あの夜、図書館の床は冷たかった。
久遠は、誰かの名前を呼ぼうとした。扉の向こうに聞こえるはずのない名前だった。もう一度息を吸えば、声になると思った。
息は戻ってこなかった。
黒い本の頁だけが、倒れた久遠の目の前でめくれていた。
◇
ヌメロンが卵焼きを皿へ移すと、アインハルトが数を数えた。
「三人分ですね」
「うん」
「ヴィヴィオの分も作ったのですか」
「だって、もう座ってるから」
食卓では、ヴィヴィオが味噌汁の椀に手を添えていた。
「朝稽古のあとに帰るつもりだったんですよ。でも、ヌメロンさんがお鍋を出していたので」
「ご飯は炊いてあったしね」
「私達の朝食です」
アインハルトが言うと、ヴィヴィオは恐縮した顔をした。ヌメロンは箸を置いて、もう一つ椀を取り出す。
「じゃあ次は、最初から三人分用意しておく」
「そういう話ではありません」
「四人になるかもしれない?」
「ヌメロン」
呼ばれたので、ヌメロンは大人しく二人の前へ皿を置いた。どちらが多いかで揉めないよう、なるべく同じ大きさに切ったつもりだった。
アインハルトがヌメロンの皿を見る。
「あなたのだけ小さいです」
「端っこが好きなんだよ」
「私のと交換してください」
「今日、アインハルトは長く稽古するでしょ」
「あなたも出かけるでしょう」
彼女が箸で一切れを持ち上げ、ヌメロンの皿へ移す。朝の台所では、最近よくあるやり取りだった。
ヌメロンは受け取った。食べている間、彼女が皿ばかり見ることになるのも落ち着かない。
「どこへ行くんですか?」
ヴィヴィオが聞く。
「はやてのところ。昔のものを受け取るんだ」
「昔のもの?」
アインハルトの箸が止まる。
ヌメロンは少し迷ってから答えた。
「夜天の書の写本」
ヴィヴィオは二人の顔を見た。大まかな事情は聞いている。あの本が、今のヌメロンたちに繋がっていることも、九歳の少年が帰らなかった夜に繋がっていることも。
「まだ、残っていたのですか」
「管理局で封印されてた。最後の調査が終わったから、ボクが保管を引き受けるか確認しに行く」
「本当に安全なんでしょうか」
「調査では、もう頁は動かないそうだよ。なのはとフェイトもいる。シャマルとリインが検査を見てくれる」
「それだけの人が揃うのですね」
アインハルトは食事を再開しなかった。
「念のためだよ」
「その言い方は、安心できません」
ヌメロンは否定できなかった。自分でも怖くないわけではない。
図書館で久遠が見た本を、ヌメロンは覚えている。目にした形だけでなく、伸ばした手の震えや、床に伏した時の冷たさまで。自分で経験したものではない過去が、今の自分の内側に残っていた。
かつて他のクオンたちとは記憶を行き来させられた。今は同じ名から生まれた者でも、会わなければ昨日何をしたか分からない。ヌメロンがアインハルトと暮らし、朝食を作ったことを、写本が知るはずもなかった。
「無理に今日持ち帰らなくてもいい。触って確認したあと、どうするかボクが決めるんだ」
「触るんですか」
「うん。短い時間だけ。検査の準備もある」
アインハルトが皿を見る。ヌメロンは、彼女が昔の本に腹を立てているのだと思った。けれど彼女は顔を上げ、もっと身近なことを尋ねた。
「何時に帰ってきますか」
「昼過ぎかな。帰る前に連絡する。買い物にも寄りたいし」
「夕食を作るんですか」
「アインハルトの食べたいものがあれば」
「何でもいいです」
「それ、一番困る答えだよ」
ヌメロンは笑った。アインハルトは笑わない。
「夕食のことだけ約束しないでください」
彼女の声に、ヴィヴィオも黙った。
「ちゃんと帰るよ」
ヌメロンが言う。
「行く前に、リオとコロナにもよろしく伝えて。朝の稽古を抜けるのは申し訳ないから」
「ご自分で伝えてください。帰ったら」
「うん。分かった」
