午前零時を過ぎても、なのはから連絡は来なかった。
久遠は机に開いた本から顔を上げ、携帯電話の画面を見る。
新しい着信はない。
『まだ外?』
短い文を送る。
返事はなかった。
窓の外は静かだった。
雲の切れ間に月が見える。
その月の下で、なのはが空から落ちていることを、久遠は知らなかった。
◇
赤い騎士甲冑の少女が、巨大な鉄槌を振り抜く。
なのはは杖で受け止めた。
激しい音。
赤い宝石に亀裂が走る。
『Protection――』
機械の声が途切れた。
「レイジングハート!」
防御の光が砕ける。
衝撃に押し出され、なのはの身体が夜空を落ちた。
追いかけてくる赤い影。
鉄槌がもう一度持ち上がる。
その間へ、金色の光が飛び込んだ。
「なのは!」
「フェイトちゃん……!」
金色の少女が、なのはを抱き止める。
黒い杖が鉄槌を受け、火花を散らした。
久遠が帰りを待っていた少女と。
久遠へ帰ると約束した少女。
二人が同じ夜空で、赤い騎士と向かい合っていた。
◇
午前一時を過ぎたころ、携帯電話が震えた。
『帰ったよ』
久遠はすぐに返事を打つ。
『おかえり』
一分。
二分。
画面を見たまま待つ。
『ただいま』
ようやく届いた文字に、久遠は息を吐いた。
いつもの三つの言葉。
それなのに、胸に残った嫌な感じは消えなかった。
◇
翌朝。
なのはは学校を休んだ。
「風邪だって」
担任の説明を聞きながら、久遠は昨夜の連絡を思い出していた。
昨夜の遅い連絡と、風邪という説明はうまくつながらなかった。
放課後、高町家を訪ねた。
桃子に案内され、なのはの部屋へ入る。
ベッドの上には、起き上がったなのはがいた。
右肩と左手首に包帯。
頬にも、小さな傷がある。
その隣にフェイトが座り、白いフェレットが枕元にいた。
「風邪?」
久遠が尋ねる。
「もう、ほとんど治ったの」
「風邪で包帯を巻くんだ」
「途中で転んじゃって」
「どんな転び方をしたら、肩と手首と頬を一度に怪我するの?」
「ええと……」
なのはの視線が泳ぐ。
「久遠君、転び方に詳しくなったね」
「毎週、恭也さんに転ばされてるから」
「そうだったの」
「話を逸らさないで」
机の上に、赤い宝石が置かれていた。
いつもユーノの首元にあったものだ。
表面には、深い亀裂が入っている。
「それも一緒に転んだの?」
なのはが黙る。
フェイトも、何と言えばいいのか迷っているようだった。
『なのは』
聞き慣れない少年の声がした。
『もう、話した方がいいと思う』
久遠は声の方を見る。
フェイト。
なのは。
ほかに人はいない。
「いま、誰が喋ったの?」
白いフェレットがおそるおそる前足を上げた。
『僕です』
「ユーノ?」
『はい』
「最初から喋れたの?」
『……はい』
「敬語まで使えるんだ」
「驚くところ、そこなの?」
なのはが聞く。
「ほかにもあるけど、順番が分からない」
白い光がユーノを包んだ。
小さな身体が伸び、次の瞬間には、茶色い髪の少年がそこに座っている。
「フェレットでもなかった」
「ごめんなさい」
「なのはより先にユーノが謝るんだ」
「わたしも、ごめんなさい」
「謝る前に、説明して」
久遠は椅子を一つ引き、三人の前へ座った。
◇
「魔法」
最初に聞かされた言葉は、それだった。
この世界とは違う世界がある。
そこには魔法を使う人がいて、ユーノとフェイトも別の世界から来た。
なのはが持つ赤い宝石――レイジングハートは、魔法を使うための杖であり、共に戦う相棒でもある。
夜中に出かけていたのは、魔法で起きた事件を止めるため。
フェイトを迎えに行った場所も、この世界ではなかった。
「じゃあ、なのはが聞いた声も」
「ユーノ君が魔法で呼んでいた声なの」
「僕に聞こえなかったのは?」
「魔力がなければ、あの声は聞こえません」
ユーノが答える。
いくつもあった秘密へ、ようやく一つの名前がついた。
「昨日の怪我も、魔法?」
「……うん」
「誰にやられたの?」
「相手のことは、まだ調べているところなんだ」
答えたのはフェイトだった。
「分かっていないことが多い。だから、いま全部を話すことはできない」
「また秘密?」
「うん。ごめん」
フェイトは目を逸らさなかった。
言えないことを、言えないと答えている。
それなら、嘘をつかれるよりはよかった。
「フェイトは、帰ってきたんだね」
「え?」
「帰ったら教えてって約束した」
フェイトが白いリボンへ触れる。
「うん。帰ってきたよ」
「おかえり、フェイト」
「ただいま、久遠」
フェイトが静かに笑った。
「それで」
久遠はユーノへ向き直る。
「魔法は、僕にも使える?」
なのはの表情が固まった。
ユーノはすぐに答えず、久遠へ手を差し出す。
「確認してもいいですか?」
「うん」
久遠が手を重ねる。
ユーノの指先から、淡い光が広がった。
なのはのときのような、強い光は生まれない。
光は久遠の手を一度巡り、そのまま消えた。
「反応がありません」
「壊れてる?」
「違います」
ユーノは静かに首を振る。
「久遠君には、魔力がないんです」
「少ないんじゃなくて?」
「少なくとも、僕が測れる範囲では、まったく」
「そう」
手を握る。
何も変わっていない。
