大会の朝、玄関に大きな鞄が置かれていた。
防具を入れるには横に長く、着替えを入れるには固すぎる。上には折り畳んだ三脚が括りつけられ、脇のポケットから予備の記録媒体がのぞいている。
アインハルトは、自分の競技用鞄を持ったまま立ち止まった。
「ヌメロン」
「なに?」
台所から声が返る。
ヌメロンは買い物の日に渡したエプロンを着け、昼食用の包みをいくつも並べていた。二人分にしては明らかに多い。
「これは何ですか」
「撮影機材だよ」
「それは見れば分かります。なぜ、道場の記録用機材を全部持っていくのですか」
「全部じゃないよ。固定撮影用は置いてあるから」
「では、持ち運べるものを全部ですね」
「うん」
ヌメロンは悪びれずにうなずいた。
道場では、試合や稽古を後から見直すために映像を残すことがある。動きの癖や、本人には見えない立ち位置を確認するためのものだ。
だが、玄関の鞄には映像記録機だけでなく、静止画用のカメラと交換レンズまで入っている。技術研究に必要とは思えないものも多い。
「ノーヴェが試合映像は撮ってくれるはずです」
「ノーヴェはセコンドだから、試合中に撮れないでしょ」
「会場の公式記録もあります」
「それだと、入場するところとか、待っているところとか、勝った後の顔が残らないよ」
「勝つ前提なのですね」
「勝っても負けても撮るよ」
ヌメロンは包みを一つ閉じ、鞄の隣へ置いた。
「世の中のパパはこうするから」
アインハルトは数秒、何も言わなかった。
「あなたは保護者です」
「保護者も写真は撮るよ」
「競技会は運動会ではありません」
「アインハルトが出るのは同じだよ」
「同じではありません」
「写真、いらない?」
聞かれると、すぐには断れなかった。
アインハルトは玄関の鞄へ目を戻す。
「試合の邪魔にならない場所からにしてください」
「もちろん」
「フラッシュも禁止です」
「切ってあるよ」
「他の選手を勝手に撮らないでください」
「アインハルトを中心に撮る」
「中心ではなく、私だけで構いません」
「分かった」
答えがあまりに早い。
アインハルトは、許可を与えたつもりはなかった。注意事項を並べただけのはずなのに、ヌメロンの中では既に撮影の承諾に変わっている。
台所の卓上には、朝食とは別にサンドイッチ、果物、飲み物、栄養補助食品が並んでいた。
「こちらは?」
「昼食と、試合前と、試合後の分」
「多すぎます」
「今日はヴィヴィオ達も来るから」
「皆、自分の分は持ってきます」
「応援するとお腹が空くかもしれないよ」
「応援する側を基準に増やさないでください」
アインハルトは包みを二つだけ残し、他を冷蔵庫へ戻した。ヌメロンは止めなかったが、最後の一つをしまう時だけ少し残念そうな顔をした。
「帰ってから食べればいいでしょう」
「うん。夕食にするよ」
「では、無駄にはなりません」
ヌメロンの表情がすぐに戻る。
アインハルトは自分の鞄を肩へかけた。
「そろそろ出ます」
「待って」
ヌメロンはエプロンを外し、玄関へ来る。手には、もうカメラがあった。
「出発するところを一枚」
「まだ家の中です」
「だから、出発前の写真だよ」
「必要ですか」
「必要」
迷いなく答えられる。
アインハルトは小さく息をつき、ティオを抱き直した。
「一枚だけです」
電子音が鳴った。
一枚だけと言ったのに、続けて二度鳴った。
「ヌメロン」
「目を閉じた時のためだよ」
「閉じていません」
「ティオが閉じたかもしれない」
腕の中で、ティオが抗議するように鳴いた。
◇
競技会場の受付で、二人は別々の通行証を渡された。
アインハルトのものには選手、先に来ていたノーヴェのものには指導者と記されている。
ヌメロンは自分の札を裏返し、もう一度表へ戻した。
「選手保護者」
声に出して読む。
「兄貴、嬉しそうだな」
受付の脇で待っていたノーヴェが、呆れたように言った。
「こういうの、初めてだから」
「昨日も保護者登録の通知を何度も見てただろ」
「あれとは違うよ。今日はちゃんと、アインハルトの試合を見に来た人の札だから」
「そのでかい鞄も、ちゃんと試合を見に来た人の荷物か?」
「世の中のパパはこうするから」
「どこの世の中だよ」
ノーヴェが鞄を軽く蹴る。