アインハルトはようやく箸を動かした。
ヌメロンは自分の皿へ移された大きな一切れを食べる。台所の窓から、朝の光が食卓に差した。
玄関の呼び鈴が鳴った。
「もう来た?」
ヴィヴィオが立つと、アインハルトが先に戸を開けた。リオとコロナが並んで立っている。二人とも稽古着の上に薄い上着を羽織り、リオだけが大きな鞄を肩から提げていた。
「おはようございます!」
「ヴィヴィオがもういる」
コロナが台所を覗く。ヴィヴィオは椀を持って、小さく笑った。
「朝稽古が長くなって」
「朝ご飯も長くなったんだろ」
リオが言うと、ヌメロンが頷いた。
「次はみんなで食べようか」
「ヌメロン」
アインハルトに呼ばれ、リオとコロナが顔を見合わせる。食卓に座るヴィヴィオは口元を隠していた。
「稽古を少し見たら出かけるよ。今日はアインハルトが中心でお願い」
「任せてください」
ヌメロンは鞄を下ろさないリオを見た。
「何を持ってきたの?」
「写真を撮る道具です。今度みんなが揃った時に、道場の前で撮りたくて」
「古いほうの稽古表も一緒に写る位置だと、いいかもしれません」
コロナが言う。アインハルトは少し考え、二人を道場へ案内した。
「写真は、帰ってから相談しましょう」
ヌメロンは戸口に立ち、四人が床の位置を決めている声を聞いた。帰ってから、とアインハルトは言った。自分の返事を待たずにそう言われることが、少し嬉しかった。
◇
保管区画の扉は、三度目の認証を終えて開いた。
台座の上に透明な容器がある。中には黒い本が一冊、閉じたまま置かれていた。
「小さくなったね」
ヌメロンは容器越しに言った。
「覚えとるんやな」
はやてが隣に立つ。
「うん。頁がもっと厚かった気がする」
見た目が変わったのか、記憶の中の本が大きかったのか。記録では大部分の機能を失い、寸法も僅かに縮んでいた。ヌメロンにはどちらの説明も、自分が見た図書館の床とは結びつかなかった。
「これ、どういう扱いになるの」
「まずは本人確認と接触試験。その後も、ヌメロン君が引き受けるとは限らへん。私が引き続き保管する選択もある」
「久遠の持ち物だったのかな」
はやてはすぐには答えない。図書館で倒れた久遠が、あの本を持ち込んだわけではない。
「久遠君に関わるもんや。でも、あの子の遺品と呼んで、綺麗に片付くもんでもないと思う」
「そうだね」
反対側で、なのはが本を見つめていた。フェイトは何も言わず、その横にいる。
「やめてもいいんだよ」
なのはが声をかける。
「ボクに?」
「うん。決めるために触らなきゃいけない、と思っているなら」
ヌメロンは右手を見る。
手の大きさは十三歳ほどの少年のものだった。握ったり開いたりすると、指先にちゃんと自分の感覚がある。この身体で、アインハルトの稽古を見て、買い物袋を持ち、朝ご飯を作ってきた。
久遠の死を記録した本に触れても、今までの時間が消えるわけではない。そう思いたかった。
「怖いよ。でも、自分で確かめたいんだ」
「分かった」
なのはは止めなかった。フェイトがヌメロンの近くへ来る。
「何かあったら、すぐ離して」
「うん」
はやてが検査手順を開いた。接触は最長十秒。術式の変化があれば強制的に遮断する。隣室からはシャマルとリインフォース・ツヴァイが身体の反応を見ていた。
『いつでも始められますです』
リインの声が聞こえる。
ヌメロンは一歩近づいた。透明な容器が開く。古い紙の匂いはしない。冷たい保管室の空気だけが、頬に触れた。
「帰ったら、説明してね」
フェイトが言った。
「アインハルトに?」
「私にも。ヌメロンがこの本をどう思ったか、聞きたい」
「それなら長くなるかも」
「聞くよ」
ヌメロンは頷いた。なのはとはやてが、台座から少し離れる。二人とも何かあればすぐ動ける位置を選んでいた。
黒い表紙へ指を伸ばす。