昨日まで持っていなかったものを、今日も持っていないだけだ。
それでも。
秘密を知れば、なのはと同じ場所へ立てるかもしれないと、少しだけ思っていた。
「ごめんね、久遠君」
「なのはが謝ることじゃないよ」
「でも」
「魔法がないのは、なのはのせいじゃない」
「久遠」
フェイトが名前を呼ぶ。
「私は魔法があっても、一人だった」
自分の両手を見つめながら、言葉を続ける。
「魔法があることと、誰かの隣にいられることは、同じじゃないと思う」
「僕は、隣にいられてないよ」
「いたよ」
なのはが言った。
「帰る場所に、ずっといてくれたの」
「待っていただけだ」
「待っててくれたんだよ」
同じ言葉なのに、意味が違って聞こえた。
久遠は少しだけ黙った。
「……それでも、待つ以外のことも覚えたい」
「戦うため?」
ユーノが尋ねる。
「帰ってきた人を、ちゃんと迎えるため」
久遠は鞄からノートを取り出した。
「魔法で怪我をしたとき、普通の応急手当をしていいのか。魔法の危険には、どんなものがあるのか。僕が近づいたら駄目なものは何か」
新しい頁を開く。
「教えて」
◇
頁の一番上に、魔法と書いた。
その下へ、ユーノから聞いたことを書き込んでいく。
魔法で周囲から切り離された空間を、結界と呼ぶ。
急に人の気配が消える。
街の音が聞こえなくなる。
携帯電話がつながらなくなる。
そんな異変が重なったら、すぐに引き返す。
自分から中へ入らない。
巻き込まれた場合は、安全な場所を探し、一人で相手へ近づかない。
壊れた魔法の道具や、光っているものへ不用意に触れない。
怪我人の意識と呼吸を確認する。
出血があるなら、できる範囲で止める。
そして、自分だけで決めず、なのはたちへ連絡する。
「魔法があっても、最初にすることはあまり変わらないんだね」
久遠が言う。
「周りを見て、危険を確かめる」
「大事なことは同じです」
ユーノが頷いた。
「ただし、絶対に戦いへ来ないでください」
「分かってる」
「本当に?」
なのはが疑うように見る。
「自分から結界を探さない。見つけても入らない。危ないと思ったら、すぐに誰かを呼ぶ」
「一人で決めない」
「うん」
「約束だよ」
なのはが小指を差し出した。
久遠は小指を絡める。
「その代わり、なのはも怪我を隠さない」
「うっ」
「風邪だって嘘をつかない」
「それは学校への説明で――」
「僕には転んだって言った」
「……ごめんなさい」
「帰ったら、ただいままで返す」
「うん」
「約束」
「約束だよ」
魔法は手に入らなかった。
代わりに、何をしてはいけないのかを覚えた。
それは久遠が望んでいた強さとは、少し違う。
けれど、何も知らずに待っていた昨日までとは違った。
◇
図書館へ着いたのは、約束の時間を二十分過ぎてからだった。
窓際の席で、はやてが頬を膨らませている。
「遅いで、久遠君」
「ごめん」
「二十分も待たせたった」
「待った、でしょ」
「今日は私の勝ちやな」
「待ち合わせに勝ち負けはないよ」
久遠は向かいへ座った。
外国料理の本は、今日も青い栞の頁で開かれている。
「何かあったん?」
「友達が怪我した」
「なのはちゃん?」
「うん」
「大丈夫なん?」
「大丈夫じゃないけど、生きてる。話もできた」
「そっか」
はやては、それ以上を聞かなかった。
言えないことがあると分かっているようだった。
「はやて」
「なに?」
「もし魔法が使えたら、何をする?」
「急やなあ」
はやては少し考える。
「自分の足で立って、本棚の一番上の本を取る」
「僕の仕事がなくなる」
「ほんなら、一回だけにしとく」
「一回でいいの?」
「次からは、また久遠君に取ってもらう」
はやてが笑う。
「久遠君は?」
「僕には使えない」
「そらそうやろ。魔法なんやから」
「うん。そうだね」
はやてにとっては、ただの空想の話だった。
その普通の答えが、少しだけ久遠を安心させた。
「でも、久遠君は魔法がなくても、私に本を取ってくれたやん」
はやてが青い栞を指でなぞる。
「できることなら、もう知っとるんと違う?」
「本を取ること?」
「それもやけど」
「ほかには?」
「治ったら考える」
「今決めればいいだろ」
「久遠君、私が治る前提で話しとるな」
「そうだよ」
はやては少し驚いた顔をした。
それから、青い栞へ視線を落とす。
「ほんなら、いっぱい考えとく」
二人で笑う。
そのとき、閲覧室の入口から赤い髪が見えた。
「はやて、迎えに来たぞ」
「ヴィータ。おかえり」
「……ただいま」
ヴィータが二人の席へ近づいてくる。
いつもどおり不機嫌そうな顔。
けれど、右手をほとんど動かしていない。
袖口から、白い包帯が少しだけ見えた。
「怪我したの?」
久遠が尋ねる。
ヴィータは反射的に右手を背中へ隠した。
「転んだだけだ」
「昨日?」
「……そうだよ」
「転び方、教えようか」
「いらねえ!」
声が響き、また司書に注意された。
はやてが笑う。
ヴィータが顔を赤くする。
久遠も、そのときは一緒に笑った。
魔法という名前を知ったことで、分かったことは増えた。
同時に、新しい疑問も生まれた。
なのはが魔法で傷ついた夜に。
ヴィータも怪我をして帰ってきた。
その偶然に、久遠はまだ名前をつけられなかった。