図書館の床で、久遠は手を伸ばしていた。
頁の黒い文字が指へ絡みつく。手首まで届いたものを振り払おうとした。近くにはやてがいたはずだ。あの子に触れないで、と言おうとして、息が続かなかった。
次の息は、柔らかい寝台の上で入ってきた。
白い天井。知らない光。図書館の紙の匂いがしない。
久遠は息を吸い直した。できる。胸も動く。けれど床へ伸ばした手だけは、まだあの本に触れている気がした。
痛い。
指先から腕へ、あの夜の痛みが残っている。慌てて目の前へ持ってくると、手は無傷だった。黒い文字も、血もない。ただ、大きさが違う。
「ヌメロン?」
知らない少女が、自分の手を握っていた。
年上の女の子に見えた。深い緑の瞳が、自分だけを見ている。その目には、久遠が何かを答えれば元に戻ると信じたい気持ちがあった。
「起きました。シャマル先生、ヌメロンが」
彼女が呼びかける。久遠の知らない名前だった。
寝台の周りに人が集まる。大人の女性が何人もいる。金髪の人。茶色い髪の人。淡い茶色の髪の人。みな同じように自分を見ていた。
久遠は寝台の端を探した。動こうとすると、自分の足がシーツを押す。あの夜の床にあったはずの身体より、ずっと大きな足だった。
「意識ははっきりしてる? 私が分かる?」
白い服の人が顔を覗き込む。
「……シャマルさん?」
「ええ。私よ」
その顔だけは覚えていた。図書館の夜と変わらない。少しも年を取っていないように見える。
久遠は彼女の顔を確かめてから、息を急いだ。
「はやては? あの本、はやてに触らなかった?」
「大丈夫。はやては無事よ」
「なのはは? フェイトも?」
「二人とも無事」
久遠は一度だけ目を閉じた。無事。そのことが先だった。自分の大きな手が何なのかを考えるより、三人がどうなったかを知らなければならなかった。
「よかった」
声が低い。自分の喉から出たのに、耳に馴染まない。
手を握っていた少女の力が強くなる。
「ヌメロンは、どこにいるんですか」
久遠は彼女を見る。
「……誰?」
「ヌメロンです。今朝まで、この身体で私と一緒にいた人です」
少女は自分の握っている手へ目を落とした。
「あなたは、ヌメロンではないのですか」
返事を待つ声が震えていた。
久遠は、その人を知らない。なのはたちの無事を聞いたばかりで、今度は目の前の少女が誰かを捜している。
「ボクは……」
うまく言えない。名前なら分かる。だが少女が知りたいのは、その答えではなかった。
「待って。今は質問を一つずつにしましょう」
シャマルが間へ入る。
「手を離してくれる、アインハルト?」
アインハルトと呼ばれた少女の指が、ゆっくり緩んだ。久遠の手がシーツに落ちる。誰かが捜されているのに、自分の手だけがそこに残った。
シャマルが手の甲と腕を診る。
「どこか痛む?」
「……手」
「今、触っているところ?」
久遠は頷きかけ、止まった。シャマルの指が触れるところは痛くない。図書館で本に伸ばしたはずの、小さな手が痛い。その手はここにない。
「この手じゃ、ないみたい」
シャマルが顔を上げる。
「今の手に傷はないわ。もう少し聞かせて。どのあたりが、どう痛む?」
久遠はもう一度腕を見る。指先から肘まで、赤いところはどこにもなかった。それでも目をそらすと、失った手を何かに掴まれている気がする。
「本に触ったほうの、小さい手が。まだ掴まれてるみたい」
シャマルは頷いた。久遠が指しているのは、今の手の傷ではない。これ以上を今すぐ言葉にさせず、まず彼が痛むと言ったことを記録する。
今の身体は傷ついていない。だから痛いと言っていいのか、久遠には分からなかった。
「ヌメロンの反応は?」
金髪の女性が、寝台の向こうからシャマルへ尋ねる。
「まだ、この身体には確認できないわ」
「別の場所にいる可能性は?」
「探してる。ただ、今ここで分かることではないの」