目の前にいる三人へ、昔の久遠がどんな声で話しかけたかを知っている。最後の夜に誰を呼ぼうとしたかは知らない。図書館の床に落ちた思いが、クオンたちに残したのは途切れた音だけだった。
ヌメロンは昔の少年に代わって答えを探すために来たのではない。アインハルトと帰ってから撮る写真の話をする。そのために、今日自分が触れる本を確かめたかった。
はやてが、待っていた。触れるかどうかを急かさず、ヌメロンが手を伸ばすのを見ている。
ひびの間に、かつての模様が僅かに残っている。
触れた。
『一秒。異常ありません』
固く、乾いていた。紙と革のどちらとも言えない感触が、指先へ伝わる。
『二秒』
ヌメロンが息を吐く。
『三秒――』
背表紙の亀裂が、音を立てて広がった。
「ヌメロン君、離して!」
なのはに呼ばれ、手を引こうとした。指は動く。だが掌が本の表面から離れない。
拘束されている感触はなかった。指先が何かを掴んでいるわけでもない。ただ、動かせるはずの手がそこから遠ざからない。
「強制遮断!」
はやての指示で、台座の術式が光る。
隔てる障壁は正しく形成された。なのに、ヌメロンの手はまだ表紙へ触れていた。
『接続がありません! 遮断する線が見つからないです!』
「フェイト、肩を!」
フェイトがヌメロンを引く。今度は手が離れた。ヌメロンは腕の中へ倒れ込み、台座を見る。
本の端が、塵になっていた。
燃えているのではない。頁の一枚目が、何も残さず消える。二枚目、三枚目と続き、舞い上がった黒い粒も空気の中で消えていく。
『質量の移動を確認できません。術式の移動も……待ってください、人間の生体反応が――』
シャマルの声が途切れた。
「ヌメロン君?」
フェイトに名を呼ばれても、答えられない。
ヌメロンの目には、最後の一頁が映っていた。文字のようなものが浮かぶ。読んだことのない文字だ。それなのに、ずっと前から知っていたものが閉じられる感覚だけは分かった。
「待って」
手を伸ばした。
何を待たせたかったのか、自分にも分からない。
最後の頁が消える。台座には何も残らなかった。
「ヌメロン!」
フェイトの声が遠ざかる。
意識が途切れる直前、誰かの息遣いがした。
聞き覚えがあるとは思わなかった。ただ、長いあいだ止まっていた息が、そこで初めて続き始めたように聞こえた。
◇
道場の床を、四人のヌメロンが囲んでいた。
全て投影体だ。離れた保管区画にいる本体が、稽古のために動かしている。
アインハルトが一人目の腕を払う。ヴィヴィオは、背後にいる個体の位置を見た。リオとコロナは端で順番を待ちながら、どこに隙ができるか話していた。
「右から来ます!」
コロナが言った。
アインハルトが向き直り、ヴィヴィオが別の投影体へ踏み込む。
四人のヌメロンが、同時に止まった。
拳を出したまま、アインハルトも動きを止める。
「ヌメロン?」
一人の輪郭が薄くなる。ほかの三人も続いた。いつもなら稽古を終える前に声がある。今は誰も、またね、と言わなかった。
光が消えたあと、道場はやけに広く感じられた。
アインハルトが端末を取る。発信を二度繰り返しても、応答はない。
ヴィヴィオがなのはへ連絡する。呼び出しはすぐにつながった。
『ヴィヴィオ?』
「ママ。道場のヌメロンさんが、全員消えた」
少し沈黙がある。
『本体が、意識を失ったの』
アインハルトの指が端末の縁に触れた。
「今から行きます」
『迎えを出すから、そこで待って。シャマル先生が診てる』
「写本は?」
『消えたよ。もうそこにはない』
朝の言葉が戻ってくる。
夕食を作る。リオとコロナにもよろしく。帰って、自分で伝える。
「ヌメロンは」
アインハルトは、それ以上を言えなかった。
『今は呼んでも目を覚まさない。でも、あなたを待たせたままにしない。来られるようにするから』
「……お願いします」
