 

 後ろから来たノーヴェが、機材鞄を彼の背へ押しつける。

 

「話が終わったなら、先に帰れ。あたしはアインハルトと試合の確認をしてから戻る」

 

「ボクも残るよ」

 

「夕飯は?」

 

「帰ってから作る」

 

「今から帰れば、アインハルトが戻る頃にはできてるだろ」

 

 ヌメロンはアインハルトを見る。

 

「先に帰っていてください」

 

 アインハルトが言った。

 

「ノーヴェと確認を終えたら、私も帰ります」

 

「一人で大丈夫?」

 

「会場へも一人で来られます」

 

「知ってるよ」

 

「では、家で待っていてください」

 

 その言葉に、ヌメロンは何も重ねなかった。

 

「分かった。何が食べたい?」

 

「朝、冷蔵庫へ戻したものを」

 

「全部?」

 

「適量です」

 

「うん。考えて作るよ」

 

 ヌメロンは大きな鞄を持ち直す。

 

「先に帰ってるね。ノーヴェ、アインハルトをお願い」

 

「任せろ」

 

「行ってらっしゃい、アインハルト」

 

「もう試合は終わりました」

 

「これから振り返りをするんでしょ」

 

 彼は笑う。

 

「だから、行ってらっしゃい」

 

 アインハルトは少し間を置いて、うなずいた。

 

「はい。行ってきます」

 

     ◇

 

 ノーヴェとの確認を終え、アインハルトが道場へ戻った時には、外は暗くなり始めていた。

 

 玄関を開ける前から、煮込みの匂いがする。

 

 ティオが先に扉を抜け、居住区へ駆けていった。

 

「ただいま、ヌメロン」

 

 台所から足音が近づく。

 

「おかえり、アインハルト」

 

 ヌメロンはエプロン姿で現れた。

 

 朝と違い、首に通行証はない。カメラも持っていない。いつもの家の姿だった。

 

「試合の確認はどうだった?」

 

「直すところが、いくつもありました」

 

「そっか」

 

「ですが、三歩目は良かったとノーヴェに言われました」

 

「ボクもそう思う」

 

「映像も見ていないのに分かるのですか」

 

「最初から最後まで見てたから」

 

 同じ答えだった。

 

 アインハルトは靴を脱ぎ、朝と同じ位置へ揃えた。

 

「夕食は、もうできますか」

 

「あと少し。先に着替えておいで」

 

「はい」

 

 部屋へ向かい、二歩で止まる。

 

「ヌメロン」

 

「なに?」

 

「次の試合も、見に来ますか」

 

「行っていいの?」

 

「あなたは保護者ですから」

 

「うん」

 

 ヌメロンは笑った。

 

「もちろん行くよ」

 

「では、次も最初から最後まで見ていてください」

 

「分かった」

 

「写真は、もう少し少なくても構いません」

 

「努力する」

 

「減らすとは言わないのですね」

 

「世の中のパパは――」

 

「それは、もう聞きました」

 

 アインハルトは今度こそ部屋へ戻る。

 

 夕食の席では、試合の話をした。

 

 最初の一歩が遅れたこと。相手の投げへ入られるまで気づけなかったこと。転んだ後、観客席からの声があまりに大きかったこと。

 

「聞こえてたんだ」

 

「会場にいた全員に聞こえていたと思います」

 

「応援だから」

 

「技術的な指示はしない約束だったのでしょう」

 

「上手に転べたって言っただけだよ」

 

「十分に目立っていました」

 

「次は小さく言う?」

 

 アインハルトは少し考える。

 

「いいえ」

 

「いいの?」

 

「聞こえなければ、応援する意味がありません」

 

 ヌメロンは一瞬黙り、それから嬉しそうにうなずいた。

 

「じゃあ、次も聞こえるようにするね」

 

「限度は守ってください」

 

「難しいね」

 

「難しくありません」

 

 二人分の食事が減っていく。

 

 卓上の端末には、今日撮った写真が転送されていた。似た構図がいくつも並び、その中に、勝った瞬間のぶれた一枚もある。

 

 アインハルトは、まだ一枚も消していなかった。

 

 今日、彼女は自分の戦いを最初から最後まで見せてくれた。

 

 届かなかった拳も、転んだ姿も、自分で立ち上がったところも。

 

 なら、次は自分の番だった。

 

 彼女が知りたいと言ったことを、途中で止めずに話す番だ。

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