「道場の機材を壊すなよ。あと、客席から指示を飛ばすな。技術的な声掛けはあたしがする」
「分かってる」
「本当か?」
「ノーヴェが指導者で、ボクは保護者。役割は取らないよ」
ヌメロンは通行証を首へかけた。
「だから、応援する」
「そっちの方が不安になってきた」
アインハルトも同じことを思ったが、口には出さなかった。
受付を終えると、選手と一般客の通路が分かれる。
ヌメロンは別れる前に、またカメラを構えた。
「今度は何ですか」
「受付を終えたところ」
「先ほど、受付中にも撮っていました」
「あれは書類を書いているところ」
「その前にも撮っていました」
「会場へ入ったところ」
「違いがあるのですか」
「あるよ」
ヌメロンが真剣な顔で答えるので、アインハルトにはそれ以上言えなかった。
ノーヴェが彼のカメラの表示を横からのぞく。
「兄貴。まだ試合始まってねえのに、何枚撮った?」
「八十六枚」
「消せ」
「どうして?」
「同じようなのばっかりだろ!」
「全部少しずつ違うよ」
「アインハルト、後でお前が選べ。放っとくと全部残すぞ」
「そうします」
「全部残してもいいのに」
「容量の問題ではありません」
アインハルトはそう答えたが、削除するとは言わなかった。
◇
控室へ向かう通路で、ノーヴェが歩調を落とした。
「兄貴、ここまでだ」
この先へ入れるのは、選手と登録された指導者だけだった。
「うん」
ヌメロンは足を止める。
「観客席にいるよ。なのは達と合流する」
「はい」
アインハルトは答え、先へ進もうとした。
けれど、二歩目で止まる。
「ヌメロン」
「なに?」
「もし、今日、勝てなかったら」
ノーヴェは振り返らず、少し先で待った。
アインハルトは、ヌメロンの答えだけを待っている。
「一緒に帰るよ」
彼はすぐに答えた。
「怪我をしたら手当てをする。悔しかったら話を聞く。お腹が空いていたら、帰ってご飯を作る」
「それだけですか」
「うん。勝っても負けても、帰る場所は変わらないから」
アインハルトの肩から、わずかに力が抜けた。
勝敗を軽く扱われたとは思わなかった。
今日のために重ねた稽古も、勝ちたいという思いも、ヌメロンは知っている。それでも、試合の結果を家へ帰る条件にはしない。
「分かりました」
アインハルトは通路の先へ向き直る。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、アインハルト」
今度は振り返らず、ノーヴェと共に控室へ入っていった。
扉が閉じてから、ヌメロンはカメラを下ろす。
今の場面は撮っていない。
残したいものの全部が、写真にできるわけではなかった。
◇
観客席では、なのはとフェイトが一列分の席を取っていた。
ヴィヴィオは二人の間から身を乗り出し、ヌメロンを見つけると大きく手を振る。クリスも頭の上で跳ねた。
少し離れた席にはウェンディとディエチがいる。
「こっちっスよ、兄貴!」
ウェンディの声に従って近づくと、全員の視線が機材鞄へ集まった。
「ヌメロンくん、それ全部カメラ?」
なのはが尋ねる。
「うん。道場にあったものだけだよ」
「新しく買ってない、という意味では約束を守ってるんだね」
フェイトが少し困ったように笑う。
「必要なら新しいレンズも――」
「いらないっス」
ウェンディが即座に止めた。
「アインハルトが聞いたら、次の小遣いまで管理されるっスよ」
「ボク、小遣い制じゃないよ」
「そのうちなるかもしれない」
ディエチが静かに付け足す。
ヌメロンは返事をせず、三脚を組み始めた。固定位置を確かめ、他の観客の視界を遮らない高さへ調整する。
その手際だけは、普段から試合映像を残している者のものだった。
「ヌメロンさん、本当にお父さんみたいです」
ヴィヴィオが嬉しそうに言う。
「世の中のパパはこうするから」
「それ、今日何回目っスか?」
「三回目くらい」
「あたしらが聞いてない分もあるんスね」
ヌメロンは空いた席へ座る。
すぐに立ち上がる。
座った位置では入場口が見えにくかった。
通路側へ移り、また座る。今度は光の向きを確認し、少しだけ身体を傾けた。
「落ち着かないね」
なのはが笑った。
「ちゃんと撮りたいから」
「緊張してる?」
「ボクが?」
「うん」
ヌメロンは答える前に、会場中央を見た。
