夕食の後、ヌメロンは食器を洗いながら、何度も同じ言葉を考えていた。
話したいことがある。
聞いてほしいことがある。
どちらも間違いではない。けれど、どちらも少し違う気がした。
話すと決めたのは自分だ。アインハルトが知りたいと言ってくれたことへ、今まで答えなかったのも自分だった。
「ヌメロン」
背後から呼ばれ、手の中の皿が止まる。
「なに?」
「先ほどから、同じ皿を洗っています」
振り返ると、アインハルトが食卓の横に立っていた。
試合用の服から部屋着へ着替え、腕にはティオを抱いている。卓上の端末には、今日の写真がまだ表示されていた。
「汚れが残ってたから」
「もう落ちています」
「そうだね」
ヌメロンは水を止めた。
拭き布で皿を拭き、棚へ戻す。次の皿へ手を伸ばす必要はなかった。洗い物は、ずっと前に終わっている。
「アインハルト」
「はい」
「少し、話してもいい?」
ようやく出た言葉は、考えていた二つのどちらでもなかった。
「長くなりますか」
「たぶん」
「では、お茶を淹れます」
「疲れてない?」
「試合の後に、ノーヴェと映像を全て確認しました。それより長くはならないでしょう」
「どうだろう」
「長くなるのですね」
アインハルトはティオを床へ下ろし、湯を沸かし始めた。
何を話すのかは聞かなかった。
それでも、いつもの食卓ではなく道場へ二つの杯を運んだ。
◇
夜の道場には、二人の足音だけが響いた。
昼間の稽古で使った保護具は片づけられ、畳の上には何もない。アインハルトは壁際から座布団を二枚取り、少し間を空けて並べた。
壁には、二枚の稽古表がある。
ストライクが残した古い表と、ヌメロンとノーヴェが書き続けている新しい表。
新しい方には、アインハルトの名もあった。
「ここで話すのですか」
「うん。ここで初めて、ボクの名前を伝えたから」
道場へ殴り込んできた少女は、手合わせを終えた後で名乗った。
アインハルト・ストラトス。
ヌメロンも、自分の名を返した。
あの時、嘘は言っていない。
けれど、話していないことは多かった。
二人は向かい合って座る。ティオはアインハルトの隣で身体を丸めた。
湯気が二人の間を昇る。
「以前、言ってくれたよね」
ヌメロンが口を開いた。
「私にも、あなたのことを教えてください、って」
「覚えていたのですか」
「忘れないよ」
「私は、何を聞くか考えてからと答えました」
「うん。だから、待ってた」
「まだ、質問を決めていません」
「今日は、ボクから話したいんだ」
アインハルトは杯へ伸ばしかけた手を止めた。
「今日、アインハルトは自分の試合を、最初から最後まで見せてくれたから」
「それは、あなたが勝手に見に来たのでは」
「保護者だからね」
「その言葉を便利に使わないでください」
「でも、名前を書いた時に決めたんだ。アインハルトに何かあった時、隣で答えるって」
ヌメロンは自分の手を見る。
「それなら、ボクが何者なのかも、アインハルトは知っていた方がいい」
「保護者になったから、話すのですか」
「それだけじゃないよ」
顔を上げる。
「知ってほしいと思ったから」
アインハルトは急かさなかった。
黙って、続きを待つ。
「ボクの名前は、クオン・ヌメロン」
「知っています」
「うん。今も、それは本当だよ」
ヌメロンは一度、息を吸った。
「でも、最初からボクだけの名前だったわけじゃない」
◇
「ずっと前、地球に一人の男の子がいたんだ」
ヌメロンは話し始めた。
「名前は、溱久遠。ボクと同じ音で、久しい、遠いと書く」
「あなたと、同じ名前なのですか」
「音だけはね」
彼は端末を持ってこなかった。
記録を見せれば、もっと正確に説明できる。事件の日付も、調査で分かったことも、管理局に残る資料を順番に並べられる。
けれど今伝えたいのは、報告書の中身ではなかった。
「久遠には、魔法がなかった。なのはの幼なじみで、はやてとは図書館で知り合った。フェイトとも友達になった。みんなと同じ場所に立ちたくて、自分にできることを探してた」
アインハルトは口を挟まない。
「九歳の時、図書館で夜天の書に残っていた呪いに触れた」
湯気の向こうで、彼女の目がわずかに動いた。
「久遠は、その日に死んだ」