久遠には、質問している女性が誰かも分からない。けれど彼女の声は、アインハルトと同じものを捜していた。
思い出す。図書館で倒れた時、自分もはやての姿が見えなくて怖かった。誰かが無事だと答えてくれるまで、ほかのことは考えられなかった。
「ごめんなさい」
久遠の言葉に、金髪の女性が口を閉じる。
「ボク、その人がどこにいるか、知らないんだ」
アインハルトの表情が動いた。悲しそうなのか怒っているのか、久遠には分からない。
「あなたは誰ですか」
彼女が聞く。
久遠は答えた。
「溱、久遠」
茶色い髪の女性が、小さく息を吸った。
「……違う」
アインハルトが言った。握っていた手を離したばかりの指が、シーツの端を掴む。
「今朝、この身体で出かけたのはヌメロンです。私と夕食を食べて、写真の話をすると約束したんです」
「ボクは、その人を知らなくて」
「だったら、どこに行ったんですか!」
アインハルトの声が大きくなる。これ以上聞いても久遠には分からない、と頭では分かっていた。だが朝からずっと待っていた相手の名が、目の前で別の名に変わった。
「ヌメロンを、返してください!」
いつもなら名を呼んで答えを待てるのに、今は帰ってこない理由を目の前の人へぶつけてしまった。
扉のそばにいたヴィヴィオが振り向く。なのはがアインハルトへ近づき、肩に手を置いた。
「アインハルト。いったん、ここへ」
久遠は二人を見た。帰ってくると約束した人がいなくなったのだ。悲しいのも怒るのも分かる。それなのに、自分にはその人を返す方法どころか、顔も分からない。
「ごめんなさい。ボクも、その人がどこにいるか分からないんだ」
アインハルトは唇を噛んだ。謝らせたくて言ったわけではなかった。でも、欲しかった返事はそれでもない。
シャマルが二人の間に立つ。
「ここまでにしましょう。アインハルトも、久遠君も、今は答えを持っていないわ」
アインハルトは抵抗せず、寝台から離れた。ヴィヴィオがそばへ行く。久遠は、顔を上げたまま涙をこらえている彼女から目をそらせなかった。
「……久遠君?」
久遠は彼女を見る。自分の名を知っているようだった。顔には、どこか見覚えがある。けれど、図書館へ行く前に会った女の子よりずっと背が高い。
「あなたは?」
「なのはだよ」
久遠はその名前を聞き、首を振った。
「なのはは、ボクと同じ歳だよ」
「うん」
なのはと名乗る人の口元が動く。笑おうとしたのかもしれない。けれど笑顔にはならなかった。
「久遠君が最後に会った時は、そうだったね」
なぜ最後に、と言うのだろう。久遠には、図書館の前に見たなのはの顔がまだ浮かぶ。家を出る時の声も覚えていた。
金髪の女性が一歩近づく。
「私はフェイト。信じられないと思うけど、本当だよ」
その名も知っている。だが、フェイトの髪がこんなふうに肩を越えて落ちたのを見たことはない。表情も、自分が知る少女よりずっと大人びていた。
淡い茶色の髪の人は、はやてだと名乗った。口調と、何かをこらえる時の指の握り方が似ている。なのに、久遠が図書館で心配した友達を、この人の姿から探すのは難しかった。
「三人とも……大きくなったの?」
「そうやよ」
はやての声には覚えがあった。少し低い。久遠が知らない響きが増えている。
よかった。少なくとも生きている。
久遠はそう思った。今はそれだけで十分なはずなのに、手のない場所に残った痛みが、急に強くなった気がした。
◇
遠い場所で、ヌメロンは硬い床の上に目を覚ました。
知らない天井だった。古い製造設備の灯りが、一列だけついている。息を吸う必要はない。けれど反射的に吸おうとすると、胸が動いた。
「……アインハルト?」
返事はない。
身体を起こす。手は小さく、記憶にある今朝の手より指の長さが違う。鏡代わりの黒い画面には、かつて生産に用いられていた十三歳ほどの素体の顔が映った。