試合場には防護術式が展開され、係員が最後の確認をしている。戦うのは自分ではない。手を伸ばしても、試合が始まれば届かない。
道場なら、危険な一歩の前に止められる。稽古なら、彼が終わりを告げられる。
今日はそれができない。
「少しだけ」
ヌメロンは認めた。
「でも、アインハルトが自分で出るって決めた場所だから」
「うん」
なのはは、それ以上何も言わなかった。
代わりに、空いていた隣の席へ自分の飲み物を移し、ヌメロンが機材を置ける場所を広げた。
会場に選手の名が告げられる。
ヌメロンは話の途中で立ち上がった。
「まだアインハルトじゃないっスよ」
「入場口に見えたから」
「別の金髪の子っス」
「そうだった」
座り直す。
数分後、今度こそアインハルトの名が呼ばれた。
ヌメロンは誰より早く立ち上がった。
◇
アインハルトが試合場へ入る。
競技用の装備を纏い、ティオと共に定位置へ進んだ。
向かいには、同年代ほどの少女が立っている。手甲型のデバイスを装備した、近接戦を得意とする選手だった。
アインハルトは一度、観客席を見上げた。
探す必要はなかった。
「アインハルトー!」
会場の音に負けない声が飛んでくる。
カメラを片手に、もう一方の手を大きく振っていた。
隣ではウェンディも立っているが、その声よりヌメロンの方がよく通る。ヴィヴィオが両手を振り、なのはとフェイトも笑っている。ディエチは座ったまま、少し離れて見えるノーヴェへ同情するような視線を送っていた。
試合場の脇に立つノーヴェが、眉間を押さえる。
「見るな、アインハルト。集中しろ」
「はい」
「兄貴の声は聞き流せ。技術的なことは何も言わねえ約束だ」
「聞こえていること自体が問題なのですが」
「あれでも抑えてるらしい」
ノーヴェがアインハルトの手首の布を直す。
「身体は?」
「問題ありません」
「足も?」
「動きます」
「なら、いつもどおりやれ。最初の一手で決めようとすんな。相手を見て、転んだら立て」
「はい」
アインハルトは目を閉じ、一度だけ深く息を吸った。
開始位置へ向かう。
その背後で、撮影音が連続して鳴った。
「兄貴! 今は静かにしろ!」
「音は切ったよ!」
「返事もいらねえ!」
観客席から小さな笑いが起きた。
アインハルトは正面だけを見る。
開始の合図が告げられた。
相手が先に距離を詰める。
踏み込みは速い。一直線に見せ、直前で外へ回る。右の打撃を見せながら、左足でアインハルトの立ち位置を削る動きだった。
アインハルトは正面から受けず、半歩退く。
拳が頬の前を通過する。すぐに二撃目が来た。
腕で受け、足を残す。
反撃の拳は相手の肩に触れたが、浅い。相手はその力を使って横へ逃げる。
「追いすぎるな!」
ノーヴェの声が届く。
アインハルトは三歩目を止めた。
道場へ初めて殴り込んだ時なら、そのまま追っていた。届くまで前へ出て、外された後の足を残さなかった。
今は違う。
相手を見て、再び構える。
観客席で、ヌメロンがカメラ越しにその姿を追っている。
彼は何も指示しない。
ノーヴェとの約束を守り、ただ名前を呼ぶ。
「アインハルト、頑張って!」
あまりに普通の応援だった。
それなのに、会場のどの音よりも分かりやすい。
相手の少女が再び踏み込む。
今度は、アインハルトが先に動いた。
正面へ一歩。相手が横へ逃げる位置へ、二歩目を重ねる。
右の拳を受けさせ、左で胴を狙う。
相手の防御が下がった。
だが、そこからの返しが速かった。
手甲がアインハルトの腕を巻き込み、軸足の外側へ身体が入る。視界が傾いた。
足が床を離れる。
投げられる。
アインハルトは顎を引いた。
背から落ちず、肩を丸める。衝撃を一か所へ集めず、身体を横へ逃がした。手が試合場を打ち、受け身の音が響く。
そのまま回り、片膝をつく。
相手の追撃が来る前に立った。
「上手に転べたよ、アインハルト!」
観客席から、今日一番大きな声が飛んだ。
一瞬だけ、周囲が静かになった。
近くの観客がヌメロンを見る。ウェンディは口を開け、ディエチは額に手を当てた。
なのはが最初に笑った。
「そこを褒めるんだ」
「大事なところだよ」
ヌメロンは真剣だった。
「ちゃんと自分で立ったから」
試合場のアインハルトにも聞こえていた。