短く言った。
行方不明になった。遺体は見つからなかった。長い調査が行われた。
それでも、彼がどこかで生きているとは言わなかった。
「帰ってこなかったんだ」
アインハルトの指が、膝の上でゆっくり握られる。
「では、あなたは」
「その時に残った呪いから生まれた」
「呪い」
「うん」
ヌメロンは否定しなかった。
「呪いは久遠の記憶と、最後に抱いた感情を取り込んだ。身体の形も、声も、名前も借りた。そうしてできたものが、自分達をクオンと呼んだ」
「自分達」
アインハルトが、その言葉を繰り返す。
「一人ではなかったのですか」
「初めは、一人と数える意味がなかった」
ヌメロンは答えた。
「同じ記憶を持って、同じことを考える身体がいくつもあった。一つが見たものを、別の一つも知っていた。どれかが消えても、残ったボク達が覚えていた」
「全員が、クオン」
「そう。だから昔は、ボク達はクオンだ、と名乗ってた」
個体を分ける呼び方はあっても、それは名前ではなかった。
役目を示すための記号に近い。
「久遠本人が戻ってきたわけではないのですね」
問いは、静かだった。
「うん」
ヌメロンは迷わず答える。
「久遠の記憶はある。なのは達と過ごした日のことも、はやてと図書館で話したことも知ってる。最後に、何を怖がって、誰に帰ってほしいと思ったかも覚えてる」
それは記録よりも鮮明だった。
痛みも、恐怖も、置いていく者への思いも、自分の内側にある。
「でも、それを持っているから久遠本人だとは言えない。ボク達は彼の魂がどうなったかを知らない。だから、帰ってきたふりはできない」
「なのは達も、それを知っているのですか」
「知ってるよ」
「それでも、あなたの席がある」
第六話の夜道で、アインハルトが不思議そうに見ていた席。
初めから用意されていたように見えた場所。
「三人が最初にボクを見た時は、久遠の顔を見たと思う」
ヌメロンは正直に答えた。
「ボクにも久遠の記憶があったから、ずっと知っていたように話せた。でも、クオン・ヌメロンとして三人と話し始めたのは、それよりずっと後だよ」
「あなたが以前、知り合ってからの時間は長くないと言ったのは」
「そのこと」
あの時は、それ以上を言えなかった。
久遠という少年がいたことも、自分がその記憶を持つことも、アインハルトは知らなかったからだ。
「三人は、あなたを久遠として迎えたのですか」
「違うよ」
すぐに答え、それから少しだけ考え直す。
「……違う、だけだと簡単すぎるね。ボクの中に久遠を見る時は、今もあると思う。ボクも、久遠の記憶から三人を見てしまうことがある」
完全に切り分けられるものではない。
似ているから近づいた日も、失った面影に立ち止まった日もあった。
「それでも、三人はボクをヌメロンと呼ぶ。ボクが間違えたら、久遠ならそんなことはしなかったとは言わず、ヌメロンが間違えたって怒る。ボクが帰れば、ヌメロンにおかえりと言ってくれる」
「それで、気づいたら席があった」
「うん」
ヌメロンは笑った。
「誰かに座ってほしいと言われたわけじゃない。久遠の空いた席を、そのままもらったわけでもない。何度も会っているうちに、ボクが座る場所になったんだ」
アインハルトは、しばらく何も言わなかった。
杯の中で、茶の揺れが収まっていく。
「ヌメロンという名前は、いつできたのですか」
次の問いが来た。
「ナンバーズと出会った後」
◇
ノーヴェ達は、初めから今のように笑っていたわけではない。
戦うために作られ、番号で呼ばれ、命令に従うことを求められていた。
ヌメロンは細かな事件の全てを話さなかった。それは自分だけの話ではない。彼女達が自分で話すか決めるべき過去もある。
ただ、自分がどこにいたかは隠さなかった。
「ボクは、ノーヴェ達を知るために近づいた」
「助けるためではなかったのですか」
「最初は、あの子達が何を選ぶのか知ろうとしただけ。きれいな理由だけだったとは言えないよ」
久遠の願いを受け継いだクオン達は、子供を戦場から帰そうとした。
そのためなら、戦う場所そのものを壊すことも、誰かの選択を奪うことも正しいと思っていた。
「ボク達は、子供を帰すために動いてた。でも、帰した後にその子がどこへ行くのか、本当に見ていたわけじゃなかった」