ヌメロンは目を閉じ、自分以外のクオンへ呼びかけようとした。
届かない。
以前なら、離れた身体の目を借りて場所を確かめられた。いまは音がない。自分の思考だけが自分の中にある。
写本が消えた瞬間から、つながりが断たれている。
「みんな、どこにいるんだろ」
口に出したあと、立ち上がる。工場には動いている者の気配がない。倒れた機械の間に同じ顔が並んでいるわけでもない。自分は、以前使われていた一つの身体で目を覚ましたのだ。なぜこの身体が残り、ほかがどうなったかは分からない。
端末を探し、緊急の回線を開く。着信先を選ぶ指が一度止まった。まずアインハルトへかけたい。しかし自分がどの世界にいて、彼女へどう説明すればよいのかさえ分からなかった。
ヌメロンはオーダーへ発信した。
呼び出しが二度続く。
『ヌメロンか』
「うん。ボク、別の身体にいる。アインハルトは?」
『ミッドチルダの本局にいる。君が目覚めるのを待っている』
「そうか。ボクの居場所、分かる?」
『今、回線から特定した。迎えの手配は進めよう。ただし、移動の認証が必要だ。即座に帰れると約束はできない』
オーダーの声は落ち着いている。何も起きていないからではない。伝える順序を選んでいた。
「あの身体は?」
『存在している。魔力生命体ではなく、人間の身体に変わり始めたと報告を受けた』
「中にいるのはボクじゃない。ここにいるから」
『ええ。それを確かめるためにも、君に直接聞いた』
ヌメロンは壁に手をつく。自分の声が、オーダーに届いている。それでも相手の頭の中へ今朝の朝食のことは流れていかない。
「ほかのみんなは?」
『私、ヴェロシティ、クェーサーは現在の身体で健在だ。ストライクは、あの戦いで消滅したままだ』
いない者を、いることにしない報告だった。ヌメロンは頷く。
「写本の中にいた、名前のない子たちは?」
沈黙があった。
『今は、何も確認できない。推測を渡すつもりはないよ』
「分かった」
ヌメロンは自分の手を見る。誰かの記憶が入ってきたわけではない。この身体で動く意識は、朝、卵焼きを作った自分だった。
「帰る。時間がかかっても、アインハルトのところへ行く」
『当然だ。迎えを出す。ただ、今の君の身体と通行記録は一致しない。便を使う前に確認が要る』
「書類、長い?」
『君には少々』
ヌメロンはかすかに笑った。オーダーも声だけで応じる。
『こちらで読める分は読む。君にしか答えられないことは、君が答えてほしい』
「うん。お願い」
通信を切ったあと、ヌメロンはアインハルトの端末へかけた。知らない番号からの着信になった。長い呼び出しの後、応答はない。
もう一度かけてみる。それでも同じだった。あの子はいま、朝まで自分がいた身体のそばにいるはずだ。番号を確かめる余裕がなくても仕方ない。
ヌメロンは設備の外へ出た。遠くに港へ向かう道が見えた。
今日中に行けるかどうかは分からない。だが、誰が待っているかは分かっていた。
◇
医療区画では、シャマルが来訪者を一度外へ出した。
久遠の話を聞くためだ。今の身体にどこか外傷があるか、呼吸が苦しくないか、まず確かめる。診察の間だけ、なのはたちは廊下で待つことになった。
「ヌメロンは、ほかの身体で目覚めとらんの?」
はやてが端末へ目を落とす。
「まだ確認中だよ」
フェイトが答えた。捜索は始まっているが、遠い世界の製造設備まで連絡が届くには時間がかかる。今ここで返事を待つことしかできない。
「久遠君、だったね」
なのはが言う。
「本人が名乗った」
「うん。あの子だよ」
断定したのは記録だけを見たからではない。はやてたちの安否を聞き、自分がどんな身体になったかさえ後回しにした。それを見た時、なのはには図書館へ行く前の久遠が目の前にいると思えた。
帰ってきた。