恥ずかしいと思う余裕はなかった。
けれど、胸の奥にあった力みが少しだけほどける。
転んだ。
それでも、もう立っている。
相手が構え直す。
アインハルトも拳を上げた。
今の投げで、相手の入り方は分かった。最初の一歩を受け、二歩目で横へ回り、こちらの前進を使って軸を崩す。
なら、その先を作ればいい。
リオと繰り返した打ち合いで覚えた足の残し方。
ティオと共に確かめた、自分だけで前へ出す三歩目。
道場で、ヌメロンに何度止められても探した次の一手。
アインハルトは正面から踏み込んだ。
一歩目を相手が受ける。
二歩目で、相手が外へ回る。
先ほどと同じ位置へ手甲が伸びた。
アインハルトは逆らわない。
崩される方向へ半歩だけ身体を預け、相手が軸足へ入る瞬間を待つ。
そして、残していた足で三歩目を踏んだ。
倒されるための方向が、そのまま前へ出る道になる。
相手の腕の内側へ入り、肩を押し上げる。
防御が開いた。
アインハルトの拳が、定めた位置へ届いた。
防護術式が強く光る。
相手の少女が後ろへ下がり、膝をついた。
判定の音が会場へ響く。
勝者として、アインハルトの名が告げられた。
「やった!」
ヌメロンはカメラを下ろし、両手を上げていた。
ヴィヴィオとウェンディも跳ねる。フェイトが拍手をし、なのはが名前を呼んだ。ディエチも立ち上がり、小さく手を叩いている。
ヌメロンは誰よりも楽しそうだった。
試合場の中央で、アインハルトは相手と礼を交わす。
それから観客席を見た。
カメラは、もう彼女へ向いていない。
勝った瞬間を残すために持ってきたはずの機材を忘れ、ヌメロンはただ笑っていた。
◇
試合場を下りると、最初にノーヴェが待っていた。
「よく三歩目を残したな」
「はい」
「一回目に投げられたのも無駄じゃねえ。相手の入り方を見て、同じ形を誘えた」
「まだ、受けに回る時間が長すぎました」
「それは後で映像を見て直す。今は勝ったことも認めろ」
ノーヴェはアインハルトの肩を軽く叩いた。
「よくやった」
「ありがとうございます」
「あと、兄貴がうるさくて悪かったな」
「ノーヴェが謝ることではありません」
「あいつ、一番楽しんでただろ」
「はい」
否定はできなかった。
選手用通路を出ると、ヌメロンが待っている。
規則を守り、立入可能な線の手前で止まっていた。首には選手保護者の札、肩には大きな機材鞄がある。
アインハルトを見つけると、すぐに近づいてきた。
「お疲れさま、アインハルト。痛いところはない?」
「ありません」
「本当に?」
「受け身を取りました」
「うん。すごく上手だった」
「勝ったことより先に、そちらなのですね」
「勝ったところもすごかったよ。でも、転んだ時に怪我をしなかったから、その後に勝てた」
ヌメロンは彼女の腕と足を目で確かめる。触れる前に、アインハルトが自分で両腕を動かして見せた。
「問題ありません」
「分かった」
ヌメロンはようやく表情を緩めた。
アインハルトは、その顔を見てから尋ねる。
「見ていましたか」
「最初から最後まで」
「本当に、最後までですか」
「うん。転んだところも、立ったところも」
勝ったところだけではない。
うまく届かなかった拳も、相手に崩された瞬間も、その後に自分で立ったところも見ていた。
アインハルトは小さくうなずく。
「写真は?」
「たくさん撮ったよ」
ヌメロンが表示を開く。
受付で書類を書く横顔、控室へ向かう後ろ姿、ノーヴェに手首の布を直されている場面。開始位置に立つ姿から、最初の踏み込みまで連続して残っている。
投げられた瞬間の写真は少し傾いていた。
その次には、片膝から立ち上がる姿がある。
「勝った瞬間は?」
「あるよ」
ヌメロンは一枚を表示した。
画面には、強くぶれた試合場の光と、端に切れたアインハルトの髪だけが写っている。
「これは、撮れているとは言いません」
「勝ったから、応援しようと思って」
「そのために、あれだけの機材を持ってきたのでは?」
「撮るより先に立ってた」
「あなたは、試合中から立っていました」
「もっと立ったんだよ」
意味が分からない。
けれど、アインハルトは画面の中の失敗した一枚をしばらく見た。
勝った瞬間を正確に残したものなら、会場の公式記録がある。ノーヴェが後で見せてくれる試合映像にも、拳が届いた場面は映っているだろう。
