魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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第13話 消えた写本

 あの夜、図書館の床は冷たかった。

 

 久遠は、誰かの名前を呼ぼうとした。扉の向こうに聞こえるはずのない名前だった。もう一度息を吸えば、声になると思った。

 

 息は戻ってこなかった。

 

 黒い本の頁だけが、倒れた久遠の目の前でめくれていた。

 

     ◇

 

 ヌメロンが卵焼きを皿へ移すと、アインハルトが数を数えた。

 

「三人分ですね」

 

「うん」

 

「ヴィヴィオの分も作ったのですか」

 

「だって、もう座ってるから」

 

 食卓では、ヴィヴィオが味噌汁の椀に手を添えていた。

 

「朝稽古のあとに帰るつもりだったんですよ。でも、ヌメロンさんがお鍋を出していたので」

 

「ご飯は炊いてあったしね」

 

「私達の朝食です」

 

 アインハルトが言うと、ヴィヴィオは恐縮した顔をした。ヌメロンは箸を置いて、もう一つ椀を取り出す。

 

「じゃあ次は、最初から三人分用意しておく」

 

「そういう話ではありません」

 

「四人になるかもしれない?」

 

「ヌメロン」

 

 呼ばれたので、ヌメロンは大人しく二人の前へ皿を置いた。どちらが多いかで揉めないよう、なるべく同じ大きさに切ったつもりだった。

 

 アインハルトがヌメロンの皿を見る。

 

「あなたのだけ小さいです」

 

「端っこが好きなんだよ」

 

「私のと交換してください」

 

「今日、アインハルトは長く稽古するでしょ」

 

「あなたも出かけるでしょう」

 

 彼女が箸で一切れを持ち上げ、ヌメロンの皿へ移す。朝の台所では、最近よくあるやり取りだった。

 

 ヌメロンは受け取った。食べている間、彼女が皿ばかり見ることになるのも落ち着かない。

 

「どこへ行くんですか?」

 

 ヴィヴィオが聞く。

 

「はやてのところ。昔のものを受け取るんだ」

 

「昔のもの?」

 

 アインハルトの箸が止まる。

 

 ヌメロンは少し迷ってから答えた。

 

「夜天の書の写本」

 

 ヴィヴィオは二人の顔を見た。大まかな事情は聞いている。あの本が、今のヌメロンたちに繋がっていることも、九歳の少年が帰らなかった夜に繋がっていることも。

 

「まだ、残っていたのですか」

 

「管理局で封印されてた。最後の調査が終わったから、ボクが保管を引き受けるか確認しに行く」

 

「本当に安全なんでしょうか」

 

「調査では、もう頁は動かないそうだよ。なのはとフェイトもいる。シャマルとリインが検査を見てくれる」

 

「それだけの人が揃うのですね」

 

 アインハルトは食事を再開しなかった。

 

「念のためだよ」

 

「その言い方は、安心できません」

 

 ヌメロンは否定できなかった。自分でも怖くないわけではない。

 

 図書館で久遠が見た本を、ヌメロンは覚えている。目にした形だけでなく、伸ばした手の震えや、床に伏した時の冷たさまで。自分で経験したものではない過去が、今の自分の内側に残っていた。

 

 かつて他のクオンたちとは記憶を行き来させられた。今は同じ名から生まれた者でも、会わなければ昨日何をしたか分からない。ヌメロンがアインハルトと暮らし、朝食を作ったことを、写本が知るはずもなかった。

 

「無理に今日持ち帰らなくてもいい。触って確認したあと、どうするかボクが決めるんだ」

 

「触るんですか」

 

「うん。短い時間だけ。検査の準備もある」

 

 アインハルトが皿を見る。ヌメロンは、彼女が昔の本に腹を立てているのだと思った。けれど彼女は顔を上げ、もっと身近なことを尋ねた。

 

「何時に帰ってきますか」

 

「昼過ぎかな。帰る前に連絡する。買い物にも寄りたいし」

 

「夕食を作るんですか」

 

「アインハルトの食べたいものがあれば」

 

「何でもいいです」

 

「それ、一番困る答えだよ」

 

 ヌメロンは笑った。アインハルトは笑わない。

 

「夕食のことだけ約束しないでください」

 

 彼女の声に、ヴィヴィオも黙った。

 

「ちゃんと帰るよ」

 

 ヌメロンが言う。

 

「行く前に、リオとコロナにもよろしく伝えて。朝の稽古を抜けるのは申し訳ないから」

 