守ることと、選ばせないことを取り違えた。
帰れと言いながら、帰る先で待つ者にはなろうとしなかった。
「ノーヴェ達と話して、ご飯を食べて、名前を呼ぶようになった。それで、任務が終わっても、その子達が帰ったか確かめたいと思った」
「兄になったのですね」
「勝手に名乗ったんだけどね」
ヌメロンは少し笑う。
「今日からボクは君達のお兄ちゃんだよ、って」
「ノーヴェから聞きました」
「聞いてたんだ」
「引っ越しの日に」
「あの時は、本当に呆れられたよ」
それでも名乗ることをやめなかった。
怪我をすれば手当てをした。帰らなければ探した。食事を作り、話を聞き、名前を呼んだ。
やがて、一つの身体だけが持つ時間が増えていった。
「同じ記憶を持っていたはずのボク達に、少しずつ違いができた。ボクは、ノーヴェ達を自分だけは失いたくないと思った」
共有された使命ではない。
他のクオンが同じように守るから、自分が消えても構わないとは思えなくなった。
「それが、あなたの独自性」
「うん。区別するために使っていたヌメロンという呼び方を、自分の名前にした」
「クオン・ヌメロン」
「初めて、自分一人の名前として名乗ったんだ」
アインハルトは確かめるように、その名をもう一度口にした。
「だから、ノーヴェ達はあなたを兄と呼ぶのですね」
「そうだよ」
「では、ストライクも同じように」
彼女の視線が、壁の古い稽古表へ向く。
「一人になったクオンなのですか」
「うん」
ヌメロンも壁を見た。
乱暴な字。約束の時刻だけは、誰より正確に記された表。
「ストライクは、戦うことを選んだクオンだった。ボクとは話し方も考え方も違ったよ。一人称も、ボクじゃなくて俺だった」
「道場を作ったのは」
「彼だよ。自分で弟子を取って、自分で教えた」
「あなたが、別の場所でノーヴェ達の兄をしていた頃に?」
「うん」
ストライクは、ヌメロンより先に自分の足で立っていた。
誰かに命じられたからではなく、戦い方を教え、帰るための場所を作った。
「でも、ストライクは帰ってこなかった」
道場の夜が、少しだけ静かになる。
「最後の戦いで、彼の身体はなくなった。記憶と、戦い方と、彼が育てた身体の可能性を、ボクが受け取った」
ヌメロンは自分の掌を開いた。
アインハルトの拳を受けた手。
ノーヴェを何度も畳へ転がした手。
動かし方の始まりには、ストライクの記憶がある。
「この姿も、道場で使う技も、彼が残したものから始まってる。だから、思い出そうとすれば、ストライクならどう動いたか分かる」
「あなたの中に、生きているのですか」
「そう言うこともできるのかもしれない」
ヌメロンは、ゆっくり首を振った。
「でも、ボクはそう言わない」
「なぜですか」
「記憶が残っていても、ストライクは帰らなかったから」
残った記録を、その人の帰還にしてはいけない。
人間の久遠に対しても、ストライクに対しても、それだけは同じだった。
「ボクがストライクになったわけじゃない。彼がボクの中から話しているわけでもない。彼が置いていったものを、ボクが受け取ったんだ」
「それで、ノーヴェと二人で道場を継いだ」
「うん。開ける人がいなくなったから」
「古い稽古表を残して、新しい表を書いた」
「そう」
アインハルトは二枚の表を見比べた。
古い表は、失った者の代わりではない。
新しい表も、古いものを上書きするためにあるのではない。
二枚とも同じ壁に並び、それぞれ違う手で名前が書かれている。
「私がここへ来た時、あなたはストライクの代わりに立っていたのではなかったのですね」
「代わりになろうとしたことはあるよ」
ヌメロンは答えた。
「彼ならどうするかを考えて、同じように動こうとした。でも、できなかった。身体も、選ぶ手も、少しずつ違ったから」
「だから、自分の手足で覚えたと」
第三話で聞いた言葉を、アインハルトは覚えていた。
「うん。アインハルトの拳を初めて受けたのも、次に来るのを待っていたのも、ボクだよ」
ストライクの記憶ではない。
人間の久遠から受け継いだ願いでもない。
クオン・ヌメロンが、この道場で得た時間だった。
◇
話し終えた時、二つの杯から湯気は消えていた。