今、声にすれば泣いてしまう。嬉しさが胸を満たしている。目の前で名前を呼ばれた時、手を伸ばしたかった。けれど隣には、ヌメロンが見つからずに立ち尽くすアインハルトがいる。
「私、あの子に『ごめんなさい』って言わせた」
フェイトが言った。
「ヌメロンを知らないからって、謝ることないのに」
「私も質問したわ」
はやての声が硬くなる。
なのはは廊下の窓を見る。映った自分は、久遠が知っている九歳の女の子ではなかった。
「私たちのこと、分からなかったね」
「無理ないよ」
フェイトが答える。
分からなくていい、と言いたいのではない。久遠にとって図書館の夜が昨日より近いのなら、彼女たちにはなかった十年以上がある。
アインハルトが少し離れた椅子にいた。ヴィヴィオもその隣に座る。リオとコロナは道場で連絡を待っている。
「ヌメロンさん、別のところで目を覚ましてたら、連絡できますよね」
ヴィヴィオがなのはへ聞く。
「できると思う。確認を続けてるよ」
「さっきの人は、ヌメロンさんじゃないんですよね」
「本人が久遠君だと言っていた。ヌメロン君がどこにいるかは、まだ分からない」
ヴィヴィオは頷いた。久遠の名前は知っている。ヌメロンが何から生まれたかも聞いていた。でも彼女が道場で一緒に稽古し、おかわりをすすめられた相手はヌメロンだ。その人がいないことのほうが、今は怖かった。
アインハルトは病室の扉を見ていた。さっきまで握っていた手が、知らない人の手だったのかもしれない。
「私、あの方にヌメロンを返してと言いました」
「うん」
「あの方にも、どこにいるか分からないのに」
「心配で、言葉を止められなかったんだよね」
なのはが答える。
「朝、帰るって約束したんです」
「知ってるよ」
久遠君にもう一度謝らせてしまった、と責めることはできなかった。アインハルトはまだ、約束した人を失ったと思っている。その子に今、別の少年の傷を数えさせるのは違う。
なのはは二人の間に座った。誰にも答えを出せない廊下だった。
◇
シャマルは久遠の両手を一つずつ診た。
「ここはどう?」
「痛くない」
「ここは?」
「そこも」
傷はない。熱もない。前の身体にあったはずの痛みだけが、まだある。
「あの夜は、どこまで覚えてる?」
「本に触って、それから……」
黒い文字が指を上がってきた。倒れた時に、誰かの名前を呼ぼうとした。そこから先は白い天井だった。
「はやては本当に無事なんだよね」
「ええ。今あなたと話したのも、はやてよ。ずっと時間が過ぎたの」
「そうか」
久遠は知らない大きさの手を、膝の上へ置いた。
「ボクのこと、あとで聞いてもいい? その前に、さっきの人たちに伝えられることがあるなら」
「ヌメロンについて?」
「うん。ボクが知らないだけかもしれない」
「あなたが知らないことを、知っているふりはしなくていいわ」
「あの子、すごく心配してた」
「そうね。でも、あなたが答えを持っていないことを謝る必要もない」
久遠は頷いた。やめられるかどうかは分からない。
「あなたが目を覚ました時、胸と呼吸は安定していた。今の手に怪我も見つかっていない。でも、今の手とは違う手が痛むと、あなたが感じているのね。教えてくれてありがとう」
「……うん」
「無理に全部を説明しなくていい。つらくなったら休みましょう」
シャマルが端末を閉じる。
「みんなに伝える前に、一つ聞かせて。なのはと名乗った人が、怖かった?」
久遠は考えた。怒っているようには見えなかった。自分の名を呼んだ時は、何か嬉しいことがあった顔にも見えた。けれど、信じていいのか分からなかった。
「怖いというより、知らない人みたいだった」
「そっか」
「なのはだって言うなら、そうなんだろうね。シャマルさんは、その人を知ってるんでしょう」
「知ってるわ。あなたが知っている女の子が、大人になった人よ」
「それなら、よかった」