「ご自分で伝えてください。帰ったら」

 

「うん。分かった」

 

 アインハルトはようやく箸を動かした。

 

 ヌメロンは自分の皿へ移された大きな一切れを食べる。台所の窓から、朝の光が食卓に差した。

 

 玄関の呼び鈴が鳴った。

 

「もう来た?」

 

 ヴィヴィオが立つと、アインハルトが先に戸を開けた。リオとコロナが並んで立っている。二人とも稽古着の上に薄い上着を羽織り、リオだけが大きな鞄を肩から提げていた。

 

「おはようございます!」

 

「ヴィヴィオがもういる」

 

 コロナが台所を覗く。ヴィヴィオは椀を持って、小さく笑った。

 

「朝稽古が長くなって」

 

「朝ご飯も長くなったんだろ」

 

 リオが言うと、ヌメロンが頷いた。

 

「次はみんなで食べようか」

 

「ヌメロン」

 

 アインハルトに呼ばれ、リオとコロナが顔を見合わせる。食卓に座るヴィヴィオは口元を隠していた。

 

「稽古を少し見たら出かけるよ。今日はアインハルトが中心でお願い」

 

「任せてください」

 

 ヌメロンは鞄を下ろさないリオを見た。

 

「何を持ってきたの?」

 

「写真を撮る道具です。今度みんなが揃った時に、道場の前で撮りたくて」

 

「古いほうの稽古表も一緒に写る位置だと、いいかもしれません」

 

 コロナが言う。アインハルトは少し考え、二人を道場へ案内した。

 

「写真は、帰ってから相談しましょう」

 

 ヌメロンは戸口に立ち、四人が床の位置を決めている声を聞いた。帰ってから、とアインハルトは言った。自分の返事を待たずにそう言われることが、少し嬉しかった。

 

     ◇

 

 保管区画の扉は、三度目の認証を終えて開いた。

 

 台座の上に透明な容器がある。中には黒い本が一冊、閉じたまま置かれていた。

 

「小さくなったね」

 

 ヌメロンは容器越しに言った。

 

「覚えとるんやな」

 

 はやてが隣に立つ。

 

「うん。頁がもっと厚かった気がする」

 

 見た目が変わったのか、記憶の中の本が大きかったのか。記録では大部分の機能を失い、寸法も僅かに縮んでいた。ヌメロンにはどちらの説明も、自分が見た図書館の床とは結びつかなかった。

 

「これ、どういう扱いになるの」

 

「まずは本人確認と接触試験。その後も、ヌメロン君が引き受けるとは限らへん。私が引き続き保管する選択もある」

 

「久遠の持ち物だったのかな」

 

 はやてはすぐには答えない。図書館で倒れた久遠が、あの本を持ち込んだわけではない。

 

「久遠君に関わるもんや。でも、あの子の遺品と呼んで、綺麗に片付くもんでもないと思う」

 

「そうだね」

 

 反対側で、なのはが本を見つめていた。フェイトは何も言わず、その横にいる。

 

「やめてもいいんだよ」

 

 なのはが声をかける。

 

「ボクに?」

 

「うん。決めるために触らなきゃいけない、と思っているなら」

 

 ヌメロンは右手を見る。

 

 手の大きさは十三歳ほどの少年のものだった。握ったり開いたりすると、指先にちゃんと自分の感覚がある。この身体で、アインハルトの稽古を見て、買い物袋を持ち、朝ご飯を作ってきた。

 

 久遠の死を記録した本に触れても、今までの時間が消えるわけではない。そう思いたかった。

 

「怖いよ。でも、自分で確かめたいんだ」

 

「分かった」

 

 なのはは止めなかった。フェイトがヌメロンの近くへ来る。

 

「何かあったら、すぐ離して」

 

「うん」

 

 はやてが検査手順を開いた。接触は最長十秒。術式の変化があれば強制的に遮断する。隣室からはシャマルとリインフォース・ツヴァイが身体の反応を見ていた。

 

『いつでも始められますです』

 

 リインの声が聞こえる。

 

 ヌメロンは一歩近づいた。透明な容器が開く。古い紙の匂いはしない。冷たい保管室の空気だけが、頬に触れた。

 

「帰ったら、説明してね」

 

 フェイトが言った。

 

「アインハルトに?」

 

「私にも。ヌメロンがこの本をどう思ったか、聞きたい」

 

「それなら長くなるかも」

 

「聞くよ」

 

 ヌメロンは頷いた。なのはとはやてが、台座から少し離れる。二人とも何かあればすぐ動ける位置を選んでいた。

 