ヌメロンは一口も飲んでいない。
アインハルトも、手をつけていなかった。
「これで、全部ですか」
「大きなところは」
「まだ、話していないことがあるのですね」
「細かく話したら、朝になるよ」
「今日は休むべきです」
「うん」
いつもの注意が返ってくる。
それでも、アインハルトの表情からは答えが読めなかった。
「黙っていて、ごめん」
ヌメロンは言った。
「あなたは、嘘をついていません」
「でも、聞かれるまで言わなかった。アインハルトが一緒に暮らしたいと言ってくれた時も、保護者の欄に名前を書く時も」
知った後で、選び直したいと思うかもしれない。
人間ではないものを保護者として登録したことに、不安を覚えるかもしれない。
その選択をするための話を、先にするべきだった。
「怖かったのですか」
アインハルトが尋ねた。
「うん」
ヌメロンは認める。
「ボクが呪いからできたものだって知ったら、アインハルトがここへ帰ってこなくなるかもしれないと思った」
「それで、話せなかった」
「アインハルトに聞かれなかったことを、言い訳にした」
第六話で、彼女は確かに知りたいと言っていた。
何を聞くか決めていなかっただけだ。
「でも、保護者になったなら、怖いから隠したままにはできない。アインハルトが選ぶために必要なことを、ボクが先に決めたくない」
ヌメロンは彼女を見た。
「一緒に暮らすことを、選び直していいよ」
言葉にした途端、胸の奥が強く縮んだ。
それでも、目をそらさなかった。
アインハルトは、しばらく彼を見返していた。
やがて、自分の胸元へ手を置く。
「私には、覇王イングヴァルトの記憶があります」
「うん」
「クラウス・G・S・イングヴァルトが何を失い、何を望んだか。私が経験していない戦いも、私自身のことのように覚えています」
その記憶によって、彼女は強さを求めた。
覇王の無念を晴らし、自分がその正統な継承者であると証明しようとした。
「以前の私は、その記憶が私の進む道を全て決めると思っていました」
けれど、ヴィヴィオと出会った。
リオやコロナと稽古をした。
ノーヴェに教わり、ティオと一緒に戦い方を考えた。
この道場で、ヌメロンに何度も転ばされた。
「今も、覇王の記憶は私の一部です。なかったことにはできません」
「うん」
「ですが、その記憶を持っているからといって、私はクラウス本人ではありません」
アインハルトは、はっきりと言った。
「私は、アインハルト・ストラトスです」
その名は、受け継いだ記憶の後ろに置かれるものではない。
今ここで生き、選び、誰かに呼ばれている者の名前だった。
「なら、あなたも同じです」
「同じ?」
「人間の久遠の記憶があっても、あなたは久遠本人ではない。ストライクの戦い方があっても、ストライク本人ではない」
アインハルトは壁の新しい稽古表を見る。
「私に転び方を教えたのは、あなたです」
食卓の置かれた方を見る。
「食事を作り、買い物で必要以上にお金を使おうとし、試合で写真を撮りすぎたのも、あなたです」
「最後の二つは、なくてもよくない?」
「必要です。人間の久遠やストライクと区別するためです」
「二人は、もっと上手に買い物できたかもしれない」
「では、なおさらあなたの行動です」
アインハルトの声は真面目だった。
けれど、ほんの少しだけ口元が和らいでいる。
「あなたは、クオン・ヌメロンです」
初めて道場へ来た日と同じ場所で、今度は彼女がその名を返した。
「私が帰りたい相手も、あなたです」
ヌメロンは何も答えられなかった。
帰る場所を選び直していいと言った。
アインハルトは、全てを聞いた上で同じ場所を選んだ。
「ヌメロン?」
「うん」
やっと声が出る。
「ありがとう、アインハルト」
「礼を言うところですか」
「ボクには、そうだよ」
アインハルトは否定しなかった。
◇
「一つ、聞いてもいいですか」
「何でも聞いて」
「あなたは、消えるのですか」
ヌメロンの表情が止まる。
「先ほど、一つが消えても別のクオンが覚えていたと言いました」
「言ったね」
「ストライクの記憶も、あなたに残っている。では、あなたが消えても、別のクオンに記憶が残るのですか」