自分はまだ、あの人がなのはだと思えない。それでも生きているなら、よかった。
シャマルは久遠の手が膝の上で小さく握られているのを見た。身体は大きいが、問われたことを飲み込んでから答える間は、彼女が知っている少年のままだった。
◇
夕方になっても、ヌメロンの移動便は出なかった。
オーダーが確保した通行証には、かつての身体の登録が紐づいている。今の身体で乗れば、港の記録には別人に見える。安全確認を済ませるまで、移動は認められなかった。
ヌメロンは待合室から、もう一度アインハルトへかけた。返事はない。
オーダーから短い文が届く。
『登録は進めています。明朝の便を確保する見込みです』
いつもより整った文だった。ヌメロンは、オーダーが他の仕事をしながら手続きを進めているのだろうと分かった。今、彼をここへ無理に呼んでも手続きは早くならない。
『ありがとう。アインハルトに自分で話したいから、番号のことはまだ言わないで』
送信する。
アインハルトは知らない番号を取らない。それでもヌメロンは、一番初めに帰ったよと言いたかった。
別の連絡が入る。本局から、あの身体で誰かが目を覚ましたという報告だった。名前は溱久遠。確認を終えたばかりで、これ以上はまだ知らせられないという。
ヌメロンは画面を見つめた。
久遠が戻った。アインハルトは、自分を待ちながらその人の手を握っていたかもしれない。
ボクたちが覚えている図書館の夜から、本人だけが帰ってきたのだ。
嬉しい、と言いかけた。嬉しい。でも久遠は、アインハルトに自分の名前で呼ばれても何のことか分からなかっただろう。その場で何が起きたのかを、今のヌメロンは知らない。
久遠へ記憶を流すことも、そこにいる大人たちの目を借りることもできない。
港の窓の向こうに、もうすぐ夜が来る。
「帰ったら、ちゃんと聞こう」
ヌメロンは自分だけに聞こえる声で言った。
時刻を見れば、アインハルトと約束した夕飯には間に合わない。明朝の便が出ても、入国の確認が要る。
誰かが待っている場所がある。そこへ帰りたいのに、今日は帰れなかった。
◇
夜の医療区画で、久遠は再び知らない天井を見た。
誰かが夕食を運ぶ音が廊下から聞こえる。自分の食事もあとで来るのだろう。新しい身体では腹が空く。そんな普通のことが、図書館の夜からどれほど離れているかを教えてくれた。
シャマルに教わった年を、頭の中でもう一度数える。十年以上。なのはたちがあれほど変わる時間だ。自分がそこにいなかったなら、みんなが今日何をしていたかも分からない。
手は傷ついていない。それでも、幼い自分の失った手が痛い。シャマルの前では言えたのに、誰かにヌメロンのことを尋ねられると、そんな話をしている場合ではなくなる。
彼女たちは、あの人がどこにいるか分からなくて怖いのだ。
自分のことをどう思っているかより、今はそちらのほうが大事なはずだった。
久遠は目を閉じる。図書館で黒い本に触れた手が浮かぶ。そこに重なるのは、アインハルトが離した今の手だ。朝まで誰かを迎えていた手を、自分が使っている。
ヌメロンを、返してください。
少女の声は、知らない人の名よりはっきり残った。あの人が帰ってこられるなら、久遠もそうなってほしいと思う。ただ、自分がどこへ行けばこの手を返せるのか分からなかった。
少しだけ、紙を擦り合わせるような感覚が胸の奥にした。
この身体に傷はない。なのに、痛みの場所が一つ増えた気がした。
誰にも言わなかった。シャマルが聞けば、きっと止まって調べてくれる。いま彼女は、ヌメロンが見つかるかどうかも気にかけていた。
久遠は小さく息を吐く。
「……早く、帰ってくるといいね」
誰もいない部屋で、見知らぬ人のためにそう言った。
扉の向こうでは、アインハルトがまだその人を待っていた。なのはは久遠が目覚めたことを喜んでいる。どちらの気持ちも、久遠には届かないままだった。