 黒い表紙へ指を伸ばす。

 

 目の前にいる三人へ、昔の久遠がどんな声で話しかけたかを知っている。最後の夜に誰を呼ぼうとしたかは知らない。図書館の床に落ちた思いが、クオンたちに残したのは途切れた音だけだった。

 

 ヌメロンは昔の少年に代わって答えを探すために来たのではない。アインハルトと帰ってから撮る写真の話をする。そのために、今日自分が触れる本を確かめたかった。

 

 はやてが、待っていた。触れるかどうかを急かさず、ヌメロンが手を伸ばすのを見ている。

 

 ひびの間に、かつての模様が僅かに残っている。

 

 触れた。

 

『一秒。異常ありません』

 

 固く、乾いていた。紙と革のどちらとも言えない感触が、指先へ伝わる。

 

『二秒』

 

 ヌメロンが息を吐く。

 

『三秒――』

 

 背表紙の亀裂が、音を立てて広がった。

 

「ヌメロン君、離して!」

 

 なのはに呼ばれ、手を引こうとした。指は動く。だが掌が本の表面から離れない。

 

 拘束されている感触はなかった。指先が何かを掴んでいるわけでもない。ただ、動かせるはずの手がそこから遠ざからない。

 

「強制遮断!」

 

 はやての指示で、台座の術式が光る。

 

 隔てる障壁は正しく形成された。なのに、ヌメロンの手はまだ表紙へ触れていた。

 

『接続がありません! 遮断する線が見つからないです!』

 

「フェイト、肩を!」

 

 フェイトがヌメロンを引く。今度は手が離れた。ヌメロンは腕の中へ倒れ込み、台座を見る。

 

 本の端が、塵になっていた。

 

 燃えているのではない。頁の一枚目が、何も残さず消える。二枚目、三枚目と続き、舞い上がった黒い粒も空気の中で消えていく。

 

『質量の移動を確認できません。術式の移動も……待ってください、人間の生体反応が――』

 

 シャマルの声が途切れた。

 

「ヌメロン君?」

 

 フェイトに名を呼ばれても、答えられない。

 

 ヌメロンの目には、最後の一頁が映っていた。文字のようなものが浮かぶ。読んだことのない文字だ。それなのに、ずっと前から知っていたものが閉じられる感覚だけは分かった。

 

「待って」

 

 手を伸ばした。

 

 何を待たせたかったのか、自分にも分からない。

 

 最後の頁が消える。台座には何も残らなかった。

 

「ヌメロン!」

 

 フェイトの声が遠ざかる。

 

 意識が途切れる直前、誰かの息遣いがした。

 

 聞き覚えがあるとは思わなかった。ただ、長いあいだ止まっていた息が、そこで初めて続き始めたように聞こえた。

 

     ◇

 

 道場の床を、四人のヌメロンが囲んでいた。

 

 全て投影体だ。離れた保管区画にいる本体が、稽古のために動かしている。

 

 アインハルトが一人目の腕を払う。ヴィヴィオは、背後にいる個体の位置を見た。リオとコロナは端で順番を待ちながら、どこに隙ができるか話していた。

 

「右から来ます!」

 

 コロナが言った。

 

 アインハルトが向き直り、ヴィヴィオが別の投影体へ踏み込む。

 

 四人のヌメロンが、同時に止まった。

 

 拳を出したまま、アインハルトも動きを止める。

 

「ヌメロン?」

 

 一人の輪郭が薄くなる。ほかの三人も続いた。いつもなら稽古を終える前に声がある。今は誰も、またね、と言わなかった。

 

 光が消えたあと、道場はやけに広く感じられた。

 

 アインハルトが端末を取る。発信を二度繰り返しても、応答はない。

 

 ヴィヴィオがなのはへ連絡する。呼び出しはすぐにつながった。

 

『ヴィヴィオ?』

 

「ママ。道場のヌメロンさんが、全員消えた」

 

 少し沈黙がある。

 

『本体が、意識を失ったの』

 

 アインハルトの指が端末の縁に触れた。

 

「今から行きます」

 

『迎えを出すから、そこで待って。シャマル先生が診てる』

 

「写本は?」

 

『消えたよ。もうそこにはない』

 

 朝の言葉が戻ってくる。

 

 夕食を作る。リオとコロナにもよろしく。帰って、自分で伝える。

 

「ヌメロンは」

 

 アインハルトは、それ以上を言えなかった。

 