アインハルトは、目をそらさなかった。
「それを、あなたが帰ったことにしてよいのですか」
「だめだよ」
今度は、ヌメロンがすぐに答えた。
「昔のボク達は、それでいいと思ってた。記憶が残れば、クオンは続く。一つの身体がなくなっても、何も失っていないって」
だから、自分を使い切ることをためらわなかった。
誰かを帰すためなら、自分が帰らないことを選べた。
「でも今は違う。別のクオンがボクの記憶を持っていても、その子はボクじゃない。クオン・ヌメロンが帰ったことにはならない」
「では、消えないでください」
「うん」
簡単な返事だった。
アインハルトの眉がわずかに動く。
「約束できるのですか」
「絶対に何も起きないとは言えないよ。それは、アインハルトも同じだから」
試合へ出れば怪我をすることがある。
道を歩いていても、何が起きるかは分からない。
「でも、消えても誰かが覚えているからいい、とはもう思わない。危ない場所へ行く時は話す。助けが必要なら呼ぶ。帰るためにできることを全部する」
「一人で決めない?」
「うん。一人で決めない」
それは、道場を継いだ時にノーヴェと覚えたことだった。
今は、家で待つアインハルトにも向ける約束になる。
「勝手にいなくならないよ」
アインハルトはしばらく彼の顔を見ていた。
嘘がないかを見定めるように。
「分かりました」
やがて、うなずいた。
「それで構いません」
「それだけでいいの?」
「帰るためにできることを全てするのでしょう」
「うん」
「なら、私も同じようにします」
ヌメロンが教えてきた言葉が、また彼へ返ってきた。
勝つためだけではなく、帰るために立つ。
転んでも、次に自分で立てるようにする。
「もう一つ」
アインハルトが言う。
「人間の方は、久遠と呼べばよいのですか」
「うん。溱久遠」
「あなたは?」
「クオン・ヌメロン」
「ストライクは、ストライク」
「そうだよ」
三つの名を、混ぜずに並べる。
受け継いだものがあっても、それぞれが帰らなかったことも、ここにいる者が誰なのかも曖昧にしない。
「覚えておきます」
アインハルトは言った。
「あなたが話してくれたことを」
「うん」
「ですが、今夜全て覚えるのは無理です。後で分からないことが出たら、また聞きます」
「何度でも話すよ」
「今度は、聞かれるまで待たないでください」
「努力する」
「そこは約束してください」
「約束する」
アインハルトはようやく杯を持ち上げた。
一口飲み、すぐに置く。
「冷めています」
「本当だ」
「淹れ直しますか」
「もう遅いから、今日は寝よう」
「あなたが長く話したからです」
「アインハルトが聞いてくれたからだよ」
「途中でやめる方が困ります」
二人で立ち上がる。
アインハルトは座布団を重ね、ヌメロンは冷めた杯を持った。
道場を出る前に、彼女が壁を振り返る。
「古い稽古表は、残すのですね」
「うん」
「新しい方も」
「書く場所がなくなったら、次を貼るよ」
「では、私の名前も残りますか」
「残るよ。今日の試合のことも、明日記録へ書く」
「転んだことも?」
「上手に転んだって」
「それは書かなくて構いません」
「大事なところなのに」
ヌメロンが灯りを落とす。
二枚の稽古表が、暗くなった壁に並んだ。
◇
部屋の前で、アインハルトは足を止めた。
「おやすみなさい、ヌメロン」
「おやすみ、アインハルト」
いつもと同じ挨拶だった。
呼ばれた名も、昨日までと変わらない。
それでも今夜の名は、受け継いだ記憶をまとめて呼ぶための記号ではなかった。
人間の久遠でも、帰らなかったストライクでもない。
ナンバーズの兄になり、この道場を継ぎ、アインハルトの保護者になった一人を呼ぶ名前だった。
「ヌメロン」
扉を閉める前に、もう一度呼ばれる。
「なに?」
「明日の朝食は、二人分です」
「うん」
「今日の話をしたからといって、量を増やさないでください」
「少しも?」
「増やしません」
「分かった」
アインハルトはうなずき、部屋へ入った。
扉が閉じる。
けれど、それは帰ってこない者を隔てる扉ではない。
朝になれば開き、二人で同じ食卓へ座るための扉だった。
ヌメロンは台所へ戻り、二人分の朝食の準備を始めた。