通信を終えると、リオが水差しを持ってきた。コロナは椅子を引く。
アインハルトは座らず、道場の入口を見つめていた。
コロナが戸口に置いた鞄には、まだ使っていない写真の道具が入っている。リオは何かを言いかけて、道場の奥へ目を向けた。二人には、アインハルトが待つことしかできない時間を、どう短くすればいいか分からなかった。
「ヌメロン師範が帰ってきたら、撮ろうと思っていたんです」
コロナが鞄に手を置く。
「撮ります。帰ってきたら」
アインハルトは答えた。約束だから、と誰かに迫るためではなかった。約束をした本人のいない道場で、まだ今日の予定を終わりにしたくなかった。
◇
ヌメロンが運ばれた医療区画で、シャマルは検査をやり直していた。
魔力で維持されていたはずの器官が、ほかのものに置き換わり始めている。
「これは……人間の身体?」
はやてが画面を見る。
「それだけなら、まだ分からない。身体の中で起きている変化に、これまでの分類が追いついていないの」
フェイトは寝台の横で、倒れた時に受け止めた肩へ視線を落としていた。
彼は道場で怪我をした時も笑って、すぐ元通りになると話す。だが今は、呼吸のない静かな身体が、別の仕組みへ変わっていくのを見ているしかない。
画面に、新しい線が生まれた。
一拍。
もう一拍。
「心臓が動いた」
シャマルが胸元に触れる。
何度も聞き直したくなるほど弱い脈が、掌へ返ってきた。次いで胸が持ち上がる。自分で空気を吸い、吐く。
なのはが部屋へ戻ってきた。
「アインハルトは、迎えを待ってる。ヌメロン君は?」
「目は覚まさないわ。でも、新しい心臓と呼吸が始まった」
「戻ってきた、ってこと?」
「それはまだ言えない」
シャマルは首を振る。
「ここで何かが生き始めている。ただ、その意識が誰なのか、今は確かめられないの」
はやては寝台を見る。少年の手はまだ小さい。だが検査の目盛りは少しずつ変わり、骨と筋肉が成長を始めていた。
「このまま、大きくなるんか」
「分からない。成長の終わりも、まだ見えない」
なのはは眠る顔を見た。いつものヌメロンに似ている。朝、夕食を作ると約束したのは彼だ。長い時間をかけて、アインハルトの暮らしの中に居場所を作った少年だった。
部屋の扉が開き、アインハルトが入ってきた。ヴィヴィオが少し後ろについている。道場で待つように言われてから、迎えの車に乗り、何度も扉を通ってここへ来た。
「ヌメロンは」
「まだ意識が戻っていないの」
シャマルが答える。アインハルトは寝台へ近づき、いつもの手を取った。温かい。朝に食器を洗っていた時とは違う温かさで、指の内側に弱い脈が打っている。
「今は、心臓があるんですか」
「ええ。身体の仕組みが変わってきてる」
「痛くないのでしょうか」
「意識はまだないわ。痛みを感じているかは、私にも分からない」
アインハルトは彼の手を離さなかった。朝、卵焼きを大きく切り分けてくれた指だ。写真を撮ろうという話も、彼は聞いていた。
「帰ってから話すことが、まだあります」
指先が、ほんの僅かに動いた。
「ヌメロン?」
アインハルトは顔を上げる。瞼は閉じたままだ。再び手元を見ると、自分の掌に収めていた手が、少し大きくなっていた。
成長を示す数値は、まだ止まらない。
なのはには、この身体がいま始めた鼓動を、ヌメロンのものだと決めつけることはできなかった。
「じゃあ、目を覚ましたら聞こう」
なのはが言う。
「名前も、ここがどこかも。分からないことは、本人に聞こう」
はやては頷いた。フェイトは寝台のそばから離れなかった。
身体は、少しずつ成長していく。
寝台のそばには、帰りを待つアインハルトがいる。
遠い場所では、ヌメロンの意識がまだ知らない身体で目を覚ます。
ここで眠る誰かにとっては、図書館の夜が終わったばかりだった。