『今は呼んでも目を覚まさない。でも、あなたを待たせたままにしない。来られるようにするから』

 

「……お願いします」

 

 通信を終えると、リオが水差しを持ってきた。コロナは椅子を引く。

 

 アインハルトは座らず、道場の入口を見つめていた。

 

 コロナが戸口に置いた鞄には、まだ使っていない写真の道具が入っている。リオは何かを言いかけて、道場の奥へ目を向けた。二人には、アインハルトが待つことしかできない時間を、どう短くすればいいか分からなかった。

 

「ヌメロン師範が帰ってきたら、撮ろうと思っていたんです」

 

 コロナが鞄に手を置く。

 

「撮ります。帰ってきたら」

 

 アインハルトは答えた。約束だから、と誰かに迫るためではなかった。約束をした本人のいない道場で、まだ今日の予定を終わりにしたくなかった。

 

     ◇

 

 ヌメロンが運ばれた医療区画で、シャマルは検査をやり直していた。

 

 魔力で維持されていたはずの器官が、ほかのものに置き換わり始めている。

 

「これは……人間の身体?」

 

 はやてが画面を見る。

 

「それだけなら、まだ分からない。身体の中で起きている変化に、これまでの分類が追いついていないの」

 

 フェイトは寝台の横で、倒れた時に受け止めた肩へ視線を落としていた。

 

 彼は道場で怪我をした時も笑って、すぐ元通りになると話す。だが今は、呼吸のない静かな身体が、別の仕組みへ変わっていくのを見ているしかない。

 

 画面に、新しい線が生まれた。

 

 一拍。

 

 もう一拍。

 

「心臓が動いた」

 

 シャマルが胸元に触れる。

 

 何度も聞き直したくなるほど弱い脈が、掌へ返ってきた。次いで胸が持ち上がる。自分で空気を吸い、吐く。

 

 なのはが部屋へ戻ってきた。

 

「アインハルトは、迎えを待ってる。ヌメロン君は?」

 

「目は覚まさないわ。でも、新しい心臓と呼吸が始まった」

 

「戻ってきた、ってこと?」

 

「それはまだ言えない」

 

 シャマルは首を振る。

 

「ここで何かが生き始めている。ただ、その意識が誰なのか、今は確かめられないの」

 

 はやては寝台を見る。少年の手はまだ小さい。だが検査の目盛りは少しずつ変わり、骨と筋肉が成長を始めていた。

 

「このまま、大きくなるんか」

 

「分からない。成長の終わりも、まだ見えない」

 

 なのはは眠る顔を見た。いつものヌメロンに似ている。朝、夕食を作ると約束したのは彼だ。長い時間をかけて、アインハルトの暮らしの中に居場所を作った少年だった。

 

 部屋の扉が開き、アインハルトが入ってきた。ヴィヴィオが少し後ろについている。道場で待つように言われてから、迎えの車に乗り、何度も扉を通ってここへ来た。

 

「ヌメロンは」

 

「まだ意識が戻っていないの」

 

 シャマルが答える。アインハルトは寝台へ近づき、いつもの手を取った。温かい。朝に食器を洗っていた時とは違う温かさで、指の内側に弱い脈が打っている。

 

「今は、心臓があるんですか」

 

「ええ。身体の仕組みが変わってきてる」

 

「痛くないのでしょうか」

 

「意識はまだないわ。痛みを感じているかは、私にも分からない」

 

 アインハルトは彼の手を離さなかった。朝、卵焼きを大きく切り分けてくれた指だ。写真を撮ろうという話も、彼は聞いていた。

 

「帰ってから話すことが、まだあります」

 

 指先が、ほんの僅かに動いた。

 

「ヌメロン?」

 

 アインハルトは顔を上げる。瞼は閉じたままだ。再び手元を見ると、自分の掌に収めていた手が、少し大きくなっていた。

 

 成長を示す数値は、まだ止まらない。

 

 なのはには、この身体がいま始めた鼓動を、ヌメロンのものだと決めつけることはできなかった。

 

「じゃあ、目を覚ましたら聞こう」

 

 なのはが言う。

 

「名前も、ここがどこかも。分からないことは、本人に聞こう」

 

 はやては頷いた。フェイトは寝台のそばから離れなかった。

 

 身体は、少しずつ成長していく。

 

 寝台のそばには、帰りを待つアインハルトがいる。

 

 遠い場所では、ヌメロンの意識がまだ知らない身体で目を覚ます。

 

 ここで眠る誰かにとっては、図書館の夜が終わったばかりだった。

 

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