このぶれた一枚だけが、その瞬間、ヌメロンが撮ることを忘れて喜んだ証拠だった。
「撮りすぎです」
「世の中のパパはこうするから」
「まだ、パパと呼んでいません」
ヌメロンが少しだけ目を丸くする。
「でも、写真はいらない?」
「……後で全部送ってください」
「全部?」
「選ぶのは私がします。あなたに任せると、同じ写真を全部残しそうですから」
「少しずつ違うのに」
「私が確認します」
「分かった」
ヌメロンは嬉しそうに端末を閉じた。
後ろから来たノーヴェが、機材鞄を彼の背へ押しつける。
「話が終わったなら、先に帰れ。あたしはアインハルトと試合の確認をしてから戻る」
「ボクも残るよ」
「夕飯は?」
「帰ってから作る」
「今から帰れば、アインハルトが戻る頃にはできてるだろ」
ヌメロンはアインハルトを見る。
「先に帰っていてください」
アインハルトが言った。
「ノーヴェと確認を終えたら、私も帰ります」
「一人で大丈夫?」
「会場へも一人で来られます」
「知ってるよ」
「では、家で待っていてください」
その言葉に、ヌメロンは何も重ねなかった。
「分かった。何が食べたい?」
「朝、冷蔵庫へ戻したものを」
「全部?」
「適量です」
「うん。考えて作るよ」
ヌメロンは大きな鞄を持ち直す。
「先に帰ってるね。ノーヴェ、アインハルトをお願い」
「任せろ」
「行ってらっしゃい、アインハルト」
「もう試合は終わりました」
「これから振り返りをするんでしょ」
彼は笑う。
「だから、行ってらっしゃい」
アインハルトは少し間を置いて、うなずいた。
「はい。行ってきます」
◇
ノーヴェとの確認を終え、アインハルトが道場へ戻った時には、外は暗くなり始めていた。
玄関を開ける前から、煮込みの匂いがする。
ティオが先に扉を抜け、居住区へ駆けていった。
「ただいま、ヌメロン」
台所から足音が近づく。
「おかえり、アインハルト」
ヌメロンはエプロン姿で現れた。
朝と違い、首に通行証はない。カメラも持っていない。いつもの家の姿だった。
「試合の確認はどうだった?」
「直すところが、いくつもありました」
「そっか」
「ですが、三歩目は良かったとノーヴェに言われました」
「ボクもそう思う」
「映像も見ていないのに分かるのですか」
「最初から最後まで見てたから」
同じ答えだった。
アインハルトは靴を脱ぎ、朝と同じ位置へ揃えた。
「夕食は、もうできますか」
「あと少し。先に着替えておいで」
「はい」
部屋へ向かい、二歩で止まる。
「ヌメロン」
「なに?」
「次の試合も、見に来ますか」
「行っていいの?」
「あなたは保護者ですから」
「うん」
ヌメロンは笑った。
「もちろん行くよ」
「では、次も最初から最後まで見ていてください」
「分かった」
「写真は、もう少し少なくても構いません」
「努力する」
「減らすとは言わないのですね」
「世の中のパパは――」
「それは、もう聞きました」
アインハルトは今度こそ部屋へ戻る。
夕食の席では、試合の話をした。
最初の一歩が遅れたこと。相手の投げへ入られるまで気づけなかったこと。転んだ後、観客席からの声があまりに大きかったこと。
「聞こえてたんだ」
「会場にいた全員に聞こえていたと思います」
「応援だから」
「技術的な指示はしない約束だったのでしょう」
「上手に転べたって言っただけだよ」
「十分に目立っていました」
「次は小さく言う?」
アインハルトは少し考える。
「いいえ」
「いいの?」
「聞こえなければ、応援する意味がありません」
ヌメロンは一瞬黙り、それから嬉しそうにうなずいた。
「じゃあ、次も聞こえるようにするね」
「限度は守ってください」
「難しいね」
「難しくありません」
二人分の食事が減っていく。
卓上の端末には、今日撮った写真が転送されていた。似た構図がいくつも並び、その中に、勝った瞬間のぶれた一枚もある。
アインハルトは、まだ一枚も消していなかった。
今日、彼女は自分の戦いを最初から最後まで見せてくれた。
届かなかった拳も、転んだ姿も、自分で立ち上がったところも。
なら、次は自分の番だった。
彼女が知りたいと言ったことを、途中で止めずに話す番だ。